2009/11/22

段葛

 出典https://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/annai/kama1.html

 

鶴岡八幡宮の三ノ鳥居前交差点から由比ヶ浜まで続く若宮大路。道の中央で石垣の中の道は「段葛(だんかずら)」と呼ばれている参詣道です。

 

『吾妻鏡』寿永元年(1182)三月十五日条にある「詣往道」は、鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に至るまでの道であったといいますから、この若宮大路と考えることができるのですが、その後に続く政子の安産を祈念して御家人達が土石を運んで築いたというのは、段葛のことであるともいわれます。若宮大路も段葛も同じ八幡宮の参詣道ですが、古道研究の立場からは区分して考える必要があるようです。

 

段葛の入口(或いは出口)です。幅は、約3メートルあるそうです。それに対して現在の段葛の南限の二ノ鳥居近くでは、段葛の道幅は約5メートルといいます。この道幅の違いは、遠近法を用いて実際よりも道が長く見えるようにしているという説がありす。そして段葛だけではなく、若宮大路自体も発掘結果から八幡宮側よりも南の方が広くなっていたかも知れないようです。

 

現在「段葛」と呼ばれている参詣道は、鎌倉時代の文献などには段葛という名前は見あたらないようです。実際に段葛の名前が出てくるのは江戸時代になってからのようでが、研究者によっては鎌倉時代から段葛と呼ばれていたとする説もあるようです。

 

段葛以外の呼び方としては、置石(おきいし)、作道(つくりみち)、置路(おきみち)、千度壇(せんどだん)など、その他多くの呼ばれ方をしていたようです。寿永元年のことを記した『鶴岡八幡宮寺社務職次第』には

 

「鶴岡社頭より由比浜に至る置路を造らるるなり」

 

とあります。一般には、段葛の名前の由来は道の中央を一段高くして葛石を並べた道、ということのようです。

 

『新編鎌倉志』に、次のようにあります。

 

一の鳥居より、大鳥居までを、若宮大路とあり。今は堅横ともに、若宮小路と云なり。社の西の町を、馬場小路と云なり。総名を雪下と云なり。此所に旅店あり。法印堯慧が、歌に「春ふかき跡あはれなり苔の上の、花に残れる雪の下道」と詠ず。社前より浜までの道、其中の一段高き所を、段葛と名く。又は置路とも云なり。

 

上記のとおり『新編鎌倉志』では段葛と呼んでいるようですが、現在と違うのは現在の三ノ鳥居が一の鳥居で、一ノ鳥居が大鳥居となっています。

 

『鎌倉年中行事』には、七度小路というのが出ています。鎌倉公方が毎年二月に八幡宮に七日間参籠し、そのときに浜の鳥居を七度廻ることから、そう呼ばれたようです。『快元僧都記』の天文3年(1534)六月十六日の条に収めてある勧進状の案に、七度行路と下馬橋二ヶ所を修治したいというのがあるそうです。ここでいう七度行路というのは、七度小路と同じもので『鎌倉市史』に七度小路は段葛のことであろうと書かれています。

 

この段葛は『吾妻鏡』寿永元年のときに築かれた「詣往道」と考えてよいものなのか?

御家人達が石を運んでいるというから、段葛の路肩と縁は石垣になっているので、この石のことではなかとも思われます。しかし明治初め頃の古い段葛の写真を見ると、段葛の両側は土塁状になっているだけで石垣は見られませんし、今のように桜並木もありません。ただ石垣のことは、何百年の間に崩れたりもしているでしょうから、あまり気にすることではないとしても、問題は鶴岡八幡宮から由比ヶ浜まで至る道であったということです。何故ならば段葛は、現在二ノ鳥居までしかないことです。

 

鎌倉時代の段葛は、どんな道であったのでしょうか。段葛の研究資料をいろいろと見ていくと、どうやら段葛は由比ヶ浜まで無かったらしいのです。段葛の南限がどこであったのか、有力とされる資料が明応年間(14921501)に作成されたと伝わる「善宝寺寺地図」で、「置石」と記された切石列が延命寺橋と思われる西側の現在の下ノ下馬付近まで描かれているものです。その他にも、享保17年(1732)の「鶴岡八幡宮境内図」などにも、段葛らしき道は下ノ下馬付近まで描かれています。

2009/11/13

大文字の謎(2)

出典http://kyoto.nan.co.jp/

実際の盂蘭盆は中国では6世紀に梁の武帝が初めて執り行い、日本では7世紀(657)に齋明天皇が初めて行ったと、日本書紀に伝えられています。元々、日本は世界の中でも祖先崇拝の強いところだったと日本神話の研究などから考えられており、以前から行われていた祖先供養の行事に盂蘭盆が加わり、日本独特のお盆行事へ変化していったと考えられています。

 

813日に迎え火を燃やし祖先の霊を我が家に迎え、15日か16日に送り火を燃やし祖先の霊が黄泉の国へと帰るのを送るのが日本でのお盆の習わしで、15日がお盆当日となります。この迎え火と送り火の事を、主に門辺で燃やしていたところから門火と言います。大文字の送り火も、この門火のひとつとされています。なお旧暦では、お盆は7月に行われていました。旧暦で7月は秋となり、俳句の世界でもお盆は秋の季語となります。立秋も迎え、時候の挨拶も『残暑厳しき折』となる現在の8月に行われるのが、新暦では季節的に合うという事になります。

 

さて、霊(み魂)の帰っていく黄泉の国とは、どこにあると考えられていたのでしょうか。それは、海の彼方とも高天原とされる天上とも考えられていましたが、平安京の人々は山奥(そして、それに続く天上)にあると考えていた事が、万葉集に幾つか残る死者を悲しむ挽歌から推測できるそうです。故に、山中で送り火を燃やすという風習が定着していったものと考えられています。

 

戦国時代(1500年代)になると、幾つかの文献が往時の京のお盆の様子を伝えております。それによりますと、当時はお盆の初めから旧暦の7月終わり頃まで、燈籠や提灯で街々や家を飾り、大燈籠の回りでは人々が踊りに興じていたとの事です。また鴨川には数多くの人が出向き、松明を空に投げて霊を送ったとされ、その様は瀬田の螢のようであった(当時から、瀬田の螢は有名だったらしい)と記されています。

 

1567年に上洛を果たした織田信長もその華やかさを見て喜び、お盆の時に安土城を無数の提灯で飾り、武士達が松明を手に舟で琵琶湖にのり出し、光の祭典を演じたと記されています。当時の京のお盆は、正しく火(明り)の祭典だったと言えます。

 

京のお盆の様子を伝える文献は戦国時代から見受けられますが、大文字の送り火については公家の舟橋秀腎の日記「慶長目件録」の慶長八年(1603年)の716日のところに「鴨川に出て、山々の送り火を見物した」と記されているのが最初となります。ただ、ここでも「寄り道がてらに見物した」ようにうかがえ、いつから始まったとは書かれておらず、この時には既にお盆の風物詩となっていたかのような感じを受けます。

 

1600年代半ばになると関ヶ原の合戦も終わり、すっかり天下大平となった日本では、一大旅行ブームが起こります。江戸では多くの旅行案内書が出回るようになり、その中に「大文字の送り火」が数多く登場してきます。しかし、この時には既に大文字の起源は謎になっており、その起源を色々と考察、議論する書物も出回り始めます。

 

江戸時代初期から色々と研究されはじめた大文字の起源ですが、その中でも代表的なものが「平安時代初期の弘仁年間(810824)に、弘法大師が始めた」というものです。その理由としては

 

1)代々、大文字の送り火を行っている浄土村は、大師ゆかりの土地である。

2)大文字の山自体も、大師の修行の地の一つであった。

3)あの大の字の筆跡は、筆の名匠・弘法大師のものである。

4)大文字山の斜面は、かなりの高低差のあるデコボコしたもので、そこに地上から綺麗に見える大の字を設置するのは、大師にしか出来なかったのではないか。

などがあります。

 

なお京都の人の間では「弘法さんが始めはったんや」と代々、伝承されています。

2009/11/11

葛城

  奈良県と大阪府との間に聳えている葛城山系(主峰は金剛山、1125m)は神のいます山として古くから知られ、その山麗一帯が「葛城の国」であった。

 

葛城」の名の由来は、千二百余年前に編集された『日本書紀』によれば、初代天皇・神武帝が大和平定の折、この地で抵抗する土着民(体が短く、手足が長い侏儒(こびと)のような土蜘蛛)を葛のつるの網を被せて退治したことによる、とされている。その後、この地には葛城の国造りが置かれた。ひとつの行政的単位としての葛城地方が存在したことは、重要な意味を持つと言える。

 

古墳時代にこの地を治めたのは葛城氏で、記紀によれば4世紀後半、大和朝廷の朝鮮半島進出に活躍した葛城襲津彦(そつひこ)は、皇室と関係を持った数少ない有力豪族だった。彼の娘は、仁徳天皇の皇后として有名な磐之媛(いわのひめ)であり、皇室に妃を出すことによって5世紀ころは最も繁栄したという。

 

御所(ごせ)市室(むろ)には、全国屈指の大規模な宮山古墳(国史跡)など、葛城の国をあとづけるものが数多く散在している。この地はまた、役の行者・大津皇子、楠木一族などに代表される日本人の精神生活に深い形跡を留めている。  東の山之辺の道に対する西の葛城の道は、竹之内から南へ笛吹き神社・櫛羅(くじら)・九品寺(くほん)・一言主神社・極楽寺・高天彦(たかまひこ)神社をむすぶ葛城山麗を言い、古代最も栄えた道である。

 

大阪府と奈良県の境に、葛城・金剛山地というところがあります。奈良県側の葛城山麓は、葛城氏という氏族が住んでいました。後に衰微しましたが、古代王朝を支えた有力豪族でもあります。(葛城氏の系統から鴨氏が出、奈良県葛城には高鴨神社があり、この氏族が京都で奉じた神がのちの下鴨・上賀茂神社の神と言われます)

 

日本書紀の神武天皇の条では葛城について、この地に土蜘蛛という手足の長い賊があり、これを制するのに蔦葛で編んだ網で捕らえ殺したからとありますが、地名語源には日本の古い言葉、やまと言葉で説明しようとする立場も強いです。

 

 「鴨川の流域に、有名な上賀茂神社と下鴨神社があります。ここはかつて「賀茂郷」と呼ばれていました。鴨川の名前の由来は、この地名によるものです。そして賀茂の地に住んで、上賀茂神社や下鴨神社をまつっていたのが、鴨(賀茂)氏です。

 

鴨氏が京都の今の地に来るまでは、奈良の御所市葛城の地に住んでいたと考えられています。今も高鴨神社、鴨都波神社、鴨山口神社などの神社や、カモの地名が多く残されている土地です。鴨氏の名前はおそらく、この御所市のカモの地に住んでいたことで、付けられたのでしょう。

 

では、カモという地名は何に由来しているのか?

これは、大変に難しい問題です。日本人の根源にも関わる問題でもあるのですが、カモとは「」のことではないかとする説があります。

 

「カモ」と「カミ」、そういえばよく似た音です。どちらが、より古い言葉なのかはわかりません。「醸 (カモ)しだす」の「カモ」も、同じ語源と思われますし、いずれにせよ聖なる存在を表現した言葉だったのでしょう。動物の鴨もまた聖なる鳥であり、北から渡ってくる鳥は天から飛来する鳥だったのです。  カミ(カモ)なる鳥ということで、カモの名が与えられたのだと考えられます。

 

・葛城に聖なる地があり、ここで神(カモ)をまつる氏族が「カモ氏」である。

・カモを漢字で表記すると「賀茂」あるいは「加茂」であるが、聖なる鳥「鴨」の字を取って鴨氏とも名乗った。

・カモ氏が京都に移住してその地を「カモ」とし、上賀茂神社や下鴨神社をまつった。

・神(カモ)の社として、この2社は神社の中の神社として尊崇され、川の名前もそこから鴨川になった。

 

次に、金剛山の由来を転載します。

 

「この山は古来、葛城山または高天山とも呼ばれていました。日本書紀神武天皇の巻に、葛の網を着せて土賊を掩い殺した・・・云々に由来しています。更に時代が移り、天智天皇四年(約1300年前)役の小角十六才の時(後の山岳宗教の開祖・役の行者又は神変大菩薩と称される)、この山に登られ霊気を感得、長い修業の後、頂上に法起菩薩をご本尊とする金剛山転法輪寺を建立され、ご自身の祖神、一言主神を祀る葛木神社を鎮守として併せ祀られ、神仏混淆の霊峰とされました。

 

以後、真言密教の霊場として信仰を集め、転法輪寺のお寺の山号である『金剛山』が略称の様に使われ、葛城山脈中の最高峰を指す名称になったとも言われています。

 

更に後醍醐天皇(約650年前)に移ると、大楠公が金剛山転法輪寺の山伏精力を利用し、僅か五百の兵で智略を使った結果、関東の五万の大軍を寄せつけなかった千早城の要塞としても関わりの深いものが有ったと言われています。


出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

「葛上(かつらぎのかみ)郡」、「忍海(おしのみ)郡」、「葛下(かつらぎのしも)郡」の三郡は、大和川の南、金剛山地の北、葛城山脈の東麓の地帯。葛下郡は概ね現北葛城郡王寺町、上牧町、當麻町、香芝市、大和高田市の地域、忍海郡は現北葛城郡新庄町の中心辺り(近鉄御所線の忍海(おしみ)駅があり、忍海の地名が残っています)

 

葛上郡は御所市の地域で、三郡の北は大和川、東は広瀬郡、高市郡、吉野郡、南は宇智郡、西は河内国に接しています。

 

『和名抄』は「加豆良支乃加美」、「於之乃美」、「加豆良支乃之毛」と訓じています。『日本書紀』神武即位前紀己未年2月条に、高尾張邑の土蜘蛛を

 

「皇軍、葛の網を結(す)きて、掩襲(おそ)い殺しつ。因りて改めて其の邑を號けて葛城(かづらき)と曰ふ」とあります。

 

この「かづらき」は

(1) 「葛の生えたところ」の意

(2) 「カヅ(カテ、カツラ。崖地、急傾斜地)・ラ、キ(場所を示す接尾語)」の意、とする説があります。

 

この「かづらき」は、マオリ語の「カツア・ラ(ン)ギ」、KATUA-RANGI(katua=stockade,main portion of anything;rangi=sky,heaven,tower or elevated platform used for purposes of attack or defence of a stockade)、「空に聳える砦(のような地域。そこにある山)」の転訛と解します。

2009/11/08

巨人が日本一に

プロ野球で巨人が7年ぶりに日本一(21度目)となった。

 

小笠原、ラミレスという磐石の34番と阿部を軸に、坂本、亀井、松本といった若手手の急成長、また投手陣は生え抜きの内海、ヒサノリ、東野はイマイチだらしがなかったが、最多勝を捥ぎ取ったゴンザレスと途中加入のオビスポの存在感は、実に大きかった。特にゴンザレスは、彼なくしては優勝はなかっただろうと思えるくらいの安定感(152敗)で、個人的には最もMVPに相応しい働きをした選手だと思っている。勿論、去年同様に山口&越智の中継ぎコンビの活躍も見落とせない。

 

シーズンでは、2位中日に12ゲームもの差をつけて圧倒的な優勝を飾り、CSでも中日を圧倒して迎えた日本シリーズであり、相手の日本ハムも巨人同様シーズン優勝から順当にCSを勝ち上がってきた強者だけに、真のチャンピオンを争うに相応しい対戦である。

 

緒戦を敵地で取った時には

 

「これは案外、簡単に行ってしまうかも」

 

という気さえしたものだったが、第2戦は病み上がりで本調子でないダルビッシュを打ちあぐねて敗戦。投ではダルビッシュ、打では稲葉が活躍すると一気にムードが変わってしまう相手だけに、この2人はしっかり攻略しなければならないところだったが、その稲葉にも2発を打たれ22敗と互角の展開が続く。先に王手をかけたとはいえ、敵地北海道に戻って最終戦まで縺れ込めば、再びダルビッシュが出てきそうな展開だけに、第6戦で一気にケリを着けてしまいたい巨人としてはとしては、まさに絵に描いたような理想的な形で日本一に輝いた。

 

日ハムのナシダの采配ミスが何度かあったところからすると、もっとしたたかな前監督のヒルマンだったら巨人はもっと苦戦していたところだろうが、ともあれ原監督はWBCに続いての胴上げと、Gファン(一応w)にとっては二重の喜びで最高のシーズンとなった。

 

それにしても、あれだけシーズン中に足を引っ張り続けたクルーン(狂~ん)に、なぜ3度も胴上げ投手の美味しい役どころを与えたのか、まったくもって理解に苦しむ。  一年通して頑張った山口、越智にも経験させてやりたかったなー。

2009/11/04

空気の支配(反日政党の末路)

暴力団構成員の殆どは、在日コリア人やxxx出身者であることは、周知の事実である。これらの重要な事柄(反日政策)はマニフェストには書いておらず、選挙の時には巧妙に隠蔽してきたという悪辣さだ。これでは一体、どこの国の政治家であり政党だかわからないし、こんなことで「国民の生命や財産」を守れるはずもなく、民主党政権では国益を損なうのみである。

 

ここまで書いてきたどれもこれもが、あたかもアングラかブラック本の話のように聞こえるかもしれないが、これが民主党の本質なのだ。その党が「政権政党」として日本の舵取りをしていく事になるのだから、決して冗談話などではない。日本人がなぜ、このような売国奴どもを狂喜乱舞して支持するのかがサッパリ理解できないし、マスゴミの捏造報道に煽られ熱に浮かされた輩の集団ヒステリーだとしても、大概に節度を弁えてくれよと言いたくもなる。

 

もっともハトヤマは所詮は傀儡に過ぎず、民主の実際の首魁がオザワであることはミエミエだ。そのオザワとは、どうのような人物かといえば、かつて親分らとともに「コンチクショウ(金竹小)」と呼ばれていたくらいで、お清潔好きな民主支持者たちの大嫌いな「金権腐敗の元凶的な存在」だったことを忘れたとは、ご都合主義が過ぎる。

 

言うまでもないが、選良として最も大事なのは「国益を守る」ことが第一である。国益を損なうクリーンな無能力者よりは、胡散臭くとも絶対に「国益優先」でなければならない。実際、政治に金や闇社会が付き物であることは今に始まったことではないから、クリーンといわれる政治家は往々にして、単にそれだけの才覚がないだけだったりするのである。

 

不思議なことに、政治家としてオザワを評価する向きも多いようだが、ワタクシは自民党で君臨していた幹事長の頃から、オザワなんぞは一貫してまったく評価していない。  それどころか、大の「オザワアレルギー」である。

 

所詮は自民党内の権力闘争に敗れ、居たたまれなくなって飛び出したに過ぎず、その後を言動を見てもかつてボロクソに扱き下ろしていた社会や公明どころか、自民とだって平気で野合(自民も公明と野合は問題だったが、まだしもオザワよりはマシである)するような無節操なヤツなのだ。また、自ら新政党を作ってはぶち壊しを繰り返すなど、あの分裂ぶりを見ればどう考えても頭の中には私利私欲しかないことは明白である。

 

それもこれも「国益」を追求するための行動ならまだ許せるが、先の「コンチクショウ(金竹小)」時代には、北朝鮮への「土下座外交」で日本の歴史に泥を塗るような禍根を残すという、死罪に値する許しがたい大罪を犯している。それに飽き足らず、次にはアメリカに擦り寄って「日本改造計画」(言うまでもなく田中角栄「列島改造計画」の二番煎じ)や「国際貢献」をぶち上げたかと思えば、次には社会党と野合しコリアやチャイナへの謝罪外交を推進して、日本の名誉や国際社会での地位を著しく貶める、といった調子で、まったく支離滅裂としか言いようがない。

 

要は、権力闘争における狡猾な立ち回りだけで生き残ってきたような、極めて低劣な権力亡者に過ぎぬ。自民党中枢にいた頃はもう少しはマシかと思っていたが、権力の座から滑り落ちてからは政権を取ることだけが目的となり、そのためには一切の手段を選ばないという妖怪の正体が丸出しとなってしまった。

 

勿論、政権を取らないことには政策が実現できないのだから、究極的には政権を取るのが目的でなければ政治家の価値はないともいえるが、そのために日本及び日本人を侮辱した挙句、国益を損なってでも政権にしがみつこうというのは「狂気の沙汰」としか言えない。こんな胡散臭いヤツが、実質的に仕切っているのがミエミエだった政党に「300議席」を与えた人々に「本当に正気の選択だったのか?」と、改めて問い直したいものだ。

 

オザワと言えば、かつて自民党で権力を振るっていた頃は「普通の国になれ!などとタワゴトをホザイテいた大バカモノである。オザワの称する「普通の国」とは、要は政権政党としてアメリカサマに尻尾を振っていた頃だから、有り体に言えば「自己責任」とか「小さな政府」というヤツである。

 

ところがいつの間にやら、と言うより政権欲しさばかりに「シャミン」に擦り寄って「大きな政府」を唱えだしたかと思えば、次には性懲りもなく「脱官僚」などと言い出した。「脱官僚」と言うことは、取りも直さず自己責任社会だから

 

「おやおや・・・また小さな政府への回帰を言い出したのかいな・・・」

 

と思っていたら、今度は「地方分権」である。ところが「地方分権」を声高に叫ぶ傍らから、たかだか地方の一ダムに過ぎないものの打ち壊しに躍起となり、中央権力の威を笠に強引にぶち壊そうというデタラメっぷリだ。

 

さらには「子供手当て」やら「高速道路無料化」といった「手厚い政府保護」という社会主義的な「大きな政府」を唱えるといった調子の支離滅裂っぷりは、さながらマンガとしか言いようがない(マンガでもありえない酷さか)

 

いずれにしても、いまさら幾ら嘆いてみたところで既に賽は投げられてしまったのだから、最早どうにもならないのである。ともかくルビコンを渡ってしまった民主は、くだらない「マニフェスト」であろうが(公表したものについては)、責任を持って公約を履行するしかなくなったが、公約倒れに終われば移ろいやすい大衆の「空気」は、再び自民その他へと流れることになるだろう。

 

そのようにして、繰り返される大衆の気紛れに見捨てられる民主は、(かつて100以上の議席を有しながら、今や限りなくゼロに近いまでに愛想をつかされた)社民党と同じ、没落の道を転げ落ちる事になるのは必定だ。そうなった暁には「一時の空気」に支配された民主支持者たちは

 

「もう絶対に、民主だけには任せられない!!!」

 

とヒステリックに喚き立てるのも、これまた必定であろう(その時は、絶対に許さないからな (▼д▼)y─┛~~゚゚゚

 

衆愚政治(Ochlocracyとは、多数の愚民による政治の意で民主政を揶揄して用いられる言葉。有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況を指す。また有権者が、各々のエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。

 

知的訓練を受けない民が意思決定に参加することで、議論が低廻したり扇動者の詭弁に誘導されて誤った意思決定をおこない、誤った政策執行に至る場合などを指す。また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁・血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えにもとづかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求など様々な誘引に導かれ意思決定を行うことで、コミュニティ全体が不利益を蒙る政治状況をさす。