2021/08/31

セム族の主神「バール神」とヘブライの「ヤハウェ神」(ヘブライ神話19)

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  以上の簡単な筋の中にも、民族史的に幾つかの重要なポイントがあります。すなわち、イスラエル民族の出自は「メソポタミア」だと言われているわけで、これは最近の発掘その他の研究によっても認められています。ですから、彼等は「東のセム族の一派」であったというわけでした。従ってその神話が、バビロン的なのも頷けます。

 

 ただ、ヘブライ人のパレスチナ地方への侵入にも、幾つかの部族による段階的なものがあったのでは、とされています。すなわち、先ず「アブラハム族」が紀元前1800年頃移動して北に迂回してパレスチナ地方に入り、その後400年くらい経って前1400年頃に「ヤコブ族」がやはり北に回って東側から入り、最後に何等かの事情でエジプトに流れていた「セム族(ヤコブ族?)の一派」が前1200年頃エジプトを出て、「モーゼ」に率いられてパレスチナ地方に入っていったのではなかろうかというわけです。この最後の「モーゼ」による侵入以降が、とりわけ大事だとされるのでした。

 

 ただし、肝心のエジプトにいたという「セム族(ヤコブ族?)の一派」については、これを疑問視する見解も有力なものとしてあります。しかし、ここでは一般の説に従って一応「エジプトから」としておこうと思います。

 

西方セム族の神「バール神」

 一方、こうしたヘブライ人の侵入以前にも、パレスチナ地方には人々が住んでいたわけで、宗教的な側面では北方シリア方面に展開していた「ウガリト王国」がとりわけ重要とされます。

 

この「ウガリト王国」は、イスラエル民族がこの地方に進出してくるずっと以前、紀元前2000年代から繁栄した古代都市国家で、東方のシュメール・アッシリア・バビロニアとも、またさらに北方の小アジアにあったヒッタイトとも交流し、また西のエーゲ海にも進出し、少し遅れてきたギリシャ・ミケーネ人にも影響を与えたであろうとされている民族でした。もちろんセム族の一派で、同じセム族の民族で後代に重要民族として歴史に名前を留める「フェニキア人」は、その親類筋の民族であったとされています。

 

 そのウガリト王国からは、その文書であるウガリト文書が大量に発掘されたことから、その王国やその神のあり方の詳細が知られます。しかし、これは当然ウガリト王国だけの神であるより、むしろ西方に展開していたセム族の神と考えるべきで、したがって近親関係にあったフェニキア人も同様の神をもっていました。

 

 その神体系の中で「バール」という神が有名になっています。「バール」は、この地方に展開したセム族の神として、紀元前3000から1000年代にかけて、この地方において有力であった神であり、『旧約聖書』の列王記の17章以下での「予言者エリア」の伝承において「イスラエル」にさえ「バール神信仰」が盛んになっていたことが記されています。その時の王「アハブ王」の后「イゼベル」はフェニキア人とされていますので、フェニキアの「バール神」信仰の影響かと推測されます。

 

 この証言からは、この時代はやはりフェニキア人もヘブライ人も混在し(同じセム族に属する親類ですから、不思議ではありません)、ダビデによって「イスラエル王国」が結成され、ソロモンによってヤハウェ神殿が建造されていても、未だその神観念が一本化、絶対化されていたわけではないことが良く分かります。ヘブライ人独自の「ヤハウェ信仰」が、ヘブライ人(イスラエル人)にとって絶対のものになるのはバビロン補囚の後、一般に「ユダヤ教成立時代」とされる紀元前五世紀にまで、大きく下がってこなければならないでしょう。それまでは「ヤハウェ信仰の準備時代」と言うべきだと考えられます。

 

「バール神」を伝えるウガリト文書で、その神話を簡単に紹介してみましょう。神々の集会があり「天の神イルウ(エール)」のもとに皆が集まって来たとき、海の竜神である「ヤム(混沌をあらわすとされる)」は自分が支配者になろうとして、使者を送り込んだという。老いたイルウはそれに譲歩してしまうが、「バール」は激怒して、職人の神が作り出した特別の棍棒をもってヤムと戦い、これにうち勝つ。

 

 神々の宴会があり、バールの妹「アナト」の勇猛さが示される。バールは、この妹「アナト」に依頼して支配者にふさわしい宮殿を造ってくれるよう天の神に頼み、そこに住まう。しばらくして「冥界の神モト」が冥界に来るよう声をかけ、バールは出かけていく。しかし冥界にあって、バールは騙されてモトに捕らわれてしまう。一方、妹のアナトはバールを求めて冥界へと来たり、モトを倒していく。しかしモトは復活してしまい、他方自由となっていたバールはモトと壮絶な戦いの後、ついにモトにうち勝つ。しかし「バール」は七年の支配の後、地下に降りていった。

 

 この神話に見られる「バール」は「戦士」であると同時に、実は「穀物」も象徴しています。地下にいったり「再生」したりは、その穀物の姿を現しています。「七年後の地下への下り」などは、ヘブライ神話である『創世記』41.29にある「豊壌の七年」にそのまま受け継がれています。

 

一方「妹のアナト」は、東方のシュメール・バビロニア系列の「女神イシュタル(イナンナ)」と同じ性格を持っているといえます。この「バール」は、西方セム族間において別名「ハダド」とも呼ばれ、それは「主」という意味をもって「主神」となり、後代のギリシャのゼウスに似た性格を持っていて「雨・雷光」をつかさどり、強大な戦士であると同時に穀物の繁栄を司って、彼と女神との性的交渉が「繁栄のシンボル」として「聖婚」儀礼が各地で行われたようでした。

 

 この「ウガリト」の神観念に、バビロニアなど東方のセム族との近似性が認められるように、同じセム族である「ヘブライの神話」が、これらと無縁に存在していたわけもなく、その原型はすべてのセム族に共通していて、それが各部族ごとの展開を見せていったと考えられます。ですからその「神観念」も「世界観・人間観」も、基本は元来のセム族のものであり「ヘブライ・ユダヤ教」に特有とされるさまざまの特質も、この展開の中に考えられるべきでしょう。

2021/08/26

古墳時代(3)

地域国家から古代国家へ

初期ヤマト王権

弥生時代末期には、発掘調査の結果から、北部九州を中心とする政治勢力と、奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことがわかっている。3世紀前半に活躍した倭国王(親魏倭王)卑弥呼の所在地邪馬台国が北部九州、畿内のどちらにあったのかについては未だ学説が分かれている。

 

いずれにせよ、この両地域の勢力が母体となって古墳時代のいずれかの時期に、畿内を本拠地とするヤマト王権が成立したと考えられている。ただしヤマト王権と邪馬台国は、全くの別勢力と見なす説もある。

 

成立の過程ははっきりしないが、考古学の成果は奈良盆地勢力が吉備政権など、列島各地の勢力と連合してヤマト王権へ成長してゆき、この過程で北部九州が衰退したことを示唆している。北部九州勢力が奈良盆地へ東遷の後、奈良盆地勢力を制圧してヤマト王権となったとする見解もある。

 

ヤマト王権の成立期には、従前のものより格段に大規模な墓(前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場している。弥生末期には畿内、吉備、出雲、筑紫などの各地域ごとに特色ある墓制が展開していたが、前方後円墳には、それら各地域の特色が融合された様子が見られるため、ヤマト王権は列島各地域の政治勢力が連合したことによって成立したとされる。

 

ヤマト王権は、ヤマト地方(畿内)を本拠として、本州中部から九州北部までを支配したと考えられている。ヤマト王権は倭国を代表する政治勢力へと成長すると、支配拡大の過程では、大小の勢力や種族との衝突があったと考えられる。『日本書紀』などにはそれを窺わせる記述(ヤマトタケル説話など)が残されているが、詳細な過程は不明である。

 

倭の五王の時代

中国の史書に266年から倭国の関係記事が見えなかったが、約1世紀半も経って、5世紀の初めの413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀に記されている。

 

421年(宋・永初2年)に『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事が見える。これ以後、倭王に関する記事が中国史書に散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続いている。これが「倭の五王」である。倭の五王は、『日本書紀』に見える天皇との比定が試みられた。必ずしも比定は定まっていないが、例えば倭王武は雄略天皇ではないかと見られている。武については、中国皇帝に上表した文書には、先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されている。

 

埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や、熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘から、その治世の一端が分かる。「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」とあることから、まだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していなかった。島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」からは、6世紀の中頃には部民制の施行を知ることが出来る。また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた。氏と姓の制度がある程度成立していたとされている。

 

4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。6世紀には、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと『日本書紀』に記述があり、これを磐井の乱(527年)として扱われている。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が北部九州に重く、乱となったと考えられるが、この時代はまだ北部九州勢力がヤマト王権の完全支配下にはなかったことも示唆している。

 

古代国家の成立

安閑(531 - 535年)・宣化(535 - 539年)・欽明(539 - 571年)の各王朝を通じて、地域国家から脱して初期国家を形成していった。王権のもとには、ウジを持つ物部氏・大伴氏・蘇我氏などがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌があった。地方では、吉備氏系氏族がウジ・臣を作るなど、各地の豪族が部などを作り、勢力を張っていた。

 

宣化朝に蘇我氏が大臣になり勢いを増すと、崇峻朝(587 - 592年)では蘇我氏が大臣一人で政権の中枢を握った。崇峻天皇は592年、蘇我馬子の手筈により暗殺される。稲目・馬子・蝦夷・入鹿と蘇我氏が政治上重要な地位を占めた時代が、645年(皇極天皇4年)の乙巳の変までの約半世紀間続いた。

 

欽明朝では戸籍が造られ、国造・郡司の前身的な国家機構が整備された。また、この欽明朝では仏教の伝来が538年に百済からあった。

 

『日本書紀』は552年に伝わったと書いているが、他の史料から編者の改変である事が分かっている。仏教伝来については、仏教受け入れ派の蘇我氏と反対派の物部氏とが争い、蘇我氏の勝利に終わる。

 

国際関係

朝鮮との関係

4世紀以降、朝鮮半島で鉄資源の供給地としてのいわゆる任那地域などに進出したことが、広開土王碑文(西暦414年に建てたとされる)などからも知られる。

 

また『三国史記』(西暦1143年執筆開始、1145年完成)は、3世紀以前の記述は信用性に疑問があるものの、「空白の4世紀」について朝鮮半島との関係が書かれた数少ない史料である。

 

4世紀末頃まで隆盛だった朝鮮半島南部洛東江流域の日本列島勢力が高句麗勢力の南下の影響を受けて後退し始め、代わりに5世紀以降朝鮮半島南西部栄山江流域の日本列島勢力が隆盛となり(韓国『金海市』公式サイト「伽耶史の概観」)、近年は栄山江流域周辺で前方後円墳が多数発見されている。(姜仁求1983

 

中国との関係

この時代において、中国の華北には五胡十六国(316 - 439年)が興亡したのち、北魏・東魏・西魏・北斉・北周と続く北朝の時代となるが、これらの諸国家と倭国との外交や交易などについての史料は知られていない。

 

南朝との関係では、倭の五王と冊封関係にあったことが知られている。

出典 Wikipedia

2021/08/24

日本の宗教文化(3)

日本人の生活

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 以上をまとめて「日本」というものを描いてみましょう。

 

日本人は、以上の原理を巧みに使い分けて生活法を作り出したと言えます。すなわち、日常の生活は原理的には「古神道」となりますが、そんな宗教性などほとんど意識せず、単なる「生活習慣」として「繁栄」「成功」「災厄の除去」を願いつつ生活し、現在の日本人もそうしています。

 

昔にあってはその繁栄は「農耕民族」のあり方から「家中心」となって、社会的存在としての人間としては「お家のために」という倫理観を作っていきました。「」とは結局「家父長制」となり、ここでの倫理観は当然封建的となります。「」とは「集団に殉ずる心」をいい、皆のために「泥を被る」を美徳とします。

 

 西洋民主主義の下に育った筈の現代ですら、日本人はこの感覚を頑なに保持しており、また何かの集団に属すること、皆と同じであることに安心する「集団帰属性」を強く持っています。他方これには大きな利点もあって、この「集団制」は「三本の矢」にたとえられるように誰に対しても「強く」、また束ねられた稲にたとえられるように「倒れず」、また内部にいる限り「互いに助け合う」ことが必須であったために、弱い者も「生きて」いけたのです。欠点は「個人」というものが認められず、民主主義とはそりが合わない点にあります。

 

 さらに日本人は「社会統治組織」として「儒教」を用いましたが、それは日本古来の「家父長制」と儒教がうまく一致していたためで、こうして「公・私の別」「男性優位」「年長者優位」の組織が作られ、ここから「年功序列」の制度なども確立しました。これにも実は大きな長所もあって、これは「秩序の確立と維持」において優れた制度なのです。欠点はもちろん「封建制」そのものの代表みたいなものであることにあります。

 

 また一方、「一人一人の人間としての倫理」は「仏教」に求め、「地獄の思想」、「バチの思想」を強調することで「悪事」への抑止力としました。また意識化されたところでの神道は「死」を穢れとしたため、庶民の持っていた祖先への思いとしての「祖先崇拝」がうまく処理できず、そこでその「祖先崇拝」という役割も「仏教」が受け持つことにされていきました。

 

 さらに日本人は「日常生活」、「社会組織」の面において、これをうまく運営していくために「呪術」を用いていきました。ただし、これは古代人全般に観られる現象ですが、日本はそれが非常に高度に組織化されていたことに特徴があります。

 

 その最大のものが中国思想での「陰陽道(おんみょうどう、おんようどう)」となります。これは、元来は「天地の理法」に基づいた「自然現象」の調和のあり方を観る「呪法」でしたが、ここから時代が下がるにつれて「人間の吉・凶」の占いから、さらには「魔物退散」にまで拡大されていったものです。簡単に紹介すると、以下のようです。

 

陰陽道

 この宇宙は「陰・陽」と「木・火・土・金・水」の五つの要素から成り立っているとします。これを陰陽五行説と言います。陰陽は「月・太陽」に代表され、「夜・昼」、「秋・春」、「北・南」、「女・男」といった対極に当てはめられます。この陰陽は「木・火・土・金・水」の五行において現れ、それによって自然界の現象の様々が現れてくるとします。

 

 したがって、この五行に対する陰陽の働きが読み取れれば、自然界の流れが読み取れるわけで、それはまた自然物の一部である人間への作用の如何も読み取れるとされます。

 

 こうして「方位方角、位置、運動、時間などの吉・凶」が占われます。ところが、この五行にはさらに「十干・十二支」と呼ばれる分類要素が加わってくるため、この組み合わせの数は膨大な数となってきます。

 

 十干とは五行に「兄弟(えと)」が加わってでてくるもので「甲(きのえ)乙(きのと)丙(ひのえ)丁(ひのと)・・・」などとなります。十二支とは「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)」であり、これが加わると例えば「丙午(ひのえうま)」などとなります。

 

これは、ようするに五行の「火」に十干を出す「兄弟(えと)」の「兄(え)」が加わって「丙(ひのえ)」となり、これに「午(うま)」が加わったものをいいます。陰陽道は、これが出現した年を「火災」が多いと判ずるのですが、それは「火」の「兄」でありしかも「午(うま)」とは南を指すからというわけです。

 

 私達が家を建てる時の「鬼門」といった概念もここからでているもので、玄関の位置、床の間の位置、台所の位置、庭の配置、池の向きなどなど、すべてに渡って吉・凶が占われてくるのです。

 

 「風水」というのは、元来は「風や水」の流れの如何を読んで人間への影響をいうものですが、これにもこの陰陽道の影響の下にあります。

 

 そして現代人は、今でも結婚式などでの「大安」にこだわりますが、これも陰陽道による「吉日」の判定です。一方、後代の陰陽師は「呪法」を用いて「式神」などを手繰り「魔物退散」を司りますが、ここでも重要なのはその「魔物の正体」の判別であって、「何にせよ厄がとりつかないように」といった類の曖昧な呪法ではありません。

 

 さらには「仏教での呪術」がありますが、これは「魔物退散」というよりむしろ「魔物がとりつかないように」というタイプの呪法で、主に朝廷において用いられました。すなわち「陰陽道」は物事の「吉・凶」の判断に用いられ、仏教が「魔物退散」に用いられたというわけです。

 

伝統的日本文化の特質

 分かりやすく日本の文化の特質を簡単にまとめると、以下のようになります。

 

政治・・・中国の「天子」に代わる「天皇」による国家体制。中国の君主制、官僚制から学ぶ(律令制など)

 

生活・・・日本民族の伝統の「古神道」に基づき「繁栄」を祈り、「祭り」、「祭儀」で節目をつける。

死後の事、祖先のこと、難儀のことはインド・中国経由の「仏教」で祈り、儀礼を行い「救い」を求める。

 

文学・・・中国の文学から学ぶ。文字は中国の漢字をそのまま採択。

 

芸術・・・仏教の教えの絵画的表現。また仏像彫刻。中国の「彩墨画」の技法に学ぶ。

 

学問・・・中国の「四書・五経」。および「仏典」。

 

演劇・音楽・・・中国の宮廷儀礼の作法に学び、音楽は「雅楽」、演劇は中国的「京劇」の流れにある「歌舞伎」など様式美の追求。

 

 これらは明治以降に始まり、戦後顕著となる「西洋化」によって消失したり、衰弱したりしたものが多いですが、しかし、依然として生命力を保って居るものも多いです。

2021/08/16

古墳時代(2)

時期区分

考古学者の中には、3世紀半ば過ぎに前方後円墳が出現したと考えられている説がある。3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期としている。しかし、文献史学者や一部の考古学者の中には、3世紀末以前の古墳時代開始に疑問を持ち、実際には4世紀初頭から前期に始まるとも見られている。

 

実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半頃、関東では8世紀の初め頃、東北地方では8世紀の末頃でほぼ終わる。時代名称はこの時期、古墳の築造が盛んに行われたことに由来する。

 

古墳時代出現期

3世紀半ば過ぎには、出現期古墳が現れる。前方部が撥形に開いているもので、濠が認められていないものがある。中には、自然の山を利用しているものもあり、最古級の古墳に多いと言われている。埴輪が確認されていないのが特徴である。葺石なども造り方が定まっていないようにも思われる。また、魏志倭人伝を根拠に、248年頃に死亡したとされる卑弥呼の墓が円墳だったとする説があるが、墓そのものが特定されていない。

 

この時期の主な古墳

      福岡県京都郡苅田町、石塚山古墳(邪馬台国九州説の一説では、女王卑弥呼の墓と目され、最古級の前方後円墳。造営当初は130メートル以上か。築造時に、墳丘に複合口縁壺が樹立されていたと推定されている)

 

      大分県宇佐市、川部・高森古墳群の赤塚古墳(57.5メートル、周囲には幅8.5 - 11メートルの空濠が巡る)

 

      奈良県桜井市太田字石塚、纒向石塚古墳(96メートル、後円部は不整形円形で、前方部は三味線の撥状に開いている。葺石および埴輪は用いられていない)

 

      京都府木津川市山城町、椿井大塚山古墳(推定175メートル、自然の山を利用している)

 

      奈良県天理市柳本町、黒塚古墳(130メートル、撥形であることが分かる。また周濠を持っている)

 

      静岡県沼津市東熊堂、高尾山古墳(62メートル、前方部と後方部の長さがほぼ同じで、周濠を持つ。葺石および埴輪は用いられていない)

 

箸墓古墳

3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土している。

 

それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。この頃、円筒埴輪が盛行。土師器が畿内で作られ、各地に普及すると、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。また、福岡県の沖ノ島ではヤマト王権による国家祭祀が始まった時期とされる。

 

この時期の主な王墓

      奈良県桜井市、箸墓古墳(邪馬台国の女王卑弥呼の墓と目され、最初の王墓。280メートルの前方後円墳、造営は3世紀後半説)

 

      奈良県天理市、大和古墳群の西殿塚古墳(219メートル)

 

      奈良県天理市、柳本古墳群の行燈山古墳(242メートル、伝崇神陵)

 

      奈良県天理市、柳本古墳群の渋谷向山古墳(伝景行陵、310メートル)

 

この時期の王に準じる規模と内容の主な墳墓

      奈良県桜井市、桜井茶臼山古墳(280メートル)

      奈良県桜井市、メスリ山古墳(240メートル)

 

主な首長墓

      山梨県甲府市、甲斐銚子塚古墳(168メートル)

      岡山市、神宮寺山古墳(約150メートル)

      東広島市 三ツ城古墳

 

古墳時代中期

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)

5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化した人物埴輪が現れた。5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。

 

5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。

 

5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓が造られ始め、また、装飾古墳が出現し出した。

 

畿内の盟主墓

      大阪府堺市 大仙古墳(伝仁徳天皇陵、525メートル)

      大阪府羽曳野市 誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵、420メートル)

      大阪府堺市 上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵、365メートル)

 

一部の地域首長古墳が巨大化

      岡山市 造山古墳(360メートル)

      岡山県総社市 作山古墳(270メートル)

      群馬県太田市 太田天神山古墳(210メートル、濠を入れると約320メートル)

 

古墳時代後期

6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。

 

古墳時代後期の大王陵

      今城塚古墳(大阪府高槻市、真の継体陵、墳丘長190メートル)

      河内大塚山古墳(大阪市松原市、墳丘長335メートル)

 

前方後円墳最終段階の大王陵

      見瀬丸山古墳(欽明陵と推定される、全長318メートル、奈良県橿原市)

      太子西山古墳(伝敏達天皇陵、全長100メートル未満、大王陵最後の前方後円墳)

 

6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行。埴輪が畿内で衰退したことで、関東で盛行するようになった。西日本で群集墳が盛んに造られた。

 

古墳時代終末期

石舞台古墳

全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、方墳や円墳、八角墳がもっぱら築造されるようになる。この時期の古墳を終末期古墳という。646年の薄葬令で古墳時代が事実上終わりを告げた後も、東北地方や北海道では墳丘墓の築造が続き末期古墳と呼ばれるが、末期古墳が古墳であるかどうかについては議論が分かれる。

 

終末期の古墳の代表的なもの

      大堤権現塚古墳(千葉県山武市大堤古墳群、終末期最大の前方後円墳、三重の周溝を含み全長174メートル)

      浅間山古墳(千葉県印旛郡栄町龍角寺古墳群、最後の前方後円墳、全長93メートル)

      龍角寺岩屋古墳(千葉県印旛郡栄町龍角寺古墳群、終末期最大の方墳、78×78メートル)

      春日向山古墳(大阪府南河内郡太子町磯長谷古墳群、現用明天皇陵、63×60メートルの方墳)

      駄ノ塚古墳(千葉県山武市板附古墳群、62×62メートルの方墳)

山田高塚古墳(大阪府南河内郡太子町磯長谷古墳群、現推古天皇陵、63×56メートルの方墳)

      総社愛宕山古墳(群馬県前橋市総社町、総社古墳群、一辺55メートルの方墳)

      宝塔山古墳(群馬県前橋市総社町、総社古墳群、54×49メートルの方墳)

      石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村島庄、蘇我馬子の墓と推測、一辺約50メートルの方墳、全長19.1メートルの横穴式石室)

      八幡山古墳(埼玉県行田市藤原町、若小玉古墳群、径66メートルの円墳)

      山室姫塚古墳(千葉県山武市松尾町山室、大塚古墳群、径66メートルの円墳)

      壬生車塚古墳(栃木県下都賀郡壬生町壬生、車塚古墳群、径62メートルの円墳)

      牧野古墳(奈良県北葛城郡広陵町、押坂彦人大兄皇子の墓である可能性が高い、径43メートルの円墳)

      ムネサカ1号墳(奈良県桜井市、中臣氏一族、径45メートルの円墳)

      峯塚古墳(奈良県天理市、物部氏一族、径35メートルの円墳)

      高松塚古墳

      キトラ古墳

出典 Wikipedia

2021/08/14

日本の宗教文化(2)

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近代民主主義の正体

 他方「民主主義」を初めとした社会科学の受容は第二次世界大戦の後であり、これは敗戦に伴って伝統的な「天皇中心の封建体制」の打破を求められたところから起きたものです。ただ近代民主主義は、フランス革命の理念を骨幹としており「自由・平等・博愛」といった三本の柱を持ったものでした。ところが、この民主主義は「制度的には」古代ギリシャの民主主義を踏襲していますけれど、この背後にある精神は西洋が1000年にもわたって守り続けて西洋人の血肉となっていた「キリスト教」にあり、とりわけ「博愛」というのが入っているのが、古代ギリシャの民主主義と大きな違いとなっています。

 

 しかし日本は西洋の受容に当たっても、このキリスト教は全く理解できず、民主主義についてもそれを「表面的な制度」としては受容しましたけれど、訳の分からない「博愛」の精神は棚に上げて、その代わりに日本的な「」の精神を持って代替しようとしました。

 

 しかし、これは無茶な話で、そのため日本のいわゆる民主主義は西洋の概念からする民主主義とは全く異質のものとなってしまい、西洋型の民主主義は「個人」を基本とするのに対して、日本は結局は「家父長制度」「お上意識」「和(集団に同調する意識)」を濃厚に残してしまいました。

 

ちなみに「平等」というのは、すべての人間は「神の前に等しい」というキリスト教の精神でした。「自由」というのは、すべての人間は「神の前に平等」なのだから、その平等なる人間が、不当にその身体・財産・思想・信条・感情などを束縛されてはならない、という「神の前に等しい人間としての自由」をいうものでした。

 

博愛」というのは、当然「その神の前に兄弟・姉妹」であるすべての人類を、文字通り「兄弟・姉妹として愛する」というものです。

 

 しかし日本がこのキリスト教に基づく民主主義から、キリスト教的色彩をすべて取り払って受け入れたというのは、まさに日本的な「外来精神の受容の典型」であったといえます。つまり、日本文化の原点・模範となっている中国文化は「母親」みたいなものでしたから、その文化の受容も無理なく細部まで行われていたのですが、それでもやはり日本的に改変・展開させていくのです。この「原日本的な精神」を決して譲らないところが、実は「異質な文明」であった「仏教」の受容に当たってはっきり現れて「神仏習合」という形にしていたのであり、とりわけ異質な西洋文化の場面で、より明白な形で示されたのです。

 

日本的精神

 この「譲らない」日本的精神とは何なのか、これは原日本人以来の「集団・家族」を原点としてものを捕らえるという精神といえます。これは「和」を大事にし「集団に同調すること」「集団のために働き、犠牲となる」ことを「美徳」と呼んできた日本人のあり方です。ですから宗教にしても「家の宗教」という形になって「個人の信仰告白」など要求されませんし、それはさらに「村ごと、集落ごとの宗教」となってきます。

 

 実際、日本人ほど「村八分」を怖がる民族は少ないようで、最大の「いじめ」が「しかと・無視」という形になったり、何より「他人の目」をおそれ、「みんなと一緒」ということに安心します。「出る杭は打たれる」からです。

 

 他方、「民主主義」は「個人」を原点とします。「神の前に自分が悔い改める」ことが要求されるのです。こうしたギャップの無理解が、最近の日本で大きな問題となってきていると言えます。以上を整理してまとめてみると、以下のように整理できます。

 

古神道

 「神道」といってもいろいろなのですが、ここでは「日本人の習俗・習慣」の宗教的表現を「古神道」と名付けておきます。日本人のものの考え方、習慣、文化の原点ですが、「神道」などと宗教的には意識されていません。

 

 古来「祭りや祭儀」として生活の中にあり「生活習慣」となっているもので、年神を迎えて「正月」を寿ぎ、祖先の霊を供養し、豊作を祈って祭り、一年や生涯の節目節目に祝い、太陽や雨に感謝し、山や海に畏敬の念を持ち、木々や土地を大事にする「自然崇拝の心」の現れです。これは今日でも地方的祭り、神社の祭礼などに形として残ってきます。しかし「西洋文化」の受容と同時に「自然崇拝」の心は非常に薄くなってしまいました。

 

物の考え方としては、具体的な生活を重視し「繁栄」を第一とします。これにプラスになるものが「善・正・美」でありこれにマイナスとなるものが「悪・不正・醜」とされます。ここから「自然崇拝」と「家族制の尊重」が生じ、良い面としては「労働を尊重し」「自然を大事にし」「家族・集団の秩序・和を尊び」「自然や人に感謝する」ということがありました。古代の日本的倫理観の根源は、ここに多くがあります。

 

 しかし戦後、ここにマイナスの要因が見られるようになりましたが、それはこの体制が家父長制という「封建制」と結びついていて「個人の自由・平等」がなかった点、家族・身内意識の裏に「内・外」という「排他的感覚」があったこと、「個人が集団の犠牲にされる」「能力より年長という非能率」などなどが指摘されました。

 

 この反省のもとに、戦後に西欧の民主主義を導入したのですが、確かに「封建制」は少なくなりましたが、その代わりに古来の良い面も同時に失われていきました。

 

仏教

 日本の受容した仏教のものの考えかたとして、もっとも重要だったのは「来世の幸福」を教えたという点でしょう。「古神道」は現世の繁栄幸福を司るものでしたから「来世の幸福」という観念は、ほとんどありませんでした。ここで「仏教によって死後、仏の極楽世界に行ける」という庶民の願望が満足されるようになったのです。日本では生前の祈りはほとんど神社に行くのに、葬式だけは仏教でやるのはこのためです。

 

ここからまた「極楽に行くために悪いことはしてはいけない」「罰があたる」といった倫理観も生じた。また仏教は「苦しみの世界からの脱出」ということを主張していたことから「苦しみ、病気などからの救済」ということも期待されました。

 

儒教

 中国思想のもっとも代表的なもので、それによって古代日本の支配者は「社会組織」を形成し、さらにそれに関わる社会的倫理観を思想的に体系付けました。基本の構造は「(これは、とりあえず難しいことは抜きにして、西洋的には「」としておいていいでしょう)」の思想で、宇宙万物は天に由来し天に従って動いているとする思想です。

 

 ここから

 

「人間は天に従わなければならない」

「天はその子(天子)を地上に遣わしているので、人民はそれにしたがわなければならない」

「親は子供にとって天と同様であり、したがって子どもは親に服従すべし」

「夫(男性)は妻(女性)にとって天と同様であり、したがって妻(女)は夫(男)に服従しなければならない」

「年長者は年少者にとっては天と同様であり、したがって年少者は年長者に従わなければならない」

「友人同士は対等であり、互いに相手に対して尽くさなければならない」

 

という教えとなります。これを一般に「人倫五常」などと呼んでいますが、完全に封建的な思想で「支配者」にとってこれほど都合のいい思想はまたとないので、今日でも保守的な人々によって明に暗に復活が望まれています。

2021/08/12

ヘブライの民族(ヘブライ神話18)

出典httpwww.ozawa-katsuhiko.comindex.html

 

 オリエントの東部は、紀元前3000以前から2000年くらいまで栄えたメソポタミア文明を形成したシュメール人からはじまり、その文明は2000年代にこの地を支配したセム族のアッカド、さらにそれが北部のアッシリア、南部のバビロニアと引き継がれていたわけですが、一方西部の方も同じセム族の民族が活動していました。

 

 セム族がオリエント地方に姿を現し始めたのは紀元前3000年頃からとされますが、それは東部のアッカドだけの話ではなく、西部も同様であったと考えられています。そして紀元前2000年代に入ってウガリト王国が北部のシリア地方にあって栄え、さらにフェニキア人が台頭し、またさらに紀元前1000年代の終わりに南部のパレスチナ地方にヘブライ(イスラエル・ユダヤ)人の王国が形成されるのでした。

 

そして、この民族の結束を図るために、セム族に共通の神バールに代えて、自分たち独自の神ヤハウェを主張していったと考えられます。ですからその限り、相当に政治的な意味合いの強い神であったと言えます。

 

 ところで、その「ヘブライ」という言葉ですが、私達は通常「ヘブライ人」「ヘブライ語」「ヘブライ神話」などという言葉を使う一方で、同じ民族のことを「イスラエル人」とか「ユダヤ人」とか呼び、その宗教は「ユダヤ教」と呼んでいます。この言葉の使い分けは複雑ですが、とりあえずは「同じ民族」を指しています。

 

イスラエルというのが一般的な名称のようで、ヘブライというのは「貧しい流浪の民」という軽蔑的な言葉だったようですがやがて定着してしまい、特に古い時代を意味させるときはヘブライという言い方をしています。

 

やがて後代、ユダ王国を形成してペルシャ支配時代にユダヤ教を成立させてからは、ユダヤという言い方をするということで理解しておいてください。

 

ユダヤ教の形成までの民族史

 さて、このヘブライの民族が作り上げた宗教ですが、その民間信仰の時代からユダヤ教が成立するには、次のようないきさつがあります。

 

 すなわち、ダビデ王の下にヘブライ人が作り上げた国家が、その子ソロモンの死と共に早々と分裂して北のイスラエルと南のユダに分裂し、やがて北のイスラエルがアッシリアによって滅ぼされ、南のユダもバビロニアに占拠されて結局イスラエル民族の国家はここに消滅します。

 

そしてユダの市民は、バビロニアにつれて行かれてしまいます。これを通常バビロン補囚と呼んでいますが、それは台頭してきたペルシャがバビロニアを滅ぼしたところで終わり、寛大であったペルシャは、ユダの市民を支配はしましたが、バビロニアから解放してやり故郷に帰ることを許してあげたのでした。

 

 そしてユダの市民は故郷に帰って、自分たちの不運を嘆きながら、これは神への信仰が薄かったからだと反省して、これまでの民間宗教的であった宗教を確実な宗教体系に作り上げていったのです。それを私たちは、ユダヤ教と呼んでいるのでした。

 

こうして、紀元前六世紀後半から五世紀にかけて、ユダヤ教は意識的に形成されていったわけで、その性格は「ユダヤ人(イスラエル人)のユダヤ人によるユダヤ人のための宗教」という特質を持ちました。もちろん、それはそれ以前の「ヘブライ神話」を整理したものです。その神話は、後に『旧約聖書』とされてキリスト教に入り込み、そこでも重視されるところから「モーゼの出エジプトの物語」「十戒」など映画などにもなって良く知られた物語となりました。

 

ユダヤ教というのは、結局のところこうしてユダヤ(イスラエル)民族史と関連して形成されたものですので、ここで先ずイスラエルの「民族史」から見ていきましょう。それは「創世記」と「出エジプト記」に記された物語となりますが、その大雑把な筋は次ぎのようになります。

 

 先ずメソポタミア地方のウルに居たアブラハムという人物に神の声があって、彼は都市ウルを出てハランを経由してカナンにたどり着きます。ウルというのは、ユーフラテス河の下流です。そしてカナンというのが、現在のパレスチナ地方で後にユダヤ(イスラエル)人の国家が創設されるところでした。

 

つまりアブラハムは、東のメソポタミア地方からはるか西へと移動していったわけです。神は、この地方をアブラハムの子孫に与えると約束したといいます。この約束がユダヤ教の核となるのであって、ユダヤ教とは、この神の約束の実現を目的としたものなのでした。ですから宗教としては非常に現実的・現世的なものですが、これは豊穣を願う原初の宗教の基本的姿とも言えます。

 

 さてアブラハムの妻は、神の予言があって男の子イサクを生みます。ところが神は、このイサクを神への犠牲として差し出せなどと命令してきました。これは祭壇のところで喉を切り裂き命を捧げるということですからアブラハムは悩みますが、神の言いつけということで祭壇を築いてイサクを犠牲として殺そうとします。そこに神の使いが現れて、アブラハムの信仰の厚さを讃えます。つまり試したというわけでした。同時に合格したアブラハムは、神に祝福されたということになります。

 

 こうしてイサクは助かり、やがて結婚してエサウとヤコブの双子を得ました。エサウの方が長子で継承権を持っていたのですが、母はヤコブを愛していてヤコブに悪知恵を授け、ヤコブはそれに乗って老齢のため良く目が見えなくなっていた父イサクを騙してエサウと偽って、その継承権を奪ってしまいました。このヤコブが、一名イスラエルといい、イスラエル民族の名前となります。

 

 イスラエルという名のヤコブは、妻を四人持って十二人の子どもを得ます(後代のイスラームが妻を四人までとしたのは、宗教的にはこれが根拠と思われる。イスラームのアラブ人も、自分たちの始祖をアブラハムとしているからである。)。

 

この12人の子ども達が、いわゆるイスラエル12部族の祖とされるわけです。ところがヤコブは末子であるヨセフだけを贔屓し、そのため他の子どもたちはヨセフを妬みます。その上ヨセフは、自分が皆の上に立つ夢を見たなどといったので、さらに憎まれてしまいます。そこで兄弟たちはヨセフを殺してしまおうとしましたが一部の兄弟は反対し、穴に落としておこうとしましたが、そこにエジプトの隊商が通りかかってのでヨセフを彼等に売り払ってしまいました。

 

 ヨセフはエジプトにあって召使いとして仕えていましたが、ある事情から王様の夢を解いてやり、登用されて大臣にまでなっていきました。そうした時、飢饉になってヨセフ達の兄弟がエジプトにやってきて再会し、ここでヤコブ(イスラエル)達はエジプトに住むことになったというわけでした。

 

 彼等の処遇も始めの頃は良かったのですが、やがて時代が経ってヤコブの子孫達は疎まれるようになって奴隷化され、ここでモーゼが出現してエジプトを脱出していくという物語になっていくわけです。

2021/08/09

最終日のサプライズ(2020東京オリンピックpart16)

■自転車

女子オムニアム、梶原悠未が銀メダル獲得! 自転車競技の日本女子としては初

競輪発祥国」としてメダルを期待されながら、毎回なかなか結果が出ない自転車競技。今大会も、ようやく最後に「銀」ひとつを獲得するのがやっと。

 

■バスケットボール女子

「お家芸」ともいえる野球、ソフトボールは別として、日本選手が弱いのは球技だ。

特にバレーボールとともに、このバスケットボールも基本的に「高さ」が武器となる競技だけに、体格に劣る日本人は常にハンディを背負って戦うようなもの。特に近年のバレーボールに見られるような「パワーゲーム」が主流となっている潮流では、益々「参加に意義」でメダルは程遠いと思われた。

 

そんな中、日本のバスケットボール女子が、まさかの快進撃(?)を演じた末、「オリンピック7連覇」という王国アメリカとの決勝に挑む・・・大会前には、全く予想しなかった展開で銀メダルを獲得したのだ。

 

「優勝候補」と称されながら、早々に敗退する競技も多い中、このようなサプライズがあっても良い。予選ラウンド3連敗で、あえなく敗退した男子とは何たる違い!

 

■大会前の予想記事を検証

東京五輪のメダル獲得数を巡る海外大手通信社、分析会社の予想が出そろってきた。開催国の日本は前回2016年リオデジャネイロ大会の過去最多41個を大幅に上回る60個以上のメダルラッシュが見込まれ、金メダルも過去最多16個から倍増に迫る勢いだ。

→ 獲得したメダルは「58個」だから、かなり精緻な予想と言えるが、金メダル「倍増」は盛り過ぎだった。

 

スポーツデータの分析、提供を行う米国の専門会社「グレースノート」は20日、東京五輪のメダル予測を更新した。獲得総数で首位は米国の96個(金40銀27銅29)。

→ アメリカは、113個(金39銀41銅33)と、予想を大きく上回った。

 

2位ロシア(今大会は個人参加扱い)の68個、3位中国の66個

→ ロシアは71、チャイナは予想を大きく上回る88

 

に次いで、日本は4位の60個(金26銀20銅14)と予想した。

→ 日本は58個(金27、銀14、銅17)だから、かなりいい線。特に金メダルの数は、殆ど「的中」だった。

 

開幕100日前の4月14日時点では、日本の総数はほぼ横ばいの59個(金34銀16銅9)と予想されたが、大部分の競技が無観客開催となった影響か、金メダルの数が目減りする形となった。

 

 一方、AP通信が19日に発表した予想では、日本のメダル獲得総数は69個(金27銀25銅17)だ。ただし、金メダル候補とされた男子50キロ競歩の鈴木雄介は故障で6月に出場辞退を表明しているため、実質は同競技で銀メダルと予想された川野将虎が金に繰り上がり、総数は68個となる。

→ こちらは、なんと金と銅の数がピッタリ!

 

 競技別でみると、柔道では男子66キロ級の阿部一二三、女子52キロ級の詩による兄妹ダブル金を含め最多の16個(金11銀3銅2)、

→ 金8個はかなり上出来と思ったが、元々はそれ以上に評価されていたらしい

 

レスリングで7個(金3銀3銅1)

→ 女子だけで「金4」だから、やはり女子の頑張りが光る

 

競泳で5個(金1銀2銅2)など、

→ 金2個の大橋選手に救われた。他は振るわず

 

お家芸で固め取りが期待される。

 

注目選手ではテニス女子シングルスの大坂なおみ、体操男子鉄棒の内村航平、バドミントン男子シングルスの桃田賢斗らも順当に金候補入り。

→ こちらお三方は、そろって予選または早々に敗退

 

ほかに野球、空手、スケートボードなどが金、ソフトボールは銀、サッカーは男女とも銅との見立てだ。

→ 野球、ソフトボール以外は、やや期待より低かった

2021/08/08

「日本野球」世界を制す(2020東京オリンピックpart15)

女子ゴルフ

3位タイの好位置で3日目を終えた稲見。とはいえ、3位に4選手が並んでいただけに「五輪初のメダル」は容易ではないと思われた最終日。

 

ところが、この日は6アンダーの猛チャージで一気にトップに迫る勢いだから、マスゴミの騒ぐまいことか。

 

「金」には僅か1打及ばなかったものの、2位タイまで浮上しプレーオフとなる。この時点でゴルフ男女を通じて「日本初のメダリスト」の快挙は決定したが、プレーオフも1発で勝利を決め、見事「」を射止めた。

 

快挙を前にしたプレッシャーは微塵も感じさせず、淡々とプレーする稲見。22歳の若さにしてあの落ち着きっぷりは、やはりただモノではなかった。

 

■空手

この日は、男女ともにメダルが期待されたが、男子組手75キロ超級の荒賀は銅、女子組手61キロ級の植草に至っては、まさかの予選敗退だ。

空手は「発祥国」としてメダルラッシュが期待された。型は男子が「」、女子が「銀」とまずまず面目を保ったものの、組手の方は男女6階級で「銅」がたったひとつという予想外の「惨敗」に終わってしまった。

 

■レスリング

柔道とともに好調なレスリング。最終日のこの日は、ここまでの好調ぶりを象徴するように「男女アベック」で締めくくった。

ここまで金が獲れなかった男子は、最後の最後で待望の金メダリストが誕生。

一方、女子の方は、伊調、吉田というレジェンド2人が退きながら、新しい力が芽吹いての「4階級制覇」は素晴らしい。

 

中でも圧倒的な存在感を見せつけたのが、最終日の須崎選手だ。1回戦から決勝までの4試合を、すべて「10-0」(準決勝は「11-0」)と、1ポイントすら許さない圧勝で、全競技の見渡してもここまで完璧な勝ち方はないと思われる「異次元の金」であった。

 

■野球

決勝。アメリカ先発は、ソフトバンクに所属するマルチネス。緒戦相手だったドミニカ先発、巨人のメルセデスにもかなり手こずったが、予想通りこの日のマルチネスにも苦戦。3回に村上のソロホームランで先制したが、なかなか攻略の糸口が見つからず、緊迫した展開となる。

 

そんな貧打を救ったのが、充実した投手陣だ。

この日も森下、千賀、伊藤、岩崎、栗林と小刻みに繋ぐリレーで、アメリカ打線を寄せ付けず、遂に念願の優勝を果たした。

 

公開競技だった1984年のロス五輪で優勝した後、正式競技となってからは、どうしても取れなかった待望の「」を、ようやくプロ野球選手が手にした。

 

勝負は結果がすべてであり、ましてや野球はプロの代表チームなのだから、絶対的に結果が求められる。結果が出なかった過去のオリンピックでは、辛辣なくらいにボロカスにこき下ろし続けてきたてワタクシだが、今回ばかりは「優勝」という結果を出したのだから文句はない。

 

内容的には紙一重のような接戦ばかりだったが、それでも5連勝であり、勝って当然とはいえ憎いK国や「母国」アメリカにも2連勝したのだから、まずはこれ以上望めない「結果」である。

 

この勝因は、なんと言っても投手陣の頑張りに尽きる。殆ど完璧に抑えたといってもよい。アメリカはメジャーの一線級は出ていないから、3A~2A辺りが主力なのだろうが、このクラス相手なら日本の実力が上と証明した。

 

ただし、投手陣に比べると、打者の方はまったく物足りなかった。日本に出稼ぎに来ているような、アメリカでは二線級の投手すら満足に攻略できないのだから、これでは日本の野手はまだメジャーで通用しないといわれても仕方ない。一部の投手はメジャーで通用するかもしれないが、野手はどれもファームレベルというところか。