2019/03/30

死後 ~ 始皇帝(9)

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始皇帝個人
始皇帝自身については、天下の様々な事務を大小となく自ら決済したという、恐るべき逸話がある。その様は「天秤で書類の重さを量り、それを昼と夜の分に分けて、すべて処理するまでは休まなかった」といわれている。もっとも、その資料は上述した予算を引き出しながら逃亡した方士の捨て台詞であり、「それほどに権勢欲が強かった」と非難めいた口調で締めくくられている。

一方、始皇帝は自分の一族を「」に任命して、土地を与えることはしなかった。皇族といえども、任務についていない以上は、形式として「無位無官の匹夫」として扱っていた。これは韓非子の述べる「近親・寵臣・寵姫は、すべからく政治の不安定要因となる」という論に従ったものであろう。そのせいもあってか、史書に始皇帝の皇后や寵姫などは名前さえ伝わっていない。

また秦の宿将たる王翦は、始皇帝について、
「その性は暴であり、ひとたび疑いを持たれれば、どのような命が下るかわからない」
という評を残しており、敢えて任務成功時の報酬ばかり考えている浅はかな将軍を演じることで、始皇帝からの疑いを避けた。

なお、先代秦王・荘襄王の子ではなく、母・太后と丞相(総理大臣)の呂不韋の間の子とする説もある。というのも、趙太后はもともと呂不韋の愛人であったのが、その美貌に惚れた若いころの荘襄王が頼み込んで譲ってもらったという経緯があり、実はこの時点で妊娠していたのではないか、と噂されたため。本人が、それをどう思っていたかは知る由もないが、のちに呂不韋は始皇帝に追放され、自害に追い込まれている。

始皇帝死後
始皇帝は、在位三十七年にして、巡業中の沙丘の地にて没した。このとき始皇帝は、北方にて蒙恬のところに預けていた扶蘇に、葬義を取り仕切るよう遺言を残した。事実上の後継者指名である。

しかし、この時行列に加わっていた末子の胡亥と、宦官の趙高が策謀を開始。李斯を抱き込み、始皇帝の遺勅を改ざんして、扶蘇・蒙恬・蒙毅(蒙恬の弟で始皇帝の側近)を死に追いやり、自らが皇帝に即位した。二世皇帝・胡亥とそれを擁する趙高は、即位後、庶皇子や宮女、大臣を粛清。後には李斯すら処刑される。

この状況下で、ついに陳勝・呉広の乱が勃発。秦朝は名将章邯の奮戦がありながらも、結局は劉邦・項羽の攻撃により、わずか15年で崩壊した。

ただ、秦帝国の政策は、その多くが前漢王朝に引き継がれた。蕭何は始皇帝時代の統治資料を陥落直後の咸陽からできるだけ回収し、後の全国運営の基礎とした。また、かつて始皇帝の命を狙った張良も、劉邦に封建制の非を説いている。

そして、以降の王朝は皇帝の絶対権力と、その手足となる官僚による統治機構を受け継いでいくことになる。

後世の評価
初めて中華統一を成した英雄だが、賛否両論にきっぱり別れた難物である。春秋戦国時代にピリオドを打ち、漢字の統一による文化事業、通貨や度量衡の統一による経済システムの確立や、街道・運河などインフラの整備といった革新的な社会事業に取り組んだ。特に始皇帝の文化事業によって、現在の中国文化圏がほぼ形成されたことは否定しようのない事実である。

反面、それらを民衆の生活現状・被侵略国の民という意識を無視して断行したこと、自らと政権に対する批判思想を弾圧したことも事実であり、煩瑣に過ぎる法律の制定や、万里の長城建設といった難事業の連発によって、民衆の不満を蓄積させたことが後の秦国崩壊の遠因にも成った。

それまで各国の王による、おおざっぱな統治が敷かれていた中華に法治主義を持ち込み、官僚主体の中央集権国家を築き上げた点も、非常に革新的ではあったが同時に民衆の不満を溜めることになった。

法治主義に慣れていた秦国は良いとしても、併合された諸国では「法による支配」という概念そのものに理解が及ばず、当時は法律に縛り付けられることに嫌悪感を感じる層が大半であった。法の番人たる地方役人にも、法を手前勝手に悪用する輩が続出したため、秦の法治主義に対するマイナスイメージを助長してしまったことは否めない。

また、始皇帝は年々誇大妄想や傲慢さに拍車が掛かり、自己神聖化を推し進めたともいわれている。少なくとも不老不死を願い、その実現のため巨額の財を散じたこと、巡幸の先々で「始皇帝の統治を称える碑」を建て続けたことは事実のようだ。

呂不韋と嫪の反乱、その後の苛烈な粛清も、近年の研究では当時の「彗星の出現」という「凶兆」を利用し、むしろ始皇帝側から仕掛けたのでは、とされる意見も出てきている。

ただし、「史記・秦始皇本紀」には、開墾や移民に成功した住民への宴会の開催や、労役・賦税の数年に渡る免除、爵位の付与など、様々な褒賞を与えた記録も見られる。
上述の「立石碑文」のように、始皇帝サイドからの主張も(プロパガンダ色が強いが)歴史には残っている。

こういった功罪入り交じった業績故に、始皇帝は今でも論争の的となっている。

2019/03/29

始皇帝(8)

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概要
「泰皇から皇を残し、上古の帝位の帝と組み合わせて『皇帝』と呼ぶことにいたせ。
また、朕を始めとして以後は二世、三世と千万世に至るまでこれを無窮に伝えよ」
『うろおぼえ人間物語より』

五百年以上の長きにわたった春秋戦国時代を終わらせた、史上最初の皇帝。
秦の王が紀元前221年に戦国時代を制し諸国を統一した時の版図は、その時代の欧洲のどの王朝よりも広く、欧洲の全人口を合わせても足りぬほどの人間を「支配下」においた。これは今までの「」とは違う存在が誕生した瞬間でもあった。


生涯
紀元前259年~紀元前210
秦王国の第31代王にして、秦帝国の初代皇帝。在位紀元前246年~紀元前221年。
姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。
現代中国語では、始皇帝(シーフアンティ)または秦始皇(チンシーフアン)と称される。

統一以前
父・荘襄王が早く死亡したため、十三歳で即位した。
この父親は長く趙国に人質に出されており、幼いころの政も辛酸をなめている。
しかし、大商人の呂不韋がスポンサーとなったことで状況が好転し、間もなく帰国して数年後に父が即位。その父も三年で死に、始皇帝が即位した。

ちなみに、ふつう王号は死後につけられるおくり名であるが、始皇帝は王としては死ななかったために、王号を持っていない。
したがって、皇帝以前の彼をあらわすには「秦王・政」というしかない。
ここでは便宜上、始皇帝で統一する。

少年時代は宰相となった呂不韋に政務を任せていたが、実は呂不韋と趙太后(始皇帝の母親)は不義密通しており、さらに彼女に新しい情婦をニセ宦官として斡旋したところ、そのニセ宦官がクーデターを起こしてしまう。
それ自体はすぐさま鎮圧されたものの、推薦した人物が謀反を起こしたことから不韋は連座で追放に処され、以後は自ら政務を取り仕切った。

その後、兵法家の尉繚子やその親友・韓非と出会い、法家思想を学ぶ。
特に韓非が自身の思想を記した『韓非子』を読んだ時、

「この人に会えるのならば死んでもいい!」

と叫ぶほどの感激を受けており、のちにかなり強引な手法で招聘したが、韓非のライバルだった李斯の工作もあって、韓非を自殺に追い込んでしまった。

しかし始皇帝は韓非子の思想自体は継承し、秦の膨張政策を加速させた。
途中、趙国の李牧や楚国の項燕(項羽の叔父)に撃退される局面はあったものの、秦軍の圧倒的軍事力と外交策術でこれらを撃破。
紀元前221年に、ついに天下を統一した。

統一後
秦の始皇帝は、自分が「三皇五帝より尊い存在である」と言う考えから「皇帝」と言う言葉を造語し、自分に対する呼び名として使わせた。
以降二千年以上の長きにわたり、中国の支配者は皇帝を名乗ることになる。
彼は紀元前221年に中国統一を成し遂げた記念として「皇帝」を宣言、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。

義士として名高い荊軻を始め、後に劉邦の名参謀となる張良など、生涯多くの暗殺の危機に晒されたが、遂に誰も始皇帝を殺す事は出来なかった。

ちなみに、始皇帝によくある俗説として「不老不死を求めて長寿の薬だと信じられていた水銀(実際には人体には毒)を飲み続けた」というものがあるが、史書にそのような記述は一切ない。
というより、そもそも始皇帝は仙薬を入手していない(唐代後期の14代・憲宗、15代・穆宗、18代・武宗、19代・宣宗などが仙丹=水銀化合物を飲んで若死にしたが、その混同か)

統一後は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した。
まず第一に、法と官僚を中心とした中央集権体制を構築。
これまでの一族や配下に領地を与えて世襲統治させる封建制を終わらせ、中央から派遣する官僚が治める郡県制に転換した。

さらに、これまで各地で異なっていた漢字や貨幣、数進法の法則や度量衡などを単一のものに整備。
こうした数々の文化事業によって、一つの文化圏としての「中国」を事実上作り上げた。

始皇帝は巨大プロジェクトを実行し、初期の万里の長城や等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵および新しい宮殿・阿房宮の建設、国家単位での運河や街道などの交通規則・整備などを大規模に行った。
このために多くの囚人・受刑者が動員されており、これが彼への悪評の一つとなっている。
また焚書坑儒(後述)を実行した事でも知られる。

これら土木事業に動員されていたのは「史記」秦始皇本紀によると、犯罪を犯して逮捕された受刑者となっている。
この中には亡国の遺民が多く含まれており、始皇帝没後の反秦の大乱、その先駆けとなった陳勝・呉広は楚の遺民と伝わる。

一方で働かない・働けない人間たちに開墾を命じ、それら開墾・入植に成功した者たちには賦税や労役の免除を与えたという記録、「不直の治獄吏」すなわち権力を悪用した役人をも大量に逮捕して労役を科した記述もあり、始皇帝の立石碑文にも「黎庶に繇無し(繇=徭役、庶民に徭役は課さず)(三十二年)」とある。

焚書坑儒
始皇帝が発布した思想統制・弾圧事業と、その政権下で起きた政治事件である。

焚書」に至る経緯は、大臣の淳于越が宴席で始皇帝政策への反対を訴え、封建制に戻すよう論じたのが発端であった。
始皇帝はそれを会議に掛けさせ、李斯が再反論・献策をしたのでそれを認可した。

内容は、「博士官が所蔵するものと、秦国の史書、医・占・農の書を除き、民が所有するものは焼き捨てる。従わない者は顔面に刺青(罪人の証)を入れ、労役に出す。政権に対する不満を論じたてるものは族滅にする」というもの。

これは、秦以外の国史、「詩経」「書経」など旧来の思想につながる人文書籍を排除し、民間における思想、特に政権に対抗するものを止めようとする目的があった。
博士官とは「古今東西の書物を集めて管理する」ものである(のちにこの所蔵文書は、項羽に焼き払われた)。

坑儒」は「焚書」事件から一年後、始皇帝に不老不死の仙薬を作ると言って大量の予算を引き出し、できないと見ると始皇帝への誹謗を残して逃亡した方士が原因となる。
それを尋問したところ他の方士たちが互いに密告しあい、逮捕者が大量に出、抗殺される事件となった。

彼らの処刑理由は汚職と逃亡によるものであり、儒者であるが故の処刑ではないが、これを諫める長子・扶蘇の言葉から、相当数の儒者がこれに巻き込まれたとする説もある。
史記にはこの件で「儒」の文字は使われておらず、扶蘇の言は「孔子の法を誦(唱)える」とある。

このような始皇帝の政治には、法家思想、とくに『韓非子』からの影響が強く見られる。
法家思想とは、簡単に言えば『絶対権力者が、法を以って国家を統治する』という思想であり、始皇帝以前から秦は、この法家思想によって運営されていた。

ただし、この場合における「」とは、現代におけるそれとは概念から異なる。
法家が目的とするところは効率的な政治体制による富国強兵であり、いわゆる法の下の平等や思想の自由などは、むしろ強力に制限される傾向にあった(記録に残る最初の禁書令も、始皇帝以前の秦で行われたものである)

2019/03/28

評価 ~ 始皇帝(7)

暴虐なる始皇帝
始皇帝が暴虐な君主だったという評価は、次の王朝である漢の時代に形成された。

『漢書』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する。この時代には「無道秦」や「暴秦」等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した。漢は秦を倒した行為を正当化するためにも、その強調が必要だった。特に前漢の武帝時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した。

詩人・政治家であった賈誼は『過秦論』を表し、これが後の儒家が考える秦崩壊の標準的な根拠となった。修辞学と推論の傑作と評価された賈誼の論は、前・後漢の歴史記述にも導入され、孔子の理論を表した古典的な実例として中国の政治思想に大きな影響を与えた。彼の考えは、秦の崩壊とは人間性と正義の発現に欠けていたことにあり、そして攻撃する力と統合する力には違いがある、ということを示すというものであった。唐代の詩人・李白は『国風』四十八で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。

阿房宮や始皇帝陵に膨大な資金や人員を投じたことも、非難の対象となった。北宋時代の『景徳傳燈録』など、禅問答で「秦時の轆轢鑽(たくらくさん)」という言葉が使われる。元々これは穴を開ける建築用具だったが、転じて無用の長物を意味するようになった。

封建制か郡県制か
始皇帝の評価にかかわらず、漢王朝は秦の制度を引き継ぎ、以後2000年にわたって継続された。特に郡県制か封建制かの議論において、郡県制を主張する論者の中には始皇帝を評価する例もあった。唐代の柳宗元は「封建論」にて、始皇帝自身の政治は「私」だが、彼の封建制は「公」を天下に広める先駆けであったと評した。明の末期から清の初期にかけて活躍した王船山は『読通鑑論』で始皇帝を評した中で、郡県制が2000年近く採用され続けている理由は、これに道理があるためだと封建制主張者を批判した。

近代以降の評価
清末民初の章炳麟は『秦政記』にて、権力を一人に集中させた始皇帝の下では、すべての人間は平等であったと説いた。もし始皇帝が長命か、または扶蘇が跡を継いでいたならば、始皇帝は三皇または五帝に加えても足らない業績を果たしただろうと高く評価した。

日本の桑原隲蔵は、1907年の日記にて始皇帝を不世出の豪傑と評し、創設した郡県制による中央集権体制が永く保たれた点を認め、また焚書坑儒は当時必要な政策であり過去にも似た事件はあったこと、宮殿や墳墓そして不死の希求は当時の流行であったことを述べ、始皇帝を弁護した。

馬非百は 歴史修正主義の視点から伝記『秦始皇帝傳』を1941年に執筆し、始皇帝を「中国史最高の英雄の一人」と論じた。馬は、蒋介石と始皇帝を比較し、経歴や政策に多くの共通点があると述べ、この2人を賞賛した。そして中国国民党による北伐と南京での新政府樹立を、始皇帝の中国統一に例えた。

文化大革命期には、始皇帝の再評価が行われた。当時は、儒家と法家の闘争(儒法闘争)という面から、中国史を眺める風潮が強まった。中国共産党は儒教を反動的・反革命的なものと決めつけた立場から、孔子を奴隷主貴族階級のイデオロギー(批林批孔)とし、相対的に始皇帝を地主階級の代表として高い評価が与えられた。そのため、始皇帝陵の発見は1970年代当時の中国共産党政府によって大々的に世界に宣伝された。

藤枝晃は文字という側面から、始皇帝は君主が祭祀や政治を行うためにある文字の権威を取り戻そうとしたと評価した。周王朝の衰退そして崩壊後、各諸侯や諸子百家も文字を使うようになっていた。焚書坑儒も、この状態を本来の姿に戻そうとする側面があったと述べた。また、秦代の記録の多くが失われ、漢代の記録に頼らざるを得ない点も、始皇帝の評価が低くなる要因だと述べた。
出典 Wikipedia