2016/08/27

異変(真夏の悪夢part1)


●731日(日)
 日曜日の昼、近くのセブンイレブンで買った大好物の焼き鳥、フランクでビールを飲んで、そうめんを食べたところから「異変」が始まった。
 
 休日は、モスバーガーのフライドポテトやコンビニの焼き鳥、フランクなどで昼からビールを飲むこ
とも少なくない。
 
 暑くなるにつれて飲酒量も増え、真夏には自宅でも缶ビール3-4本を飲むのが普通だった(もちろん飲みに行く時は、その比ではないが)
 
 異変が起きたのは、食後直ぐだったと記憶している。
 
 胃の辺りに、猛烈な違和感が襲って来た。
 
 元々、胃は丈夫な方で、これまでの生涯で胃痛になったことは3回くらいしかないから、胃の位置も正確に把握できておらず、胃なのか腹なのかよくわからない、というのが実情だった。
 
 ともあれ「痛み」というよりは「膨満感」というか「圧迫感」というか、とにかく体が異常を訴えているのは確かだ。
 
 (もしや・・・中ったか?)
 
 思い起こしてみれば、あのコンビニは以前も消費期限切れのパスタを売っていて、確認もせずにレジに持っていったら
 
 「この商品、期限が切れておりますので別の物に・・・」
 
 ということもあったくらいだから、咄嗟に「中ったか」と思ったのは自然の成り行きと言えた。
 
 味は特におかしく感じなかったが、先にも触れたように胃は丈夫だし、またタイミング的にも食べた食後だから、尚更そのように思えた。
 
 (これは・・・食中り?)
 
 が、当初は腹の辺りと思っていた場所が、次第に胃の方にズレてきたようだ。
 
 過去に胃痛になった時は、いずれも胃薬を飲んだら直ぐに治っただけに、今度も胃薬を飲めば治るだろうと簡単に考えていた。
 
 とはいえ前回の胃痛は数年前だけに、その時に封を切って1回分だけ飲んだヤツはとうに期限が切れており、改めて薬局に行かねばならない。
 
 歩行や自転車の振動は勿論、自転車に跨るだけでも痛みや重みを感じる酷さだったが
 
 (胃薬を飲めば、直ぐに治るハズ・・・)
 
 と信じ、痛みを堪えて薬局へ。
 
 ところが、期待を裏切って一向に効き目がない。
 
 (おかしいな・・・いつもは、すぐに効いたんだが・・・ということは、胃ではない?)
 
 胃薬と一緒に正露丸も買ってきたが、これはどちらかと言えば下痢止め薬だったはずだから、今の状況とは逆である。
 
 (腹に溜まった昼に食べたヤツが出てくれれば、この違和感がなくなりすっきりするはず・・・)
 
 という思いも空しく、なんとなく出そうな感じと多少の吐き気は感じるものの、どっちも出るところまで行かずに膠着状況となっていた。
 
 その後、痛みやら違和感やらの位置は時間とともに移動していき、胃や腹だったと思っていたのが、徐々に下腹から右の腰の方へと移動していった。
 
 なにせ歩行にも支障があるくらいの痛みだから、寝ていた方が無難かとも思ったが、寝ても痛みはなくならない。
 
 痛くて寝返りも打てず、ずっと仰向けの格好だったが、それでも時折痛みに襲われるため、足を曲げたり延ばしたりを繰り返していた。
 
 この時は暑さが故の寝汗と思い込んでいたが、後から考えるとどうやら痛みとともに発熱していたようである。

●81日(月)
 夜明けまで痛みは一向に減ずることなく、とても仕事に行ける状況ではないため、朝一番で行きつけの病院に行く。
 
 内科医院だが、院長は元々外科医師だ。
 
 「去年の健診では問題なかったから、ベースとなる病気は何もないはずですが・・・」
 
 首を捻りながら問診、触診と続けた後、エコー(超音波)、胸部、腹部X線とひと通りの検査をしたものの、原因特定には至らない。
 
 「腸の辺りが、炎症を起こしているようですね。   
 炎症止めの薬を出しますので、それで様子見て・・・明日、また来てください」
 
 病院に来る時から
 
 (まさか、胃カメラを飲まされるんじゃあるまいな・・・)
 
 と密かに恐れていたが、どうやら胃ではない模様だ。
 
 この日は処方された薬を朝と昼に飲んだが、痛みは一向に減らない。
 
 実は当初から、この圧迫感は昨日のコンビニの焼き鳥やフランクが残っていて、あれらが出てしまえば治るのではないかと考えていた。
 
 が、処方された薬は便通とは無関係だから
 
 (こんな効き目のない薬を飲むくらいなら、宿便を出してしまう方が効果的なんでは?)
 
 と、再び痛い体に鞭打って薬局に走り、コーラックを買って来た。
 
 普段は出過ぎるくらいに便通が良いのに、肝心の前日の昼食後はまったく出なくなったのがもどかしい。
 
 ともあれ、寝る前に飲んでおく。

2016/08/26

スサノオ

 『日本書紀』では素戔男尊素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。アマテラスオオミカミの弟神であり、日本力の象徴の双対として神話では描かれている。

『古事記』の記述によれば、神産みにおいて伊弉諾尊(伊邪那岐命・いざなぎ)が黄泉の国から帰還し、日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、鼻を濯いだ時に産まれたとする(阿波岐原は江田神社の御池に比定される)。

日本書紀』では、伊弉諾尊と伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)の間に産まれた三貴子の末子に当たる。その与えられた役割は、太陽を神格化した天照大神(あまてらす)、月を神格化した月夜見尊(月読命、つくよみ)とは少々異なっているため、議論の的となっている。

統治領域は文献によって異なり、三貴神のうち天照大神は高天原であるが、月夜見尊は滄海原(あおのうなばら)または夜を、素戔嗚尊には夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。

スサノヲの性格は多面的である。母の国へ行きたいと言って、泣き叫ぶ子供のような一面があるかと思えば、高天原では凶暴な一面を見せる。出雲へ降りると一転して、貴種流離譚の英雄的な性格となる。八岐大蛇退治の英雄譚は、優秀な産鉄民を平定した象徴と見る説も根強く、草薙剣の取得はその象徴であるとの解釈も多い。

また天下の王となる大国主之神、あるいは、その後の天皇の神器の出所がスサノオであるため、キングメーカーの象徴とも解釈される。しかし日本初の和歌を詠んだり、木の用途を定めたりなど文化英雄的な側面もある。

これは、多数の神が習合してスサノヲという神格が創造されたためとする説もあるが、彼が成長するにつれて見せる側面であるとする説もある。神名の「スサ」は、荒れすさぶの意として嵐の神、暴風雨の神とする説や(高天原でのスサノヲの行いは、暴風雨の被害を示すとする)、「進む」と同根で勢いのままに事を行うの意とする説、出雲の須佐郷(現在の島根県出雲市佐田町 須佐)に因むとする説(スサノヲは、須佐郷の族長を神格化したものとする)、州砂(=砂鉄)の王という説から、たたら製鉄の盛んであった意宇郡(おうのこおり)の首長とする説などがある。

『記紀』神話においては、出雲の神の祖神として書かれているスサノヲであるが『出雲国風土記』では彼はあまり登場せず、意宇郡安来郷や飯石郡(いいしのこおり)須佐郷などの地名制定や御子神たちの説話が書かれており、八岐大蛇退治の説話は記載されていない。そのため、元々は別の地方の神ではないかとする説もあり、その地として以下のような説がある。

・『日本書紀』の一書で、八岐大蛇退治が行われたとする備中とする説

・大国主がスサノヲのいる根の国へ行く前に「木の国」へ行っていること、子の五十猛が祀られているとしていることなどから紀伊国(熊野)とする説

・『日本書紀』一書第4のまず新羅の曽尸茂梨に天降ってから、出雲の鳥上峯に来たとの記述から新羅の神とする説

しかし、基本的には『記紀』、風土記をそれぞれ眺めると、出雲との結びつきが強い神といえる。

出雲国(現:島根県)東部の奥出雲町には、スサノヲが降臨したといわれる鳥髪峰(現:船通山)、それに隣接する安来市は、彼が地名をつけたという風土記の記述もある。これらの地域が、古代よりたたら製鉄が盛んであったこともあいまって、八岐大蛇退治は当時の冶金技術の結晶であった最強の金属;鋼(釼)(現在の和鋼(玉鋼)もしくは工具鋼)の開発・発明を象徴しているという見方もある。

つまり鉄鋼素材を機械的な鍛造(鍛錬)、物理化学的な相変態処理である熱処理(焼入れ)で鋼を作った神話時代の記憶を反映したとの見方である。現在でも、島根県安来市には日立金属安来工場や冶金研究所などが日本刀剣美術協会とともに、この地域で古式に則ったたたら製鋼を行うことでも有名である。

後に、仏教における祇園精舎の守護神である牛頭天王と習合した。これは、どちらも疫神だからであるとする説があるが、他の解釈も多い。オーストリアの民族学者アレクサンダー・スラヴィクは、根之国に追われた後のスサノオが蓑と笠を着て神々に宿を頼んだことを解釈して、蓑と笠は本来神聖 な「祭祀的来訪者」が着ることを許されるのであり、スサノオはそのような来訪者として神々に宿を貸すように強制し、客人歓待の慣習を要求したのである、と考えている。
出典Wikipedia

2016/08/23

ツクヨミの謎

風土記
『出雲国風土記』の嶋根郡の条には、伊佐奈枳命の御子とされる「都久豆美命」が登場する。千酌の驛家 郡家の東北のかた一十七里一百八十歩なり。伊佐奈枳命の御子、都久豆美命、此處に坐す。然れば則ち、都久豆美と謂ふべきを、今の人猶千酌と號くるのみ。

『山城国風土記』(逸文)の「桂里」でも「月読尊」が天照大神の勅を受けて、豊葦原の中つ国に下り、保食神のもとに至ったとき、湯津桂に寄って立ったという伝説があり、そこから「桂里」という地名が起こったと伝えている。

月と桂を結びつける伝承は、インドから古代中国を経て日本に伝えられたと考えられており『万葉集』にも月人と桂を結びつけた歌がある。また、日本神話において桂と関わる神は複数おり、例えば『古事記』からは天神から天若日子のもとに使わされた雉の鳴女や、兄の鉤をなくして海神の宮に至った山幸彦が挙げられる。

『万葉集』の歌の中では「ツクヨミ」或いは「ツクヨミヲトコ(月読壮士)」という表現で現れてくるが、これは単なる月の比喩(擬人化)としてのものと、神格としてのものと二種の性格をみせる。また「ヲチミヅ(変若水)」=ヲツ即ち若返りの水の管掌者として現れ「月と不死」の信仰として沖縄における「スデミヅ」との類似性がネフスキーや折口信夫、石田英一郎によって指摘されている。なお、『万葉集』中の歌には月を擬人化した例として、他に「月人」や「ささらえ壮士」などの表現も見られる。

『続日本紀』には、光仁天皇の時代に暴風雨が吹き荒れたのでこれを卜したところ、伊勢の月読神が祟りしたという結果が出たので、荒御魂として馬を献上したとある。

『皇太神宮儀式帳』では、「月讀宮一院」の祭神に 月讀命。御形ハ馬ニ乘ル男ノ形。紫ノ御衣ヲ着、金作ノ太刀ヲ佩キタマフ。と記しており、記紀神話では性別に関する記述の一切無い月読命が、太刀を佩いた騎馬の男の姿とされている。逆に月を女と見た例としては『日本三代実録』における、貞観7年(865年)109日の記事や、貞観13年(871年)1010日に出雲国の「女月神」(「めつきのかみ」、あるいは「ひめつきのかみ」)が位階を授けられている記事が挙げられる。

『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』によると、地主権現(じしゅごんげん、ぢしゅごんげん)は月読命を指す。大本教の『霊界物語』には、スサノオが月を統治するときにツクヨミの名になるとある。

『古事記』では「月讀命」のみであるが、『日本書紀』第五段の本文には「月神【一書云、月弓尊、月夜見尊、月讀尊】」と複数の表記がなされている。

『万葉集』では、月を指して「月讀壮士(ツクヨミヲトコ)」、「月人壮士(ツキヒトヲトコ)」、「月夜見」などとも詠まれている。風土記では『出雲国風土記』に「都久豆美命」(ツクツミ=月津見?)が登場する。逸文ではあるが『山城国風土記』には「月讀尊」とある。

やや後世に成立した『延喜式』では、伊勢神宮に祭られている神の名として「月讀」、「月夜見」の表記がなされている。

ツクヨミの架未明については、複数の由来説が成り立つ。最も有力な説として、ツクヨミ=「月を読む」ことから暦と結びつける由来説がある。上代特殊仮名遣では「暦や月齢を数える」ことを意味する「読み」の訓字例「余美・餘美」がいずれもヨ乙類・ミ甲類で「月読」と一致していることから、ツクヨミの原義は日月を数える「読み」から来たものと考えられる。

例えば暦=コヨミは「日を読む」すなわち日読み=カヨミであるのに対して、ツクヨミもまた月を読むことにつながる。「読む」は『万葉集』にも「月日を読みて」、「月読めば」など時間(日月)を数える意味で使われている例があり、また暦の歴史を見ると月の満ち欠けや運行が暦の基準として用いられており、世界的に太陰暦が太陽暦に先行して発生したのである。「一月二月」という日の数え方にもその名残があるように、月と暦は非常に関係が深い。

つまり、ツクヨミは日月を数えることから時の測定者、暦や時を支配する神格であろうと解釈されている。その他にも、海神のワタツミ、山神のオオヤマツミと同じく「ツクヨのミ」(「ツクヨ」が月で「ミ」は神霊の意)から「月の神」の意とする説がある。このように、はっきりと甲乙の異なる「ヨ」や、発音の異なる「ユ」の表記が並行して用いられていること、そして『記紀万葉』のみならず『延喜式』などや や、後世の文献でも数通りの呼称があり、表記がどれかに収束することなく、ヨの甲乙が異なる「月読」と「月夜見」表記が並行して用いられている。

ツクヨミの管掌についても『古事記』や『日本書紀』の神話において、日神たるアマテラスは「天」あるいは「高天原」を支配することでほぼ「天上」に統一されているのに対し、月神の支配領域は『日本書紀』に「日に配べて天上」を支配する話がある一方で「夜の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている箇所もある。この支配領域の不安定ぶりは、アマテラスとツクヨミの神話に後からスサノオが挿入されたためではないか、と考えられている。
出典Wikipedia