2008/05/31

琴欧州初優勝

大相撲夏場所で、大関・琴欧州が優勝した。

 

大方の予想がそうだったと思うが、ワタクシも両横綱の優勝争いを予想していただけに、まったく意外な展開に驚いた。

 

他の力士に比べ、頭一つどころか三つも四つも抜けていた感のある両横綱が、揃ってあそこまで崩れるのというのは予想外だったが、それ以上にこのところすっかり「ダメ大関の象徴」のような存在に落ちぶれていた琴欧州が、あれだけの快進撃を見せるとは、誰が予想しえた事か。

 

元々、2メートルを超える恵まれた体格で、一時は朝青龍の強力なライバルになるかと目されていたのが、この琴欧州だった。が、大関昇進後は14場所で10勝を上げたのが僅かに3度、2度の途中休場を除く残りの9場所は9勝が5度、8勝止まりが4度というテイタラクで、ダメ大関を揶揄する場合の「クンロク大関」にすら届かず、大関失格だと歯噛みをしていたのは、ワタクシだけではなかったろう。

 

その琴欧州が、夏場所では人が変わったように堂々たる快進撃を演じた。初日から、あれよあれよと言う間に連勝街道を突っ走り、このところ子ども扱いをされ続けてきた朝青龍をも圧倒すると、翌日には返す刀でかつてライバルと謳われた白鵬も撃破し12連勝。13日目こそ苦手の安美錦に敗れはしたものの、結局14勝1敗という好成績で、誰の目にも文句なしの初優勝を決めた。長く続いていた、両モンゴル横綱の賜杯独占をストップした功績も大きい。

 

ここしばらくは、相撲以上に土俵外での数々の狼藉ぶりばかりが話題になっていた朝青龍には、散々ウンザリとさせられてきただけに、好青年を絵に描いたような琴欧州の笑顔が、実に爽やかに感じられたものだ。

 

千秋楽・結びの一番で見せた両横綱の派手な睨み合いを見て、琴欧州の場合は勝負師として優し過ぎる性格が災いしてきたのでは? と強く感じずにいられなかった。

 

この優勝が「まぐれ」で片付けられないように、そしてあのデカイ体を生かした堂々たる相撲で、両モンゴル横綱を弾き飛ばしていくような、今後の変身に期待したいものである。

2008/05/16

羨望編(偉大なる奇人変人・ミスターpart9)

「オマエら、ナガシマなんて知らんだろーが!」

 

といった時の、あの教諭の得意気な表情は今でも忘れられない。

 

「野球を見始めた時が長嶋監督だったからね・・・現役時代は知らないよ」


「そうだろうそうだろう・・・可哀相になー。「あのナガシマ」を知らんとはなー。ナガシマを知らんのに、それでも巨人ファンか・・・」

 

優越感に溢れた眼差しで、小馬鹿にしたように呟いた

 

(いかん・・・こんな調子で話に乗っていては、コイツのペースになってしまうじゃないか・・・)

 

とは思いつつも、Rの発する「あのナガシマ」という独特の異様な思い入れの入った甘美な響きと、口角泡を飛ばして興奮しながらも恍惚とした表情のRの異様な迫力が迫ってくる。それに魅入られたように、つい余計な言葉で応えてしまった。

 

「でも王は晩年だけど、子供の頃に少しだけ見た記憶があるよ・・・だから以前は、王は好きだったな・・・」


すると、R教諭は少しばかりは見直したように


「ほぉ・・・王は知ってたのか・・・といってもオマエラじゃあ、精々晩年だよな。オレなんかは王は勿論、ナガシマもバリバリの頃だからなー。それになんと言ってもだ、王よりはナガシマだよ、ナガシマ巨人は、やっぱりナガシマなんだな

 

そしてこのR教諭は、改めて肝心の説得は難しいと見るや


「可哀相になー、ナガシマを知らんとはなー。それで巨人ファンとは、オレには納得がいかんな・・・オレたちの頃はみんな、巨人ファンというよりはナガシマのいるチームだから、巨人ファンだったからな・・・」

 

と、なおもブツクサ言い続けていた。

 

「またいつか、話の続きをやろうやー」


と言って、R教諭は去って行った・・・

 

今考えてみれば、これも中年教諭の狡猾な作戦だったのかもしれない。が、この時はこの不良学生を説得に来た中年教諭が、自らの役割をすっかり忘れて、かつての夢を語るが如しといった調子で、禿上がった額の下の小さな目をこれまで見た事のなかったような、夢見る少年の眼差しように、キラキラと輝かせていたのだけは、確かに真実だった・・・

 

その後、数年が経過して社会人となると、当然の事ながら学生時代とは違い、様々な年齢層の人々と付き合う事になる。かつてのR教諭と同世代や、更に上の年齢層の相手との野球談義になると、普段は鹿爪らしい顔をしたオヤジ世代が、この時ばかりは少年のように目を輝かせては、それこそ判で捺したように

 

我々の時代は、なんと言ってもナガシマ、ナガシマだよー」

 

あの記憶にあるR教諭と同様の、実に憎らしいほどの得意げな表情と

 

「君らは、ナガシマを知らないのかー。そりゃ気の毒に・・・」

 

と、さもそれが天下の一大事ででもあるかのように、哀れむような視線を送ってくるのが、殆んど例外のないリアクションである事に気づいた。

 

こうした経験を繰り返すうち、否が応にもR教諭の言っていたオーバーとも思えるナガシマ礼賛は、決して知らないものを見下して優越感に浸ろうなどという下司な料簡などではなく、彼ら世代のコモンセンスであったのだと繰り返し思い知らされた。その都度、彼ら旧世代に対する羨望が、沸沸と湧き上がってくる事になるのであった。

2008/05/09

千日前


 江戸時代~現在の大阪市中央区の汎称地名。中央区千日前12丁目付近をいう。道頓堀川に架かる太左衛門橋から南へ延びる千日前筋と、東西に走る千日前通りが交差する辺りが中心である。大阪ミナミを代表する繁華街の一つで、戎橋筋・道頓堀筋に隣接する。

千日前」の由来は

(1)昔、千日寺と称する精舎が存在しており、その前という意味
(2)千日念仏が唱えられた事から、千日寺とも呼ばれた法善寺の前に存在する、という意味がある

江戸初期の元和元年、市中の墓地整理により大坂七墓地の一つとなり、千日墓地、ないしは千日前の火屋と呼ばれ焼場・刑場となった。道頓堀の芝居街の裏に当たり、付近は畑場八か村と称される蔬菜産地であったが、安永年間に坂町に遊郭が現れた。

寛政年間には、河原町(千日前2丁目・難波千日前付近)にあたる、溝ノ側に見世物小屋が立ちはじめた。明治期になると、墓地が阿倍野へ移転し刑場も廃止され、それ以降、千日前は盛り場へと展開することになる。溝ノ側から見世物小屋が移転してきた事により、飲食店などが増え道頓堀に接続し、阪堺鉄道(現南海鉄道本線)の難波駅開設も、地域の発展に貢献している。明治中期には、新金比羅前が大阪相撲の定場所ともなっている。

1912(明治45)年にはミナミの大火があり、坂町遊郭は移転して消滅した。 焼け跡には東西の道路が拡幅され市電上六線が開通したが、このために南北が分断されることとなった。大正初期には、千日前交差点の南西隅に出来た総合娯楽場「楽天地」が市内の名所の一つに数えられる事になり、付近には映画館が進出し映画・演劇・寄席の街へと発展した。

 この流れの中で、昭和初期には歌舞伎座が誕生し、道頓堀と肩を並べるに至る。第二次世界大戦後、歌舞伎座は移転し跡地は千日前デパートとなったが、1972(昭和47)年に死者118名にのぼるビル火災が発生した(後にプランタン→ビッグカメラ)

明治3年までの千日前は、墓地と焼場と刑場しかなかった。千日前刑場の獄門台には無残なサラシ首が置かれ、夕闇が迫ると千日六坊の「一つ鐘」が諸行無常の響きを伝え、道頓堀の角座の楽屋から獄門台のサラシ首が見物できると言われた。文字通り「墓場から歓楽地へ」と、千日前の歴史はめまぐるしいのである。

千日前の由来は、竹林寺境内にある千日の大師詣りが、訛ったのだと言われている。また一説には、千日墓地にはいくつかの寺があり、この内法善寺は最も古いといわれ、寛永年間千日の供養を施した事から千日寺の名が起こり、この寺の前の通りを略して「千日前」というようになった、とも伝えられている。

実に色々な歴史と由来がある事に驚かされるが、最後はこんな怪談めいた説も・・・

千日前通りの、やや北側にある1651年創建の古刹。この辺りが刑場や火葬場だった時代、法善寺とともに千日ごとの法要を営んだ事から「千日のお寺」と呼ばれ、千日前の名前の由来となっています。千日前という事ですが、噂話で有名なものがあります。本当かどうかは分かりませんが、昔の罪人が処刑される千日前にここに連れて来られる事から、この名が付いたと言われています。

2008/05/05

足利「花の芸術」

 GWも後半に入った。

今年のGWは前半で温泉に泊まり、後半では藤とつつじ花を見に行くという、かなり欲張りなスケジュールを立てていた ( *^艸^)ムププ

そのうち温泉旅行は予定通り消化して、残るは花見である。が、温泉と昇仙峡を堪能できたことと、天気予報が外れて後半の天候が崩れそうな気配もあり、青梅の岩船観音寺か箱根の小田急山の上ホテル辺りで予定していたつつじは、今年も諦めた。絶対に諦めきれないのは、昨年行くつもりで行けずに終わった足利のフラワーパークだ。目的地まで2時間以上と遠いこともあるが、藤で有名なこの時期の混雑が凄いと聞いて尻込みしたのだったが、それでWebページを見る度に一年間、後悔を繰り返した挙句のリベンジである。

最も混雑しそうな4日(日)は避け、5日(祝)を予定していたが予報では56日が天気が良くないという事だったため、ヤケクソ気味に4日(日)に強行する事に。乗換駅となった小山辺りからの混雑は噂通り凄かったが、日頃から中央線と山手線という、日本一、二というような路線での通勤で鍛えられているだけに、なんとか乗り越えて富田駅に到着。

事前に、Webページを飽きるほど見ていたとは言え、物凄い藤のボリュームに圧倒される。これまで見てきた藤の名所といえば、東京では去年行った亀戸天神や元住んでいた愛知では江南市の曼荼羅寺、そしてボリュームでは他を圧倒していた津島市の天王川公園には感動したが、この足利フラワーパークは次元がまったく違った


大長藤、大藤、むらさき藤、白藤、うす紅藤、きばな藤、八重黒龍藤と、藤の種類と量だけでも物凄いが、それ以外にもツツジやシャクナゲ、シャクヤク、ボタンなどなど数え切れないくらいの種類の花が咲き乱れ、藤との競演が美しい




また周囲を山に囲まれた風光明媚な土地柄だけに、どこから切り取っても絵になる地上の楽園だった。

2008/05/03

山梨旅行

 山梨に行って来た。

吉祥寺から中央線で昼前に甲府に到着し、昇仙峡に直行。名物「ほうとう」で腹ごしらえをして、ロープウェイ仙娥滝駅のワイン王国でワインを試飲して景気をつけると、ロープウェイで羅漢寺山(弥三郎岳)頂上のパノラマ台駅に到着。


好天に恵まれ、南アルプス山麓、甲府盆地、荒川ダムなどは一望できたが、肝心の富士山だけは拝めなかった ( ̄_ ̄;) うーん

覚円峰、仙娥滝、石門、終点の長潭橋まで、素晴らしい景色に圧倒されながら午後を丸ごとハイキングに費やすと、夜は石和温泉の温泉施設にしけこむ。


バーベキューと生ビールで腹ごしらえをしてから、お目当ての風呂へ。ラジウム風呂、ストロングジェット、ミルキー風呂、寝湯、プール風呂、バイブラ風呂、超音波風呂、薬草風呂、うたせ湯、露天では岩風呂、露天風呂、寝ころび湯、樽風呂、五右衛門風呂、陶磁器風呂、さらには低・高温サウナ、ミストウェットルームと、いくつあるのかわからなくなるほど、沢山の風呂に入った。

サッパリと疲れを落としたところで部屋に戻り、甲府駅のワインセラーで買った勝沼ワインを飲んで初日は終了。二日目も好天に恵まれ、信玄ゆかりの恵林寺を起点に、勝沼ぶどうの郷~塩山~山梨市の名所を一巡りつつ、甲州ワインソースのハンバーグランチを戴く。

東京在住4年の身としては、交通の便の悪さは想像を超えるレベルだったものの、どこへ行っても高い山に囲まれた美しい絶景と空気の美味しさを堪能し、最後は日帰り温泉に入って大満足で帰路に着いた。