2019/11/30

アリストテレス(2) ~ 万学の祖

論理学
アリストテレスの師プラトンは、対話によって真実を追究していく問答法を哲学の唯一の方法論としたが、アリストテレスは経験的事象を元に、演繹的に真実を導き出す分析論を重視した。このような手法は、論理学として三段論法などの形で体系化された。

アリストテレスの死去した後、彼の論理学の成果は『オルガノン』 (Organon) 6として集大成され、これを元に中世の学徒が論理学の研究を行った。

自然学(第二哲学)
アリストテレスによる自然学に関する論述は、物理学、天文学、気象学、動物学、植物学等多岐に亘る。

プラトンは「イデア」こそが真の実在であるとした(実在形相説)が、アリストテレスは、可感的かつ形相が質料と不可分に結合した「個物」こそが基本的実在(第一実体)であり、それらに適応される「類の概念」を第二実体とした(個物形相説)。様々な物体の特性を決定づけているのは、「温」と「冷」、「乾」と「湿」の対立する性質の組み合わせであり、これらの基礎には火・空気・水・土の四大元素が想定されている。これはエンペドクレスの4元素論を基礎としているが、より現実や感覚に根ざしたものとなっている。

アリストテレスの宇宙論は、同心円状の階層構造として論じられている。世界の中心に地球があり、その外側に月、水星、金星、太陽、その他の惑星等が、それぞれ各層を構成している。これらの天体は、前述の4元素とは異なる完全元素である第5元素「アイテール」(エーテル)から構成される。そして、「アイテール」から成るがゆえに、これらの天体は天球上を永遠に円運動しているとした。さらに、最外層には「不動の動者」である世界全体の「第一動者」が存在し、すべての運動の究極の原因であるとした。(続く『形而上学』(自然学の後の書)においては、アリストテレスはこれを「」とも呼んでいる。)

アリストテレスの自然学研究の中で、最も顕著な成果を上げているのは生物学、特に動物学の研究である。生物学では、自然発生説をとっている。その研究の特徴は、系統的かつ網羅的な経験事実の収集である。数百種に亘る生物を詳細に観察し、かなり多くの種の解剖にも着手している。特に、海洋に生息する生物の記述は詳細なものである。

また、鶏の受精卵に穴を空け、発生の過程を詳しく観察している。一切の生物はプシューケー(希: ψυχη、和訳では霊魂とする)を有しており、これを以て無生物と区別されるとした。この場合のプシューケーは、生物の形相であり(『ペリ・プシューケース』第2巻第1章)、栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力によって規定される(『ペリ・プシューケース』第2巻第2章)。

また、感覚と運動能力を持つ生物を動物、持たない生物を植物に二分する生物の分類法を提示している(ただし、『動物誌』第6巻第1章では、植物と動物の中間にいるような生物の存在を示唆している)。

さらに、人間は理性(作用する理性〔ヌース・ポイエーティコン〕、受動理性〔ヌース・パテーティコン〕)によって現象を認識するので、他の動物とは区別される、としている。

原因について
アリストテレスは、師プラトンのイデア論を継承しながらも、イデアが個物から遊離して実在するとした考えを批判し、師のイデアと区別してエイドス(形相)ヒュレー(質料)の概念を提唱した。

アリストテレスは、世界に生起する現象の原因には「質料因」と「形相因」があるとし、後者をさらに「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」の3つに分けて、都合4つの原因(アイティア aitia)があるとした(四原因説)(『形而上学』A巻『自然学』第2巻第3章等)。

形而上学(第一哲学)
事物が何でできているかが「質料因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相因」、運動や変化を引き起こす始源(アルケー・キネーセオース)は「動力因」(ト・ディア・ティ)、そして、それが目指している終局(ト・テロス)が「目的因」(ト・フー・ヘネカ)である。存在者を動態的に見た時、潜在的には可能であるものが、素材としての可能態(デュナミス)であり、それと、すでに生成したもので思考が具体化した現実態(エネルゲイア)とを区別した。

万物が可能態から現実態への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは、「神」(不動の動者)と呼ばれる。イブン・スィーナーら中世のイスラム哲学者・神学者や、トマス・アクィナス等の中世のキリスト教神学者は、この「」概念に影響を受け、彼らの宗教(キリスト教・イスラム教)の神(ヤハウェ・アッラーフ)と同一視した。

範疇論
アリストテレスは、述語(ABであるという時のBにあたる)の種類を、範疇として下記のように区分する。すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」(『カテゴリー論』第4章)。ここでいう「実体」は普遍者であって種や類をあらわし、述語としても用いられる(第二実体)。これに対して、述語としては用いられない基体としての第一実体があり、形相と質料の両者からなる個物がこれに対応する。

倫理学
アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「最高善」があるとした。人間にとって最高善とは、幸福、それも卓越性(アレテー)における活動のもたらす満足のことである。幸福とは、たんに快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または人間の霊魂が固有の形相である理性を発展させることが、間の幸福であると説いた(幸福主義)。

また、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。中庸に当たるのは、

恐怖と平然に関しては勇敢
快楽と苦痛に関しては節制
財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)
名誉に関しては矜持
怒りに関しては温和
交際に関しては親愛と真実と機知

である。

ただし、羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。

また、各々にふさわしい分け前を配分する配分的正義(幾何学的比例)と、損なわれた均衡を回復するための裁判官的な矯正的正義(算術的比例)、これに加えて〈等価〉交換的正義とを区別した。

アリストテレスの倫理学は、ダンテ・アリギエーリにも大きな影響を与えた。ダンテは『帝政論』において『ニコマコス倫理学』を継承しており、『神曲』地獄篇における地獄の階層構造も、この『倫理学』の分類に拠っている。 なお、彼の著作である『ニコマコス倫理学』の「ニコマコス」とは、アリストテレスの父の名前であり、子の名前でもあるニコマスから命名された。
出典Wikipedia

2019/11/24

新(莽漢)

(しん、8 - 23年)は、中国の王朝。前漢の外戚であった王莽が、前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州南陽郡に存在する)に封じられたことにより、国号をとした。莽漢とも呼ばれる。

周の時代を理想とした政策を行なったが、その理想主義・復古主義的な政策は当時の実情に合っておらず、国内は混乱。また、匈奴や高句麗に対して高圧的な態度を取ったためにこれらの離反を招くなど、その統治は失敗に終わり、国内には不満をもつものが多くなった。[要出典]

具体的な政策としては、古代の名称に合わせた地名や役職名の頻繁な改名、井田制の導入による小作農民のための農地の国有化、奴隷売買の禁止、高利貸しに対し国家による安い金利での融資などを行った。また、貨幣制度改革として五銖銭を廃止し、金銀貨に加えて布貨(鍬の形の銅貨)や貝貨・亀貨などを導入(制度が複雑で経済が混乱したあげく、私銭鋳造を認めるまでになった)、塩や鉄を国が専売制とするなどの政策があったが、経済政策では地主や高利貸し等から、貨幣鋳造や塩鉄の統制では民衆から、大きく不満と反対が起きた。

また諸侯王を公に、冊封国王を侯に格下げしたことで、後者の諸国は反発し冊封から離脱する。これに対して新朝は懲罰戦争を起こし、匈奴には30万人、西南の句町国には20万人の兵を派遣し、後者では6 - 7割が餓死・疫病で死んだとされる。[要出典]

やがて赤眉・緑林の乱が起こり、更始帝の軍により長安を落とされて王莽は殺され、1代限りで滅んだ。
出典 Wikipedia

 武帝の死後、地方での豪族の成長が目立ってきます。奴隷や小作農をたくさん使って、大農場経営をおこなった。教科書、資料集をみると、豪族の館の写真が出ているね。これは、豪族の墓から出土する、塼と呼ばれる瓦の絵です。当時の生活などが描いてある。館の周りは塀をめぐらせてあって、物見櫓もある。鎌倉時代の武士の館に感じが似ている。実態も案外、それに近いんではないかな。

 ただし、漢では郷挙里選という官吏登用制度がおこなわれていましたね。豪族の子弟は、この制度によって官僚として中央政界に進出した。ここが鎌倉武士と違うところ。

 さて、武帝死後の漢の宮廷では、権力闘争がさかんにおこる。権力闘争の主役は、宦官と外戚です。

 宦官については、以前も出てきましたね。男性の性器を切り取られた身分の低い者たちです。奴隷に近い身分なんですが、彼らは皇帝の身近に仕えて身のまわりの世話とかをするので、自然に政治的な機密に触れるようになる。皇帝の立場から考えてみると、彼らは皇帝が幼い時一緒に遊んでくれたりした近しい存在でしょ。武帝のようなしっかりした皇帝でないと、ついつい彼らに政治的な細々としたことをまかせたりする。宦官は本来、政治に関わるべきではないから官僚からすれば腹立たしいですが、皇帝の信頼を得ている宦官に逆らえない、こんな雰囲気になると、まともな政治は行われにくくなります。

 外戚というのは、皇帝の母方の親戚のことです。年少の皇帝が即位すると、政治的なことは母親やお祖母さんがするんですが、そうなるとその親族が高い位を独占していくのは当然の成り行きですね。この外戚も、皇帝の親族という特権をふりかざして、政治に関わってきます。

 別々の背景から権力をもつ宦官と外戚は当然、仲が悪い。宮廷で両勢力の権力闘争を繰り返している間に、地方では豪族勢力が着々と勢力を蓄えていく。これが前漢後半からの中国史の大きな流れです。

 王莽(おうもう)という人物がいました。この人は、前漢第十代皇帝元帝の皇后の甥にあたる。ややこしいね。ようするに外戚です。コネを利用して高い地位に就くわけですが、この人は儒学の学者として行いが立派だったので、評判が良かったのです。そこで王莽は、遂に自ら帝位に就いてしまいました。

この時、王莽は前漢最後の皇帝から、位を譲ってもらう形を取ります。この形式を禅譲という。平和的に帝位が移動したわけです。前漢の皇帝家は劉家です。王莽は、その親戚だけれど王家出身です。皇帝の家が代わるので、国号も変えた。王莽の王朝を(8~23)という。

 王莽は学者としては評判が良かったが、皇帝になると政治は一気に混乱しました。王莽は儒学の権化のような男で、儒学の理想を強引に現実社会にあてはめようとしたからです。理念を押しつけるだけの政治で、世の中が動くわけがない。

 地方で豪族や農民の反乱がおこります。豪族反乱が緑林の乱、農民反乱は赤眉の乱という。これは反乱農民たちが、自分たちの目印として眉毛を赤く染めていたから付けられた名前です。こういう反乱の中で、王莽の政府は崩壊しました。
出典http://timeway.vivian.jp/index.html

2019/11/23

アリストテレス(1) ~ 万学の祖

アリストテレス(アリストテレース、古希: ριστοτέλης - Aristotélēs、羅: Aristotelēs、前384 - 32237日)は、古代ギリシアの哲学者である。

プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば「西洋」最大の哲学者の一人とされ、その多岐にわたる自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる。特に動物に関する体系的な研究は、古代世界では東西に類を見ない。イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。

アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた。ギリシャ語ではこれをフィロソフィア(Philosophiaと呼ぶ。フィロは「愛する」、ソフィアは「」を意味する。この言葉が、ヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となった。著作集は日本語版で17巻に及ぶが、内訳は形而上学、倫理学、論理学といった哲学関係のほか、政治学、宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、生物学、詩学、演劇学、および現在でいう心理学なども含まれており多岐にわたる。

アリストテレスは、これらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。アリストテレスのいう「哲学」とは、知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている

名前の由来は、ギリシア語の aristos (最高の)telos (目的)から。

アリストテレスの著作は元々550巻ほどあったともされるが、そのうち現存しているのは約3分の1である。殆どが講義のためのノート、あるいは自分用に認めた研究ノートであり、公開を想定していなかったため、簡潔な文体で書かれている。この著作はリュケイオンに残されていたものの、アレクサンドリア図書館が建設され資料を収集し始めると、その資料は小アジアに隠され、そのまま忘れ去られた。

この資料は、およそ2世紀後の紀元前1世紀に再発見され、リュケイオンに戻された。この資料は、ペリパトス学派の11代目学頭であるロドス島のアンドロニコスによって、紀元前30年頃に整理・編集された。それが現在、『アリストテレス全集』と呼称されている文献である。したがって、我々に残されている記述は、アリストテレスが意図したものと異なっている可能性が高い。キケロらの証言によれば、師プラトン同様、アリストテレスもいくつか対話篇を書いたようであるが、まとまった形で伝存しているものはない。

アリストテレスは「論理学」が、あらゆる学問成果を手に入れるための「道具」(オルガノン)であることを前提とした上で、学問体系を「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分し、理論学を「自然学」、「形而上学」、実践学を「政治学」、「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した

アリストテレスの哲学には現在では多くの誤りがあるが、その誤謬の多さにもかかわらずその知的巨人さゆえに、あるいはキリスト教との結びつきにおいて宗教的権威付けが得られたため、彼の知的体系全体が中世を通じ疑われることなく崇拝の対象となった。これが、後にガリレオ・ガリレイの悲劇を生む要因ともなる。中世の知的世界は、アリストテレスがあまりにも大きな権威を得たがゆえに、誤れる権威主義的な知の体系化が行われた。しかし、その後これが崩壊することで、近代科学の基礎確立という形で人間の歴史は大きく進歩した。

アリストテレスの総体的な哲学の領域を構成していた個別の学問がその外に飛び出し、独立した学問として自律し成立することで、巨視的にはこれが中世以降の近世を経て現代に至るまで続いてきた学問の歴史となる。アリストテレスの誤りの原因は、もっぱら思弁に基づき頭で作り上げた理論の部分で、事実に立脚しておらず、それが原因で近代科学によって崩れたが、その後「事実を見出してゆくこと(Fact finding)」が原理となったとする立花隆の見解がある。
出典 Wikipedia

2019/11/22

ヘーラクレース 十二の功業(ギリシャ神話67)


エウリュステウスが、ヘーラクレースに命じた仕事は次の通り。

ネメアーの獅子
ネメアーの獅子は、刃物を通さない強靭な皮を持っており、矢を撃っても傷一つつかなかった。ヘーラクレースは棍棒で殴って悶絶させ、洞窟へと追い込んだ。そこで洞窟の入り口を大岩で塞いで逃げられないようにし、三日間の格闘の末に絞め殺した。この獅子は、後にしし座となった。あらゆる武器を弾く毛皮は獅子の爪によって加工され、彼はその皮を頭からかぶり鎧として用いた。獅子が英雄のシンボルになったのも、このためである。

レルネーのヒュドラー
ヒュドラーはレルネーの沼に住み、9つの(百とも言われる)頭を持った水蛇である。触れただけで全生命体を絶命させる、宇宙最強の猛毒を有していた。ヘーラクレースは、ヒュドラーの吐く毒気にやられないように、口と鼻を布で覆いながら戦わねばならなかった。

ヘーラクレースは始め、鉄の鎌でヒュドラーの首を切っていったが、切った後からさらに2つの首が生えてきて収拾がつかない。しかも、頭のひとつは不死だった。従者のイオラオス(双子の兄弟イピクレスの子)が、ヒュドラーの傷口を松明の炎で焼いて新しい首が生えるのを妨げて、ヘーラクレースを助けた。最後に残った不死の頭は岩の下に埋め、見事ヒュドラーを退治した。そしてヒュドラーは、うみへび座となった。

また、この戦いでヘーラーがヒュドラーに加勢させるべく送り込んだ巨大な化け蟹を、ヘーラクレースはあっさり踏みつぶしてしまった。この蟹が、その後かに座となった。

エウリュステウスは、従者から助けられたことを口実にして功績を無効としたため、功業が1つ増えることになった。またヘーラクレースは、ヒュドラーの猛毒を矢に塗って使うようになった。

ケリュネイアの鹿
アカイア地方のケリュネイアの鹿(牝鹿)は、女神アルテミスの聖獣で黄金の角と青銅の蹄を持っていた。4頭の兄弟がおり、アルテミスに生け捕られ彼女の戦車を引いていたが、この5頭目の鹿は狩猟の女神をもってしても捕らえる事ができないほどの脚の速さを誇った。女神から傷つけることを禁じられたため、ヘーラクレースは1年間追い回した末に、鹿を生け捕りにした。その後、この鹿はアルテミスに捧げられ、他の4頭とともに戦車を牽くこととなった。

エリュマントスの猪
エリュマントス山に住む人食いの怪物、大猪を生け捕りにした。生け捕り自体はさしたる問題なく片づいたが、この時、ヘーラクレースはケンタウロスのポロスに助力を求めていた。ポロスが預かっていた、ケンタウロス一族の共有していた酒をヘーラクレースが飲んだ事により、ケンタウロス一族と争いになった。その戦いで、誤って武術の師であるケイローンにヒュドラーの毒矢を放ってしまった。ケイローンは不死の力を与えられていたが、毒の苦しみに耐えきれず、不死の力をプロメーテウスに譲渡して死を選んだ。

この時にケイローンの不死の力を受け入れてもらうために、ヘーラクレースがカウカーソス山に縛り付けられていたプロメーテウスを解放したとされる。この後、ケイローンの死を惜しんだゼウスは、彼をいて座にしたという。

アウゲイアースの家畜小屋
エーリス王アウゲイアースは3000頭の牛を持ち、その牛小屋は30年間掃除されたことがなかった。ヘーラクレースは、アウゲイアースに「1日で掃除したら、牛の10分の1をもらう」という条件を持ちかけ、アウゲイアースは承知した。ヘーラクレースは、アルペイオス川とペネイオス川の2つの川の流れを強引に変え、小屋に引き込んで30年分の汚物をいっぺんに洗い流した。しかし、おかげでこの川の流れは狂ってしまい、たびたび洪水を引き起こすようになったという。

エウリュステウスは、罪滅ぼしなのに報酬を要求したとして(川の神の力を借りたため、とする説もある)これをノーカウントにしたため、さらに功業が1つ増えることとなった。またアウゲイアースは約束を守らず、知らんぷりを決め込んだ。ヘーラクレースはこのことを忘れず、後になってアウゲイアースを攻略した。

ステュムパーリデスの鳥
ステュムパーリデスの鳥どもは、翼、爪、嘴が青銅でできていた。ヘーラクレースは、この恐るべき怪鳥どもを驚かせて飛び立たせるため、ヘーパイストスからとてつもなく大きな音を立てるガラガラ(彼の工房のキュクロープス達の目覚まし用)を借り受け、音に驚いて飛び立ったところをヒュドラーの毒矢で射落とした。また、矢が効かないので彼に襲い掛かってくるところを、1羽ずつ捕らえて絞め殺したとも言われている。

クレータの牡牛
クレータ島の王ミーノースを罰するために、ポセイドーンの送り込んだクレータの牡牛を生け捕りにした。この牡牛はミーノータウロスの父親であり、美しいが猛々しく極めて凶暴であった。ヘーラクレースは、ミーノース王に協力を求めるが拒否され、結局素手で格闘して、この牡牛をおとなしくさせアルゴスまで連行した。
出典 Wikipedia