2004/01/31

記憶の糸(にゃべっち編)



 が、その後もやはり「ゴトーカズマ」という名前が、喉に刺さった子骨のように、どうにも気にかかる。

(ハテ、ゴトー?
「ゴトーカズマ」って名には、どうも見覚えがあるんだがなー。確かサッカー部にも、そんな名のヤツがいたような・・・)

と、記憶の糸を辿っていると

「にゃべも、ゴトーは良く知ってるでしょう?

元々『B小』から転校してきたコだし」

と真紀に触発され

「ん?
『B小』から転校って・・・そんなヤツいたっけな?
まてよ・・・って事は、もしやあのゴトーか?
しかし見た感じからして、全然違うしなー」

「なんだ。

違うコなの?」

「いや。やっぱり、アイツなのかなー?
カズマなんて名は、そうザラにはいないだろうからな。なんとなく、記憶が蘇ってきた・・・しかし変だな・・・オレの知ってるゴトーは・・・」

「うん、にゃべの知ってるゴトーは・・・?」

 4年前。新興住宅街、鶯山の急坂の途中にあったゴトーの家の近くに、マツモトというデキの悪い同級生が住んでいた。この悪童が、やはりいつもゴトーの家に遊びに来ていたため、すっかりにゃべっちの悪友の座に納まってしまった。そして2人でゴトーの家に遊びに行くと、ケーキなどをご馳走になりながらも、親の目を盗んでゴトーをイジメて遊んでいたのである。

当時は、ムラカミも一緒に遊びに来ており、いびられるのはもっぱらゴトーの役どころだ。それだけにゴトーにとって、にゃべっちは恐らくは思い出したくはないが、さりとて忘れ難い存在であることもまた、容易に想像が出来た(勿論、イジメといっても遊びのようなもので、決して陰湿や深刻なものではない)

ゴトーが『B小』に居たのは3年生の途中までだから、にゃべっちの記憶の中にあるゴトーも当然そこで止まっていた。当時のゴトーは取り立てて背も高くはなく、成績も精々クラスで45番手といったところだったから、学年トップが指定席だった神童にゃべっちと、それに次ぐ存在のムラカミには視野の端っこにすら入ってなかった。またスポーツでも、それほど目立った活躍をしていたという記憶もない。どれもが平均以上ではあるが、特にこれといって目立つような生徒ではなかったのだ。

ところが、サッカー部のゴトーは背が高く逞しい外見ばかりではなく、グランド10周競争ではトップクラスの常連で、常ににゃべっちよりも速かった。そして、中間テストでも学年6位という好成績だから、これがあの『B小』の目立たなかったゴトー少年と同一人物とは、まったく気付かなかったとしても無理はない。なにより、成長期の3年間を見ていなかったのに加え、見違えるほどに逞しく大きくなっていたのだから、まさに「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」そのままであった  ̄_ ̄;) うーん

 (ゴトーカズマ・・・確かサッカー部にも、そんな名のヤツがいたような・・・)

確かに、そうなのだ!

サッカー部といえば1年生だけでも優に10人を越える大所帯だから、全員の顔までは記憶していない。『B小』サッカークラブに属していた連中と、中学からサッカー部に入部した2人を加えた『B小』組の顔は、もちろん覚えている。残るは『H小』、『Y小』の連中だから、印象が薄いのは仕方がない。が、そんな中でも『H小』のゴトーはイチカワという男とともに、かなり印象強かった。

サッカー部といっても1年生は基礎練習が中心だけに、まだあまりボールを持たせてもらえない。毎日の練習の始まりはグランド10周で、ビリから3人はそれぞれ1周、2周、3周を追加で走らされた。短距離は得意だったにゃべっちだが長距離は苦手だけに、このグランド10周競争は最も苦手だ。1500m走では、スポーツテストでも「A級」を叩きだしていたものの、グランド10周競争は地獄の苦しみとしかいいようがない。この競争で、常にトップを争っていたのが『H小』組のイチカワとゴトー、そして『B小』出身のムラサキといった顔ぶれだった。

にゃべっちは、このトップクラスに次ぐ2番手グループで、大体45番手辺りを走ることが多かっただけに、常にトップを争っていた3人には一目置いていた。そのトップクラスの一角を占めているゴトーが、かつて『B小』に居たあのゴトーだったとは!

 「うん?

にゃべの知ってる、ゴトーは・・・?」

と考えが煮詰まりかけたところで

「ねえ、なになに?

ちょっと、面白そうじゃないの?

一体、何の話?」

いつの間にやら、ヤジウマの千春が会話に割り込んできていた。

「『H小』にも、にゃべみたいな『神童』が居たって?」 

「そうそう、この前タカから訊いたにゃべの話よね・・・さすがにそこまで凄くはなかったけど、ちょっとあれに近い感じの存在だったよ、ゴトーは。小学校の時も、A市の「読書感想文コンクール(高学年の部)」で「優秀賞」とか「優良賞」とかも獲ってたしね。まあどっちにしても、全国入選のにゃべから見たら大したことはないんだろうけど・・・」

気のせいか、ゴトーの話をする時の真紀の目は、潤んだように光って見えた。

「しかしなー。3年生の時はオレ、アイツと同じクラスだったし仲も良かったんだけどなー。あの鶯山の家にも、毎日のように遊びに行ってたんだぜ」

「ゴトーねー。そういえば、そんなコもいたっけ?

私も、あんまり憶えてないけど・・・」

と、千春の印象にも薄かった。

「ホント?

へぇ~、そうだったんだ・・・そんなに仲良かったんなら今度ゴトーに、にゃべの事、訊いとくわよ」

「いいよ、止めとけって・・・どうせろくな事は言わねーだろうから」

しかし「過去の事情」などは知る由もない真紀が、気を利かせて早速、相手にとっては忌まわしい名を携えて、そそくさとアプローチにいってしまった。

当日 ~ X氏への遺言(第二部)「結」



「最後の日は、出ないとまずいぞ・・・C社の連中も来るしさ・・・」

「じゃあ、しょうがないなー。最後の日だけは、なんとか出るようにしましょうかねー。27日から遡って12日連続で休みますので、土日と祝日を入れると実質的には9月前半までですねー、アハハハ」

まさか、そこまでの非常識はしないだろうという読みだけでなく、半月も休み続けては最後の日に出難くなるから、そこまで無茶な真似はしないだろうという希望的観測を裏切って、堂々と宣言通り9月前半から12日間の年休を使い果たし、最後の30日は何事もなかったかのように平然と、済ました顔をして出て来たのであった・・・

前夜
「もうわかったから、31日出ればいいんでしょうが!
これ以上、不毛な話をしたくないし、今後は一切電話もして来ないでくれ」

「申し訳ありません!
ご迷惑をかけますが、お願いします・・・」

相手の思うツボだったかも知れないが、会社の利益のためならクライアントの靴の裏でも喜んで舐めそうな相手との、こうした不毛な遣り取りにもすっかり疲れて来たのである。

しかし安請け合いしたのはいいが、考えてみれば既にX氏には例の《紙爆弾》を手渡してしまった後なので、今更どのツラ下げて氏と顔を合わせればいいのか、というところに初めて思いが至った ∑(〃゚ o ゚〃) ハッ!!

(ひょっとして、まだ読んでないかも知れんしな・・・まあ、どっちにしろ考えたところで、どうなるものでもないか・・・)

この期に及んでは、最早開き直るしかなかった。そうした波乱含みの中で、遂に最終日となる月曜日を迎える事になった。

当日
最終日。X氏がまだ、例の《紙爆弾》を読んでいない事に期待する気持ちと、逆に

(読んだ後の反応が、さぞかし見ものだわい)

という、複雑な興味が絡み合っていた事は否めない。元々、日頃からクールを絵に描いたようなところがあり、感情を滅多に表に出さないから、何を考えているのかよくわからない人物だけに

(案外、読んだとしてもなんとも感じないかも・・・それだと、あれだけ苦労したのにつまらんな・・・)

などとあれこれ考えていたが、いざ現場へ行ってみるとX氏の全身からは、一目でそれとわかるような異様なまでの地獄のオーラが発散されていた!

(あ・・・間違いない、読んだな・・・)

感想を訊いてみたいところだったが、さすがにそこまでは出来ないし、いつものように喫煙所で出くわす期待もあったが、この日ばかりはまったく姿を見せない。また、こちらには殊更に顔を背けているような全身の気配からも、明らかにこれまで見たことのないような、近付きがたい強い拒絶の姿勢が感じられた。

(あの様子では、思っていた以上に相当ショックを受けたみたいだな・・・ザマアミヤガレ。あれだけ苦労して書いたんだから、こっちとしてもそうでないと困るが・・・)

と満足し、あとは関わりあわずに終了を告げるまでの、時間の経過を待つばかりである。ところが間の悪い事に業務上の必要から、どうしてもX氏に接触しなければならない事態が発生した。

(どうせ今日で終わりなんだから、このままうっちゃっておくか・・・)

とも思ったが、やはり仕事は仕事だから気が進まないながらも

「Xさん・・・」

と平静を装って声を掛けたが、聞こえていないかのようにまったく反応がない。仕方なく、もう一度声を掛けると

「はぁ・・・」

と死人のような声色で、この日初めてこちらに向けた顔を見た時は、普段はあまりモノには驚かない事で定評のあるワタクシでさえ、心底ビックリ仰天した (;゚ロ゚)ヒイイイィィィィ

 (ウムムム・・・人間の目が、こんなに真っ赤になる事があるのか・・・)

と思わず我ながら腰が引けてしまうほど、ウサギのように真っ赤に腫れ上がった目が、完全に精気を失って死んでいた。あまりの屈辱に涙涸れるまで泣きはらしたか、はたまた眠れぬ週末の夜を悶々と過ごしてきたのか、僅か3日の間に生ける屍と化してしまったように、そこには3日前までとはまるで別人のように、憔悴しきった哀れな「X氏の残骸」のみが存在していたのである。

この時に改めて、普段のポーカーフェイスに隠した、X氏のデリケートな真の顔を垣間見た思いがし、当初の

(ザマアミロ)

という痛快な気持ちが蔭を潜め、形容しがたい苦い後味だけが残ってしまった (-ω-#)y-~~~~

桂春院(夏の京part12)


続いて《明智光秀の菩提を弔うために、創建したものである》という、通称「明智風呂」へも案内された。

 妙心寺本坊を堪能した後は、塔頭寺院巡りである。塔頭巡りとはいっても、47ある塔頭の中で常時公開しているのは2寺しかないのは惜しい。

 まずは「桂春院

 <江戸初期創建の妙心寺の塔頭。ツツジの大刈込が美しい南庭と苔が見事な東庭など、創建時の枯山水庭園(史跡・名勝)がある。

 三畳台目で草庵風の茶室既白庵[きはくあん]は、近江長浜城から移築されたものだ>

桂春院は、京都市右京区花園にある臨済宗大本山妙心寺の塔頭である。退蔵院・大心院とともに、通年公開されている塔頭の1つである。

慶長3年(1598年)に織田信忠(織田信長の長男)の2男・津田秀則が水庵宗掬(すいあんそうきく)を開祖として見性院(けんしょういん)を創建。秀則死後、美濃の豪族・石河貞政(いしこさだまさ)が寛永9(1632)に父の50年忌の追善供養のために桂南守仙(けいなんしゅせん)を請じて建物を整備し、父の法名「天仙守桂大禅定門」、母の法名「裳陰妙春大姉」から2文字を取り「桂春院」と改めた。

方丈(本堂)・・・京都府指定文化財
寛永8(1631)に建立された単層入母屋造・桟瓦葺の建物で、内部は狩野山楽の弟子である狩野山雪による襖絵で飾られている。このうち「金碧松三日月図」は狩野山雪の筆によるもので、かつては仏壇背後に貼り付けられていたが,襖絵へと改装された。

既白庵
石河貞政が寛永8年(1631年)に城主を務めていた長浜城から、書院ともに移築した茶室。深三畳台目、杮葺、東側を切妻造として出庇つける。藤村庸軒流の茶室と伝えられる。なお妙心寺では詩歌・茶道などは修行の妨げになるため厳禁だったが、建物の隅に隠れるように茶室を建て,ひそかに茶を楽しんでいた。

 書院、庫裏、表門は、いずれも京都府指定文化財。
出典 Wikipedia

 お目当てはあくまで有名な「退蔵院」の方であり「桂春院」は正直「おまけ」というニュアンスだったが、これが案外な掘り出し物であった。建物自体はこじんまりとしたものだが、見どころは4つの庭園である。 

庭園
江戸時代の作庭で、国の名勝・史跡に指定されている。

清浄の庭は、方丈北側の壺庭に井筒を利用して、西南隅に紀州の巨岩・奇石を直立した枯滝の石組、そこに滝の響き、白砂の渓流が音立てて流れる思いがするように、常に心身の塵垢を洗い清め清淨無垢にしたいものである。

佇の庭は、書院前の路地庭です。露地は梅軒門と猿戸によって内露地、外露地にわかれ、共に狭い面積であるが、少しの無駄なく空間を利用して巧みに作られています。その向こうは、一段低くなっていて七尊石、さびた茶の水井戸、蒼竜池があります。当院庭園の作者及び年代については、記録もないが、江戸時代初期、小堀遠州(1579-1647)の高弟、玉淵坊は妙心寺塔頭雑華院の庭を作っていることなどから、玉淵坊作庭説がいわれています。


方丈東庭は思惟の庭。左右には築山が配され、また十六羅漢石も据えられています。中央の礎石は、座禅石に見立てられています。


 真如の庭は、方丈南側の崖をつつじの大刈り込みで蔽い、その向こうは一段と低くなり生い茂る楓の樹木におおわれ、一面に杉苔の美しい中に、小さな石庭をさりげなく(無心に)七・五・三風に配置したところは、十五夜満月を表現している。