2008/01/27

「アスリート」としての朝青龍

 朝青龍の土俵外の狼藉ぶりについては、これまでにも何度も触れてきたから、ここでは繰り返さない。本来であれば例の「サッカー事件」、若しくはその前の数々の事件の段階で角界から追放すべきだった、という意見自体は変わらない。

 

その朝青龍が、2場所の謹慎明けから戻ってきて、一体どんな相撲を見せるのかと世間が注目したように、ワタクシも大いに注目した。確かに謹慎前時点での実力からすれば、朝青龍が地力で圧倒的にズ抜けていた事は、誰の目にも疑いはない。が、幾らなんでも2場所も土俵を離れていたのだから、さすがに謹慎前のようなわけには行かないだろうと思われたし、寧ろガタガタに崩れて引退に追い込まれるような、惨めな末路を期待したファンも多かったろうと思う。

 

ワタクシとしては、恐らくはあれだけの実力差と、あの人間離れした運動神経や野性的な勘の鋭さから考えて、引退に直結するような大崩れをする事はないだろうと見ていたのだが、それでも2場所土俵を離れていたツケはかなり大きく、12勝もすれば御の字ではないかと見ていた。

 

ところが蓋を開けてみれば、序盤こそは別人のように危なっかしい相撲で、さすがにブランクの大きさを感じさせはしたものの、日に日に驚異的な順応性でアッと言う間に立ち直ってきたのには目を瞠った。単にバカ強いだけでなく、土俵上で見せるここ一番の集中力、観客の目を惹き付ける力強い相撲、仕切りに見る満々と漲る闘志、そして動物並みの運動神経と反射神経・・・いずれもが現役力士ばかりでなく、相撲観戦歴数十年のワタクシにして、過去のどの力士に比しても群を抜いている点は、認めざるを得ない(あえてタイプをあげれば、全盛期の千代の富士に最も近いか)

 

確かに朝青龍は、人間的には疑いなくトンデモなヤツだと思う。横綱の権威を備えているとは到底思えないし「人間・朝青龍」という事で言えば、これほど憎たらしく嫌なヤツはいない。が、それとは別に、土俵上に見る「アスリート・朝青龍」の、なんと圧倒的な存在感と、目を離せない魅力に溢れている事であろうかという事実を、改めて再確認してしまった

 

これは大相撲に限らず、どのスポーツにも言えることだが、ワタクシの考えでは土俵の内と外では、例えば二重人格であっても問題はないと思っている。土俵の外での非常識な言動や、社会的なルールを逸脱した行為は厳しく批判されてしかるべきだが、土俵上での荒々しい態度や相撲まで批判されるべきではない。

 

 朝青龍で言えば、例えば簡単に勝てる勝負で、わざわざ吊り落しや強引な投げで決める事が問題視された。

 

「なんで簡単に勝てるのに、わざわざあんな大技で叩きつける必要があるのか?」

 

という批判を耳にするが、それは勝負を決める本人の自由であり、例えば「吊り落とし」が残酷だというなら、そんな大技を喰らう方が不甲斐ないというべきである。或いはそんな残酷な技だというなら、禁じ手にすればよいだけである。

 

ルールがあるからには、ルール内で戦う事に問題があってはおかしいはずで、ルール内で戦っている者に対して、ルールを超えたおかしな感傷を持ち込むのは、明らかにお門違いである。このように書くと、あたかもワタクシが朝青龍の贔屓をしているように思われ「以前は、あれほどボロクソに言ってたのに」と言う人がいるかもしれないが、何度も繰り返しているように、ワタクシ的には「土俵の内と外」を区別しているに過ぎない。

 

土俵外では常識外れの社会人である事は間違いなのだから、追放せよと繰り返してきた意見は今も変わらないが、相撲協会はそうはしなかった。だから、ここでは土俵外の事は抜きにして、土俵上の事だけを書いている。どだい、あの性格は最後まで直らないだろうし、あれが私生活で大人しくなったら、あの鬼をも拉ぐような強さも相撲の魅力も半減してしまうのだろう、と密かに思っている。

 

では「土俵上」の結果は、どうだったのか?

千秋楽、白鵬との相星決戦に敗れたとはいえ、誰がこのようなドラマティックなシチュエーションを、予想しえただろうか?

誰があのような、久しぶりに手に汗握る「大相撲」の醍醐味を凝縮したような、素晴らしい勝負を予想しえただろうか?

 

なんと言っても、力士の本分は

「土俵上で、どれだけの素晴らしいパフォーマンスを見せられるか?」

に尽きるし、土俵上で求められるのは「結果」である。全国の期待を一心に集められたような、白鵬のプレッシャーも想像を絶するところだが、自らまいた種とは言え、あの日本中を敵に回したような四面楚歌の状況の中で、あれだけの相撲を見せた朝青龍に対し、今更土俵外の事を持ち出して、水に落ちた犬を叩くような真似はいかがなものか?

 

認めたくはなくとも、朝青龍の「悪の魅力」なくして、今場所のあの盛り上がりはありえなかった。正直なところ、最初から最後まで白鵬を応援していたワタクシだが、あのドキドキと胸が高鳴るような緊迫感溢れる仕切りから、意地と全力を出し切った素晴らしい勝負の醍醐味を、久しぶりに堪能できた思いがしたのもまた事実である。

2008/01/23

甲賀

滋賀県甲賀郡甲賀町」、平仮名で書くと「しがけんこうかぐん こうかちょう

町役場のHPのURLも「http://www.city.koka.shiga.jp/

なぜ清音かというと、上記HPに「甲賀の起源は、6世紀末に百済の国から招かれ、この地に文化を開いた『鹿深臣』に由来していると伝えられます」と書いてある。

つまり「鹿深」→「かふか」→「かうか」→「こうか」というワケ。ところが、これに「甲賀」の字を当て戦国時代に「東海道」と「薬草の産地」という、地の利を活用した武士団が発生し「甲賀忍者」と呼ばれ、江戸時代や明治以降も物語として長く語り続けられて全国に知られたので、いつしか「甲賀=こうが」が定着してしまった>

<山群の北半分は、旧近江国甲賀郡である。甲賀忍術で有名な土地であるが、元々水利の悪い山間であった。

「日本書紀」に「敏達13年秋9月、百済より鹿深臣来たり弥勤石像一駆あり」 とあるように、朝鮮百済からの渡来人が開いた土地で鹿深臣が甲可、甲香などと変るうち甲賀になったとする説が一般的である。

この鹿深臣が、のち甲賀郡の郡司となり甲賀武士となり忍者を生み出す遠因となるのであるが、蒲生郡と共に特に渡来人の影響が強いのが特長である>

<宗教関係では石仏群などの古い物があちこちにあり、我が地区にも石仏と言う石塔が山尾根にある。鈴鹿南部に位置する甲賀町の山々は、多くの未知の分野が眠ったままであり、忍者の発生を修験道との関係で捉えてみるのも興味深い。忍者の源流も4世紀まで戻るとする説と、10世紀とするものがあり様々である>

ポリネシア語による解釈
甲賀郡は滋賀県の東南部、野洲川の上・中流域、野洲川の支流杣(そま)川の流域、および信楽町の地域です。甲賀は、昔は「鹿深」、甲可、甲加、甲香とも書かれました。

この「かふか」は

(1)
「ムカフ(向)・カ(処)」の約
(2)
「カガ」、「カヌカ」、「コーゲ」などと同じで「採草地」の意

とする説があります。

この「かふか」、または「こうか」は、マオリ語の「コフカ」、KOHUKA(thin,lean)、「痩せた(土地)」の転訛と解します。
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

2008/01/21

歳月(10年の歴史part5)

  (まさか・・・いくらなんでもこれだけの組織の中で、マネージャーってありか?)

 

が、それほど珍しくはない苗字はともかくとして、あのどんな捻くれ者でも読めない変わった字だった名前までまったく同じだったから、あのK氏に間違いなかった。

 

元々、当時の現場リーダーなども

 

「Kさんは、自分なんかより凄くレベルが高いからね。繋ぎで来ていたみたいですけど、ここじゃ勿体ないですよ・・・」

 

と言っていたが、まさかそれほどとは思っていなかった。

 

 が、考えてみればあれから3年近く経っているし、元々相当な下地があるだけに、その間に大幅なスキルアップをしたことは大いに考えられる。スキルは高いながらも繋ぎで来ていたK氏と、まったく素人で入った自分とはいえ、かつては同じコンビで仕事をした相手が今やこの巨大なピラミッドのマネージャーとして、5人の中の一人として頂点に君臨するのに引き換え、こちらはその最下層の面接をしている。なんという違いか。

 

これには、愕然とせざるを得なかった。

そして、数日後に来た回答は「スキル不足により、NG」だった。

 

 さらに厳しい「冬の時代」は続いた。あの携帯シェア9割以上を誇っていた、当時のD社のあるシステムにおいて、マネージャーとして頂点に君臨していたK氏。片や、同じシステムのピラミッドの最下層の面接にすら通らなかった、己を省みる。

 

何の因果か、かつては同じコンビで仕事をした2人が、このようにハッキリと目に見える形で、その違いをこんなにも残酷な形で見せ付けられたのだ。

 

(この差は、一体なんなのだ?)

 

あれから約3年の間、恐らくは相当な研鑽を積んできたのであろうK氏であり、改めてわが身を振り返った。元々、斜陽のホスト系システムから入ったという運の悪さはあったものの、その間これといった目標も持たず努力もせず、ただ漫然とその日暮らしを続け目の前の課題を無意味に片付けながら、糊口を凌いできたツケが廻ってきたのである。努力や実力の差は、こんなにもハッキリと、残酷な形で現れてしまうのだ・・・

 

この後

 

「このままでは、この世界で生きていく事は出来ん」

 

と考えたのは、必ずしもK氏の影響ではまったくなく、様々な要素が重なったからである。そもそも、相手は比べるにはあまりにも話にならないくらい、この世界では巨大な存在になっていたのだ。

 

そうして、何度かの紆余曲折を重ねていった。独学で幾つかのベンダー資格を取得し、実戦でも複数の大規模な現場でエンジニアとしての経験を積んだ。名古屋に新たな拠点の出来たD社からも仕事の誘いが来たが、断る場面もあった。特にD社に恨みがあったわけではなく、あくまで業務内容が物足りなかったからに過ぎなかったが、ともあれD社からお誘いがかかって、その内容を吟味するくらいにはなった証ではあった。気付けば、初めてのIT業界であのK氏とコンビを組んでから、すでに数年が経過していた・・・

 

 その後、上京して東京でも幾つかの現場を渡り歩き、さらに経験を積んだ。かつてのD社の面接などは、すっかり忘却の彼方というような長い年月の経過を経ていた。

 

そうして、D社の基幹システム更改でお誘いが掛かった時は「あの面接」から、実に10年の歳月が経過していた。

 

忘却の彼方といはいえ「D社」と聞けば様々な思い出がある中で、やはり忘れられないのは、10年前の「あの面接」である。かつては同じコンビで1ヶ月間仕事をしたK氏が、東京本部のマネージャーとしてピラミッドの頂点に君臨し、片やピラミッドの最下層の面接すらあえなく「NG」を突きつけられたのが、10年前の惨めな姿であった。

 

何度か、IT業界に見切りをつけようとも思いながら

 

(こんな中途半端なままでは終われん・・・)

 

と、その都度踏み止まり、繰り返しNGを突きつけられながらも、それなりに経験積んで徐々にステップアップをしてきていた。そして、10年前の「要らない技術者」に  「D社の新しい基幹システム作りを一緒にやりませんか」と、声が掛かったのだ。今や世界を代表する通信キャリアに成長した大企業であり、幾つものシステムを抱えている中でも最もコアな部分である、基幹システム移行プロジェクトである。

 

自分自身、まだそんなにスキルが高いとは思ってないし、相手の事情もあるのだろうがオーバースキルであることは明らかだと思い、一旦は辞退した。が、営業と現場リーダーから

 

「是非、一緒にやりましょう!」

 

と熱心に誘われ、破格の条件も提示された。勿論、リスクを覚悟してでも、この仕事を請けたのは「スキルアップしなければいけないのだ」という思いが総てであり、あのK氏とは何の関係もあるはずがない。

 

が、

 

(相手の事情はどうあれ、とにもかくにもここまで来たのだ・・・)

 

と、自分にしかわからない「10年の歳月」の重みをそっと噛み殺しつつ

 

(これは、単にひとつの通過点に過ぎない・・・まだまだ成長しなければ)

 

と、自らに言い聞かせた。

2008/01/20

ピラミッド(10年の歴史part4)

当然のことながら一緒に入った3人は、それぞれのパートナーから最初に「簡単なやり方」を教わっていたそうだ。

 

もっとも、このK氏は必ずしもどうしようもなく嫌なヤツ、というわけでもなかったらしい。この仕事は24時間365日のローテーション勤務のため、夜勤の時は仮眠室を兼ねた休憩所があり、冷蔵庫やポットなど生活に必要なものが揃っていた。ある時、ポットの水を替えようとして蓋を開けると、ポットの中に木のような異物が入っているのに気付いたので、K氏に

 

「ポットの中に、何か入ってるけど・・・これは?」

 

と問うと

 

「ああ、それは備長炭ですよ。水道のカルキ臭が気になるので、私が何時も入れてます。ミネラルが溶けて、体にもいいしね。それが、気になりますか?」

 

「いや、なにかわからなかったので、聞いただけだけど・・・」

 

「これまで誰からも何も言われなかったけど、気になるようなら捨ててもいいですよ」

 

などと、意外に気を使うようなところもあった。

 

そうして月末を迎えると、このK氏とのコンビも終わりであり、翌月の勤務シフト表が配られた。色々と腹の立つことが多かったが、こうしてK氏とのコンビが終わるという喜びも手伝って

 

1ヶ月間、色々と教えてくれてありがとうございました」

 

と、柄にもない礼を言うと

 

「今まで、誰からもそんなこと言われた事ないよ。何でそんなことで、礼を言われるのかわからんわ」

 

と暗に相違してなぜか不機嫌だったから、意味がわからないだけでなく腹も立った。

 

翌月は、ローテーションが変わったため顔を合わせる機会もあまりなくなり、また合わせても口を聞くこともなかったが、その月の後半に配られた勤務シフト表からは、K氏の名前が消えていた。

 

「Kは、今月で辞めるのか?」

 

と多少の噂にはなったが、元々入れ替わりの激しい職場で毎月のように誰かが抜けていたので、古株のK氏が消えるといっても、格別に話題に上る事もない。その時のは、ただ

 

(ああ・・・これであの嫌なヤツとは、永久に一緒にやらなくて済むんだな・・・)

 

という安堵感のみだった。

 

元々、この現場では惜しいくらいに、というよりはなんでこんなところに来ているのかと疑問に思えたくらい、一人だけスキルの高かったK氏だから、恐らくはシステム開発の現場などに移り、もっと高度な技術を発揮しているのだろうと思われたが、いずれにしてもこれでK氏とは縁がなくなった・・・はずだった。

 

ところが・・・そうではなかった。正確に言えば「縁が切れた」のは、確かではあったが・・・

 

K氏が消えた後も、この現場に1年近く勤めた。そして次に移った現場は、前職の延長上でまた汎用系システムの運用となったが、ここではunix系のサーバー操作やお役人相手のヘルプデスクなどの新しい経験も積んだ。が、安価に運用できる「クラサバ・システム」の浸透に伴い、汎用系システムは徐々に業界では斜陽となっていく。

 

こうして、クライアント=サーバシステムへの移行への模索を余儀なくされながらも「未経験の壁」に撥ね返され、面接でのNGを繰り返しながら失業期間が数ヶ月に及ぶという、先の見えない厳しい時期が続いていた。

 

その日も、海のものとも山のものとも分からないような面接依頼が舞い込み、紹介会社の案内で大手のSierに足を運んだ。他に5人くらいの技術者が面接に来ており、呉越同舟で業務内容を聞く事になった。

 

「携帯大手キャリアの仕事です・・・」

 

当時は、携帯が物凄い勢いで伸び始めていた時代で、携帯市場と言えばまだD社の独占状態だった。

 

「D社も今は日本を代表する大企業となり、システムも非常に巨大化してきています」

 

と説明する担当者は「社内秘」と書いてある図を見せた。

 

「今回、お願いしたい仕事は、ここのシステム管理になります」

 

と担当者がペンを当てたのは、巨大なピラミッドのような絵が描かれた最下層の枠であった。

 

「ご覧の通り、この階層の絵では一番下になります。ここでシステム障害やら、お客様からの問い合わせに対応していただくのが、メインの仕事になります。この上にはバックヤードという部隊がいて、わからないことはこのバックヤードに問い合わせをする。さらに上には、SE部隊が控えています」

 

と担当者の手は、徐々にピラミッド上の枠を上がっていく。システム管理、バックヤード、SEとピラミッドを上がると、上の方に太い線が引いてあった。

 

「ここから先は、東京の本部になります。ここには全体を指揮するチーフクラスがいて、さらにその上の最上位には彼らを束ねるマネージャーたちが控えています。この5人のマネージャーたちが、実質的に全体を動かしています。まさに、神のような人たちですな・・・」

 

と、担当者は敬意を表していた。

 

「みなさんに今回お願いする事になった場合、システム管理から入っていただきますが、今後のスキルアップや頑張り次第では、このピラミッドを徐々に上がって行くチャンスがあります。実は、そこがこの仕事の魅力であり、実際にこの辺りの雲の上にいるようなマネージャーやチーフたちも、みなさん同様にシステム管理から入って、徐々に今のところまで上り詰めた方々なのです。ウチからも、東京本部に引き抜かれていった人もいますよ」

 

と、熱心に語っていた。

 

(なんだか、夢の話でも聞いているようだな・・・)

 

と、そろそろ退屈しかかっていると

 

「ところで、今お見せしている資料はD社さんの内部資料なので、くれぐれも厳秘でお願いします」

 

というと、こちら側の担当営業が

 

「よく見ると、全部名前が入ってますね」

 

と言った通りマネージャーとチーフの枠には、ご丁寧にも名前が書かれていた。

 

「確かに、名前入ってますね・・・みなさんも頑張れば、数年後にはこのピラミッドの頂点に立つことが出来るかもしれませんよ・・・」

 

興味がないまま、5人ほど書いてある名前をボンヤリと眺めていて、仰天した。

 

そこになんと、あのK氏の名前があった!

2008/01/13

但馬と出石

 <但馬(たじま)の名の謂れははっきりせず、古事記では「多遅麻」と記されていますが、「台地間(タチマ)」「谷間(タニマ)」のように地形に由来する説、「橘(タチバナ)」の意や、「虎杖(タヂヒ)間(マ)」(イタドリ草が多く生えている谷間)などの植物に由来する説などがあります>

<但馬国(現在の兵庫県北部)の由来は「古事記」、「日本書紀」に記載がある古いもの。新羅(朝鮮半島南東部にあった王朝・356年~935年)王子である天日槍(あめのひぼこ)が妻を追いかけて、渡日し流れ着いた地が「多遅摩(但馬)」であったとされている。出石の地名も、天日槍の持っていた宝物「出石小刀」から取られたものと云われており、天日槍は出石町内の出石神社に祭られている>

ポリネシア語による解釈
<但馬国は兵庫県北部の地域で、北は日本海、東は丹波・丹後国、南は播磨国、西は因幡国に隣接しています。山陰道に属し『古事記』は「多遅麻」、「多遅摩」と、『日本書紀』は、総て「但馬」と記し、『和名抄』は「太知万」と訓じています。この「たちま」は、「タチ(台地)・マ(間)」と解する説があります。

この但馬国の中心の豊岡平野は、古代には日本海から入り込んだ巨大な入り江(潟)で、その先端の一つは出石にまで達していました。この「たちま」は、マオリ語の「タ・チマ」、TA-TIMA(ta=the,dash,lay;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような(巨大な)地形のある(地域)」の転訛と解します>

<但馬国出石郡は、北は城崎郡、北東から南東にかけては丹後国熊野郡、中郡、天田郡、南から西にかけては朝来郡、養父郡に接していました。おおむね現出石郡出石町、但東町の地域です。『和名抄』は「伊豆志」と訓じています。

出石は『古事記』、『日本書紀』に天日槍(あめのひぼこ)が来日して定住した場所として伝承され、明神大社出石神社は但馬国一宮として、地方の崇敬を集めています。

この「いずし」は
(1)
「イツ(厳)」から「崖など嶮しい地形」の意
(2)
「イツ(稜威、美称)・シ(石、磯)」の意
とする説があります。

この「いずし」は、マオリ語の「イツ・チ」、ITU-TI(itu=side;ti=throw,cast)、「(後に豊岡平野となる潟の)脇に放り出されている(地域)」の転訛と解します。

『日本書紀』垂仁紀33月の条に天日槍の来日の記事があり、「刀」、「矛」、「鏡」などを招来したこと、近江国の鏡村に従者がいること(ここには鏡作神社があります)が記されています。

この記事からしますと天日槍は鉄、銅など金属精錬・鋳造の技術を招来したことが窺われます。この出石の近くには、とくに青銅器の製造に不可欠の銅、錫等を産出する日本有数の生野銀山、明延鉱山があり、これらの鉱山の存在が天日槍が日本各地を巡り歩いた末に、最後に出石に定住するに至った最大の理由ではなかったでしょうか>
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/