2016/05/31

タコオヤジの恐怖(小説ストーカー・第二部part8)



 住居の最寄り駅は、そこそこ繁栄している町にあった。
 
 こうした町の常がそうであるように、駅前は「xx銀座」という名の商店街になっていた。
 
 駅を降りて、客待ちのタクシーが屯するロータリーを通り過ぎると、すぐ目の前が「xx銀座商店街」である。
 
 その商店街の(駅から歩いて)一番入り口のところに古臭いタバコ屋があったのが、駅前再開発の煽りで立ち退きの憂き目に遭ったのか、いつの間にか閉店していたのは少し前のことで、その跡地にたこ焼きチェーンの「京たこ」が出来るらしく、店は工事中ながらも「京たこ」の赤い看板が出ていた。
 
 「京たこ」と言えば、毎日通っていた名古屋でしばしば見かけていて、馴染みもあっただけに
 
 (ほー、あのタバコ屋の跡に「京たこ」が出来るのか・・・)
 
 と思っていると、数日後には店がオープンしていた。
 
 その日も、やはりこの数日と同様にあのストーカー「タコ坊」の姿がなく、そしてまたかつて「臆面もなく急所を圧しつけてきた」気色の悪いクソオヤジの姿もどこかに消えたこともあって、軽い足取りで駅を出ると「京たこ」の赤い看板が目に入った。
 
 (試しに買っていくか・・・)
 
 幸い、他の客が居ないから待つこともないだろうと店の前で足を止めると、申し訳のように小さく開いた窓から、あのたこ焼き独特の旨そうな匂いが漂ってきた。
 
 窓の向こうでは、中年の店員が不景気そうなしかめっ面をして、たこ焼きを焼いているシルエットが、なんとなく見えている。
 
 「一人前・・・」
 
 というつもりで、店の前に立った途端
 
 (えっ~~~~~~~、嘘だろ~?)
 
 いきなり後頭部をガツーンと殴られたような衝撃で店の前を離れたが、勇を鼓して再度カウンターの奥に冷静に目を凝らして見ると・・・あの世の不幸を一身に背負ったような不景気な表情をした「タコ坊」が、ハゲ頭に捻り鉢巻をして、一心にたこ焼きを焼いていた!  (/||| ̄▽)/ゲッ!!!

2016/05/22

自由な料理の時代(農林水産庁Web)

中世までは、これまで述べてきたような料理様式を楽しむ場所が限定されていた。すなわち大饗料理は高級貴族、精進料理は寺院の僧侶、本膳料理は武士の間で、それぞれ儀式の際に味わうに過ぎなかった。また懐石料理にしても、決められた日時に定まった武将や豪商などの茶人が食しただけで、いつでも自由に料理が楽しめたわけではない。さらに言えば「自由」という言葉自体、中世までは勝手すぎるというマイナスの意味で用いられていた。

 

ところが、戦国の時代が終わると安定的な社会が訪れた。天下を統一して、近世の入り口を創り上げた豊臣秀吉は、全国に「平和令」を発布し大名のみならず村レベルでの争いを停止させ、海賊行為をも強く禁じた。秀吉の前に、織田信長が出した楽市楽座令のおかげもあって、商業の自由化が著しく進行した。これに加えて徳川家康が開いた江戸幕府が、五街道や東西航路の整備を図ったことで、全国の流通網が確立をみた。

 

こうした物資の自由な流通条件という社会的背景の整備とともに、いつでも料理を自由に楽しむことのできる料理屋が発展をみた。中世までは、寺社の門前などでの一服一銭程度の飲食物の販売はあったが、外で料理を口にしうるような施設はなかった。先にも述べたように、あくまでも儀式や茶会の際に、それが供されるだけであった。金銭を代償に料理を味わうための料理屋は、中世には存在しなかった。

 

ところが江戸時代に入ると、飲食を楽しむ料理屋が出現をみることになる。それは初めからの専業施設ではなく、京都東山の時宗寺院などで、代金を取ってその一室を貸し出し、そこで料理を提供するようになった。料理人たちが寺院の庫裡で腕をふるい、貸し出された特別な部屋で、金を出して集まった人々が料理を楽しんだのである。

 

また、料理界でも大きな革新が進んだ。中世以来の料理流派の知識や技術は、近世の将軍家や大名家などの料理人の間にも伝えられたが、そうした知識が一般に公開されるようになった。それは料理書の出版というシステムによるもので、江戸時代に入ると実に様々な書籍が刊行された。寛永201643)年、『料理物語』という料理書が、初めて出版されるところとなった。これにより、料理の家に秘伝された料理の知識と技術が、誰でも代金さえ払えば自由に手に入れることが可能となった。

 

この料理書は、すでに慶長年間に成立しており、原題には『料理秘伝抄』という書名が付されていたが、まさに秘伝を出版してしまったところに大きな意義があった。しかも、そのあとがきには「庖丁きりかたの式法によらず」とあり、それまで様々な約束事が多かった料理流派の世界から離れ、全く自由に料理を楽しもうとする心意気が感じられる。この『料理物語』とほぼ同時期に刊行された『料理切方秘伝抄』は、実は天皇家・公家の庖丁を司った四条流の料理書で、もっとも権威あるとされた秘伝書まで出版されるようになった。

 

そして近世に入ると、全国規模における物資の流通が盛んになり、様々な食材が手に入るようになった。このため全国各地の名産物なども、書物などを通じて知られるようになり、食品や料理の幅が急速に広まった。こうして近世には、料理屋の料理にしても料理技術にしても、金銭を媒介とすれば自由に楽しめる時代が来たのである。

 

こうして近世における自由な料理の指標となったのが料理書と料理屋であったが、これらは都市の料理文化を象徴するものでもあった。それゆえ、それぞれの発展過程をみることで、近世の都市における料理文化の特質を窺うことができる。先の『料理物語』に代表されるように、寛永期頃から料理書の出版が始まったが、元禄期頃になると非常にボリュームのあるものが出版されるようになる。これらは、いわば料理百科全書ともいうべき性格を有し、季節の素材から月々の献立、さらには取り合わせや料理法など、料理を様々な視点から解説したもので、料理に関するあらゆる知識を提供するものであった。ただ、これらの読者は一般の人々ではありえず、やはり料理のセミプロ的な人間と考えるべきだろう。そして彼らは、豪商に雇われたりするなど民間で腕をふるって、料理屋以外の場でも自由な料理の提供に大きな役割を果たした。ただ近世前期の料理書は、あくまでも知識・技術の伝達書で専門的な性格が強かったが、近世後期になると料理書よりは「料理本」とでも呼ぶべき性格が強くなる。つまり読んで楽しむ料理本として、ハンディで気軽な読み物であることが意識されるようになった。 

 

またセミプロではなく、一般の人々が手軽に料理を楽しむという傾向が著しくなる。その代表格が、18世紀後半の宝暦~天明年間に刊行された『豆腐百珍』に代表される百珍物であった。『豆腐百珍』は、それまでの料理書とは全く発想が異なって素材を豆腐のみに限り、代わりに100種類の豆腐料理を伝えるほか、豆腐に関する和漢の文献を引いて料理に関する知識も提供している。さらに19世紀に入ると、文化・文政年間の『素人庖丁』、『料理早指南』あるいは『料理通』など、実に様々な料理本が刊行されている。

 

『素人庖丁』、『料理早指南』などは、題名から想像されるように一般人に料理を教えるもので、この時期には庶民自らが料理を作って楽しむ文化が根付きつつあったことが窺われる。また『料理通』は、後にも述べるように文化・文政年間に江戸一番の名声が高かった料理屋・八百善の料理を中心に記したもので、当代一流の文人たちが詩文や書画を寄せている。ちなみに同書自体が江戸土産として、地方の人々が持ち帰えられている。一方、料理屋については、近世初期にも煮売・焼売程度のものであれば、寺社の門前のほか盛り場や交通の要所で商売が行われていた。先にも述べたように、初めは京都の寺院で料理の提供が始まり、やがて町中にも料理茶屋が誕生したものと思われる。これにやや遅れて、江戸でも元禄年間になると市中の各所に料理茶屋が出現した。江戸最大の盛り場であった浅草の金龍山浅草寺の門前に、綺麗な器を用いて奈良茶漬けを食べさせる店が生まれて、大評判を呼んだ旨が諸書に記されている。

 

やがて浅草に限らず江戸市中の盛り場に、そうした料理茶屋が立ち並ぶようになっていった。ただ、それが本格化するのは江戸後期のことで、とくに料理本の刊行が盛んになり始める宝暦~天明年間になると、高級料亭さえ現れるようになった。さらに料理文化が最も発達をみた文化・文政年間には、先の『料理通』を執筆した栗山善四郎の営む高級料理屋・八百善が、江戸で大繁盛を極めるに至った。ここには人気を誇る文人や画家のほか、幕府の高級役人から地方の富裕層までがしばしば訪れ、大いに料理を楽しんでいた。八百善は値段が高いのも並外れていたが、さすがに評判も高く『料理通』の出版との相乗効果もあり、高級料亭として人気を博した。まさに多くの客が自ら代価を払って自由に料理を楽しむという食文化が、18世紀後半から19世紀前半にかけて全盛を迎え、最高潮に達していたのである。

2016/05/18

黄泉国

 伊邪那岐命は伊邪那美命を取り戻そうと黄泉国へ赴いた。

黄泉に着いた伊邪那岐命は、戸越しに伊邪那美命に

「あなたと一緒に創った国土はまだ完成していません。帰りましょう」

と言ったが、伊邪那美命は

「黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、生き返ることはできません」

と答えた(注:黄泉の国のものを食べると、黄泉の住人になるとされていた。これを「黄泉竈食ひ(よもつへぐい)」という)。

さらに、伊邪那美命は

「黄泉神と相談しましょう。お願いですから、私の姿は見ないで下さいね。」

と言い、家の奥に入った。

伊邪那岐命は、伊邪那美命がなかなか戻ってこないため、自分の左の角髪(みずら)につけていた湯津津間櫛(ゆつつなくし)という櫛の端の歯を折って、火をともして中をのぞき込んだ。すると、伊邪那美命は体は腐って蛆がたかり、声はむせびふさがっており、蛇の姿をした8柱の雷神(八雷神)がまとわりついていた。

雷神の名は、以下の通り。

大雷(おほいかづち、イザナミの頭にある)
火雷(ほのいかづち、イザナミの胸にある)
黒雷(くろいかづち、イザナミの腹にある)
折雷(さくいかづち、イザナミの陰部にある)
若雷(わかいかづち、イザナミの左手にある)
土雷(つちいかづち、イザナミの右手にある)
鳴雷(なるいかづち、イザナミの左足にある)
伏雷(ふすいかづち、イザナミの右足にある)

慄いた伊邪那岐命は逃げようとしたが、伊邪那美命は自分の醜い姿を見られたことを恥じて、黄泉醜女(よもつしこめ)に伊邪那岐命を追わせた。

伊邪那岐命は、蔓草を輪にして頭に載せていたものを投げ捨てた。すると葡萄の実がなり、黄泉醜女がそれを食べている間、逃げた。しかしまだ追ってくるので、右の角髪(みずら)につけていた湯津津間櫛(ゆつつなくし)という竹の櫛を投げた。するとタケノコが生え、黄泉醜女がそれを食べている間に逃げた。

伊邪那美命は、さらに8柱の雷神と黄泉軍に伊邪那岐命を追わせた。伊邪那岐命は十拳剣で振り払いながら逃げ、ようやく黄泉の国と地上の境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に着いたとき、坂本にあった桃の実を3つ投げたところ、追ってきた黄泉の国の悪霊たちは逃げ帰っていった。

ここで伊邪那岐命は、桃に

「人々が困っているときに助けてくれ」

と言って、意富加牟豆美命(おほかむずみのみこと)と名づけた。

最後に伊邪那美命本人が追いかけてきたので、伊邪那岐命は千人がかりでなければと動かないような大岩で黄泉比良坂を塞ぎ、悪霊が出ないようにした。その岩を挟んで対面して、この夫婦は別れることとなる。

この時、伊邪那美命は

「私はこれから毎日、一日に千人ずつ殺そう」

と言い、これに対し伊邪那岐命は

「それなら私は人間が決して滅びないよう、一日に千五百人生ませよう」

と言った。これは人間の生死の由来を表している。

この時から、伊邪那美命を黄泉津大神(よもつおほかみ)、また坂道を追いついたから道敷大神(ちしきのおほかみ)とも呼び、黄泉比良坂を塞いだ大岩を道返之大神(ちかへしのおほかみ)・黄泉戸大神(よみとのおほかみ)ともいう。なお、古事記では、黄泉比良坂は出雲国の伊賦夜坂(いふやのさか、現在の島根県松江市の旧東出雲町地区)としている。
出典 Wikipedia

2016/05/15

接近(小説ストーカー・第二部part7)



●ラッキーボーイの場合
 「タコオヤジが、いない・・・」
 
 なにかのイベントでもあったのか、と思えるくらいにその日の電車は、いつにも増して混雑していた。
 
 実際には、あのタコオヤジもこの大混雑の中に埋没しているだけで、例によって同じ車両に「同乗」しているのではないか・・・と、目を皿のようにして何度も見回してみたが、この日に限ってはその姿を認めることはできなかった。
 
 (まあ居たとしても、視界に入らなきゃ文句はない・・・)
 
 と、久しぶりの「開放感」にドップリ浸りたいところだったが、そんな「開放感」を味わうような混雑度合ではなかった。
 
 折角、あの鬱陶しいタコオヤジから解放されたとはいえ、そのような大混雑にウンザリしているラッキーボーイだったが、幸か不幸か目の前に居るのが、こんな時にありがちな暑苦しさを助長するばかりのオヤジではなく、若い女の子だったのは、この場合のせめてもの救いであった。
 
 ただし、その女は終始うつむいていて、顔が良く見えなかった・・・ 

●忍の場合
 「一体、なんなの・・・この混みようって・・・」
 
 まるで、なにかのイベントでもあったのかと思えるくらいに、その日の電車はありえないくらいの混みようじゃないの。
 
 例によって、ラッキーボーイを見つけて「背後霊」としての位置取りを・・・というとこまでは日常的なルーチンだったのに・・・ああ、大誤算!
 
 首尾よくラッキーボーイの背後の定位置を確保したまでは良かったものの、ここからが大誤算だったの!
 
 後ろから次々に押し寄せてきた「臭いオッサンの洪水」に押しやられて、気付いた時には「ラッキーボーイと目と鼻の先」に来ちゃってたわけよ。
 
 (えーっ!
 こんな想定外って、一体どーすりゃいいのよ~っ!)
 
 なんて、思わず心の中で叫んじゃった!
 
 ああ、万事休す。
 
 だって、これまで「背後霊」に徹して来たからラッキーボーイにも気づかれずに済んだのに、ここで顔を覚えられたが百年目、もう明日からラッキーボーイのストーカーが出来なくなっちゃうじゃん!
 
 そうは言っても、このありえない混雑っぷりだから、体の向きを入れ替えることもできんし、参った。
 
 こうなると、もう「まな板の鯉」の心境で、さすがの私も諦めるしかないわね。
 
 ああ・・・目を上げれば、目の前にラッキーボーイの涼しげな顔が・・・でも、顔を上げられない私・・・ずっと俯いたままの私がラッキーボーイの視線を感じるのは、あくまで気のせい?

ラッキーボーイの場合
 次の駅までの長い時間を前後左右からの圧迫に耐え、身動きもままならない10数分を我慢すると、ようやくのことで駅に着いた。

 (ふー
 ようやく、このバカみたいな混雑から解放されるかな・・・?)

 ドアが開くと、大勢の乗客が一斉に降りていく人並みに呑みこまれないようにと体を踏ん張ったラッキーボーイ。

 が、喜んだのも束の間のことで、降りていった数に匹敵するような新しい乗客がわんさと押し寄せて来たではないか!

 (こりゃ一体、どーなってんだ?)

 と目を白黒させている間もなく、入れ替わりの新しい乗客に圧されるようにして、先の見覚えのある大人しそうな和風顔の若い女が目の前に戻ってきた。

 (ん??
 さっきの居た女が、また戻ってきた?)

 暇潰しに観察しようというラッキーボーイの視線を避けるかのように、和風顔の若い女はあたかも混雑を利してラッキーボーイの体に顔を埋めようとでもいう格好で、ちょこんと立っていた。

●忍の場合

 あのラッキーボーイの目の前から動けなくなっちゃったのは誤算だったけど、次の駅で乗降する人並みの凄まじさに翻弄されてしまった・・・


 一旦、ホームに降りて位置取りを考えたけど、後ろから押してくるオッさんパワーに押しやられちゃって、気付けばまたラッキーボーイの目の前に。


 (なんとかして、ラッキーボーイの近くに・・・)


 という潜在意識のなせる業かもしれないけど、こんなに接近しちゃったらやばいよね・・・


 当のラッキーボーイは

 (あれ?
 さっきの女?)

 なんて顔してるし、もう完全にばれちゃったよなー。


 こんなにラッキーボーイに接近できる幸せを噛み締めつつも


 (一体、私は明日から、どーすればいいのー?)


なんて思っちゃうんだけど。