2022/07/30

中観派 ~ ナーガールジュナ(龍樹)(2)

中観派(梵: माध्यमिक, Mādhyamika, マーディヤミカ)は、インド大乗仏教において、瑜伽行派(唯識派)と並ぶ2大学派のひとつ。龍樹(りゅうじゅ、Nāgārjuna, ナーガールジュナ、150 - 250年頃)を祖師とし、その著作『中論』などを基本典籍とする学派。『中論』を根底として般若空観を宣揚した。縁起と空の思想を説き、中(madhyama)もしくは中道(madhyamā pratipat)の立場を重んじる。

 

中観の原義と用例

漢語の「中観」に対応するとされるマディヤマカ (Madhyamaka) は「中の」を意味するマディヤ (madhya) に接尾辞が加わったものである。バーヴィヴェーカの『中観心論』に対する自註とされる『論理の炎 (Tarkajvālā)』は、マディヤと接尾辞の -ma が付いたマディヤマは、同じく「二つの極端を離れた中」すなわち中道 (madhyamā pratipat) を意味し、それに -ka が付加されたマディヤマカには名詞としての中道、あるいは中道を説示する論書や人に対する形容詞としての用法があると解説している。これを踏まえて斎藤明は、マディヤマカの適切な訳語は「中道」であると結論づけている。

 

「中観」のサンスクリット Madhyamaka madhya の派生語である。梵英訳では madhya は形容詞として「central(中央の), middle(真ん中の)」、男性名詞として「center(中央)」の意味がある。

 

漢語としての中観

岩波仏教辞典では中観とは、有無、断常(断見と常見)といった極端な考え方(二辺)を離れて、物事を自由に見る視点を意味するとしている。広説仏教語大辞典では、中観と同じ意味の語に中道観があるとし、総合仏教大辞典では中道観は中道を観じることを指すとしている。

 

赤羽律によれば、「中観」という漢語の呼称は、三論宗の吉蔵が、羅什訳『中論』を「中観論」と呼び同書に対する注釈書『中観論疏』を著したのが始まりである。また義浄は『南海寄帰内法伝』においてMādhyamika学派を「中観」と呼んでいる。

 

中観派の原義と用例

「中観派」と現代語訳される mādhyamika (男性名詞)には「中央インドの一民族」という意味・用法もある。なお、madhyamikā (女性名詞)は、梵英訳では“absolute middle of st.”、「婚期に達した女性」などとなっている。

 

現代の仏教学者が Mādhyamika を「中観派」と訳しているのであって、「中観派」は漢訳仏典には出ない名称である。「中観派」という語は、中国撰述の経論も含めて大正新脩大蔵経には全く見られない。「中観派」という現代の呼称は、中観という語を用いる中国仏教の伝統に由来するもので、サンスクリットの Mādhyamika (「中を理解する者」、「中道論者」、中派)の意訳であり、本来のインドでの呼称には「」に相当する部分はない。

 

中国では、龍樹の『中論』を『中観論』と称することもあった。その『中論頌』では「中道」という語がただ一度だけ出現する(第24章第18偈)が、天台教学はこの偈頌を解釈して空・仮・中の三諦を説き、この立場から智顗は空観と仮観、そして中観という三つの視点を立てた(三観説)。

 

中観派の教理

新しい「縁起」と「中観」

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中観派の教理は、般若経の影響を受けたものであり、その根幹は、「縁起」「無自性(空)」である。

 

この世のすべての事象・概念は、「陰と陽」「冷と温」「遅と速」「短と長」「軽と重」「止と動」「無と有」「従と主」「因と果」「客体と主体」「機能・性質と実体・本体」のごとく、互いに対・差異となる事象・概念に依存し、相互に限定し合う格好で相対的・差異的に成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなる。このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立しているわけではなく、全ては「無自性」(無我・空)であり、「仮名(けみょう)」「仮説・仮設(けせつ)」に過ぎない。こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、ナーガールジュナに始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である。

 

こうした理解によって初めて、『中論』の冒頭で掲げられる「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)の意味も、難解とされる『中論』の内容も (そしてまた、それを継承しつつ成立した『善勇猛般若経』のような後期般若経典や、大乗仏教全体に広まった「無分別」の概念なども)、適切に理解できるようになる。

 

上記したように、二項対立する現象・概念は、相互に依存・限定し合うことで、支え合うことで、相対的に成立しているだけの、「幻影」のごときものに過ぎず、自立的なものではないので、そのどちらか一方を信じ込み、それに執着・傾斜してしまうと、必ず誤謬に陥ってしまうことになる。

 

そのことを示しつつ、上記の「八不」のごとき、(常見・断見のような)両極の偏った見解(二辺)のいずれか一方に陥らず、「中」(中道)の立場を獲得・護持することを賞揚するのが、『中論』及び中観派の本義である。

 

この「無自性(空)」の教えは、これ以後大乗仏教の中心的課題となり、禅宗やチベット仏教などにも大きな影響を与えた。

 

成立経緯

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こうしたナーガールジュナの『中論』に提示される、新しい「縁起」観は、説一切有部を中心とした部派に対する論駁を発端とする[要出典]

 

中村元は、中論は論争の書であるとし、その主要論敵は説一切有部であるとしている。中観派は、自己の反対派を自性論者や有自性論者と総称しているが、これらは事物や概念の自性すなわち自体や本質が実在すると主張する人々であり、中論はこれに対して無自性を主張した。中村によれば、説一切有部は有自性論者の代表であるという。

 

部派仏教の時代、釈迦の説いた縁起説が発展・変質し、その解説のための論書(アビダルマ)が様々に著されていくことになるが、当時の最大勢力であった説一切有部などでは、生成変化する事象の背後に、それを成立せしめるための諸要素として、変化・変質しない独自・固有の相を持った、イデアのごとき形而上的・独立的・自立的な基体・実体・性質・機能としての「法」(ダルマ, dharma)が様々に想定され、説明されていくようになった(五位七十五法、三世実有・法体恒有)。こうした動きに対して、それが「常見」的執着・堕落に陥る危険性を危惧し、(『成実論』等にその思想が表されている経量部などと共に) 批判を加えたのが、ナーガールジュナである。

 

『中論』は論駁の書であり、説一切有部らが説く、様々な形而上的基体・実体・性質・機能である「法」(ダルマ, dharma)の自立性・独立性、すなわち「有自性」「法有」に対して、そうしたものを想定すると、矛盾に陥ることを帰謬的論法(プラサンガ)で以て11つ示していき、「法」(ダルマ, dharma)なるものも自立的・独立的には成立しえず、相互依存的にしか成立し得ないこと、すなわち「無自性」「法空」を説く。

 

こうして、形而上的基体・実体・性質・機能としての「法」(ダルマ, dharma)すらも含む、ありとあらゆるものの徹底した相互依存性・相対性をとなえる、新たな独特の「縁起」観、そして、それに則る「中観」という発想が、成立することになる。[要出典]

出典 Wikipedia

2022/07/23

南北朝時代(2)

北斉

東魏では高歓が全権を掌握した後に、西魏に対して何度か攻撃を仕掛けるが、芳しい結果は得られなかった。高歓は547年に死去し、その後を息子の高澄が継ぐ。この時期に河南の長官であった侯景は、自らの軍事力が高澄に警戒されていることを知り、東魏から離脱して南の梁に帰順した。これを接収するために梁の武帝は大軍を送るが、東魏軍に大敗して河南は東魏に戻る。この後、侯景による挙兵が起きて梁は大混乱に陥ることになる(侯景の乱)。

 

高澄の死後、550年に高澄の弟である高洋(文宣帝)が継ぎ、東魏の孝静帝より禅譲を受けて斉を建てた。南朝の斉と区別して北斉と呼ばれる。

 

高洋の治世初期は諸改革を進め、北の突厥や契丹を撃破するなど治績を挙げたが、後半期は旧魏の皇族である元氏を大量に殺害するなど暴虐を尽くすようになる。

 

その後、高洋の皇太子の高殷を殺して弟の高演(孝昭帝)が後を継ぎ、高演の皇太子を殺して高湛(武成帝)が後を継ぐ。北斉の君主には多く酒乱の傾向が見られ、政治は乱れていた。ただ、歴代君主は酒乱と同時に軍事的才能を持っており、北周に対して軍事的には互角以上に渡り合った。

 

武成帝は即位早々に息子の高緯(後主)に譲位し、その後は上皇として政務を執るが、この時代には個人的な繋がりを持った寵臣たちが幅を利かすようになった。この中で後主は、周りの讒言を信じて国防に不可欠であった斛律光と蘭陵王の2人を殺してしまい、北周はこれを好機と見て北斉へと侵攻してきた。高緯は捕らえられて、後に自殺を強いられた。北斉の滅亡は577年のことである。

 

北周

西魏の政権を掌握した宇文泰は武川鎮の出身で、北魏末には陝西一帯を支配する大軍閥となっていた。北周・後の隋・唐の中枢部は、ほぼ全てがこの武川鎮出身者(武川鎮軍閥)で占められており、以後の中国を長い間この集団が支配することになる。

 

宇文泰は、新たに二十四軍制を創始した。この制度は軍の組織を上から柱国(ちゅうこく) - 大将軍 - 開府という系列にまとめ、その頂点に宇文泰が立つというものである。この制度は、後の府兵制の元となったといわれる。

 

また北魏の元で漢風に改められた鮮卑の氏を元のものに戻すなど、鮮卑的な復古政策を取る一方で、『周礼』を基にしたとする中国的な復古策をも推進した。後に国号を周と名乗るのも、それ故である。この兵力を元に、553年には南朝梁から四川を奪い、更に侯景の乱に介入し、荊州北部(湖北省)に傀儡国家・後梁を誕生させて、南朝に楔を打ち込むことに成功した。

 

556年の宇文泰の死後は甥の宇文護が実権を握り、宇文泰の第3子・宇文覚を擁立して西魏の恭帝より禅譲を受けさせ、北周を建てた。宇文護は初代の宇文覚(孝閔帝)・第2代の宇文毓(明帝)・第3代の宇文邕(武帝)を擁立して専権を極め、突厥と結んで北斉征服を試みるが失敗に終わり、最後は武帝の策にはまり誅殺される。

 

572年に親政を開始した武帝は、巨大な権力と財産と土地を所有していた道教・仏教を弾圧してその財産を没収し、私度僧や偽濫僧などを含め、一般の僧侶や道士を兵士として徴兵した。その一方で、官立の儒教・仏教・道教をあわせた三教の研究機関としての通道観を設置し、優秀な僧侶や道士は、その学士として収容した(三武一宗の廃仏の第2)。

 

これを元にして、575年から北斉に対する攻撃を開始する。北斉は暗君・高緯の元で弛緩しており、577年にこれを滅ぼして高緯を捕らえた。更に武帝は南朝陳に対しても攻撃を仕掛けるが、578年の親征途上で病死する。

 

後を継いだのは長男の宇文贇(宣帝)であったが、宣帝は武帝の厳しい教育を恨んで、父の棺に向かい「死ぬのが遅い」と罵ったと言う。宣帝は即位の翌年に長男の宇文闡(静帝)に譲位して上皇となるが、その施策は無軌道で無用な土木工事を好み、酒色に耽ったために人望を失い、それに代わって期待を受けたのが十二大将軍の一人である楊堅(後の隋の文帝)である。

 

楊堅の娘楊麗華は宣帝の皇后となっており、楊堅は外戚として政治に加わっていた。更に静帝が即位し、580年に宣帝が死去すると摂政となって全権を掌握、翌581年に禅譲を受けて隋を建て、北周は滅んだ。

出典 Wikipedia

2022/07/21

ナーガールジュナ(龍樹)(1)

龍樹(りゅうじゅ、梵: नागार्जुनNāgārjuna、テルグ語: నాగార్జునుడు、チベット語: ཀླུ་སྒྲུབklu sgrub、タイ語: นาคารชุนะ)は、2世紀に生まれたインド仏教の僧である。龍樹とは、サンスクリットのナーガールジュナの漢訳名で、日本では漢訳名を用いることが多い。中観派の祖であり、蓮如以後の浄土真宗では八宗の祖師と称される。龍猛(りゅうみょう)とも呼ばれる。

 

真言宗では、龍猛が「付法の八祖」の第三祖とされた。龍樹が密教を説いたかどうかや、第五祖金剛智との時代の隔たりから、龍樹と龍猛の同一性を疑問視する意見もある。

浄土真宗では、七高僧の第一祖とされ龍樹菩薩、龍樹大士と尊称される。

 

概要

鳩摩羅什訳『龍樹菩薩伝』によれば南インドのバラモンの家に生まれ、幼くしてヴェーダを諷んじてその意味を了得した。プトゥンの『仏教史』の伝えるところでは、南方のヴィダルバのバラモンの出身で、(中インドの)ナーランダ僧院でバラモンの学問を修めたのち出家したという。サータヴァーハナ朝の保護の下でセイロン、カシミール、ガンダーラ、中国などからの僧侶のために院を設けた。この地(古都ハイデラバードの東 70 km)は後にナーガールジュナ・コーンダ(丘)と呼ばれる。

 

哲学者の梅原猛は、龍樹は釈迦の仏教を否定し、大乗仏教を創始したとしている。一方、中村元は、大乗仏教は諸法の実相を説くことを標識とし、小乗仏教の三法印に対して大乗仏教は「実相印」を第四の印として挙げるとしているが、中村によれば龍樹は小乗の三法印のほかに別の法印をたてなかったという。

 

生涯

インド原典で伝わるナーガールジュナ伝が存在しないため、史学的に厳密な生涯は不詳。鳩摩羅什訳と伝えられる『龍樹菩薩伝』の伝説は、以下のとおりである。

 

天性の才能に恵まれていた龍樹は、その学識をもって有名となった。龍樹は才能豊かな3人の友人を持っていたが、ある日互いに相談し学問の誉れは既に得たからこれからは快楽に尽くそうと決めた。彼らは術師から隠身の秘術を得、それを用い後宮にしばしば入り込んだ。

 

100 日あまりの間に宮廷の美人は全て犯され、妊娠する者さえ出てきた。この事態に驚愕した王臣たちは対策を練り砂を門に撒き、その足跡を頼りに彼らを追った衛士により、3人の友人は切り殺されてしまった。しかし、王の影に身を潜めた龍樹だけは惨殺を免れ、その時、愛欲が苦悩と不幸の原因であることを悟り、もし宮廷から逃走することができたならば出家しようと決心した。

 

事実、逃走に成功した龍樹は、山上の塔を訪ね受戒出家した。小乗の仏典をわずか 90 日で読破した龍樹は、更なる経典を求めヒマラヤ山中の老比丘から、いくらかの大乗仏典を授けられた。これを学んだ後、彼はインド中を遍歴し、仏教・非仏教の者達と対論し、これを打ち破った。龍樹はそこで慢心を起こし、仏教は論理的に完全でないところがあるから仏典の表現の不備な点を推理し、一学派を創立しようと考えた。

 

しかし、マハーナーガ(大龍菩薩)が龍樹の慢心を哀れみ、龍樹を海底の龍宮に連れて行って諸々の大乗仏典を授けた。龍樹は 90 日かけてこれを読破し、深い意味を悟った。

 

龍樹は龍によって南インドへと返され、国王を教化するため自ら応募して将軍となり、瞬く間に軍隊を整備した。王は喜び「一体、お前は何者なのか」と尋ねると、龍樹は「自分は全知者である」と答え、王はそれを証明させるため「今、神々は何をしているのか」と尋ねたところ、龍樹は神通力を以って神々と悪魔(阿修羅)の戦闘の様子を王に見せた。これにより、王をはじめとして宮廷のバラモン達は仏教に帰依した。

 

そのころ1人のバラモンがいて、王の反対を押し切り龍樹と討論を開始した。バラモンは術により宮廷に大池を化作し、千葉の蓮華の上に座り、岸にいる龍樹を畜生のようだと罵った。それに対し龍樹は六牙の白象を化作し池に入り、鼻でバラモンを地上に投げ出し彼を屈服させた。

 

またその時、小乗の仏教者がいて、常に龍樹を憎んでいた。龍樹は彼に「お前は私が長生きするのはうれしくないだろう」と尋ねると、彼は「そのとおりだ」と答えた。龍樹はその後、静かな部屋に閉じこもり、何日たっても出てこないため、弟子が扉を破り部屋に入ると、彼はすでに息絶えていた。

 

龍樹の死後 100 年、南インドの人たちは廟を建て、龍樹を仏陀と同じように崇めていたという。

 

龍樹の空理論

この「空」の理論の大成は、龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。なお、伝統的に龍樹の著作とされるもののうち、『中論(頌)』以外に近代仏教学において、龍樹の真作であるとの見解の一致が得られている作品はない。

 

龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。この因果関係を釈迦は「縁起」として説明している。(龍樹は、釈迦が縁起を説いたことを『中論』の最初の帰敬偈において、賛嘆している。)

 

さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=自性)はないことを明かしている。これによって、すべての存在は無自性であり、「」であると論証している。このことから、龍樹の「」は「無自性空」とも呼ばれる。

 

この空の思想は、真理を

 

ü  概念を離れた真実の世界(第一義諦、paramārtha satya

ü  言語や概念によって認識された仮定の世界(世俗諦 、savti-satya)

 

という二つの真理に分ける。言葉では表現できないこの世のありのままの姿は第一義諦であり、概念でとらえられた世界や、言葉で表現された釈迦の教えなどは、世俗諦であるとするため、この説は二諦説と呼ばれる。

 

錬金術師

インドでは、仏教の僧であるよりも錬金術師・占星術師として有名で著作伝説があるが、これはこの項で触れている龍樹よりもはるか後代に出現した同名の錬金術師と混同されているためである。

 

密教の祖

新龍樹

大正時代の河口慧海や寺本婉雅は、『八十四成就者伝』の龍樹伝が特異であることから、それに書かれた龍樹は、本来の龍樹の没後(寺本によると6世紀)の同名異人であるとした。この説では、本来の龍樹を「古龍樹 (Nāgārjuna I)」、『八十四成就者伝』の龍樹を「新龍樹 (Nāgārjuna II)」と呼び分ける。

 

河口は、密教経典のうち『無上瑜伽タントラ』(左道密教)が新龍樹の著作であるとしたが、これには古龍樹の著に基づく真言密教の正当性を主張するという背景があった。

 

一方、寺本は、龍樹に帰せられていた密教経典の全てが新龍樹の著作であり、古龍樹は密教とは無関係であるとした。すなわち、古龍樹が中観の祖、新龍樹が密教の祖である。

 

この説に対し羽溪了諦は、2人の龍樹の伝記の骨子

 

ü  南インドのバラモン出身

ü  ナーランダーで出家

ü  南インド王に長生薬を授けた

ü  弟子に龍智

 

は共通であることから、これらは同一人物の伝記であり、『八十四成就者伝』が異なる部分は密教の影響による潤色であるとした。また、栂尾祥雲は『八十四成就者伝』の史料的価値を否定した。

 

龍猛

寺本は、新古2人の龍樹に加え、古龍樹の弟子の龍猛 (Nāgāhvaya) がいたとした。龍猛は浄土教の祖であり、『入楞伽経』に記された龍樹の授記は龍猛のものであるとした。

 

現在、龍猛が別人とされる時は、密教の業績が帰せられることが多い。この点では、寺本説の龍猛ではなく、むしろ新龍樹に対応する(ただし龍猛と新龍樹は、別の史料に基づく人物像である)。

 

中村元による分類

中村元は、ナーガールジュナに帰せられる多数の著作が全て同一人によって書かれたかどうかは、大いに論議のあるところであるとしており、複数のナーガールジュナの存在も考えられるとしている。中村は、以下の6人のうちの5および6は、1とは大分色彩を異にしているので別人ではないかと思われると述べている。

 

1.       『中論』などの空思想を展開させた著者

2.       仏教百科事典と呼ぶにふさわしい『大智度論』の著者

3.       『華厳経』十地品の註釈書『十住毘婆沙論』の著者

4.       現実的問題を扱った『宝行王正論』などの著者

5.       真言密教の学者としてのナーガールジュナ

6.       化学(錬金術)の学者としてのナーガールジュナ

2022/07/19

夏 ~ チャイナ神話(11)

 (紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃)は、史書に記された中国最古の王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には、初代の禹から末代の桀まで1417代、471年間続き殷に滅ぼされたと記録されている。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在の可能性もある。

 

夏の実在性

従来、史書に記された夏の実在性を確実に示す考古学上の発見が無く、伝説上の王朝とされてきた。

 

しかし、宮殿を持つ都市文化である河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡が、炭素14年代測定法により、殷の建国(二里岡文化)に先行していることが確定しており、また後から力を伸ばした殷はこの二里頭文化を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる。したがって、この二里頭文化が史書のいう夏の時代に相当することになる。

 

しかし、二里頭の都市文化は文字の出土資料もなく、後世の概念である王朝・国家の性格を持っていたのかも不明である。考古学的に「『夏』と後世に呼ばれた政権が実在した事」が証明された事と、史書のいう「『夏王朝』が実在した事」を混同してはならない。

 

現代の中国史・考古学学界では、夏王朝が実在したものと見なされている。

 

二里頭遺跡

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 二里頭遺跡は新石器時代の遺跡で、掘り出された住居の跡から人口2万人以上と推定される。当時としては世界有数の大規模集落。トルコ石で表現された龍、銅爵(どうしゃく)、宮殿区、龍の文様の入った玉璋(ぎょくしょう)が発掘されている。

 

 「宮殿区」の南門近くにある「一号宮殿」は回廊に囲まれ、内部に広い空間「中庭」、正面に「正殿(せいでん)」を配する構造となっている。この構造は、後の中国歴代王朝の宮殿構造に近く、歴代王朝ではここで宮廷儀礼を行っていることから、宮廷儀礼もここから始まったとも考えられる。

 

 ヒスイの龍は、二里頭文化以前に栄えた遼河流域の興隆窪文化、紅山文化でも発掘されており、遼河流域の文化の影響が及んでいることが示唆される。龍は歴代王朝は王の権威の象徴として用いられていること、歴代王朝の宮殿と類似する宮殿跡などから、二里頭文化が歴代王朝に影響を与えた文化だと考えられ、二里頭文化こそ夏王朝だとする学者も多い。

 

 また、二里頭遺跡周辺の当時の土壌に残る種子の分析から、粟、黍、小麦、大豆、水稲の五穀を栽培していた痕跡がある。これにより、気候によらず安定した食料供給が可能となったと考えられる。これが、それまでに衰退した他の中国の新石器時代に起こった各文化との違いであり、その後の商(殷)とも推定される二里岡文化へと繋がる中国文化の源流となったとも言われる。

 

禹の創業

夏王朝の始祖となる禹は、五帝の一人顓頊の孫である。帝堯の時代に、禹は大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められた。20168月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという。

 

舜は、人望の高かった禹を後継者と考えていた。舜の崩御後3年の喪に服した禹は、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めなかった為に禹が帝位に即位し、陽城(現在の登封市)に都城を定めた。禹は姓は姒(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。

 

禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。

 

更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。『竹書紀年』に依れば、45年間帝であったという。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、皋陶の死去に伴い益による朝政の補佐が行われた。

 

尚、「」という文字は本来蜥蜴や鰐・竜の姿を描いた象形文字であり、禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれている。この神話から、禹及び夏人は南方系の海洋民族であったと想定する説もあり、その観点からも多数の研究書がある。

出典 Wikipedia

2022/07/14

南北朝時代

中国史における南北朝時代は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。

 

概要

この時期、華南には宋、斉、梁、陳4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の東晋南朝の4つの王朝を合わせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。

 

この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では、政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛を極め、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。

 

また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方騎馬民の部族制を解体し、貴族制に基づく国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に、西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の禅譲を受けて帝位についた。589年、隋は漢族の南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。

 

普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が、隋を北朝に列しているためである。

 

北朝

倭は5世紀しきりに南朝に通交したが、6世紀になると南朝との関係は502年に記事があるのを最後に途絶える。高句麗は南北両朝に遣使していたが、北朝との通交頻度が高まった。百済・新羅も6世紀後半には北朝を重視するようになり、北朝に通交するようになる

 

北魏

北魏の前身は代国であり、その中枢部分は鮮卑拓跋部である。代国は前秦の苻堅により一旦は滅ぼされるが、苻堅が淝水で大敗したことをきっかけに再興され、その後は順調に勢力を拡大し、439年に第3代太武帝の下で華北を統一した。

 

しかし北魏内部で、鮮卑の習俗を守ろうとする勢力と、鮮卑の習俗を捨てて中国化を進めようとする勢力との争いが起きるようになる。中国化を進めようとする勢力の中心となったのは、主に被支配層の漢民族出身の者たちである。彼らにとっては中国化が進めば自らの立場が有利になるということでもあり、異民族が中国化すれば、異民族に支配される屈辱を晴らすことにもなる。この漢化派の代表が、漢人の崔浩である。

 

崔浩は外来宗教である仏教を排撃するために、道教教団の教祖寇謙之と手を結んで太武帝に廃仏(仏教弾圧、三武一宗の廃仏の第一)を行わせた。また崔浩は、漢人官僚を多く登用するなど漢化を推し進めたが、強引過ぎる漢化は鮮卑派の反感を買い、450年に誅殺される。その後の北魏では太武帝が暗殺され、しばらくの間は混乱が続く。

 

この混乱を収めたのが、文明皇后(馮太后)である。466年に政権を握っていた乙渾を排除し、献文帝を擁して垂簾政治を始める。後に献文帝に長男の宏(後の孝文帝)が生まれると、一旦は表舞台から引き下がるが、孝文帝の生母を殺したことで献文帝と対立し、これを廃位して孝文帝を擁立した。北魏では外戚対策として、新帝の即位後に、その生母を殺すことが通例であった。文明皇太后は引き続き垂簾政治を行い、班禄制・三長制・均田制などの諸制度を実行して、中央集権化・漢化を推し進めた。

 

490年に文明皇太后が死去すると孝文帝の親政が始まるが、基本的に文明皇太后の方針を受け継いだものであった。493年、首都をそれまでの平城(現在の山西省大同)から洛陽に移転した。同時に家臣たちの鮮卑の氏を全て中国風に改め、皇室の拓跋氏を元氏とした。更に九品を部分的に取り入れ、南朝を模倣した北朝貴族制度を形成しようとした。

 

これに反発した国粋派は、何度か反乱を起こした。孝文帝死後にはますます激しくなり、523年に始まった六鎮の乱は全国的な規模へと広がり、北魏滅亡のきっかけを作ることになる。六鎮とは、元首都の平城周辺を防衛していた6つの軍事駐屯所のことで、ここには鮮卑の有力者が配されていた。平城が首都であった時には、この六鎮は極めて重要視され、その待遇もかなり良かった。しかし洛陽遷都により、これらは辺境防衛の一つに過ぎなくなり、待遇も下落し、ここに駐屯していた軍人たちの不満が六鎮の乱の直接的原因となった。

 

この乱が起きている間に、朝廷では第8代孝明帝と、その生母である霊太后の間での主導権争いが起き、528年には霊太后により孝明帝が暗殺され、朝廷内外で混乱は頂点に達した。

 

六鎮の乱は、爾朱栄が孝荘帝を擁立して一旦は収まるが、爾朱栄は孝荘帝によって殺される。その孝荘帝を爾朱栄の一族が殺すが、更に爾朱栄の部下であった高歓が爾朱一族を皆殺しにし、政権を掌握した。高歓によって擁立された北魏最後の皇帝孝武帝は、高歓の専権を嫌って関中一帯に勢力を張っていた軍閥の長である宇文泰を頼って逃れた。

 

西魏と東魏

北魏の孝武帝が宇文泰のもとに逃げたため、高歓はそれに代わって534年に孝静帝を擁立して、皇帝に即位させた。これにより北魏は、宇文泰が擁する孝武帝の西魏と、高歓が擁する孝静帝の東魏とに分裂した。といっても東西の魏は、それぞれの実力者が帝位に就くための準備段階でしかなく、その皇帝は実力者の傀儡であった。

 

西魏では、535年に宇文泰が孝武帝を殺して文帝元宝炬を擁立、その崩御後には廃帝元欽、ついで恭帝拓跋廓(元廓)が立つが、いずれも宇文泰の傀儡であった。55610月に宇文泰が死ぬと、その後を継いだ三男の宇文覚が恭帝から帝位の禅譲を受け、西魏は滅んだ。

 

東魏では、高歓が事実上の最高権力者として君臨していた。547年に高歓が死ぬと、その長男の高澄と次男の高洋が相次いで権力を継承した。550年、高洋は孝静帝から帝位の禅譲をうけ、東魏は滅んだ。

出典Wikipedia

2022/07/12

エピクテトス

エピクテトス(Επίκτητος, Epiktētos50年ごろ - 135年ごろ)は、古代ギリシアのストア派の哲学者。その『語録』と『提要』は、すべてのストア哲学のテキストの中でおそらくもっとも広く読まれ、影響力の大きなものであるといわれる。苦難の中にあって平静を保つことや、人類の平等を説いたその教えは、皇帝マルクス・アウレリウスの思想にも引き継がれており、ストア主義の歴史上重要な意味を持つとみなされている。

 

生涯

エピクテトスは、西暦50年ごろにフリギアのヒエラポリスで生まれたと考えられている。母親は奴隷階級だったらしく、自身も奴隷としてローマ帝国の皇帝ネロの解放奴隷であるエパプロディートスに売られた。ローマでの彼の生活は、不健康だったという。

 

有名なストア哲学者ムソニウス・ルーフスの下で哲学を学ぶことをエパプロディートスに許され、ストア哲学を学んだ後、エパプロディートスによって奴隷から解放された。自由人となったエピクテトスは哲学の教師となったが、89年に皇帝ドミティアヌスが出した哲学者のイタリアからの追放令のためにローマを離れ、ギリシア東部のエピルスの大都市ニコポリスに落ち着いて哲学の学校を開いた。これはきわめて有名になり、皇帝ハドリアヌスも訪問したほどであった。エピクテトスは短い旅行を除き、135年ごろに死ぬまでニコポリスに住んだと考えられている。

 

後年、エピクテトスは片足の自由がきかず、そのことが何度か『語録』で触れられている。これはエパプロディートスによる残酷な虐待の結果といわれることがあるが、片足の自由がきかなくなった理由については『語録』で述べられておらず、はっきりしたことはわかっていない。高齢のためという推測もある。

 

著作

エピクテトス自身は著作を残さなかったが、(後にアレクサンドロス3世の伝記などを著した)アッリアノスが若い頃エピクテトスの下で学んだとき、エピクテトスが話すのを「できるだけそのままの言葉で」書き留めたものが『語録』として広まった。また、アッリアノスは『語録』から要点をまとめたものも残しており、それは『提要(エンケイリディオン)』と呼ばれている。日本語では、次の本に現存する『語録』と『断片』(エピクテトスへの言及を集めたもの)と『提要』がまとめられている。

出典 Wikipedia

2022/07/05

ビザンツ帝国の盛衰(2)

http://timeway.vivian.jp/index.html

 

軍管区制のもとで、やがて地方の軍司令官が皇帝に対して反乱を起こすようになるのですが、9世紀には軍司令官たちの権力を削り弱体化させ、皇帝権力が強化される。この時期が、ビザンツ帝国の最盛期といわれている。

 

 この時期には皇帝の妃を選ぶために、全国美人コンテストがおこなわれた。身分は一切関係なし。全国から美女がコンスタンティノープルに集められて、もっとも美しい娘に皇帝が黄金のリンゴを手渡すのです。リンゴをもらった娘が妃となる。この黄金のリンゴは、トロヤ戦争の発端になったギリシア神話に基づいています。以前に話しましたね。

 

 何とも風雅なことをやっていますね。でも、神話的な香りがするこの美人コンテストが、帝国の中央集権化を維持する重要な儀式だったのです。

 

 11世紀になると、大土地所有者である貴族の勢力が強まってきて、プロノイア制というものが始まる。これは、貴族に地方の徴税権を与えるものです。イスラムのイクター制と似たものです。

 

 また、この時期にはセルジューク朝が小アジア地方に領土を拡大して、ビザンツ帝国を圧迫する。危機感を持ったビザンツ皇帝は、西方のローマ教会に救援を求めます。これに応じてヨーロッパ諸国の王や諸侯が、ビザンツ帝国経由でシリアに遠征します。これが第一回十字軍。このあと約200年間にわたって、前後7回の十字軍が西ヨーロッパからイスラム世界に遠征することになります。

 

 ところで、領土が小さくなっても、首都コンスタンティノープルはアジアとヨーロッパ、黒海と地中海を結ぶ交通の中心地で、商業で大いに栄えている。地中海貿易で当時、一番勢力があったのがイタリアのヴェネチア商人です。コンスタンティノープルにも、駐在員を置いて大いに儲けていた。

 

 ビザンツ帝国とヴェネチア商人は持ちつ持たれつの関係だったのですが、両者の関係が一時期こじれます。その結果、第四回十字軍はヴェネチア商人の誘導でビザンツ帝国を攻撃して、コンスタンティノープルを占領してしまった。滅茶苦茶ですね。コンスタンティノープルを乗っ取った十字軍の兵士たちは、ここにラテン帝国という国を建てる。ビザンツ帝国の貴族たちは、地方に亡命政権を立てます。これをニケーア帝国という。

 

 その後、ニケーア帝国はラテン帝国からコンスタンティノープルを奪還し、ビザンツ帝国は復活するのですが、もう以前のような繁栄は戻らない。バルカン半島の領土も、新興のオスマン帝国にどんどん取られて、事実上コンスタンティノープルと、その周辺だけにしか領土がない都市国家になる。ただ、貿易の利益と千年以上の年月をかけて造り上げてきた何重もの城壁に守られて、もう少し生き延びます。

 

 しかし1453年、ついにオスマン帝国によってコンスタンティノープルは陥落し、ローマ帝国から数えれば二千年以上続いたビザンツ帝国は滅びました。

 

ビザンツ帝国の経済と文化

 ビザンツ帝国の経済は、ひとえにコンスタンティノープルの交易上の立地条件の良さに支えられていました。また、ローマ帝国時代から受け継がれてきた工業も盛んで、特に絹織物、宝石細工、武具など輸出用工芸品の製造業が発展していた。

 ビザンツ金貨も、広い範囲で流通していたということです。

 

 文化的にはギリシア・ローマ文化を継承し、それをイスラム世界や西ヨーロッパ世界に伝えたという点で世界史的な意義がある。また、ギリシア正教を東ヨーロッパに布教した。布教に際して、スラブ諸語を書き記すためにビザンツのお坊さんが考案したのがキリル文字です。今ロシアで使っている、ローマ字がひっくり返ったようなあれ。

 

 ビザンツ建築。ドーム、モザイク画が特徴。代表的な建築物が聖ソフィア寺院。

 

東欧世界

 ビザンツ帝国の北方は、どんな様子だったか。現在の東ヨーロッパにあたる地域です。ここには中央アジアと直結していますから、アジア系遊牧民族がいます。

 

 マジャール人。9世紀頃、現在のハンガリーの地域に移住してきて先住のスラブ人と同化し、10世紀頃にはハンガリー王国を形成します。宗教はカトリック。ハンガリーのハンは、その前に来ていたフン族のことです。ハンガリー人というのは、今でも髪も瞳も黒く、目の細い人が多いですね。名前も姓が先に来ていて、われわれと同じです。

 

 トルコ系のブルガール族が建てたのがブルガリア王国。ただ、ブルガール族は大多数のスラブ人に同化されていきます。ブルガリア王国は7世紀に建てられ、いったん滅んだあと12世紀に復活します。宗教はギリシア正教。

 

 東欧地域の主人公がスラブ民族。広く分布しているので、代表的な国だけみておきましょう。ロシア方面では、9世紀にノヴォゴロド国とキエフ公国が成立。キエフ公国では、10世紀にウラディミル1世がギリシア正教を国教化しています。その後、13世紀にはモンゴルのキプチャク=ハン国ができて、ロシアのスラブ人の国はその支配下に入りました。15世紀末になって、モスクワ大公国がキプチャク=ハン国から独立して、現在のロシアのもとになった。

 

 ポーランドも、10世紀に国家建設。14世紀にはリトアニア=ポーランド王国を形成して、東欧に大きな勢力を持つ。宗教はカトリックです。

 

 東欧でも、一番西寄りにいたのがチェック人。かれらは9世紀にモラヴィア王国を形成しますが、マジャール人の攻撃で衰退。その後、ローマ=カトリックを受け入れてドイツに臣従します。ドイツにできた神聖ローマ帝国の中で、12世紀にはベーメン王国を建てた。これが現在のチェコのもとです。