2022/10/28

キリスト教の発展

 出典http://timeway.vivian.jp/index.html

イエスの死後、弟子たちの活動によって徐々にキリスト教の信者はローマ帝国内に広がっていきました。初めの頃の信者は、女性と奴隷が中心だったといわれています。イエスが、どんな人々に布教したかを考えれば当然かもしれない。

 

 奴隷は当然虐げられた人々。女性も社会的には抑圧された生活をしていたと考えられるでしょう。

 

 キリスト教が広まり始めた頃は、当然新興宗教です。何時の時代でも、新興宗教というものは周囲から疑わしい目で見られるものだ。初期のキリスト教も、ローマでは胡散臭いものとして見られたようです。信者であることを知られると迫害されるので、彼らはこっそり集まって信仰を確かめあいました。

 

  集まったのがカタコンベ。このカタコンベは、地下墓所と訳しています。ローマ人たちは、町の郊外に墓地を作ります。地下にトンネルを掘って、トンネルの壁に棚がたくさん作ってあるでしょ。この棚に死体を置いたんだ。火葬はしません。現在はこんなふうに空っぽの棚が並んでるだけだけど、当時はここにぎっしり死体があった。当然気味が悪いところだから、誰も来ない。

 

 迫害を恐れて、信者たちはここに集まったんです。集まる時間は夜。みんなが寝静まった頃を見計らって、奴隷たちや女たちが家屋敷を抜け出してカタコンベにやってきて集会を開きました。こっそり集まっても、やがて人々に知れますわな。キリスト教の信者たちは、夜な夜な地下墓所に集まって何かよからぬことをやっているんじゃないか、とますます差別が激しくなった。死体を食べてるとか、乱交してるとかね。

 

 まあ、そんな偏見や皇帝による弾圧があったりしながらも、徐々に信者は増えたようです。復習になりますが、ディオクレティアヌス帝の迫害は有名でしたね。ところが313年にはコンスタンティヌス帝のキリスト教公認、392年のテオドシウス帝による国教化と、4世紀にはキリスト教はローマ帝国を支える精神的な柱にまでなったわけです。

 

 

教義をめぐる対立、教父

 信者が増えるにつれて、各地に大きな教会もできてきます。聖職者も多くなる。やがて、教義をめぐる教会内の対立が起きます。どんな宗教でも、開祖が死んでから何十年も経てば、考え方の違いで対立したり分裂したりするものです。ただ、キリスト教はローマ帝国の公認宗教になりますから、帝国政府としては教会内部が対立するのは好ましくない。そこで、ローマ政府は公認後何回か聖職者を集めて、宗教会議を開いています。

 

 これは、教会内の対立を皇帝が調停するということと、もう一つは調停を名目として皇帝が教会内部に干渉して権力内部に取り込んでしまう、という意味もあったんです。

 

この宗教会議のことを、教科書では公会議と書いています。有名な公会議が3つ。

 

325年、ニケーア公会議

431年、エフェソス公会議

451年、カルケドン公会議

 

ニケーアとかエフェソスとか、会議の開かれた場所です。

 

 高校でこんなに詳しくキリスト教神学の勉強をする必要はないと個人的には思っているんですが、教科書は詳しいね。滅茶苦茶大ざっぱに説明しておきますね。

 

 キリスト教会の内部で、繰り返し議論の対象となった問題があります。この3つの公会議も、突き詰めたら一つの問題を繰り返し議論しているのです。それは何かというと、イエスの問題なんです。イエスはなんなんだ? 初期の聖職者たちも疑問に思ったんだね。彼が救世主であることはいいんです。そう信じる人がキリスト教徒なんだから。問題はその先、救世主イエスは人間か、神か? そこで論争が生まれる。

 

 人間だったら死刑になったあと、生き返るはずはない。人は死んだら普通死んだままですからね。だからイエスを人間とすると、やがてそれは復活の否定に繋がります。

 

 じゃあ、神だったのか。それもおかしいんです。キリスト教も一神教です。神はヤハウェのみ。イエスも神としたら、神が二人になってしまいます。だから彼を神とすることもできない。

 

 この矛盾をどう切り抜けて、首尾一貫した理論を作り上げるかで初期の聖職者、神学者たちは論争したんだ。

 

325年のニケーア公会議では、アリウス派という考えが異端、つまり間違った理論とされます。アリウス派は、イエスを人間だといったんです。正統と認められたのはアタナシウス派という。このアタナシウス派の考えは、あとでまとめます。

 

 431年のエフェソス公会議では、ネストリウスという人が異端とされます。彼はマリアを「神の母」と呼ぶのに反対したんで異端になった。実際には政治闘争だったようですが、あえていえばネストリウスもイエスの人間性を強調したということでしょう。

 

 451年カルケドン公会議では、単性論派が異端とされます。このグループは、イエスを人間ではないとする。単純にいえば神だ、というわけだ。

 

  つまりイエスを神とか人間とか、どちらかに言いきる主張は異端とされていったんです。これらの論争を通じて勝ち残って、正統とされたのはアタナシウス派です。この派の理論は「三位一体(さんみいったい)説」という。神とイエスと聖霊の三つは「同質」である、という理論です。注意しなければいけないのは「同質」という言い方。「同じ」とは違うからね。ややこしいね。「同質」というのは「質が同じ」なので「同じ」ではない。

 

 元々「生き返った人間」イエスを人間でも神でもないものに、別の言い方をすれば、人間でもあり神でもあるものにしようというんだから、分かりやすく理論を作るのは無理だね。そこをなんとかくぐり抜けて完成された理論が「同質」の「三位一体説」です。だから私、実はよく分かっていません。このいきなり登場した「聖霊」はいったいなんだろうね。辞典を読んでも分かりません。

 

 現在キリスト教は世界中に広がっていますが、カトリックもプロテスタントも伝統的な教会は三位一体説に立っています。みんなそうだから、現在ではあらためてアタナシウス派なんて言わないくらいに一般的です。教会の説教で「父と子と聖霊の御名において~~」というのを聞いたことありませんか。あれが三位一体ですね。アメリカ合衆国生まれの新しい宗派では、三位一体説に立っていないものがあるかも知れませんがね。

 

異端とされた宗派のその後ですが、ローマ帝国内では布教ができません。アリウス派は、北方のゲルマン人に布教活動をします。ネストリウス派は、イランから中央アジアにかけて広がっていきました。単性論派は、エジプトやエチオピアに残ります。

 

初期教会の指導者で、教義を整備した人たちのことを教父といいます。二人覚えて下さい。エウセビオス(260~339)は「教会史」を著して有名。アウグスティヌス(354~430)は「告白」「神の国」の著者。アウグスティヌスは、もとマニ教というのを信じているんですがキリスト教に改宗する。そんな半生を書いたのが「告白」です。この人は今でも、キリスト教徒の人たちにはファンが多いみたいです。

2022/10/26

プロティノス

プロティノス(プローティノス、古希: Πλωτνος、 羅: Plotinus、英: Plotinus 205? - 270年)は、古代ローマ支配下のエジプトの哲学者で、現代の学者らからはネオプラトニズム(新プラトン主義)の創始者とされている人物である。日本語では「プロチノス」とも表記される。主著は『エンネアデス』。

 

生涯

プロティノスの人生、特にローマで暮らし始めるまでの人生については、あまり正確なことは知られていない。というのは、同時代に書かれたほとんど唯一の重要な伝記は弟子のポルピュリオスによるもので、これは現代的な意味での学術的な伝記ではなく、弟子で筆者のポルピュリオスは正直で正確であろうとは努めているものの、師の中に英雄を見ることを望んでおり、そうした心情のもと(筆者が知らないことを、想像で勝手に補うようなこともしつつ)記述したものだからである。

 

プロティノスは、おそらくエジプトのリコポリス(Lycopolis)にて誕生。「28歳の時に、哲学への愛に燃え立った」プロティノスは、アレクサンドリアのアンモニオス・サッカスの下で11年間学んだ。39歳の時、哲学をさらに学ぶために、ローマ皇帝ゴルディアヌス3世が試みたペルシア遠征の軍隊に身を投じる。だが、後244年にゴルディアヌス3世が死んだため、プロティノスはアンティオキアまで命からがら逃亡した。

 

40歳でローマに移住し哲学塾らしきものを開くが、師たるアンモニオスの教説には長らく触れなかった。26年間に及ぶローマ生活の中では、ローマ皇帝ガリエヌスとその妃に尊敬されるという特権的地位の下、イタリア半島南西部にあるカンパニアにプラトンの国制を実現する都市「プラトノポリス」を建設することを計画したが、皇帝側近者の反対に合い頓挫する。晩年は流行病に罹り、そのためローマを離れてカンパニアに居住した。最期は弟子であり医者であるエウストキオスに看取られる。臨終の言葉は「我々の内なる神的なものを、万有の内の神的なものへ帰すように、今私は努めているのだ」とされる。

 

思想

プロティノスは、プラトン(紀元前427 - 紀元前347年)より500年以上も後の生まれであり、当時は様々な神秘主義思想が唱えられていた時代である。プロティノスの思想は、ヌメニオスの剽窃であるという嫌疑をかけられたが、これはプロティノスの弟子アメリオスにより論駁されている。ただしネオプラトニズムの創始者とはいっても、プロティノス自身には独自な説を唱えたという意識はなく、プラトンの正しい解釈と考えていた。

 

一者

プロティノスの思想は、プラトンのイデア論を受け継ぎながら、その二元論を克服しようとしたものである。プラトンの『パルメニデス』に説かれた「一なるもの」(ト・ヘン to hen)を重視し、語りえないものとして、これを神と同一視した。万物(霊魂、物質)は無限の存在(善のイデア)である「一者」(ト・ヘン)から流出したヌース(理性)の働きによるものである(流出説)。一者は有限の存在である万物とは別の存在で、一者自身は流出によって何ら変化・増減することはない。あたかも太陽自身は変化せず、太陽から出た光が周囲を照らすようなものである。光から遠ざかれば次第に暗くなるように、霊魂・物質にも高い・低いの差がある。

 

また、人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。[エネアデスVIの第11節] ただしエクスタシスに至るのは、ごく稀に少数の人間ができることである。プロティノス自身は、生涯に4度ばかり体験したという。また高弟ポルフュリオスは『プロティノスの一生と彼の著作の順序について』(『プロティノス伝』と称される)の中で、自らは一度体験したと書き残している。

 

美学

彼によれば、ある物体は、ある時は美しく、ある時は美しくないのだから、物体であることと美しくあることとは別のことである。このような美の原因としては均斉 symmetria が挙げられることがあるが、しかしこれが美の原理であるならば、美は合成体にのみ存し、単純な美は存在しないが、光線、あるいは単音のように単純で美しい物があり、また「節制は愚行である」という命題と「正義は勝者である」という命題とは均斉はとれていながら、この倫理観は美しくない。したがって均斉は美の原理ではない。美が感知されるのは何か精神を引き付けるものが存するからで、すなわち精神と同質のロゴスが存しなければ物は美しくない。したがって美の根源は、ロゴスの明るさの中心として光に譬喩される神であり、超越美 to hyperkalon である一者としての神を頂点として、以下、ヌース、諸徳のイデア、諸存在者の形相、質料、という美の序列が成立する。

 

この構想はプラトン的であり、その証明法はプラトンのようにミュトスによらず美的経験の分析による。この考えによれば、芸術美を自然美と原理的に区別し得ないが、芸術は自然的事物を摸倣してはならず、自然美を成立させる原理を摸倣しなければならない。すなわち芸術家にとっては、精神の直観力によってロゴスとしてのイデアの全体像を把握するのが先決問題である。プロティノスの宗教的美観は「汝自らの魂の内を見よ。自らが美しくなければ、自らの行いを清め、自己のうちに美が見えるまで努力せよ。神すなわち美を見たいと欲するものは、自らを神に似た美しいものにしなければならない」という言葉に表されている。

 

影響

神秘主義的な思想は、初期キリスト教のアウグスティヌスらにも影響を及ぼし、キリスト教神学に取り入れられたとされる。プロティノスの著作自体は中世の西ヨーロッパには伝わっておらず、ルネサンス期の人文主義者・フィチーノがラテン語に翻訳したことで再発見された(1492年に刊行)。フィチーノを中心とするイタリア・ルネサンスの異教的な思想を育み、また後世の神秘思想にも影響を与えた。

 

また、プロティノスと同時代のグノーシス主義にも影響を及ぼしたが、プロティノス自身は「神が人間の方へ降りてくることはない」として(グノーシス主義を含む)キリスト教を批判していたという。

 

エンネアデス

『エンネアデス』(Enneades)は「一なるもの、善なるもの」「魂の不死について」などプロティノスの遺稿を、高弟ポルフュリオスがまとめたものである。

 

54の論文が6巻にそれぞれ9論文収められている。6は完全数であり、ポルフュリオスによると、9は「神学の頂点<奥美>」を示す(『プロティノス伝』)。

 

エンネア(Ennea)はギリシア語で9を、エンネアス(Enneas)は「9つで一組のもの」を意味する。エンネアデスはその複数形である。日本語では『エネアデス』とも表記される。

出典 Wikipedia

2022/10/20

キリスト教

イエスの話は、これで終わり。

ところがキリスト教は、ここから始まる。

 

イエスが処刑されて数日後、女性信者三人がイエスの亡骸を引き取りに行ったんです。当時の墓は横穴式の洞窟になっている。イエスの亡骸もそこに入れてあったはずなんですが、彼女たちが入っていくと死体が消えていたというんだね。

死体は、確かになくなっていたらしい。そこまでは事実としましょう。

 

ところが、この話がどんどん伝わる中でイエスが生き返った、復活したと考える人々が現れました。

巻き添えになるのを恐れて逃げ散っていた弟子たちも再び集まってきて、弾圧を恐れずイエスの教えを人々に説きはじめます。彼らも復活したイエスに会ったという。

 

このようにしてイエスは復活した、イエスはやはり救世主だったと考える人々によって、キリスト教が成立しました。キリストとは、ギリシア語で救世主のことです。

 

救世主の復活を信じる人々は、キリスト教徒になりました。信じない人々はユダヤ教に留まり続けることになります。

 

復活ということをどう考えるか。これはもう歴史の授業から外れてしまうので、皆さんそれぞれが考えたらいい。

ただ、逃げていた弟子たちが再び活動を始めたのには、何かがあったんでしょうね。こういうのを宗教体験とか、霊的体験とか、啓示とかいうんだろうね。

 

イエスの弟子で有名な二人がペテロとパウロ。

ペテロは、裁判の時にイエスを知らないといった男です。ところが処刑後は熱心な布教活動をおこない、最後はローマで処刑された。

 

パウロは、イエス死後の弟子です。死後の弟子というのも変だけど、復活したイエスに会っているからそうなる。

パウロは、裕福なユダヤ人の家に生まれた熱心なユダヤ教徒でした。キリスト教徒を見つけだして迫害していた男なんです。ところが、旅行中に復活したイエスに会う。イエスは、パウロに「なぜ、私を迫害するのか」と声をかけたという。

これ以後パウロはユダヤ教を捨て、それまで迫害していたキリスト教の布教活動に生涯をかけるんです。

 

キリスト教の理論面で、パウロの功績は大きいです。イエスの教えを基に、パウロがキリスト教を創ったという人もいるほどです。

それから、パウロはユダヤ人だけどローマ市民権を持っていたんです。だから、自由に帝国内を旅行することができた。キリスト教徒として逮捕された時も、ローマ市民の権利としてローマ市で皇帝による裁判を要求した。そのため彼はローマ市に移送されて、そこでも布教活動をします。最後は、やはり死刑になりますけどね。

 

こういう弟子たちの活動によって、キリスト教はパレスチナ地方のユダヤ人以外にも徐々に広がっていきました。

 

キリスト教独自の聖典が新約聖書です。イエスの言動を記した文書や、弟子たちの手紙などから成っています。

イエスの死後から色々な文書が作られ始め、今のような新約聖書の形になったのは5世紀のことです。

 

旧約聖書もキリスト教の聖書ですが、これは元々ユダヤ教の聖典。キリスト教はユダヤ教から生まれたものですから、これも引き継いで読むわけだ。

新約というのは、新しい契約という意味。イエスと神の間で交わされた新たな契約を記した本、ということです。

それに対して、旧約とはイエス以前の神と人間との古い契約ということだね。

 

新約聖書は、多くの作者によってバラバラに書かれた文書の寄せ集めですから、イエスの人生も文書によって書き方が大分違うんですよ。

例えば、十字架に掛けられたイエスの言葉です。

一番早く書かれたマルコ福音書では、「おお神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか。」

少し後で書かれたルカ福音書では、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

全然、イメージが違うでしょ。どちらもイエス処刑後、たかだか40年から60年後くらいに書かれたものなんですよ。

だから、実際のイエスが本当にどんなふうだったのか、これを探るのは難しい。

 

授業のために何冊かイエスの本を読んだんですが、みんな違うのです。書かれているイエス像が。作者の数だけ、イエス像があると言ってもいいんじゃないかな。

2022/10/18

マニ教(5)

ウイグルにおいては、8世紀後半の3代牟羽可汗の統治時代に、マニ教が国教とされるほどの隆盛と国家的保護を得た。やがて反マニ教勢力の巻き返しによって弾圧を受けたが、8世紀末から9世紀初頭にかけての7代懐信可汗によって、再び国教化された。イラン・アフガニスタンのイスラーム化の後、ウイグルでもイスラームへの改宗が進み、14世紀後半のティムールによるティムール朝建国以降は中央アジアのイスラーム化はさらに進行していった。

 

三武一宗の法難(会昌の廃仏)の弾圧ののち、中国本土ではマニ教は五代十国時代から、宋において仏教や道教の一派として流布し続けた。歴史小説『水滸伝』の舞台となった北宋の「方臘の乱」の首謀者方臘はマニ教徒であったとも言われている。マニ教は、弾圧のなかで呪術的要素を強めていったために、取り締まりに手を焼く権力者からは「魔教」とまで称された。官憲によるマニ教取り締まりは、しばしば江南地方や四川でなされており、その中でマニ教信者は「喫菜事魔の輩」(「菜食で魔に仕える輩」の意)とも呼ばれている。

 

宗教に寛容な元朝においては明教すなわちマニ教が復興し、福建省の泉州と浙江省の温州を中心に信者を広げていった。明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、その指導者の一人であった朱元璋の建てた明の国号は「明教」に由来したものだと言われている。しかし明王朝による中国支配が安定期に入ると、マニ教は危険視されて厳しく弾圧された。15世紀において既に教勢の衰退著しく、ほとんど消滅したとされてきたが、秘密結社を通じて19世紀末まで受け継がれた。1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった、排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社の一つと言われる。

 

 

なお、藤原道長『御堂関白記』など、日本の古代・中世における日記の具注暦に日曜日を「密」と記すのは、マニ教信者が日曜日を聖なる日として断食日にあてた暦法が、日本にまで至ったことの証左であると言われる。

 

史跡

福建省の晋江市には元代(1339年)に建立された草庵摩尼教寺が現存し、中国政府により国家重要文化財(「全国重点文物」)に指定されている。同寺では、「家内安全」「商売繁盛」の札が売られ、旧暦416日には摩尼光仏(マニ)の聖誕祭が行われている。マニ教本来の信仰から逸脱した面もあるが、マニへの供え物に肉を用意しない、原人が変形した「明使」の存在など、かろうじてマニ教の原形を留めていると言われる。

 

研究史

20世紀にいたるまで、マニおよびマニ教に関する信頼できる情報は少なかった。前近代における利用可能な資料としては、反マニ教の立場に立つ4世紀のヘゲモニウスの Acta Archelai にみられるマニ批判、8世紀のネストリウス派キリスト教徒、テオドーロス・バル・コーナイの Scholia におけるマニ教の宇宙論に関する解説、10世紀バグダードの書籍商、イブヌン・ナディームの『フィフリスト』におけるマニの生涯とその教説に関する解説などがあった。

 

20世紀に入り、1904年から1905年にかけて中国北西部のトルファン(現新疆ウイグル自治区)で、アルベルト・グリュンヴェーデル率いるドイツの探検隊によりマニ教寺院及び写本や壁画などの関連資料が多数発見され、研究が進んだ。トルファンでは、イラン方言により編集されたマニ教文献が発見され、高昌ではフレスコ画によるマニの肖像壁画も残っている。1906年以降は上述のポール・ペリオがトルキスタンを訪れ、マニ教文献含む数多くの文献をフランスにもたらした。

 

1931年には、エジプトのリコポリスでコプト語で書かれたマニ教の蔵書がパピルスの状態で見つかった。この蔵書の中には、特にマニ教理解に不可欠な『ケファライア』の一部が含まれている。これはマニの生涯について説明し、その教義の要約を記したものである。

 

1969年、上エジプトにおいて西暦400年頃に属する羊皮紙に、古代ギリシア語で書かれた写本が発見された。それは現在、ドイツのケルン大学(ノルトライン=ヴェストファーレン州ケルン市)に保管されているため「ケルンのマニ写本」と呼ばれている。この写本は、マニの経歴およびその思想の発展とを共に叙述する聖人伝となっており、マニの宗教の教義に関する情報と、彼自身の書いた著作の断片とを含んでいる。

 

現在では各国の研究者が国際マニ教学会を結成し、共同研究や情報交換がおこなわれている。

出典 Wikipedia

2022/10/16

アーサー王伝説 ~ ケルト神話(2)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 そのケルトの英雄物語として、もっとも人々に知られているのが「アーサー王物語」ですが、これはケルト伝説の「アーサー王」をモデルに、その後西欧の様々の作家がイメージを膨らませて拡大・脚色し、キリスト教的倫理を付加して、物語として「アーサー王と円卓の騎士の物語」として一大ロマン劇にしたことで有名となっているものです。

 

 本来のケルトの伝説では、元々この「アーサー王」というのは実在のケルトの王であったようで、侵略してくる異民族に対してケルト民族を率いてこれを撃退した王として、古文献に名前が記録されています。その後、ローマのカエサル、続いてゲルマンのアングロ・サクソンに征服されてしまったケルト民族ですが、その時点でアーサー王は「ケルト再興」のために復活してくれる「民族の英雄」となり、伝説が形成されていったようです。ですから太古のケルト神話というより、ケルトの受難時代に作られた物語と言えますが、ケルト人にとっては伝統的神話・伝説の一つとも思われたでしょう。

 

 その神話・伝説化された時点での物語の祖型は、ケルトのブリテン王が魔法使いマーリンの力を借りて、他者に嫁いでいた恋する女イグレーヌと交わることに成功し、ここにアーサーが生まれる。長じてアーサーは宝剣エクスカリバーを得てブリテンの王となり、やがてギネビアと結婚する。そして侵略を計る異民族と戦いこれを平定し、敵の息の根を止めようと長い遠征の旅に出る。ところが留守を預けられていた甥のモルドレッドがアーサーの留守を狙って王位を簒奪し、アーサーの妻ギネビアまで自分のものにしてしまうという事件が持ち上がった。急を聞いてアーサー王は、とって返してモルドレッドを倒すけれど自分も重傷を負ってしまい、アバロンの島へと去っていく、というものです。

 

 この物語に中世の宮廷風の色合いを加え、恋愛物語を付加し(トリスタンとイゾルデの悲恋物語などが典型的)、さらに「円卓の騎士団」の物語が加わり、「聖杯伝説」が加わり、キリスト教倫理に色づけられという具合にして発展していくことになりました。

 

 ケルトの原型では、英雄的な王とその再来(アバロンに去った王が、やがて傷をいやして戻ってくる)という民族願望の伝説であったものが西欧に受け入れられて、中世騎士道の物語と変形されていったわけです。

 

「侵略の書」の概略

 これらの英雄物語の中心になると考えられるのが「侵略の書」に見られる「部族の支配交代の神話」となると思われます。というのも、この支配交代にまつわって他の様々の物語が展開されていくからです。この物語は「部族の支配交代」という実際にあった事実をモデルとして、その思い出を物語っていると考えられ、これはギリシア神話などに見られる神々の支配交代神話と軸を同じくしていると思われます。そして、その中で自分たちの奉ずる神々の姿を形成していったと思われます。

 

 その神話は「トゥアサ・デ・ダナン(女神ダヌーの一族、ダーナ神族)」の物語が中心となります。つまり、彼らがこの島に来る以前は「パーソロン」「ニュブズ」の族に次いで「フィルボルグないしフォヴォリ族」の一族がこの地を支配しており、ダーナの一族は彼らと戦い融和してここの支配者となり、そしてさらに「ミレシウス」の到来によって退いていくとなります。

 

 ですから最期の「ミレシウス」の一族が最終的にアイルランド人となりそうで、従ってここに重点があってもよさそうなのですが、物語は「ダーナの一族」が中心なのでした。これはどうも、最期の「ミレシウス一族」というのは、遠来の異民族が来訪して定着してアイルランド人となったというわけではなく、むしろアイルランド人の「キリスト教化」を意味しているようで、「ダーナの一族」というのが生来のアイルランド人ないしその奉ずる神々だったようなのです。アイルランドのケルト人は、こんな形でキリスト教化された後も父祖伝来の神々を残していったと思われるのですが、ここでその物語の粗筋をみてみましょう。

 

 さて、「ダヌー女神」の一族とされる神の一族は、船に乗って海を渡りアイルランドの地に至った。彼らはこの島を支配していた「フィルボルグの一族」に島の半分をもらいたいと申し入れたが拒否され、ここに二つの種族は戦いとなっていった。激戦となり、ダーナの一族の王「ヌアドゥ(ヌアザ)」は、一度鞘を抜かれると相手を倒さずにはいないという宝剣の持ち主ではあったのだが、戦いとなって右腕を肩から切り落とされてしまった。こうしてこの戦いの勝利を諦め「和平」を提案して兵を引くこととなり、こうして二つの種族は共に、この島にあることとなった。

 

 しかし右手を失ったヌアドゥは王位を譲るということになり、ここにその王位を奪ったのは「ブレス」という男であった。ところがこのブレスというのは、確かに母親はダーナの一族であったけれど、父親というのが「フォヴォリ」(ダナンの一族にとっては仇敵であり、海の一族であって凶暴で醜く悪しく描かれるが、むしろ先住民族ないしその神々と考えられる)の一族の王であった。つまり、ある時船でやってきたフォヴォリの王は、たまたま海岸に来ていたダナン一族の娘を犯してしまい、こうしてその娘は子どもを孕まされてしまった。そして生んだ子どもがブレスなのであり、彼は「フォヴォリの王」の血を引いているため強力ではあったのだが、しかし性格は至って悪かった。

 

 こうして王となったブレスは、その悪の性格のままにダナンの一族に重税をかけ、使役を強要し苦しめていった。その上ダナンの一族の英雄たちにも苦役を課し、たとえば兵士全員の食料を供給することができるという魔法の鍋の持ち主で祭儀を司る英雄「ダグダ」は城の回りに壕を掘らされ、勇猛な戦士「オグマ」は城を使う薪を毎日海の向こうの島から運ぶことを命じられた。しかし食べ物を十分に与えられていないオグマは、海を渡るとき薪の三分の二を波にさらわれてしまうのであった。

2022/10/10

イエスの生涯(2)

出典http://timeway.vivian.jp/index.html

 

イエスの奇跡の話は、聖書にたくさんでてきます。

なかには荒唐無稽なものも多くある。

イエスの説教に数千人が集まった。この聴衆に、イエスの弟子が食事を配る。パンが5つと魚が2尾しかなかったのに全員に配れたという話。それから、ラザロという若いイエスの支持者が死ぬんですが、イエスが死後数日後に「ラザロ出てこい」と呼びかけると、ラザロが生き返って墓穴から出てきたとかね。

これらはイエスの死後、伝説として創作されたと思われますが、ポイントはこんな荒唐無稽な話でも、その当時の人々が「イエスならありえる話だ」と受けとめたということでしょう。

 

病癒しの話の中に、気になるのが一つあります。

ゲラサ人の病人を治す話です。この人は頭がおかしくなっていて、墓場で裸になって叫び続けているんです。周りの人が足かせで縛ったりするんですが、すぐに引きちぎって石で自分の身体を傷つけたりする。

イエスはゲラサ人の土地にやって来て、彼に憑いている悪霊を退散させるんですが、この時に悪霊に名を尋ねる。すると悪霊が名乗るんですが、その名が「レギオン」。ガメラとたたかった怪獣にいたね。

実は、レギオンというのはローマ軍団のことです。

そうすると、これは単なる病癒しの話を超えた、何かを暗示しているようだね。イエスの物語はローマの支配と無関係ではなかったし、イエスが治したというたくさんの病人の病気とは、実のところ何だったのかということまで私なんかは考えてしまいます。

 

話がだいぶあちこちに飛びましたが、イエスはユダヤ教の解釈しなおしと病癒しによって、短い間にものすごく評判になります。多くの支持者を集める。彼の行くところには、人々が群がるようになる。

イエスこそが、待ち望んでいた救世主だと考える人々も多くなってきました。

 

イエスが評判になると、ユダヤ教の指導者たちは面白くない。

それで、なんとかイエスの信用を落として、あわよくばイエスの落ち度をとらえて逮捕処刑しようと考えます。

ユダヤ教の指導者たちの手下、スパイたちがイエスの身辺に現れて彼の言動を探ったり、色々な罠をかけるようになるんですね。

 

聖書に姦淫する女の話が出てきます。

ある時そのスパイ連中が、イエスの前に一人の女を連れてきます。その女は姦淫している現場を見つかったのね。夫がいながら他の男性と関係を結んでいたんです。

これは当然戒律違反で、死刑にあたります。姦淫した女は石打の刑といって、みんなに石をぶつけられて殺される決まりでした。

で、彼らはイエスに向かって言う。イエスよ、あなたはこの女をどうするのか。

これは、罠です。

イエスがもし、この女を許すべきだと言えば、戒律破りを堂々と認めることになる。姦淫ですからね、戒律破りといっても日本でも戦前だったら犯罪にあたる行為です。これを認めたら、イエスは無法者だと触れ回られるでしょ。

もし、「許さない、死刑だ」といえば、イエスの言動に励まされてきた多くの貧しい者、虐げられた者達を裏切ることになるわけです。

「なんだ、イエスは口ではわれわれの味方みたいに言っているが、いざとなれば戒律を守れというんだな」と思われるでしょ。

どちらにしても、イエスは信用を落とすことになる。巧妙な罠です。

 

この時、イエスはこう言う。

「あなた達の中で、今まで罪を犯したことがない者がいれば、この女をぶちなさい。」

女の周りには石を持った男たちが、撃ち殺してやろうと取り囲んでいたんだ。だけど、イエスの言葉を聞いて、一人、また一人と石を置いてそこから立ち去っていった。

実に感動的な場面です。しかも、イエスの機知も伝わってくる。

客観的に戒律が正しいかどうかなんてことは、イエスは言わないのですね。あなたはどうなのか。それをみんなに突きつけた。

 

もう一つ罠の話。

やはりスパイ連中が、イエスに質問します。

「イエスよ、われわれはローマ帝国に税を納めるべきかどうか。」

イエスは貧しい者の味方です。収めなくてもいいと言えば貧しい者達は喜ぶでしょうが、それはローマ帝国に対する明らかな反逆行為になります。死刑にされてもしようがない。

納めよといえば、やはりこれもイエスらしくない発言で支持者は失望するでしょ。

イエスはコインを見せよ、といってコインを手に取る。そして、質問したものに逆に質問する。これは誰かと。ローマのコインには、皇帝の肖像が刻まれているんですよ。

スパイは答えます。「カエサルだ。」

イエスは言うんだね。「カエサルのものは、カエサルに返しなさい。神のものは神に返しなさい。」

税がどうのこうのという前に、お前さん、ちゃんと神に対して正しい信仰を持っているのかい。そういってイエスは、逆にスパイをやりこめているようです。

 

こんな風に、イエスはユダヤ教指導者たちの追及を切り抜けていきます。

しかし、彼がユダヤ教のあり方を批判するだけでなく、救世主としての評判が高くなってくると、対立は徹底的になります。

ユダヤ教の保守的な指導者たちは、何が何でもイエスを捕らえて処刑しようとします。イエスに対するデマも流して、彼の評判を落とす。

 

最後の時期には、イエスは逃げ回りながら布教しています。

でも、ついに捕らえられて裁判にかけられることになります。

 

これは、ルネサンス期の大画家レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」です。

逮捕される前の晩、イエスは弟子たちと食事をする。その途中で、イエスは明日、私は捕まるだろうと言う。驚いた弟子たちが、えっ、それは何故ですか、まだまだ、逃げられますよ、と言うんですが、イエスは「この中の一人が、私を裏切るだろう」と呟く。その言葉を聞いた直後の弟子たちの動揺を描いた絵です。

結局ユダという弟子が、ユダヤ教指導者にイエスの隠れ場所を密告して、その結果イエスは捕まったとされています。

 

ユダヤ教の戒律は破ったかもしれないけれど、イエスは別に犯罪を犯しているわけではない。でも、ユダヤ教指導者たちにとっては、イエスに好き勝手にさせるわけにはいかない。是非とも殺してしまいたいんです。そこで、ローマ総督のところに引き渡すんですが、ローマ総督もイエスが犯罪者でないことはすぐわかったし、ユダヤ教徒同士の争いに首を突っ込みたくない。

しかし、ユダヤ教の指導者たちは

「この男は、ローマに対する反逆者だ、ユダヤの王と言っている」と言うんだね。

ローマ総督としては、反逆者をほって置くわけにはいかない。結局、イエスは反逆者として死刑判決を受けます。

ローマの死刑は、十字架に磔(はりつけ)です。

死刑囚は磔になる前に、ローマ兵からいたぶられる慣習があった。

イエスは兵士たちから服をはぎ取られ裸にされる。殴られたり蹴られたりもしたでしょう。

お前はユダヤの王だろう、王なら冠をかぶれ、と荊(いばら)でつくった冠をかぶらされた。荊はトゲトゲですからね、それを頭に被らされて、額からは血がだらだら流れる。この場面を描いた宗教画は、たくさんあるね。

 

最後は十字架です。これ、手足を釘で十字架に打ち付けるんですよ。

手のひらを打ち付けると、体重で手が裂けて外れてしまうらしい。だから正確に言うと手首の腱のところで打ち付けた。足も足首です。それだけでは支えきれないので、首から肩にかけての腱のところでも釘を打ち付けたという話もある。

こんな風にして十字架に掛けたあと、兵士が槍で心臓のそばを急所をはずしてチョイと突く。

血がだらだら流れながら数日間、苦痛と喉の渇きに苦しめられながら死んでいく。これが十字架の磔です。

 

イエスは、これで死んでいったのです。

 

信者たちは、どうしていたのか。

実は多くの支持者、信者たちはイエスが逮捕された段階で、彼を見捨てて逃げてしまったんです。

救世主がこんなに簡単に捕まって、しかも死刑になるわけがない。あいつは只の男だったんだ。そんな気持ちでしょう。救世主なんていってだましやがって! とイエスに憎しみを向ける者もいたようです。

 

弟子も逃げた。

ペテロという弟子は、逃げたんだけど裁判の様子が気になる。だから、裁判所の前でうろちょろしているのね。すると彼の顔を知っているものが

「あれ、あんたイエスの弟子じゃないか」と言うんだ。

ペテロはあわてて否定するんです。

「いえ、違います。イエス?そんな男私は知りません。」

弟子として、一緒に逮捕処刑されてはかなわない、と思ったんだね。

わっと集まった支持者たちは、わっと消えてしまいました。

結局、イエスに最後まで付き従い処刑まで見届けたのは、ほんの少しばかりの女性信者だけだったといいます。

 

イエスはわずか二年ほど布教活動をしただけで、処刑されてしまいました。まだ30歳をいくつか超えただけでした。

2022/10/08

マニ教(4)

広がりと後世への影響

マニ教の拡大

マニの死後、バビロニアに避難した弟子のシシン(スィスィン)は教団の指揮をとり、以後、マニ教団はシリアやパレスティナ、エジプト、ローマ帝国などへの伝道に力を入れ、多くの信者を獲得した。上述のように、マニ教の典礼ではマニの受難を「ベーマ」(ベマ)と呼び、祭礼の日となっている。

 

マニ教は、その成立においてパルティアからサーサーン朝にかけてのギリシア・ローマ、イラン、およびインドの諸文化の接触と交流の一産物と見なすことができる。そして、その教えは西はメソポタミアやシリア、パレスティナ、小アジア半島、エジプト、北アフリカ、さらにイベリア半島、イタリア半島にまで、東は中央アジア、インド、中国の各地に広がった。マニ教は4世紀には西方で隆盛したが、6世紀以降は東方へも広がって、漢字では「摩尼教」と音写された。唐の時代には漢字による経典も現れ、武則天(則天武后)は官寺として「大雲寺」という摩尼教寺院を建立している。唐において、マニ教はウイグル(回鶻)との関係を良好に保ちたいという観点からも保護された。

 

西方においてマニの教えに関心を寄せた人物としては、一時マニ教徒であった4世紀から5世紀にかけてのキリスト者で教父哲学の祖といわれるアウグスティヌスがいる。

 

上でも触れたように、宗祖マニは「教えの神髄」の福音伝道を重視し、自ら著述した教典を各国語に翻訳させ、入信者が理解しやすいように、ゾロアスター教の優勢な地域への伝道には、ゾロアスター教の神々や神話を用い、西方伝道においてはイエス・キリストの福音を前面に据えて、ユダヤ教やキリスト教における神話や教義に仮託して自らの教義を説くことを許容し、また、東方への布教には仏陀の悟りを前面に据えて宣教するなど、各地ごとに布教目的で柔軟に用語や教義を変相させていったため、普遍的な世界宗教へと発展した反面、教義の一貫性は必ずしも保持されなかった。マニ教は近世に至るまで命脈を保ったものの、各地で既存宗教の異端として迫害されたり他の宗教に吸収されたりするなどして、マニ教としての独自性を保てなかったと言える。

 

西方宣教とその影響

イランや中東においては、ゾロアスター教の国教化などにともなう迫害や攻撃もあったが、信者はペルシア国外にも拡大・増加し、特に西方では、ローマがキリスト教を国教とする以前にローマ帝国全域にマニ教信者が増加し、原始キリスト教と並ぶ大勢力となった。ローマ皇帝のディオクレティアヌスは、領内におけるマニ教の広がりに不安を覚え、297年にペルシア人からのスパイであるとしてマニ教徒迫害の勅令を発布している。中世初期の教父として知られることとなるアウグスティヌスも、カルタゴ遊学の一時期マニ教を信奉し聴問者となったが、その後回心してキリスト教徒となった人物である。

 

また、中世ヨーロッパにおける代表的な異端として知られる、現世否定的な善悪二元論に立つカタリ派(アルビジョワ派)について、マニ教の影響が指摘される。

 

中東への影響

マニ教は、7世紀代のイスラームの成立にも影響を与えた。マニは、アラム語のマニ教教典『大福音書』のなかで、

 

キリストによってパラクレートス(聖霊・慰安者・弁護者)と呼ばれたのは、他でもない彼(マニ)であり、彼こそは「預言者たちの印璽」である。

 

と述べているが、イスラームの預言者ムハンマドもまた「預言者の印璽」を自ら名乗った一人であった。

 

マニ教の一般信者(聴問者)の5つの義務は「戒律」「祈祷」「布施」「断食」「懺悔」であり、ムスリムの義務とされる「五行」(五柱)に似ていることが指摘されている。

 

イスラーム教徒のペルシア征服によってサーサーン朝が滅亡したのち、イスラームの諸権力もまたマニ教を異端的宗教として迫害したため、マニ教はその本拠を次第に東方へと移していった。

 

東方宣教とその影響

マニ教は西アジアからユーラシア大陸の東西に拡大し、トルコ族の国ウイグルでも多くの信者を獲得した。

 

唐においては694年に伝来して「摩尼教」ないし「末尼教」と音写され、また教義からは「明教」「二宗教」との訳語もあった。「白衣白冠の徒」と言われた東方のマニ教(明教)は、景教(ネストリウス派キリスト教)・祆教(ゾロアスター教)と共に、三夷教ないし三夷寺と呼ばれて西方起源の諸宗教の中で代表的なものの一つと見なされた。則天武后は官寺として首都長安に大雲寺を建立した。これには、ウイグルとの関係を良好に保つ意図があったとも言われている。768年、大雲光明寺が建てられ、こののち8世紀後葉から9世紀初頭にかけて長江流域の大都市や洛陽、太原などの都邑にもマニ教寺院が建てられた。

 

しかし、「会昌の廃仏」に先立つ843年に唐の武宗によって禁教されるに至った。「会昌の廃仏」は845年に始まり、仏教のみならず三夷教の宗教も禁止され、多くの聖職者・宣教者は還俗させられたが、そうした中にあってマニ教僧は多くの殉教者を出したことが、当時、唐にあった日本の円仁の『入唐求法巡礼行記』に記されている。

出典 Wikipedia

2022/10/01

イエスの生涯(1)

出典http://timeway.vivian.jp/index.html

 

イエスの生涯

 さて、イエスその人のことですが、母がマリア、これはみんな知っているね。聖母マリアといわれる。父親は知っているかな。ヨセフです。この人は大工さん。父ヨセフ、母マリア、ですめば簡単なんですが、これが意外とややこしい。のちにキリスト教の教義が確立する中で、マリアは処女のままで身ごもってイエスが生まれたということになります。現実にはそんなことはあり得ないので、一体この話は何を意味しているのかと言うことになる。

 

 どうもこういうことらしい。マリアとヨセフは婚約者同士でした。ところが婚約中に、マリアのお腹がどんどん大きくなるんだね。誰かと何かがあったんでしょう。どんな事情があったかはわかりませんよ。ヨセフとしては、身に覚えがない。不埒な女だ、と婚約破棄をしても、誰にも非難されません。婚約破棄するのが普通だろうね。聖書を読むと、やはりヨセフは悩んだらしい。しかし、結局そんなマリアを受け入れて結婚したんだね。そして、生まれたのがイエスです。マリアとヨセフはその後、何人も子供をつくっています。イエスには、弟妹何人かいたようです。

 

で、イエスの出生の事情というのは、村のみんなが知っていたようです。のちにイエスが布教活動をはじめて、自分の故郷の近くでも説法をします。その時、同郷の者達が来ていてイエスを野次る。その野次の言葉が

 

「あれは、マリアの子イエスじゃないか!」

 

と言うんだね。誰々の子誰々というのが当時、人を呼ぶときの一般的な言い方なのですが、普通は父親の名に続けて本人の名を呼ぶ。だから、イエスなら「ヨセフの子イエス」と呼ぶべきなんです。「マリアの子イエス」ということは

 

「お前の母ちゃんはマリアだが、親父は誰かわからんじゃないか」

 

「不義の子」と言う意味なんです。だから、彼の出生は秘密でもなんでもなかった。イエス自身も、そのことを知っていたでしょう。

 

イエス自身が戒律からはみだした生まれ方をしていたんだ。「不義の子」イエスは、だからこそのちに最も貧しく虐げられ、絶望の中で生きていかざるを得ない人々の側に立って、救いを説くことになったのだと思います。

 

聖母マリアの処女懐胎、という言葉にはそんな背景が隠されているのです。

 

 イエスの若い時代のことはわかりません。多分ヨセフと一緒に大工をしていたんでしょう。30歳を越えたあたりから突如、布教活動を開始します。

 

注意して欲しいですが、イエスはあくまでもユダヤ教徒ですよ。新しい宗教を創ろうと考えていたわけではありません。律法主義に偏っているユダヤ教を改革しようと考えていたのだと思います。

 

 先ほど触れたことの繰り返しになりますが、イエスの教えの特徴をもう一度見ておきましょう。

 

まず、ユダヤ教の戒律を無視します。最も基本的な戒律の安息日も、平気で無視する。こんな言葉が残っています。

 

「安息日が人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるのではない」

 

 次に、階級、貧富の差を越えた神の愛を説いたと言われます。身分が卑しくても、貧乏でも、戒律を守れなくても神は愛し救ってくれるというんだね。

 

有名なイエスの言葉で

 

「金持ちが天国にはいるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」

 

というのがある。ぶっちゃけて言えば、金持ちは救われない、と言っている。じゃあ誰が救われるか、それは君たち貧乏人だよ。イエスはそういっているんでしょう。

 

ユダヤ教のヤハウェの神は、厳しい怒りの神です。アダムとイヴが知恵の実を食べたら、怒って楽園追放でしょ。ノア以外の人類は洪水で皆殺し、バベルの塔も破壊して、人類を四方に飛ばして言葉を乱した。怒って罰を与える怖い神です。

 

この神の解釈をイエスは変えてしまった。怒りの神から愛の神へ変える。神がわれわれを愛してくれているように、われわれも敵味方の分けへだてをやめるように説きます。

 

「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ」という。汝の敵を愛せということですね。

この言葉は、すごく衝撃的な響きだったと思うよ。この地域の伝統は何かというと、ハンムラビ法典以来、「目には目を、歯には歯を」でしょ。だから、右の頬を殴られたら殴り返すのが常識。ところが、イエスは左も殴らせてやれ、という。常識をひっくり返す。

人間は、それまで疑ったこともなかった常識をバッとひっくり返されたときに、そのものに強く惹かれるということがあります。イエスは、まさにそれをやり続けた。

 

 それから、イエスは説法で「時は満ちた、神の国は近づいた」という。この「神の国」は「イスラエル」と発音したらしい。イエスの話を聞いた人々の中には「イスラエル」という言葉から、過去に栄えたユダヤ人の国家イスラエル王国を連想する人々もいたんだ。その人たちは、イエスは宗教家の姿を借りてローマからの独立、ユダヤ人国家の復活を計画しているのだ、と期待しました。宗教的な救いと政治的な救い、周囲の人たちは、イエスに色々な期待を持つようになります。

 

 イエスの活動で、避けて通れないのが奇跡です。言葉による布教と同時に、イエスは行く先々で奇跡を起こします。具体的には、病癒しが多い。どんどん病気を治していくんだ。イエスがどこかの町に現れると、人々が病人をどんどん連れてきてごった返すありさまが聖書には書かれています。

 

本当に奇跡を起こしたのでしょうか。ここは授業としては触れにくいところだね。雑談として聞いてくれればいいけれど、私としては病を癒すというのは、ある程度あったと思います。ある程度ですよ。

 

イエスの病癒しには、盲目の人の目を開いたり、血の道で苦しむ女性を治したり、色々あるのですが、精神的な疾患と考えられるものもかなりある。そこへイエスが現れて、悪霊祓いをする。そして、権威あるもののように「あなたは治った、大丈夫だよ」と言われたら、それだけでホントに治ってしまう、そういうことはありそうでしょ。病は気から、という部分ね。

 

もう一つは、いわゆる手かざしというやつです。ハンドパワーと言うのかな。みんなは知らないと思うけど、何年か前に高塚ヒカルさんという人がいた。今もいると思うけど。この人は普通のサラリーマンなんだけど、病気の人の患部に手をかざすと、その病気が治ってしまうので有名になった。たしか、映画まで作られたと思うよ。高塚さん本人にも、何で病気が治るかわからない。けど、自分が手かざしをすると治ってしまうので、あちこちから引っ張りだこでした。

 

まれに、そういう理屈ではわからないパワーを持った人がいるんだね。前に勤めていた学校でもいました。生徒でね。男の子なんだけど、彼はおとなしい普通の子なんだけど、体育の時間が終わると、彼の前に行列ができるの。クラスメイトがね、順番を待って、彼に手かざししてもらうわけです。肩とか、太股とか、そうすると筋肉痛が治ってすっきり。体力が回復するんだって。先生もしましょうか、なんていわれました。私は遠慮しましたが。学年では有名人でした。ホントに治るのかどうか知りませんよ。ただ、やってもらった人が治った、スッキリしたと感じるということです。イエスは、特にそういうパワーを多く持っていたのかもしれない。