2017/09/30

インダス文明(3)

埋葬
埋葬は、地面に穴を掘って遺体を埋葬する土坑墓を用いた。長方形の土坑が多かったが、楕円形のものも造られた。遺体は頭を北にして仰向けに身体を伸ばした、いわゆる仰臥伸展葬が主体であった。足を曲げた形で遺体が葬られているものもあるが、その場合も頭は北に置かれた。ひとつの土坑に一人が葬られるのが普通であるが、例外も見られる。副葬品は土器が一般的で頭の上、すなわち墓坑の北側部分に10数個を集中して置くが、まれに足元、つまり南側に副葬した例がある。腕輪、足輪、首飾りなどの装身具をつけたまま埋葬された例もあり、その場合は銅製の柄鏡も出土している。重要な点として、被葬者間に際立った社会的格差が見られないという特徴があり、インダス文明の性格を示していると思われる。

行政
インダス文明には、支配者・管理者・運営者の内のいずれかが居たのではなかろうかと思われる節がある。そのことは、城塞や市街都市内部の東西南北に真っ直ぐ延びる大通りにみられる計画性、文字や印章の使用、印章に記された動物などの図柄、煉瓦の寸法や分銅にみられる度量衡の統一や土器の形や文様などにも現れている。宗教では、印章などに表現される「角神」と呼ばれる水牛の角を付けた神、または神官の像や菩提樹の葉のデザインにも現れている。

排水溝設備の整った碁盤目状に街路が走る計画都市であって、ダストシュートや一種の水洗トイレなどが設けられた清潔な都市だったのではないかと推定されている。土器やビーズなどの主だった出土品に均質性が見られる。インダス文明の都市は、信仰・宗教世界の運営・統括する人たちの宗教的・政治的中枢ではなかったのではないか、という説がある。

農業
インダス文明は、夏作物、冬作物、夏と冬の混合作物の3地域に大きく分かれる。インダス川の流域は冬作物地域であり、氾濫による肥沃な土壌を利用した氾濫農耕を行った。河川から離れた地域では、地形を利用した一種の堰を築き、そこへ雨期の増水を流し込み、沈澱させた土壌を用いて農耕をしていたと推察される。夏作物地域では、モンスーンを利用した農耕を行っていた。

牧畜
現在でも家畜として飼育されているコブウシは、インダス文明の土器の模様、印章、土偶などのモチーフにも多数使われている。コブウシよりは少ないがコブのないウシも描かれており、系統の異なるウシが飼育されていた可能性がある。

商業
水運を広く利用し、装飾品などがメソポタミアまで輸出されて盛んな商業活動が行われていた。石製、銅製の各種の分銅や秤がある。メソポタミアとの盛んな交易が知られ、主として紅玉髄製ビーズの輸出を行い、メソポタミアではインダス文明は「メルッハ(国)」と呼ばれていたと推定されている。メソポタミア地域やペルシア湾でも、インダス式印章が発見されている。

工芸品の交易ルートには原石の採掘、工芸品の生産、流通などに専業の集団が従事し、インダス文明の経済基盤の1つだったと考えられている。現在のカンバートのように、各工程の職人や商人が全体を把握しなくても運営されるようになっており、王や神官のような行政による強力な統括がなくとも成立していたのではないか、とも考えられている。

技術
鉄は知られず、青銅器を使った。都市計画で知られるように建築技術に優れており、建築物には縦:横:厚みの比が421で統一された焼成煉瓦が広く使われている。服は染色された綿で作られていたようで、染色工房と推定される場所が見つかっている。

アマゾナイト
装身具、主として紅玉髄製ビーズの製造が有名である。腐食ビーズとも呼ばれる紅玉髄製ビーズに白色の文様を入れる技術を持っており、樽型ビーズはメソポタミアへの主要な輸出品の1つでもあった。その他に腕環、足環、ペンダントなどが見つかっている。高い加工技術を要する極小のマイクロビーズも作られており、絹の糸で連結させていた。これは中国での最古の絹の利用と同時期とされ、前2世紀以降のシルクロードより前にインダス文明で別個に絹の利用が発達していたとされる。工芸の素材としては、金属の他に貝、動物の骨や歯、テラコッタ、ファイアンス、瑪瑙、ラピスラズリ、ジャスパー、アマゾナイトなどが使われていた。動物の骨や歯は、ヤギ、ヒツジ、コブウシ、レイヨウの他に少数ながら象牙やサイの角も使われている

インダス式印章
都市遺跡からは、多くのインダス式印章が出土する。凍石製で印面は34cmの方形で、インダス文字とともに動物などが刻まれている。動物はサイ、象、虎などのほかに後のインドの文化にとって重要な動物である牛が刻まれているのが目立つ。一方で、一角獣など架空の動物が刻まれたり「シヴァ神」の祖形と思われる神などが刻まれていることもある。商取引に使用されたと考えられ、メソポタミアの遺跡からも、このような印章の出土例がある。
※Wikipedia引用

2017/09/29

孔子(1) 仁と礼



『仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』(論語)
孔子は、それまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた(白川静説)。その根本義は「」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底にはチャイナ伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった

孔子は、自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方がある。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。
※Wikipedia引用

 今でこそ「聖人君子のサンプル」として尊崇される孔子だが、生前は苦労に苦労を重ねながらも恵まれず、薄幸な人生を歩み続けた。あくまでも想像だが、類稀な天才でありながら「生真面目で完璧過ぎる」ために敬遠されたか、その長い生涯で一度も日の目を見ることなく、忸怩たる思いをかみしめ続けながら悲惨な一生を生きぬいたのである。

 春秋時代の学者。思想家。儒家の祖。名は丘(きゅう)。字は仲尼(ちゅうじ)。魯の国昌平郷掫邑(山東省曲阜)に生まれた。尭、文王、武王、周公らを尊崇し、古来の思想を大成、仁を理想の道徳とし、孝悌と忠恕とを以って理想を達成する根底とした。魯に一時仕えたが容れられず、諸国を歴遊して治国の道を説くこと三十年、用いられることなく、時世の非なるを見て教育に専念。その面目は言行録(論語)にみられる。後世、至聖文宣王と称された。(前551~479)
以上 広辞苑より一部抜粋

孔子は今から約2,500年前に生きた人、仏陀(釈迦)、ソクラテスとほぼ同時代の人でした。生まれた年は前551年と前552年の二説があり、亡くなったのは前479年4月11日、当時としてはきわめて長寿の73歳(前後)と伝えられています。孔子は当時の魯の国の下級武士の次男として生まれました。魯の国は、現在の山東省曲阜(きょくふ)にありました。

孔子の生きた時代のチャイナは、春秋時代と呼ばれ封建的な体制が一般的であり、王朝(周)や諸侯、武士階級が力を争う下克上の時代でした。孔子は若い頃は貧しくて様々な職業を経験したと言われています。孔子には少なくとも二人(男、女)の子供がいました。娘が嫁いだ相手は、孔子も信頼できる弟子の一人(公冶長、こうやちょう)でした。長男(孔鯉、こうり)は、孔子の下で弟子と同様の(特別扱いしない)指導を受けたことが伝わっていますが、孔子より先に亡くなり、孔子(晩年)が葬儀(重厚にする余裕はなくて、質素なもの)をおこないました(孔子は葬礼については、最も大切なのは形ではなく、その悼(いた)む真心であると言っています)。

孔子は、当時としては長生きをしました。そのためもあって、初期の主だった弟子は孔子より先に亡くなりました。孔子は悲しいときは素直に悲しみ、泣きたい時には泣いています。特に互いに親子のように接していたといわれる弟子の顔淵(顔回)の亡くなった時には、孔子(晩年)はその死を惜しみ「天が私を滅ぼした」と繰り返しました。孔子は「回は(理想に)近い」と言っていました。

 したがって、自分の後を託そうとする人(弟子)に先に死なれてしまったと言えるのです。またこのときの孔子は、その死を心から哀しみ慟哭(どうこく)しました。人が「(いつもの先生らしくなく)慟哭されていました」と話すのを聞くと、孔子は「このような人の為に慟哭するのでなかったら、誰のためにするのか(今泣かないでいつ誰のために泣くのか)」と言っています。孔子は一時期に魯の国に仕えたが、その後の生涯のほとんどを真の教育者(人の生きる道、仁等を説く人)として過ごしたとみられています。

孔子が残した言葉や行いは、孔子の生きた時代(封建君主制)を反映するものであり、その時代においては最適と思われる言動を用いて道を説いたのです。したがって、そのまますべてを現代に適用するのは無理があるでしょう。孔子の言葉は、その弟子の持つ性質に応じて説かれたものも多く、すべての人にそのまま当てはまるとは言えない面も持っています。また、語り継がれた時点で多くの人々(弟子、孫弟子等)の言葉の関与も否定出来ません。さらには、後の人々によって様々な解釈、論説がされたこともあり孔子の言葉や思想が、ある程度の誤解を受けたり、歪曲され非難の対象とさえなったこともあるのです。しかし、孔子の言葉や思想の奥にある真実(真理)は、現代にも色あせるようなことはありません。

孔子の言葉や思想は、その核心を示す(人を慈しむ心、慈愛、慈悲)を知ることによってその本質を知ることが出来ます。孔子は、何より大切なその一つのことを生涯貫いた努力の人であったのです。それは仁に通じる心、忠恕(ちゅうじょ)と表現されます。忠恕とは、真心からの(忠)、人への優しい思いやり(恕)を言い表します。それこそが、孔子の言葉や思想の根底に常にあるものなのです。弟子の子貢が「ただ一字で終生行うべきものはありますか」と聞いたとき、孔子は「それは恕である。自分の望まないことを、人に行ってはいけない(己の欲せざるところ人に施すことなかれ)」と答えています。 

山幸彦と海幸彦(3)

日本書紀第十段

日本書紀巻二の'本文では、兄(え)の火闌降命には自(おの)ずから海幸(釣針)があり、弟(おと)の彦火火出見尊には自づから山幸(弓矢)があった。はじめに兄弟二人(ふたはしら)は語り合い「試(こころみ)に幸(さち)易(か)えんと欲(おも)う」と交換したが、どちらも獲物を得られなかった。兄は悔やんで弟の弓箭(ゆみや)を返し、自分の釣針を求めた。弟は兄の釣針を失していて、探し出せなかった。そこで別の釣針を作って兄に渡したが、兄は許さず、元の釣針を要求する。悩んだ弟は、自分の横刀(たち)から釣針を作り、一箕(ひとみ)に山盛りにして渡したが、兄は怒って、「我が故(もと)の鉤(ち)に非(あらず)ば、多(さわ)なりといえども取らず」と言い、ますます責めた。

 

故に彦火火出見尊は深く憂(うれ)い苦しみ、海辺に行って吟(さまよ)った。すると、そこで出会った塩土老翁が「また憂うること勿(なか)れ。我、まさに汝が為に計らん」と言って、無目籠(まなしかたま)を作り、彦火火出見尊を籠に入れて海に沈めた。すると自然(おのず)から可怜小汀(うましおはま)に着いた。そこで籠を棄てて進むと、すぐに海神の宮に行き着く、とある。

 

その宮は雉(たかがきひめがき)整頓(ととの)いて臺宇(たかどの)玲瓏(てりかかや)いていた。門の前の井戸のほとりに湯津杜(ゆつかつら)の樹があって枝・葉、扶疏(しきも)いて(広げて)いた。彦火火出見尊がその樹の下に進んで、徙倚(よろぼ)い彷徨(さまよ)っていると、一人の美人(おとめ)が扉を開けて出て来た。そして玉鋺(たまのまり)(綺麗なお椀)に水を汲もうとしたので、擧目(あお)いで見つめた。そこで美人は驚いて帰り戻り、その父母(かぞいろは)に、「一(ひとり)の希(めずら)しき客(ひと)有り。門の前の樹の下に在り」と申し上げた。 


そこで、海神は八重の畳を重ね敷いて招き入れ、坐(まし)て定(しず)ませ、来た理由を尋ねた。彦火火出見尊は事情を話した。聞いた海神が大小の魚を集めて問いただすと、皆は、「識(し)らず。ただ赤女(あかめ)(鯛の名) 比のごろ口の疾(やまい)有りて来たらず」と言う。召してその口を探すと、失った釣針が見つかる、とある。

 

そうして彦火火出見尊は海神の娘の豊玉姫を娶り、海の宮に住んで三年が経った。そこは安らかで楽しかったが、やはり故郷を思う心があり、たまにひどく太息(なげ)き(溜息をつく)ことがあった。豊玉姫はそれを聞いて、その父に、「天孫(あめみま)悽然(いた)みて數(しばしば)歎く。蓋(けだ)し土(くに)を懐しむ憂いありてか」と語った。

 

海神は彦火火出見尊を招くと、「天孫若(も)し郷に還らんと欲わば、我、まさに送り奉らん」と従容(おもむろ)に語り、すでに探し出した釣針を渡して、「此の鉤(ち)を以ちて汝が兄(え)にあたえん時は、ひそかにこの鉤(ち)を呼びて『貧鉤(まぢち)』と曰いて、然る後にあたえたまえ」と教えた。また、潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を授けて、「潮満瓊(しおみつたま)を漬(つ)けば、潮、たちまち満つ。これを以ちて汝が兄を溺(おぼ)せ。若し兄が悔(く)いて祈(の)らば、還りて潮涸瓊(しおひのたま)を漬(つ)けば、潮、自ずから涸(ひ)ん。これを以ちて救いたまえ。如此(かく)逼(せ)め惱まさば、汝が兄は自ずから伏(したが)わん」と教えた。そして帰る時になり、豊玉姫は天孫に、「妾はすでに娠(はらみ)ぬ。まさに産(こうむ)こと久しからず。妾、必ず風・濤の急峻(はや)き日を以ちて、海濱(うみのへ)に出で到らん。請(ねが)わくは、我が為に産室(うぶや)を作りて相い持ちたまえ」と語った。

 

彦火火出見尊は元の宮に帰り、一(ひとつ)(まるごと)海神の教えに従った。すると兄の火闌降命は厄い困(なやま)されて自ら平伏し、「今より以後、吾は汝が俳優(わざおさ)の民となさん。請(ねが)わくは施恩活(いけたまえ)」と言った。そこで、その願いの通りに容赦した。その火闌降命は、吾田君(あたのきみ)小橋(おはし)等が本祖(もとつおや)である。

 

その後、豊玉姫は前(さき)の約束通り、その女弟(いろど)の玉依姫を連れて、波風に逆らって海辺にやって来る。産む時が迫ると、「妾、産(こうむ)時、幸(ねが)はくは看ること勿(なか)れ」と頼んだ。天孫が忍ぶ能(あた)わず、こっそり訪れて覘(うかが)う。豊玉姫は産もうとして龍に姿を変えていた。そして大いに恥じて、「如(も)し我を辱(はずか)しめず有れば、則ち海(うみ)陸(くが)相い通わしめて、永く隔て絶ゆること無し。今、既に辱(はずか)しめつ。まさに何を以ちてか親しく昵(むつま)じき情(こころ)を結ばんや」と言って、草(かや)で御子を包んで海辺に棄て、海途(うみぢ)を閉(とざ)してすぐに去りき。そこで、その子の名を彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と言う。その後、しばらくして彦火火出見尊が亡くなられた。日向(ひむか)の高屋山(たかやのやま)の上の陵(みささぎ)に葬りまつる、とある。

2017/09/28

オリュンポス神(ギリシャ神話15)


オリュンポス神の台頭と勝利
ゼウスが成年に達すると、彼は父親クロノスに叛旗を翻し、まずクロノスに薬を飲ませて彼が飲み込んでいたゼウスの姉や兄たちを吐き出させた。クロノスは、ヘスティアー、デーメーテール、ヘーラーの三女神、そして次にハーデースとポセイドーン、そしてゼウスの身代わりの石を飲み込んでいたので、順序を逆にして、これらの石と神々を吐き出した。

オリュンポス神とティーターノマキアー
ゼウスたち兄弟姉妹は力を合わせてクロノスとその兄弟姉妹たち、すなわちティーターンの一族と戦争を行った。これをティーターノマキアー(ティーターンの戦争)と呼ぶ。ゼウス、ハーデース、ポセイドーンの三神はティーターノマキアーにおいて重要な役割を果たし、特にゼウスは雷霆を投げつけて地球や全宇宙、そしてその根源であるカオスまでも焼き払い、ティーターンたちに大打撃を与え、勝利した。その後、ティーターン族をタルタロスに幽閉し、百腕巨人(ヘカトンケイレス)を番人とした。こうして勝利したゼウスたちは互いにくじを引き、その結果、ゼウスは天空を、ポセイドーンは海洋を、ハーデースは冥府をその支配領域として得た

しかしガイアはティーターンをゼウスたちが幽閉したことに怒り、ウーラノスと交わって、ギガース(巨人)たちを生み出した。ギガースたち(ギガンテス)は巨大な体と獰猛な気性を備え、彼らは大挙してゼウスたちの一族に戦いを挑んだ。ゼウスたちは苦戦するが、シシリー島をギガースの上に投げおろすなど、激しい争いの末にこれを打破した。これらの戦いをギガントマキアー(巨人の戦争)と呼称する。

しかしガイアはなお諦めず、更に怒ってタルタロスと交わり、怪物テューポーンを生み出した。テューポーンは灼熱の噴流で地球を焼き尽くし、天に突進して全宇宙を大混乱の渦に叩き込むなど、圧倒的な強さを誇ったが、オリュンポス神族の連携によって遂に敗北し滅ぼされた。かくして、ゼウスの王権は確立した。

オリュンポス山
ホメーロスによれば、神々は、オリュンポスの高山に宮敷居まし、山頂の宮殿にあって絶えることのない饗宴で日々を過ごしているとされる。神々は不死であり、神食(アムブロシアー)を食べ、神酒(ネクタル)を飲んでいるとされる。

十二の神々
ゼウスの王権の下、世界の秩序の一部をそれぞれ管掌するこれらの神々は、オリュンポスの神々とも呼ばれ、その主要な神は古くから「十二の神」(オリュンポス十二神)として人々に把握されていた。十二の神は二つの世代に分かれ、クロノスとレアーの息子・娘(ゼウスの兄弟姉妹)に当たる第一世代の神々と、ゼウスの息子・娘に当たる第二世代の神々がいる。

時代と地方、伝承によって、幾分かの違いがあるが、主要な十二の神は、以下の通り。

第一世代の神
1)秩序(コスモス)の象徴でもある神々の父ゼウス
2)ヘーラー女神
3) ポセイドーン
4)デーメーテール女神
5)ヘスティアー女神

第二世代の神
6)アポローン
7)アレース
8)ヘルメース
9)ヘーパイストス
10)アテーナー女神
11)アプロディーテー女神
12)アルテミス女神
※ヘスティアーの代わりに、ディオニューソスが十二神に入ることもある。
※ハーデースとその后ペルセポネーは、地下(クトニオス)の神とされ、オリュンポスの神ではないが、主要な神として十二神のなかに数える場合がある。

それぞれの神は、崇拝の根拠地を持つのが普通で、また神々の習合が起こっているとき、広範囲にわたる地方の神々を取り込んだ神は、多くの崇拝の根拠地を持つことにもなる。アテーナイのパルテノン神殿小壁には、十二の神の彫像が刻まれているが、この十二神は、上記の一覧と一致している(ディオニューソスが十二神に入っている)
オリュンポスの神々
オリュンポスを代表する十二の神と地下の神ハーデース等以外にも、オリュンポスの世界には様々な神々が存在する。彼らはオリュンポスの十二神や他の有力な神が、エロースの力によって互いに交わることによって生まれた神である。また、広義のティーターンの一族に属する者にも、オリュンポスの一員として神々の席の一端を占め、重要な役割を担っている者がある。
※Wikipedia引用