2003/12/28

シューベルト 交響曲第8番(第7番)『未完成』第2楽章



 ご存じの通り、この曲はベートーヴェンの『第5番(運命)』、ドヴォルザークの『第9番(新世界より)と並ぶ『三大交響曲』として真っ先に採り上げられる曲だけに、かつては店頭に並ぶディスクで『第5(運命)』とカップリングをされているケースが、やけに目に付いた。

実は、若いころは

(これが、それほどの傑作かいな?)

と、ずっと思っていた。

カップリングの多くは、この曲が第5の後にくるのだが、それがために折角『第5』で最高潮にまで高められたテンションが、あの『未完成』の地の底から響いてくるような、冒頭のなんとも地味な音色によって、フニャーっと萎えてしまうような気がして、どうにも不合理に感じたものだし、単に不合理と言うばかりでなく、どうしても見劣り(聴き劣り?)がしてしまうのである。

確かに良い曲には違いないが、果たしてあの『第5』や『新世界』に比肩しうる傑作かとなると、やはり疑問符をつけたくなってしま気持ちがあった。

ところが、あの辛口で鳴らしたブラームスは

《この曲は、交響曲の形式としては2楽章と一見未完成に見えるが、作品そのものは2楽章ながらも完璧なまでに完結されている。
誰がこの完全なる2楽章の後に、無用の音符を付け加える事が出来ようか・・・》  
と絶賛していたらしく、それから段々と年齢を重ねるにつれて、あの張り詰めたような独特の緊張感に魅せられ、すっかりこの曲のファンとなってしまっていた。

ブラームスとは違い、凡庸かつ欲張りな素人のワタクシとしては、やはりこの素晴らしい2楽章の後に、他の誰でもないシューベルト自身の作による「第3楽章」、「第4楽章」と続く『完成版』が聴きたかった、と声を大にして言いたいのである ( ´艸`)ムププ

2003/12/27

シューベルト 交響曲第8番(第7番)『未完成』第1楽章



シューベルトは非常に飽きっぽい性質だったらしく、途中まで創作した曲を何故か放り出したままに、次の新しい創作に手を染めたり、それが行き詰るとまた新しい作品に着手してみたり、或いはそこで中途創りの作品に戻ったりと、かなり変則的な仕事ぶりだったようだ。

そのようにして、途中で放り出されたまま未完成で終わってしまった曲が、幾つもあった。

ただし、この『未完成』に関しては、途中で放り出したまま亡くなってしまったのではなく、第3楽章の途中のところまでで意図的に筆を置いた、というのが定説である。

通常、交響曲は4つの楽章から構成され、その最も典型的な形が「アレグロ・ソナタ - 緩徐楽章 - スケルツォ - フィナーレ」という形式である。

シューベルトも、当初はそのようなものを構想して、この交響曲ロ短調の作曲を進めていったのであろう、と考えられる。

しかし、シューベルトは第2楽章まで完成させ、スケルツォ(第3楽章)をスケッチまでほぼ仕上げながら、そこで作曲を中止してしまった。

このような経緯により、交響曲ロ短調D759は第2楽章までしかない『未完成交響曲』となってしまった。

なぜ、第2楽章までで作曲を中止してしまったのかには、様々な説がある。  

例えば

「第1楽章を4分の3拍子、第2楽章を8分の3拍子で書いてしまったために、4分の3拍子のスケルツォが、ありきたりなものになってしまった」

というものや

「シューベルトは、第2楽章までのままでも十分に芸術的であると判断し、それ以上の付け足しは蛇足に過ぎないと考えた」

という説などである。

事実、第3楽章のスケッチの完成度があまり高くないため、シューベルトのこの判断は正しかったと考える人は多い。
  
 前回述べたように、作品を完成させないまま放棄するということをシューベルトは頻繁に行っていたため「未完成」であることは、この交響曲の成立に関してそれほど本質的な意味はない、とする考えもある。

シューベルトが残したスケルツォにオーケストレーションを施し第3楽章とし、劇付随音楽「ロザムンデ」の間奏曲を流用して第4楽章とし、4楽章の完成版として演奏する例もないことはないが、趣味の悪い選択でしかないという意見も多い。
Wikipedia引用

いずれが正しいかは別として、シューベルトはこの2楽章分を友人に送りつけたものの、シューべルトよりは遥かに愚鈍な相手は

「半分しか出来てない未完成品を、送りつけてきやがって」

とでも考えたのか、机の引き出しに放り込んだまま、すっかり忘れてしまっていた。

そうして、すっかり世間の目に晒される事なく、ひっそりと埃を被って眠っていたこの幻の曲が、大のシューベルトファンであり熱心な研究を続けていたシューマンによって発見され、ようやくその真価を天下に知らしむに至ったのは、シューベルトの死後40年以上が経過してからだった。

シューベルト最後の交響曲である「グレート」が、シューマンやブルックナーに大きな影響を与えたのは有名だが、この「未完成」も後世に与えた影響は測りしれない。

1つ目は、2楽章制を取っていること。

交響曲は4楽章制が当たり前で、3楽章制や5楽章制などが異例になるほどなのに、2楽章制でもやり方次第で交響曲を締めくくることが出来るのだ、という衝撃を与えた

2つ目は、緩徐楽章で交響曲を終えることである。

交響曲のフィナーレは快活な楽章が来るのが常識であり、アンダンテで終わるという方法は交響曲に新しい世界を与えるものであった

これは後に数多く作られる、アダージョ交響曲へと継がっていく。

必ずしもシューベルト自身が、狙って2楽章制や緩徐楽章で終わるようにしたのではないが、この曲を聞くとこれで充分だという満足感が得られるのである。

この曲は「未完成」の名を与えられることで、完成したのである。

この他にも、第1楽章で第2主題提示をしている際の息が詰まるような全休止が天才でしかなされない所業を感じさせ、またブルックナーを先取りしている点も興味深い。

箸中(箸墓)



 「箸中」は、元々は奈良県桜井市にある「箸墓古墳」から取った地名と言われるため、この地名の由来は「箸墓」から引いていきます。

「箸墓」の由来は、日本書紀の中にある話で

《孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が、大物主神の妻となった。

夫である大物主神は昼間姿が見えず、夜にだけ訪れる。

姫は、夫に姿を見せてほしいと頼んだ。

すると翌日、櫛笥(くしの箱)に入った小さな蛇となって現れた。

それを見て姫が驚いた為、大物主命は恥をかかされたと言って、三輪山に隠れてしまった。

姫は後悔して、陰部を箸で突いて自殺した。

だから人々は、姫を葬ったこの墓を箸墓と呼ぶようになった》(崇神紀109月の条)

ということです。

《姫が驚いて尻餅をついたら、運悪く箸が突き刺さって出血多量で亡くなった》という「事故死」説もあります。

また、箸は土師(はじ)の転化したもので、古代の豪族・土師氏と関係するともいわれています。

●箸(はし)墓伝説の真実 
奈良県櫻井市箸中に、箸墓古墳(全長276メートル、後円部の径150メートル)があります。

『日本書紀』崇神紀109月の条に、大物主神の妻となったヤマトトトビモモソヒメが、夫の姿が蛇であることを発見して驚き、夫の怒りをかったことを悔やんで、箸で陰(ほと)を突いて死んだために、その墓を箸墓というとあります。  

しかし箸で自殺するというのは、伝説とはいいながらあまりにも突飛で、合理性に欠けた行為です。

この箸墓の「はし」の語源について『「はし」は土師器をつくり、古墳の造営を司った「土師(はじ)」氏の「土師」に由来する』とする説があります。

しかし、土師氏と磯城地方との関係や時代的関係などについて、さらに検討を要します。
 
 また、箸墓の所在する字「箸中」の地名は『大般若経奥書』(永保元(1081年)に「大和国城上郡箸墓郷内」とあることから「はしのはか」の転訛であろう、とする説があります。

この「はし」は、マオリ語の「パチア」、PATIA(spear)、「槍」の転訛と解します。

原ポリネシア語の「パシ、PASI」が、ハワイ語ではS音がH音に変化して「パヒ、PAHI(knife)、ナイフ・短刀」に、マオリ語ではS音がT音に変化して「パチア、PATIA(spear)、槍」となり、日本語に入ってP音がF音を経てH音に変化して「ハシ」となったものです。

つまり、同じ発音ですが「はし」は食事に使う「」ではなく、刃物だったのです。

通常、女性が自殺する場合に使用する刃物は「短刀、懐剣」でしょうが、短刀で自殺したのではあまりにも当たり前過ぎて「話題性」に欠けます。

「槍」を使用して自殺したというのが真実で「箸」よりも遥かに合理的ですし、決定的な真実味があります。

また『日本書紀』のこの条には

《悔いて急居(つきう)。即ち箸に陰(ほと)を撞(つ)きて薨(かむさ)りましぬ》

とありますが、この「急居(つきう)」はマオリ語の「ツキ・ウ」TUKI-U(tuki=pound,beat,attack;u=breastof a female)、「女性の胸(乳房)を打つ(刺す)」の意です。

さらに「ほと」は、マオリ語の「ホト」、HOTO(start,make a convulsive movement)、「衝動的に行動を起こす」の意です。

これらを総合しますと、この箇所は

「(ヤマトトトビモモソヒメは自分の行為を)悔やんで、衝動的に槍で自分の胸を突いて死んだ」

と解釈するのが正しく、またきわめて合理的です。

この『日本書紀』の原文には

《而悔之急居。急居、此云菟岐于(つきう)。即箸撞陰而薨》

とあり《急居、此云菟岐于(つきう)》の箇所は、分注となつています。

おそらく「はし」という音で伝えられていた言葉を「」と解釈し「ほと」を「」と解釈したため「つきう」を「急にどしんと腰を落とした」と解釈せざるをえなくなって「急居」の字を当て、その読み(本来の言葉の発音)を分注で示したものでしょう。

 この例は『日本書紀』の編集者が、神話伝説の伝承に用いられた言葉が、発音は同じでも日本語とは違う意味であることを知らず、総て日本語で解釈したために犯した誤りの代表的な例ということができます。

また『古事記』のスサノオの、ヤマタノオロチ退治の条に

《肥川(ひのかわ)の上流から箸が流れてくるのを見て、人が住んでいるのを知った》

という記事がありますが、古代においては一般庶民が箸を使用することはなかったそうで、庶民よりも早く使用したであろう朝廷の官吏でも、彼らが執務した朝堂跡から箸が発掘されるのは、平安時代も中期に入ってからといいます。  

そうしますと、この話は全くの創作か、あるいはこの「はし」も「ナイフ」か「」であった可能性があります。

この場合の「刃物」は、水に浮くわけですから青銅や鉄の刃物ではなく、木の柄に黒曜石の細刃を埋め込んだ「ナイフ」か、木の棒に黒曜石の刃先をつけた「」であった可能性が高いと考えられます。

ちなみに「倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命」の名は、マオリ語の
「イア・マ・タウ・トト・ピ・モモ・ト」IA-MA-TAU-TOTO-PI-MOMO-TO(ia=indeed;ma=white,clear;tau=beautiful;toto=blood,bleed;pi=flow;momo=ingood condition;to=set,calm)、「実に清らかで、美しい大和の地の血を流して(死んで)、手厚く葬られた(姫)」

の転訛と解します。
※ httpwww.iris.dti.ne.jp~muken 引用