2016/12/26

副食の種類と調理法(農林水産庁Web)

伝統的な食事の副食には、基本的な食事構成である飯、汁、おかず、漬物のうち飯以外のすべてを含んでいる。汁は、その実に季節ごとに様々な材料を組み合わせることが出来、儀礼食にも日常食にも各種の汁が作られ、地域により特徴ある汁も見られる。味付けには、みそ味および塩・しょうゆ味と大きく2種に分けられるが、うまみをいかに工夫するかがおいしさの鍵となる。

 

日本食の汁物、煮物などのうまみを引き出す出汁の材料には、鰹節、昆布、煮干し、しいたけなどが一般的であるが、地域により干しトビウオ等を用いるところもある。  さらに、これらを混合することで、うまみの相乗効果を得ることもできる。また、鯛や蛤のうしお汁に代表されるように、だしを取らず汁の実にする材料からのうまみを利用する場合もある。また、菜(おかず)となるものは、生のまま、煮る、焼く、蒸す、茹でるなどの調理法を組み合わせ、季節の野菜、豆、いも、魚介類を調理したもので、組み合わせによりバラエティーに富んだものとなる。

 

中でも煮物は、日本で最も多く作られてきた。鍋に材料とだし、または水を加えて煮て味付けすれば、殆どのものをおかずとすることが出来る上、火の管理などもそれほど技術を要せず、しかも一度に大量に作ることも出来る。とくに農村で野菜・いも類を栽培している場合では、たとえば筍の季節には、一度にたくさんの筍を掘ることになり、大鍋で大量に煮て、何日か食べ続けることも多い。そうすることで調理の時間の手間も省け、煮る調理をしている間は、時々火加減を調整するだけで、他の調理にかかることが出来る。

 

日常の煮物は、季節の野菜にうまみを加えるために、だしを兼ねて鶏肉、魚介類などを加えたものも多い。さらに、焼き物は、魚の塩焼きなど直火で焼く調理が多く、天火焼きやソテーのように油を用いたものは、伝統的な焼き物には少ない。また、蒸す、茹でる調理は、いずれも水を必要とする調理である。しかも、煮物とは異なり、調理後はその水を廃棄することが多く、水の少ない砂漠地帯などでは発達し得ない調理法ともいえる。

 

日本は地域にもよるが、比較的水に恵まれたところが多く、古くからこれらの調理法が使われてきた。また、野菜類を茹でて後、水で洗う調理法は、海外では一般的な調理法ではない。例えば、ほうれん草の下処理を各国の料理書からみてみると、殆どの国では茹でた後、水気を絞ることはあっても水で洗う方法がみられず、日本やK国に特徴的な方法といえる。刺身のように生の魚を食べる習慣も、良質な水の存在が可能にした調理であるといえよう。また、このように良質の水の存在は、豆腐、酒などの加工食品を独自のものに発展させることにもなった。

 

さらに茹でた材料、下煮した材料をすりごまで和える、酢で味付けするなどの和え物・酢の物は、季節ごとに材料も変化に富み、あえ衣に、ごまのほか、からし・みそ・砂糖、豆腐を用いた酢の物、白和えあえなど、実に多様な料理を生み出している。下記に、日本で伝統的に行われてきた、主な調理法の特徴を示す。

 

生もの

刺身など自然の香味、旨みを味わう。野菜類の生は漬物では食べるが、サラダのような野菜の生食は近代以降で、加熱調理が多い。しかし大根、山芋など、生のまま摺り下ろして食すものもある。

 

汁物

汁の旨みにより食欲を増す。鰹節、みそ汁とすまし汁がある。

 

煮物

食品に煮汁を加えて加熱し、醤油、砂糖、酒、味噌などで調味する。

 

焼き物

魚を直火で焼くなどが多く、油で焼く、天火で焼くなどの焼く調理は近代以降に普及する。

 

蒸し物

茶碗蒸しなど蒸し器に水を入れ水蒸気で加熱、型崩れしにくい。

 

茹で物

熱湯中で加熱することで、食品の軟化、加熱だけでなく、野菜などのあく抜きに適す。

 

酢の物

煮る茹でるなど下処理した材料をすりごま、すり豆腐、すり山椒などを衣にしてあえたもので、醤油、みそ、酢、砂糖、みりんなどで調味する。

 

揚げ物

油を使う調理は伝統的調理には少ないが、てんぷらなどや精進料理などで旨みの少ない野菜類に旨みを加えるために、揚げて煮る等の料理が発達した。

 

炒め物

油で食品を炒める方法。伝統的な調理には殆ど見られず近代以降、特に第二次大戦中以降に盛んに使われるようになった。前述した「日本人の食生活」(1981年調査)により、米飯を主食としていた夕食のおかずの内容をみると、サラダなどの生野菜、焼き魚、刺身、煮物、焼き肉が多くの家庭で作られている。また伝統的な料理について、普段よく食べているものの調査では、漬物が最も多く80%、以下、のり68%、大根おろし、おひたし各58%、酢の物55%、納豆46%で、近代の食事に度々登場した常備菜でもある煮豆28%、佃煮は22%である。

 

漬物は、野菜類に塩や酢などで漬けた保存食である。漬けている間に乳酸発酵することにより、保存性が高まるとともに独特の風味が加わる。漬物は古代から作られてきたが、江戸時代に白米食が普及することにより、糠を利用したたくあんが考案され、全国に普及した。そのほか、糠と塩を使ったぬか漬けも江戸時代以降、全国的に作られている代表的な漬物である。

 

梅干しは梅に塩を加えて漬け、それを干すことでさらに保存性が高まり、何年も保存できる。漬物は、どのような食事にも欠かせないため、各地域の産物で様々な地域特有の漬物が工夫された。特に冬雪に閉ざされ、野菜類が殆ど得られなくなる地域では、特徴ある漬物が作られてきた。漬物は通常、塩を1520%も使うことで保存性を高めることが出来るが、長野県木曽地方のすんき漬けは、この地域の気候を利用した塩を加えない漬物である。塩だけでなくみそ、醤油、酢などに漬けるもの、酒粕、こうじを加える漬物など味も材料も多様である。

2016/12/18

塩尻

 信州には海がないため塩を生産することができず、かつては日本海から塩売りがやってきていた。各地を回って売り歩いていると、ちょうどこの近辺で品切れになるため「塩尻」という名前がついたと言われている。


 また、日本海側と太平洋側からそれぞれ塩が運ばれてくると、この辺りで両者が合流することから、塩の道の終点=塩尻という説もある。この説に沿う地名として小県郡塩尻村(現:上田市)がある。


 なお塩尻市の見解は、定説はないとしつつも上杉氏が武田氏に塩を送った義塩伝説、食塩を由来とする説、地質・地形からなる説の三つを挙げている。


 かつては、塩の旧字である鹽を用いて「鹽尻(しおじり)」とされた。江戸時代は塩尻宿や洗馬宿などが、中山道や北国西街道の宿場町として栄えた。明治時代、塩尻宿から約2km西方線が交わる交通の要衝であった。


塩尻市の地名の由来
 塩尻の地名については「食塩」の流通に由来する説と「地質」に由来する説等がある。


1.伝説
 かつてこの地を支配した武田信玄が、敵対する今川氏などから塩の輸送を止められた際、越後の上杉謙信が塩を送ったという「義塩伝説」に基づくもの。(越後:糸魚川→(千国街道)松本塩尻)


2.食塩を由来とする説(1)
 「食塩移入路の終点」の意。塩尻市は、糸魚川から送られてくる日本海産の塩(北塩)の供給路の終点で、松本藩の塩留番所があり、塩尻から塩尻峠を越した南の地域へは、北塩は供給されていなかった。


2.食塩を由来とする説(2)
 「伊勢物語」東下りの一説に、富士山が塩尻(塩田で潮水の水分を蒸発させ、砂を丸く高く積み上げた形。又は塩の山の上を摘んで取った形)のようだということから、富士山の見える所を塩尻と呼んだという説。中山道を歩いて京から江戸へ向かう旅人が、峠から見た富士山の姿が塩尻に似ていたことから、ふもとの集落を塩尻と呼ぶようになった。


3.地質地形からの説(1)
 「シオ」の字のつく所は、一般に粘土質や赤土ローム層の所が多く、乾くと表面に白い粉状のものがつき、これをシオコビなどとも言う。塩尻とは、シオとも呼ぶ赤いローム層に覆われた桔梗ヶ原台地の終末点なので、塩尻と名づけられた。


3.地質地形からの説(2)
 青粘土などの粘土質の底土をシホといい、周辺の粘土質は窪地へ流入して堆積し、青粘土ができます。「シホ」とは窪地をさし、窪地の端なので塩尻という説。いずれにしても、塩尻市は日本海側からは北塩が、太平洋側からは南塩が運ばれ、沿線のまちとの交流が古くからあった「塩の道」沿いのまちであった。


4.海から離れた信州へ入る塩は、日本海岸からの北塩と太平洋岸からの南塩があり、牛や馬の背により分水嶺や峠を越えて運ばれる。この北と南の塩の出会った地が塩尻とする説。


ポリネシア語による解釈
 塩尻市と岡谷市の境に、かつて中山道が通っていた塩尻(しおじり)峠(999m)があり、信濃川水系と天竜川水系の分水嶺となっています。峠名は太平洋岸から運ばれる表塩と、日本海岸から運ばれる裏塩の終点にあたることによるとされます。また塩尻市の南部に、伊那郡辰野町へ抜ける三州街道の善知鳥(うとう)峠(856m)があります。


 塩尻市の西部には、江戸時代に中山道から北国西街道(善光寺街道)が分岐する洗馬(せば)宿がありました。


 「チオ・チリ」、TIO-TIRI(tio=cry,call;tiri=throw or place one by one,scatter)、「(あまりの険しさに)悲鳴を・上げる(峠。その峠がある地域)」


 の転訛と解します。

2016/12/17

「真夏の悪夢」の考察

 病院からは「完治」のお墨付きをもらった。
 
 むろん喜ぶべきことだが、ひっかかるのは原因が不明な点だ。
 
 何度も繰り返すように、これまで風邪以外の病気に罹ったことがなく、健康診断でも毎年「オールA」の健康自慢だった自分が、こともあろうに「入院」するハメになろうとは、夢にも考え及ばぬことだった。
 
 自分に限らず、高齢の両親ともにあの歳になるまで入院したことがない(母の出産を別とすれば)という事実が証明するように、遺伝的にも健康なはずなのである。
 
 (一体、何が原因でこうなったのか?)
 
 と、病室でつらつらと考えたものの、もとより答えが見つかる設問ではない。
 
 暑さのせいでコーヒーやビールをガブガブ飲んだり、食事の偏りが原因かとも考えてみた。
 
 これは勿論、今年に限ったことではなく、この生活習慣は毎年同じだから、そうした「勤続疲労」が遂に限界を超えたのか、とも考えてみた。
 
 確かに、ネットで原因を調べてみると
 
 暴飲暴食、不規則な生活、疲労、便秘には注意しましょう。また、風邪や胃腸炎が原因となって起こるともいわれています
 
 などと出ていたが、暴飲暴食で胃や肝臓をやられたというならわかるが、どうも虫垂とはあまり関係なさそうな気がしてならないのである。
 
 ましてや便秘や風邪、胃腸炎といったことも、まるで心当たりがない。
 
 他に大腸菌などの細菌やウイルスの侵入ストレス原因説というのもあるが、こうなると最早因果関係などわかりようがない。
 
 入院という予期せぬ災難に見舞われた身としては、なんとか原因を特定して再発防止に努めたるのを目標とすべきだが、肝心の原因がわからないのでは手の打ちようがない
 
 もっとも、病気なんてものは原因がわからなかったり、原因と言われるものも実は推測でしかなかったりというケースが大部分というのが実態なのだろう。
 
 そうなると色々と憶測を逞しくしたところで、せいぜい時間の無駄でしかない。
 
 ありえないことだが、仮に「主犯格」が「暴飲暴食、酒、タバコ」と特定できたとしても、決して止めはしないだろうが (。 ̄Д)d□~~

2016/12/08

アマテラスとスサノオの誓約

アマテラスとスサノオの誓約とは、『古事記』や『日本書紀』に記される天照大神と建速須佐之男命(日本書紀では素戔嗚尊)が行った誓約(占い)のこと。

 

古事記

伊邪那岐命(イザナギ)が建速須佐之男命(スサノオ)に海原の支配を命じたところ、建速須佐之男命は伊邪那美命(イザナミ)がいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。イザナキは怒って「それならばこの国に住んではいけない」と彼を追放した。

 

スサノオは、姉のアマテラスに会ってから根の国へ行こうと思い、アマテラスが治める高天原へ昇る。すると山川が響動し国土が皆震動したので、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて彼を迎えた。

 

スサノオはアマテラスの疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようといった。二神は天の安河を挟んで誓約を行った。まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。

 

この三姉妹の女神は、アマテラスの神勅により海北道中(玄界灘)に降臨し、宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮、それぞれに祀られている。

 

多紀理毘売命 - 別名:奥津島比売命(おきつしまひめ)。沖津宮に祀られる。

多岐都比売命 - 中津宮に祀られる。

市寸島比売命 - 別名:狭依毘売命(さよりびめ)。辺津宮に祀られる。

 

次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の五柱の男神が生まれた。

 

左のみづらに巻いている玉から 天之忍穂耳命

右のみづらに巻いている玉から天之菩卑能命

かづらに巻いている玉から天津日子根命

左手に巻いている玉から活津日子根命

右手に巻いている玉から熊野久須毘命

 

これによりスサノオは「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」と勝利を宣言した。

 

日本書紀

『日本書紀』第六段の本文では、古事記と同様に天照大神が素戔嗚尊(スサノヲ)を待ち構えるが、天の安河を挟んではいない。

 

また素戔嗚尊が「私は今、命令を受けて根國に向かおうとしており、一度高天原を訪れ姉上と会った後に去ろうと思う」と言うと(伊弉諾尊が)「許す」といった、とあるので古事記の様に追われたのでも無い。ただし、第五段本文では2神が産んだスサノヲは常に泣いているので「宇宙」(あめのした)に君臨(きみ)たるべきでないとして、根国に追放し、また、第六書では、スサノヲが母のいる根の国に行きたくて泣いていると説明すると、イザナギは『「情(こころ)の任(まにま)に行ね」とのたまひて、乃ち逐(やらひや)りき。』とある。

 

誓約では、天照大神が素戔嗚尊の十握劒を貰い受け、打ち折って三つに分断し、天真名井(あめのまない)の水で濯ぎ噛みに噛んで吹き出した、とある。その息の霧から生まれた神が以下の宗像三女神である。

 

田心姫(たこりひめ)

湍津姫(たぎつひめ)

市杵嶋姫(いちきしまひめ)

 

そして、素戔嗚尊が天照大神の頭髪と腕に巻いていた八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいおつみすまる)を貰い受け、天眞名井の水で濯ぎ噛みに噛んで吹き出した、とある。その息の霧から生まれた神が、以下の五柱の神である。

 

天忍穂耳命

天穂日命:出雲臣(いづものおみ)、土師連(はじのむらじ)等の祖神。

天津彦根命:凡川内直(おおしかふちのあたひ)、山代直(やましろのあたい)等の祖神。

活津彦根命

熊野櫲樟日命

 

これにより彼の心が清いと証明している。

 

第六段一書(一)では、待ち構えていた日神(ひのかみ)が素戔嗚尊と向かい合って立ち、帯びていた剣を食べて生まれた神が、以下の宗像三女神である。

 

十握劒(とつかのつるぎ):瀛津嶋姫(おきつしまひめ)

九握劒(ここのつかのつるぎ):湍津姫 

八握劒(やつかのつるぎ):田心姫

 

そこで素戔嗚尊はその首にかけていた五百箇御統之瓊(いおつみすまるのたま)を天渟名井(あめのまない)またの名は去来之眞名井(いざのまない)の水で濯いで食べて生まれた神が以下の五柱の神である。

 

正哉吾勝勝速日天忍骨尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほね)

天津彦根命

活津彦根命

天穂日命

熊野忍蹈命(くまのおしほみ)

 

第六段一書(二)では、素戔嗚尊が天に昇る時に羽明玉(はかるたま)という神が迎えて、瑞八坂瓊之曲玉(みつのやさかにのまがたま)を献上したので、その玉を持って天上を訪れた。この時、天照大神が弟に悪心(きたなきこころ)があると疑い、兵を集めて詰問する、とある。

 

誓約では、天照大神の剣と素戔嗚尊の八坂瓊之曲玉(やさかにのまがたま)を取り換える。そうして天照大神が八坂瓊之曲玉を天眞名井に浮かべ、玉を食いちぎって吹き出した、とある。その息から生まれた神が以下の宗像三女神である。

 

玉の端を食いちぎって吹き出す:市杵嶋姫・遠瀛(おきつみや)に鎮座する神

玉の中を食いちぎって吹き出す:田心姫・中瀛(なかつみや)に鎮座する神

玉の底を食いちぎって吹き出す:湍津姫・海濱(へつみや)に鎮座する神

 

そして素戔嗚尊が持った剣を天眞名井に浮かべ、剣の先を食いちぎって吹き出した、とある。その息から生まれた神が、以下の五柱の神である。

 

天穂日命

正哉吾勝勝速日天忍骨尊

天津彦根命

活津彦根命

熊野櫲樟日命

 

第六段一書(三)では、日神と素戔嗚尊と天安河を挟んで向かい合い、まず日神が剣を食べて生まれた神が、以下の宗像三女神である。

 

十握劒:瀛津嶋姫命またの名は市杵嶋姫命

九握劒:湍津姫命 

八握劒:田霧姫命

 

そして、素戔嗚尊がその五百箇御統之瓊を口に含み、生まれた神が以下の六柱の神である。

 

左の髻(みづら)の玉を口に含み、左の手のひらに置く:勝速日天忍穂耳尊(かちはやひあめのおしほみみ)

右の髻の玉を口に含み、右の手のひらに置く:天穂日命

首にかけた玉を口に含み、左の腕に置く:天津彦根命

右の腕から:活津彦根命

左の足から:樋速日命(ひはやひ)

右の足から:熊野忍蹈命またの名は熊野忍隅命(くまのおしくま)

 

第七段一書(三)では、まず素戔嗚尊の暴挙狼藉があり、それで日神が天石窟(あめのいはや)に籠る事となる。

 

天児屋命が先だって事を運び日神が外に戻り、素戔嗚尊は底根之國(そこつねのくに)に追われる事となる。そして、素戔嗚尊は「どうして我が姉上に会わずに、勝手に一人で去れるだろうか」と天に戻る。すると天鈿女命がこれを日神に報告し、二神で誓約が行われる。

 

誓約では「日神、先(ま)ず十握劒を囓(か)む。云云(しかしか)」と略されているが、宗像三女神を生んでいる点に変更はなく、続いて素戔嗚尊はぐるぐると回しながら、その髻に巻いていた五百箇御統之瓊(いほつみすまるのたま)の緒を解き、玉の音を揺り鳴らしながら天渟名井の水で濯ぎ浮かべた、とある。

 

そうして、その玉の端を噛んで以下六柱の神を生み出す。

 

左の玉を噛んで、左の手のひらに置く:正哉吾勝勝速日天忍穂根尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほね)

右の玉を噛んで、右の手のひらに置く:天穂日命

次に天津彦根命

次に活津彦根命

次に樋速日命

次に熊野大角命(くまのおほくま)

 

解説

古事記では天照大神(アマテラス)は、後に生まれた男神は自分の物から生まれたから自分の子として引き取り、先に生まれた女神は建速須佐之男命(スサノオ)の物から生まれたから彼の子だと宣言した。建速須佐之男命は、自分の心が潔白だから私の子は優しい女神だったといい、天照大神は彼を許した。

 

日本書紀第一と第三の一書では男神なら勝ちとし、物実を交換せずに子を生んでいる。すなわち、天照大神は十拳剣から女神を生み、素戔嗚尊(スサノオ)は自分の勾玉から男神を生んで彼が勝ったとする(第三の一書で、素戔嗚尊は六柱の男神を生んでいる)。

 

第二の一書では、男神なら勝ちとしている他は『古事記』と同じだが、どちらをどちらの子としたかは記載がない。古事記と同様に物実の持ち主の子とするならば、天照大神の勝ちとなる。第七段一書(三)では、筋立てが他とは異なり、思兼神が登場しない点が大きな特徴である。

 

なお、古事記でスサノオが勝ったとされる一方で、創造された子神の数はスサノオが3柱であるのに対して、アマテラスは5柱であった。

 

また、日本全国にある天真名井神社、八王子神社などでは、宗像三女神と、王子五柱の男神を五男三女神として祀る。

出典 Wikipedia

2016/12/04

全快(真夏の悪夢part11)



●821日(日)
 どうも薬の効き目が悪く、風邪の治りが悪い。
 
 回復度は、23割程度か
 
 今週末の再々検査で引っかかるようだと泥沼になりそうなので、なんとか早く治さねばという焦りが。
 
 とはいえ、寝たきりではないので暇を持て余し、スポーツジムへ行く。
 
 風邪の影響か体重は減り続け、遂に4キロ減となってしまったが、自宅のカラダスキャン(体重体組成計)で測っても、やはり落ちた分は殆どが体脂肪分なのである。
 
 魔訶不思議なことに、内臓脂肪、体幹皮下脂肪率などは、軒並み大幅に減っている
 
 やはりお腹周辺の違和感はあるものの、スポーツジムで汗を流すと元気になる気がする。
 
 やっぱり、大きな風呂は気持ちがいい。

●8
22日(月)~825日(木)
 風邪は徐々に回復しているようだが、一気にとはいかずもどかしい。
 
 回復度は56割程度か、頭痛や関節痛は収まったが、咳と鼻風邪がしぶとく残っている。
 
 やはり栄養バランスが悪いせいかな。
 
 夜を中心に、時折発熱していたが、そっちの方はどうやら落ち着いたようだ。
 
 このままだと、再々検査の土曜までに完治しそうにない。

●8
26日(金)
 検査前日。
 
 風邪の回復度は、7~8割というところ。
 
 完全ではないが、前の週の検査時よりはかなり良くなっているから、明日の検査は合格するはずだ。
 
 合格までは、ビール1本でなんとか我慢しよう。
 
 スポーツジムへ汗を流しに行ったが、前回より腹に違和感を感じなくなったから、徐々に良くなってきている手ごたえを感じた。

●8
27日(土)
 検査の日。
 
 病院の受付は8時半からだが、いつものことながら9時前に行くとすでに満席で、立錐の余地もない込み具合だ。
 
 受診の前に、早速血液検査。
 
 採血をしてから結果が出るまで30分程度かかるため、一旦病院を抜け出しタバコを吸いに外に出た。
 
 一服して病院に戻ると、先の採血で血が固まってしまったとかで「やり直し」となってしまった。
 
 直前の喫煙が、悪い結果を齎さねばいいが。
 
 採血やり直し後、1時間近く待たされた挙句、ようやく呼ばれた。
 
 「検査結果ですが、基準値まで下がりました!」
 
()ノ やったー!!
 
 白血球数は前週の13000から一気に7600まで下がり、痛みを表すC反応性蛋白(CRP)は、遂に基準値の「0.3」まで下がっていた。
 
 「これで回復ということで、もう薬も通院も必要ありません。
 日常生活も問題なく、食事の制限等もありませんので、普通に過ごしてください」
 
 (やっと、治ったぞー!)
 
 長く続いた病魔との戦いが終わり、気付けば8月が終わろうとしていた ('Д'y ─~~