2019/05/31

アリスティッポス(2)


 彼についての伝承は、殆どこの点に関わっています。例えば「こだわりのなさ」ということでは、彼は「どんな場所、どんな時、どんな人とも自分を適合させる術を知っていて、どんな環境にあっても自分の有り様を全うすることができた」と伝えられていますが、これは彼の人間性の柔軟さを語っています。言い換えれば、王侯貴族のパーティー会場にあろうと、乞食の群にあろうと、艱難の戦場にあろうと「自分の有り様を変わりなく全うできた」というわけです。

 したがって、ストラトンという人や同門の弟子であったプラトンは彼を評して「豪華な衣装でも乞食のボロでも、どちらを着ていても平気でいられるのは君くらいのものだ」と言ったとあり、彼自身哲学から得たこととして「誰とでも臆することなく交際できることだ」と答えたといいます。分かり易く言えば、豪華なパーティーで王侯貴族たちと談笑しながら、山海珍味のごちそうをその場に合うように上品に美味しくたらふく食べることもできたし、乞食のような境遇で乞食仲間と一緒にワイワイいいながら、道に落ちているパンくずを探してはそれを拾って喰い、川の水だけ掬って飲んでいても満足できたとたとえられるでしょう。

 ですから、彼とプラトンとがシケリアのディオニュシオス王のパーティーに招かれて、出席者全員が緋色の衣装をつけて踊るように命じられた時、プラトンはこれを拒否したけれど、アリスティッポスは「たとえ(狂乱の女たちの祭りである)バッカスの宴にありしといえど、思慮ある女としてさえあれば、身を汚すことはあるまじ」というエウリピデスの悲劇の一節を口にして、緋の衣をつけて踊り出したと言われます。その場にあってはそれが場の雰囲気を壊さず、みんなが気分を害さないでパーティーを続けることができる方法と判断したからなのでしょう。

 あるいは同じディオニュシオス王との逸話で、王が「この館に来る者は、だれでも奴隷としてくるのだ」と言ったとき「自由の者として行くのなら、決して奴隷とはなるまじ」とソポクレスの悲劇の一節で応じたといいます。こんな具合に、彼は「現実的・具体的に見える姿が問題なのではなく、内実が問題なのだ」としたわけでした。

 哲学についての別の答えとして「(真実の)哲学者たる者は、法がすべて廃止されるようなことがあっても、いまと同じ生活をすることができる」という答えがあったというのもよく理解できます。つまり法が廃止ということで、どんな「無秩序ででたらめな境遇」が生じたとしても「人間としてのあり方が変わらない」そうした人間性が大事だというわけです。

 ですから、現実として彼は「教える」ことでの報酬として謝礼も受け取ったようであったが、その事に何等の後ろめたさも感じてはいません。目の前にあって得られる快楽を拒絶すべき言われは何もないからです。つまり「贅沢であること、貧乏であることは人間として立派な生き方をするのに何ら関係がない」ことで、問題は「立派な人間であるか否か」なのであって「贅沢をしているか貧乏な生活をしているかに問題があるわけではない」というわけでした。

 また彼は娼婦と同棲していたようですが、そのことで人から咎められた時も、家にしろ船にしろ、これまでたくさんの人が住みまた乗っていたからといって、これを拒否するいわれがないように、これまでたくさんの男と付き合っていたからといって、男とのつきあいが始めての女と区別するいわれはあるまいと答えたとありますが、これなども彼の人間性がよく現れている逸話といえるでしょう。つまり「いま自分が愛するに足りている女性であれば、過去など問題ではない」というわけでした。

 この鷹揚さは様々の逸話で紹介され、たとえば先ほど言及したシラクサのディオニュシオス王が、自分の愛妾三人の中から一人を選んでいいよと言ったとき、アリスティッポスはトロイ戦争の原因となった「三美神の逸話」を引き合いに出して、一人では駄目だと言って三人とも連れ出してしまい、その上で三人とも自由にしてしまったという逸話が紹介されています。これは哲学史家のディオゲネスの意図としては「要求していないときには、最高の美人三人でも振り向かない」ことの例として挙げられているようです。

 またお金についても、彼の従者が銀貨を運んでいてその重さに参っていると、彼は「多すぎる分は捨てて運べるだけ運べ」と言ったといわれています。また人間関係についても、自分に喧嘩を仕掛けてきた仲間のアイスキネスに対して、年長であるにもかかわらず「仲直りの手を自ら差し出して」アイスキネスを感動させたとも伝えられています。

 彼も「教養・教育」ということは重視し、教育を受けているものと受けていないものとの違いについて「調教されている馬と調教されていない馬」とに譬えたのでした。そして「無教養であるより、乞食であることの方がよっぽどいい」として「乞食はお金が欠けているだけだけれど、無教養な者には人間性が欠けている」からだと言います。一方「博識」をひけらかすような人に向かって、食べ物をたくさん食べてる人や運動のし過ぎの人が、適度に食べ運動している人より優れて健康ということがないように、優れている人というのは「本をたくさん読む人」ではなく「有益な本」を読む人のことなのだとしたようです。

そして、また一般的な知識は身につけたけれど、哲学(もちろんソクラテス的な意味での「良く生きることについての知恵の愛しもとめ」)が欠けている場合は『オデュッセイア』でのペーネロペイアを狙う求婚者にも似て「周りのつまらない召使い女は手にしても、肝心の狙うべき女性たるペーネロペイア」を手にしていないようなものだ、と言ったようです。また人間性については「過度を軽蔑する」ことを教えたようで、娘をそうして躾けたと伝えられます。

2019/05/30

神々の恋(ギリシャ神話55)


ヘパイストスの妻たち
優美の女神カリス
 ヘパイストスは、鍛冶屋の神としていつも汚れていて、また顔も醜く足に傷害を持っている神として描かれているのは良く知られる。しかし、その妻はホメロスの『イリアス』では「優美の女神カリス」とされている(ただし、この『イリアス』でもカリスは通常のように複数で数えられ、ヘラは「眠りの神」に難事を頼む時に、そのカリスたちの一人を「妻」にしてやるからと言っている)

アフロディテ
 他方、『オデュッセイア』の方では、ヘパイストスの妻は「美の女神アフロディテ」とされていて、妻アフロディテのアレスとの不倫物語が有名となっている。前記の「優美のカリス」にしろ「美のアフロディテ」にしろ「醜く傷害を持った鍛冶屋の神」の妻にしていることに何かギリシャ人は意味を見ていたのだろうか。そう思ってみると、色々と妄想が浮かんでくるであろう。

アテネ
 女神アテネは、ヘパイストスの片思いの相手となる。思いが募ってヘパイストスはアテネを襲うが、相手がアテネではうまくいくはずがない。むしゃぶりついたヘパイストスはむなしく射精してしまい、それがアテネの足に飛び散ってしまう。アテネはそれをウールで拭って投げ捨てるが大地がそれを受け止め、そこからエリクトニオスが生まれてきたという。アテネはやむなく、それをアテナイの王ケクロプスの娘たちに託しておいた。そして長じたエリクトニオスは、ケクロプスを継いでアテナイの王となったという。

 この「エリクトニオス」は、語源解釈で「エリオン(ウール)とケトン(大地)」の合成語と解釈でき、こうして「ウールについていた精液」が「大地に受け止められて」生まれた子ということにして、その物語を作ったと解釈できる。他方、このエリクトニオスは「アテナイの伝説王」とされるので、女神アテネと関係づけられるのは当然として、その相手がヘパイストスであることの理由は分からない。

アンティクレイア
 ヘパイストスには、この他にも子どもを産む女を持っていて、このアンティクレイアからはペリペテスを生んでいる。ただしこのペリペテスは悪漢であって、足が悪いために杖として鉄の棒を持ちそれで旅人を殺していたが、テセウスによって退治されることになる。この物語は、ペリペテスが「足が悪い」というところから、ヘパイストスの子とされたと考えられる。他方で、このペリペテスはポセイドンの子とされることもあり、この場合は乱暴者という性格からであると考えられる。また、アルゴー船伝説に登場するパライモンも、ヘパイストスの子とされている。

戦争と殺戮の神「アレス」の子どもたち
 アレスについては、アフロディテとの不倫物語以外に知られる恋物語はない。しかし、たくさんの子の父親とされており、その限りたくさんの女たちが居たはずである。しかし、どうも「恋」の主人公にはふさわしくないとして物語がないのであろう。

アフロディテ
 この二人からは、娘「ハルモニア」が生まれているとされて、彼女はテバイ建国の英雄カドモスの妻とされるところから、最も有名なアレスの子となっている。その他にはアスカラポスがアレスの子とされるが、彼はアルゴー船の乗組員の一人とされたり、トロイ戦争でのオルコメノスの将としてトロイに赴き、トロイの勇士デイポボスに討たれたともされる。それ以外は、いずれも凶暴な乱暴者の父親とされているだけである。たとえば、ヘラクレスに退治されるトラキアのディオメデス、山賊のキュクノス、その他である。

ヘルメスの子
 ヘルメスにも、取り立てた恋物語はない。しかし子供はおり、有名なところではオデュッセウスの祖父となるアウトリュコスがいる。このアウトリュコスは、ヘルメスから盗みと詐欺の術を教えられたとされ、アルゴー船の乗組員の一人にも数えられる。争乱の時代には、盗みや詐欺は優れた技術と考えられていた節がある。また都市アブデラの名前の所以となるアブデラも、ヘルメスの子とされる。さらに両性具有のヘルマプロディテは「ヘルメス」と「アフロディテ」の合体語なので、当然その父親とされる。

ディオニュソスの恋人
アリアドネ
 彼女はクレタの王女で、テセウス物語で有名となる。当時、クレタには「ミノタウロス」という怪物がおり、その餌食としてアテナイから七人の少年・少女が差し出されていた。アテナイの嘆きを解決するため、アテナイの王子テセウスが乗り込み、クレタの王女であったアリアドネの愛を得て、迷宮にかくまわれていたミノタウロスを退治して無事脱出、手に手をとって逃げ出したものの「ナクソス島」でアリアドネは彼女を見初めたディオニュソスに攫われてしまう。

テセウスは悲しみのうちに船の帆を白くするのを忘れて帰り、そのため父アイガイオンはテセウスが死んだものと海に身を投げてしまった。これが原型なのだが、後代のローマ時代にテセウスがアリアドネを捨てたという風にされ、こちらの方が有名になってしまった。そして捨てられて悲しんでいるアリアドネを、ディオニュソスが救ったという具合にされてしまう。いずれにしても、ディオニュソスが彼女を好きになったことだけは確かなようである。

この神話は、古形がホメロスの『オデュッセイア』にあり、その物語は紹介したものとは異なり複雑となる。したがって、この神話の意味するところは少しわかりにくいが「ナクソス島におけるディオニユソス信仰」の由来を語るものとは言えそうである。ナクソス島というのは古い時代からこの辺りの中心の島であって、その由来は古い。古代ギリシャに先立つクレタ島・ミノア文明時代の面影を伝えるものかもしれない。

牧神パンの恋
月の女神セレネ
 パンはセレネに恋して、羊毛を見せて誘い近づいたセレネを襲って犯したとか、一群の白牛を贈って交わったとかいう話がある。

シュリンクス
 パンの恋物語としては、これが一番有名である。牧神パンは葦笛を持っているのだが、この葦笛の由来がシュリンクスにある。アポロンとダフネの物語と似ていて、パンが美しいニンフのシュリンクスに恋をして追いかけ、シュリンクスは逃げるが、ついに川辺に追いつめられた時、願って自分の姿を葦に変えてもらったとなる。パンは姿の消えたシュリンクスに戸惑うが、そこに生えている葦の茎を切り取り、長さを違えてくっつけ合わせてそれを吹いたところ妙なる音楽を響かせ、以来パンはそれに恋しい少女シュリンクスの名前を与え常に身に携えていたという。

エコ
 エコは木霊となる妖精として有名だが、その由来話しとして二つがあり、一つは良く知られた「水に映った自分の影に恋したナルキッソス」との物語となる。もう一つはこのパンに関係し、パンはエコに恋したがエコはこれを拒絶し、そのためパンによって狂わされた羊飼いに襲われて八つ裂きにされたが、大地がその身体を隠し声だけを残したというものである。

ピテュス
 パンは松の木の冠をかぶるのだが、その言われとなる妖精で一つはパンに愛されたが、それを逃げるために松の木に身を変えてもらったというもの。あるいは、パンと北風のボレアスとが同時に彼女を愛したが、ピテュスはパンを選び、そのため北風ボレアスは岩から彼女を吹き飛ばしたが、大地がその彼女を受け止めて松の木にしたというもの。そのため松の木は北風が吹くと呻くし、他方のパンは彼女を頭に飾っているというものである。

2019/05/27

雑草とエリート ~ 項羽と劉邦(4)



反乱集団のリーダーとして、もうひとり有名なのが劉邦(?~前195)です。この人も楚の地方の出身。農家に生まれるんですが、まじめに働くことができない人だったんだ。面倒見はいいから元気のいい若い衆には人気はあるけれど、怒らせたらちょっと怖い村の顔役みたいな感じかな。悪くいえばチンピラ、ゴロツキです。

 当時は、劉邦みたいに共同体の秩序からはみだして、エネルギーを持て余していた人のことを「侠(きょう)」といった。始皇帝を暗殺しようとした荊軻も「侠」です。陳勝も「侠」といえるかも知れない。

 戦国時代は終わって、まだ10年そこそこでしょ。「侠」の感覚を持った連中は国中にいた。家柄とか血筋ではなく自分の能力、才覚で一旗揚げてやろうという人々です。戦国時代の遺風といってもいいかも知れない。劉邦は、そういう人々を自分の周りに集めて、やがて大きな勢力をつくっていきます。エリートの項羽とは、このあたりが違うところです。

 劉邦は中年になって、地元で秦の下っ端役人の仕事に就いた。亭長といって交番の駐在さんのようなものだったらしいんですが、一応秦の役人ですから、その劉邦のところに政府から命令が来たんだ。これが、里の若者を阿房宮の工事のために都まで引率してこい、というものだった。

 というわけで、劉邦は若者たち何百人かを徴発して、都に向かって旅に出る。ところが、宮殿の工事といっても大変厳しい作業だということはみんな知っているわけ。奴隷のようにこき使われて、ばたばた倒れて死ぬものも多い。だから、旅の途中で若者たちは、どんどん脱走してしまう。夜が明ける度に人が減るわけだ。とうとう都に着つかないうちに、半分になってしまった。

 半分しか人夫を連れていけなければ、引率者である劉邦の責任になるわけですね。若者たちは宮殿工事で死ぬかも知れないし、自分も脱走の責任を問われて処刑されるかも知れない。切羽詰まった劉邦は、開き直った。ここまでついて来た者たちに、逃げろという。

 「もうやめじゃ!
 俺は秦の役人を、ここで辞める!
 俺も逃げるから、おまえらもみんなどこかへ逃げろ!」

 みんなを逃がして、劉邦も逃亡しました。元の里に帰ったら、秦の役人に捕まるので、里のそばの沼沢地帯で逃亡生活を続けていたんです。

 陳勝・呉広の乱が、秦政府の無理な徴発が原因で起きたでしょ。劉邦も同じような経験をしているんですね。ここから考えると、秦の過酷な使役に耐えかねて逃亡生活を送ったり、爆発寸前まで追いつめられていた民衆がたくさんいたに違いありません。陳勝・呉広が火をつけたら、アッという間に燃え広がったわけです。

 さて、劉邦が逃亡生活をしているうちに、やがて陳勝・呉広の反乱が起こった。全国が騒然としてくる。そこで、劉邦も自分の里に帰って「侠」の連中を集めて一旗揚げました。地方役人も大混乱の中で、自分たちを守るために劉邦をバックアップしました。

 劉邦の反乱グループは、陳勝・呉広の無きあと各地の反乱集団を束ね始めた項羽の傘下に入ることにしました。こんなふうに項羽集団は各地の反乱集団が結集して、どんどん大きくなっていったんです。

このあと項羽と劉邦はライバルとなって、秦滅亡後の指導権を争うんですが、このふたりは実に対称的。項羽は名門貴族のエリート武人。劉邦は田舎の農民出身。項羽は20歳そこそこ。劉邦は40くらいです。当時の感覚では、相当の年齢といっていい。項羽は、自分の才能に自信がありすぎて他人を軽んじるところがありますが、劉邦は自分の配下のものには面倒見がいい。「侠」の感覚でしょうか。親分的なんですね。

 始皇帝が全国を巡幸したときに、項羽も劉邦もその行列と始皇帝を見た。その時の項羽のセリフ。「いつか取って代わってやる。」取って代わるという表現は、項羽が初めて使ったんですよ。劉邦のセリフ。「男と生まれたからには、あんなふうになってみたいもんだぁ。」

 さて、反乱軍は秦の都、咸陽に向かうことになった。主力軍は項羽が率いて真っ直ぐ西に向かった。別働隊を劉邦が率いて、これは南回りで咸陽に進撃します。先に咸陽を占領した者が、その地域の王になるという約束があったので、競争ですね。軍隊としては項羽軍が強いのですが、秦の精鋭部隊がぶつかってくるので前進に手間取ってしまった。その間に劉邦軍はたいした抵抗も受けずに、咸陽の都に突入し占領に成功してしまった。

 秦では二世皇帝が趙高に殺され、その趙高もまた殺されて、三世皇帝が即位して一月ばかり経ったところです。秦の政府は混乱していて、もうどうしようもない。三世皇帝は自分の首に縄を掛けて、劉邦の元に出向いてきました。これは、全面降伏の意味です。こうして、秦は滅亡しました。

 劉邦は、占領した咸陽で何をしたか。劉邦は咸陽で秦の宮殿に封印して、宝物を略奪させなかった。三世皇帝など、秦の皇帝一族を殺さずに保護した。「法三章」を発布した。「殺すな、傷つけるな、盗むな」という非常に単純な法律です。劉邦は秦のややこしい法律を全部なくして、この三条だけにしたのです。法家思想による厳しい支配で苦しんでいた人々は大喜びです。

 こういうことを立て続けにやった劉邦の人気は、ぐんぐん鰻登り。やがて、遅れて項羽の本隊が咸陽にやってきました。総大将項羽は、咸陽に入ると三世皇帝など秦の皇族を殺して、阿房宮を略奪したあと火を放った。劉邦の処置をひっくり返したといっていい。劉邦の評判が良かっただけに、項羽は人気がなくなっていきます。

2019/05/26

アリスティッポス(1)「流れる雲のように自由なる快楽主義」


 この章では、「自然に逆らわず大空を悠々と風に流れる雲のように、自然でおおらかに快を楽しみ」、それでいて「厳しく己を律して生き抜いた」ソクラテスの弟子「アリスティッポス」を扱います。

 さて、私たちがソクラテスの弟子達について物語る時、第一の文献として使う古代の哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスは、「快楽」をその哲学の中核に据えていた「キュレネ学派」の祖として「ソクラテスの弟子アリスティッポス」を語ってきます。

 ところがそれにも関わらず、現代のソクラテス研究者は、ソクラテスに「快楽主義」など読み取れないとして、古代の哲学史家ディオゲネスの証言を否定してしまいます。そして、このアリスティッポスに関してさまざまの疑問を呈し、中には彼をキュレネ学派の祖とすることはできないなどと、論拠も示さずに平然と指摘してしまう研究者もいます。

しかし、古代の哲学史を語るのにディオゲネス・ディオゲネスを無視したり否定するのは、相当に確実な根拠が無い限りできないことです。もちろんディオゲネスには「人づての話し、噂、推測など」が充満していますから、間違いも誤解も論拠のない話もたくさんあると考えられ、記述をそのまますべて信じることはできませんけれど、根本からひっくり返すには明晰判明な確実な論拠が必要で、アリスティッポスに関して今のところそんなものはないので、私達は「ソクラテスの弟子としての快楽主義者アリスティボスがキュレネ学派の祖」として扱っていきたいと思います。

 そこで問題ですが、では「快楽主義者」アリスティッポスは何故「ソクラテスの弟子」たり得たのか。それを見るためには、彼が言うところの「快楽の内容」が問題になってくるでしょう。

アリスティッポスの生まれ
 アリスティッポスについての生まれや死の年については何も伝えられておらず、詳しいことは全くわかりません。哲学史では年代をできるだけ推定して示そうとするので、彼についても推定の年代が示されていますが、これは推測でしかありません。

 ただ、確かなのは「ソクラテスが死の時(紀元前399年)アリスティッポスはまだ存命中」で、その「ソクラテスの臨終に立ち会うのが期待される人々」の一人であるということは、プラトンの著作『パイドン』に記されています。ただしプラトンは、アリスティッポスはアテナイと目と鼻の先にあるアイギナ島に行っており臨終の時には来なかった、と批判的な言い方をしています。生まれた場所については「北アフリカ(現在のリビア東部)のキュレネ」とされています。そしてソクラテスの死後、故郷に帰って開いた学園が「キュレネ学派」というわけでした。

 また、彼はソフィストと同様に、その講義で謝礼をとって大金を得て、それをソクラテスに贈ったけれどソクラテスから送り返されたと伝承にありますので、ソクラテスの存命中に、すでに彼は人に教えることで金が得られるひとかどの者になっていた、ということも言えるでしょう。また他方で、哲学史家ディオゲネスの伝えるアリスティッポス伝承の中に、プラトンの名前がよく出てきて「行動を共にしている」ので、プラトンと大きな年齢差があるとも考えられず、だとするとおよそプラトンとは五歳から十歳くらいの年長かとも想像されます。

アリスティッポスの人柄
 ところで、元来哲学とは「良き人、よき人生をつくる」ということが目的で、その「良さ」の理解のところで、さまざまの学派が形成されていったのでした。ですから古代の哲学者の場合、その哲学を理解しようとういう時には、先ずはその人の「人となり・人生」を見ていくことが重要になるわけです。「快楽主義者」といわれるアリスティッポスについては、どのような人間像が見られるでしょうか。

 彼の場合、一言でいうと「何にもこだわらずに、現にあるものからの快楽を享受した」ということになるでしょう。ですから「快楽主義」と言われるのですが、しかしこれは「むやみに快楽を追求する」「何時も快楽を追求する」「強く快楽を追求する」というのとは違っていて、伝承では「現にないものの快楽を渇望して、それを追い求めるということはしなかった」のでした。ですからまた「現にある快楽に執着しない」ことも挙げられます。

 以上のような彼の立場を良く現す一つの逸話を紹介すると、彼が一人の芸子と懇ろにしているのをある人に咎められた時、「僕が彼女を持っているのであって、彼女に僕が持たれているのではない。要は快楽にうち勝ってこれに負かされないことであり、快楽を控えることではないのだ」というのがあります。

また、娼婦の家に行ったとき、同行していた若者が躊躇したとき「危険なのは入ることではなく、出てこれなくなることだ」と言ったというのもあります。これは、いずれも当時の習慣としてあった「娼婦」の場面での話で、私たちとしてはちょっと素直に聞き難い話とも言えますが、この「娼婦」のところに「お金とか酒とかその他、私達が溺れてしまいがちなもの」を入れてみればいいでしょう。そうすると、酒で言えば「僕が酒を飲んでいる(支配している)のであって、酒が僕を持っている(支配している)のではない(つまり酒に溺れてはいない)」というわけで、「酒がいま現にあるのなら、それをおいしくいただくが酒に飲まれてしまうこともなく、得られもしないときに酒々と騒ぐこともない」となり、要するに「酒を愛し、しかし酒に溺れない」「酒があればこれを喜ぶ、しかし無い酒を求めて騒ぐこともない」として理解すれば、分かりやすいかもしれません。

いずれにしても「いまある快楽は享受してよい、しかしそれに執着して入れ込んで、奴隷状態になっては駄目だ」というわけで、彼の立場がよく表現されています。ですから、また彼はアエリアヌスという人の証言によると「過ぎ去ったことをくよくよしても仕方がなく、これから先のことを気にやんでもならない、そうならないことが心の晴朗であることの証」である、としていたようでした。