2009/01/26

化け物復活(2009大相撲初場所)

大相撲に、化け物が復活した。

 

初日から完璧な相撲を取っていた白鵬に対し、引退間際の断崖絶壁に立って

 

「この調子では、果たしていつまで持つか?」

 

というような薄氷の勝利を続けながら、なんとか持ち堪えていたのが「ズル休み明け?」の朝青龍である。ところが中盤からの朝青龍が、本来の動きと勘の良さ、そして鋭さ力強さが戻ってきたのには、まったく目を瞠った。

 

元々、休場云々を除いても、2年ほど前から緩やかに下降線を辿っていたはずだったのが、まるで時計の針を強引に3年くらい前まで戻してしまったようなバカ強さであり、後半からは誰が挑んでもまったく勝負にならないくらい、大関以下とは天文学的な力の差があった。

 

そんな化け物のプレッシャーを感じたか、あれだけ安定していた白鵬が終盤から俄かに崩れ始め、遂に黒星を喫する。星ひとつの差で迎えた千秋楽は、久しぶりの優勝決定戦となった。盛り上がりは最高潮に達したものの、結果は「朝青龍復活Vという、最悪の幕引き」だ。

 

改めて確認すると、朝青龍は人間的にはまったくダメなヤツで、横綱に相応しい「品格」からは、まったくほど遠い。これは間違いがないし、常に泰然自若として温厚篤実な白鵬とは、雲泥の差である。ところがこのオトコは、こと相撲に関してはやはり「稀に見る天才」だったのだ、ということを改めて認めるしかなさそうなのだ。

 

なんと言っても、あれだけのブランクがありながら、復帰した場所の中の僅か数日間だけで、ここまで勝負勘を戻してくるのである。集中力、状況対応力、勝負にかける執念と、どれをとっても全盛期並みに充実していたのには、最早怒りを通り越して呆れるほかはなかった。あれでも稽古不足だと言われ続けているのだから、真面目に稽古をしていたら、すでに30回以上の優勝をしていたのではあるまいか? と思われるし、スポーツや格闘技観戦歴の長いワタクシも、これだけ「人間性と勝負師としての力量が乖離した例」には、お目にかかったことがないかもしれない。

 

多くの人がそうであったように、ワタクシとて心情的には白鵬に勝って貰いたかったのはヤマヤマだが、人間性はともかくとして力士としての総合力で白鵬はまだ、朝青龍の域には及んでいないかに見えた。或いは今場所の朝青龍の強さは、夜空に一瞬で消えてしまうあの打ち上げ花火のような、例外的な華やかさに過ぎなかったのかもしれないし、それは来場所以降を見てみないことには、まだなんとも言えない。とはいえ、少なくとも「横綱としての凄み」とか、(善悪は別として)全身から放たれるオーラのようなものは、他の力士と一線を画している特異な才であることは確かだ。

 

繰り返すが、ここでは「人間性の問題」と「力士(またはアスリート)としての力量」とは、まったく別次元の話として論を進めている。「人間性」という点では、やはりこれほどの非常識なヤツはいないし、ワタクシも大嫌いである。これは以前から、一貫して変わっていない。しかしながら「力士(またはアスリート)」として、これだけ魅力溢れる相撲を魅せることが出来るのは、やはりこのオトコしかいないのである。実に困った事だが、世の中とはこのように総てが理屈で割り切れるものではないのだろう。だからこそ、早く引退を望む声が上がる一方で、いざ引退が現実になりかかるとどこか一抹の寂しさを拭いきれないような、あの観客の複雑な反応はワタクシにもよくわかるのである。

 

千秋楽まで優勝を争って大いに盛り上がり、最後に白鵬にやられるというのが、ワタクシを含めて大多数が頭に描く理想のイメージだ。勝てば官軍とばかりに、朝青龍がまたデカイ顔をして土俵にのさばってくれるのは困るのであり、強いからといって過去の数々の狼藉の罪が消えるわけはないし、これによって掌を返したように化け物の前に拝跪するのは節操がなさ過ぎる。あの涙に騙されてはいけないw

 

とはいえ、現実として他の不甲斐ない力士たちではまったくの論外だから、どうしても白鵬一人に期待するしかないのだが・・・

 

それにしてもアホウ首相は、この国家の大事に暢気に相撲など観戦してる場合か。

2009/01/23

100年に一度の地獄?

  100年に一度の「世界大恐慌」だそうだ。

 

政治に対する風当たりは強くなる一方だが、ちょっと興味深いブログを見つけた。国会議員の給料が、いかにバカ高いかという内容である。

 

※出典不明

無役の議員で、月額1375000。これにボーナスにあたる、期末手当てが718万円。これだけで、ざっと年収2400万円。普通のサラリーマンには、見当もつかない金額だ。

 

勿論「普通のサラリーマン」と「国政を司る国会議員」を比較すること自体ナンセンスだが、ともかく続きを見ていこうではないか。

 

しかし国会議員が手にしているのは、これだけではない。これにプラスして文書交通費という名目で、毎月100万円が追加支給されている。また、これとは別に、議員にはJR各社や航空会社の特殊乗車券(航空券)なども提供されている上に、公務出張の場合は別途実費の交通費等が支給されるのだ。

 

さらに、その国会議員の所属する会派には、一人あたり月65万円の立法調査費なるものが支給される。ここまで合計して、国会議員一人に対して税金から支払われる額は、実に年間4400万円

 

さらにさらに国会議員一人あたり、三人の公設秘書は給料全額税金で丸抱えである。三人合わせて、ざっと2000万円。これを秘書に払った事にして、懐に入れていた議員もかつては少なからずいたというのだから、空いた口が塞がらない。

 

結局、ヒラの国会議員一人維持するために、年間6400万円以上の税金が直接費だけで必要なのだ。

 

この額は基本的に、衆議院でも参議院でも同じ。現在衆議院議員は480人、参議院議員は247人が定数。合計727人に、これだけの額が支払われているというわけだ。

 

6400万円×727人=465億円!!

 

この額には国会を維持する為の事務方賃金、設備費、選挙に要する膨大な費用、さらには大臣、議長等の役職加算、役職者に提供される運転手付きの車等の費用は一切含まれていない

 

 そもそも、国会議員の数が多過ぎる。まず半分は減らしても、まったく影響はないだろう(本当は2/3と言いたいところだが、半分減らしても約360人だ)

 

6400万円×360」で「230億円」以上もの「無駄金」が浮く。

 

次に「秘書が3人も必要なのか?」という疑問がある。公設秘書は第一秘書、第二秘書、政策担当秘書の3人だ。「政策担当秘書」だけは「国会議員政策担当秘書の資格試験合格者、または選考採用審査認定者のみ採用」ということだから、まだわからなくはないが

「置かなくてもよいがその場合、国から給与は支払われない」

となっている。これでは、さもしい政治屋連中は「必要なくとも形だけは置いて給料は戴こう」と考えるのは当然だ。

 

一方「特別な資格は不要の第一秘書、第二秘書は、一体なにをやっているのか?

こちらは「各議員に、その職務の遂行を補佐する秘書二人を付する」と必須になっているが、その仕事の実態がサッパリわからないという不透明さである。

 

そもそも、国会議員は政策を立案するのが任務であるから「政策担当秘書」が居れば、第一秘書、第二秘書なんてものは不要ではないのか?

 

あまつさえ、官僚の法案に乗るしか芸がない議員が殆どなのだから「政策担当秘書」すら不要だと思える(いずれにしろ、頭脳においては官僚以上に優秀ということは、まず考えられない)

 

結論として公設秘書などは一人で充分で、そうなれば公設秘書は2/3倍減って、どれだけの節税ができるか(ざっと8

 

 《そして盗人に追銭! とまでは言わないが、これに加えてン年前には政党助成制度なるものが創設された。元々、頻発した国会議員の汚職を防ぐために、議員が汚い金に手を出さなくて済むよう税金で政党活動を支えて上げましょうという、なんとも「お手盛」な法律だ。

 

これに支出される税金は、赤ちゃんから年金生活のお年寄りまで国民全員が一人250円、今年度分の支出だけで実に3173100万円にものぼる。

 

先ほどの議員個人と公設秘書に支払われる税金と、この政党助成金を合わせると、国会議員らの手に渡る直接費だけで、実に800億円にものぼる。

 

そもそも日本はアメリカなどに比べて、人口あたりの国会議員数そのものが3倍近い3倍働いてくれれば、これまた文句はないのだが・・・≫(出典不明)

 

勿論、単純に他国と人数のみでの比較は出来ないが、やはり半数~1/3が妥当に思える。国会議員は国家にとっては必要な存在であることは事実であり、色々と経費が掛かるだろうというのも想像に難くない。優秀な国会議員が高い給料を手にすること自体には、異論がある人は殆どいないだろう。最大の問題は727人もの国会議員が存在していて、彼らが有効に機能しているとは到底、思えないというところにある。

 

2030代のプロ野球選手など、プロスポーツの選手たちが億単位の年収を稼ぐ事を思えば、国会議員の給料がバカ高いとは言えないが、イチローが10億を超える年収を手にするからといって「ケシカラン」と怒る人はいないはずだ。

 

それは、彼にそれだけの働きがあると誰もが認めているからであり、国会議員のン千万円がバカ高いと誰もが納得いかないのは、彼らにそれだけの働きがあるとは、到底思えないからである。

 

しかもプロスポーツ選手の場合に、彼らの才能を認めた企業が喜んで払っているのとは違い、国会議員の金の出所は我々の税金から否応なく毟り取られるのだから、簡単に納得してはいけない。

 

100年に一度の大恐慌だから」やら「歴史的な大災害なのだから」などと無駄に騒いでいるだけで、なんら有効な手立てを打つことが出来ないのであれば、この際国家に最大の無駄を齎す無能な金食い虫をゴッソリと整理する事こそ、有効な対策ではないのか。


「タバコ1000円」などと馬鹿げたことを言う前に、オマエたちこそ無駄飯食いのリストラをやったらどうなんだ、というのが「禁煙」の「き」の字も考えたことすらない、タバコ吸いの主張である (キ▼д▼)y─┛~~゚゚゚

2009/01/19

曲者(10年の歴史part3)

ある時、こんな事があった。

深夜の1時過ぎ。毎日行うルーチンワークで、ちょっとしたトラブルが起こった(あるいは操作をミスして、トラブルになったのかもしれない)

 

そこでK氏から、自力で考えて復旧してくれと言われたが正直、お手上げ状態だった。手をこまねいていると

 

「どうしました?

全然、難しくないでしょう、こんなものは。今まで私が教えて来た範囲で、充分に対応できますよ」

 

と、鼻で笑った。しかし、考えてもサッパリ対処の仕方がわからない。仕方なく、そう告げると

 

「本当に考えているのなら、こんな簡単な事が解らないはずがない。いつまでも人に頼らず、自分で解決しないとダメですよ」

 

と、ヒステリーを起こした。

 

さすがに、ムカついたので

 

(絶対に、もうコイツには訊くまい)

 

と、心に誓っていると

 

「にゃべさんが解決するまで、ボクも待ってますよ・・・」

 

と背後から、実に楽しげにニヤニヤしているではないか。と言っても、それまでに散々考えてもわからないのだから、どうしようもない。実際、この世界は知識や経験がなければ、気合だけでどうにかなるものではないのだから、正直なところK氏が痺れを切らして教えてくれるまで、解決は覚束ないと思っていた。

 

K氏にしても、これが解決しなければ寝られないのだから、いつまでも放っては置かないはずである、という計算もあった。 考えてもわからないながら、K氏の手前あたかも考えている風を装っていたものの、背後でじっと見つめているK氏の存在は、かなりのプレッシャーだった。

 

前にも記述したように、このK氏というのはスキル的にはメンバーの中では飛び抜けていたし、元々の頭の回転も早い人物だったから、見ていれば解決は到底覚束ない事は最初から百も承知していたのだろう。それでいながら敢えて助け舟を出そうとせずに、楽しげに眺めていたのは彼のイヤミな性格だったろうし、こちらとしても最初からそう感じていたから、意地でも彼に聞くまいと考えていた。

 

いずれにしても、朝の交代メンバーが来るまでに解決しなければならないし、もしもその時点でトラブルが残っていれば、作業リーダーの彼の責任の方が問われる事になるのだから、最後には彼が解決に導かなければいけないのであるが、そうしてのんびり構えているところを見ると、すでに彼自身は明確な解を持っているのは明らかだった。

 

こちらが、そんな狡猾な計算をしていると、知ってか知らずか

 

「まだ時間はたっぷりあるから、ゆっくり考えて自力で解決してください・・・」

 

と腰を上げて、マシン室から出て行った。彼がいなくなれば解決は覚束ないが、後ろでジッと見られているのはなんと言ってもプレッシャーだから、いなくなってくれたのはこの際ありがたかった。

 

(やっと、寝る気になったかな?)

 

とホッとしていると、直ぐに戻ってきた。しかも、本を持ってきているではないか。

 

「まだ朝まで時間はたっぷりあるので、頑張って考えてください。解らない事があれば、訊いてください」

 

と言うと、後ろで本を読み始めた。ここまで来れば、まさにイヤミ以外の何物でもない。

 

「解らない事があれば、訊いてくれ」といっても、訊いても碌な返事が返って来そうにないから敢えて訊かずにいると、向こうも聞いてくるまでは一切教えないぞとばかり、知らぬ顔で読書に耽っていた。こうなれば、つまらない根比べだ。

 

こうしてわからないまま、ただ考えているフリだけを続け、向こうは読書をしているうちに時計は3時を過ぎていた。

 

「どうです?

わかりましたか?」

 

「全然・・・」

 

「しょーがないですね。本当は自力で解決して欲しかったんですが、その調子ではいつまで経っても無理そうだから、今回だけは教えましょーかねー」

 

教えるといっても、簡単に解を教えるタイプではないからひとつずつ確認しながら、またその都度イヤミをいいながら、それでもようやく解決に導いてくれた時は既に3時半くらいになっていた。

 

この話はあくまで一例であり、何の因果かその嫌味なK氏と組まされたその1ヶ月間は、こんな事の連続だった。 

 

お互いに性格だから、簡単には変わりようがない。こちらのわからないことに対し、K氏は簡単に教えてくれるわけもなく散々に嫌味を言った。

 

「なんでも、人に聞けばいいというのはダメでしょう。少しは自分の頭で、考えてるんですか?

自分で考え抜いてわからないのならともかく、ロクに考えもしないで人に頼っていては、いつまで経っても進歩がないよ」

 

「考えてもわからないから、こうやって聞いてるんだけど。何故、そのように決め付けるのか?」

 

「考えてねーよ。考えてたら、こんな簡単なことくらいわかるって」

 

こういった調子で、K氏は簡単に教える気がないし、こちらもまた下出に出て教えを請うような真似はしたくなかったから、どうしてもぶつかり合うのは避けられない。

 

また、こんな事もあった。毎日やる作業で、非常に手間の掛かる面倒なものがあった。K氏は

 

「凄く面倒だと思うでしょう?

実は、もっと簡単にやる方法があるんですがね。にゃべさんはまだ仕事に慣れてないから、当面は安全確実にやってもらいます。そのうち慣れてきたら、楽な方法を教えますよ」

 

と言った。

 

こちらとしては「楽な方法」が思い浮かばないから、面倒だと思いながら毎日やっていると、偶々別のメンバーがやって来てそれを見て驚いたらしい。

 

「えー。なんで、そんな面倒なやり方をしてるの?」

 

「これしか教わってないからね・・・」

 

「なんで?

Kさんは、簡単なやり方を教えてくれなかったですか?」

 

そこで、先の話を伝えると

 

「そんな面倒なやり方じゃ、やってられないでしょ。実は、これには簡単な方法があってね」

 

と「楽なやり方」を教えてくれたのだ。

 

ところが間が悪い事に、ここにK氏がやって来た。

 

「あれ?

Tさん・・・例のやり方を、にゃべさんに教えたんですか?」

 

「というよりKさんは、このやり方をまだ教えてなかったのは何故?」

 

と問われると、K氏は

 

「なんだ・・・折角、慣れるまでは地道にやって貰おうと思っていたのに。ちょっと自分に、考えがあったんですがね」

 

と、恰も「余計な事をするな」と言わんばかりに、不機嫌になったから

 

「すいません。でも、あのやり方だと、時間に間に合いそうになかったから」

 

と、T氏もバツが悪そうだった。

2009/01/18

半信半疑(10年の歴史part2)

「前回、コーディネーターの方にもお伝えした通り、これまでコンピューター関係はおろかPCにすら一度も触った事がない私に、そのような仕事が出来るかどうか不安ですが・・・」

 

と、本音を伝えると

 

「仕事はそんなに難しいものではないし、先方が素人の方でも大丈夫だという事なので、その点は問題ないと思います。今回は、あくまで人柄重視という事なので」

 

こちらの様子が不安そうに見えたか、営業のK氏はこう付け加えた。

 

「実はですね・・・今回は他にも3人を提案しているのですが、みんなにゃべさんみたいな未経験の人ばかりなんですよ。お客さんは、とにかく今すぐに人が欲しいと言っておられるので、案外決まる確率は高いと思っています。

勿論、OJTなどの教育はしっかりしているし、基本的に21組のコンビで仕事をするスタイルなので、しばらくはベテランとのコンビで業務を覚えていく事になるでしょう」

 

ということだった。

 

勤務は24時間3交代制で早朝から夕方までと昼から夜まで、夜勤は夕方に出勤し翌日朝まで通しの勤務となる。単価は未経験にしてはそれなりに悪くはなく、深夜には25%の割り増し精算があった。

 

計算上では、かなり切り詰めてもギリギリで生活できるかどうかというところだったが、ともあれ失業中は一銭も入らないのだから、この際文句は言ってられない。夜勤も経験がなかったが、ローテーションということでは仕方ない。ともあれ騙されたつもりで面接に赴くと、話の通り他に3人の面接者が同席していた。

 

元請けは小さな会社だったが、担当のS部長はかなりのやり手らしく、よく通る大声のマシンガントークで4人の面接者に、業務内容を説明して行く。

 

「お客さんは、NTTの某データセンターだ。メンバー構成は、現在10名。リーダー2人を筆頭にウチの社員が4人で、後はX社(派遣会社)さんのところから出してもらっている。

 

で、ウチの社員の方は業務拡張の関係もあって、順次別のプロジェクトに移していきたいので、今後はNTTさんの方はXさんとこのメンバーを中心に回していきたい。今回は、2名入れ替えと2名増員で4人が必要だから、数的には丁度いいかな・・・」

 

と銀縁のメガネを光らせながら、神経質そうに4人の顔を確認するように順番に見回して行った。

 

30分ほど、次々と質問の雨を降らせていくと

 

「よーし、大体、わかった。4人とも経験はないみたいだけど、それはあまり関係ない。勿論、経験はあるに越した事はないけど、基本的にはうちのがメンバーが教育していくし、中途半端な知識があるとかえって邪魔になったりもするからな。言葉は悪いが、まったくの素人の方がウチとしては好都合だよ。

一旦、持ち帰って検討させてもらうが、決まった場合は直ぐにでも出て欲しい」

 

と、かなり乗り気な様子に見えた。

 

その後、4人が席を外してS部長と15分ほど打ち合わせをしたK氏が、戻ってきた。

 

「今までの経験からですが、さっきの面接と今S部長と話をした感じでは、恐らく4人とも来てくれという流れになりそうに思う。勿論、まだ決定してないから確約は出来ないけど・・・」

 

と、好感触を伝えてきた。

 

「いずれにしても、今の面接でわかる通り、あのS部長は非常にハッキリとした人だから、結果は直ぐに出ると思う」

 

とのこと。ちなみに他の3人のうち、1人は20歳そこそこと若かったが、後の2人はほぼ同年齢だった。

 

そしてK氏の言っていた通り、その日の夜に早くもX社から電話が入った。  

 

「本日の面接結果ですが、さきほど連絡が入りまして『是非、お願いしたい』  との事でした」

 

「わかりました」

 

「それで先方は早速、直ぐにでも出て欲しいとのことですが、大丈夫でしょうか?」

 

「私の方は、特に問題はないですが・・・」

 

「では、そのようにお伝えします」

 

という流れで話が進んで行き、翌週からいよいよ未知の「ITの現場」に入る事になった。

 

一緒に入った新人4人は、それぞれベテランの先輩とのコンビを組む事になったが、何の因果か一番イヤミなK氏とコンビを組まされた。長髪を後ろでポニーテールのように縛り、見るからに怪しげな風貌のK氏は口の悪い御仁だったが、そのイカツイ風貌に似合わずセーラームーンなど、可愛い系のアニメキャラをコレクションしているというオタクでもあり、他のメンバーからはかなり薄気味悪がられていた。

 

当時、こちらはまったく素人だっただけに、他人の技術力の正確なところを推し量るのは難しかったものの、後になって考えてみるとリーダーを含め、元請け社員にはそれほど技術力の高い者がいそうになかった。

 

そんな中で素人目にも、このK氏のスキルが他のメンバーに比べてずば抜けて高い事だけは、誰の目にも明らかだった(もう一人、技術力が高そうなのがいたが・・・)

 

なぜ、K氏のような高いスキルを持った技術者が、あのレベルが低く単価の安い仕事を引き受けたのか不思議だが、逆にK氏などの目にはこちらのような素人こそは、宇宙人のように奇異に映っていた事だろう。

 

OJTでも、基本的な知識すらない事に対して呆れていたような場面がしばしばだったが、案に相違してこちらがまったくのド素人である事に対しては、文句を言う事は殆どなかった。

 

ただし自分が教えた事を憶えていなかったり、応用できないなど自分のレベルで考える事が出来ない場合には、必ず文句を言う。その言い方には容赦がなかったし、他のメンバーが大勢いるところなどでも聞こえよがしに、大声で文句を言っていた。

 

そのため、一緒に入った他の3人も

 

「あのKってのは、一番の曲者だな・・・」

 

と、各々が自分がKとコンビを組まされなかった事に、感謝しているようだった。

2009/01/17

転職(10年の歴史part1)

思うところあって長く勤めたマスコミ業界からすっぱりと足を洗い、まったく新しい業種にチャレンジする事を決断した。マスコミ業界に見切りをつけた理由は色々とあるが、本題とは関係がないため割愛する。

 

転職を決意したとはいえ、なんらかの想定や「これをやってみたい」という願望があったわけではまったくなく、また特別なコネがあったわけでもない。まさに徒手空拳からの再出発であったが、持っている技術といえば記者としての能力くらいなものだった。

 

だが、これは新しい職種では使わない事に決めていたから、実質的にはなにも「手に技能がない」状態である。元来が楽観的な性格のため

 

(贅沢さえ言わなければ、仕事くらいはどうにかなるだろう)

 

と構えていたが、そうは問屋が卸さなかった。

 

当たり前のことだが、唯一ともいえる特殊な技能を自ら封印しているのだから、売り物も経験も何もないような人間に、市場価値があるわけはないのだ。それも新卒や20歳代前半という若さなら、それだけでもチャンスがあるかもしれないが、そんな時期はとっくに通り越していた。

 

andodaなど、当時流行っていた転職やバイトの求人媒体を漁ってみる。本当の意味で「仕事を選ばなければ」なくはないのだろうが、やはりいざ自分が働く事になると考えると、それなりに建設的な仕事に就きたいと考えてしまうのだ。

 

本格的な就職は難しく、バイトや契約で入る事になるのは覚悟していただけに、その仕事が終わればまた同じ「未経験の壁」にぶつかる事は目に見えている。 さらには、歳を取る分だけ益々転職活動は難しくなってくるのは確実だから、年齢を重ねる以上の付加価値を自らに付けていかなければ、この先さらにジリ貧になっていくのは明らかだった。

 

と行った具合に、基本的な「哲学」だけは確立していたものの、肝心要の「今、なにをやりたいのか」や「今の年齢で、なにをやっておくべきか?」が見えてこないままに、無駄に月日が経過して行った。

 

生きていく上で「哲学」は大事だが、哲学だけでは生きてはいけない。「人はパンのみにて生きるにあらず」の考えは尊いが、今日明日のパン代がなければ生きてはいけないのもまた紛れもない現実なのだから、時によっては哲学を捨てる必要があった。

 

ただし実際に「捨てる」つもりは毛頭なく、言ってみれば鎧の上に衣を羽織るだけである。いずれにしても、マスコミ業界以外はまったく知識がない井の中の蛙なのだから、あれこれ下手な考えを考えてもよいアイディアが出てくるはずもなく、ともかくその道の専門家に相談するのが良いと判断して、大手の人材派遣会社に登録する事にした。

 

思った通り

 

「折角、これだけの経験と実績があるのですから、マスコミ業界でやっていかれた方が良いんじゃないでしょうか?」

 

と、強く説得されたが

 

「まったく別の業種にチャレンジしてみたいのです。転職するには年齢的にもギリギリのタイミングだし、今のうちになにか確固とした技術を身に付けておきたい」

 

と意思を伝えると

 

「未経験では、どの業種もあまりニーズがないでしょうが・・・では何か出てきたら、連絡します」

 

と、あまり乗り気でない感じであったのは、仕方なかったろう。一応、登録だけは済ませたものの、あの調子では直ぐに仕事が出てくるとは思えないから、当てにはしない事にした。

 

結局、また振り出しである。数ヶ月と日にちが経過するにつれ、元々心細かった蓄えも底が見えてきた。

 

(もう本当に、贅沢行ってる場合じゃないぞ。運良く内定が出たものならなんでもやるしかないか、持論を撤回しても一時凌ぎでマスコミ業界に戻るしかないのか・・・)

 

というところまで追い込まれていた。

 

マスコミ業界に戻るとは行っても、すでに足を洗う覚悟でそれまでのパイプは全部切ってきていたから、新たな仕事先を開拓していかねばならず、その面倒を考えたら新しい職場に入る方が、遥かに楽だという気がしていた。あくまでも、受け皿があればの話ではあるが・・・

 

そうしてさらに、虚しく時が経過する。登録したことすら忘れていた派遣会社「F社」から電話が掛かってきたのは、いよいよ金が底をついて来たタイミングだった。

 

「是非ともご紹介したい仕事がございまして、ご連絡を差し上げました」

 

電話では説明が難しいため、ともかく来社願いたいというのでF社を訪問する。 

 

「ご紹介したいのは、コンピューター関連の仕事なのですが・・・IT業界のご経験は、おありでしょうか?」

 

「まったく、ないですが・・・」

 

なんでIT関連の紹介が来るのかすら不思議なくらい、それまで無縁の世界だ。

 

「一応、先方では業界経験のない方でも、大丈夫だと言っております・・・」

 

「しかしPCすら、まったく触った事がないけど」

 

「一応、話をしてみます・・・とにかく早急に人が必要だということなので、まったく未経験でもOKかもしれません」

 

半信半疑のまま、話を聴いていると

 

「もし先方がOKという事でしたら、やる気があるでしょうか?」

 

改めて訊かれて、答えに窮した。

 

なにせIT業界などは、まったく考えてもいなければ知識もゼロだから、判断のしようがないのである。ただ、そんなド素人の耳にも、IT業界が凄い勢いで伸びており、どの業界よりも将来性がありそうなことだけは予想がついたから、ある意味いいチャンスかもしれないと思い直した。

 

そもそも仕事を選んでいる状況ではないが、IT業界ならば客観的にも悪くはないと思えたし、巧くすれば技術を身に付けられるのではないかというのも魅力だった。

 

「それでは早速、先方に打診してみます」

 

という事だったが、なにせPCすら触った事のないド素人中の素人だけに相手にされるとは思えず、過大な期待は持たない事にした。ところが意外な事に、その日のうちに早速派遣会社の担当営業から、先方から面接依頼が来たとの連絡があった。

2009/01/14

原宿

 原宿というのは、非常にユニークな街である。ワタクシにとって「原宿」のイメージは、やはり子供の頃に流行った「竹の子族」のイメージが強い。今でこそ驚かないが、当時としては画期的な奇抜なファッションに身を包んだ、ローティーンからハイティーンの若者たちが踊る竹下通りからは、アイドルタレントも生まれるなど、ファッションの発信地的なイメージが強かった。当時、まだ地元の愛知に住んでいた学生時代のワタクシの目には、あたかも別世界の如くに煌びやかに映ったものだった。

大学受験で上京したころには、既に竹の子族のブームは終わっていたが、TVで観ていたようなファッションそのままの若者たちを目にして

(これが東京・・・これが原宿か・・・)

などと、ある意味で渋谷や新宿以上に感心したものだった。

その後、大人になるまで東京には縁ががなく、上京後もわざわざあの混雑する原宿に出向くような歳でも酔狂でもないから、しばらくは縁遠かった。

その後、明治神宮を訪れた時に、あの神聖な一の鳥居を目の前にして、真っ赤なトサカ頭のニーちゃんや、コスプレのような格好をしたネーさんたちが屯っているのを目にし

(そーいや、ここは原宿だったんだ・・・)

と、改めて気付かされたのである。

ファッションに命を掛けているような、あの若者たちの醸す独特のエネルギーと、それを吸収してしまうような不思議な空気を漂わせている神聖な神宮という、このミスマッチの妙が同居する不思議な風景こそは、何でもありの東京らしさといえるのかもしれない。

 <江戸時代以前は、鎌倉街道の宿場町があった。後三年の役の際には、源義家がこの辺りで軍勢を揃えたとも言われ、この坂は勢揃い坂と呼ばれている。1582年の本能寺の変の際に、徳川家康を堺から三河まで無事に帰国させた「伊賀越え」の行賞として、1590年に伊賀者に隠田村と共に原宿村が与えられた、という記述もある。

江戸時代に入ると、甲州街道の南にある原宿には江戸の防衛のために、伊賀衆の組屋敷が置かれた。また、数多くの幕臣の屋敷もあった。農民の暮らしはというと、渋谷川などでの水車による精米、製粉が中心であった。しかし痩せた土地であったために生産は上がらず、生活は苦しかった。そのために農民は、雨乞いをよく行っていたという。丹沢の大山阿夫利神社や榛名山に日帰りで詣でた、という話も残されている。
出典Wikipedia

なお1738年、町並が立ち並んだ箇所に青山原宿町が起立したが、これは1872年に青山北町5丁目に組み入れられ、現在は港区北青山三丁目になっている(青山との関係で言えば、1966年の住居表示の際に原宿1丁目の一部(東京都立青山高等学校の周辺)が、港区北青山二丁目に編入されている)

明治時代以降は、東京中心部と郊外を結ぶ要所として発展。1906年の山手線延伸により、原宿駅が開業。1919年には、明治神宮創建に合わせて表参道ができた。神宮参拝の利用客増加に対応するため、1924年には原宿駅が現在の位置に移動した。1927年に同潤会青山アパートが建設され、表参道の顔となった。

戦後は、代々木錬兵場跡地にアメリカ軍の宿舎「ワシントンハイツ」が建設され、表参道沿いにはキディランドや富士鳥居といった、米兵向けの店が誕生した。 

1964年の東京オリンピックの際には、ワシントンハイツの場所に選手村が建設され、外国文化の洗礼を受けた若者たちによって「原宿族」が出現した。

1970年代は、1972年に地下鉄・明治神宮前駅が開業、1973年のパレフランス、1978年のラフォーレ原宿のオープンや、創刊されたばかりのファッション雑誌「アンアン」や「non-no」により原宿が紹介され、アンノン族が街を闊歩、原宿はファッションの中心地として全国的な名声を手に入れた。
出典http://www.tour-harajuku.com/history.html

原宿セントラルアパート(1958年完成)には、デザイナーやカメラマンなどのクリエーター達が事務所を構え、文化を牽引した。1980年代になると竹の子族の影響により竹下通りが発展し、1977年から始まった歩行者天国(ホコ天)にはたくさんの若者が集った。

1990年代は表参道に、海外有名ファッションブランドの旗艦店が続々とオープンした。その傍ら神宮前三丁目、神宮前四丁目の住宅地には新たなファッショントレンドの店が並び「裏原宿(ウラハラ)」と呼ばれる一角が形成された。

原宿村。明治22年、千駄ヶ谷村大字原宿、同40年千駄ヶ谷町大字原宿、昭和7年原宿の字北原・南原宿・竹ノ下・灰毛丸・石田が渋谷区原宿13丁目となり、同 33年一部を千駄ヶ谷2丁目に譲り、同4043年神宮前14丁目と名を改め、一部は千駄ヶ谷23丁目・代々木神園町に分かれ原宿の名は消滅した。

区は原宿駅の名前まで消そうとしたが、国鉄(当時)は丁重に断った。かつては天皇陛下が列車で出発される駅で、国鉄(当時)としてはおいそれと改名できなかったのだろう。ご乗車当日は警察が物々しく、警戒配備について歩くのも大変だった。

地名の由来は、往古相模から奥州に向かう鎌倉道が村内を通過していて、宿駅があったことから起きたという。宿駅があった当時は、草原か土原か判らないが原っぱだったのだろう。明治神宮のところが代々木原で、土筆ヶ原・白銀原・高輪原・駒場原に続いていたことから考えると、大森や久ヶ原のように鬱蒼たる森林地帯ではなかったようだ。