2005/08/29

パガニーニ ヴァイオリン協奏曲第1番(第3楽章)

 


パガニーニには興行師としての才能もあり、木靴に弦を張って楽器として演奏し一儲けした後、金に困った女性を助けたなどの逸話もある。また演奏会にて、弾いている最中にヴァイオリンの弦が切れていき、最後にはG弦しか残らないも、それ一本で曲を弾ききったと言う逸話もある。しかしながら弦が頻繁に、高い方から都合よく順に切れていく事、一番低いG弦は決して切れなかった事(弦楽器は開放弦より低い音を出す事は出来ない)などから、パガニーニ本人がパフォーマンスの一環として、伸ばして鋭くした爪で演奏中に弦をわざと切っていたと言われている。

 

またパガニーニは、自身の利益や金銭に執着する人物であったと言われる。高い評価や人気を得るに連れ、演奏会のチケット代は高額を要求するようになった。やがて偽造チケットも多く出回ったため、自ら会場の入口に立ちチケットをチェックするほどの徹底ぶりであったと言われる。

 

パガニーニが演奏するのに使用したヴァイオリンは、1742年にグァリネリ・デル・ジェスが製作した「カノン」が有名である。賭博でヴァイオリンを賭け、それを取られてしまうということがあったが、1802年にリヴロンという商売人がパガニーニに、演奏会で自身が所有する上記のグァリネリのヴァイオリンを使用してほしいことを申し出た。パガニーニはそれを承諾し、演奏会でそのヴァイオリンを使用したところ、演奏会は予想以上の成功を収めた。それを見てか、リヴロンは感激し貸したヴァイオリンを「一生使用する」ことを条件に譲渡した。

 

以後、パガニーニはこの楽器を音の大きさから「カノン」と命名し愛用した。なお「カノン」はパガニーニの遺言で「他人に譲渡、貸与、演奏をしない」ことを条件に故郷ジェノヴァ市に寄贈した。この遺言は当初は守られたが、1908年に定期的な修理を兼ねてヴァオリニストに貸与することを決定。1937年の全面修理を経て、現在に至るまでパガニーニの遺言を無視する形で貸与と演奏がされている。

 



シューベルトはパガニーニがウィーンに来た時、家財道具を売り払ってまで高いチケットを買って(友人の分まで奢って)パガニーニの演奏を聞き(ちなみに、この時にシューベルトが聞いたのが「鐘のロンド」を持つヴァイオリン協奏曲である)

 

「天使の声を聞いた」

 

と感激した。

 

金銭に関して執着しないシューベルトらしい逸話である。この台詞は正確には

 

「アダージョでは天使の声が聞こえたよ」

 

と言ったものである。派手な超絶技巧より、イタリアオペラに近い音色の美しさをとらえるシューベルトの鋭い感性も覗える。また、リストは初恋に破れ沈んでいた20歳の時に、パガニーニの演奏を聞いて

 

「僕はピアノのパガニーニになってやる」

 

と奮起し、超絶技巧を磨いたという逸話もある(リストは、ヴァイオリン協奏曲第4番を聞いたといわれている)

出典Wikipedia

2005/08/28

パガニーニ ヴァイオリン協奏曲第1番(第2楽章)

 


パガニーニ自身は技術が他人に知られるのを好まなかったため、生前は殆ど自作を出版せず自分で楽譜の管理をしていた。その徹底ぶりは凄まじいもので、自らの演奏会の伴奏を担当するオーケストラにすらパート譜を配るのは演奏会の数日前(時には数時間前)で、演奏会までの数日間練習させて本番で伴奏を弾かせた後、配ったパート譜はすべて回収したというほどである。しかも、オーケストラの練習ではパガニーニ自身はソロを弾かなかったため、楽団員ですら本番に初めてパガニーニ本人の弾くソロ・パートを聞くことができたという。その背景として、パガニーニが無類の「ケチ」だったと言う事の他に、この時代は著作権などがまだ十分に確立しておらず、出版している作品ですら当たり前のように盗作が横行していた為、執拗に作品管理に執着するようになったとする説もある。

 

このようにパガニーニ自身が楽譜を一切外に公開しなかったことに加えて、死の直前に楽譜を殆ど焼却処分してしまった上、死後に残っていた楽譜も遺族がほぼ売却したため楽譜が散逸してしまい、大部分の作品は廃絶してしまった。現在では、無伴奏のための24の奇想曲や6曲のヴァイオリン協奏曲(12曲あったといわれている)などが残されている(第3番~第6番が見つかったのは、20世紀に入ってからである)

 

現存している譜面は、彼の演奏を聴いた作曲家らが譜面に書き起こしたものが殆どとも言われる。また、同じ理由から弟子をカミッロ・シヴォリ一人しか採らず、そのシヴォリにも自分の持つ技術を十分には伝えなかったため、演奏の流派としてはパガニーニ一代で途絶えることとなってしまった。

 

パガニーニは、1800年から1805年にかけて表立った活動を辞め、ギターの作品を数多く作曲している。これは、フィレンツェの女性ギター奏者を愛人としていたためといわれている。

 

パガニーニは子供の頃から病弱であったが、1820年に入ると慢性の咳など体調不良を訴え『毒素を抜くため』に下剤を飲み始める。1823年には梅毒と診断され、水銀療法とアヘンの投与が開始された。さらに1828年頃には結核と診断され甘汞を飲み始め、さらに下剤を飲み続けた。

 

その後、水銀中毒が進行して次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、1834年頃についに引退する。そして1840年に水銀中毒による上気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全によりニースで死去。死因は喉頭結核もしくは喉頭癌といわれているが、主治医の診断から結核ではなかったことがはっきりとしており、記録に残る症状(歯肉炎、震戦、視野狭窄など)から水銀中毒だったことは明らかである。

 

遺体は防腐処理を施されて各地を転々とし、改葬を繰り返した末に1926年にジェノヴァの共同墓地にようやく安置された。

出典Wikipedia

美和の噂 ( ̄_ ̄;)

 美和について、様々なを耳にする。


 中でも、最も気になったものが


 (アイツは病的に淫乱な女だ・・・)


 という評判だ。


 確かに日ごろの美和を見ていると、あの普段から流し目でシナを作るような態度は、そうした噂に信憑性を持たせるものがあった。勿論、大学生ともなって男ばかりが集まれば、こうした噂に花が咲く事はまったく珍しくないし、噂になったのは必ずしも美和だけではなかったが、やはり現時点で最も気になるのは美和の噂だ。


 いずれにしても、こういう事はその道のオーソリティに聞く事だ・・・と、ナンパ師のマサムネに探りを入れる事にした。


 「おい、マサムネ!
 美和の事で、変な噂をよく耳にするんだがな・・・」


 「( ´Д`)はぁ?

なんのこっちゃ?」


 「つまりだな・・・あの女は、病的な淫乱だとか何とか・・・」


 「()アヒャヒャヒャヒャ
 まあその噂は有名やし、今更っちゅーもんやわな」


 「まあそうだが・・・噂の信憑性については、オーソリティに訊くのが手っ取り早いかと思ってな」


 「オーソリティか・・・まあな」


 と満更でもないマサムネは、ハナを蠢かした。


 「しかし、なんやな・・・そないな事を訊いてくるちゅー事はやが・・・オマエも美和に対する幻想はこの際、はよー捨てといた方がえーっちゅーこっちゃ」


 「いや、まあ幻想云々は、ともかくとしてだな・・・事実関係を知りたいだけなんだが。て事はつまり、噂は本物?」


 「噂ゆーんは、オーバーに尾鰭やナンカが付いたりするモンやが、火のないトコに煙がたたんちゅーのも、また一面の真実やな」


 「なるほど・・・」


 「まあ実際のとこは、言われとるほどではあらへんやろーな。あれでメッチャ好みも激しいせやから、誰でも相手にするっちゅーんは、まず考えられへんな。そーはゆーても、その種の冒険主義者である事は確かやろう。ま、オレはアイツを弁護する気などサラサラあらへんが、淫乱ゆーのとはちゃう思っとるがな」


 「つまり、同病相哀れむというヤツか・・・」


 「アホ抜かせ・・・誰が同病やねん」


 「しかし・・・あれは単なる噂に過ぎず、実際のところは案外真面目って事は・・・1ミリもなさそうだよな?」


 「そら、あらへんな・・・オレが知っとるだけでも・・・まあ2人か3人くらいはおるはずやしな」


 こうした事に関しては腕だけでなく、物凄い情報網を持った男だと改めて感心せざるを得なかった


 「無論、そん中にはオレも含まれとる事は言うまでもあらへんが・・・」


 マサムネは、さして自慢する風でもなく、彼らしく実にサラリと言ってのけた。


 「ナヌ? 
 オマエが・・・?
 そりゃ、マジかい?」


 「(≧∇≦)ブァッハハ!
 まあ、オレも含まれとるちゅー以上に、間違いなくオレが一番乗りやろーて。
 あれはなんせ、ラウンジで顔合わせて、一週間も経ってへんやったしな」


 「ムムム・・・さすがと言うべきか・・・どこまでも抜け目のないヤローだな。で、今も続いとると?」


 「せーへんて、んなもん。」

 

というと、マサムネはプレイボーイらしく鬱陶しそうに顔の前で手を振って見せると


 「向こうは煩くゆーとったけど、お互いあくまで遊びのこっちゃで。元々オレは、もっとセクシー系が好みやしな・・・ありゃ痩せ過ぎて、オレの好みちゃうわな」


 相変わらず、口さがない。


 「オマエは、まだ女には免疫が少ねーよーやが、あないな女には気ぃつけなアカンで。遊びと割り切ってなら後腐れのないヤツやが、深間に嵌ったら難儀や。実際のとこ信憑性あるんはや、オレともう一人くらいやろうが・・・アイツは普段はヘラヘラしとるが、あー見えて、おっそろしい気性の女やで、あれは。そこんとこの見極めが重要やな・・・オレは、ほどほどに距離を置いて付きおーて来とるから、なんとか無事にすんどるようなもんやが、トーシロが手を出す相手やないわ」


 さすがに名うてのプレイボーイだけあって、相手の見極めには年季が入っていそうだ。


 「どっちにせよ、オレはあの異様なテンションには、よー付いていかれへんて・・・」


 とさすがのマサムネも、美和のあのワケのわからなさには散々振り回されたか、お手上げといった態であった。


 これまで薄々には感じていた事とはいえ、マサムネの口からこれだけハッキリとしたことを訊かされては、やはり大きなショックを受けずにはいられない。


 (やはり、あの噂は満更デタラメではなかったのか・・・)


 もっとも、マサムネをよく知る友人からは


 「アイツの言うことは、話半分どころか1/3くらいに聞いといた方がえーで。芥川賞作家顔負けの創作しよるからな・・・」


 などと、その「誇大癖」を聞かされたことで、彼の発する言葉の真偽自体が、無責任な風聞以上に甚だ怪しい気がしてきたが (* ̄m ̄)ブッ

2005/08/27

パガニーニ ヴァイオリン協奏曲第1番(第1楽章)

 


パガニーニはヴァイオリンの鬼神と呼ばれ、当時はそのヴァイオリン演奏のあまりの上手さに

 

「パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」

 

と噂されたという。そのため彼の出演する演奏会では聴衆は本気で十字架を切ったり、本当にパガニーニの足が地に着いているか、彼の足元ばかり見ていた観客もいたという。それどころか死後に教会から埋葬を一時拒否すらされ、その遺体は各地を転転とする羽目になったほどである。

 

彼がヴァイオリンを弾き始めたのは5歳のころからで、13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれ、そのころから自作の練習曲で練習していた。それら練習曲はヴァイオリン演奏の新技法、特殊技法を駆使したものと言われる。青年時代には恋愛と賭博を好み、ナポレオン1世の妹のエリーズ・ボナパルトとポーリーヌ・ボナパルトと浮名を流した。賭博では、演奏会の前日に商売道具のヴァイオリンを博打に大負けして取られたことがある。

 

彼は病弱だったために痩せていて浅黒く、そのことが彼の伝説に貢献した。その上、パガニーニは猛特訓の末に左手が柔軟になっていた。この事が、彼の超絶技巧を可能にした。これは、マルファン症候群によるものという説があるが、パガニーニは中背だった(しかし、絵画等には長身の人物として描かれている)という記録が残っていることから、この説は考えにくいという説がある(ただし、マルファン症候群の罹患者は全て長身と言うのは俗説であり、身長はマルファン症候群と診断する際の必須の条件ではない)

 

その一方、アイザック・アシモフは、その著書において、悪魔的とまで言われた演奏技術はマルファン症候群特有の指の長さや、関節のなめらかな動きがもたらしたものではないか、とする見方を示している。

 

作曲家としても活躍しヴァイオリン曲を残したが、極めて速いパッセージのダブルストップ・左手のピチカート・フラジョレット奏法など、どれも高度な技術を必要とする難曲として知られている。

 

パガニーニは「自筆楽譜」が殆ど残っていないことで知られる。それは、彼が病的なまでに疑り深い人間であり、他人に自分の作品が盗用されることを恐れ、演奏会が終わるとパート譜などを全て回収した上に、パガニーニの死後も遺族がそれらの保存に全く無関心であったため、その大部分が散逸してしまったためである。現在、楽譜の存在が確認されているのは、6曲のコンチェルトとカプリースだけだと言われている。

出典Wikipedia

2005/08/23

coffee time(3) (;´д`)ノ

この店の旨いコーヒーの味を知ってからというもの、一時的にだがすっかりコーヒーの味に拘りを持つようになった。こうして、しばらくせっせと通っていたものの、マスコミ業界からIT業界へ転身してからは、現場が大きく離れた事もあってすっかり足が遠のいていた。

その当時、勤めていたN社のIDCIT技術者駆け出しの頃の24時間三交代勤務だったため、夜勤明けの時に久々に名駅から地上へ出て、ブラブラと歩くうちに思い出したのである。

半年ぶりに、あの旨いコーヒーの味を思い出したのだから、向かう足取りもイソイソとしたものになった。このころは、まだJR名古屋駅のツインタワーが出来る前の話だったが、既に建設中のタワーズばかりでなく駅前の開発が加速し半年ほどの間に、随分と真新しいビルなどが目に付いた。

(少しの間に、随分と町並みが変わっていくものなんだな・・・)

そんな思いで、変貌を遂げている街を尻目に、目的の店に到着・・・のハズだったが・・・当然そこにあるはずだった、あの店の特徴ある古ぼけた構えの店が、いつの間にやら無機質なビルに変わっているではないか。

何度見ても、そこには無機質なサラ金のビルが当然のような感じで建っており、かつてそこにあったはずの喫茶店は、キレイサッパリと消え去っていたのだ。

「ありゃりゃ・・?
なんじゃ、こりゃ」

当たり前の事だが、何事もなかったような顔で素通りしていく幾多の通行人を尻目に、嘆いてみたところで始まらない。こうなっては気持ちを新たに、あの店に匹敵するような旨いコーヒーを飲ませる店を探すしかない。

(名古屋は広く、日本一喫茶店の多い土地柄といわれるくらいだから、まだまだ旨い店もあるはずだ)

と、しばらくは手当たり次第に有名店、無名店を問わず当たり捲くったが、あれだけのコクのある香り高いコーヒーに匹敵するものには、今なお巡り合う事が出来ないでいるのだった。

芸術系

残る一人のまどかこそ、中背でスリムなスタイルから身長が足りない気がしたものの、一瞬

 

(例のボディコン嬢?)

 

と勘違いしたものだったが、ハッキリ記憶していないとはいえ、顔から雰囲気から明らかにタイプがまったく違っていた。

 

「男か女かわからない中性的な人物」と書いたことから「容姿はD女軍団で最下位を争う?」と勘違いされたかもしれないが、決して「ブス」ではなく、ちょっとボーイッシュな童顔と言うタイプか。また童顔自体だけでなく、生粋の京女の成せる業か、普段の挙措や独特のゆっくりとした口調の言動なども常におっとりとしていて、騒々しいばかりのケーコやヒロミとは好対照だった。

 

また性格的にも、ケーコとヒロミが学生にして早くもオバタリアン予備軍のような、かなり強い毒を持っていたのに較べると、マドカは竹を割ったような率直な性質だから、ケーコやヒロミが苦手の自分としてはマドカだけは好感を持った。

 

ケーコとヒロミがともに「語学系」と言う点や俗っぽさもが共通点だったのに対し、このマドカだけは「芸術系」で、A女子大でもデザインを専攻していたこともあるが、性格的にはいかにも「芸術系」らしいユニークな性質のようだ。そもそも実家が「造園業」というくらいだから、手先の器用さなどの芸術的な才能は、やはり遺伝子によるのかもしれない。

 

この初対面におけるケーコの厚かましさには圧倒されたが、まったく別の意味でケーコに負けぬくらいに驚かされたのがマドカだ。こちらの3人と向こうの3人で会話が弾む中、マドカ一人だけはあまり会話に参加せずに終始うつむき加減で、なにやらひたすらに手を動かしているのである。

 

当初は

 

(この女、こんなボーイッシュな身なりに構わなそうなガラに似合わず人見知りなのか?)

 

などとすっかり勘違いしていたのだが、時折目をあげると3人の顔を無遠慮にうち眺めては首を傾げたり、時にはニヤッと笑ったりするのが、なんとも得体が知れなかった。

勿論、会話をリードするのはおしゃべりなケーコとヒロミだから、視線としてはそちらに目を取られてマドカをそれほど観察してはいなかったが、ほぼ俯いたままながらも何やら眉間に皴を寄せて真剣な顔をしたり、かと思えばニヤニヤしながらも盛んに手だけは忙しく仕事をしているのだ。

 

遂に、たまらず

 

「おい、そこ!

さっきから、なにやってんの?」

 

と怒鳴りつけてみたものの、全く意に介さないような平然とした表情で

 

「でけた!」

 

「でけた?

なに? なんのこっちゃ?」

 

「ほれ・・・」

 

と見せたのは、いつの間にやらスケッチブックのようなものに書かれたスナップショット。説明を受けるまでもなく、一目で我がトリオの似顔絵とわかるような、実に恐ろしいまでにそれぞれの特徴がしっかりと炙り出されたスケッチだった。

 

「わー、クリソツやん」

 

「ほんまに・・・プロやな~」

 

と、大うけのケーコとヒロミ。

 

「ホンマに、今日初めて描いたんかい、これ」

 

と、なんとも惚けた反応をするしかないホソノに

 

「はあ?

さっきまで会ったことへんのに、いつ描くんの?」

 

と一蹴するマドカ。

 

悔しいが、確かに一目でどれが誰かハッキリ区別できそうな傑作で、これを僅か10分足らずで描き上げたのは、全く脱帽する(不器用なワタクシでは、数日かかってもこれだけのものは描けない)

 

考えてみれば、実家が下鴨の造園業と言うからには、京都で代々続く家庭に違いない。そうした家柄の子は、よそ者を軽んじて馬鹿にする傾向が強いと言われるが、このマドカに限ってそれはまったくなかった。

 

マドカとニシモトの家が、美和の家のような代々続く格式があるかどうかはわからなかったが、この「よそ者をも分け隔てしない寛大さ」が3人に共通する美点であることは確かだった。また、マドカのおっとりした性格はニシモトとの共通点でもあり、よそ者たる自分にとっての「京男、京女」のイメージにピッタリマッチした。

2005/08/20

地味キャラ

 さて、ケーコと一緒に来た2人のうちの小柄な方がヒロミだ。

 

正直なところ小柄だけでなく、外見的におよそパッとしたところがない。美しいものに対して最上の憧れを持つ自分としては、ケーコ(の場合は、それ以外の理由が大きかったが)と同様に、ヒロミには最初から最後まで「恋愛感情」を抱いたことは一度もなかった。この後に、続々登場してくる『A女子大軍団』の中の1人という位置付けだが、正直なところ軍団の中で外見の美しさでは下位を争うレベルと言えた。

 

小柄でやや色黒の肌といい、おかめのような地味な和風顔、もっと言えば全体的に人目を惹きそうな要素に乏しいところは、典型的な「イモねーちゃん」のイメージだったが、実際に滋賀の田舎の出らしい。

 

 ケーコの英文科とは微妙に違うらしい「言語コミュニケーション」とやらが専攻だが、英語をやっているのは同じだ。その専攻の賜物か、はたまた持って生まれたものかは知る由もないが、コミュニケーション力に長けているのが、このヒロミの特技だった。同じ「人見知りをしない性格」とはいえ、あの明け透けで無神経なケーコとは違い、ヒロミの方はモテないがゆえに身に着けた特技(?)なのか、相手の顔色を読みながら柔軟に対応していくのを身上としていた。


 冒頭に書いたように、あれだけ外見的魅力に欠けたヒロミが、(A女軍団という恩恵はあったにせよ)それなりに男子学生に相手にされたのは、そのコミュニケーション能力に負うところが大きい。


 実際には、あの地味な外見に似合わず、ケーコ張りの気の強さを持ち合わせていたことは後々の後知恵で、当初は猫を被っていつもニコヤカにしていただけに「愛嬌者」として愛されていたのである。こうしてみると、ある意味単純で直情型のケーコとは違い、なかなかの戦略家だったのだとも言えた。

三輪山と大神神社(1)

 奈良の山といえば大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)が有名ですが、もうひとつ「三輪山」を忘れてはなりません。この三輪山全体が、日本に沢山ある神社の中でも最古の歴史を持つといわれる「大神(おおみわ)神社」のご神体であるところから、非常に神聖視されているばかりでなく、山中のいたる所から祭器が出土している事でもよく知られています。

大神神社のWebページには

<ご祭神大物主神は『古事記』『日本書紀』によれば、神代の昔、少彦名命と協力してこの国土を拓き、農業・工業・商業すべての産業開発、方除、治病、禁厭(まじない)、造酒、製薬、交通、航海、縁結び等、世の中の幸福を増進することを計られた人間生活の守護神であり、世に大国主神の御名で広く知られ、詳しくは倭大物主櫛甕魂命(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)と申し上げる。

後に、この神は御自らの御思召しにより、その御魂(幸魂-さきみたま・奇魂-くしみたま)を三輪山に永くお留めになり、それ以来、今日まで三輪山全体を神体山として奉斎している。それ故、本殿を持たずに神代の信仰の形を今に伝える、我国最古の神社である>

とあります。

<大物主神の大物のモノは精霊をさす語で、諸々の精霊の首領ということだろう。『日本書紀』では、国譲りのあと八百万の神の首領として天孫に奉仕する神と記載され、大国主神の別名ともされているが元々は三輪山、すなわち御諸山の山にいた蛇体の神であったらしい。

『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れとば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされる。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として三諸山に祀ったとある。

 <『日本書紀』によると祟神天皇の七年、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に神がかりし、また天皇の夢中に現れて告げたことにより、三輪君の祖となる大田田根子をして、この神を祭らしめる事となった。また同書には、三輪の神が小蛇の姿となって倭迹迹日百襲姫命のもとに通ったという、神婚伝承も載せている。国史にも奉幣・昇階などの記事は多くみえ、宮中の尊崇あつかったことがわかる>などの記述が『記紀』に記されています。

崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れ「こは我が心ぞ。意富多多泥古(太田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依毘売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である。

活玉依毘売のもとに毎晩麗しい男が夜這いに来て、それからすぐに身篭った。しかし不審に思った父母が問いつめた所、活玉依毘売は、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。

翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという。
出典Wikipedia

●三輪そうめんの産地
<素麺がいつのころから三輪で作られたかについては、記録されたものはないが三輪素麺と神社については古い伝承がある。十代崇神天皇の七年、大物主命の五世の孫、大田田根子命(おおたたねのこのみこと)が、この神社の大神主に任ぜられて以来、その子孫が代々その職を継いで奉仕していた。

その十二世の孫に、従五位上大神の朝臣狭井久佐(さいくさ)の次男穀主(たねぬし)がいる。この穀主は敬神巣崇祖の念が篤く、大物主の神にまつわる「古事記」伝説を後世に伝え、この地方の産業を発展させるために糸のごとき細い素麺を創始したといわれています>

●ポリネシア語による解釈
三輪山(467m)は桜井市北部にあり、美和山とも記し三諸山(みもろやま)、御諸山ともいいます。南は初瀬川、北は巻向(まきむく)川で限られ、背後には巻向山、初瀬山が連なります。松杉の老木で覆われた、端正な円錐形の山です。この山の西麓には神殿が無く、この山をご神体とする大神(おおみわ)神社があり、山裾を縫って山辺の道が巻向、石上へと続いています。

『日本書紀』神代上第8段に、大己貴神の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)が「日本(やまと)国の三諸山」に「大三輪の神」として鎮座したとあります。この神は『古事記』大国主神の項には「倭の青垣の東の山の上に伊都岐奉」る「御諸山の上に坐す神」としてみえます。

また、崇神紀10年9月条には「ヤマトトトビモモソヒメ」と御諸山の神、大物主神との神婚説話があり、『古事記』崇神天皇の項には意富多多泥古の出生に関する三輪山伝説が記され、遺(のこ)った「三勾(みわ)の麻糸」にちなんで「其地を名づけて美和と謂ふ」とあります。

この「みわ」は

(1)「輪形の山」の意
(2)「己輪」で蛇がとぐろを巻いた形の山の意
(3)「御岩」の訳
(4)「水曲(みわ)」の意

などの説があります。

この「みわ」、「みもろ」は、マオリ語の「ミヒ・ワ」、MIHi-WA(mihi=sigh for,greet,admire;wa=place,area)、「崇敬する(神の鎮座する。聖なる)・場所(地域。そこの山)」、「ミヒ・マウ・ロ」、MIHI-MAU-RO(mihi=sigh for,greet,admire;mau=fixed,established,caught;ro=roto=inside)、「崇敬する神が・その内部に・鎮座している(山)」の転訛(「ミヒ」の語尾の「ヒ」が脱落し、「マウ」のAU音がO音に変化して「モ」となった)と解します>
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/