2020/03/24

ヒンドゥー教(1)


ヒンドゥー教(ヒンドゥーきょう、ヒンディー語: हिन्दू धर्म、サンスクリット語: सनातन धर्म)、慣用表記でヒンズー教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教、またはインド的伝統を指す。西欧で作られた用語である。

英語のHinduは、現在ではまずイスラム教徒との対比において用いられるのが一般的で、イスラム教徒以外で小宗派を除いた、インドで5億人を超えるような多数派であるインド的な複数の有神教宗派の教徒の総称である。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教である。

同じく「ヒンドゥー教」と訳される英語のHinduismは、最も広い意味・用法ではインドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれ、インダス文明まで遡るものである。一般的には、アーリア民族のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す。西洋では、このうち仏教以前に存在した宗教をバラモン教(英:Brahmanism、特にヴェーダ時代の宗教思想をヴェーダの宗教(英:Vedic Religinと呼んだ。これらは日本の漢訳仏典の婆羅門教(ばらもん教)に当たる。

ヒンドゥー教の狭い意味での用法は、仏教興隆以後、発達して有力になったもので、特に中世・近世以後の大衆宗教運動としてのシヴァ教徒・ヴィシュヌ教徒などの有神的民衆宗教を意識しての呼び方であることが多い。

語源と名称
ヒンドゥー Hindu の語源は、サンスクリットでインダス川を意味する sindhu に対応するペルシア語。「(ペルシアから見て)インダス川対岸に住む人々」の意味で用いられ、西欧に伝わり、インドに逆輸入され定着した。(同じ語が、ギリシアを経由して西欧に伝わって India となり、こちらもインドに逆輸入されて定着した。漢訳では玄奘による「印度」が定着している。)

インド植民地時代に、大英帝国側がインド土着の民族宗教を包括的に示す名称として採用したことから、この呼称が広まった。日本では慣用表記ではヒンズー教、一般的にはヒンドゥー教と呼ばれるが、時にインド教と呼ばれることもある。中国、韓国でも「印度教」と呼ばれるが、現在のインドは世俗国家であり国教はなく、インドでこのように呼ばれたことはない。

ヒンドゥー教の特徴
インドラ
狭い意味でのヒンドゥー教は、バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら、徐々に形成されてきた多神教である。紀元前2000年頃、アーリア人がイランからインド北西部に侵入した。彼らは、前1500年頃にヴェーダを成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。

紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化して、ヒンドゥー教へと変化して行く。(バラモン教も、ヒンドゥー教に含む考えもある。)

ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった。その後インドの民族宗教として、民衆に信仰され続けてきた。

神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。

三神一体(トリムルティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわち

ブラフマー:宇宙の創造を司る神
ヴィシュヌ:宇宙の維持を司る神
シヴァ:宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神

 は一体を成すとされている。 しかし現在では、ブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称され、多くの信者がいる。ヴィシュヌ神を信仰する派をヴィシュヌ教、またシヴァ神を信仰する派をシヴァ教と呼ぶ。

ヒンドゥー教の神や祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えている。以下に、ヒンドゥー教の特徴を解説する。

ヒンドゥー教の範囲
狭義のヒンドゥー教は多神教であり、また地域や所属する集団によって非常に多様な信仰形態をとる。狭義でも、ヒンドゥー教の範囲は非常に曖昧である。インド国内の広義の定義においては、キリスト教やイスラム教などインド以外の地域で発祥した特定宗教以外の全ての宗教が相当する。一例として、インドにおいて仏教はヒンドゥー教の一派とされる。インド憲法25条では、(ヒンドゥー教から分派したと考えられる)シク教、ジャイナ教、仏教を信仰する人も広義のヒンドゥーとして扱われている。
出典Wikipedia

2020/03/21

ヘラクレスの死(ギリシャ神話75)

ヘラクレスの死

 ヘラクレスの物語は、この後も延々と続いていく。後に続く物語の中で有名なものは「デルポイでの、神アポロンと神託の三脚台を巡っての抗争」「クレタ島の迷宮から脱出した後、翼を失い海へと墜落したイカロスの死体を拾い弔ってやり、その島をイカリアと呼ぶことにした、という現在のイカリア島の由来」「トロイ攻めと、その帰りヘラに邪魔されコス島に流され、それがもとでヘラがゼウスの怒りを買い、彼女が吊り下げられる、というホメロスの叙事詩にも出てくる話」「オリュンピアでペロプスの祭壇を築き、オリュンピア競技を開設した所以」、「ピュロスを攻め、ネストル以外の王族が全滅させられた話し」「その際、冥界の王ハデスが、ヘラクレスに傷つけられた話」などなどがある。

ヘラクレスの死
 ヘラクレスの「死」については、エウリピデスの悲劇『ヘラクレス』のテーマともなっているものだが、それはヘラクレスの妻デイラネイラの悲劇でもあった。

1.  かつて二人がある河を渡ろうとした時、ケンタウロス族のネッソスが「渡し守り」をしており、そこでヘラクレスは自分で河を渡る一方、このネッソスに妻のデイラネイラを渡してもらうよう頼む。ところが、このネッソスは途中で、こともあろうにデイラネイラを襲って、犯そうとしてきた。

2.悲鳴を聞きつけてヘラクレスは弓矢を取って、このネッソスを射殺す。しかし、ネッソスはデイラネイラに、自分の血は「媚薬」になるから、それを取っておき、ヘラクレスが浮気したときに使うと良い、と言い置いて死んでいく。

. ネッソスは、自分の血がヘラクレスの毒矢によって「ヒュドラの毒」に化していたことを察知していて、復讐をたくらんだのだった。

4.デイアネイラはそれを信じ、その血をこっそり隠し持っていく。そして数年後、ヘラクレスは案の定イオレという娘に心を移してしまう。デイアネイラは、それを知りヘラクレスの心を取り戻そうと、例のネッソスの血を思い出し、それをヘラクレスの着物に塗ってしまう。

5.しかし、これは何人といえども癒せないヒュドラの血の毒であったので、ヘラクレスはのたうち回り、デイアネイラは悲しみと絶望のうちに首をくくって死んでいく。

6.ヘラクレスは火葬の準備をして、そこに身を横たえ通りかかったポイアスという男(一般には、ソポクレスの悲劇で有名なピロクテテスと紹介。ただし、このポイアスはピロクテテスの父親なので、いずれにせよヘラクレスの弓はピロクテテスのものになる)が火をつけてやり、ヘラクレスは彼に自分の弓を与えた。

7.こうして、彼は火炎と共に「天」に昇っていき、そこでやっとヘラと和解しその娘「青春の女神ヘベ」を妻にした。

2020/03/16

パウロ(2)

政治思想
パウロの政治思想としては、受動的服従が知られる。ウォーリンによれば、パウロや初期の教会指導者たちが政治権力への服従を繰り返し述べていることは、この時代のキリスト教徒に政治秩序への鋭い対立意識があったことを物語っているという。事実、66年にはユダヤ戦争(〜70年)が起き、112年〜115年にもユダヤ人が蜂起し、135年にもバル・コクバの乱が起きている。

パウロによれば、この世の権威は神に拠らないものはなく、したがってこれを受け入れなくてはならない。パウロは政治的権威に対して負う義務と、宗教的権威に対するそれを区別した。しかし、それは政治的忠誠心と宗教的忠誠心を完全に分離したものである、と主張したわけではない。彼は政治秩序を神の摂理の中に位置づけ、当時のキリスト教徒が政治秩序のキリスト教的理解に基づいて受け入れるよう促した。

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは、権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者から褒められるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者は、いたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として悪を行う者に怒りをもって報いるのです。パウロ、「ローマ人への手紙」13.1-4。新共同訳

テオドール・モムゼン
1890年の『ローマ法から見た宗教的逸脱』において、帝政初期のキリスト教迫害の理由を「国家離反」に求め、キリスト教迫害史研究に決定的な一歩を刻みつけた。

パウロは、教会と国家を分離し、国家に対するキリスト教の服従を説くが、従うべき対象として「皇帝」ではなく、神によって認められた「権威」を挙げている。パウロは、ローマ帝国の支配を無条件に肯定しているともいわれる。

歴史家の意見
ところでローマ帝国のキリスト教に対する迫害について、テオドール・モムゼンは、ローマ帝国によって「許された宗教」ユダヤ教と「許されざる宗教」キリスト教と対比したが、1世紀段階ではキリスト教迫害はネロ迫害を除いて、ユダヤ教迫害の一環として行われている。またネロ帝によるキリスト教迫害についても、タキトゥスの記述は2世紀におけるキリスト教観を示しており、1世紀段階のヨセフスや新約聖書との相違が著しいため、その史実性には幅がある。

労働観
また、パウロは「自分の手で働くこと」を推奨しているが、これは古典古代の労働観に反する。古典古代においては労働は奴隷がするもので、自由人は閑暇(スコレー σχολη)にあることを誇りとしていた。アリストテレスは「幸福は閑暇(スコレー)に存すると考えられる。」と述べており、ハンナ・アーレントによれば、アリストテレスは全体として必要に従属しているヒト属を人間と呼ぶことを認めなかった。

死生観
パウロは、復活の教えを強調した。(当時、ユダヤ教ではサドカイ派などや、キリスト教会内部でも、イエスの教えに反して復活を否定する動きがあったためか。)、もし死人の復活がないならキリストも蘇らなかった事になり、それを蘇らせたと言っている私達は神にそむく偽証人という事になる為、全ての人の中で最も哀れむべき存在になるとまで語った。

哲学との接点
パウロはアテネに滞在した際に、エピクロス派やストア派の哲学者数人と論じ合っている。 当時、哲学とキリスト教の教えを巧妙に混ぜた教えが多かったためか、それらの哲学を「虚しい騙しごと」と批判した事もある。

ルターによる評価
ルターは、パウロ書簡を極めて高く評価している。

トロクメによる評価
ルター以来、パウロはユダヤ教からイエスによって解放されたとする見解が主流であったが、トロクメによると彼自身の意識ではユダヤの思想家であり、意識としてはユダヤ教内部の論争に関わっていたつもりであったとされる。また、トロクメは歴史家たちがパウロを「キリスト教の創始者」と考える傾向にあることを批判し、この考えがイエスを「ユダヤ教の改革者」という誤った位置づけに貶めるものだという。トロクメは、パウロの思想がアウグスティヌス以前は正確に理解されているとは必ずしも言えないこと、中世の神学者たちも彼をあまり重視していないことを挙げ、パウロにキリスト教における中心的な地位を与えたのは、ルネサンスと宗教改革であると述べている。
出典 Wikipedia