2023/08/26

ヨーガ(3)

近現代

19世紀後半から20世紀前半に発達した、西洋の身体鍛錬運動に由来するさまざまなポーズ(アーサナ)が、インド独自のものとして「ハタ・ヨーガ」の名によって体系化され、このヨーガ体操が近現代のヨーガのベースとなった。現在、世界中に普及しているヨーガは、この新しい「現代のハタ・ヨーガ」である。

 

現代ヨーガの立役者のひとりであるティルマライ・クリシュナマチャーリヤ(1888 - 1989年)も、西洋式体操を取り入れてハタ・ヨーガの技法としてアレンジした。インド伝統のエクササイズ(健康体操)と喧伝されることで、アーサナが中心となったハタ・ヨーガの名前が近現代に復権することになった。

 

2016年、ユネスコが推進する無形文化遺産にインド申請枠で登録された。

 

日本の状況

最初に瑜伽として日本にヨーガが伝わったのは、大同元年(806年)、唐より帰国した空海にまでさかのぼる。その後、真言宗や天台宗の「阿字観」等の密教行法として、現在に伝わっている。禅宗でいう禅は仏教の代表的な修行のひとつ「禅定」であるが、その原語はディヤーナ(禅那)で、ヨーガ・スートラ第2章に記述されるディヤーナと同語である。

 

現在、巷で流行している健康法としてのヨーガは昭和時代に伝播した。19世紀末にアメリカにヨーガが紹介され、ヴィヴェーカーナンダ(1863 - 1902年)やパラマハンサ・ヨーガーナンダ(1893 - 1952年)などのグルが知られた。ただ、自称インド人も多く、日本に影響のあったヨーガは、戦前はアメリカ白人のものが中心だった。日本のヨーガは、ヨーガを導入した宗教団体オウム真理教による一連の事件の影響で、一時下火になった。

 

だが2004年頃から健康ヨーガは再びブームとなり、ダイエット方法の1つとしてテレビで紹介されたり、CMで使用されることが増えた。フィットネスクラブなどでは、エアロビクスと同じようなスタジオプログラムの1つとして行なわれている。この流行は戦前同様インドから直接流入したものではなく、アメリカ、特にニューヨークやハリウッドでの流行が影響したものと考えられ、近年では同流行がインドへ逆輸入されている。なお、伝統的ヨーガ系のグループには現在でも、イニシエーションを行なうなど宗教団体的側面を持つものもある。

 

2015年、インド政府が主導して国連が制定した国際ヨガデー(621日)では、日本各地でもイベントが開催されている。また、2016年よりインド政府認可のヨガ検定が、一般社団法人全日本ヨガ連盟によって実施される。[要出典]

 

チャクラ

ヨーガは実践上、インド古来のチャクラ理論に依拠している。ヒンドゥー・ヨーガや仏教におけるチャクラの数、言及される色は一定していない。

 

チャクラを7つに固定し、各チャクラのプラーナの色に虹の7色をあてる考えが現代では普及しているが、これは伝統的なものではなく、近代神智学のチャールズ・ウェブスター・レッドビータ(英語版)(1854 - 1934年)が20世紀に考案したものである。

 

座法

主たる座法はパドマ・アーサナ(蓮華坐)である(結跏趺坐に相当)。

 

伝統的ヨーガ

ラージャ・ヨーガ (राज योग)

「ラージャ」は「王の」という意味である。「マハー(偉大な)・ヨーガ」とも呼ばれる。教典はパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』(紀元後4-5世紀頃)。第229節は、ヨーガには以下の8部門があると説いている。

 

ヤマ(禁戒)

ニヤマ(勧戒)

アーサナ(座法)

プラーナーヤーマ(調気、調息)

プラティヤーハーラ(制感)

ダーラナー(凝念)

ディヤーナ(静慮)

サマーディ(三昧)

 

その第2段階(ニヤマ)のうち、苦行、読誦、自在神への祈念の3つをクリヤー・ヨーガ(行事ヨーガ)という(『ヨーガ・スートラ』2:1)。クリヤーは行為の意で、『ヨーガスートラ』でのクリヤー・ヨーガは準備段階に当たる。

 

これら8つの段階で構成されることから、ラージャ・ヨーガをアシュターンガ・ヨーガ(八支ヨーガ)とも言う。

 

ヴィヴェーカーナンダは19世紀末にジュニャーナ、バクティ、カルマ、ハタを四大ヨーガとして、その総称をラージャ・ヨーガとしたが、後にラージャ・ヨーガは第5のヨーガを指す言葉とされるようになった。今日ではラージャ・ヨーガは『ヨーガ・スートラ』に示される古典ヨーガと同義とされる。ただし、ラージャ・ヨーガという言葉の文献上の初出はハタ・ヨーガの教典『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』にある。

2023/08/19

聖徳太子(7)

『日本書紀』における聖徳太子像

大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む『日本書紀』巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある[?]。森博達は文武天皇朝(697-707年)に文章博士の山田史御方がβ群の述作を開始したとする。

 

『勝鬘経義疏』

『勝鬘経』の注釈書である『勝鬘経義疏』について藤枝晃は、敦煌より出土した『勝鬘義疏本義』と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたもので、大山はこれが筆写されたものとしている。

 

『法華経義疏』巻頭の題箋(貼り紙)について、大山は僧侶行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。

 

安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(是・非など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから、海外で作られたとする説も否定している。

 

王勇 (歴史学者)は『三経義疏』について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、『法華経義疏』の題箋の撰号については、書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする。また花山信勝は『法華経義疏』行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している。

 

『上宮聖徳法王帝説』の系譜

『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は「おそくとも大宝(701-704年)までは下らぬ時期に成立した」として、記紀成立よりも古い資料によるとしている。

 

天寿国繡帳

天寿国繡帳について大山は天皇号、和風諡号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繡帳の銘文に現れる干支が、日本では持統天皇4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服制など、幾つかの理由から推古朝のものとしている。義江明子は、1989年に天寿国繡帳の銘文を推古朝成立とみてよいとする。石田尚豊は、技法などから8世紀につくるのは不可能とする。

 

法隆寺釈迦三尊像光背銘文

法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする。一方、1979年に志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする。

 

道後湯岡碑銘文

道後湯岡碑(伊予湯岡碑文)については、これまで推古天皇四年に建てたものとされてきた(牧野謙次郎,1938年)。

 

大山は、道後湯岡碑銘文における法興6年という年号について、法興は『日本書紀』に現れない年号(逸年号、私年号)であり、法隆寺釈迦三尊像光背銘文にも記されていると指摘している。

 

また大山は仙覚『万葉集註釈』(文永年間(1264-1275年)頃)と『釈日本紀』(文永11-正安3年頃(1274-1301年頃))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)官命で編纂)の一部としている。

 

法起寺塔露盤銘

慶雲3年(706年)に彫られたとされる法起寺塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では露盤銘が暦仁元年(1238年)頃に顕真が著した『聖徳太子伝私記』にしか見出せないことなどから偽作とする。

 

但し、大橋一章の研究(2003年)の研究では、嘉禄三年(1227年)に[四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている。

 

また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については、筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではない」と述べている。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」と批判している。

 

『播磨国風土記』の記述

『播磨国風土記』(713-717年頃の成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とある。

 

「弓削大連」は物部守屋、「聖徳王」は厩戸皇子と考えるなら、『播磨国風土記』は物部守屋が大連であった時代を、「聖徳の王(厩戸皇子)の御世」と表現していることになる。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。

 

教育における扱い

一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては、長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし、上記のように存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されたが、この方針に対して脱・皇国史観の行き過ぎという批判がある。

 

2013年(平成25年)327日付『朝日新聞』によれば、清水書院の高校日本史教科書では、2014年(平成26年)度版から歴史研究者によって指摘されるようになってきた聖徳太子虚構説(従来、聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである、とする説)をとりあげた。歴史家らから(厩戸皇子の存在はともかくとして)「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることは増え、学問的には疑問視されるようになっているので、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」について、そもそも一切記述しないものが優勢になっている。(わずかに記述される場合でも、少なくとも「聖徳太子」という呼称はカッコの中でしか記述されない)

 

なお「厩戸王」などとした表記について、「表記が変わると教えづらい」という声があることから、2020年度に小学校へ、2021年度に中学校へ導入される予定の学習指導要領案最終版では、文部科学省は「聖徳太子」に修正するよう検討していたことが報道された。

2023/08/17

ヨーガ(2)

原始ヨーガ

ヨーガの起源には不明な点が多く、その成立時期を確定することは難しい。ヨーガの起源を最も古くに見るものは、紀元前2500-1800年のインダス文明に、その遠い起源を持つとするもので、これは20世紀初頭の考古学者達によって考え出されたものである。

 

1921年に、モヘンジョ・ダロとハラッパーの遺跡を発掘した考古学者のジョン・マーシャルらは、発掘された印章に彫られた図像を、坐法を行っているシヴァ神の原型であると解釈した。そこから宗教学者エリアーデも、これを「塑造された最初期のヨーガ行者の表象」であるとした。近代に至るヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンは、この印章がのちにヨーガと呼ばれたものであるかは、かなり疑わしいものであったが、古代のヨーガの起源としてたびたび引用されるようになった、と述べている。日本で出版されているヨーガに関する書物でも、インダス文明にヨーガの起源をみるとする立場を取るものも多い。

 

しかし、佐保田鶴治も指摘するように、このような解釈は、あくまで推論の域を出ないものであるという。インダス文明には、文字らしきものはあっても解読には至っておらず、文字によって文献的に証明することのできない、物言わぬ考古学的な史料であり、全ては「推測」以上に進むことはできない、と佐保田は述べている。また、インド学者のドリス・スリニヴァサンも、この印章に彫られた像をシヴァ神とすることには無理があり、これをヨーガ行法の源流と解することに否定的であるとしている。

 

近年、このようなインダス文明起源説に終止符を打とうとした宗教人類学者のジェフリー・サミュエルは、このような遺物からインダス文明の人々の宗教的実践がどのようなものであったかを知る手がかりはほとんど無いとし、現代に行われているヨーガ実践を見る眼で過去の遺物を見ているのであり、考古学的な遺物のなかに過去の行法実践を読み解くことはできないとしており、具体的証拠に全く欠ける研究の難しさを物語っている。

 

紀元前12世紀頃に編纂されたリグ・ヴェーダなどのヴェーダの時代には「ヨーガ」や、その動詞形の「ユジュ」といった単語がよく登場するが、これは「結合する」「家畜を繋ぐ」といった即物的な意味で、行法としてのヨーガを指す用例はない。比較宗教学者のマッソン・ウルセルは、「ヴェーダにはヨーガはなく、ヨーガにはヴェーダはない」(狭義のヴェーダの時代)と述べている。

 

ウパニシャッドの時代では、単語としての「ヨーガ」が見出される最も古い書物は、紀元前500-紀元前400年の「古ウパニシャッド初期」に成立した『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』である。この書では、ヨーガという語は「ヨーガ・アートマー」という複合語として記述されているが、そのヨーガの意味は「不明」であるという。紀元前350-紀元前300年頃に成立したのではないかとされる「中期ウパニシャッド」の『カタ・ウパニシャッド』には、ヨーガの最古の説明が見い出せる。

 

古典ヨーガ

紀元後4-5世紀頃には、『ヨーガ・スートラ』が編纂された。この書の成立を紀元後3世紀以前に遡らせることは、文献学的な証拠から困難であるという。『ヨーガ・スートラ』の思想は、仏教思想からの影響や刺激も大きく受けている。

 

国内外のヨーガ研究者や実践者のなかには、この『ヨーガ・スートラ』をヨーガの「基本教典」であるとするものがあるが、ヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンはこのような理解に注意を促している。『ヨーガ・スートラ』は当時数多くあった修行書のひとつに過ぎないのであって、かならずしもヨーガに関する「唯一」の「聖典」のような種類のものではないからである。

 

サーンキヤ・ヨーガの思想を伝えるためのテキストや教典は、同じ時期に多くの支派の師家の手で作られており、そのなかでたまたま今日に伝えられているのが『ヨーガ・スートラ』である。『ヨーガ・スートラ』は、ヨーロッパ人研究者の知見に影響を受けながら、20世紀になって英語圏のヨーガ実践者たちによって、また、ヴィヴェーカーナンダやHP・ブラヴァツキーなどの近代ヨーガの推進者たちによって、「基本教典」としての権威を与えられていった。

 

『ヨーガ・スートラ』は、現代のヨーガへの理解に多大な影響を与えている。『ヨーガ・スートラ』の編纂者はパタンジャリとされているが、彼のことはよくわかっていない。同書は「ヨーガ学派」の教典である。同派は、ダルシャナ(インド哲学)のうちシャド・ダルシャナ(六派哲学)の1つに位置づけられている。

 

ヨーガ学派の世界観・形而上学は、大部分をサーンキヤ学派に依拠しているが、ヨーガ学派では最高神イーシュヴァラの存在を認める点が異なっている。内容としては主に観想法(瞑想)によるヨーガ、静的なヨーガであり、それゆえ「ラージャ・ヨーガ」(=王・ヨーガ)と呼ばれている。その方法はアシュターンガ・ヨーガ(八階梯のヨーガ)と言われ、ヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)、アーサナ(座法)、プラーナーヤーマ(調気法、呼吸法を伴ったプラーナ調御)、プラティヤーハーラ(制感、感覚制御)、ダーラナー(精神集中)、ディヤーナ(瞑想、静慮)、サマーディ(三昧)の8つの段階で構成される。 『ヨーガ・スートラ』では、ヨーガを次のように定義している。

 

ヨーガとは心素の働きを止滅することである (『ヨーガ・スートラ』1-2

その時、純粋観照者たる真我は、自己本来の姿にとどまることになる (『ヨーガ・スートラ』1-3

 

後期ヨーガ

12世紀-13世紀には、タントラ的な身体観を基礎として、動的なヨーガが出現した。これはハタ・ヨーガ(力〔ちから〕ヨーガ)と呼ばれている。内容としては印相(ムドラー)や調気法(プラーナーヤーマ)などを重視し、超能力や三昧を追求する傾向もある。教典としては『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』、『ゲーランダ・サンヒター』、『シヴァ・サンヒター』がある。

 

ヴィヴェーカーナンダ

他に後期ヨーガの流派としては、古典ヨーガの流れを汲むラージャ・ヨーガ、社会生活を通じて解脱を目指すカルマ・ヨーガ(行為の道)、人格神への献身を説くバクティ・ヨーガ(信愛の道)、哲学的なジュニャーナ・ヨーガ(知識の道)があるとされる。後三者は19世紀末にヴィヴェーカーナンダによって『バガヴァッド・ギーター』の三つのヨーガとして提示された。

 

ヨーガの歴史的研究を行ったマーク・シングルトンによれば、近代インドの傾向において、ハタ・ヨーガは望ましくない、危険なものとして避けられてきたという。ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンド、ラマナ・マハルシら近代の聖者である指導者たちは、ラージャ・ヨーガやバクティ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガなどのみを語っていて、高度に精神的な働きや鍛錬のことだけを対象としており、ハタ・ヨーガは危険か浅薄なものとして扱われた。

 

ヨーロッパの人々は、現在ではラージャ・ヨーガと呼ばれる古典ヨーガや、ヴェーダーンタなどの思想には東洋の深遠な知の体系として高い評価を与えたが、行法としてのヨーガとヨーガ行者には不審の眼を向けた。それは、17世紀以降インドを訪れた欧州の人々が遭遇した現実のハタ・ヨーガの行者等が、不潔と奇妙なふるまい、悪しき行為、時には暴力的な行為におよんだことなどが要因であるという。

2023/08/15

悪神ロキの物語(4)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

「ロキの懲罰」

 その後、すべてを知った神々は、ロキに対する怒りを爆発させました。それを覚るとロキは逃げだしてある山に身を隠し、四方に窓のある家を造って、そこに住んで始終窓から四方を見張っていました。しかも昼間はしばしば「鮭」に身を変えて、滝壺の中に隠れていました。そしてアース神たちが、どうやって自分を捕らえる工夫をするとか案じて、自分を捕らえる「網」の具合など自分で試作などしていました。

 

そんな折り、ついにオーディンがロキの居場所を見つけました。ロキはそれを悟ると素早く試作していた網を火にくべて燃やしてしまい、河の中に飛び込みました。アース神たちはロキの家に迫ると、「知恵者クヴァシル」が家の中に入り、いろいろ調べていくうち火の中の灰を見つけ、それを調べてこれが魚を捕る網に違いないと察知して、その灰の形から類推して一つの網を作り上げていきました。

 

 アース神たちはそれを持って河に来て、一方の端をトールが持ち、もう一方は残った神々が一緒になって持って、網を河に投げ入れました。しかしロキは巧みにそれをかいくぐって、二つの石の間に身を潜めていました。それと知った神々は、網がさらに下まで届くように重しをつけて投げ入れ、ロキはそれを逃げなどしているうち海の近くまできてしまいました。

 

海はさすがに危険でした。そこでロキは飛び上がって、網の上を飛び越えて再び滝の方に逃れてきました。そこでトールは河の中に入り、網で追い出すように迫っていきました。ロキは海に逃れるか、再び網の上を越えて逃げるかの決断が迫られました。ロキは後者を選んで思い切り飛び上がりましたが、トールはそれを逃がしはしませんでした。トールは思い切り、鮭となっているロキをつかみましたが、頭の部分は滑ってしまい、ようやくしっぽのところで固くつかむことができました。それ以来「鮭のしっぽ」は細くなったと言われます。

 

 こうしてロキは捕らえられ、そして洞窟のところに連行され、神々は三つの平らな岩を取り上げて穴をあけ、その穴に紐を通してロキを、この三つの岩にくくりつけてしまいました。三つの岩の一つは肩のところ、二つめは腰の下、三つ目は膝の下でこうしてロキは身動きできなくされてしまいました。

 

 さらに毒蛇が捕まえられてきてロキの頭の上にくくりつけられ、その毒がロキに降りかかるようにしてしまったのです。そのためロキの妻「シギュン」は桶を持って夫の傍らにたって、この毒が頭に降りかからないようにしているのでした。しかし、その毒が桶いっぱいになると、それを捨てに行かなければなりません。その間は猛毒がロキに降りかかるので、ロキは痛さに猛烈にもがくことになりました。それが人間世界で「地震」と呼ばれている現象なのだとされます。

 

 こうしてロキは世界の終末がくるまで、ここに捕らえられて苦しまなければならないことになりました。従って、この続きは「世界終末戦争、神々の黄昏」になってきます。

 

 これ以外にも、ロキは至るところに出現しているもっともポピュラーな神であり、とりわけ『ロキの口論』と題された歌謡は、ロキが並み居る神々・女神をすさまじく誹謗していく非常にユニークなもので、ロキの性格の一つが良く描かれている作品です。

 

 さて、以上のようなものが「悪神ロキ」にまつわる物語ですが、こうしてみるとゲルマンの神々の方が、ギリシアの神々に比べて断然「人間的」であるということが言えそうです。というか、私たちが想像する「神の性格」というものがまるきり無いとも言えます。

 

ギリシアの神々の物語は「神々の世界だけの物語」を見るとゲルマン神話に似ていると言えますが、しかし「人間世界との関係」がやはり根底にありますので「人間を越えた神の力」というものが描かれてきて、その部分で「神の超越性」が見られてくるのですが、ゲルマン神話にはそれがないために「まるきり人間」の物語と変わらなくなってしまうわけでした。今回のテーマの「ロキの物語」は、そうした「人間世界の写し」としての神の物語という性格を顕著に示していたと言えるでしょう。

 

 また、「ロキ」というのは神話学的に「閉じる者、終える者」を意味するか、あるいは「火」を意味するかとされています。「閉じる、終える」と理解すれば、世界終末をもたらす者ということだとなります。しかしどうも、たとえばノルウェーでは暖炉の火がはねた時など「ロキの仕業」とするとかがあって、本来「火の精霊」であったものがアースの神の一員に昇格していった段階で神々を助けたり、あるいは災いをもたらすという「火の両面性」がイメージ化されていき、やがて「災いの方向」に物語がつくられていったということかもしれません。そして、このロキも「島のゲルマン人」に特有の神であったと考えられています。また「暖炉の火の跳ね」に見られるように、かなり日常的な神であったのだろう推測されています。

2023/08/10

聖徳太子(6)

虚構説

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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(20114月)

 

研究史

聖徳太子とも推定されるが描かれた肖像画『唐本御影』(8世紀半ばに別人を描いた物であるとする説もある)

近代における実証的研究には久米邦武の『上宮太子実録』がある。

 

また、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者狩谷棭斎らに始まり、津田左右吉は十七条憲法を太子作ではないと主張した。第二次世界大戦後、井上光貞、坂本太郎や関晃らは津田説に反論している。一方、森博達は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている。

 

高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年)は、聖徳太子と厩戸皇子は別人であり、蘇我馬子の子・善徳が真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は『聖徳太子はいなかった古代日本史の謎を解く』(1992年)を出版し、谷沢永一は『聖徳太子はいなかった』(2004年)を著している。近年は歴史学者の大山誠一らが主張している(後述)。

 

大山誠一による聖徳太子虚構説

1999年、大山誠一『「聖徳太子」の誕生』(吉川弘文館)が刊行された。大山は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち、冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構」と主張。さらに、これら2つにしても『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しないと大山は考えた。そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳、三経義疏」の二系統に分類し、全て厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。

 

大山は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子として知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。以降、『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)や『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年)など多数の研究を発表している。

 

大山説の概要「有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に、最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等、長屋王、僧の道慈らであるとされ、十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作されたとする。藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。」

 

大山説は雑誌『東アジアの古代文化』102号で特集が組まれ、102号、103号、104号、106号誌上での論争は『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房、 2001年) にまとめられている。石田尚豊は公開講演『聖徳太子は実在するか』の中で、聖徳太子虚構説とマスコミの関係に言及している。『日本書紀』などの聖徳太子像には何らかの誇張が含まれるという点では、多くの研究者の意見は一致しているが、聖徳太子像に潤色・脚色があるということから「非実在」を主張する大山説には批判的な意見が数多くある。三浦佑之など大山説に賛同を表明する研究者もいる。

 

また、岡田英弘、宮脇淳子は大山説とは異なる視点から、聖徳太子虚構説を論じている。

 

大山説への反論

仁藤敦史(国立歴史民俗博物館研究部教授)は、『日本書紀』や法隆寺系以外の史料からも初期の太子信仰が確認され、法隆寺系史料のみを完全に否定することは無理があると批判している。また「推古朝の有力な王子たる厩戸王(子)の存在を否定しないにもかかわらず、後世の「聖徳太子」と峻別し、史実と伝説との連続性を否定する点も問題」としている。

 

遠山美都男は「『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみ」としたうえで、「大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない単なる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。」「『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だった」と批判している。

 

ほか、和田萃や、曽根正人らの批判がある。

 

平林章仁は、日本書紀はそもそも舎人親王が監督した正式な朝廷編纂の国史書であり、個人の意図で大幅に内容が変えられるものでないとして、日本書紀は虚構説の資料にはならないと指摘している。

 

倉本一宏は「『聖徳太子』はいた」として、聖徳太子虚構説を「『聖徳太子』というのは、あとからできた敬称ですが、厩戸王という人はいたわけです。有力な王族であったことは確かですし、推古天皇、蘇我馬子とともに政を行っていたことは間違いない。ただし、その業績が伝説化された部分はあると思います」として、法隆寺は南都七大寺で唯一王権とほとんど関係なく、創建者の厩戸一族も滅んでいるという後ろ楯不在の寺であるため、存在意義のために聖徳太子伝説が必要であり、そこで作られたのが法隆寺系縁起であり、これらの史料がたまたま『日本書紀』に採用され、聖徳太子伝説を作ったのは法隆寺である旨指摘している。

 

聖徳太子虚構説に対する反論としては、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正昭「歴史からみた太子像の虚実」(『聖徳太子の実像と幻像』所収)(2001年)、森田悌『推古朝と聖徳太子』(2005年)、などがある。また石井公成は、「大山説は想像ばかりで論証になっていない」とし、新資料の発見とコンピュータ分析によって、「憲法十七条」や三経義疏は聖徳太子の作と見てよいと論じている。

 

虚構説の論点と歴史的資料

聖徳太子の存在を傍証する資料は、『日本書紀(巻22推古紀)』及び「十七条憲法]、『古事記』、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、天寿国繡帳(天寿国曼荼羅繡帳)、法隆寺薬師如来像および釈迦三尊像の光背銘文、同三尊像台座内墨書、道後湯岡碑銘文、法起寺塔露盤銘、『播磨国風土記』、『上宮記』などの歴史的資料がある。これらのなかには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは『日本書紀』成立以降に制作されたと考えられるものもあり、現在、決着してはいない。

2023/08/08

ヨーガ(1)

ヨーガ(梵: योग (Yoga_pronunciation.ogg 聞く), yoga)は、古代インドに発祥した伝統的な宗教的行法で、心身を鍛錬によって制御し、精神を統一して古代インドの人生究極の目標である輪廻転生からの「解脱(モークシャ)」に至ろうとするものである。ヨガとも表記される。漢訳は瑜伽(ゆが)。

 

1990年代後半から世界的に流行している、身体的ポーズ(アーサナ)を中心にしたフィットネス的な「現代のヨーガ」は、宗教色を排した身体的なエクササイズとして行われているが、「本来のヨーガ」はインドの諸宗教と深く結びついており、バラモン教、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教の修行法でもあった。現代ではインドのカトリック教会でもヨーガが取り入れられ、クリスチャン・ヨーガとして実践されている。

 

概説

森林に入り樹下などで沈思黙考に浸る修行形態は、インドでは紀元前に遡る古い時代から行われていたと言われている。ヨーガはインドの諸宗教で行われており、仏教に取り入れられたヨーガの行法は中国・日本にも伝えられ、坐禅となった。ウパニシャッドにもヨーガの行法がしばしば言及され、正統バラモン教ではヨーガ学派に限られずに行われた。ジャイナ教でもヨーガの修行は必須であり、仏教の開祖である釈迦もヨーガを学んでいる。祭儀をつかさどる司祭たちが神々と交信するための神通力を得ようと様々に開発した思想と実践法は、4-5世紀頃に六派哲学のヨーガ学派の教典『ヨーガ・スートラ』として、現在の形にまとめられたと考えられている。

 

ただし、今日ではヨーガと呼ばれるものの多くは動的なものであり、人間の心理に重きを置く静的な古典ヨーガの流れではない。伝統的な動的ヨーガは、肉体的・生理的な鍛錬(苦行)を重視し、気の流れを論じ、肉体の能力の限界に挑み、大宇宙の絶対者ブラフマンとの合一を目指すハタ・ヨーガのヴァリエーションである。

 

「ハタ」は「力、暴力、頑固」などを意味する。ハタ・ヨーガはヨーガの密教版ともいうべきもので、12-13世紀のシヴァ教ナータ派のゴーラクシャナータ(ヒンディー語でゴーラクナート)を祖とする。ムドラー(印相)や、プラーナーヤーマ(調息、呼吸法)、シャットカルマ(浄化法)などの身体的修練を重視した。ハタ・ヨーガの主張は、ヒンドゥー教のシヴァ派やタントラ仏教(後期密教)の聖典群(タントラ)、『バルドゥ・トェ・ドル(チベット死者の書)』の説と共通点が多く、プラーナ(生命の風、気)、ナーディー(脈管)、チャクラ(ナーディーの叢)が重要な概念となっている。

 

伝統的ハタ・ヨーガとは別の系統として、1990年代後半から、身体的ポーズ(アーサナ)に重点を置いたヨーガがアメリカ、イギリスなどの英語圏を中心に世界的に流行している。現代では、一般に“ヨーガ(ヨガ)”または“ハタ・ヨーガ“と呼ばれるものの多くは、このヨーガを指している。この近現代のヨーガは、日本においてもアメリカなどの影響により、今世紀に入って爆発的な広がりを見せている。その特徴は「アーサナ」の実践にある。宗教学者のデミケリスはこうしたヨーガを「現代体操ヨーガ(Modern Postural Yoga)」と呼んでいる。

 

この現代の「ヨーガ教室」等で教えられているヨーガは、20世紀前半のインドで西洋の体操やボディビルディングなどの外来の身体鍛錬を取り入れて、インド人のための国産エクササイズを作ろうとする動きから生まれた「創られた伝統」を直接的な起源としており、現代のヨーガと元来のヨーガにおける「yoga」とは似て非なる「同音異義語」であると言える。健康法として多くの効果が喧伝される一方、心身に対する様々な危険性も指摘されている。

 

また現代では、様々な文献が翻訳・執筆され容易に入手できるため、書籍や映像により独習されることも少なくない。ヨーガを取り入れていたオウム真理教の教祖麻原彰晃は、正規のグルにつかず文献を基に独学で修行しているが、このことがのちに様々な問題を生ぜしめた要因のひとつであるとも言われている。その一方、アヌサラ・ヨーガやビクラム・ヨーガといった巨大ヨーガ教室のトップがセクハラ、パワハラ、性犯罪で告発されるなどのトラブルもあり、商業化された現代のヨーガで、指導者に帰依することは妥当かどうか疑問も持たれている。

 

「ヨーガ」という言葉

ヨーガ (योग) は、「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」という意味の動詞根√yuj(ユジュ)から派生した名詞で、「結びつける」という意味もある。つまり語源的に見ると、牛馬を御するように心身を制御するということを示唆している。『ヨーガ・スートラ』は「ヨーガとは心の作用のニローダである」(第12節)と定義している(ニローダは静止、制御の意)。

 

森本達雄によると、それは、実践者がすすんで森林樹下の閑静な場所に座し、牛馬に軛をかけて奔放な動きをコントロールするように、自らの感覚器官を制御し、瞑想によって精神を集中する(結びつける)ことを通じて「(日常的な)心の作用を止滅する」ことを意味する。


日本では一般に「ヨガ」という名で知られているが、サンスクリットでは「यो」(ヨー)の字は常に長母音なので「ヨーガ」と発音される。仏教においては元のサンスクリットを漢字で音写して「瑜伽」(ゆが)と呼ぶか、あるいは意訳して「相応」とも呼ぶ。

 

ヨーガの行者は日本では一般にヨーギーまたはヨギと呼ばれるが、ヨーガ行者を指すサンスクリットの名詞語幹は男性名詞としてはヨーギン (योगिन्)、女性名詞としてはヨーギニー (योगिनी) であり、ヨーギーはヨーギンの単数主格形(日本語にすると「一人の男性行者は」)に当たる。現代日本ではヨーガを行う女性を俗にヨギーニと呼ぶことがあるが、前述のようにサンスクリットでは「ヨー」は常に長母音なので、女性名詞はヨーギニー (yoginī) であってヨギーニではない。ヨギーニは英語読みに由来する発音だと説明する本もあるが、英語の発音は /'joʊgəni/ (ヨウギニ)または /'joʊgəniː/ (ヨウギニー)である。

 

修行者は男性であった。タントリズムの性的ヨーガにおいて、男性行者の相手となった女性はヨーギニーと呼ばれた。南インドで、親が娘を神殿や神(デーヴァ)に嫁がせる宗教上の風習デーヴァダーシー(神の召使い)の対象となった女性もヨーギニーと呼ばれた。彼女たちは伝統舞踊を伝承する巫女であり、神聖娼婦、上位カーストのための娼婦であった(1988年まで合法であった)。20世紀インドの女性ヨーガ行者としてはアーナンダ・マイー・マーが有名である。

2023/08/01

聖徳太子(5)

太子信仰

太子堂(鶴林寺)

聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既に見えており、8世紀には「本朝(日本)の釈迦」と仰がれ、鎌倉時代までに『聖徳太子伝暦』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝(中世太子伝)が成立した。こうした伝記と絵伝により「聖徳太子信仰」は形成されていった。

 

太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った太子堂が各地の寺院にある。聖徳太子は観音菩薩の化身として尊ばれた。なお、「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」とする考えもある。

 

その他、室町時代の終わり頃から、太子の祥月命日とされる222日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には、大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など様々な職種の職人集団により、太子講は盛んに営まれるようになった。なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称される。

 

現在は、聖徳太子を開祖とする宗派として聖徳宗(法隆寺が本山)が存在している。

 

親鸞

親鸞は、聖徳太子を敬っていた。親鸞は数多くの和讃を著したが、聖徳太子に関するものは、『正像末和讃』の中に11首からなる「皇太子聖徳奉讃」のほか、75首からなる『皇太子聖徳奉讃』、114首からなる『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』など多くの「太子和讃」を残している。

 

その太子和讃の中で、「仏智慧不思議の誓願を聖徳皇のめぐみにて(略)」と阿弥陀如来の誓願を聖徳太子のお恵みによって知らせていただいたと詠われ、「和国の教主聖徳皇」と太子を日本に生まれて正法を興した主である詠われた。親鸞の聖徳太子に纏わる夢告はいくつかあるが、六角堂に参篭した際の救世観音菩薩の夢告などを通して、自分の進むべき道を問い、尋ね、確かめていったと考えられる。

 

以降、親鸞を開祖とする浄土真宗では、聖徳太子への尊崇が高まった。また、昭和時代に十七条憲法に疑問を呈した津田左右吉を告訴した原理日本社は、親鸞を尊崇する超国家主義団体であった。

 

後世の評価

聖徳太子は古代から評価されていた人物であるが、其の内容は時代によって大いに異なる。浄土信仰が盛んであった頃は、聖徳太子は浄土への導き手として尊崇された。また、戦国時代には物部守屋を破った「軍神」としても信仰された。江戸時代の儒学者や国学者には、仏教をもたらしたことで日本を歪めたとされ、厳しく批判された。

 

明治時代になると、憲法制定の先駆者や大国と平等外交を行った外交家として評価された。第二次世界大戦期には「十七条憲法」のうち「和をもって尊しとなす」「承詔必謹」の部分が強調され、聖徳太子に関連する小冊子を文部省が配布することもあった。

 

戦後になると「和」は平和と同一視されるようになり、「民主憲法」の元祖とみられるようになった。また亀井勝一郎や家永三郎のように「人間としての聖徳太子」を見るものも現れた。こうした状況を新川登亀男や井上章一などは「聖徳太子観は、時代と自らを映す鏡」であると評している。

 

歴史家の評価

関晃は、次のように解説する。

「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって、この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策は、みな太子の独自の見識から出たものであり、とくにその中の冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、天皇記、国記以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが、これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」。

 

田村圓澄は、次のように解説する。

「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである」。

 

内藤湖南は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された俀王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は、聖徳太子らによる著述と推定している。