2022/04/28

北魏(2)

明元帝の時代

道武帝の死後、長男の拓跋嗣は拓跋紹を殺害して即位し、明元帝となった。明元帝は高車や柔然に攻撃をかけ、さらに北燕・南燕・後秦・夏と対立した。しかしこの頃、江南の東晋では劉裕が政権を掌握して強大な軍事力を有するようになっており、410年に南燕が、417年に後秦がいずれも劉裕により滅ぼされたため、次第に北魏は東晋、いわゆる江南との対立が鮮明になった。

 

明元帝自身はあまり積極的な勢力拡大を行なわなかったが、使節が2度にわたって捕縛された北燕とは416年から交戦し、また夏とも西秦と連携して戦っている。42311月に明元帝は死去した。

 

太武帝による華北統一

明元帝の死後、長男の拓跋燾が即位し、太武帝となった。この頃になると、華北で北魏と軍事的に対抗できたのは夏だけだったため、太武帝は高句麗や宋と頻繁な外交を展開した。夏は4258月に始祖の赫連勃勃が死去すると急速に衰退し、42610月に太武帝は親征して夏の首都統万城を陥落させた。赫連勃勃の跡を継いだ子の赫連昌は、4282月に上邽に逃れるが北魏に捕らえられ、弟の赫連定が平涼で即位したが、43011月に北魏に追われてやはり上邽に逃れた。そして4316月、赫連定は吐谷渾に捕縛され、北魏の首都平城に連行されて処刑されて滅亡した。

 

夏の滅亡により、残るは後仇池・北燕・北涼だけとなる。しかし、これらは南朝の宋と連携してようやく北魏と対抗できるにすぎない小国であり、4364月に内紛で弱体化していた北燕を滅ぼした。北涼は早くから北魏に従属し、婚姻関係を結ぶことなどを通じて密接な関係を維持していたが、4399月に太武帝自らの親征で北涼を滅ぼした。これが北魏による華北の統一といわれているが、実際にはまだ後仇池が残存していた。その後、仇池も442年に北魏により滅ぼされ、ここに北魏は前趙の成立から約150年にわたって続いた華北の分裂を収拾して、統一政権を樹立した。

 

南北朝時代

これ以後、中国は南北朝時代に入る。北魏はそれまでの部族制を解体し、貴族制に基づく中国的王朝に改編していった。北魏の華北統一により、移民は440年代を境に減少し(440年代は2万人とかなり減少していた)、北方異民族からの移民も450年代を境にしてほとんど見られなくなり、華北社会は安定した。

 

このころ道士寇謙之が道教教団を確立し、漢人官僚の崔浩と結んで太武帝に進言し、廃仏が断行された。これが、三武一宗の法難の最初のものである。崔浩は南朝をモデルにした貴族社会の創設を性急に推進し、さらに鮮卑と漢族の融合を目指して漢化政策を推し進めたが、国史編纂において鮮卑族を怒らせた結果、450年に誅殺された(国史の獄)。

 

6代皇帝の孝文帝の時代、馮太后の聴政の下で儒教的礼制を採用し、均田制を施行し、三長制を確立した。馮太后の死後、親政を開始した孝文帝は、さらに急激な漢化政策を進めた。孝文帝の漢化政策は、鮮卑の服装や言語の使用禁止、漢族風一字姓の採用など、いずれも鮮卑と漢人の融合政策だったが、鮮卑人の国粋的反発と反動を呼び起こし、のちの六鎮の乱の伏線となった。493年、都を平城から洛陽に遷した。

 

分裂と北魏の消滅

その後の北魏は、六鎮の乱を経て軍人の力が強くなる。建国から約150年後の永熙年間に、高歓と宇文泰により別々の皇帝が擁立されて東魏と西魏に分裂し、高氏の北斉と宇文氏の北周がそれぞれに取って代わることで滅んだ。

 

美術

雲崗石窟

3代太武帝による廃仏ののち、歴代の皇帝は仏教を篤く信奉し、5世紀末から6世紀初めには雲崗や龍門といった巨大な石窟寺院が開かれ、唐代と並ぶ中国仏教の最盛期を迎えた。第4代文成帝が僧官曇曜(どんよう)の建言によって平城近郊の岩場に建立した、いわゆる「曇曜五窟」(雲崗石窟の第16-20窟)では、肉体や衣服の表現にガンダーラ美術・グプタといったインド仏教美術の影響が色濃く残っている。

 

石窟寺院では、洞窟の内部に仏像や仏塔を彫り、周囲を壁画やレリーフで装飾する伽藍形式が広く隆盛し、仏教文化は中国に広く浸潤していくこととなった。

 

6代孝文帝は洛陽に遷都すると急速な漢化政策を推し進め、洛陽郊外に龍門石窟を造営した。龍門石窟には北魏代のものと唐代のものが存在するが、北魏代の伽藍である賓陽中洞では漢風の伝統が重んじられ、細く切れ長の目やなで肩、首のたるみなどといった象徴主義的な表現が見られるようになる。写実性を排した中国風の仏像はここに完成を見、広く東アジア諸国に伝播していった。日本では、この様式を特に「北魏様式」という。

 

日本との関わり

北魏と日本文化との間には、数多くの関連があることが指摘されている。

 

ü  福岡県(筑紫国)の霊泉寺(英彦山)は、531年(継体天皇25年)に北魏の善正上人が創始したものである。

 

ü  法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式である。(伊東忠太の説)

 

ü  日本の源氏という氏族のおこりは、北魏の太武帝が同族に源氏を名乗らせたことに影響されたものではないか。(杉山正明の説)

 

ü  北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされた。このため、北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には、多く共通したものが見られる。平城京・聖武天皇・嵯峨天皇・天平・神亀など、枚挙に暇がない(福永光司の説)。

出典 Wikipedia

2022/04/26

代表的な信仰形態 ~ 日本の仏教宗派と信仰形態(4)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/


阿弥陀信仰

 日本に阿弥陀信仰が伝わったのは、およそ七世紀の始め頃と考えられていますので、仏教伝来(公伝では538年)から100年くらい経ってからのようです。初期の頃は、阿弥陀の性格が極楽往生にあったため、終末において人類を救うとされた弥勒の信仰と混在して「追善(使者の弔い)」的な性格が強かったようでした。

 

 それが奈良時代後期になって「(死者ばかりではなく)生者である自分の」極楽への往生の願いが表面化し、平安期には「西方浄土」「極楽往生」が日本人の心に深く根ざしたようです。

 

 この阿弥陀信仰の特色は「阿弥陀の本願」(阿弥陀仏がまだ修行中の宝蔵菩薩であった時の誓願で、自分に帰依する者は例外なく極楽浄土にすくい取ることができないうちは仏とはならないという誓願で、現在この菩薩は阿弥陀仏となっているのでこの誓願は絶対に成就するとされる)に対する絶対的な信仰と「極楽に生まれ変わろう」とする「極楽往生」の信仰にあります。この「極楽往生」は、あらゆる階層の人間にとって望まれることでしたから、この信仰は非常に強いものとなりました。したがって、この阿弥陀を本尊とする寺院は、日本のすべての寺院の半数に達するとも言われています。

 

観音信仰

 観音像は飛鳥時代に遡って存在するとされますが、八世紀の奈良時代になってその像が急増してきます。観音像の原型は「聖観音」と呼ばれますが、この観音の特徴はさまざまの形に身を変えて現出してくることで、有名なところでは「千手観音」「十一面観音」「馬頭観音」などがあります。

 

 初期の観音信仰は「反乱に対する鎮圧や災いを逃れて平安を得る」といった現実的な願いに応じたもので、こうした衆生の願いに応える様々の力の具現化が観音のさまざまの姿の現れとなるのであり、それは「33の姿」として描かれてきます。

 

 たとえば「千手観音」は衆生をすくい取る「無数の手」を表しており、「十一面観音」はその「11の面」ですべてを見回して、疫病の癒しや守りをし、馬頭観音は馬が草を食い尽くすがごとくに「人の煩悩」を食い尽くすというものでした。

 

 しかし10世紀頃からの社会の乱れに応じて、来世信仰の性格を持つようになり、「六観音」信仰といったものが生じてきます。これは「六道輪廻」の世界に対応したもので、この六道の輪廻の世界からの救済を念じたものでした。

 

 この観音信仰の特色は、観音像を本尊とする寺院への「参拝」が盛んとなったことで、すでに10世紀には石山、清水、鞍馬、長谷、壺坂などの観音寺院への参拝が盛んになり、後には霊場を結んだ「巡礼」へと発展していきます。

 

 いわゆる「33所巡礼」で、初期の頃は聖たちによる「修験道」的色彩の強いものであったものが15世紀頃から一般の人々にも流行するようになりました。始めは「西国33カ所巡礼」でしたが鎌倉期の13世紀に「板東33カ所巡礼」が、15世紀には「秩父33カ所巡礼」ができてきます。さらに16世紀に「秩父巡礼」が34になったところで全部合わせた「100カ所巡礼」ができあがっていきます。

 

この巡礼は江戸期に入って爆発的に増え、全国各地に「33カ所巡礼」が作られていき、その総数100カ所にもなるとされます。これには一般庶民の「観光旅行」的色彩も見られ、あるいは成人になる通過儀礼的なものともされたり、さまざまの意味合いをもたされつつ庶民に一般的なものとなったのでした。

 

弥勒信仰

 早くも六世紀に日本に伝来していますが、弥勒は「釈迦の滅後56億7000万年の後、人間界に現れてこれまでの仏による救いから漏れていた人々を救う菩薩」と信じられ、いってみれば「未来仏」として「究極の救済者」と見なせます。

 

 この日本に於ける信仰は、真言宗において高野山が未来の弥勒浄土であるとしたところから広まったようで、真言宗が民間信仰と結びつく性格をもっていたところから、この弥勒信仰も民間に流布したと見られています。宗教学的に言えば「メシア(救済者)願望」の一形態であり、ユートピア思想ともなって「未来の幸いの国」願望であったと言えます。この時、56億とかの数字はほとんど意味がなく、ただ現在の「悲惨な世界の末に」といったような理解になっていると言えます。

 

地蔵信仰

 地蔵の像は奈良時代から平安時代に入っても阿弥陀、観音、弥勒などの像に比べると圧倒的に少なく、これは初期仏教が現世利益を中心にしていたため、輪廻世界の来世への恐怖などといったものが意識されていなかったためと考えられています。それが10世紀も末になって、源信の『往生要集』が出たあたりになって、「地獄にあって衆生の救済に働く地蔵」の徳が知られるようになり浄土教の台頭とも重なって救済の仏としてのあり方が注目されるようになりました。

 

そして11世紀に入って、地蔵にまつわる説話集が書かれるようになり『今昔物語』などに採録されるようになって一般化していったようです。とくに浄土教に救いを求めるような「みずからの至らなさ」を意識した一般庶民においては「下手すれば地獄行き」の意識も強く、そうした人々において「地獄にあって人々の苦しみを肩代わりしてくれる」ものとしての地蔵信仰が発達していきました。そうした意味で、この地蔵信仰は下層階級から発達したと言えます。

 

 一方、鎌倉時代に入ると浄土教は勢力を拡大し、そこで「阿弥陀だけへの信仰」が強調されて「地蔵」への傾きにブレーキがかけられていきましたが、阿弥陀にない「苦の肩代わり」の地蔵の役割は消されることがなく、浄土に住まず六道輪廻の衆生の世界にあって、慈悲の心で人々の罪を代わり受ける地蔵は「身代わり地蔵」の信仰となって生き続けたのでした。

 

 こうして室町くらいになると、地蔵はこの俗世にあって信者の危難や病気、苦しい作業の肩代わりをしてくれるものとして、たとえば「泥つき地蔵」など田植えの苦労を減じてくれたり、さらに武士階級にまで広がって戦場での身代わり、たとえば「矢取り地蔵」などというものまで信仰対象となり、足利尊氏がこの地蔵の信仰に熱心となり武士階級に広まっていきました。

 

 さらに14世紀頃から民衆の間での信仰は拡大して「六地蔵(輪廻の世界である六道すべてにおいて衆生を守るという信仰)」が発展して道の辻々に建てられたりしていき、「道祖神と習合」していきます。また死んだ子どもを賽の河原で鬼から守る守護霊としても信仰され、江戸期には「延命地蔵」「子安地蔵」など多くの地蔵崇拝が確立していき、はては「とげ抜き地蔵」やら「瘡地蔵」などの厄介をも守護する庶民に親しみある信仰となっていきました。

 

 以上でざっと日本での仏教の特徴をみてきたわけですが、仏教というものの持っている性格がさまざまに展開していることが理解されたかと思います。ある意味で日本は仏教の展開の極点までいっているような気がします。

 

 ただ、今日仏教の力が一般庶民にどれだけの影響力をもっているかとなると、かなり首をかしげなければならない状況にあるようです。今後、日本がどういう道をたどることになるのか、あるいはたどるべきなのか、こうした仏教の在り方、また「神道」の在り方などをみることによっても、一つの考えかたが生まれてくるような気がします。

2022/04/18

北魏(1)

北魏(拼音: Běi Wèi386 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し華北を統一して、五胡十六国時代を終焉させた。

 

国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には、東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。

 

建国期

鮮卑の拓跋部では、三国時代の261年、拓跋力微が曹魏に対して朝貢を行っているが、このことが後に国号を魏に定める由来となった。拓跋部は、その後五胡十六国時代に代を建てた。代は860余年続いたが、37612月に拓跋什翼犍の時に前秦の苻堅に滅ぼされた。この際、拓跋什翼犍の孫(『宋書』では子)の拓跋珪は母と共に母の出身部の賀蘭部に逃れ、さらに前秦支配下で代国東部を統治していた独孤部の劉庫仁の下に身を寄せた。

 

その前秦が、38310月の淝水の戦いで東晋に大敗を喫して弱体化する。38410月に劉庫仁が死去すると後継者争いが起こり、拓跋珪はまた賀蘭部に逃れたが、前秦崩壊による諸民族自立の波は北方にも波及し、3861月に賀蘭部の推戴を受けて牛川(現在の内モンゴル自治区ウランチャブ市チャハル右翼後旗)で代王に即位して登国と建元し、4月には魏王と改称した。これが北魏の建国である。しかし建国当初の北魏の支配圏は盛楽(現在の内モンゴル自治区フフホト市ホリンゴル県)を中心とした限定的な地域だけで、かつての代よりその勢力は弱小な小国に過ぎなかった。

 

道武帝の勢力拡大

北魏は当初、後燕と同盟を結び連携して3877月に劉庫仁の後継者劉顕を破り、39112月には代の旧領西部を統治していた劉衛辰を滅ぼし、さらに前後して柔然や高車などにも攻勢に出て、オルドスからモンゴルに至る地域の大半を支配下に置いた。しかし、このような急速な勢力拡大は後燕と衝突する事になり、北魏が後燕と対立していた西燕と同盟を結んで敵対した。西燕が3948月に後燕により滅ぼされると、3955月に後燕皇帝慕容垂は皇太子慕容宝に10万の軍を預けて北魏を攻撃させ、対する北魏はオルドスまで後退して対峙し、11月に現在の山西省陽高県の参合陂の戦いで後燕軍を壊滅させて、後燕との力関係を逆転させた。

 

3963月に慕容垂の反攻を受けて平城を失い敗退するが、4月に慕容垂が急病により陣没し、慕容宝が跡を継ぐと後燕は皇族の内紛などで急速に弱体化したため、6月に北魏は広寧(現在の河北省涿鹿県)・上谷(現在の河北省懐来県)を奪取し、9月には并州(現在の山西省)を平定した。

 

東方においては、後燕の本拠地ともいえる冀州に侵攻して常山(現在の河北省石家荘市)を奪い、後燕の首都中山(現在の河北省定州市)や信都(現在の河北省衡水市冀州区)・鄴(現在の河南省臨漳県)を除く地域も制圧した。信都は3971月に陥落させ、中山は後燕の内紛で慕容宝の弟慕容麟が自立していたのを奪って、鄴も3981月に平定して、後燕から黄河以北の地をほぼ奪って中原の支配者となった。2月に後燕より中山を攻撃されるが撃退した。

 

こうした勢力拡大を背景にして、拓跋珪は7月に平城(現在の山西省大同市平城区)に遷都し、12月に皇帝として即位し道武帝となった。道武帝は慕容垂時代の後燕における漢人知識人の名臣を用いて国家体制や支配制度の整備に尽力し、これまでの五胡王朝が中原を支配すると、そちらに遷都した例を破棄して平城にこだわったのはここを中心とした牧畜地帯に基盤を置いて、中原の農耕地帯を支配する体制を取るためで、道武帝の時代に北魏の基礎は確立された。

 

その後、北魏は後燕や分裂して成立した南燕に圧力をかけ、後燕滅亡後に成立した北燕に対しても圧力をかけた。また当時、北魏と同様に勢力を拡大していた後秦とも衝突し、4025月に後秦軍により平陽が攻撃されたので、北魏は道武帝が親征して柴壁の戦いで後秦軍を撃破した。しかし当時の北魏には後秦を滅ぼすまでの力は無く、407年に和睦した。

 

道武帝はこうして勢力を大幅に拡大したが、40910月に次男の拓跋紹に殺害された。

出典 Wikipedia

2022/04/16

臨済宗、曹洞宗、日蓮宗 ~ 日本の仏教宗派と信仰形態(3)

 出典http://ozawa-katsuhiko.work/

臨済宗

 中国の臨済義玄を開祖とする「禅宗」で、「栄西」によって日本に伝えられました。禅というのは「教理」によって悟りを得るのではなく「座禅という行」そのものから悟りを得ようとするもので、したがって特定の経典なども持たないのが本来です。

 

 禅だけが要求されるのですが、その禅の在り方の理解に宗派としての違いがあり、臨済宗の場合には、開祖以来の「公案」という全く非論理的な問題が与えられ、それに「答え」を出すことが要求されました。もちろん論理的に答えなど出るわけもなく、言ってみれば「無茶苦茶なたわごと」の態を示していますので、これと格闘しなければならず、その中で宇宙の実相を捉えて行こうとしたのです。通常「公案禅」と呼ばれるやり方です。

 

 また禅宗はどの宗派も同様ですが、「日常生活そのものが禅」であるとして、日々の労働をいわゆる「座禅」と区別はせず大事な行の一つと見なしています。

 

 一方、臨済宗は過去に朝廷・貴族と堅く結び付いており、いわゆる「五山」が定められ、ここから五山文学などが生まれたりしたのですが、他方、どこの宗派にも見られた「政治権力の拒絶」の流れもあって、現在の臨済宗はこの「拒絶派」の流れにあります。建長寺や大徳寺、妙心寺などがその中心で、これらを、その祖の名前をとって「応燈関の一流」などと呼んでいます。

 

曹洞宗

 これも禅宗の一つで「道元」によって創始されました。こちらは臨済宗とは違って「座禅」一本です。これはつまり、修行と悟りは「同一」であるので、したがってただひたすら座禅だけしておればよいという考え方です。これを「只管打座(しかんたざ、ひたすら座禅する)」と言う言葉で表し、曹洞宗の中心概念になっています。座禅に専念している中に、煩悩のからだに浄化の心が、凡夫の身に仏が顕れ出てくるというわけで、ですから「座禅の姿が仏である」ということにもなります。

 

 一方、臨済宗と同様、日常生活を禅そのものと見なし、生活の一つ一つは生きるための「手段」ではなくそこに生そのものがあり、自分の計らいで生きているのではなく「生かされてある人間」のありようを理解しておかなければならないとなります。この道元の思想は『正法眼蔵』という書に書かれ、日本思想史の上でも重要な書物となっています。この曹洞宗の総本山は、福井県の「永平寺」です。

 

日蓮宗

 名前のとおり「日蓮」が開祖ですが、彼も天台宗に学び、のち独立したもので、彼は「法華経」一本槍という方向をとりました。彼に限らず、天台宗から独立していったものは、その教えのどれかを「一本」としたものとも言えるのですが、ただ彼の場合、この「一本化」ははなはだしく、その宗教的熱情は常人を越え、そこから他のものは一切認めないばかりか激しい攻撃を加えるという非常に「攻撃性・排他性」を持っています。

 

 この激しい攻撃性は、この宗の特徴の一つともなります。仏教教理的には、浄土宗系が「阿弥陀の名号を唱えるのみ」というのに似て、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えること一本と言えます。この根拠は、天台宗のところで紹介した「法華経」の精神そのものにあるわけですが、日蓮の独特なところはその救済を人間の心のレベルのこととしてのみ捕らえるのではなく、「国家」のレベルにしてしまったことです。

 

 つまり端的に言えば「国家そのもの」が「法華経」によって建設されている「仏の国」でなければならないというわけで、ここからこの日本に法華経以外の信者がいることなど許せないという態度になっていったのでした。日本人は全員法華経信者でなければならず、「法華経の法華経による法華経信者のための政治にして法華経の国家」とならなければならないとされたのです。

 

ですから他宗への徹底的攻撃となっていったのです。こうした彼の立場を表しているのが『立正安国論』でした。ここは、こうした政治イデオロギーという性格を持ってしまったため内部分裂も激しく、内紛が絶えませんでした。またこういう性格が現在「創価学会」という日蓮宗から出た分派が「公明党」という政治政党を作ったこととも関係しているわけです。

2022/04/14

女媧 ~ チャイナ神話(6)

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本来の表記は「女媧」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

 

女媧と伏羲

女媧(拼音: Nüwa)は、古代中国神話に登場する人類を創造したとされる女神。三皇の一人に挙げる説がある。姓は風、伏羲とは兄妹または夫婦とされている。

 

概要

姿は蛇身人首であると描写される文献が残されており、漢の時代の画像などをはじめ、そのように描かれている。笙簧(しょうこう)という楽器の発明者であるともされる。

 

『説文解字』での解説をはじめ、女神であるとされるのが一般的である。『世本』「氏姓篇」のように性別を男としている例(「弟」と示されており、「女」という氏族であることから「女皇」と称されたという)も見られ、伏羲の配偶者・女神として描かれる文献が確認される時代が新しいものであった点から、「性別は本来は男であった」とされる説が中国などの学者間でも強く存在していたが、考古学方面での墳墓の壁画や石棺・帛画などの発見や人類学方面での伝承の採集により、女媧は女神として存在していたという説が主流となるに至っている。

 

人類創造

人間を創った存在であるとされており、女媧が泥をこねて創ったものが人類のはじまりだと語られている。後漢時代に編された『風俗通義』によると、創り始めの頃に黄土をこねて丁寧に創った人間がのちの時代の貴人であり、やがて数を増やすため縄で泥を跳ね上げた飛沫から産まれた人間が凡庸な人であるとされている。

 

『楚辞』「天問」にも「女媧以前に人間は無かったが、女媧は誰が創ったのか」という意味のことが記されており、人間を創造した存在であるとされていた。また『淮南子』「説林訓」には70回生き返るともあり、農業神としての性格をも持つ。

 

伏羲と共に現在の人類を生みだした存在であると語る神話伝説も、中国大陸には口承などの形で残されている。大昔に天下に大洪水が起きるが、ヒョウタンなどで造られた舟によって兄妹が生き残り、人類のはじめになったというもので、この兄妹として伏羲・女媧があてられる。このような伝説は苗族やチワン族などにも残されている。聞一多は、伏羲・女媧という名は葫蘆(ヒョウタン)を意味する言葉から出来たものであり、ヒョウタンがその素材として使われていたことから「笙簧」の発明者であるという要素も導き出されたのではないか、と推論仮説している。

 

天地修復

『淮南子』「覧冥訓」には、女媧が天下を補修した説話を載せている。古の時、天を支える四極の柱が傾いて、世界が裂けた。天は上空からズレてしまい、地もすべてを載せたままでいられなくなった。火災や洪水が止まず、猛獣どもが人を襲い食う破滅的な状態となった。女媧は五色の石を錬(ね)り、それを使って天を補修し(錬石補天)、大亀の足で四柱に代え、黒竜の体で土地を修復し、芦草の灰で洪水を抑えたとある。

 

祭祀

武梁祠などの石室に画像が描かれている(武氏墓群石刻)。下半身が蛇体となった姿をしており、女媧と伏羲とが絡みあった形状で描かれる。清の時代には、瞿中溶によって『漢武梁祠画像考』が編まれている。

 

道教に取り込まれてのち、仏教の神仏習合の理論の上では阿弥陀如来によって遣わされ、出現したばかりの地上の世界を造った中国の伝説上の存在として、伏羲と共に説かれた。日本でも仏教側の立場から編まれた神道論集の一つである『諸神本懐集』(14世紀)では、女媧の本地は宝吉祥菩薩(勢至菩薩・月天子)であるとの唐の時代の説が収録されている。

 

縄の発明者葛天氏と同じく、伏羲の号に属するとされる説がある[要出典]

 

女媧と伏羲の組み合わせが地上のはじめの男女であるという定義は、中国の民間宗教にも広く用いられており、『龍華経』でも人間たちの祖先としてつくりだされた世のはじまりの陰陽一対の存在の名として、張女媧と李伏羲という名が記されている。

 

日本への伝来時期

日本における文献への登場例は、『続日本紀』(巻3)慶雲3年(706年)113日条に、文武天皇が新羅国王に対し、「漸無練石之才」と女媧による錬石補天を引用した文書を送っていることから、少なくとも律令時代には認識されていたことがわかる。

 

道教に組み込まれた上での女媧・伏羲についての信仰が日本に渡来した時期に関しては、早い時期で紀元前1世紀(弥生時代中期)説がある。鳥取市の歴史研究家の小坂博之の考察によれば、鳥取県国府町所在の今木神社が所有する線刻された石に描かれた胴が長い人絵が女媧・伏羲に当たるとしている(石の大きさは、直径75センチ、短径63センチ)。

 

調査によれば、「鳥」「虎」と読める漢字も刻まれており、その書体から中国山東省に残る「魯孝王刻石」(紀元前56年成立)にある「鳳」の中にある鳥が最も酷似し、隷書体の中でも古い時代にある古隷の書体と考えられている。

 

『淮南子』(前2世紀成立)では、「鳥」は無道・殺りくの神を表し、「虎」は兵戦の神を表している。このことから、「天地再生・人類創造の神である伏羲と女媧に祈り、兵戦の神(虎)と無道・殺りくの神(鳥)を遠ざけ、災厄の除去を願ったもの」と解釈されている(しかし、この神の性格が兵戦の神(虎)と無道・殺りくの神(鳥)である可能性も考えられる)。刻石自体が亀甲と形状が類似することから、甲を用いた占いと共通し、『淮南子』の知識を有したシャーマンか王が用いたと考えられている。

出典 Wikipedia 

2022/04/07

スエビ族 ~ 民族移動時代(16)

スエビ族(英: Suebi、西: Suevos、独: Sueben、阿: Suebe、仏: Suèves、羅: Suebi)は、古代ヨーロッパの民族。「スエヴィ」「スエボス」「シュエビ」「スウェイビア」とも呼ばれる。

 

タキトゥスの『ゲルマーニア』に言及があり、いわゆるゲルマン系に属する民族として描かれるがケルト系の説もあるなど、その民族系統は不明である。

 

歴史

スエビ族は元々、バルト海南部を故地とするという。ローマでは、バルト海南東海域がスエビの海(Mare Suebicum)と呼ばれた。紀元前からゲルマニアに住み、ローマ領やガリア(現在のフランス)の地へ侵略を繰り返した。ローマでは民族移動時代の前では、ゲルマニアに住む民族のうち最強の民族として知られていた。帝政期に入ってからもたびたび侵略し、スエビ族らの攻撃を防ぐためローマ帝国はリーメスを建設する。

 

アリオウィストゥスの時代-ガリア戦記の記述

カエサルのガリア戦記第一巻には、最大のライバルの一人としてスエビ族長アリオウィストゥスの名が残されている。紀元前71年ごろにアリオウィストゥスは多くのゲルマン人部族を率いてライン川を渡りガリア人の戦争に介入、ガリア内に一大勢力を築きローマとも関係を持った。紀元前58年にガリア人から救援依頼を受け、ガリア遠征を開始したカエサルと衝突、ウォセグスの戦いで惨敗してゲルマニアに敗走した。

 

その後、彼が再びガリアに侵入することはなかった。ガリア戦記におけるスエビ族は「文明を知らぬ野蛮人」であるが非常に身体が大きく勇敢で、戦闘に優れた民族であると記されており、愚鈍などの形容はされていない。またアリオウィストゥスが12万人と称する多数のゲルマン人や部族を結集し自ら指揮を執ったことは、当時のゲルマニアにおけるスエビ族の優位性と指導者の権力の強さをうかがわせる。

 

アリオウィストゥス率いるスエビ族やマルコマンニ族のライン川やエルベ川方面への西方移動は、マルコマンニ族の王国の終焉を示す資料がボヘミアで見つかっていることもあり、その始まりから考古学的に追うことが可能である。豊かな副葬品をもつこれらゲルマン人の墓は、1930年代にテューリンゲン州でも発見されている。

 

ガラエキアの王国のスエビ族

ゲルマン民族の大移動の時期、一部のスエビ族は、陸路、あるいは、海路からイベリア半島のガラエキア(現ガリシア)地方に411年に定住し、スエビ族のガリシア王国(409 - 585年、ガリシア王国)を築いた。419年に、アラン族とヴァンダル族を追放し、原住民やローマ人とガラエキアを分割し、農村地帯を支配したといわれる。5世紀中葉に最初の全盛期を迎え、ガラエキアにとどまらず、現アストゥリアス地方西部、現カスティーリャ・レオン地方西部と現ポルトガルの北部にまで、その版図は及んだ。

 

448年、アリウス派の西ゴート王国に対抗して、スエビ王レキアリウスはカトリックに改宗した。しかし、456年西ゴートに首都ブラカラ(現ポルトガル北端部)を占領され、レキアリウスは囚われて、457年ポルトゥカレ(現ポルトガル北端部)で殺害された。一方、ガラエキアでは、マルドラによって新王朝が建てられて、西ゴートの朝貢国になったり、西ゴートと共存を図ったりし、6世紀末までその王朝を維持することができた。マルドラ王朝は、純粋にスエビ族であったのか、若干混血しただけで、スエビの王権を主張したかは不明だが、後者の可能性が強いと考えられている。

 

マルドラの子、レミムンドゥスは、再びアリウス派に改宗したが、6世紀中葉にカトリックの影響力が強まったことや、正統教義を奉じるフランク王国や東ローマ帝国との交流があったことで、再びカトリックに改宗した。576年頃から西ゴートの攻撃が始まり、最後のスエビ王アンデカは、西ゴートの王位継承争いでカトリックに改宗したヘルメネギルドを応援し、西ゴート王レオヴィギルドに対抗したため、ブラカラとポルトゥカレを占領されて、王位を剥奪され、王国は585年に滅亡した。

 

現アレマン語圏のスエビ族

また、イベリア半島へ移動しなかったスエビ族もいた。カール大帝のフランク王国に仕え、アレマン公国を築いたアレマン人がスエビ族の一派とも言われる。彼らはライン川付近にある南西ドイツのシュヴァーベン(スエビの名から。英語ではスウェイビア、仏語ではスワーブ)、スイスのドイツ語圏、フランス領アルザスに定住しているアレマン語圏(南部ドイツ語の一種)の人々の先祖と言われる。

 

民族系統

タキトゥスの『ゲルマーニア』では、ゲルマニア文化に属する民族として記載されているため、長らくゲルマン系として扱われていた。しかし「ゲルマニア」は後世に判明した事実とは異なる部分が多く、スエビへの言及についても疑問が持たれている。

 

タキトゥスより後の歴史家カッシウス・ディオは、「スエビ人はライン川に定住するまではケルト人と呼ばれていた」と述べており、ケルト系民族であることを示唆している。

 

ガリア戦記によると、ガリア系民族からはゲルマン人の一部と見なされていたようである。

出典 Wikipedia

2022/04/05

真言宗、浄土宗、浄土真宗 ~ 日本の仏教宗派と信仰形態(2)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/


真言宗

 最澄の天台宗と並ぶ日本仏教の礎石の一つで「空海」によって築かれました。この派は最澄が「総合的仏教」を志したのに反し、ここは「密教一筋」です。彼は最澄と同じく中国に渡り、恵果について密教を学びました。そして持ち帰った経典を朝廷に献上し、「嵯峨天皇の強い支援」を得るのに成功して、ここに真言宗は大きな勢力となる基盤を得られます。

 

 この空海の真言宗が朝廷に気に入られたのは、もちろんこれまでの奈良仏教が強大になり過ぎて朝廷の手に負えなくなり、新しい仏教にそれと対抗させようとした理由も確実ですが(それは最澄にも期待されていました)、特に真言宗の場合にはその呪術的性格が朝廷の「護国・鎮守の願い」と合致したからだと考えられます。

 

 ただし、もちろん仏教教理的には本来の仏教の目的としての「大日如来」と合一することが求められたものですが、その性格に民間信仰が加わっていたために「悪霊退散」的な呪術的性格があって、これが朝廷に気に入られたのです。

 

 ところで、これが「密教」と呼ばれるのは、釈迦以来の教えは「人間にわかる言葉に顕れて」はいるが、言ってみれば影のようなもので「真実は秘されている」とするからです。その「秘されている」教えを得て仏になるというわけなので「密教」と言われてくるわけです(これまでの教えは「顕れ」ている、というところから「顕教」と呼びました)

 

 しかし、その真実は大日如来によって常に語られてはいるとします。ただ人間の身では「煩悩」のためにこれを聞くことができないので、修行してこれを聞けるようになるのが目的だ、とされてくるわけでした。

 

 そしてこの場面で、あたかも太陽が池に映っているように、大日如来(太陽)は我が身(池)にあり、池の水が太陽を映すように、我が身(我)は太陽(大日如来)を映している、とします。これを「梵我一如」といいますが、この状態を「加持」と言っています。これには「身体、口、意」の三つ(これを「三密」といいます)のすべてがそうなっていなければならないので「三密加持」と言います。つまり、その身体においては「印契」を結び、口には「ダラニ」を、そして意において「瞑想」するわけですが、その瞑想が「曼陀羅の世界」であったり、あるいは「阿字観」と呼ばれる世界の始めを瞑想することでした。こうして人間でありながら成仏できるとする「即身成仏」の考えが示されてきます。かなり神秘的な教えで、これがまた人気の一つでもありました。

 

 一方、この派の中には一般民衆の中に入って「呪い」などをする傍ら、庶民の相談相手になったり、土木工事をしたり医療をしたりする「聖(ひじり)」も多くでて「高野聖」と呼ばれて親しまれました。この「聖」たちの仕事が全部「空海」の仕事にされてしまい、そのため空海は日本全国に名前を残すことになったのですが、事実は名もない地位もない「民衆の中にいた僧」たちの仕事だったのです。空海はじめ真言宗の長老たちは天皇の傍らにあり「護国・鎮守」の勤めを果たしており、それは今日でも変わりません。

 

 こうした「政治・経済権力との結合(教団組織)」と「教理への従順(修行者)」そして「一般民衆の立場へ(「聖」など民衆の中の僧)」という「三極分裂」はキリスト教やイスラームにも厳然として観察される「社会宗教」に普遍的にみられる現象であり真言宗だけの問題ではなく、また他の仏教宗派にも確実にある現象ですが、とりわけこの真言宗はそれが極端に現れているとも言えます。

 

 真言宗の本山は「高野山の金剛峰寺と東寺」になります。なお、この真言宗は別の宗派を生み出すことはしませんでしたが、数えきれないほどの分派を持っています。

 

浄土宗

 天台宗に学んでいた「法然」によっておこされたものですが、この時代、平安から鎌倉にかけて、世の中が多いに乱れ、いわゆる「末法思想」が蔓延していました。法然はこれを憂い、万民のための仏教を企図して行きます。こうして「ただ阿弥陀仏の名前を唱えるだけで成仏できる」とする「専修念仏」の道を示していきました。

 

 これを、これまでの修行によるものを「難行道」と呼ぶのに対して、「易行道」と呼んでいます。あるいは、前者は「自力門」とも「聖道門」とも呼ばれ、後者は「他力門」、「浄土門」とも呼ばれます。

 

 法然が、こうした道へと赴いたいきさつについては、当時の天台宗が権力争いに終始していたのに絶望して山をおり、43歳の時、中国の善導の著作に

 

「一心に専ら阿弥陀の名前を唱えて心に念じ、生活の全てをここにかけるのが正しい在り方である、なぜならそれが阿弥陀仏の願いにかなうことだから」

 

とあったのに惹かれたからだと言われています。

 

 阿弥陀仏はまだ修行中の身で「法蔵菩薩」であった時に48の誓願を立て、その中の18願に「自分に帰依すると誓った者は例外なく仏の国に救い取れる」とあり、そして宝蔵菩薩は長い修行の末に晴れて「阿弥陀仏」となったので、この誓願はすべて成就しているとされるのです。つまり18願通り「南無阿弥陀仏と唱えた者は例外なく阿弥陀の国である極楽浄土にすくい取られる」ことが約束されているとされるのです。 したがって彼は阿弥陀仏だけに帰依し、そのお経のみを拠り所としましたが、それが「無量寿経」と「観無量寿経」、「阿弥陀経」のいわゆる「浄土三部経」と呼ばれているものです。

 

 なお、浄土というのは「仏の国」の総称となりますが、「阿弥陀仏の仏国」は「極楽浄土」と呼ばれます。仏の国は無数にあり、浄土はそのうちの一つです。有名なところでは「薬師如来」の「浄瑠璃浄土」などがあります。浄土宗の総本山は京都の知恩院です。

 

浄土真宗

 「親鸞」によって始められたものですが、彼も天台宗に学んでおり、29歳の時山を降りて法然の弟子となりました。彼は「法然に騙されて地獄に落ちたとしても構わない」と言っている位ですから、その教えの根幹は浄土宗と変わりません。要するに、それをさらに一歩推し進めたものと言ってよく、彼は往生のきっかけは「念仏を唱えた時」にあるのではなく、「阿弥陀を信じたその時にある」としました。つまり彼にとっては「行」よりも「絶対帰依」という「信」の方に重きがあるのです。

 

 また彼は「僧席」にあるもののみが成仏できるとした従来の教えを拒否して、いわば在野に降りて、「半分僧侶、半分俗人」として一般庶民の仏教を志しましたので、僧席にあるものには禁止されていた「肉食」、「妻帯」まであえておこなって行きます。これ以降、僧侶の妻帯が見られるようになってしまったのですが、親鸞のように己の全存在をかけた哲学的思索の末にたどり着いた結論として在野にあることを信条とした者ならともかく、通常の僧侶が妻帯するのは本来では決して許されることではないのですが、どういうわけか今日では普通になってしまいました。

 

 また親鸞というと必ず紹介されるのが「悪人正機」というものですが、これは「欲望・煩悩のうちにあって苦しんでいる者(悪人)こそが、それを悟らず自らを正しいとしている者(善人)より阿弥陀の救済にあずかり得る」という「人間洞察」の哲学なのであって、「悪いことばかりしている犯罪的な人間の方が救済される」と言っているわけではありません。むしろ、日々の生活の中で煩悩によって罪を犯さざるを得ない人間の在り方を認知していなければならないということなのです。むろんこれは、いわゆる善行などを積んで「自分こそは善人であり、まずもって救済の対象となるだろう」という「おごり」を諫めたものとも言えます。

 

 さらに彼の思想には「浄土に行きっ放し」になるのではなく、往生した者は「再び戻って」衆生の救済にあたらねばならない、という「還の道」が説かれ、相当に独特な哲学があることも特筆されるでしょう。有名な『嘆異抄』は弟子の唯円の筆になるものですが、親鸞の思想を鋭く要約して示してくれている名著の一つです。

 

 しかし、この浄土真宗も親鸞の心とは大きく離反し、互いに分派活動を繰り返し、権力争いに明け暮れるようになってしまいました。京都の「東本願寺(大谷派)」と「西本願寺(本願寺派)」が有名ですが、他に八派あり合計十派となりますが(俗に真宗十派と呼びます)、さらに細分化されています。