2021/11/30

日本の伝統的な民衆の神々(3)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 

4.「招福、災いの神」

ここには「七福神」、「鬼」、「年神」、「来訪神」などを含めます。

 

七福神

今日でも有名な七福神は、中国やインドの神が主体であるように、比較的近世になってからのものですが、「招福の神々」ということで民間に広く信仰されました。

 

その七人とは「恵比寿」、「大黒天」、「毘沙門天」、「福禄寿」、「寿老人」、「弁財天」、「布袋」が本来であったようですが、後に「福禄寿」と「寿老人」が同一視され、代わりに「吉祥天(きちしょうてん)」が加えられたり、あるいは「猩々(しょうじょう)」が入れられる場合もあります。有名なので全員、紹介しておきます。

 

恵比寿

 福々しい格好で、釣り竿を持って大きな鯛を抱えている姿でおなじみのものですが、この神の由来ははっきりせず、その語源も「異国人」を意味するエミシなのかとも言われていますが、よく分かっていません。

 

「幸い」をもたらす神の代表的なものとして、漁民にとっては「大漁をもたらす神」とされているのは、その「鯛を抱えた姿」からしても当然ですが、要するに「招福の神」として「商売の神」ともされ「農業の神」ともされています。

 

大黒

 この神様も、右手に打ち出の小槌を持ち、袋を背負い、俵の上に乗っている姿で有名です。この姿は、やはり「招福」の代表的な姿をしているわけですが、もともとはインドの「マハーカーラ」の日本訳で、日本訳通り「大黒」という意味のものでした。これはシバ神の化身で破壊、戦闘の神であったのですが、一方でインドの寺院の台所に祀る風習もあったらしく、これが日本に伝えられたと考えられています。

 

中国、日本と伝えられる途上で、段々「恐ろしい」形相がなくなり、柔和な「福の神」に変身させられていったとされます。時に「大国主」と同一視されることもあるようですが、それは「大国」が「ダイコク」と読めることなどが原因だったのでしょう。

 

毘沙門天

これは仏教の「四天王」の一人である「多聞天」が、独立的に扱われたものです。働きとしても「護教・護国」ということになります。

 

福禄寿、寿老人

 これは同一視されるのも当然で、共に「寿」という名を持ち、要するに「長寿」を意味しているわけです。由来としては、中国の「道教」にある思想で「長寿」を司る「南極星」の化身とされています。頭が非常に長く、あごひげも長い老人として描かれます。

 

弁財天

 もともとは「水の神」ですが、音楽と弁舌、知恵の神として信仰を集めていました。

 

布袋

 彼は中国の実在の僧侶であり、その円満な顔立ちから、ここに加えられたものです。

 

吉祥天

 元来はインドの「美や幸福、富」を司る女神で、仏教に取り入れられて後は毘沙門天の奥さんにされてしまい、「」をもたらす神とされています。

 

猩々

 これは中国の伝説上の動物で、毛深い猿のような動物ですが、人間の言葉を理解し、大酒飲みであるとされます。なぜこんなものが七福神に加えられるのかよくわかりませんが、その「酒飲み」という性格が祝い事につきものの「酒」を連想させたからかもしれません。

 

 これは通常「角」をもった異形の顔立ちでイメージされ、「節分」の行事などで「悪役」のように思われていますが、そうした「災厄」をもたらすものと同時に、東北地方の「なまはげ」のように悪を退治するものもあり、本来的には「災厄、祝福をもたらす超人的な力」ということでしょう。また、文献的には「権威に対する反抗者」という意味が強く、「侵略・征服された民の主神」であったことも多いようです。

 

 つまり「」といってもたくさんのタイプがあり、中国的には「死者の魂」であり、古代朝廷にとっては「異国、ないし不服従の民」であり、一般的には「漂白の民、素性のしれない民で、理解できない能力を持つ者」であったり、また超自然的に「祟りや災厄をもたらすもの」であり、また逆に「悪を征するもの」であったりしているのです。要するに「強大な力」なのであって、ですから「鬼小島弥太郎」などという武将の名前にも使われているわけです。

 

年神

 つまり正月に迎える神様で、新しい年をもたらす神です。

 

来訪神

 外から訪れて「幸いをもたらす」神ということで「恵比寿」などもそれに含まれるでしょうし、「鬼」のところで触れた「なまはげ」なども、そのうちに数えられるでしょう。古来、日本人には「海の彼方」より「力ある者」がやってきて「珍しいもの、特別なもの、幸い」をもたらして帰っていくという信仰があったようでした。これが日本人の奇妙な「外人崇拝」、「異国趣味」の源であるとも言われています。

 

5.自然現象の神

 これは不思議なほど少なく、せいぜい「雷の神」と「風の神」を数えるくらいです。雷は「稲妻」ともいうように「稲作」との関連があると指摘されることもありますが、これは雷が「雨」をもたらすからでしょう。

 

一方で雷は天災の最たるものの一つですから「おそれ」の対象ともなり、これが「御霊信仰」とも結びつき「天神」などとして祀られました。「風の神」も天候の兆候を与えるものとして、農業との関わりで信仰されたものと思われます。もちろん「台風」など災害を与える面も、おそれの対象としてこれを鎮める対象として祀られたのでしよう。一方、これが幸いをもたらすとも信じられていたのは「神風」という概念があったことでも知られます。

 

 以上が一般民衆の世界での「神」の姿でしたが、まとめてみると、ともかく「」を中心に、その家の繁栄・守護が「神」の仕事とされ、その「家」は「地域」に拡大され、そこまでが「神」の関わる領分とされていたことがよくわかります。

 

 そして、その家や集団を守る力として「自然的力」が見られていたことも大事です。つまり、一言で言うと「日本の神とは自然の力の表象であって、その働きは家・村・集団を守り繁栄させる」というところにあるというわけでした。

 

 つまり、「個人」の能力とか「働き」、「人生」などに関わる神というものはいないということです。ここでは、こうしたことから「神」の姿というものも「人格化」されることがほとんどなく、その働きも漠然とした領域はあるものの「何」とはっきり限定されることもなく「曖昧」で、ただ人々の繁栄・守護の願いがあるところに居るのみ、といった感じになっているということが大事なことして指摘できるでしょう。

 

 また、こうした事情からか「固有名詞としての名前」を持つことも少なく、持っていても地方的な名前にとどまってしまい「民族すべてに共通する」名前は、遂に持つことがなかったのでした。

 

習合神

 ついで、以上のような伝統的な神格、つまり「自然の表象としての神」が「仏教」と融合した、いわゆる「習合神」がおります。この多くは仏教用語で「権現」とか呼ばれます。つまり、仏教側から言わせれば「仏」が本体で、それが日本の地に現れた時「神」となるというわけでした。しかし、そんなことは一般庶民にとってはどうでもいいことで、これも理屈を離れたところで庶民のものともなっていきました。それも簡単に紹介しましょう。

 

飯綱権現

 飯縄山の修験者の信仰する権現様ですが、自然の力の表象としての「天狗」の姿をしていると言われ、白狐に乗っているとされます。ここから「狐使い」としての「飯縄使い」というものが有名になりました。一種の妖術です。

 

蔵王権現

 「山の力」を我がものにする「修験道」という一種の仙術修行独自のもので、修験道の始祖と言われ、仙術使いとして有名な「役の小角」が感得したとされて有名になっているものです。

 

宇賀神

 『古事記』などに出てくる穀物神である「うかのみたま」と「弁財天」が習合したもので、独特の天女像で描かれますが、福をもたらす神として多くの信仰をあつめました。

 

荒神(こうじん)

 本来は「荒ぶる神」ということなのですが、その力を「守護」の方面に用いようとしたもので、神格としては「仏・法・僧」の三宝を守る神とされます。これが庶民の「家」の守護にまで適用されて「かまどの神」などともされていきました。

2021/11/28

トリムールティ(三神一体) ~ インド神話(3)

三神一体またはトリムールティ(サンスクリット: त्रिमूर्तिः trimūrti"3つの形"の意)は、ブラフマーとヴィシュヌとシヴァは同一であり、これらの神は力関係の上では同等であり、単一の神聖な存在から顕現する機能を異にする3つの様相に過ぎないというヒンドゥー教の理論である。すなわち、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3柱は、宇宙の創造、維持、破壊という3つの機能が3人組という形で神格化されたものであるとする。一般的にはブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァがそれぞれ創造、維持、破壊/再生を担うとされるが、宗派によってバリエーションが存在する。

 

トリムールティはコンセプトであるが、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3神を融合した形で象徴的に偶像化されることがある。1つの首から3つの頭が伸びるデザインや、1つの頭に3つの顔を持つというバリエーションが存在し、エレファンタ石窟群のトリムールティ像が有名である。また、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3神の集合名として「トリムールティ」が用いられることもある。これら3柱の神格が、1つのアヴァターラとして顕現したものがダッタートレーヤーである。

 

歴史、背景

「ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの3柱が単一の神聖な存在から顕現する、それぞれ創造、維持、破壊という別の機能を有する3つの様相である」とするトリムールティの理論は、ヴェーダの時代以降、すなわち紀元前500年以降に定着したと考えられている。しかしブラフマン(至高の存在、宇宙の根本原理)3つの様相を持つというアイデア、神々を3つのグループに大別するというアイデア、神が全て同一であるとするアイデアなど、トリムールティ理論の要素はヒンドゥー哲学の中に古くから存在する。

 

ヤン・ホンダはリグ・ヴェーダ時代(およそ紀元前1700-1100年)、すなわちヒンドゥー教(バラモン教)の最も古い時代の最高神、火の神アグニの持つ3つの性格からトリムールティが発展したのではないかとしている。アグニはリグ・ヴェーダでは3つの体と地位を持つとされ、地上では火として、大気では雷として、空では太陽としてヴェーダの世界に存在した。

 

神々に火、大気、太陽を、そこから発展して地上、大気(または水)、天界を代表させるという考え方はヴェーダ時代(およそ紀元前1500-500年)の早い段階から存在し、例えばそれはヴェーダ初期にはアグニ、ヴァーユ(風)、アーディティヤ(Aditya太陽)であったり、アグニ、インドラ(雷)、スーリヤ(太陽)であったりと、様々な文献で別々の神々の組み合わせが見られる。後にトリムールティの3神となるブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァは、それぞれ、アグニ、スーリヤ、インドラから発展したとも考えられており、この見方をするとトリムールティの3神も地、天、大気を象徴する神々という分類ができる。

 

マイトリー・ウパニシャッド

マイトリー・ウパニシャッド(紀元前10世紀の後半)にはトリムールティの3神が1組として触れられており、トリムールティの起原としてしばしば言及される。例えば4章の5節では、何について瞑想するのが一番良いかという議論が展開される。瞑想する対象として上がるのが、アグニ(火)、ヴァーユ(大気)、アーディティヤ(日)、カーラ(時間)、プラーナ(呼吸、あるいは活力)、アンナ(食べ物)、そしてブラフマー、ヴィシュヌ、ルドラの9つである。

 

ヤン・ホンダによれば、アグニ、ヴァーユ、アーディティヤはヴェーダ時代初期の主要な3柱であり、それぞれ地上、大気、天界を代表する。次の時間、活力、食べ物はブラフマンの、中でも早い段階の顕現ではないかという議論を、ウパニシャッド期の初期に見ることができる。この並びを考慮すると、マイトリー・ウパニシャッドの著者はブラフマー、ヴィシュヌ、ルドラ(すなわちシヴァ)に相互補完関係を見ていたようにも読み取れ、この視点はトリムールティ理論にも含まれている。

 

また、クツァーヤナ賛歌(Kutsayana)と呼ばれる51節でも、これら3神が触れられ、その後の52節で説明が展開されている。汎神論をテーマとするクツァーヤナ賛歌は人の魂をブラフマンであると主張し、その絶対的現実、普遍の神は生きとし生けるすべての存在の中に宿るとしている。アートマン(魂、我)は、ブラフマーをはじめとするブラフマンの様々な顕現であることと同等であると展開する。いわく、「汝はブラフマーである。汝はヴィシュヌである。汝はルドラ(シヴァ)である、汝はアグニ、ヴァルナ、ヴァーユ、インドラであり、汝は全てである」。

 

マイトリー・ウパニシャッドの52節ではブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァはそれぞれが3つのグナと関連づけられている。グナとはすべての生物に見いだすことのできる性質、精神、生来の傾向であるとされ、世界は翳質(タマス)から生じたと語られている。その後、世界はそれ自体の作用により活動し激質(ラジャス)となり、そして精錬、純化され純質(サットヴァ)となった。これら3つのグナのうち、ブラフマーはラジャス(激質)、ヴィシュヌはサットヴァ(純質)、ルドラ(シヴァの前身)はタマス(翳質)をそれぞれ受け持っている。ただし、マイトリー・ウパニシャッドは3柱をトリグナ理論のそれぞれの要素に当てはめてはいるものの、トリムールティの3柱が持つとされている3つの役割については言及していない。

 

梵我一如理論の登場

ヒンドゥー教は、その後ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(紀元前およそ700年)の頃から、重視される神を徐々に減らしていく。ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドでは、哲人ヤージュニャヴァルキヤが「存在するのは単一のブラフマンのみである」という梵我一如の理論を展開している。このヒンドゥー教における一元論(不二一元論)的な思想の発現が、トリムールティの形成に少なからず影響を及ぼしたと考えられている。

 

トリムールティ理論の発現

トリムールティ理論は、オリジナルのマハーバーラタ(紀元前4世紀)には登場しないと一般的には考えられている。つまりマハーバーラタの著者は、トリムールティ理論を意識していなかったように思われる。しかし後に編集されたマハーバーラタの付録には、トリムールティ理論を感じされる文言が含まれている。

 

至高の魂は、3つの様相を持つ。ブラフマーの姿は世界を創造する者であり、ヴィシュヌの姿は世界を維持する者であり、ルドラの姿は世界を破壊する者である。

3つの様相を持つブラジャーパティは、トリムールティである。

—マハーバーラタ 3.272.47 および 3.270.47

 

加えて、間違いなくトリムールティの理論を意識して書かれたと考えられている記述は、マハーバーラタの補遺とされるハリヴァンシャ(紀元前1-2世紀)に見つけられる。

 

ヴィシュヌとされる者はルドラである。ルドラとされる者はピタマハー(ブラフマー)である。本質は1つ、神は3つ、ルドラ、ヴィシュヌ、ピタマハーである。

—ハリヴァンシャ 10662

 

ヴァーユプラーナ(シヴァ派、300-500年。プラーナとしては最古の物)は、517節でトリムールティに触れている。ヤン・ホンダは、ブラフマンの3つの顕現という考えがしっかりとした教義になったのは、これが初めてではないかとしている。

 

プラーナ文献に見られるトリムールティ

ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァをひとつの存在として同一視するというアイデアは、クールマ・プラーナ(8世紀頃)にて大いに強調されている。1章の6節では、ブラフマンはトリムールティであるとして崇められる。特に1章の9節では3柱の神の統合を、126節でも同じ主題を繰り返し語っている。

出典 Wikipedia

2021/11/23

民族移動時代(2)

東ゴート王国

東ゴート族は、アッティラによる圧迫から逃れる形でバルカン半島北部へと移住を開始し、傭兵として東ローマ帝国内に居住するようになっていた。東ローマ帝国で軍司令官と執政官を歴任した東ゴート王テオドリックは、東ローマ皇帝ゼノンの命令でイタリアに侵攻し、ゼノンと対立していたイタリア領主のオドアケルを討伐した。その功績として、テオドリックには493年にローマ皇帝アナスタシウス1世よりイタリア王位が認められ、イタリアの地に東ゴート族の王国(東ゴート王国)が誕生した。しかし、後に東ゴート王国は東ローマ帝国と対立し、皇帝ユスティニアヌス1世の派遣した軍団によって滅ぼされた。

 

東ゴート族

東ゴート族(Ostrogoths)は、ゲルマン人の一派。

 

歴史

東ゴート族は、150年ごろから黒海北岸に定住していたゴート族の一派である。220年ごろ、2つに分かれて活動し始める[要出典]。ドニエプル川の東側に住んだグループが、砂の多い平野に住んだことから、グルトゥンギ・アウストロゴティ (Grutungi Austrogoti)と呼ばれるようになったが、やがて「グルトゥンギ」の部分が無くなり、「Austrogoti」が「Ostgote」すなわち「東ゴート」に変化して、東ゴート族と呼ばれるようになった。なお、もう一方のグループはドナウ川中流域に定住し、西ゴート族と呼ばれるようになった[要出典]

 

360年、西へ移動するフン族と接触し始める[要出典]372年、そのフン族により、攻撃を受け[要出典]375年にフン族によって征服される。生き残りの一部は、フン族とともに行動した。また一部はヴァンダル族とともにローマ帝国に保護を求め、パンノニアに移住したが、このときローマ人から屈辱を受ける[要出典]5世紀末にフン族の衰退により、東ゴート族の王テオドリックが部族を率いてイタリアに入り、493年に東ゴート王国を建国した。

 

後に東ローマ帝国と対立し、一時はローマを占領するなどイタリアの大半を制圧するが[要出典]、皇帝ユスティニアヌス1世の派遣した将軍ベリサリウスに敗れ、その更迭後に東ローマ軍を率いた宰相ナルセスによって滅ぼされた。

 

フランク王国とブルグント王国、ランゴバルド王国

フランク人の名前は、3世紀半ばに初めて史料に登場する。その勇猛が買われ、当初は西ローマ帝国の傭兵として活躍していたが、4世紀にはメロバウドゥスやフラウィウス・バウトらのように西ローマ帝国において執政官に就任する者も現れ、次第に東西両帝国の政界において強い影響力を持つようになった。

 

5世紀にはガリアにおいてブルグント王国、ランゴバルド王国を滅ぼして勢力を広げた。508年にはフランク王クロヴィス1世がローマ皇帝アナスタシウス1世より西ローマ帝国の名誉執政官に任命され、800年にはフランク王カールがローマ教皇レオ3世からローマ皇帝としての帝冠を授けられた。

 

フランク王国(ラテン語: Regnum Francorum, ドイツ語: Fränkisches Reich,フランス語: Royaumes francs)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。カール1世(カール大帝・シャルルマーニュとも)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランス・ドイツ・イタリア北部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」、「カロリング帝国」などとも呼ばれる。

 

この王国はキリスト教を受容し、その国家運営は教会の聖職者たちが多くを担った。また、歴代の王はローマ・カトリック教会と密接な関係を構築し、即位の際には教皇によって聖別された。これらのことから、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。

 

フランク王国は、メロヴィング朝とカロリング朝という2つの王朝によって統治された。その領土は、成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域(分王国)に分裂しており、統一されている期間はむしろ例外であった。ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世とも)の死後の843年に結ばれたヴェルダン条約による分割が最後の分割となり、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。その後、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクはイタリア王国を形成した。

 

このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において中世ヨーロッパ社会の原型を構築した。

 

ブルグント王国は、ローヌ川流域を領土として存在した王国。現在のフランス、スイスにまたがっており、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、及びスイスのフランス語圏とおおよそ一致する。9世紀末からは プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュールも領域に含んだ。

 

名称

ブルグント」はフランス語では「ブルゴーニュ」であり、ブルグント王国が滅亡した後も、ブルグント王国があった地はブルゴーニュと呼ばれ続けた。ブルゴーニュ公やブルゴーニュ伯、ポルトガル王国のブルゴーニュ朝やカスティーリャ王国のブルゴーニュ朝はブルグント王国とは別のものであるが、地名としてのブルゴーニュに由来している。

 

歴史

411年、ブルグント族の王グンダハールはローマ帝国のガリアに侵入した。ブルグント族は、西ローマ皇帝ホノリウスに休戦協定の一部としてローヌ川流域の土地を与えられ、フォエデラティ(foederati、ローマ帝国の同盟者)の地位を得た。しかしブルグント王国はフォエデラティであるにも構わず、ローマ帝国領のガリア・ベルギカ北部地域を襲撃した。反撃を受けたブルグント王国は、ローマ帝国の将軍アエティウス(Aëtius)が呼び入れたフン族の傭兵によって437年に一旦滅ぼされた。

 

443年、ブルグント族は西ローマ皇帝により、再びフォエデラティの地位を与えられた。451年、ブルグント族はカタラウヌムの戦い(別名:タルーニャ平原の戦い)でローマ帝国と共にフン族と闘った。また西ローマ皇帝グリケリウスを擁立するなどして、ローマ帝国の政治に介入した。ローマ帝国との繋がりを深めていったブルグント王国であったが、五世紀末に西ローマ皇帝位は廃絶した。ガリア北部に残っていたローマ帝国領ソワソン管区も486年にはメロヴィング朝フランク王国に滅ぼされ、534年にブルグント王国もまた北から攻めてきたフランク王国によって滅ぼされた。

 

ランゴバルド王国(羅: Regnum Langobardorum、伊: Regno longobardo、独: Langbardland、英: Kingdom of the Lombards)は、中世イタリアに568年あるいは569年に建国されたゲルマン系のランゴバルド族による王国である。イタリア語からの音訳でロンゴバルド王国ともいう。首都はパヴィアに置かれ、774年にカール大帝によって実質的に滅ぼされた。

 

王国は2つの主要な部分からなっており、イタリア半島の北部から中部に存在したより重要な北部(その西側をネウストリア、東側をアウストラシアという)と、イタリア南部のベネヴェント・スポレート両公国によって形成されていた。王国の2世紀にわたる歴史において、両地域は安定して統治されたわけではない。王国を形成していた諸公の権力は強く、王権が強大なときも勢力を蓄え、諸公の力を抑制する努力は全く実らなかった。

 

ランゴバルド的な個性は徐々に消えていき、イタリア王国へと発展した。ランゴバルド人は徐々にローマ帝国の役職名や固有人名、伝統を受け入れていき、7世紀には一部がキリスト教に改宗したが、宗教的民族的対立は解消されずに長く続いた。パウルス・ディアコヌスが著述活動をしていた8世紀までには、ランゴバルド族の言葉は失われ、固有の装束様式や髪型は消滅していた。ランゴバルド族の文化水準は低く、影響は文化的には大したことはなかったが、政治的には以後長く続くイタリアの分裂の端緒となった。

 

王国の支配領域であるポー川流域一帯はランゴバルド人の土地と言う意味で、現在のロンバルディア州の語源になった。ランゴバルドとは「長い髭」 (longa barba) を意味しているとの説がある。

出典 Wikipedia

2021/11/21

日本の伝統的な民衆の神々(2)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 

.「家に関わる神」

ここには「家の神」、「かまど神」、「子安神」、「屋敷神」、「火の神」などを含めたいと思います。

 

家の神

 一般に「家を守り、福をもたらす神」ということですが、家の神としての実体性を持ったものとは言えず、「神棚に祀られる神」からはじめて「かまど神」や「屋敷神」「納戸神」から「便所神」まで含めて、要するに「家に関わる神」の総称のような性格を持っていると言った方がいいでしょう。

 

ただし、東北地方の「おしらさま」というのは比較的はっきりしていて、一般に神体を桑や竹の木で作り、旧家の床の間や神棚に祀られることが多いです。これは一軒だけで祀られるとは限らず、同族的一族や地縁的集団で祀られることが多いようです。この「おしらさま」を粗末にすると「家に祟って」どこかへいってしまうとされています。こんなのが、家の神の典型でしょう。

 

かまど神

 この「かまど神」の由来は、相当古いようです。それは当然「かまど」は「食事」を意味しており、食事の供給を司るとされたからでしよう。「かまど」の神であるので、しばしば「火の神」ともされますが、この場合は「かまどの火」であって、後で見る「火事」に関わる「火の神」とは異なりますので、やはり「かまどの神」としておいた方がいいでしょう。

 

しかし東北地方では「かまおとこ」と呼ばれる一方で「ひおとこ」とも呼ばれ、これが「ひょっとこ」の語源だろうと言われており、あの、横に口をすぼめてつきだしている顔つきは「火をおこしている」顔つきであると言われています。この「かまど神」も「家の神」とされるのは「かまど」が家の中心であるからでしょう。

 

子安神

 これは「子供の授かり」、「安産」、「養育」に関わる神で、後に仏教と習合して「子安地蔵」とか「子安観音」とかになって、民間の信仰を集めていました。神社としても「子安神社」というのがあり、『古事記』での「このはなさくやひめ」の故事から、彼女が「祭神」とされたり「神功皇后」が祭神とされたりしています。

 

屋敷神

 これは「家の神」とも似ていますが「家の神」が家の内部に視点があるのに対し、こちらは「屋敷全体」といった雰囲気です。従って祀られるのも屋敷の片隅の祠ということになります。屋敷というのは、単なる「家」ではなく一族の由来ということですので、本来は一族全体のものであったのでしょうが、そのうち「本家」のものとなり、やがては分家を含め「各家」のものとなっていったようでした。

 

火の神

 火を統御する「火伏せを司る神」です。これは後に『古事記』の「火之迦具土神」を祭る神社としての「秋葉神社」と「愛宕神社」に融合されて、町中に小さな祠となって祭られているのをしばしば観察できます。文字通り「火事」を避けるためのものです。

 

.「産業、経済、生活に関わる神」

ここには「山の神」、「田の神」、「水の神」、「海の神」、「市の神」などを含めます。

 

山の神

 これは「農業の民」と「山の民」とでは、その見方が違いますが、農民にとっては山から「水」をもたらし、「田」に降りて「田の神」となるという「一つの自然力」の具体的場面での別の呼び名になります。

 

 一方「山の民」にとっては「山の神」は「山の」神であって、それが「田の神」になるなどということはありません。「山の民」にとっての「山の神」というのは「山の獲物」をもたらしてくれる神であり、また「山の中での仕事・生活を守って」くれることが期待されている神です。山は厳しい世界ですから、この神にまつわるタブーというものも厳しいものがありました。また山の神は醜く、自分より醜いものを見せられると喜ぶということで「オコゼ」が捧げられるというのは有名です。

 

田の神

 農民にとって大事な神であることはいうまでもなく、上に示したように、「山の神」が降りてきて「田の神」になるとされていました。したがって「春」と「秋」とがその祭りとなり、一年のサイクルが形成されていました。

 

水の神

 水に関わることを司る神ということで、農民にとっては「田んぼの水」に関わり、用水や水田の傍らで祀られることが多いようですが、殆ど「田の神」と合体してしまうことも多いようです。一方、この水は山から来るために「山の神」とも結びつき、さらには「水を配る神」としての「水分神(みくまり)」と合体していることもあります。

 

 この「水分神」は、水源地や分水嶺に祀られます。日常的には井戸や水くみ場、泉,池、湖などに祀られています。一般に「水神」は「蛇」の姿にイメージされていて、これがさらに中国の「竜」と結びついて「龍神」となり、「池や泉にまつわる龍神の話し」として民話・伝承に多く現れてきます。

 

海の神

 「海の安全」、「航海」、「漁業」の神ということですが、ここも「龍神」と殆ど合体しているようです。「海の神」ということでは四国の「金比羅(こんぴら)様」が有名ですが、ここも蛇の姿にイメージされているようです。後には「恵比寿(えびす)」も海の幸のシンボルとして祀られるようになりました。また「船霊(ふなだま)」信仰というものもあり、この神は女の神様であって、したがって漁船などに女性は乗せない風習があったようです。つまり、この神様が「やきもち」をやくからということでしょう。ご神体としては「女性の毛髪」、「賽二つ」、「男女一対の人形」、「銭十二文」、「五穀」などがまつられます。

 

市の神

 一般には交易が盛んになってからの神であるらしく、「幸」をもたらすものとしての「恵比寿」や「大黒」が、それとされることが多いようです。しかし、ご神体として古くから「丸い自然石」が持ち歩かれていたようで、それが「市」の立つ村境や四つ辻などに置かれる習慣もあったようでした。

2021/11/14

民族移動時代(1)

民族移動時代(英語: Great Barbarian Invasion)は、西暦300年から700年代にかけて、ヨーロッパで起こった人類の移住の時代のことである。この移住が古代を終わらせ、中世が始まったと考えてもよい。

 

この移住はゲルマン系及びスラブ系の移住、更に東方系の諸民族の侵略を主体としている。これは中央アジアでのテュルク系民族の移動や、人口爆発、気候変動、疫病の蔓延、高齢化人口の増大などが要因とされる。

 

ゲルマン系民族の移動

本節では古代後期から中世初頭にかけて西ローマ帝国の領域内に居住するようになっていったゲルマン系の移動について記す。(参考:ゴート族、ブルグント族、ランゴバルド人、アングロ・サクソン人、ジュート人)。

 

最初にローマ帝国の領域に侵入したのは西ゴート族であり、続いて侵入したのが東ゴート族である。彼らはいずれも東方民族であるフン族からの略奪・虐殺を受け、逃げ延びる形で東ローマ帝国の領内に殺到し、傭兵として東ローマ帝国内で一定の地位を築いた。それに続く形でブルグント族がフランス北部に、ランゴバルドがイタリアに、アングロ・サクソン人とジュート人がブリタニアに、アレマン人(ケルト系と深く混血していた)が南西ドイツに侵入していった。

 

そして最終的にフランク人というケルト系やスラブ系・ラテン系の民族とゲルマン諸族が連合したグループが西ヨーロッパを担うようになっていく。ゴート人など初期に移動を開始した東側のゲルマン人は圧倒的多数派であったローマ人に同化したが、後発のフランク人はローマ化しつつも一定の影響力を維持し、ドイツ、イギリスなどの国家の根幹を築いた。

 

またゲルマン系の故郷とされる北欧の人々はヴァイキングとして盛んに活動して各地に血統を残している。

 

ゲルマン民族の大移動

375年、フン族に押されてゲルマン人の一派であるゴート族が南下し、ローマ帝国領を脅かしたことが大移動の始まりとされる。その後、多数のゲルマニア出身の民族が南下をくり返し、ローマ帝国領に侵入した。移動は侵略的であったり平和的に行われたりしたが、原因として他民族の圧迫や気候変動、それらに伴う経済構造の変化があげられている。

 

この後、すぐに西ローマ帝国において西ローマ皇帝による支配体制が崩壊したため、西方正帝廃止と民族大移動との関連性が考えられる。フン族の侵攻を食い止めたのが、ローマの支配を受け入れて傭兵となっていたゲルマン人であったように、帝政末期の西ローマ帝国が実質的にはゲルマン系将軍によって支えられていた実情や、西ローマ帝国のローマ人がギリシャ人(東ローマ帝国)の支配から逃れるために、ゲルマン人の力を借りて西方正帝を廃止した事情なども考慮すると、今日におけるヨーロッパ世界の成立における意義は大きいと思われる。

 

また、最近の研究では、正帝廃止後の西欧における西ローマ帝国の連続性が注目されている。西ローマ帝国に発生したゲルマン王国の住人や王宮高官は、そのほとんどが皇帝統治時代からのローマ系住人のままであり、例外的にゲルマン化が進んだとされるフランク王国においてすら、住民の8割はローマ人であった。フランク王国において、宮廷人事に占めるローマ人の割合が半数を下回るようになるのは、8世紀末のカール大帝の時代になってからのことである。

 

ゴート人などの東側のゲルマン人は、ローマ人などに同化されたが、後発の西側のゲルマン人はローマ化しつつも一定の影響力を維持し、ドイツ、イギリスなどの国家の根幹を築いた。なお北方系ゲルマン人(ノルマン人ないしヴァイキング)は大移動時代には、デーン人がユトランド半島まで進出した程度である。

 

この後も、ヨーロッパにはスラヴ人やマジャール人(ハンガリー人)といった民族が押し寄せ、現在のヨーロッパの諸民族が形成されていくことになる。

 

西ゴート王国

元々、西ゴート族はドニエプル川両岸に居住していたが、アッティラによる圧迫によりバルカン半島北部への移住が始まり、傭兵として東ローマ帝国内に居住するようになっていた。しかし5世紀初頭、東ローマ帝国で軍司令官に任じられていた西ゴート族の指導者アラリック1世は、給金の支払いについて帝国と対立して東ローマ帝国から離反、西ローマ皇帝ホノリウスの暴政に苦しむ非イタリア系住民からの要請を受けて、イタリア半島へと侵入を開始した。

 

時の西ローマ皇帝ホノリウスは、西ゴート族によるローマ略奪の報を受けてもラヴェンナへこもりきりであった。418年にはローマ帝国との契約により西ローマ帝国への定住が認められ、トゥールーズを中心として西ゴート族の王国(西ゴート王国)が発生した。

 

5世紀中ごろには、西ローマ帝国の実権を西ゴート族の指導者が握り、ローマ帝国の名の下でガリアとヒスパニアでの勢力を伸ばした。しかしガリアはフランク族との抗争で6世紀初頭には王国の領域から外れ、王国の重心はイベリア半島に移らざるを得なくなった。その後も、イベリア半島を中心に支配が続いたが、711年に、ウマイヤ朝の攻撃を受け、滅亡。イベリア半島は、その後、レコンキスタの舞台となる。

 

西ゴート族

西ゴート族(Visigoth)は、ゲルマン人の一派である。ゴート族が歴史上は、270年頃から、この西ゴート族と東ゴート族に分かれる。

 

スカンディナヴィア半島から南下したゴート族は、ドネブル川の両岸に分かれて居住した。その西側、カルパチア山麓に居を構えた人々は「森の住人」を意味するテルヴィンゲン (Terwingen)と呼ばれたが、やがて「善良な」を意味するゴート語の接頭語「wesu」をつけて呼ばれるようになり、後に西ゴート族と呼ばれるようになった。彼らは他のゴート族から離れて西の方角に移動していたものの、彼らの名称は本来は方角とは無関係である。

 

西ゴート族が住んだその地域は、土地が痩せていて定住に適さなかったため、比較的早い時期からローマ帝国領内に、主に傭兵として移り住んだ。ローマ東部の皇帝ヴァレンス帝やテオドシウス1世はゴート族に寛容で、帝国領内への彼らの移住を認めた。

 

西ゴート族の移動

375年にフン族の圧迫により、大規模な移住が始まる。アリウス派キリスト教を受け入れたのも、このころと見られている。5世紀初頭に新たな指導者となったアラリック1世(アラリコ1世)は、一族を引き連れてイタリア半島に侵入したが、説得に応じガリアへと撤退した。418年にはローマ帝国との契約のもとに、プロヴァンス地方を経由して、南アキタニアのトロサ(トゥールーズ)を中心に西ゴート王国を建て、フン族やイベリア半島に侵入していた他のゲルマン諸族と戦った。5世紀半ばには一時的に西ゴート王が実質的に西ローマ帝国を統治したこともあった。また時としてローマ帝国との同盟を破り争うこともあった。

 

その後の西ゴート族は、イベリア半島にいたイベリア人とケルト人とラテン人およびムーア人と混血して、今日のスペイン人およびポルトガル人の先祖の一派として同化していった。

出典Wikipedia

2021/11/12

日本の伝統的な民衆の神々(1)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/


日本の神々

 日本の伝統的な民衆レベルの神々は殆ど意識されない、ということを前章で触れておきましたが、しかし、それでもちゃんと存在しているのです。ただ、この神々は「自分の名前と姿をきちんと覚えておけ」とは言わない神々なのです。自然の中に隠れて私達を見ている神々です。何かあると「何かに宿り」現われてくる神であり、「神社」などに鎮座している神々とは違います。神社にいるのは『古事記』に登場する「朝廷の神々」となります(ただし、両者が融合している場合もあります)

 

そこでこの章では、そうした日本の民衆の神様たちを整理することにします。この神様たちの多くは「固有名」を持っておらず、持っている場合は「地域の呼び名」となります。一般的な名前を持っており、そして「神社」に祭られている神々は『古事記(及び日本書紀)』に登場してくる神々として、次ぎの章で扱います。

 

1.地域、土地に関わる神

 ここには「氏神」、「産土神」、「鎮守神」、「境の神」、「土地神」、「道祖神」を入れておきたいとおもいます。それぞれを簡単に紹介しておきましょう。なお、この表記は「一般名称」であって、実際には各地方で様々な呼ばれ方がしています。そのとき「固有名」を持っている場合もありますが、ここでは特殊命名としてとりあげません。

 

 また、この民衆の神も「朝廷の神」と融合したり、仏教と習合したり、また自身でも歴史的流れに変化していったりで、決して一律な姿を示してきません。さらには地方的な違いというのも非常に大きく、またさらにどの「神格」もギリシャの神々のように「こんな形姿」として示すことは非常に難しいと言えます。実際、こんな「曖昧で不明確な神」など世界的にも珍しいといえます。

 

氏神

 元々は、その名前が示しているように「氏族」の祖先神、ないし守護神ということでしょう。しかし、武士階級が「荘園」を所持拡大していく過程で、その土地の「土地神」を「氏神」としていったようで、したがってもとは「血縁関係」の神であったものが「地縁関係」に拡大されたようです。こうして、さらに「土地の神」である「産土神」と氏神が融合してしまいました。

 

一方、元々はある特定の領域を守護するものであったらしい「鎮守神」が、この荘園の守護神とされていくことで、氏神は「鎮守神」とも融合してしまいました。こんなわけで、この三者は区別がなされなくなっていきました。しかし時には、この氏神は「家、屋敷に限定」される場合もあり、また文字通り「同族氏族の神」と限定されたり、あるいは氏族を離れ「村全体」の神とされ、村人全員が「氏子」とされて「祭り」の担い手とされたりしています。

 

現在、一般には文字通り「氏族の神」というタイプか、「氏子」と合わせて「村・地域の神」として理解されていることが多いようです。

 

産土神

 「うぶすなかみ」といいますが「うぶ」に「」という字があてられているように、本来「生む」あるいは「生産」の神として「土地の生産神」という性格をもっていたようですが、同時に「出産」の神でもあったようです。しかし、上に示したいきさつから「氏神」や「鎮守神」と融合していきました。

 

鎮守神

 由来的には比較的新しく、中国の「寺院の守護神」が由来か、とも考えられているものですが、働きとしてはそのように「一定の寺院、あるいはここから一定の領域、さらには王城、荘園」などの守護神としての働きをもっていました。奈良の「興福寺」の「春日明神」などが、これにあたります。しかし、「氏神」のところで示した理由によって三者が合体し、ようするに「その地域に住む村人および村の守護」ということになっていきます。村々にある「鎮守様」というのがこれです。

 

境の神

 これは朝鮮由来かと考えられていますが、稲作と同時と考えられ古い由来を持っています。今でも朝鮮の村に観察されるといいますが、日本のものも形態はこれと同類とされています。働きとしては「村」に仇為すものが進入しないように立てるバリアーのような働きをします。

 

一方、『日本書紀』に「いざなぎ」が黄泉の国から逃げ帰った時「ここから先にはくるな」と言って投げつけた「杖」から「ふなと(くなと)」の神が生じたとされ、この神が「ふなと神」として村の境や岐路、坂、峠などに祀られたとされ、この二者が融合しているようです。

 

さらに、仏教の一般人への浸透に伴い「地蔵信仰」が盛んとなって、この地蔵が境の神と重なってきまして、これも少々複雑です。他方で、これは本来「道」に関わるものであったと考えられる、次の「道祖神」との区別も曖昧になってしまいました。

 

道祖神

 働きとしては「境の神」と殆ど同じで区別するのが困難ですが、一般には「道祖神」の名前の方が有名で、働きとしても「道」に関わること全体が司られると考えられているようです。そのため『古事記』での「天孫降臨」の際「道」を照らしていた「猿田彦」が祀られたり、後には仏教での輪廻転生の論における「六道」の守りとしての地蔵が祀られたりしました。

 

また、この道祖神の祭りでは、小正月に村境や四つ辻で門松や正月飾りを燃やして、その火で餅や団子を焼いて食うと病気にならないなどといった祭りがみられ、これは「左義長」と合体などしていきます。こんな具合に、この神も明確さを持っていません。

 

土地神

 その土地を守護する神のことで「地主神」、「地の神」ということです。その土地に何かを創設したり開墾するさい「許可」をもらったりするわけで、今日でも家を建てたりする際に儀式をとりおこなっているのを目にします。

2021/11/10

乳海攪拌 ~ インド神話(2)

 乳海攪拌は、ヒンドゥー教における天地創造神話。  

乳海攪拌の物語は『マハーバーラタ』115-17(乳海攪拌)、『バーガヴァタ・プラーナ』、『ヴィシュヌ・プラーナ』、『ラーマーヤナ』などで語られている。

 

偉大なリシ(賢者)ドゥルヴァーサスは、非常に短気で怒りっぽく、礼を失した者にしばしば呪いをかけたが、丁寧に接する者には親切であった。

 

ある時、人間の王たちが彼から助言を受けるべく地上に招き、美しい花で造った首輪をかけて手厚くもてなしたところ、ドゥルヴァーサスはとても喜び、王と王国を祝福した。

 

その後、彼はこの美しい花輪を与えるべくインドラを訪ね、その首にかけて祝福した。インドラたちは彼を丁寧にもてなし、滞りなく送り出した。

 

その直後、インドラが乗る象が花輪に興味を示したため、何気なく与えた。象が花輪を放り出すところをドゥルヴァーサスが見て激怒し、インドラたち神々に呪いをかけ、神々や三界が享受してきた幸運を奪ってしまった。

 

三界の繁栄は陰り、植物は枯れ、人間の世界は堕落し、神々は力を失った。この機をとらえてアスラ(阿修羅)が天へ侵攻してきたが、超常の力を失った神々はなすすべがなかった。

 

インドラはシヴァ、ブラフマーに助けを求めたが、ドゥルヴァーサの呪いは彼らにも解けず、彼らはヴィシュヌを訪ねた。ヴィシュヌは、不老不死の霊薬「アムリタ」を飲めば良いと言う。そこでアムリタを作り出すため、乳海攪拌を実行することにした。これは神々だけでは不可能な作業であり、アスラの協力も必要だったため、神々はアスラと和睦した。アムリタを分け合うことを条件に、アスラは協力に応じた。

 

ヴィシュヌは、多種多様の植物や種を乳海 (Kīra Sāgara) に入れた。続いて、化身巨大亀クールマとなって海に入り、その背に大マンダラ山を乗せた。山に竜王ヴァースキを絡ませて、神々はヴァースキの尾を、アスラはヴァースキの頭を持ち、互いに引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜられた。

 

海に棲む生物はことごとく磨り潰され、大マンダラ山の木々は燃え上がって山に住む動物たちが死んだ。火を消すべくインドラが山に水をかけたことで、樹木や薬草のエキスが海に流れ込んだ。ヴァースキが苦しんで、口からハラーハラという毒を吐いたが、シヴァがその毒を飲み干したため事なきを得、シヴァの喉は毒によって青く変色した。

 

1000年間攪拌が続き、乳海からは様々なものが生じた。太陽、月、白い象アイラーヴァタ、馬ウッチャイヒシュラヴァス、牛スラビー(カーマデーヌ)、宝石カウストゥバ、願いを叶える樹カルパヴリクシャ、聖樹パーリジャータ (Pârijâta)、アプサラスたち、酒の女神ヴァルニー、ヴィシュヌの神妃である女神ラクシュミーらが次々と生まれた。

 

最後に、ようやく天界の医神ダヌヴァンタリが、アムリタの入った壺を持って現れた。アスラはアムリタを要求し、神々との争いになった。アスラは一度はアムリタを手にしたが、機転を利かせたヴィシュヌ神が美女に変身して誘惑し、心を奪われたアスラたちはアムリタを美女に手渡した。その結果、アムリタは神々のものとなった。

 

神々がアムリタを飲む際、ラーフというアスラがこっそり口にした。それを太陽神スーリヤと月神チャンドラがヴィシュヌ神に伝えたので、ヴィシュヌは円盤(チャクラム)でラーフの首を切断した。ラーフは首から上だけが不死となり、頭は告げ口したスーリヤとチャンドラを恨み、追いかけて食べようと飲み込むが体がないため、すぐに外に出てしまう(日食・月食の起源)

 

ラーフは、その体ケートゥとともに、凶兆を告げる星となった。その後、アスラは神々を激しく攻撃してきた。神々の側で戦うヴィシュヌ神が心に日輪のごとき武器を思い描くと、天からスダルシャナというチャクラムが現れた。ヴィシュヌ神や神々はアスラに勝利し、アムリタを無事持ち帰った。
出典 Wikipedia

2021/11/05

ヤマト王権(8)

巨大古墳の時代(古墳時代中期前半)

4世紀末から5世紀全体を通じて、古墳時代の時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具も現れて短甲や冑など騎馬戦用の武具も増える。こうした騎馬技術や武具・道具は、上述した4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争において、騎馬軍団との戦闘を通じて齎されたものと考えられる。かつては、このような副葬品の変化を過大に評価して、騎馬民族が日本列島の農耕民を征服して「大和朝廷」を立てたとする「騎馬民族征服王朝説」が盛んに唱えられた時期があった。

 

確かに、ヤマトを起源とされる前方後円墳が、5世紀以前の朝鮮半島では見つかっているものの、江上波夫の説のように騎馬技術や武具・道具が倭国に急速に流入し政権が変貌したという証拠は乏しい。その間、日本においては首長墓・王墓の型式は3世紀以来、変わらず連綿として前方後円墳がつくられるなど、前期古墳と中期古墳の間には江上の指摘した断絶性よりも、むしろ強い連続性が認められることから、この説は現在では以前ほどの支持を得られなくなっている。

 

中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。とくに5世紀前半に河内平野(大阪平野南部)に誉田山古墳(伝応神陵、墳丘長420メートル)や大山古墳(伝仁徳陵、墳丘長525メートル)は、いずれも秦の始皇帝陵とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権の権力や権威の大きさをよくあらわしている。

 

また、このことはヤマト王権の中枢が奈良盆地から河内平野に移ったことも意味しているが、水系に着目する白石太一郎は、大和・柳本古墳群(奈良盆地南東部)、佐紀盾列古墳群(奈良盆地北部)、馬見古墳群(奈良盆地南西部)、古市古墳群(河内平野)、百舌鳥古墳群(河内平野)など、4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら大和川流域に分布することから、古墳時代を通じて畿内支配者層の大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主権の移動を示すものとしている。

 

井上光貞も、河内の王は入り婿の形で、それ以前のヤマトの王家と繋がっていることをかつて指摘したことがあり、少なくとも他者が簡単に取って替わることのできない権威を確立していたことがうかがわれる。

 

一方、4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説、すなわち「王朝交替説」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀の天皇和風諡号の検討から、4世紀(古墳時代前期)の王朝を三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し、5世紀(古墳時代中期)の河内の勢力は河内王朝(「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる。この学説は水野祐によって唱えられ、井上光貞の応神新王朝論、上田正昭の河内王朝論などとして展開し、直木孝次郎、岡田精司らに引き継がれた。

 

しかし、この王朝交替説に対しても、いくつかの立場から批判が出されているのが現状である。その代表的なものに「地域国家論」がある。また、4世紀後半から5世紀にかけて、大和の勢力と河内の勢力は一体化しており、両者は「大和・河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため、王朝交替はなかったとするのが和田萃である。大和川流域間の移動を重視する白石太一郎も同様の見解に立つ。

 

造山古墳

5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、日向、筑紫、吉備、毛野、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられた。なかでも岡山市の造山古墳(墳丘長360メートル)は、墳丘長で日本第4位の大古墳であり、後の吉備氏へ繋がるような吉備の大豪族が大きな力を持ち、鉄製の道具も駆使してヤマト政権の連合において重要な位置を占めていたことがうかがわれる。このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力を伸ばしていたと考えられる。

 

先述した「地域国家論」とは、5世紀前半においては吉備・筑紫・毛野・出雲など各地にかなりの規模の地域国家があり、そのような国家の1つとして当然畿内にも地域国家「ヤマト」があって並立ないし連合の関係にあり、その競合の中から統一国家が生まれてくるという考えである。このような論に立つ研究者には、佐々木健一らがいる。しかし、そうした地域においては、国家として想定される政治機構、徴税機構、軍事・裁判機構が存在していた証明がなされておらず、巨大古墳だけで地域国家論を唱えることは論理の飛躍であるとの反論もある。

 

5世紀初めはまた、渡来人(帰化人)の第一波のあった時期であり、『日本書紀』・『古事記』には、王仁、阿知使主、弓月君(東漢氏や秦氏の祖にあたる)が応神朝に帰化したと伝えている。須恵器の使用が始まるのもこのころのことであり、渡来人が齎した技術と考えられている。

 

5世紀に入って、再び倭国が中国の史書に現れた。そこには、5世紀初めから約1世紀にわたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王が相次いで中国の南朝に使いを送り、皇帝に対し朝貢したことが記されている。倭の五王は、それにより皇帝の臣下となり、官爵を授けられた。中国皇帝を頂点とする東アジアの国際秩序を冊封体制と呼んでいる。これは、朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)における利権の獲得を有利に進める目的であろうと考えられており、実際に済や武は朝鮮半島南部の支配権が認められている。

 

倭王たちは、朝鮮半島での支配権を南朝に認めさせるために冊封体制にはいり、珍が「安東将軍倭国王」(438年)、済がやはり「安東将軍倭国王」(443年)の称号を得、さらに済は451年に「使持節都督六国諸軍事」を加号されている。462年、興は「安東将軍倭国王」の称号を得ている。この中で注目すべき動きとしては、珍や済が中国の皇帝に対し、みずからの臣下への官爵も求めていることが揚げられる。このことは、ヤマト政権内部の秩序づけに朝貢を役立てたものと考えられる。

出典 Wikipedia

2021/11/03

日本の伝統宗教・神道(7)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

黒不浄と赤不浄

 一方、生命に関わる「不浄」の最大のものとして「」を意味する「黒不浄」と「女性の月経、出産の血」を意味する「赤不浄」というものがいわれています。

 

「黒不浄」は分かるとして、何故「赤不浄」が不浄とされたのか、よく分かりません。女性に月経や出産はつきものですから、結局女性そのものが不浄なるものとされてしまいますが、これは日本だけの現象ではないので、何か理由があるのでしょうがはっきりしません。とりあえず「血」は生命に関わりますから、これが「体外に出る」ということに恐れを抱いたというのは分かりますが、それだけではないような気がします。恐らくは「女性が子供を産む」という神秘的な力に、むしろ恐れを抱いたのかも知れません。

 

ですから当初、女性は「神的」なものと思われたようです。その痕跡は、たくさん見出だせます。しかし、それが逆転してしまうのです。つまり、社会が進展して、戦争などが集団の存続に関わり、男社会になった時、男達は女性を「恐れ」、それを疎外する方向に行ってしまったのではないか、と考えられるのです。男性がどうも無意識的に心の底で女性を恐れているのではないかというのは、ヨーロッパ中世での「魔女狩り」などにもみることができます。

 

 ともあれ、こうして身内のものが「死んだ」時には、その汚れは一族に及んでいるものとして皆「家」に引きこもり、人々との付き合いを絶って、汚れが薄くなくなるまでじっとしていることになりました。今日の「忌中」という奴です。女性の方も「月経時」は「汚れて」いるものとして引きこもっていなければならず、出産時には「家」に汚れが及ばないよう「別に出産小屋」を建てて、そこで出産するのが習わしとなりました。    

 

日常的な汚れとしての災いと人間的我欲、我執、怨念

 以上のような明確な不浄の他にも、病気や怪我などさまざまの不浄があり、それは日々人間の身に降り懸かってきます。また、自然的災害もあります。そしてもう一つ「罪」とされたのが「反集団性」であったわけですが、これも多くははっきりした形ででることはなく、日々の生活の中で蓄積されてくるものです。

 

 こうして、人はさまざまに「汚れて行く」わけですが、その内面の身の汚れは「我欲とか我執、怨念」などによるものとされます。人間ですから、誰だってこういうものを持つわけです。これが、もちろん「目に見える」形で表れたら「罰せられて」しまいますが、そうでなくても日々心の中に持つのが普通です。このままでは、やはり人はドンドン汚れていってしまいます。そこで人々は、これを「払い除けて」きれいになろうとしました。その時、行われたのが「禊・祓い」なのです。

 

 「」というのは、古事記にあるように「具体的な穢れを洗い流す」ものでしたが、特別取り立てた汚れがあるわけではない場合でも「日常的に身についた」汚れを落とすために行われることがあり「水をかぶったり」、「火の粉をかぶったり」するものです。

 

祓い」の方はむしろ具体的汚れや、あるいは予期されるものに対して、それを「祓い落とす」ためのもので、現代でも「車」を買った時、神社で「お祓い」をやってもらうというのがれになります。ただし、今日その区別は殆ど意識されないどころか、悪い事をして辞めた代議士が「選挙」で再び選ばれて「禊は済んだ」などという始末で、いいように利用されています。

 

しかし、日本人に「人間に本来的な罪」というのはなく、汚れは外からくるもので、それを祓い落とせばきれいになるという思想があるのは、現代でも生きているような気がします。そして「祭り」には、こうした「禊」タイプのものもたくさんあり、さまざまの地方でみられる「火祭り」とか「海、川などに入るような祭り」などが、こうしたものと言えます。神社にいった時「手や口をそそぐ」のも同じ思想からです。                

 

祖霊

 「祖霊」というのは、柳田国男が言い出したものとして有名になっているものですが、これは字の通り「祖先の霊」ということで、日本における「」の実体とはこれだ、という主張でした。一般には、日本の神とは世界中の民族特有の宗教に共通する「自然力」、「生産力」として説明されますが、日本の場合には「先祖」信仰が元だと言うわけです。確かに日本における「神」の位置付けを観察する時、この「祖先信仰」でうまく説明できるものがたくさんあります。

 

 つまり「氏神=祖霊」というわけです。先祖は死んで、どこか遠いところに行ってしまったわけではなく、その霊はしかるべき年数を経て、子孫の法要によって汚れた霊(死霊)から浄化されて「祖霊」になると言われます。そして最終的に「氏族の神=氏神」となるというわけです。

 

この祖霊は、しょっちゅう「この世」に出てきては家を守り「子孫を保護する」とされます。お盆というのは本来、この「祖霊」の祭りなのであって「仏教」の行事ではありません。何故なら、仏教では死者の霊は仏の世界に行っている筈で、この世に舞い戻ってきたりする訳はありませんから。

 

 「祖先崇拝」とは、本来的に「日本の伝統信仰」なのです。こんなわけで、柳田はさらに田の神、山の神まで祖霊であったと主張してくるわけですが、これは世界中に分布している「民族宗教」の「生産力」という性格を少々、見落している感じがします。

 

一方、それともう一つ大事なことですが、私たちは「祖霊」というと、何となく「私たちのご先祖」と思ってしまう傾向がありますが、これも違います。古代にあっては、日本人は「個々人」として捕らえられることはなく「家・集団のメンバー」としか認識されません。この「家・集団」は大きくなり、当然「首長」を持ちます。ところが、この首長が死んだ時、そのメンバーは核を失った思いで、その首長の「力」が存続してメンバーを見守っていることを期待します。

 

こうして、その「力」は「首長」にあったところから、それは「首長の霊」とされ「その霊」が「祖霊」として、若き新首長である子孫の中に現れ、メンバーを以前のように指導し守ってくれることを期待したのです。これが「氏神」と同じであることは、いうまでもありません。