2006/06/29

ボロディン 交響曲第1番(第4楽章)

 


独学で音楽を学び、いわゆる音楽理論を知らなかったことが、独特の作風に生かされている。前例のない野蛮な響き。農民への共感に見られるような、ロシア大地に根ざしたような重厚な和音。運指や伝統的技巧を無視したピアノ曲。

 

17歳で医科大学に入学し23歳で卒業すると、24歳で早くも医学博士号取得している。その後、作曲をしながら30歳で医科大学助教授に就任し、翌年には教授になっているというから、相当に優秀な頭脳の持ち主であったのは間違いがない。

 

「ロシアの太陽」チャイコフスキーを「西欧かぶれ」と批判した国民学派5人組の中にあって、一貫してチャイコフスキーの才能を認め密かに親交を温めていたといわれるところからも、ボロディンの人間性が垣間見える。

2006/06/28

これがサッカー、これがW杯だ!(サッカーW杯2006ドイツ大会)(4)

 サッカーW杯のベスト8が出揃った。過去のW杯がそうであったように、負ければ終わりの決勝トーナメントだけに、どのチームもディフェンスをより重視した「負けないサッカー」をやり始めた事から、優勝候補と言われた強豪が軒並み苦戦した。

その中で、苦しみながらも勝ち上がって来たのはアルゼンチン、イングランド、イタリア・・・  そして数的不利の中で、優勝候補の一角と言われたオランダを破ったポルトガル、また徐々に調子を上げて来ているドイツは、スウェーデンを一蹴した。初出場のウクライナも、スイスを破って堂々の8強入りだ。

ワタクシが密かに期待したガーナは、ブラジル相手に中盤までは健闘したものの、終わってみれば3-0で敗れた。ブラジルはやはり、最も勝ち方を知っているチームという貫禄が感じられる。

さらに予選ではピリッとしなかったフランスは、実力で勝ると思われた「無敵艦隊」スペインを撃沈させた。24年のW杯サッカー観戦歴を誇るワタクシも、決勝トーナメント第三日目の二試合は、これまでに観た事のないような予想外の結末が続いた。苦しみもがいた挙句に、劇的な勝利をものにしたのがイタリアだ。優勝3度の強豪イタリアの相手は、殆ど無名といってもいいオーストラリアだけに、恐らくはワタクシも含めた大方の予想は「イタリア圧倒的優位」だったろう。

ところが「勝負だけは、やってみなければわからない」とは、まさしくこの事だ。退場者を出し、一人少なくなったイタリアに無名のオーストラリアが、怒涛の攻撃で襲い掛かる。途中から防戦一方に廻ったイタリアは、なんとか相手の猛攻を凌いで延長に持ち込むのが精一杯か、と思われるほど青息吐息の状態だった。そんな終了間際・・・まさにロスタイムの3分が、あと数秒で終わろうかという土壇場の土壇場で、思わぬ予想外のドラマが待ち受けていたのである。

オーストラリア、無念のPK敗戦!

断崖絶壁から這い上がったこのイタリアの劇的な勝利は、長い歴史を持つW杯に新たな名勝負の一ページを刻んだ。また初出場のウクライナが、スイスと延長を含めた120分の死闘を戦いながら決着がつかず、PK戦を制したのも劇的だった。最初に、エースのシェフチェンコが外した時は「スイス有利か?」と思われたが、その後にスイスの選手が三人続けて、まさかの失敗だ。

PK戦で「最初の選手から三人続けて失敗」というのも記憶にないが、スイスは予選リーグを含めた四試合で、遂に相手に一点も奪われる事のないままに無念の敗退が決まってしまった。しかしながら、やはりこうして苦戦しながらも最後にはキッチリと勝ち上がって来るところこそが、これら強豪国と言われるチームの真の底力なのだろう。

W杯はこれまで17回の歴史があるが、優勝経験国は7カ国しかない。そのうち、出場していないウルグアイを除く6カ国が準々決勝に駒を進めたのはやはり歴史と経験、そして「W杯での勝ち方を良く知っている、伝統の力」という事になるのだろう。

まだ優勝経験のないポルトガル(最高3位)と、初出場ながら健闘しているウクライナは、さらに勝ち進んでいく事が出来るのだろうか?

ボロディン 交響曲第1番(第3楽章)


ロシア5人組の一人。

5人の名前を列挙せよ」という問題が出ても、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディンまではすぐに言えますが、バラキレフとキュイ、特にキュイはなかなか出てこない。某国立系音楽大学の楽理の期末試験で「キュイ」が書けなかったばかりに落第した人もいたとか。ボロディンはあまり作曲をしていないので、ボロディンを除け者にして「ロシア国民楽派」という言い方もある。

 

地主の息子として生まれ、裕福なはずなのに陸軍士官学校に入学。のちに軍隊に入隊し、5人組のメンバーと出会う。1861年時の皇帝アレクサンドル2世の農奴解放令により、実家は没落。除隊後は貧乏と戦い、役人にまで落ちぶれたこともあった。結果、無一文・アル中で42歳で没。1881年に指揮中に倒れ病院に収容されるが、誕生日の前日に付き添っていた友人が、誕生日祝いのつもりでブランデーを差し入れし、それを飲んだ途端に容態が悪化し帰らぬ人となった。

2006/06/27

ボロディン 交響曲第1番(第2楽章)


※とても良い曲なのだが、残念ながら良い演奏が見つからなかった。音が軽すぎる・・・

ボロディンは、作曲家としてその道に秀でていたにもかかわらず、いつも化学者として収入を得ており、化学の世界においては、とりわけアルデヒドに関する研究によって、非常に尊敬されていた。結果的に「日曜作曲家」を自称することになり、同時代人ほど多作家ではなかったものの、2つの交響曲や音画《中央アジアにて》(通称;交響詩《中央アジアの草原にて》)、抒情美をたたえて人気の高い「夜想曲」で有名な《弦楽四重奏曲 第2番》は、盛んに演奏されている。

 

ボロディンの作品は、力強い叙事詩的性格と豊かな和声が特色である。名高い「ロシア五人組」の同人として、ロシア的な要素は否定すべくもない。情熱的な音楽表現や比類のない和声法は、ドビュッシーやラヴェルといったフランスの作曲家にも影響を与えた。また同世代のロシア人作曲家の中では、自然にポリフォニーを扱う能力でも際立っている。

 

交響曲や弦楽四重奏曲のスケルツォ楽章は、ボロディンがメンデルスゾーンの作風を熟知していたことをうかがわせる。また、第1主題と第2主題との間に明確な対照性を与えず、それらに関連した要素を配置していく手法は後の時代のシベリウスを予感させ、西欧的な二元性とは異なった思想基盤が表れている。

本土寺の紫陽花

本土寺(ほんどじ)は、千葉県松戸市平賀にある、日蓮宗の本山。山号は長谷山。塔頭が一院ある(佛持院)。

 


概要

本土寺は、池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺とともに「朗門の三長三本」(さんちょうさんぼん)(新潟県三条市の長久山本成寺を含めて四長四本ということもある)と称されている。「朗門」とは日蓮の弟子日朗の門流という意味であり、「三長三本」とは、上記3か寺の山号寺号にいずれも「長」「本」の字が含まれることによる。

 

近年、境内には茶室も整備され、1000本のカエデ・5000株のハナショウブ・10000株のアジサイの名所として人気を集め「あじさい寺」として親しまれている。本土寺過去帳は、歴史を語る重要な資料である。

 


歴史

本土寺は、元々日朗・日像ら日蓮門人を輩出した平賀忠晴の屋敷跡と伝えられ、後に日蓮の支援者であった千葉氏家臣曽谷教信が法華堂を建立したとされている。後に日朗が本土寺として開堂供養した(実質的な開山は、日朗門人の日伝であったとする説もある)。

 

『平賀本土寺史要』によると、文永6年(1269年)、日蓮に帰依した蔭山土佐守が「小金の狩野の松原」の地に法華堂を建てたのが本土寺の起源という。建治3年(1277年)曽谷教信(胤直)が平賀郷鼻輪に法華堂を移し、日蓮の弟子日朗が開堂供養した。

 

日蓮の直弟子である日朗・その異母弟にあたる日像(四条門流の祖)・日輪(池上本門寺・鎌倉妙本寺3世)は平賀氏の出身で、平賀郷はこれら日蓮宗の祖師ゆかりの地であった。延慶2年(1309年)、曽谷教信の娘・芝崎(千葉胤貞の妻)より土地の寄進を受け寺が整備された。芝崎夫人は夫の胤貞の死後出家し日貞尼とも称される。延文3年(1358年)、台風により本堂が倒壊するが、その後再建された。貞治4年(1365年)、山号を北谷山から長谷山に改称したとされる。

 

曽谷教信の曾孫にあたる8世日福は、嘉吉元年(1441年)に現在地に本堂を移し、鎌倉妙本寺の日寿を招いて開堂供養を行った。宝徳4年(1452年)、火災により本堂が焼失。9世日意・10世日瑞は火災で焼失した本堂再建のための勧進事業をきっかけに布教を行い、地元の高城氏やその同族の原氏の支援を受けて寺を整備した。日瑞の時には、本土寺に現存する建治4年(1278年)在銘の梵鐘を得た。この梵鐘は印東荘(現・佐倉市六崎)の大福寺(廃寺)にあったもので、鐘に刻まれた追銘によれば檀那の設楽助太郎によって、文明14年(1482年)に寄進されたものである。

 

高城氏が小田原征伐で改易されると、徳川家康の5男で甲斐の穴山武田氏を継承した武田信吉が、母の秋山夫人(家康の側室、於都摩)とともに小金城に封じられたが、間もなく天正19年(1591年)夫人が亡くなったために15世日悟がこれを厚く葬り、家康も朱印地10石を与えた。

 

本土寺は元々、不受不施派の影響が強く、寛永7年(1630年)の身池対論でも18世日弘が参加している。ところが、江戸幕府が不受不施派弾圧の方針を取ったために、日弘は伊豆に流され、続いて21世日述も伊予国に配流された。その結果、寛文5年(1665年)に受不施派の久遠寺の支配下に組み込まれることになった。

 

その後、派遣された22世日令の元で受不施派寺院としての改革が行われた。日令の貞享元年(1684年)に前述の秋山夫人の甥にあたる徳川光圀の申し出により、秋山夫人の墓が本堂脇に移されて参道の整備と寺領206斗の寄進が行われている。

 

その後、享保20年(1735年)から安政2年(1855年)にかけて、江戸浅草にあった末寺の本法寺での5度にわたる出開帳によって、寺の名は江戸でも知られるようになった。安政3年(1856年)には、末寺4675寺を数えた。


2006/06/26

ボロディン 交響曲第1番(第1楽章)

 


とても良い曲なのだが、残念ながら良い演奏が見つからなかった。音が軽すぎる・・・

 

ボロディンはサンクトペテルブルクにて、グルジア皇室の皇太子ルカ・ゲデヴァニシヴィリの非嫡出子として生まれた。ゲデヴァニシヴィリはボロディンを実子として戸籍登録せず、農奴の一人の名を使った。

 

ボロディンは、ピアノの稽古を含めて優れた教育を受け、化学を専攻しペテルブルグの医学大学の薬学部に入る。卒業後、陸軍病院に勤務、24歳の時に医学の会議の出席のためにヨーロッパに長期出張、この頃ムソルグスキーと知り合い、シューマンの曲を紹介され興味を持つ。

 

26歳の時、ハイデルベルク大学(化学)入学。元素理論を確立したメンデレーエフと知り合う。卒業後はペテルブルグの医学大学の助教授、教授と進み、生涯有機化学の研究家として多大な業績を残した。

 

作曲は1863年にバラキレフと出会うまでは、正式に学んだことがなかった。化学者としては、ボロディン反応(ハロゲン化アルキルの合成法、ハンスディーカー反応の別名)に名を残している。また求核付加反応のひとつである、アルドール反応を発見したとされる。

2006/06/24

予選リーグ総括(サッカーW杯2006ドイツ大会)(3)


 W杯の予選リーグが終了した。世界が驚くような番狂わせはまったくなく、勝つべくして勝ち上がって来た16の強豪チームが出揃ったな、というのがここまでの感想である。

優勝候補と言われるブラジルを筆頭にアルゼンチン、イタリア、スペイン、イングランド、オランダ、ポルトガルといった強豪国が危なげなく勝ち上がって来たのはさすがだ。ホスト国のドイツも徐々に調子を上げて来たし、予選通過が危ぶまれたフランスも土壇場でなんとか進出を決めた。

一方で、アジア勢は四チーム合わせても韓国が無名のトーゴに勝ったのが唯一の勝利で、日本を含めたそれ以外の三チームは揃って「1分2敗」と「順当に」実力通りの結果しか残す事が出来なかった。

これまでこのシリーズを読んで来て、ワタクシの事を「アジア蔑視」と決め付ける人がいるかもしれないが、まったくそういう事実はない。これがアジアの現実の力であり、何度も言っているようにどう考えても四枠は多過ぎるのである(ワタクシはずっと、二枠で充分だと思っている)

さてアジアの話はさておき、予選リーグでやや意外だったのは初戦に素晴らしいサッカーを見せたチェコが敗退した事で、代わりに勝ち上がったのがガーナだ。アジアに次いで振るわなかったアフリカ勢の中で、唯一勝ち上がったガーナだが、決勝トーナメント初戦でいきなり優勝候補本命のブラジルと当たってしまった。

ずっと前から言われ続けている事だが、アフリカ選手の身体能力の高さは世界でも群を抜いている(ただしチームプレーが出来ない)だけに、ブラジル相手にどんな戦いをして見せるかが、ワタクシの密かな楽しみだ。大番狂わせでブラジルを破り、その勢いで破竹の快進撃をしないとも、あながち言い切れないのである。

リーグ戦の篩にかけられ、ここまで生き残った各チームにさほど力の差はないはずであり、負ければ終わりの一発勝負だけに、ここからは何が起こるかはまったくわからない。実力で勝るチームであっても、怪我や予期せぬ退場者が出れば終わりであり、決着が付かない場合はPK戦というケースも増えてくる事を考えれば、これまで以上に「」といった要素も大きく左右してくるだろう。

いずれにせよ、日本が消えた時点で観戦を辞める人がどれくらいいるのかはわからないが、冒頭にも書いたように今大会は勝つべくして勝ち上がって来たチームが、キッチリと揃って来たと個人的には思っている。ここからが「真のW杯」なのである。

2006/06/23

弦巻

 世田谷区の弦巻は、ワタクシの住んでいるところから距離的には比較的近くになりますが、これまではまったく縁がありません。

<弦を巻くとは、弓や弦楽器の弦を張る事をいう。弦巻という地名の由来を調べると、源義家が奥州征伐の際にこの地で弓から弦を張り直したとか、北条家の士卒が家康に降参し弓を伏せ弦を外したとか書かれている。弓を張るのと外すのでは、意味が逆になってしまうので困ってしまう。また降参した士卒としても、その行為が地名となって代々語り継がれるのも、迷惑な話であろう。別の由来で、弦巻を源流とする蛇崩れ川が渦を巻くように流れたから、という説もある>

弦巻」の由来は諸説あり、これと言った決め手に欠く。一説に武将(源義家あるいは北条氏など)が弓弦をはずした、あるいは巻いた場所であるという。他には、水流(つる)が渦巻く場所など。しかし、弦巻は世田谷区内でも、ほぼ最高地点に近い台地である。一方で土地に起伏もあり、今は多くが暗渠となったが、小さな川もある。
出典Wikipedia

<源義家が奥州征伐の時にここで弓弦を外したため、または家康が後北条氏と戦った際に北条方がここで弓弦を巻いて降伏したため、と書いてあります。しかし、どちらも怪しいものとみていて、特に後北条氏の話は弦巻の名前が既に南北朝時代にはあった事から、地名の由来とは違うという事がわかります。『世田谷の地名』でもそれは同じで、ここでは弦巻のツルは「水流(ツル)」であり、弦巻は「水流巻」であると書いてあります。意味としては水禍のある土地、また土地が低くてジメジメする所という意味合いです。しかし地形からして、降水量によっては水流渦巻くという風にもなりますが、これぐらいの出水はどこにでも発生するものです。結論として、地名の由来はかつて水流渦巻いた現象を捉えて「水流巻」とし、これが後に弦巻となったものとみられます>

なお「弦巻」という言葉の正確な意味は「掛け替えのための、予備の弓弦(ゆみづる)を巻いておく籐(とう)製の輪。弦袋。弓弦袋」(大辞泉より)

「張りかえの弓弦(ゆづる)を巻いておく籐製の輪。箙(えびら)の腰革にかけて左腰に下げた。弦袋」(大辞林)となります。

●ポリネシア語による解読
「ツ・ルマキ」、TU-RUMAKI(tu=stand,settle;rumaki=immerse,duck in the water,stoop((Hawaii)lumai=to douse,duck))、「ちょっと水に潜る(浸かる)事がある場所に位置している(土地)」(この地名は、世田谷区弦巻(つるまき)、神奈川県秦野市鶴巻(つるまき)、千葉県市原市鶴舞(つるまい)、東京都町田市鶴間(つるま)、神奈川県大和市鶴間(つるま)と同じ語源と解します。