2018/08/31

ペリクレス時代



 アテネ民主制発展の最終段階がペリクレス時代(前443~前429)です。ペリクレスというのは人名です。はい、この人。頭に重装歩兵のヘルメットを 載せているね。この人あだ名が「デカ頭のペリクレス」。頭が異常に大きかった。だから、それをごまかすためにちょいとヘルメットを載せて彫像を彫らせた とも言われています。頭が大きすぎて被れなかったのかもね。

ともかく、このペリクレスの時代にアテネの民主制は完成します。また、この時代、アテネそのものの絶頂期でもあったので、その時代の指導者の名をとって「ペリクレス時代」と呼んでいます。

民会、これが国政の最高機関です。18歳以上の男子市民による直接民主政。財産に関係なく、誰でも民会に参加できました。民会は今の日本で言えば国会だね。今の国会の審議はどうも気に入らない、一言物申したい、と思って私が国会に行っても中に入れてくれません。私、国会議員じゃないからね。国民に選ばれた者が国政について話し合う今の仕組みは「間接民主制」。アテネは直接民主政、ここがポイント。どちらが民主主義として理想かと言えば、誰でも物申せる直接の方がよい。そういう意味でこのアテネの民主政は、一つのお手本であるわけです。

もう一つのアテネの政治の特徴は、公職担当者を抽選で選んだ点です。今で言えば、総理大臣も裁判官も役人もくじで選ぶ。くじに当たったら誰でもそれをやる。これはいいことかどうか。少なくとも、役人は自分はエリートだからと威張らないだろうね。たまたまくじで選ばれただけだから腐敗もない。現代の官僚制と比較して、そういう点は評価できるのだと思います。

現在の政治経済は非常に複雑だから、抽選制を今実施することは不可能です。私が日本銀行総裁にあたっても、何をしたらいいか全然分かりませんね。この時代はポリスの規模も小さいし、それほど複雑な行政制度でもないので抽選でやれたんです。アテネの人々は、こういう政治制度を誇っていました。ある意味では徹底的に公平です。

政府の公職はくじで選んだのですが、例外があった。それが将軍です。戦争の指揮というのは、誰でも出来るものではない。ある種の才能や人望が必要です。もし無能な者が将軍になって、戦争に負けたら取り返しがつかない。だから将軍職は選挙で選びました。ペリクレスは、この将軍職に15年連続して選ばれたのです。その地位からアテネの政治を指導したわけ。だから完全に平等のように見えても、やはり指導者は必要だったんですね。

 古代ギリシア民主主義の陰の部分を見ておきましょう。ギリシアは奴隷制度の社会です。隷制の上に成り立った民主主義だったことを忘れてはなりません。このころのアテネの人口を見てみると、市民が18万。奴隷が11万くらいです。この奴隷は喋る家畜です。人間としての権利など全くない。この奴隷に働かせて、ぶらぶらしている市民達の民主政です。

もう一つ、市民でも女性は権利ありません。女は子供を産む道具です。民会なんかには出られない。それどころか、男達からは対等な人格を持った存在とは考えられていなかった。対等な人格がないんですから愛も生まれないの。男は女を可愛がりますが、たとえて言えばそれは私たちがペットの犬を可愛がるのと同じようなものです。

じゃあ、男は誰と愛し合うかというと、当然男と愛し合う。戦場で一緒に隊列組んで生死を共にするんだから、愛が芽生えるのも当然かもしれません。愛の形というのは、時代と共に変わるんですよ。

市民18万中、民会に参加できる成年男子人口は4万人。奴隷もいれれば、全人 口約30万人中の4万だけが参政権を持つ。そういう民主政だったわけです。

 民会はどのくらい開かれたかというと、年間40回くらい。だいたい一週間に一回の割合です。結構多いね。4万人全員が参加するわけではなくて、参加者はだいたい6000人位だったらしい。これがアゴラ(ポリスの中心にある広場)に集まって、わいわいがやがや。でも、6000というのはすごい数です ね。これがどんなふうに議論できたのか、ちょっと想像できませんね。弁の立つものが、順番にスピーチをしていたんでしょうかね。

ペリクレス時代のアテネは、ギリシア諸ポリスのリーダーでもありました。サラミスの海戦でペルシア軍は撤退しましたが、またいつ攻めてくるか分からない。 そこで、諸ポリスは対ペルシアの軍事防衛同盟を結成しました。これをデロス同盟といいます。アテネはデロス同盟の盟主として、全ギリシアに号令する立場 についたのでした。

2018/08/29

釈迦(釈迦の思想2)

釈迦は、紀元前5世紀ごろの北インドの人物で、仏教の開祖である。シャーキャ(サンスクリット語: शाक्य, Śākya)は、元来、釈迦の出身部族であるシャーキャ族またはその領国であるシャーキャ国を指す名称である。「釈迦」はシャーキャを漢訳したものであり、旧字体では釋迦である。シャーキャムニ(サンスクリット語: शाक्यमुनि, Śākyamuni)はサンスクリット語で「シャーキャ族の聖者」という意味の尊称であり、これを漢訳した釈迦牟尼(しゃかむに)をさらに省略して「釈迦」と呼ばれるようになった。

釈迦の本名はゴータマ・シッダッタ(パーリ語: Gotama Siddhattha)、またはガウタマ・シッダールタ(サンスクリット語: गौतम सिद्धार्थ, Gautama Siddhārtha)であり、漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)である。ゴータマはアンギーラサ族(パーリ語: agīrasa)のリシのガウタマの後裔を意味する姓(ゴートラ)であり、この姓を持つ一族のヴァルナはバラモンである。したがって、クシャトリアのシャーキャ族である釈迦の姓がゴータマであることは不可解であり「先祖が養子だった」など諸説ある。

ブッダ(サンスクリット語: बुद्ध, buddha)は、「悟った人」を意味する釈迦の尊称であり、漢訳は仏陀、旧字体では佛陀である。「仏教」という名称や「仏像」などの呼称はこの尊称に由来する。

他方で、タターガタ(サンスクリット語: तथागत, tathāgata)は、「そのように行きし者」を意味する釈迦の尊称であり、漢訳は音写の多陀阿伽度と意訳の如来があり、釈迦如来ともいう。

バーガヴァーン(サンスクリット語: भगवान्, Bhagavān)は「この世で最も尊い」を意味する釈迦の尊称で、漢訳は世尊である。仏教では、これらの呼称・尊称と敬称を組み合わせて、釈迦牟尼世尊釈迦牟尼仏陀釈迦牟尼如来としたり、またそれらを省略して、釈迦尊、釈尊や「仏様」、「お釈迦様」と呼ぶ。

釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で、仏典の神格化された記述から一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。おびただしい数の仏典のうち、いずれが古層であるかについて、日本のインド哲学・仏教学の権威であった中村元は、パーリ仏典の『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲している。しかし、釈迦の伝記としての仏伝はこれと成立時期が異なるものも多く、歴史学の常ではあるが、伝説なのか史実なのか区別が明確でない記述もある。

釈迦は、インド大陸の北方にあった十六大国時代の一つコーサラ国の部族シャーキャ族の出身であるのは確実で、釈迦自身がパセーナディ王とのやりとりの中でシャーキャ族をコーサラ国の住民であると語っている。アショーカ王の建てた石柱には、ブラーフミー文字で「ブッダ生誕地なのでルンビニでは税を免除する」と刻まれている。

ルンビニ
1868年、ドイツ人の考古学者アロイス・アントン・フューラー、がネパールの南部にあるバダリアで遺跡を発見した。そこで出土した石柱には、ブラーフミー文字で「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれており、同地が仏教巡礼の八大聖地のひとつ、釈迦の生誕地ルンビニだとわかった。

カピラヴァストゥ
シャーキャの都であり、釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、法顕が5世紀に、玄奘が7世紀に訪れてそれについて書いたように、釈迦の死後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。その後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教やイスラム教にとってかわられ、それらの宗教のもとにあったインドやネパールの国家では釈迦のことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった。

ネパール中南部のティロリコートと、インド側ではネパールとの国境に近いウッタル・プラデーシュ州バスティ県のピプラーワーの両遺跡がカピラヴァストゥと推定され、ネパール側とインド側で位置を巡って異なった見解が唱えられ論争になっている。

1898年、イギリス駐在官WC・ペッペが、ピプラーワーから「ガウタマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」であると書かれた壺を発掘した。ペッペが発見した遺骨の壺は、現在では真の仏舎利として最も信憑性があるとされている。この壺は、当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、仏舎利の一部は日本では覚王山日泰寺に納められている。
出典 Wikipedia

2018/08/20

第一次シケリア戦争

紀元前483年、テロンがヒメラの僭主テリルスを追放した。ゲロンとテロンの同盟は、全シケリアを制覇しかねないため、カルタゴはこれを無視することはできなかった。またテリルスはレギオンのアナクシラスを頼ったが、アナクシラスとカルタゴ王ハミルカル1世は賓客関係にあった。このため、紀元前480年にカルタゴはシケリアへ遠征軍を派遣した。

カルタゴの決断は、アケメネス朝ペルシアのクセルクセス1世がギリシア本土を攻撃したことも影響していると思われる。フェニキアはペルシアの属国となっていたが、カルタゴとペルシアの間に同盟関係があったかは議論の対象となっている。カルタゴは大きな理由なくして自身の戦争に外国勢力が介入することも、外国の戦争に介入することも好まなかったからである。しかし、シケリアの支配権を得ることは十分な価値があった。

カルタゴは戦争を望み、ハミルカルの下、カルタゴ史上最大の軍隊が編成された。従来カルタゴ軍の兵力は300,000とされていたが、実際にはこの数字は疑わしく、現実には50,000から100,000程度であったと思われる。もしカルタゴがペルシアと同盟していたとすれば、ペルシアはカルタゴに傭兵部隊を提供したと思われるが、しかしそれを裏付ける証拠はない。

シケリアへの航海途中、おそらくは荒天のためにカルタゴは多くの艦船を失ってしまった。パノムルス(カルタゴではジズと呼んでいた)に上陸した後、ハミルカルは第一次ヒメラの戦いでゲロンに敗北した。この戦いは、サラミスの海戦と同日に発生したとされている。

ハミルカルは戦死したか、敗北の責任をとって自決した。この敗北は、カルタゴの政治的・経済的形勢を変えた。それまでの支配層であった富裕貴族の力が低下し、共和政が導入された。王政は維持されたが(名目上は、紀元前308年まで王政が続いた)、その権力は極めて限定され、元老院が権力を握った。カルタゴはギリシアに2,000タレントの賠償金を支払い、以降の70年間シケリアに介入しなかった。

但し、この敗北にも関わらず、カルタゴはシケリア西部の領土を失わず、ギリシア側も領土の拡大はできなかった。ゲロンはカルタゴの同盟都市であるレギオンとセリヌスを攻撃しなかった。戦利品からの利益はシケリアにおける公共建物の建設に使われ、結果としてギリシア文化が広がった。交易によりギリシア殖民都市は繁栄し、アクラガスの富はシバリス(en、イタリア半島の有力なギリシア殖民都市)に匹敵するものとなった。紀元前478年にゲロンが死亡すると、続く20年間の間に各都市は僭主制を停止し、シュラクサイ・アクラガス同盟は寡頭制・民主制を採用する11の反目する連合体に分裂した。これらの都市間の紛争と一部都市の拡張主義が、第二次シケリア戦争の原因となった。
出典Wikipedia