2019/07/30

第三次ポエニ戦争(1)

第三次ポエニ戦争(紀元前149 - 紀元前146年)は、かつてフェニキア人の植民地だったカルタゴと共和政ローマとの間で争われたポエニ戦争の3回目にあたり、最後となった戦争である。「ポエニ」という名称は、ローマ人によるフェニキア人の呼び名から名付けられた。

戦争はカルタゴ市に対する3年間の攻囲戦であり、これによってカルタゴの町は完全に破壊され、残されたカルタゴの全領土はローマに併合され、戦争の際に都市に残っていたカルタゴの全住民は、戦死(飢死含む)か奴隷となった。第三次ポエニ戦争により、国家としてのカルタゴは滅亡した

背景
第二次ポエニ戦争の終わりから第三次ポエニ戦争に至るまでの間、ローマはギリシャからヘレニズム諸国の侵攻に対抗する援軍を要請され、当初最低限の援軍で勝利していたが、次第にこの戦争に深入りする事になった(マケドニア戦争、イリュリア戦争、アンティオコス3世を参照)。また、西に向かってはイベリア半島に遠征し、半島の住民が第二次ポエニ戦争の勝利に大きく貢献した部族も含めて、課税無きローマ同盟に組み入れた(第一次ケルティベリア戦争、ヌマンティア戦争、ルシタニア戦争)。

20年間に渡る第二次ポエニ戦争において、ローマ本土を破滅的状況に追い込んだカルタゴであったが、ローマから提示された停戦条件は寛容なものであった。内容としては、海外領土(シチリア島、サルデーニャ島、ヒスパニア)を(いずれも、すでに敗戦により実効支配を失っている)ローマに引き渡し、毎年200タレント銀貨の賠償金(カルタゴ農業生産の1年分未満)を50年間に渡って支払う事、軍事行動の自主決定権を持たないという責務を負うものに過ぎなかった。

第二次ポエニ戦争でローマは20年近く戦場になり、数十万人の犠牲を出していたことと、イタリアと異なりギリシャでの従来の主権国家同士の同盟政策がギリシャ人の侮りを買い、全く裏目に出ている事などで、ローマ人の中に強硬派が増え始めていた。

彼らの警戒心は、カルタゴにも向けられた。カルタゴは貿易によって経済的繁栄をかなり取り返しており、そのためにローマ人はギリシャで戦役が無益に長引く現状への嫌悪もあり、全ての禍根をローマの力で絶つこと、そのためには復興したカルタゴも滅ぼすべきだと言う民意が芽生えていた。特に主戦派のマルクス・カトーは、元老院でどんな演説をしても「ところで、カルタゴは滅ぼされなければならない (Carthago delenda est) 」の言葉で締めくくった。カトーは、当時ローマ最大の英雄でかつ、下記の伝統外交派である大スキピオの政治生命を絶った。

スキピオの失脚後も、元老院においてはローマの伝統的外交手法である、ローマを主、同盟国を従とした覇権(課税無き、戦争にのみ参加する義務を負う同盟)を目論んでいた非戦派も存在し、その代表者スキピオ・ナシカ・コルクルムはカトーに対抗し、自身の演説を「カルタゴは存続されねばならない」で締めくくった。

しかしながら、紀元前192年のローマ・シリア戦争は、対カルタゴ非戦派をも失望させるものとなった。この戦争においてカルタゴは兵糧の提供を、ヌミディアは兵糧に加えて兵力の提供を申し出たのだが、ローマは兵糧の提供は断って有償で買い上げる一方、ヌミディアの兵力提供は有り難く受け取った。

当時のローマの価値観では、兵糧は自前で用意すべきものであったが、兵力は同盟国から供与を受けるものであったからである。そのためローマは、カルタゴを非協力的な国と看做す一方で、ヌミディアを信頼できる同盟国と考えるようになった。

当時ローマは、先進国であったギリシャ文明に敬意と憧れを強く抱いていた。大スキピオもそうであったように、大多数のローマ市民は、この伝統派であり、ギリシャに傾倒して子弟にギリシャ式の教育を施すほどであった。

同時に、そのギリシャが優れた行政能力とシステムを持ちつつあったローマを、よりにもよってそのローマの援軍に助けられながら蛮族扱することや、衰退に甘んじ、紛争や外向的失策を繰り返しては、その度にローマの援軍を利用する事などに幻滅しつつあった。特に、カトーはローマ至上主義者であった。

ローマによる新秩序を求める強攻策か、従来通りの伝統策か、ローマは自ら兵士としても、対外関係の影響を受ける市民達によって、激しく二分されつつあった。

第二次ポエニ戦争の最後に締結された講和条約により、カルタゴの境界に関する争いは全てローマ元老院の調停に任せることとされ、カルタゴが市民を武装させたり傭兵を雇ったりする前には、ローマの承認が必要とされていた。その結果、第二次と第三次の戦争を隔てる50年間、カルタゴはローマの同盟国ヌミディアと境界紛争が起こる度にローマ元老院の仲裁を仰いだが、上述のローマ・シリア戦争の経緯もあり、下される裁定は常にヌミディアに一方的に有利なものだった。

この時、カルタゴは自国の以前の姿との落差に適応出来ておらず、かといってそれを跳ね返すだけの長期的準備も、不十分だった。
出典Wikipedia

2019/07/28

プラトン(7) ~ アカデメイアの創設まで

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

政治家への道から教育者への道へ
 先にプラトンは、ソクラテスにおいて政治的活動をするにせよ何をするにせよ立派に事をなすには、その根底として「人間が立派になっていなければならない」という主張があることを知って、それに惹かれてソクラテスのもとに通うようになったのであろう、と推察しておきましたが、ここにおいて、「三十人会のごとき少数者制」はもちろん、これまでのような「民主制にも、それは期待できない」と痛感したのかもしれません。

 こうして、プラトンは実際的政治活動から身を引き、やがて一人前となってからはアカデメイアという学園を開校し、教育者となっていったと考えられます。つまり政治活動にせよ何にせよ、それ以前に「人間をつくる教育の重要性」を認知したのであろうということで、これはまた時代の要請でもあったかもしれません。というのも、これは今日の高等教育機関のはしりなのですが、類似のものはやはり同時代のプラトンのライバルともいえる弁論家イソクラテスにもあるからです。ですからプラトンは、その『国家論』において「教育の重要性」を繰り返し述べてくることになったのだと考えられます。

 その「学園アカデメイア」創設はプラトンが40歳、第一回シラクサ旅行から帰ってのこととされていますが、ソクラテスの死の年、つまりプラトン28歳の時から40歳までの時代には彼は何をしていたのでしょうか。この間、まずはソクラテスの教えを念頭にした「初期対話篇」の数々を執筆していたらしいということと、様々なところへの旅行が伝えられています。

 初期対話篇の性格ですが、いろいろ難しい問題は有りますが、取りあえずは「ソクラテスを伝える」ことが目的であったことは間違いないです。もちろん、これは「プラトンが理解し、自分のものにしたソクラテス」であることは当然です。

 とりわけ大事な著作は『弁明』と『クリトン』『パイドン』で、これはプラトンが立ち会っていた「実際にあった法廷」、そして裁判役の人々はじめ、まだそれに立ち会った当時多くの人たちが存命の間に書かれている「見聞録的な性格」を持っているので、脚色があったとしても極端に外れてはいないだろうと推定できます。ここでの「ソクラテスのありかた・精神」が他の初期プラトン対話編にもそのままみえるので、初期対話編は全体として「ソクラテス哲学の記録」と理解されるわけでした。

 その合間を縫って、プラトンは旅行をしていたと伝えられます。伝えられるところでは南イタリアから北アフリカ、エジプトなども含まれており、そしてまた実際プラトンの著作からもそうした各地を訪れていたらしい痕跡を探すこともできます。こうしてプラトンはこの時期、師ソクラテスから死に別れて独り立ちした自分を形成していく作業を、様々にしていたということが伺われます。

アカデメイアの創設
 こうして帰国後、プラトンはアテナイ郊外の「アカデメイア」に自分の学園を開くことになったのでした。この背景にプラトンの「現実政治に対する絶望」があったろうということは先にも指摘しておきました。この政治に対する絶望については、彼の書簡の至るところに確認できます。そして第七書簡にはっきりと言われてくるように「国家のことも個人のことも、それらの正しいあり方はフィロソフィア=愛知・哲学(良く生きることについての知の愛し求め)から以外に見極めることはできない」という結論にいたったわけなのでした。再三指摘しておきましたが、これがプラトンの哲学に対する根本的態度であったということです。

 通常私たちは「政治と哲学は相容れない」と考えています。政治は正・不正よりも「損得に基づく現実処理」に尽き、哲学は現実よりも「真実・本質」を求め「正・不正を問題にする」からです。ソクラテス自身にそうした見解があり、その立場からソクラテスは現実的な政治活動への忌避を述べていました。しかしプラトンは違っていました。彼は若い頃、現実政治の世界に飛び込もうとしていて、ソクラテスの弟子になってもその思いは変わらず、そして政治に絶望しても、なおかつ理想の政治を追い続け、それ故に革命を志すディオンに思いを託したりしていたのでした。これが、おそらくソクラテスや他の弟子たちとプラトンを分ける「プラトンの最大の特徴」と言えるでしょう。

 ともあれ、こうしてプラトンはアカデメイアにあって教育と学究の生活に入ったのでしたが、これはプラトンにとっては、ソクラテス的な意味での「良く生きる」という人間のあり方の実現でもあったでしょう。こうなってからの、つまり40歳から60歳までの20年ほどのプラトンの姿はあまり定かではありません。おそらく静かな学究と教育に専念していたのでしょう。そして多分、あの膨大な『国家』を執筆していたのではないかと推察されるくらいです。

2019/07/27

神話を彩る妖精たち(ギリシャ神話60)

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html
 
 ギリシャの神々の一族はなかなか複雑で、オリュンポス山に館を構える「オリュンポスの12神」が中心にはなっているものの、それ以前の神々いれば、オリュンポス神族に属していても「12神以外の神族」もいた。さらには「河の神」のようにオリュンポス山には館をもっておらず、山野や海に住まっているような神もおり、さらにその下にはそうした山野や海の神の娘たちがいる。彼女たちは、もう神とは呼ばれず「妖精」ということになってくる。
 
  この妖精は、古代ギリシャ語の発音では「ニュンフェー」と呼ばれる。これが英語に流れてきて、通常我々は「ニンフ」と呼び慣わしている。このニンフは、もう神々のような際だった特殊能力は持っておらず、山や河、木や海や泉の「精気の具象化」ともいうべきもので、ようするに「自然の精」というべきものとなる。従って、自然の霊気を与えたり奪ったりすることはできたようで、そうした物語もある。また「自然の精」なので生気溌剌としていたのであろう、彼女たちは皆「若く、愛らしく、美しい少女」であり、そのため男神を含め多くの男性の恋の対象となって、さまざまの物語の主人公となっている。英雄の母親に彼女たちが多いのも当然である。

  彼女たちの住まうところは当然自然の中で、従って自然の霊気を感じさせるような洞穴などが「ニンフの祠」とされたり、泉がそのまま「ニンフの住まい」とされたりしているのを、ギリシャおよびそれを引き継いだローマ世界のいたるところで観察することができる。現在のヨーロッパ各地にもそうした場所がたくさんあるのは、ヨーロッパは元々ギリシャを引き継ぐローマ帝国の一部だったからである。ただしローマから遠かった北欧のものは、むしろ「ゲルマン民族」の神話に属するものが多く観察される。
 
 こんな具合に「妖精」といっても種類が多くなってしまうのは止むを得ず、古代ギリシャに限っても数種類に分けられ、それぞれの呼び名を持っていた。
例えば「泉や河のニンフはナイアス、複数でナイアデス」と呼ばれていたし、「海のニンフ」は出生によって「オケアニデス(オケアノスの娘たち)」とか「ネレイスないしネレイデス(ネレウスの娘たち)」と呼ばれている。また「山のニンフはオレスティアデス、ないしオレアデス」と、「森のニンフはアルセイデス」、「木のニンフはドルュアデス」ないし「ハマドリュアデス」、「谷間のニンフはナパイアイ」、「雨のニンフはヒュアデス」、「岩のニンフはペトライアイ」などである。
 
 ちなみに「女神」なのか「ニンフ・妖精」なのか良く分からないものもいる。オケアノスの娘となるステュクスは、オケアノスの娘「オケアニデス3000人」の一人で通常、彼女たちはニンフ・妖精の扱いなのだが、ステュクス一人「冥界を流れる河」として「誓いの女神」とされていて、これは完全に「神」扱いである。

 同じく海のニンフ「ネレイス」の一人の「テティス」なども完璧に「女神」扱いとなっている。テティスには女神ヘラとの関わりや神ゼウスとの深い関わりの物語があり、そしてトロイ戦争の英雄アキレウスの母となる。
 また、ホメロスの『オデュッセイア』にでてくる「カリュプソ」などは「海のニンフ」の一人なのだが、物語の中では、まるで「女神の一人」のような描きとなっている。

 こんな具合に一口で「ニンフ」といってもかなり色々なのだが、総体としてはやはり「山野や海に住む泉や木などの自然の精」であって「若く愛らしい少女」の姿を持っているものと考えて間違いはない。

 彼女たちは多くが英雄たちの母とされるが、とりたてて物語を持たない場合が多い。要するに英雄たちの素性を神に繋げたい願いによって作られた家系図となっている。その中で物語を持って知られる名前となっている妖精たちを紹介しておく。

海の妖精、オケアニデス(オケアノスの娘たち)
 海の妖精には、様々なタイプがいるのだが、代表的なのに二つの種族がおり、一つはオケアノスの血筋にあり、もう一種族はネレウスの血筋の者たちとなる。オケアノスは原初の神「大地ガイアと天ウラノス」の子であり、水の神として姉妹のテテュスとの間に「すべての河と3000人の娘」を持った、とされている。その娘たちの中で、知られる名前を挙げておく。

ステュクス
 彼女は、ある時父オケアノスの代理としてゼウスの元に援軍に赴き、それを喜んだゼウスによって彼女は「誓いの河」として、神々はあらゆる誓いを彼女の名前によって行うこととしたという。神々がそれを破った時には9年間、呼吸や飲食を禁じられ、他の神々との交際も禁じられたという。ステュクスは冥界を七巻きにわたって巻き、その河は魔力を持ち、そのためアキレウスを生んだ女神テティスは、アキレウスをこの河に浸けて人間的部分を流し去り不死にしようとしたという。ただし、かかとの部分を水に浸ける前に発見されてしまったために、アキレウスはかかとが急所になったという有名な逸話となってくる。

アレトゥサ
 今もシケリア・シラクサのオルティギア島の海辺にある淡水の泉が彼女なのであるが、彼女は元々はギリシャのペロポネソス半島北部にあって、山野を管轄する純潔の女神アルテミスに従っていた処女であった。しかし、ある時アルペイオス河神に見初められて迫られ、処女を守ろうと主人アルテミスに願って泉に変身し、海底を潜ってシケリア島まで逃げてきたが、アルペイオスも河であるから同じく海底を潜って追いかけ、シケリアの泉に身を変えていた彼女に流れ込んで交わり合体してしまったという。

ピュリラ
 神クロノスが彼女を狙い、妻の目を隠すために彼女を馬の姿にした(あるいは彼女がクロノスを逃れるため、馬の姿に変身した)が、クロノスも馬の姿となって彼女と交わり、そのため彼女は「半人・半馬のケイロン」を生んでしまったという。彼女は、そのケイロンを育てて幾多の英雄を育てる最大の教育者にした、とも、恥じて「木」に変身してしまったともいう。その名前は「菩提樹」を意味し、後者はその菩提樹の由来話しとなる。

クリュティエ
 太陽神ヘリオスに愛されたが、ヘリオスは彼女を捨ててレウコトエを愛人にした。しかし未だヘリオスを諦めきれないクリュティアは、レウコトエの父に自分が愛人であったのだと告げた。しかし、かえってヘリオスを怒らせ、彼女は悲しみのあまり死んでしまったが、死んだ後に花となってヘリオスを見つめ続けているという。ヘリオトロープ(太陽、つまりヘリオスに向いて咲く花)と呼ばれる薄紫の草花の所以の話となる。この花は香りが高く、香水の原料となっている。