2015/08/30

美斗能麻具波比『古事記傳』

神代二之巻【美斗能麻具波比の段】本居宣長訳(一部、編集)

口語訳
その島に天降り、天の御柱を立て、広大な宮殿を建てた。

そして伊邪那岐の命は、伊邪那美の命に

あなたの体は、どんな風にできている

と質問したところ

申し分なくできていますが、体の一箇所が足りないようです

と答えた。

そこで伊邪那岐の命は

「私の体は申し分なくできているが、一箇所余っているようだ。あなたの体の足りないところに、私の余っているところを刺し塞いで国土を生もうと思うが、どうだろう」

と言ったところ、伊邪那美の命は

「それがいいでしょう」

と答えた。

それで、伊邪那岐の命は

「それなら、あなたと私がこの天の御柱の周りを廻り、巡り会ってみとのまぐわいをしよう」

と言った。

こう約束して

「あなたは、右から回りなさい。私は左から回ろう」

と言った。互いに約束し終えて、いよいよ柱の周りを回って出会う時、まず伊邪那美の命が

「ああ、美しい男だこと」

と声を挙げた。

後で伊邪那岐の命が

「ああ、美しい女だ」

と言った。

それが済んでから、伊邪那岐の命は

「どうも、女が先に物を言うのは良くない」

と言った。それでも寝所に入り、産んだ子は水蛭子であった。

この子は葦船で海に流し、捨ててしまった。

次に淡路島を生んだが、これも御子の数には入れていない。

天降坐而は「あもりまして」と詠む。万葉巻二【三十四丁】(199)に「和射見我原乃、行宮爾、安母理座而、天下、治賜(わざみがハラノ、カリミヤに、アモリまして、あめのした、オサメたまい)云々」、巻三【十六丁】(257)に「天降付、天之芳来山(アモリつく、アメノかぐやま)」、巻十三【三丁】(3227)に「葦原乃、水穂之國丹、手向爲跡、天降座兼(あしはらの、みずほのくにに、たむけすと、あもりましけん)云々」、巻十九【三十九丁】(4254)に「安母理麻之(あもりまし)云々」などとあるのによる。【「あまくだり」という読みも悪くはない。万葉巻十八に(4094)「葦原能、美豆保國乎、安麻久太利、之良志賣家流(あしはらの、みずほのくにを、あまくだり、しらしめける)」という例もある。】「あもり」は「あまおり」【天下り】が縮まった古語である。

そもそも、この二柱の大神は天に生まれたのでないから、ここで初めて天降ったわけではない。実は天つ神の大命を受けるためにいったん天上へ行き、それから降りたのだ。【その事情を書いていないのは、さして必要もないから省いたのである。書紀の伝えでは、天つ神の大命を受けたことさえ省いている。ある人は、これを疑って「もし初めに高天の原に登って帰り降りてきたのなら、そこには『返り降り』とでも書いてあるはずではないか」と言ったが、私の答えは「初め天に昇った時は、まだ淤能碁呂嶋はできていなかった。だからその嶋に帰ったと言うことはできない」 というものである。】

天之御柱は、その直後に出る八尋の御殿の柱である。【御殿とは別に立てたのではない。源氏物語の明石の巻の歌に「宮柱めぐりあひける云々」とあるのは蛭子を詠んだ歌の答えで、この天の御柱のことであり、作者の考えは知らないが自ずと古伝の真実に適っている。】
和名抄に「柱は和名『はしら』」とある。一般に御殿を造ることを言う時に、まず柱を立てることを言い「底津石根に宮柱布刀斯理(ソコツイワネにミヤバシラふとしり)」など古来の習慣である。大殿祭の祝詞に、天皇の御殿を造ることを「奥山乃大峡小峡爾立留木乎、斎部能斎斧乎以伐操弖、本末乎波山神爾祭弖、中間乎持出来弖、斎スキ(金+且)乎以斎柱立弖、皇御孫之命乃天之御翳日之御翳止、造奉仕禮流瑞之御殿(オクヤマのオオカイ・オカイにタテルきを、イミベのイミオノをモチてキリトリて、モトスエをばヤマのカミにマツリて、ナカのマをモチいでキテ、イミすきをモテいみバシラたてて、スメみまのミコトのアマのミカゲ・ヒのミカゲと、ツクリつかえマツレルみずのミアラカ)」などと唱える。このように、もっぱら柱を取りあげて言う。しかも、ここは以下でその柱の周りを廻る大礼を述べるので、特に最初に柱のことを言ったのである。書紀の一書には「化2作八尋之殿1、又化=竪2天柱1(ヤヒロどのをミタテ、またアメのハシラをミタツ)」とあり、御殿と柱を別々に立てたように聞こえるが、そうではない。これも初めにまず柱のことを言っておくのが目的で、さらに確かにするため「又」の字も加えたのだ。「天之」と言うのは、天にある宮殿の柱のように作ったためであることは、天之沼矛のところで述べた通りである。【書紀に「國柱(クニのミハシラ)」とあるのと、対になっていると考えてはならない。】

ところで、書紀に「以2オ(石+殷)馭慮嶋1爲2國中之柱1(おのごろシマをモチてクニナカのミハシラとす)」とあるのは意味合いが違うようだが、おのごろ嶋はこの殿の柱を立てる基礎となったので、その基礎も柱と同様なのである。【屋根を支えるのは柱だが、その柱を支えるのは地であるから、結局屋根は地が支えていることになり、柱と同一視される。風でさえ「天の柱、国の柱」と呼ぶのでも理解せよ。そのことは伝七の<以下四字欠>で詳しく論じる。

ところで、この柱を國中之柱とも國柱とも呼ぶ理由は国土を生む交合に先立って、この御柱を廻った。だから、この柱が国土を生む源でもあったからだ。前記の風を言う「国の御柱」というのとは意味が異なる。弘仁私記には『古説』として「天神の賜った天の沼矛は、おのごろ嶋を探り当ててすでに役割を終えたので、その矛をこの嶋に突き立てて国の柱とした。すると、その矛は小山となった」と言う。これも一つの伝えであろう。旧事紀にもそんなことが書いてある。しかしこの御柱のことを後代の人々が様々に屁理屈をこねて、いかにも故ありげに論じているのは殆どが例の妄説である。】

2015/08/29

日本の食文化の歴史

出典https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/pdf/01_washoku.pdf

 

日本の食文化は今、大きな変革期にきている。料理をする家庭が減り、食生活の大部分を外部の食産業(外食、中食、通販、ファーストフードなど)に頼る家族が急激に増加している。

 

若者の間ではバラバラ食いとか、勝手食いとかいった新しい風俗が広がっている。 家庭で作る料理も各国の料理がいりみだれ、味つけや素材など従来にない組み合わせが登場し、食材なども海外に依存するものが多くなった。その一方で、海外では日本料理ブームが続き、ことにスシの愛好者は世界中に広がっているし、日本料理を出すレストランも世界中の大都市には必ずといってよいほど出店している。

 

たとえばニューヨークなどでは、7800軒の日本料理屋がマンハッタンに集中しているそうである。こうした変化からうかがえることは、日本の食文化の中で食材、調理法、作り手、食べ手、食事の場所、食事をする人びとの人間関係などが、あらゆる面で変りつつある点である。

 

しかし、ここで「変化」という内容について考えてみる必要があろう。変化という以上、変化する前の状態が明確であればこそ、何がどのように変化したといえるはずだ。  では変化の基準となる「日本の食文化」とは、どのようなものか。この質問に対して、誰も本来の「日本の食文化とは何か」について、答えられないことに気付くのではないか。誰もが当然のように使っている、日本の食文化の内容ほど曖昧なものはない。

 

そもそも「食文化」という言葉が、とても新しい言葉なのである。食文化を一つの研究領域として認知されるまで、その開拓と深化を進めてこられた石毛直道氏(国立民族学博物館名誉教授)が食事文化、あるいは食文化という概念を提示されたのは1970年代後半のことであった。それまでの栄養学、調理学、生理学の領域で扱ってきた食を、一挙に食料の生産、獲得より、分配・流通、調理、栄養、食卓食具、調理場、食べ方、食べる場、設営片付け、廃棄、排泄に至るまで、自然科学、さらに歴史、民俗、思想、宗教、法律、経済、社会、文学、美術工芸等々の人間の食をめぐる一切を含む概念として「食文化」という言葉が生まれたのである。

 

こうした人類学的視点のもとに、日本国内ばかりでなく世界中の諸民族、諸地域の食文化の研究が進められ、今日では食文化が一つの研究領域として確立しつつあるといってよい。では、その中で日本の食文化という時、他の民族、地域を比較していかなる特質があるのか、が考えられなければならない。人類は他の動物と異なる性格を持っている。それは文化を持っている、という点である。

 

人間以外の(類人猿は少し別だが)動物が持たない文化とは何か。アフリカのサバンナに生息しているライオンを寒冷地へ連れて行ったら生きてはいけない。同様にペンギンを熱帯に移したら、たちまち死んでしまうだろう。つまり動物は自然環境が条件となって生息できる地域が限定されている。ところが人間だけは砂漠であれ熱帯雨林であり、ツンドラ地帯であれ、かなり過酷な自然条件の中でも生活している。それができるのは、環境に適応するためにさまざまの技術や思考を創造してきたからである。

 

その総体を「文化」と呼んでいる。つまり、人間が環境の中で生み出してきた一切の工夫と創造物、ものの見方-世界観といいかえられる、の総てを文化と考えてよい。 したがって文化とは、それが生まれた自然環境と対応している。食文化も文化の一つである以上、当然その地域の自然環境に最も合致したものであるはずである。日本の食文化は、日本の環境を最もよく映しだす鏡でなければならない。

 

ところが、日本の食文化を支える食材は、今やその多くが海外から輸入される。天ぷらウドンを食べたら、その食材の中で純国産品は水だけだった、という笑えぬ話が語られてから20年ほども経過した。日本の食糧自給率は、下がる一方である。つまり、日本の食文化が日本の自然環境から遠いものになりつつある。環境には自然の環境だけでなく、歴史的に形成された文化的環境もある。

 

日本は大陸から大きな影響を受けつつ、日本独自の文化を形成してきた。したがって日本の食文化の背景には、C国やK半島の文化がある。ことに琉球は、C国南方の文化の強い影響を受けて独自の食文化を形成しており、これを日本の食文化に包含すべきが議論があるところだ。同様に民族として別箇の歴史を持つアイヌの食文化も、日本の食文化の範疇を越えている。現代の日本という視点よりすれば、もちろん沖縄も北海道も日本の食文化として広く把えるべきであるが、ここに歴史的環境のズレがある。

 

日本の食文化が独自の展開をとげた19世紀の明治維新(1868年)までは、北海道の最南部から鹿児島まで、地域ごとにほぼ完結した食文化を営みながら、ほぼ共通した性格をもっていた。国内で遠隔地から運ばれる昆布や塩蔵品など別として、地産地消というのもおこがましいような自給体制の中で食文化を育んできた。ただ、その段階では交渉の少なかった琉球やアイヌの食文化は、殆ど受け入れられていない。むしろ長崎を窓口として、オランダや清朝の食文化が一部の人びとに受け入れられている。

 

こうして19世紀前半には、今日いうところの「日本料理」の基本的な性格や料理、献立が完成されていた、と見てよい。そこで、幕末までに完成されていた(アイヌと琉球を除いた)食文化を「狭義」の日本食文化と考えておこう。明治維新後、文明開化を通して日本人は積極的に欧米の文化を学び、採り入れた。食文化も例外ではない。かつて奈良時代に遣唐使を派遣して唐の文化を日本に移植したように、留学生やお雇い外国人などを通して急激に欧米の文化が流入した。その中に食文化もあった。

 

初めは西洋料理として紹介された欧米の食もまもなく日本の食と融合し、いわゆる「和洋折衷」料理が工夫された。その実態は様々で、大部分が日本人の嗜好に合わず消えていったが、中には正に新料理として日本の食の典型となったスキヤキやライスカレー、オムライス、トンカツなどが誕生している。

 

このような文明開化以降に新しく工夫され、日本人の生活の中に定着した料理、さらに素材、調理法、道具等々を含めた食文化は、広義の「日本食文化」と呼びたい。  その背景には、琉球や北海道も含まれた日本があった。在来野菜の定義として、三代に渡って作り続けられた野菜といういい方があるが、食文化としても三世代を遡って常食されてきたものを、広い意味で日本の食文化に含めることに大方の異論はないと思う。ほぼ昭和30年(1955年)ごろまでに、日本人が常食化していた食べものは「広義」の日本の食文化である。

 

なぜ、このような回りくどい物言いをするのかといえば、日本の食文化といった時、思い浮かべるイメージは、人によって全くといってよいほど共通項がないからである。イメージはバラバラである。果たして焼き肉は日本の食文化か、キャベツは日本の食材か、議論をし始めたらキリがない。日本人が作った料理は全て日本料理であるという人もいれば、郷土食といわれるものから日本の食文化をイメージする人もいるわけである。

 

そうした混乱を避けるため、幕末と高度経済成長以前という二つの歴史の画期で枠組みを考えてみようというのが、先の狭義と広義の日本食文化の枠組みという提言である。しかし、この枠組みも決して厳密なものではない。地域により階層により、常食としたものには大きな差があり、あくまで大雑把な線引きである。食文化の中の食事ということに限定すれば、これは「和食」としてわれわれがイメージするものと考えたらよい。

2015/08/26

国生み

古事記の国生み
『古事記』によれば、大八島は次のように生まれた。

伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神は、別天津神たちに漂っていた大地を完成させるよう命じられる。別天津神たちは天沼矛を二神に与えた。伊邪那岐・伊邪那美は天浮橋に立ち、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜる。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島となった。

二神は淤能碁呂島に降り、結婚する。まず淤能碁呂島に「天の御柱」と「八尋殿(やひろどの、広大な殿舎)」を建てた。『古事記』から引用する。

現代語訳
  (伊邪那岐命と伊耶那美命は)その島(淤能碁呂島)に天降って、天の御柱と八尋殿を建てました。

ここで、(伊耶那岐命が)妹の伊耶那美命に

「あなたの身体は、どのようにできていますか」

と問うと、伊耶那美命は

「私の身体には、成長して、成長していないところが1ヶ所あります」

と答えました。そこで、伊邪那岐命は

「私の体には、成長して、成長し過ぎたところが1ヶ所あります。そこで、この私の成長し過ぎたところで、あなたの成長していないところを刺して塞いで、国土を生みたいと思います。生むのはどうですか。」

と述べました。伊耶那美命は

「それはよいことでしょう」

と申しました。

伊邪那岐は左回りに、伊邪那美は右回りに天の御柱を巡り、出会った所で伊邪那美が「あなにやし、えをとこを」と伊邪那岐を褒め、伊耶那岐が「あなにやし、え娘子(をとめ)を」と伊邪那美を褒め、二神は性交する。しかし、女性である伊邪那美の方から男性の伊邪那岐を誘ったために、ちゃんとした子供が生まれなかった。二神は、最初に産まれた子供である水蛭子(ひるこ)を葦舟に乗せて流してしまい、次にアハシマが産まれた。水蛭子とアハシマは、伊邪那岐・伊邪那美の子供の内に数えない。

二神は別天津神のもとに赴き、なぜちゃんとした子供が生まれないのかを聞いた。すると、占いによって、女から誘うのがよくなかったとされた。そのため、二神は淤能碁呂島に戻り、今度は男性の伊邪那岐から誘って再び性交する。

島産み
ここからこの二神は、大八島を構成する島々を生み出していった。産んだ島を順に記すと下のとおり。

・淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島
・伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国
  胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
・愛比売(えひめ):伊予国
・飯依比古(いひよりひこ):讃岐国
  ・大宜都比売(おほげつひめ):阿波国(後に食物神としても登場する)
  ・建依別(たけよりわけ):土佐国

・隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島、別名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)

・筑紫島(つくしのしま):九州
    胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
    ・白日別(しらひわけ):筑紫国
    ・豊日別(とよひわけ):豊国
    ・建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
    ・建日別(たけひわけ):熊曽国
    
・伊伎島(いきのしま):壱岐島、別名は天比登都柱(あめひとつばしら)
 ・津島(つしま):対馬、別名は天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)
 ・佐度島(さどのしま):佐渡島
  ・大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州、別名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)

以上の八島が最初に生成されたため、日本を大八島国(おおやしまのくに)という。二神は続けて6島を産む。

  ・吉備児島(きびのこじま):児島半島、別名は建日方別(たけひかたわけ)
 ・小豆島(あづきじま):小豆島、別名は大野手比売(おほのでひめ)
  ・大島(おほしま):周防大島、別名は大多麻流別(おほたまるわけ)
 ・女島(ひめじま):姫島、別名は天一根(あめひとつね)
 ・知訶島(ちかのしま):五島列島、別名は天之忍男(あめのおしを)
 ・両児島(ふたごのしま):男女群島、別名は天両屋(あめふたや)

日本書紀の国生み
『日本書紀』の記述は、基本的に、伊奘諾(イザナギ)・伊奘冉(イザナミ)が自発的に国産みを進める(巻一第四段)。また、伊奘諾・伊奘冉のことをそれぞれ陽神・陰神と呼ぶなど、陰陽思想の強い影響がみられる。

本書によれば、『古事記』と同様に、伊奘諾・伊奘冉は天浮橋(あめのうきはし)に立ち天之瓊矛(天沼矛)で渾沌とした大地をかき混ぜる。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって島となった。ただし、このとき、他の天つ神は登場しない。