2017/05/30

縄文時代(3)

●気候の変化と縄文文化の発展
縄文時代は1万年という長い期間に渡り、大規模な気候変動も経験している。

また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでおり、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかった。

結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなった。

2万年前に最終氷期が終わってから6000年前頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった時期である。

この間に日本列島は、100m以上もの海面上昇を経験している。

縄文土器編年区分において、これは縄文草創期から縄文前期に相当する(13000年前-6000年前)。

また、約6000年前には海面が現在より4m5m高く縄文海進と呼ばれており、海岸部の遺跡の分布を考える上で参考になる。

縄文草創期当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も一部で出現していた。

また地学的に見ても、北海道と樺太は繋がっていたし、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていた。

瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬は一つの大きな島となっていた。

この大きな島と朝鮮半島の間は、幅15キロメートル程度の水路であった。

その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなった。

これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになった。

縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など、新たな文化要素が付け加わった。

最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡で、およそ11000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。

定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないか、と見られる。

この時期の土器は北東アジア系、華北・華中系、華南系の3系統に分けられており、分布面から見ると北東アジア系は北海道から東日本に、華北・華中系は西日本、華南系は南日本から出土している。

植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。

縄文前期から中期にかけては、最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、現在は三内丸山遺跡と呼ばれる場所に起居した縄文人たちが保持していたのも、主にこの時期の文化形式である。

この時期には、日本列島に大きく分けて9つの文化圏が成立していた、と考えられている。

海水面は縄文前期の中頃には現在より3mほど高くなり、気候も現在よりなお温暖であった。

この時期の、いわゆる縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になったと林謙作は指摘している。

植生面では、関ヶ原より西は概ね照葉樹林帯となった。

縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下が起こる。

関東では、従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなった。

一方、西日本や東北では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していった。

中部や関東では、主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化した。

その他にも、青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡では、花粉の分析によりトチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっている。

その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じる。

文化圏は9つから4つに集約され、この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ「東日本」・「西日本」・「九州」・「沖縄」という現代に至る日本文化の地域的枠組みの基層をなしている。

●縄文文化の地域性
縄文文化は日本列島のどの地域でも同質のものだったのではなく、多様な地域性を備えた文化群であったことが指摘されている。

●土偶の分布に見る地域性
縄文人が製作した土偶は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、時期と地域の両面で限定されたものであった。

すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。

その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。

一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。

こうした土偶の使用の地域性について、藤尾はブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまり、これら落葉樹林に覆われていた地域)と、西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて説明している。

落葉性堅果類、すなわちクリやいわゆるドングリは秋の一時期に集中的に収穫され、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となるため、土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないか、という考え方である。
※Wikipedia引用

伊予之二名島(2)

高知

国名は、古くは『古事記』『日本書紀』では「土左」、『先代旧事本紀』では「都佐」と記されている。元々は「土左」で和銅6年(713年)の好字令で「土佐」に改められたといわれるが、和銅6年以後も「土左」と「土佐」が混用されている。平安時代中期に至り「土佐」が一般的な表記となったとされる。

 

「トサ」の語源には、俊聡・遠狭・(浦戸湾を指して)門狭などの諸説があるが明らかではない。土佐藩山内氏の城下町名に由来するが、下記の通り、「河中山」から「高智山」「高智」「高知」へと変化したものである。

 

慶長8年(1603年)、「高知城(元:大高坂山城)」が鏡川と江の口川に囲まれた地にあったことから、山内一豊が入城した際、真如寺の僧「在川」によって、「大高坂山城」から「河中山城(こうちやまじょう)」と改名された。しかし、この地は洪水が多く、第二代藩主の山内忠義が「河中」の字を嫌ったため、慶長15年(1610年)、竹林寺の僧「空鏡」によって「高智山城」と改名された。その後、「山」が省略されて「高智(高知)」となり、城下町名も「高知」となった。

 

高知城の周辺は、鏡川などの川に挟まれた地形であった。このため、高知城は当初、「河中山城」(こうちやまじょう)と呼ばれていたが、音を借りて「高智山城」と改め、やがてこれが略されて「高知城」となった。

 

香川

県名は、県庁所在地の高松市が所属していた郡名に由来する。郡名は、「香河郡」として奈良時代から見られ、その由来は、「かが川」の転で「かが」は平坦な草地を意味するという説。

 

古来より雨量が少なく、夏期に水枯れする河川が多かったことから、「かれかわ(枯川)」が転じて「かがわ」になったとする説。郡には樺の古木が河川に落ち、郡中がその香りに満ちていたことから、「香川」になったとする説。「香」は温泉の臭気のことで、「川」はその温泉を指しているといった説など多くある。

 

「香河郡」の例から、音変化後に「香川」という字が当てられたのではなく、「香る川」の意味のままで良いと考えられることから、樺の木の説か温泉の臭気の説が妥当である。

 

香川名については、奈良時代、郡鄕制であったので、和名抄の中に香河郡香川鄕の地名として出ています。また、地方の神名、五十香河彦の一部の香河(かがわ)から出たものと推論された説もあります。中山城山(なかやまじょうざん、1763~1837、江戸後期の儒者)の全讃志に、香川郡、北都の山奥に樺河(かがわ)という里あり、上古古木の樺ありて異香芬々(ふんふん)たり、其樹下より出る水かほりありて大河に落ちて、中央を流れて海に注ぐ郡中馥郁(ふくいく)として匂(にお)ひ渡れり、因って香河(かがわ)郡といへり、とあり、香川(かがわ)の字と結びつけた説が古くからありました。

 

香川(讃岐、高松)名の由来

 奈良時代、万葉集に、玉藻(たまも)よし讃岐(さぬき)の国は、国がらか見れども飽(あ)かぬ、と詠われています。

 

 讃岐(さぬき)名の由来については、古事記伝に古語拾遺(こごしゅうい)の記事の中に、手置帆負命(たおきほおひのみこと)の孫、矛竿(ほこさを)をつくる、その子孫、今分かれて讃岐の国に住み、毎年調庸(ちょうよう)の外、八百竿をたてまつる、の文を引き、讃岐の語は竿調(さをのつぎ)の意、あるいは竿木(さをのき)を約(つづ)めた言葉ではないかという。

 

 また、福家惣衛(ふけそうえ、1884~1971、大正、昭和期の教育者、郷土史家)は、さぬきとは狭野の国、小平野の多い地形を示す狭野国であろうという。その他、讃岐の語は、真麦(さむぎ、早麦とも)、狭貫(さぬき)、狭之城(さのき)などに由来する多くの説があります。

2017/05/28

善神アフラ・マズダと悪神アンラ・マンユ

 以上の創造神話の中に、すでに悪神が出現しているわけですが、この二神は宇宙の創造以前、一方は「光明」に他方は「暗黒」にいたとされます。

光明にいた善神アフラ・マズダは、そのことを知っていたけど、悪神アンラ・マンユ(アハリマン)は、当初そのことを知らなかったといいます。

 そこで善神アフラ・マズダは、悪神アンラ・マンユに知られないように、この宇宙を創造したといいます。

この第一期の時代が三千年続き、第二期となってこの宇宙は目に見えるようになり、そこで悪神アンラ・マンユは配下の悪魔デーヴァを遣わし、この宇宙に侵入してきたけれど、アフラ・マズダに撃退されて退き地上は平和であったといいます。

 こうして三千年経って第三期となり、再び満を持した悪神は地上へと侵入して善神との間に凄まじい戦いとなった、といいます。

ここにおいて前期にはなかった悪徳が、この地上に充満したといいます。

こうして虚偽、不正、災厄が蔓延っていくわけで、つまり悪神アンラ・マンユの優勢の時代というわけでした。
 
 そしてゾロアスターの登場とともに第四期に入り、この期の終わりをもって最後の審判という終局を迎えることになるのでした

私達は現在、この最後の第四期にいるわけで、この期間は善と悪とが入り乱れ一進一退の時期とされ、人類は悪と戦わなければならず、そうすることで最後の審判で死後天国に行くことができ、悪を選択したものは永遠の地獄に堕ちる、とされるのでした。

こうした善のために戦う人々のため、三千年の千年ごとにゾロアスターを継ぐ者が現れ、人類を指導するとされています。 

 この基本構造は、現実のこの地上世界を悲観的に見る見方が強いと感じられます。

もちろん、最終的には善の勝ちとされるのは当たり前かもしれませんが、地上世界に限ってみると悪神の勢力が圧倒していると見えます。

その中で人類は善神に従うことが要求されているのであって、このことは現実の人間世界は悪に支配されている、という世界認識があるからでしょう。

つまり、この地上世界には悪がはびこっている、しかしそれに負けずに正義を守ろう、というアピールになっているわけでした。

これは後にキリスト教とイスラーム両者でも基本的な立場となります。

もちろん、他の宗教にはこうした主張がないというわけではありませんが、しかしこのアピールが核になっているというのは、ゾロアスター教の強い特徴であるように考えられます。

こうした考え方のところに「最後の審判」といった思想が生じてくるのではないか、と考えられるのでした。

 ゾロアスター教で最も重要な思想の一つが、この「最後の審判」と「天国と地獄」という思想で、これらは一般にキリスト教の思想だと思われてしまっていますが、そのキリスト教の母胎であるヘブライ神話にはこうした考えは全くなく、それ故このキリスト教の思想は遠く、このゾロアスター教の影響下にあるのではないかと推測されるのです。

 といっても、もちろんその経緯はユダヤ教の一派を通して、となります。

つまりユダヤ人はペルシャの支配下にあった時に、この解放者でもあったペルシャの国教であるゾロアスター教の影響を強く受けたと考えられるのです。

つまり、イエス時代のユダヤ教のパリサイ派には、こうした思想が見られる一方、ヘブライ神話にこだわる保守的なサドカイ派には、こうした思想が全くありません。

ということは、ユダヤ人がバビロン補囚の後、ペルシャの支配下にあった時代に、後にパリサイ派を形成する学者たちが、このゾロアスター教の影響を受けた可能性が非常に強いということです。

●天国と地獄の考えと終末論
 その「最後の審判」と「天国と地獄」ですが、人が死ぬと魂は三日三晩さまって自分の生前の言葉や思考・行為などを思い巡らせ、裁判の場所に向かうとされます。

 そこには三人の裁判官がおり、死者のすべての言葉・思考・行為が記録されている台帳があって、それによって善人と悪人とが判別されるとされます。

 そして善人の魂は美しい乙女に導かれ、悪人は醜い老婆に導かれて「チンワントの橋」に向かうことになり、善人はこの橋を何なく渡れるのに対し、悪人にはこの橋は剣となってしまい、悪人の魂は切り裂かれ悲鳴と共に地獄に堕ちることになると言われます。

 善人の魂は天国に迎えられ、星の世界、また月の世界で、さらに太陽の世界で温かくもてなしをうけた上で、最高神アフラ・マズダの下に行き永遠の平安の人生が約束される、となります。

 悪人の魂は、天国の始めの「星・月・太陽」の三つの世界に対応する小地獄の世界があり、その三つの世界で散々に責め苦を受けた挙句、最後の地獄に堕ちて、文字通り「地獄の釜ゆで」など悲惨この上ない拷問、責め苦を永遠に受けることになる、とされます。

 この地獄には、終わりというものがありません

ですから生前での本当に短い人生の間の選択が「天国での永遠の平安」か「地獄での永遠の苦悩」かを決めてしまう、とされるわけでした。

 一方、この個々人の裁判に加え、人類そのものの最後の審判というものがあって、ここで死者はすべて復活してきます。

ところが、そこに天より巨大な彗星が落ちてきて、全てをその業火で焼き尽くしていくとされます。

しかし善人は、その火を何とも思わず暖かな牛乳のように思うのに対し、悪人には灼熱の火となって全身を焼き尽くすとされます。

そして善人は三日三晩もてなしを受けて天国に戻っていくのに対して、悪人は三日三晩溶鉱炉で焼かれ、再び地獄に堕ちていくとされます。

一方、ここで善神と悪神の最後の決戦が行われ、悪は滅び去って世界は再び悪神の侵入しなかった状態へと戻る、とされるのでした。

 この復活世界の終末の思想も興味深いもので、これまたヘブライ神話には全くなく、しかもキリスト教の中心思想となっています。

この影響は、やはりこのゾロアスター教しか考えられないわけでした。

2017/05/27

日本書紀(第九段一書)(3)

フツヌシとタケミカヅチ

『古事記』では、国譲りの交渉に成功したのは建御雷神とされる一方、『日本書紀』ではこの場面に主に活躍するのが経津主神で、建御雷神(武甕槌神)が脇役となっている。(『古事記』では経津主神の事にはふれていないが、建御雷神が神武天皇に授けた剣・布都御魂が出てくる。また、建御雷神の異名には「建布都神(たけふつのかみ)」と「豊布都神(とよふつのかみ)」がある。)『出雲国造神賀詞』や『出雲国風土記』にも布都怒志命(経津主神)が登場する一方、建御雷神は見られない。このため、国譲り神話の原形には、経津主神が主役として登場していたという説が挙げられている。経津主神は布都御魂の神格化で、それを祀った物部氏とは関係があるという見解もある。

 

丸山二郎1947年)は、建御雷神と経津主神をヤマト王権の発展と拡大に重要な役割を持った物部氏が奉斎していた神々とし、鹿島神宮と香取神宮は朝廷の祭祀を司る中臣氏と関係する以前に、物部氏が東国へ進出した際に成立したものとしていた。一方、寺村光晴(1980年)は、鹿島神宮がヤマト政権・物部氏との関係の下に成立していた香取神宮とは異なり在地性が強いため、本来は土着豪族の勢力下にあったという説を唱えていた。この説においては、物部氏の没落後に香取神宮とは別に新たな軍事と祭祀の基地が要求された結果、鹿島神宮がヤマト王権の勢力下に入った。この過程によって『古事記』や『日本書紀』には、建御雷神と経津主神が混同されたような形になったという。

 

大和岩雄1989年)は、『古事記』において大物主神の後裔とされる「建甕槌命」(三輪氏の始祖・意富多々泥古命の父)が建御雷神の原形で、国譲り神話に見られる天津神の「建御雷神」は、中臣氏(後の藤原氏)の氏神とされるようになってから成立したものとしている。この説によると、鹿島に祀られている神は元々は多氏が奉斎していた大物主系の建甕槌命で、道祖神的な性格を持ったの神であったが、中臣氏が「雷」の神として剣神・武神という性格を持たせて、国譲り神話に挿入した。

 

宝賀寿男は、『古事記』の建甕槌命は『古事記』や『旧事本紀』に見られる、その系図や他氏族との比較から、三輪氏の祖神で意富多々泥古命の曾祖父に位置づけた。また三輪氏と多氏は、それぞれ海神族天孫族の出身であるとし、系図、習俗・祭祀体系からも、この二氏は全くの別族であり、建御雷神は最初から中臣氏(山祇族)の氏神であるとする。この説によると、山祇族は火神・陸蛇(、オカミ)・に縁由があり、紀国造の系譜に見るように迦具土神を始祖としており、また中臣氏上祖に「伊都、市」や「速」とあるように、祖系に複数の雷神が見えることから、建御雷神は天児屋命の父・興台産霊命と同一神であり、物部氏が奉斎した剣神たる経津主神(ここでは天目一箇命と比定)と、中臣氏が奉斎した雷神たる武甕槌神とは別の神とする。なお『神道大辞典』には「武甕槌神と経津主神とは同神とする説があるが、なほ別々の二神の名と見る方が妥当であらう」と記載されている

 

タケミナカタ

建御名方神は『古事記』では国譲り神話のみに登場している。大国主神の子でありながら、その系譜には名前が見られず、国譲りの場面にも唐突に出てくる。(前述の通り『旧事本紀』では、ちゃんと大己貴神の系譜には記述があり、大己貴神と高志沼河姫の子となっている。)そればかりでなく、『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』にある出雲国の伝承にも、一切登場しない。この理由から、建御名方神を国譲り神話に挿入された諏訪地方の土着神、または『古事記』の編纂者もしくは朝廷側が造作した神とする説が挙げられている。なお、過去には建御名方神が伊勢津彦御穂須々美命天津甕星等のような神話が似ている神々と比定されることがあった。近年では、長髄彦天八現津彦命と同一視する見解もある

 

『古事記』や『旧事本紀』に見られる建御名方神の敗走の話が諏訪大社の起源譚として認識されるようになったのは『諏方大明神画詞』(1356年)成立以降で、諏訪ではこれと異なる神話が伝えられている(諏訪明神こと建御名方神の洩矢神との覇権争いの話など)[。この神話は古墳時代に起こった出来事を反映しており、『古事記』の説話のモデルともなったと考えられていたが、この伝承自体があまりにも聖徳太子物部守屋の争い(丁未の乱)にまつわる伝承と似ていることから、中世の聖徳太子伝承の影響を色濃く受けた、あるいは聖徳伝承を基にして創作された神話であるという意見も近年になって出て来ている。

 

『古事記』では、建御名方神が無様な負け方をした神として描かれているが、中世伝承では神功皇后坂上田村麻呂に力を貸した立派な神とされ、平安時代末期から香取神宮や鹿島神宮に並ぶ軍神として広く信仰された。中世前期の諏訪大社の縁起は当時広く読まれていなかった『古事記』や『日本書紀』の影響なしに成立したものと考えられている。

 

諏訪大社は諏訪湖の南にある上社(かみしゃ)と、その北にある下社(しもしゃ)の2社から成る。建御名方神(諏訪明神)を祀る上社では、かつて大祝(おおほうり)と呼ばれる神官が神の神体とされ、現人神して崇められていた。この大祝は神の身代わりであるがゆえに在職中に穢れに触れてはならず、諏訪郡から出てはならないとされた。『古事記』では、建御名方神が「この地を除(お)きては他処(あだしところ)に行かじ」と誓う場面は、この掟に関係するという説はある。ただし、大祝を権威や権力から超越した現人神とする信仰はそう古くなく、鎌倉時代に起こったもので、大祝の郡外不出の掟も『古事記』とは直接関係がないという説も挙げられている

 

国譲りの舞台

宝賀寿男は、本来の高天原(所謂邪馬台国)は北九州筑後川中・下流域にあり、天孫降臨の地は現在の怡土郡早良郡(現糸島市、旧伊都国)辺りで、葦原中国とは海神信仰の強い那珂郡奴国)のことであって、現在でいう出雲国ではないとする説を提唱した。実際に奴国と想定される博多地域では、志賀海神社安曇氏など海神族の色合いが濃く、出土した金印の鈕も海神族のトーテムであるである。また事代主神と建御名方神の国譲りは、『日本書紀』の神婚譚にも見えるように、実際には現在の奈良県(旧大和国、大神・磯城周辺)であったとされる。実際に『出雲国風土記』には、事代主神も建御名方神も登場しない。

 

他には、記紀神話における「出雲」を現実の出雲国だけではなく、ヤマト王権に帰順しなかったと思われる地域・部族の総称とする説もある。

2017/05/23

縄文時代(2)



●縄文時代早期
日本列島の旧石器時代の人々は、大型哺乳動物(ヘラジカ、ヤギュウ、オーロックス、ナウマンゾウ、オオツノシカなど。)や中・小型哺乳動物(ニホンジカ、イノシシ、アナグマ、ノウサギなど。)を狩猟対象としていた

大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って旧石器時代人もキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していた。

キル・サイトやブロック、礫群、炭の粒の集中するところなどは日本列島内で数千ヶ所も発見されているが、竪穴住居などの施設を伴う遺跡は殆ど発見されていない。

旧石器時代の人々は、更新世の末までキャンプ生活・遊動生活を営みながら、頻繁に移動生活を繰り返してきた。

旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には、一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。

縄文早期になると、定住生活が出現する

鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。

この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違い、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が中央広場を囲むように配置されている。

加栗山遺跡と、ほぼ同時期の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では、46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出されている。

このうち13棟は、桜島起源の火山灰P-13に覆われていることから、同じ時に存在したものと推定できる。

この13棟は半環状に配置されていることから、早期初頭には既に相当な規模の定住集落を形成していたと推定される[誰によって?] 

縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居が最も顕著に普及する。

現在まで竪穴住居が検出された遺跡は65ヶ所、その数は300棟を超えている。

そのうちで最も規模の大きな東京都府中市の武蔵台遺跡では、24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。

南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加する。

定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。

南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく漁労活動も重要な役割を果たしていたと考えられている[誰によって?] 

一方、北に目を転じれば、北海道函館市の中野B遺跡からは縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、土壙墓、落とし穴、多数の土器、石皿、磨石、敲石、石錘が出土して、その数は40万点にも上っている。

津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が盛んに行われ長期に渡るる定住生活を営むことが出来たと考えられる

また東海地方の早期の定住集落、静岡県富士宮市の若宮遺跡は28棟の竪穴住居を始めとする多数の遺構群とともに、土器と石器が18,000点ほど出土している

この遺跡が他の早期の遺跡と大いに違う点は、狩猟で使用する石鏃2,168点も出土したことである。

富士山麓にあるこの遺跡では、小谷が多く形成され舌状台地が連続する地形こそ、哺乳動物の生息に適した場であった。

つまり若宮遺跡では環境に恵まれ、獲物にも恵まれて定住生活を営む上での条件が揃っていたと推定される[誰によって?] 

移動生活から定住的な生活への変化は、もう一つの大きな変化をもたらした。

その変化はプラント・オパール分析の結果から判明した。

一時的に居住する半定住的な生活の仕方では、周辺地域の開拓までに至らなかったが、定住的な生活をするようになった縄文時代人は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り拓いたことにより、そこにクリやクルミなどの二次林(二次植生)の環境を提供することとなった。

定住化により、縄文人は集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えた。

ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビルなどの縄文人の主要で安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり雑木林という新しい環境を創造したことになる。

縄文時代の建築材や燃料材は、クリが大半であることは遺跡出土の遺物から分かっている。

2013年、福井県の鳥浜貝塚から世界最古級(約1100015000年前)の調理土器が発見された

これにより、サケなどの魚を調理していた可能性が判明した
 
●縄文文化の歴史的変遷
縄文文化の定義は一様ではないため、縄文文化が地理的にどのような範囲に分布していたかを一義に決定することはできない。

縄文土器の分布を目安とした場合、北は宗谷岬と千島列島、南は沖縄本島を限界とし、宮古島や八重山諸島には分布しない(宮古島や八重山諸島は、台湾島の土器と同系統のもの)

 すなわち、現在の日本国の国境線とは微妙にズレた範囲が縄文土器の分布域である。
※※Wikipedia引用