2005/05/31

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番(第1楽章)

主部の最初で、オーケストラのトゥッティ(総奏)がロシア的な性格の旋律を歌い上げ、その間ピアノはアルペッジョの伴奏音型を直向きに奏で、長い第1主題の呈示が終わると、急速な音型の移行句が続き第2主題が現れる。

 

1主題がオーケストラで現れるのに対し、より抒情的な第2主題はまずピアノで登場し、第1主題の伴奏音型から移行句まで、急速な装飾音型を奏で続ける。これらの音型はしばしば鈴と誤解されやすいが、ロシア正教会の小さな鐘を模している。

 

劇的で目まぐるしい展開部は、楽器法や調性を変えながら両方の主題の音型を利用しながら、この間に新たな楽想がゆっくりと形成されていく。展開部で壮大なクライマックスを迎えると、恰も最初から繰り返しそうになるが再現部(Maestoso)は、かなり趣きが異なり、ピアノの伴奏音型を変えて第1主題の前半部分が行進曲調で再現された後、後半部分はピアノによって再現され、第2主題は移行句なしで再現され入念にコーダを準備する。

 

1楽章のピアノ独奏で特徴的なのは、第1主題の主旋律の進行をオーケストラ(特に弦楽合奏)に完全に委ねている点だ。ピアノの演奏至難なパッセージの多くが、音楽的・情緒的な必要性から使われており、しかも伴奏として表立って目立たないこともあり、聴き手にピアノの超絶技巧の存在を感付かせず、あくまでオーケストラのオブリガート(助奏)的な役割に徹することで、時には室内楽的な、時には交響的な印象を生み出すのに役立っている。

出典Wikipedia 

ラフマニノフは身長192cmに加え、マルファン症候群という遺伝病に起因した巨大な手を持っていた。普通の大人はピアノの鍵盤のドからオクターブ上のレ、つまり9度くらいが平均的な手の大きさとされるが、ラフマニノフはドからオクターブ上のソまでの12度が届いた。また関節の柔軟さも特異で、左手の小指ド、薬指ミ、中指ソ、人差し指ドと押さえた上で、なんと親指は小指の下のシを押さえることが出来たと伝えられ、その演奏はモノラルだが現在でも聞くことが出来る(You Tubeなどにもある)

 

こんな特異な体質の持ち主が創った曲を弾かなければならないのだから、後世のピアニストにとっては大迷惑な話だが、ピアノ協奏曲第2番も多くのラフマニノフのピアノ曲と同じく、ピアノの難曲として知られ極めて高度な演奏技巧が要求される。例えば、第一楽章冒頭の和音の連打部分において、ピアニストは一度に10度の間隔に手を広げることが要求されており、手の小さいピアニストの場合はこの和音塊をアルペッジョ(和音の各音を同時に奏さず、下または上の音から順次奏していく演奏法)にして弾くことが通例となっている。

2005/05/29

京都四閣(2005GWの古都・特別拝観part12)

ナント驚いた事に、次にスケジューリングしていた特別公開の寺院に向けて参道を出るところまで、付いて来たのである。このしつこさは異様というしかなく、いざとなった場合に「治外法権」なのだという思いが頭を過ぎり、幾分かの無気味さを感じたものであった(あくまで、このパラノイア気質のある坊主個人のパーソナリティによる、例外的な行動であったと信じたいが・・・)

 

それにしても、この坊主の態度の悪さには呆れたあの目付きの悪さといい、言葉遣いといい、まるでゴロツキというしかない。そもそも、あそこまでの執念で撮影禁止に拘る姿勢は、一体なんなのか?

 

減るものではないし、書画骨董であればフラッシュの光が影響を与えるリスクがあり得るというような理屈はわからなくはないし、そういった説明であればある程度納得もいくが、庭園を撮影する事によってどんな実害があるというのか?

 

しかも、フラッシュを焚いているわけでもないから、他の拝観客に迷惑をかけているわけでもないのである(そもそもこの時は、周囲に殆ど拝観客が居なかった)

 

気の弱い相手なら、あのように脅してしまえば大人しく止めてしまう事だろうが、目的は果たせても自らのイメージダウンになるだけだ。折角の素晴らしい寺院であり庭園だけに、それに見合った坊主の教育をして貰いたいものである(結構な年配だったが、まさかアイツがそれなりの位についているような事は、あるまいな?)

 

撮影禁止がルールだというのであれば、対外的に納得のいく理由を説明すべきではないのか?

 

この寺院に限らず、京都や奈良の歴史的な寺社は決して特定の個人や団体の所有物ではなく、広義には日本人共有の遺産なのである。坊主らはあくまで、代表してそれらの管理を与らせてもらっているに過ぎないという謙虚な気持ちを忘れるべきではないし、それが坊さんの勤めだと信ずる。

 

数年後、この寺のWebページを見ると「新住職」として出ていた写真が、記憶にあるあのゴロツキに非常にそっくりに見えた。あくまで、錯覚だと信じたいが・・・

 

アホな坊主と、くだらないやり取りをして大いに気分を害しながら、それでも予定の「芳春院」へ移動した。以前にも触れたように、27もの塔頭寺院を要する大徳寺とはいえ、常時公開しているのは「龍源院」、「瑞宝院」、「大仙院」、「高桐院」の四寺院のみである。が、毎年恒例の春・秋の特別拝観の時期には、必ずと言ってよいほど普段は非公開の寺院が、特別に公開されるのが通例だ。

 

これまでに、ワタクシが知っているだけでも「孤蓬庵」、「真珠庵」、「興臨院」、「黄梅院」、「芳春院」(他に「総見院」、「聚光院」といった寺院も、以前に公開していたような気がする)などが特別公開されていた。当初は、常時公開されている上の四寺院が特に大きく、それらに比べ他の非公開の寺院は規模も小さく見所が少ないのかと思い込んでいたが、特別公開で必ずしもそうでない事がわかってからは、この時期に京都に行く場合は最優先して見て廻るようにしていた。そして、この年のGWに特別公開されていたのが、冒頭で紹介した「芳春院」であった。

 

TVを観ないワタクシは、まったく知らなかったNHKの大河ドラマ「利家とまつ」が放映されてから、特に注目度が上がったようだった。

 

<大徳寺の最北部に位置する芳春院は1608年、玉室宗珀を開祖として加賀の前田利家夫人松子が、子供の利長・利常と共に建立。松子の法号の芳春院と名付け、前田家の菩提寺とした。多くの公家・武士・茶人・文化人が集まり、寛永期を代表する文化的サロンであった。大書院には、近衛文麿公が京大在学中に書斎として使った部屋が残されている。前田利家の正室・まつ、戦国乱世にあって家の再度の危機を聡明と熱意で救い、前田家の繁栄を築き上げた>

出典https://www.ntv.co.jp/kyoto/backnumber/

 

<利家亡き後、剃髪して芳春院と号し、自ら江戸に人質として入り15年後金沢城に帰り71歳で没しました。像からは、優しさと凛とした強さが感じられます。京都大徳寺の22塔頭の一つ、芳春院はその名の通り「まつ」が息子とともに、慶長13年(1608年)に建てた前田家の菩提寺です。さすが女性の優しさが漂い、花岸庭の白砂の海、楼閣の呑湖閣も和らぎを感じます>

 

<大徳寺の総門を潜り禅宗らしい端正な境内を北に進むと、ひときわ優しい響きを持つ「芳春(ほうしゅん)院」に行き着く。加賀百万石の祖・前田利家の妻まつの法名をつけた菩提(ぼだい)所(1607年創建)として知られる、この塔頭の庭園は枯山水庭園「花岸庭(かがんてい)」と「呑湖閣(どんこかく)」を望む池泉回遊式庭園の2園からなる。 


 本堂に上がると、まず目に飛び込んでくるのが南側に面する花岸庭。白砂が面積の大部分を占め、眩しく照り返す。奥まった東南隅に岩山が配され、大海原が広がるかのようなスケールの大きさを感じさせる。89年、「昭和の小堀遠州」と称された元大阪芸術大学長の作庭家、故中根金作氏が手掛けた。以前は、まつが好んだという桔梗(ききょう)が一面に茂る庭だったが「禅寺らしい趣に」と改修され、僅かに残された桔梗が往時の名残をとどめる>

 

大徳寺といえば、どの寺院も枯山水の庭園が素晴らしい事で知られるが、この「芳春院」の「花岸庭」も例外ではなく、また一つ新たな驚きがあった。そしてお目当ては、何といっても滅多に観るチャンスのない「呑湖閣」である。

 

<一方、廊下伝いに北側の庭に廻ると、佇まいは一変する。深い色を湛える飽雲池(ほううんち)を中央に据えた庭は、湿潤そのもの。池を渡る打月橋(だげつきょう)、そして金閣、銀閣、飛雲閣(西本願寺境内)と並び「京都四閣」と称される呑湖閣を配した構成は"元祖"小堀遠州の作。呑湖閣は、優美なつくりの中に「琵琶湖の眺望をも呑み込む」という壮大さを秘め、本堂に飾られたまつの肖像画のイメージとも重なり合う。 


江戸時代と現代を代表する作庭家による2園は、実に対照的な美を競っており興味深い>

 

池の中央に浮かび煌びやかに燦然と輝く金閣寺、銀沙灘と向月台というこれ以上ない名脇役を従え、あの古色蒼然たる佇まいがワビサビの境地に誘う銀閣寺と、それぞれ特徴豊かだがこの「呑湖閣」の魅せ方も、それらに引けを足らないような小堀遠州絶妙の才能と言えるだろう。

2005/05/28

石の宝殿と生石

石の宝殿は、人工的な巨石が残る遺跡などに付けられた名称。兵庫県と大阪府に5ヵ所ある。

石宝殿古墳は、大阪府寝屋川市の高良神社裏山にある古墳のこと。露出した石室から石宝殿古墳と呼ばれ、国の史跡に指定されている。

生石神社の石宝殿は、兵庫県高砂市・宝殿山山腹の生石神社に神体として祭られている巨石。鎮の石室(しずのいわや)、天の浮石(あめのうきいし)または単に浮石とも。

2014年(平成26年)106日に、「石の宝殿及び竜山石採石遺跡(たつやまいしさいせきいせき)」として、他の史跡群とともに国の史跡に一括指定された。

この生石神社の石の宝殿と、宮城県鹽竈神社の塩竈鹿児島県霧島神宮の天逆鉾を総称して「日本三奇」と呼ぶ。

6.4m、高さ5.7m、奥行き7.2m。重さは推定500トンを越える。竜山石として知られる凝灰岩の岩山の中腹を削って作られており、三方を加工前の岩盤に囲まれている。

誰が、いつ何の目的で作ったものであるのかは、学術的に判然としていない。謎を解明するため、高砂市教育委員会が、大手前大学史学研究所の協力で各種の調査に着手している。2005年から2006年にかけては、レーザーによる3次元計測を実施し、周囲の岩盤も含めた形状をくわしく調べた。

形状・特徴
主部は平たい2つの直方体を縦向きにして、ひとまわり小さな直方体を挟み込んだような形状であり、側面のひとつにピラミッドの頂上を切ったような形状の突起がある。後述の歴史的記述にもあるように、家を横倒しにしたような全容をしている。また旧型のブラウン管テレビに似ているという人[?]もいる。

下部の岩盤は大きくくぼんでおり、池になっている。社伝によれば、この池は旱魃の際にも枯れず、水位は海の潮位と連動するとされる。「浮石」と呼ばれるゆえんは、わずかにつながった底部中央の支柱状の部分が巨石自体の死角になり、巨石が池の上空に浮かんでいるように見えるためである。



岩の上部には、加工当時にはなかったとみられる多くの雑木が生えている。

周辺
周囲の岩盤と巨石との間は大人が1人通れる程度の幅で、周回が可能である(拝観料が必要)。また宝殿山の頂上(大正天皇行幸の碑が建つ)に登れば、上部から全容をのぞき見ることができる。

伝説
生石神社の社伝に、大穴牟遅神と少毘古那神の二神による伝説が伝えられている。二神が出雲国から播磨国に来た際、石造の宮殿を建てようとして一夜のうちに現在の形まで造ったが、途中で播磨の土着の神の反乱が起こり、宮殿造営を止めて反乱を鎮圧している間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。しかし二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った、というものである。

南北朝時代の地誌『峯相記』では、単純に「天人が石で社を作ろうとしたが、夜明けまでに押し起こすことができずに帰っていった」と解説されている。

一方、713年から717年頃の成立とされる『播磨國風土記』の印南郡大國里條にある記述には、

 「原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」
書き下し:原の南に作り石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連(ゆげのおおむらじ)の造れる石なり。

とある。「聖徳の王」は聖徳太子、「弓削の大連」は物部守屋と考えられているが、聖徳太子が摂政であった時代には物部守屋はすでに死亡していた(日本書紀による)と伝えられているため、この記述は矛盾をはらんでいるとされる。

エピソード
幕末にシーボルトが訪れ、詳細な3枚のスケッチを残している。この絵は著書『NIPPON』の第一冊目に収録されている。

松本清張は著書『火の路』において、奈良県橿原市の巨石・益田岩船との関連を指摘している。

六甲山の石宝殿
六甲山の石宝殿は六甲山頂から東に1kmの峰の上にあり、1613年(慶長18年)に西宮の氏子により建立された。分水嶺上で、建立以前から霊場として修験道場であったようで、近世以降は雨乞いの場でもあった。現在も神社として機能している。

生石神社(おうしこじんじゃ)は、兵庫県高砂市・宝殿山山腹にある神社である。


生石」の読みは本来「おうしこ」であるが、「おおしこ」・「おいしこ」と誤表記・誤読されている場合もある。

社伝では、崇神天皇の時代、国内に疫病が流行していたとき、石の宝殿に鎮まる二神が崇神天皇の夢に表れ、「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたことから、現在地に生石神社が創建されたとしている。

石の宝殿について『播磨国風土記』の大国里の条には

「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている。」


という意味の記述がある。8世紀初期には67世紀頃に人の手で造られたと考えられていたことになる。風土記が一般に流布されたのは江戸時代後期からであり、それまでの石の宝殿に関する文献で風土記の内容を継承したものは見られない。『万葉集』巻三、生石村主真人の歌にある志都乃石室は、石の宝殿のことであるとも言われるが定かではない。

石の宝殿は8世紀以前からあったことになるが、生石神社は『延喜式神名帳』や国史に掲載されておらず、『播磨国内神名帳』の「生石大神」が文献上の初見であるとされる。

1579年(天正7年)、羽柴秀吉が三木合戦の折、神吉城攻略のために当神社を陣所として貸与するよう申し出たが、拒否されたために焼き討ちに逢わせた。(当時の宮司は、神吉城主の弟であった。)

焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いの時に西軍石田三成方の勇将大谷吉継が陣鐘として使用した。敗戦の結果、徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進している。鐘の表面には、応永26年乙亥(1419) 播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれている。
出典 Wikipedia

●ポリネシア語による解釈
石の宝殿は、高砂市阿弥陀町にある古代の石造物(高さ5.7メートル、横幅6.4メートル、奥行き7.2メートル)で、古代から石材の切り出し場であった竜山という丘陵の中腹の凝灰岩の岩盤を削って、横倒しの家形の直方体としたもので、生石(おうしこ)神社のご神体となっています。

この「ほうでん」、「おうしこ」、「たつ」は、マオリ(ハワイ)語の「ホウ・テ(ン)ガ」、HOU-TENGA(hou=dedicate or initiate a person etc.,establish by rited;tenga=goitre,Adam's apple)、「(神に)捧げられた・喉仏のような(突起物。石の宝殿)」(「テ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「テナ」から「テン」、「デン」となった)、「オウ・チコ」、OU-TIKO(ou(Hawaii)=hump up;tiko=stand out,protrude)、「突出した・瘤(のような石。それをご神体とする神社)」、「タ・ツ」、TA-TU(ta=dash,beat,lay;tu=fight with,energetic)、「(石材を)盛んに・切り出した(山)」の転訛と解します>

<由良港の南、淡路島の最東南端に、生石崎があります。生石崎と和歌山市田倉崎を結ぶ紀淡海峡の最狭部は幅約10km、大型船が航行できる生石崎と沖の島との間の由良瀬戸は幅約4kmで、時速約4.5kmの激しい潮流が流れています。この「おいし」は、マオリ語の「オイ・チ」、OI-TI(oi=shudder,move continuously as the sea;ti=throw,cast)、「(激しい潮流の中に)放り出されて震えている(岬)」の転訛と解します>
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/