2018/01/30

卸売市場取引の流れ/農林水産庁Web

卸売市場取引の流れ

2)卸売市場外の流通(青果物・水産物)

青果物や水産物を中心とした食材の流通は、卸売市場の卸売業者が集荷して流通する卸売市場流通の比率は極めて高いものであったが、社会経済的な条件や技術革新等の変化を受けて、近年、流通経路はより複雑多岐にわたっており、市場外流通が大きく伸びてきている。

 

市場外流通の最も単純なものは、消費者が生産者から直接生鮮食料品を購入するものであり、産地での朝市、生産者直売所等がある。最近では、道路沿いにある「道の駅」での販売や、インターネット販売をはじめとする産地の業者等からの宅配便による通信販売が大きく伸びている。

 

出荷者(生産者・出荷団体・集荷業者)が卸売市場を通さずに大口需要者、加工業者と食材や加工用原料の供給契約するものがあり、例えば、惣菜用、レストラン業務用、漬物加工用食材などである。また、小売業者が産地直送産品として販売用に契約購入するもの、料理店が産地からの食材を直接購入するものなどもある。

 

産地市場での買付業者(仲卸業者、小売業者、加工業者等)から卸売市場を通さずに直接消費地の小売業者、消費者に販売するものもある。

 

輸入品については、卸売市場を経由する物のほか、商社から大口需要者、加工業者、小売業者に直接取引する流れもある。

 

青果物については、全国農業協同組合連合会が管理・運営する全農流通センターを経由して、小売業者等に流通するものもある。

 

3)食肉市場の主な流通(食肉)

食肉(牛肉、豚肉)の中央卸売市場への流通経路の基本パターンは、生産者が生体を生産者団体や集出荷団体(家畜商)また家畜市場に売却し、そこを経由して卸売市場に生体として入荷するほか、国の補助を受けて設置された、と畜解体設備を有する流通施設である「食肉センター」や、部分肉取扱業者を通じて卸売市場に枝肉や部分肉が入荷する。

 

また、生産者から食肉センターや、と畜場へ生体で売却された後、食肉加工業者等を経由して大口需要者、量販店、小売店等に届き、最終的に消費者に販売されるという「場外流通」がある。食肉市場は従前から、この場外流通が主流である関係上、卸売市場の経由量は低くなっている。なお、輸入食肉(冷蔵、冷凍部分肉)は商社を通じて食肉加工業者に売却され、以下は同様に流通する。

 

中央卸売市場の主な流通経路(食肉)

中央卸売市場の卸売業者は、生産者(出荷団体等)から集荷した生体を市場内で枝肉、部分肉に食肉処理をする。また、食肉センター及び部分肉取扱業者から枝肉や部分肉を集荷する。卸売業者はこれらの枝肉や部分肉を、せり売りまたは相対売りにより、適正な卸売価格を付けて売買参加者(卸売業者及び小売業者等)に販売する。

 

売買参加者は、買い付けた枝肉については部分肉に加工処理し、食肉加工メーカーや食肉問屋へ販売するほか、大口需要者や小売業者やレストラン等飲食店に販売する。消費者には精肉に加工処理したものが販売される。

 

内臓・原皮については、関連事業者を通じ、内臓小売業者、原皮加工業者等に販売され、消費者に届く。

 

京都市中央卸売市場第二市場(食肉)の事例(平成234月現在)

卸売業者数       1      (京都食肉市場株式会社)

売買参加者       260   (卸売及び小売業者等、京都食肉買参事業協同組合)

関連事業者       3      (京都副生成物卸協同組合など)

 

4 価格形成の仕組み

青果物・水産物である生鮮食料品は、かつては卸売市場の経由率が高かったことから、それらの価格形成には中央卸売市場の「委託集荷」による「せり売り」が中心となって決定されてきたと言っても過言ではない。

 

「委託集荷」は、出荷者が値段を決めずに卸売業者に商品の販売を委託することであり、販売委託の申込みがあれば拒むことが出来ない。集荷方法では、もともと委託集荷が原則であった。また、出荷者と卸売業者が値段を決めて買い取る方式を「買付集荷」と言い、平成16年以前は例外的な措置として開設者の許可が要るものであった。

 

中央卸売市場の主流であった「せり売り」以外の取引方法としては、卸売業者が仲卸業者である買付人と11で価格を交渉して決める「相対売り」がある。

 

近年においては、市場外流通が増加し、加工品(冷凍物など)や輸入品の増加等により、古くから中央卸売市場の取引の中核をなしていた「委託・せり方式」は減少し、「買付集荷」や「相対売り」が増加している。

 

せり売り比率は、青果物が平成元年度87.8%であったものが平成20年度では18.7%まで大きく落ち込んでおり、水産物も47.5%から20.8%まで落ちている。水産物は以前から相対売りが多かった。また、委託集荷比率は、青果物が平成元年度87.6%から同様に67.4%へ、水産物は42.7%から27.0%まで落ちている。水産物は以前から買付集荷が多かった。なお、京都市場の特徴は、従前から他の卸売市場に比べて委託集荷の割合、せり売りの割合が共に高いことである。

 

なお、委託集荷の場合は、産地には出荷奨励金として売上金の何%かを、地域開発などの名目で卸売業者から支払う。青果関係は、昔からの長い付き合いの中で委託が多くなっているようである。買付集荷の場合は、この制度の適用は無い。

 

食肉については、委託集荷は93.5%で、せり売り比率が85.8%であり、せり売りによる価格決定がかなり高いウエイトを占めている。

2018/01/29

カースト


 たとえば最近インドで柔道を教えている日本人の話を読みました。子ども達を集めて指導しているんですが、まだ小さいときはみんな喜んで乱取りをするんだって。ところが8、9歳くらいになると決まった相手としか乱取りをしなくなる。お前とお前が組め、とその人が命令すると渋々組むんですって。組むけど相手の身体に触れないように、チョイと胴着の端をつまむようにしてね。その日本人の先生は、初めは理由が分からなかった。何年かして分かったんだって。カーストが違うと組みたくないんだ。特に相手が不可触民だとね。インドの子ども達も8、9歳くらいになって、カースト制の文化の中で生き始めていくんだね。
 
インドでは、新聞での結婚広告というのが盛んです。自分のプロフィールとか希望相手の条件なんかを新聞に載せるんですが、必ず自分のカーストを載せます。それ以外のカーストの人とは結婚しないことが前提なんですよ。もし違うカーストの男女が恋愛して、結婚しようとしたらどうなるか。多分、親族やカースト仲間から猛反対です。それでも結婚したらどうなるかというと、二人はカーストから追放され、不可触民にされるんです。二人の間に生まれた子供も不可触民です。とんでもないでしょ。結婚差別だね。

 就職差別はどうか。例えば、あなたがインド旅行でカルカッタの食堂に入った。ウェイトレスのお姉さんが、注文を取りに来ます。彼女は、どの身分でしょうか。

バラモン、クシャトリア?
それとも他人にサービスする仕事だから、下層身分かな?

 実は食堂なんかで働いている人は、コックさんも含めてだいたいバラモン身分だそうです。なぜか分かりますか。もしシュードラ身分の人を雇ったら、その店にはバイシャ以上の身分の人は来ません。自分より下の身分の者が作ったり出した水や食べ物を口にしたら、自分の身分がケガレるからです。逆にバラモンが出す食事なら、どの身分の者でも口にすることができる。だから学校帰りや仕事帰りに、みんなでちょっと食事に行こうか、なんてことはインドではありえない。誰かを自分の家に食事に招待するなんていうことには、非常に神経質だそうです。相手が同じカーストでなくてはいけないからね。法律で身分制度が否定されていても、こんなふうに差別は続いているんです。いくら強調しても足りないくらい大きな問題だと思います。

 特に、ものすごい差別にあえでいるのが「不可触民」と呼ばれる人たちです。この不可触民に対する差別が、どれだけすごいか。山際素男という人の本でびっくりしました。この人はインドに留学していて、知り合いもたくさんいた。ある時、知り合いになったインド人に案内されてドライブにつれていってもらうんですが、田舎道を走ってる途中で白い服を着た集団が歩いていた。そしたら山際さんの乗ったクルマが、その中の一人をポーンとはねたんだ。山際さんびっくりして、今人をはねましたよ、止まって下さい、と言うんですが運転手のインド人の友人は無視して走り続けるの。振り返って見ると、倒れた人の周りにみんなが集まっているのが見えた。早く戻って手当をしなければ、と山際さんは運転手に訴えるんですが、聞いてもらえない。同乗している他のインド人も、ばつが悪そうに知らんぷりをしているんですよ。これはひき逃げだと当然、山際さんは思うわけ。
 
翌日、新聞にひき逃げの交通事故の事件が載っていないか探すけど載っていない。だけど、ひき逃げは事実だから気になってしょうがない。そこで、彼は知り合いのインド人を訪ねて、このことを訴えてまわるんですが、みんなは「そんなことは早く忘れなさい」って山際さんに忠告するんだね。あんな連中はどうだっていいんです、と言われる。はねられた人は、不可触民だったんだよ。衝撃を受けた山際さんは、それから不可触民の実態を彼らの中に入ってレポートしています。信じられないような話が、これでもかこれでもかと出てくるよ。

 インドの憲法は、カースト制を否定しています。実際は守られていないにしてもね。この憲法を起草したのが、インド共和国の初代法務大臣だったアンベードカル(1891~1956)という人です。このアンベードカルは、不可触民出身なんです。アンベードカルは不可触民でも、例外的に経済的に豊かな家庭に生まれて学校に行くことができました。で、ホントに幸運な出会いとかがあって上級学校に進むことができて、頭も良かったのでアメリカの大学に留学して博士号をとったんです。インドに帰ってから不可触民差別をやめさせる運動の指導者になって、いろんな経過で初代法務大臣になった人です。
 
この人の伝記を見てもすごいよ。例えば、学校で先生は彼のノートを見てくれないのです。質問にも答えてくれない。教師はバラモン身分です。ケガレるのがいやなの。それから体育の時間があります。終わった後は喉が渇くから、みんな水を飲む。水道はまだないから、水差しがあってそこからコップについで飲むんですが、アンベードカルは水差しに触らせてもらえない。そしたら親切なクラスメートがいて、水を飲ませてくれた。その飲ませ方というのがこうです。クラスメートはアンベードカルをひざまずかせて、上を向いて口を開けさせる。で、水差しからその口めがけて水をそそぐの。今、われわれがそんなことさせられたら屈辱的だよね。でも、アンベードカルにとっては、そのクラスメートが一番親切な奴だったんだ。やがて差別廃止の運動に取り組むのも理解できますね。
 
ところで不可触民人口は、どれくらいと思いますか。インド人口の約二割もいるんですよ。不可触民の問題は、決してごく少数の限られた人の問題ではありません。あ、少数者の問題なら無視していいというわけではないですよ。誤解のないように。

話を元に戻しましょう。このような身分制の始まりが、前1000年くらい。これがバラモン教と一体となって生まれてきます。最上級身分バラモンは神に仕えるものとして他の身分の者を、まあ、脅かして威張っているんだね。ところが段々と都市国家が成長し、都市国家間の交易も活発になってくると、王や貴族であるクシャトリア、商人であるバイシャが実力をつけてきます。バラモンの下でへいこらしていることに不満を持つようになるんですね。やがて、儀式ばかりのバラモン教に飽き足らない人たちによって、新しい哲学思想が生み出されます。さらにカースト制を批判する、新しい宗教も出現してきました。

2018/01/28

神道の「神」(古神道6)


神道における神(かみ)とは、自然現象などの信仰や畏怖の対象である。「八百万の神」と言う場合の「八百万」(やおよろず)は、数が多いことの例えである。

神道の神々は、人と同じような姿や人格を有する記紀神話に見られるような「人格神」であり、現世の人間に恩恵を与える「守護神」であるが、祟る性格も持っている。祟るからこそ、神は畏れられたのである。神道の神は、この祟りと密接な関係にある。神々は色々な種類があり、発展の段階も様々なものが並んで存在している。

神道の神の名前である神名は、大きく3つの部分に分けられる。例えばアメノウズメノミコトの場合
1.「アメ」ノ
2.「ウズメ」ノ
3.「ミコト」
となる。

この他に、その神の神得を賛える様々な文言が付けられることがある。例えば、通常「ニニギ」と呼ばれる神の正式な神名は「アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコト」である。

神名は、1.の部分を省略して呼ぶことがある。また、民俗学・神話学など学術的な場面では、神号(3.の部分)を略すことが多い。

「アメ」ノ(神の属性)
1」は、その神の属性を示すものであるとの説がある。最も多い「アメ」「アマ」(天)は天津神であること、または天・高天原に関係のあることを示すとの説もあるが、「天之冬衣神」など、明らかに国津神であるにもかかわらず「アメノ〜」と冠される神名もあるので成立しない説である。「クニ」(国)は国津神を表すこともあるが、多くは天を表す「アメ」のつく神と対になって、地面もしくは国に関係のあることを示す。「ヨモツ〜」(黄泉)は黄泉の国の神であることを示す。「」(穂)は稲穂に関係のあることを示すとの説もある。この部分が神名にない神も多い。

「ウズメ」ノ(神の名前)
2」は、その神の名前に当たる。これもよく見ると、末尾が同じ音である神が多くいることが分かる。例えば「チ」、「ミ」、「ヒ」、「ムス」、「ムツ」、「ムチ」、「ヌシ」、「ウシ」、「ヲ」、「メ」、「ヒコ」、「ヒメ」などである。これらは、神神習合が起こる前の各部族での「カミ」、あるいはマナを指す呼び名であったとも考えられる。「チ」、「ミ」、「ヒ」(霊)は自然神によく付けられ、精霊を表す(カグツチ、オオヤマツミなど。ツは「の」の意味)。「チ」より「ミ」の方が神格が高いとされている。[要出典]

「ウシ」(大人)、「ヌシ」(主。一説では「〜の大人」の略称とも)、「ムチ」(貴)等は位の高い神につけられるオオヒルメノムチ(アマテラスの別名)、オオクニヌシなど)。ムジナ、ミチ等動物と関連する可能性がある[要出典]

「ムス」(産)、「ムツ」(親)は何かを産み出した祖神を表す。「キ」、「ヲ」(男)「コ」(子)「ヒコ」(彦・比古・毘古)は男神、「ミ」、「メ」(女)「ヒメ」(媛・姫・比売・毘売)は女神に付けられるものである。特に「メ」のつく神の中には、巫女を神格化した神とみられる例がある。「」は国造(ミヤツコ)小野妹子など元は男性を表したが、藤原氏が女性名として独占し、近世までは皇后など一部の身分の高い女性しか名乗れなかった事から、現代では女性名として定着した。

「ミコト」(神号)
3」は、神号と呼ばれる。いわば尊称である。代表的なのは「カミ」(神)「ミコト」(命・尊)である。「ミコト」の語源は「御事」とする説と「御言」とする説とがある。後者は命令のことで、何かの命令を受けた神につけられるものである。例えばイザナギ・イザナミは、現れた時の神号は「神」であるが、別天津神より「国を固めよ」との命令を受けてから「命」に神号が変わっている

その他、『古事記』では、特定の神格についてはそれぞれ「神」なのか「命」なのか決まっている場合が殆どで、きっちり使い分けされているが、『日本書紀』では全て「ミコト」で統一した上で、特に貴い神に「尊」、それ以外の神に「命」の字を用いている。特に貴い神には「大神」、「大御神」の神号がつけられる。また、後の時代には「明神」、「権現」などの神号も表れた。

「神」という言葉の他言語との関係
日本語における「」という言葉は、元々は神道の神を指すものであった。ただし『日本書紀』には、すでに仏教の尊格を「蕃神」とする記述が見られる。16世紀にキリスト教が日本に入ってきた時、キリスト教で信仰の対象となるものは「デウス」、「天主」などと呼ばれ、神道の神とは(仏教の仏とも)別のものとされた。しかし、明治時代になってそれが「」と訳された。他言語においては、神道の神を指す場合は「kami」として、一般的な「神(god」とは区別されることもある。

語源
漢字の「神」は、祭祀を意味する「示」に音符「申」を付した字で、祭祀および祭祀対象である神霊の類を示す。また「神祇」とした場合は、地の神である「」に対し、天空にいる雷神の類を意味する。「神」字は、日本においては「カミ」と訓じられ、日本の神霊的存在の総称として定着した。

現代日本語では「」と同音の言葉に「」がある。「神」と「上」の関連性は一見する限りでは明らかであり、この2つが同語源だとする説は古くからあった。しかし、江戸時代に上代特殊仮名遣が発見されると「」はミが乙類 (kamï) 、「上」はミが甲類 (kami) と音が異なっていたことがわかり、昭和50年代に反論がなされるまでは俗説として扱われていた。

ちなみに「身分の高い人間」を意味する「長官」、「守」、「皇」、「卿」、「頭」、「伯」等(現代語でいう「オカミ」)、「龗」(神の名)、「狼」も、「上」と同じくミが甲類(kami)であり「髪」、「紙」も「上」と同じくミが甲類(kami)である。「 (kamï)」と「 (kami)」音の類似は確かであり、何らかの母音変化が起こったとする説もある。

カムヤマトイワレヒコ、カムアタツヒメなどの複合語で「」が「カム」となっていることから「」は古くは「カム」か、それに近い音だったことが推定される。大野晋や森重敏などは「ï」の古い形として「*ui」と「*oi」を推定しており、これによれば「kamï」は古くは「*kamui」となる。これらから「神」はアイヌ語の「カムイ (kamui)」と同語源だという説もある。現時点では、本居宣長が『古事記伝』のなかで「迦微(かみ)と申す名の義は、いまだ思い得ず」といっているように、語源についての明確な定説はない。
※Wikipedia引用

2018/01/27

ヘロドトス『歴史』(4)

ヘロドトスとトゥキュディデス

こうしたヘロドトスへの批判とも関連して、しばしば比較されるのが同じく古代ギリシアの偉大な歴史家として知られるトゥキュディデスである。トゥキュディデスは、その「実証的」な著述姿勢で名高く、使用する史料の選別を厳密に行う人物であった。トゥキュディデスは、ヘロドトスに対する最初期の批判者であるかもしれず、その著作『歴史(または戦史)』において、以下のような一連の文章を書いている。

 

かくして往古の状況は、私の究明したところでは以上のようなものであったが、しかし証拠の各々を次々に信じることは困難である。それというのも、自国のことであっても、過去の事件となると、その風説を人々は遠国の場合と同様に、無批判に受け容れあうものだからである。(中略)真相の究明(ゼーテーシス)は、多くの人々にとってかくも安易なものであって、むしろ俗説に走りやすいのである。

 

(中略)そして決して詩人たちが事件について誇張して賛美しているものとか、物語的史家たちが真相よりも耳に訴えることを目指して述作したものの方を信じてはならない。これらの史家の物語ることは検証不可能であり、その大部分は時間の経過故に物語的要素に圧倒されており、信じがたいのである。

 

(中略)他方、戦争中に為されたことの事実については、偶然に出会った人から聞いたとおりに、また自分の思われたとおりに記述すべきではなく、自分が遭遇して目撃した場合でも、また他人から聞いた場合でも、その各々について可能な限り厳密に検討した上で書くべきだと考えた。ところが、それぞれの事件に遭遇した人々でも、同一の事件について同一のことを語らず、各人の両者(引用注:アテナイとスパルタ)いずれかに対する好意や記憶の程度によって相違したから、事実の確認には苦労を重ねた。それゆえ本書は物語めいていないので、恐らく聴いて余り面白くないと感じられるであろう。(中略)これは一時の聴衆の喝采を争うためではなく、永遠の財産として書きまとめられたものである。

—トゥキュディデス、『歴史』巻1§20-23、藤縄訳。

 

これらは、ヘロドトスの執筆姿勢に対する批判を試みたものであるとも考えられる。トゥキュディデスは、ヘロドトスが使用した「ヒストリエー」(調査・探求)ではなく、「ゼーテーシス」(追求・究明)という用語を採用した。それがヘロドトスに対する批判的姿勢の現れであるか、先人を憚ったものであるのか見解は分かれるが、いずれにせよヘロドトスを意識した結果であろう。

 

また、ヘロドトスがしばしば1人称で語るのに対し、トゥキュディデスは客観性を重視してか3人称による記述を徹底しており、自らが直接関わった事件についても3人称で記述している。このようなトゥキュディデスの執筆姿勢は、伝統的に厳密・公正・客観的であるという高い評価がされており、ヘロドトスが「歴史の父」とされるのに対し、近代にはトゥキュディデスは「実証的歴史学の父」「科学的歴史学の祖」と呼ばれたりもするようになった。

 

古代において、この「実証的な」トゥキュディデスに比べ、ヘロドトスの評価はかなり厳しいものであったと見られる。しかしこうした評価は、今日ではかなり変化している。なぜならば、ヘロドトスがしばしば情報の出所や、情報の種類(伝聞であるか、目撃したものか、推論か)を読者に提供し、また複数の異説を併置して判断を委ねるのに対し、トゥキュディデスは通常こうした情報源自体を読者に提供することはなく、彼自身が複数の情報を取捨選択してたどりついた「真実」のみを提供している場合が多いためである。これは、結論にたどり着くまでの情報の出所を確認し、複数の情報を比較して信頼性を検討して結論の裏付けを行うという、現代の歴史学の基本において「実証的」であると言えるわけではない。このため、現代では実証的なトゥキュディデスと、そうではないヘロドトスという対比は必ずしも行われない。

 

現代における評価

近代においても、ヘロドトスの記述の中に信憑性の低い説話が多数含まれることについての批判は続いている。『ローマ帝国衰亡史』で名高いイギリスの歴史学者エドワード・ギボンは、ヘロドトスが娯楽性の高いエピソードをふんだんに交えていることについて、「ある時は子供のために、ある時は哲学者のために書いている」と評している。また、特に伝聞としてヘロドトスが伝える神話的な伝承の他にも、彼の軍事的分野についての記述には、しばしば厳しい目が向けられる。歴史学者ジョン・バグネル・ベリーは以下のように述べる。

 

(ヘロドトスの仕事は)おそらく条件つきで、歴史の方法論と呼ばれるものの近代的な発展の基礎となっている。しかし、これらの常識としての原理を宣言しているにもかかわらず、その作品のある部分は早熟の子供が書いたものかと思われるほどに、彼はある点では常識に欠けていた。かれは大戦争の歴史を書こうとしながら、戦争の諸状況についての最も基礎的な知識を欠いていた。クセルクセスの軍隊の数についてのありえない空想的な叙述は、ほとんど信じられないほどに彼の無能を示し、ヘロドトスを歴史家というよりも叙事詩人とするのに十分である。(中略)ヘロドトスを戦争史家として最低の標準から評価しても、この点では彼は戦争史家としては、その資格さえもない。

—ジョン・バグネル・ベリー。

しかし、近年では歴史学の手法の発展に伴って、ヘロドトスの作品についても多方面から盛んに行われるようになっており、新しいヘロドトス像が築かれてきている。また古代人によるヘロドトスへの批判は、それ自体が事実誤認によるところがあったという指摘もあり、現代ではヘロドトスの復権は著しい。また、ヘロドトスの記述のうち、古代ギリシアの地誌に関する研究においては、その信憑性の高さを認める見解も存在する。

 

この新たなヘロドトスへの評価の背景には、20世紀の歴史学の飛躍的な発展がある。文化人類学や社会学の方法が歴史学に取り入れられるようになった結果、歴史学の研究手法に新たな地平が拓かれるようになると、多数の神話や伝承を伝えるヘロドトスの『歴史』は、その手がかりとなる材料の宝庫として注目されるようになった。フランスの学者アルトーグは「ヘロドトスが『歴史の父』となったのは、前5世紀でもキケロの時代でもなくて、20世紀に歴史学が新たな地平を拓いた時なのだ。」と述べる。

 

また、ヘロドトスの記述のフィクション性についても、歴史それ自体の考え方の変化によって新しい評価がされている。即ち、過去に発生した史実を完璧な形で再現することはどのような手段によっても不可能であり、従って歴史は真実を表現できず、「歴史そのものが嘘(フィクション)である」という命題も存在する。この命題の下では、歴史とは史実を完全に再現する存在ではなく、各種の史料や考察を通じて可能な限り史実に肉薄しようとするものであり、未だ歴史と言う概念の存在しない時代に生きたヘロドトスの「作り話」についても、それは当時可能な限りの情報を集め真実を探求したものの発露であるともとらえられるからである。

 

総体としてはヘロドトスは、明確な問題意識の設定、能動的な情報収集、情報自体の批判・検証、公平な立場から事物の推移・原因を考える姿勢などを打ち出したことから、彼の著作『歴史』は歴史学の誕生を告げるものであると評価される。歴史学者大戸千之は、ヘロドトスの評価について以下のようにまとめている。

 

歴史学は、事実を語るために情報を収集し、それらを批判的に検討する営為である、ということができる。ヘロドトスの仕事は、その鏑矢といってよい。今日的観点からすれば、先立つ語りの伝統の殻を抜けきれておらず、批判的検討にもナイーヴすぎるところがある点は蔽えないけれども、歴史学の第一歩を踏み出した栄誉は、彼に与えられるべきであると考えたい。

2018/01/26

ヘロドトス『歴史』(3)

イオニアの知的活動とヘロドトス

ヘロドトスは未だ歴史という概念が存在しない時代において、後世その端緒とみなされる文筆活動を行った。この背景には古代ギリシアのイオニア地方で活発化していた知的活動があり、ヘロドトスの仕事もまた当時のこの潮流から孤立したものではない。

 

6世紀頃のイオニアは、その主邑ミレトスを中心として古代ギリシア人の知的活動の一大拠点となっていた。当時イオニアは、哲学者と呼ばれる知識人を多数輩出した。彼らの中には万物を構成する根源を追求したタレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス等がいる(ミレトス学派)。またエフェソス出身のヘラクレイトスや、サモス出身の数学者ピュタゴラス、コロフォン出身のクセノファネス、そしてヘロドトスの同時代かそれ以降の人である、コス島出身のヒポクラテスなどの名も現代に伝わる。

 

こうした哲学者たちが生きた時代、ギリシア人たちに過去の出来事を伝え、人生の規範を示し、「歴史」として伝えられたのはホメロス以来の神話や叙事詩であった。古代の多くの地域と同様、これらの中では神々と人間の世界は連続しており、神そのものや超人的な力をもつ英雄たちが王家の祖先として語られた。

 

イオニアの哲学者たちは、この神話や叙事詩の語る世界、そしてそれ自体の価値に疑問を投げかけた。それは神話内に登場する系譜の矛盾の追及、出来事の相互関係の整合性の確認、そして尊敬されるべき神々が行う「人の世で破廉恥とされ非難の的とされる、あらんかぎりのこと」(クセノファネス)に対する倫理的疑問の表明であった。

 

また同じ時代には、ロゴグラポイと呼ばれる著述家たちが登場した。彼らは諸ポリスの伝承に関心を持ち、旧来からの韻文ではなく散文で著述活動を行っていた。彼らは「歴史家」の登場に繋がっていく文学的潮流の中にあった人々であり、その作品はほとんど現存していないものの、神話から始まる諸地方の伝承などを記していたと考えられる。この中でも「地理学の祖」とも言われるミレトスのヘカタイオスは、現存していないものの『系譜(Genealogiai)』、『探求(Historiai)』という著作があったことが知られており、その巻頭の文章と伝わる以下の文章は後のヘロドトスの執筆姿勢に通じるものとして重視される。

 

ミレトスの人ヘカタイオスは、かく語る。以下に記すのは、わたしにとって真実であると思われるところである。なぜなら、わたしの見るところ、ギリシア人の話は豊富であるが、笑うべきものであるから。

—ヘカタイオス。

 

ヘロドトスが生を受けたハリカルナッソスは、イオニアの南端部に位置していた。ヘロドトスは親類に詩人がいることや、その著作の内容から考えて、こうした知的に豊かな風土に影響を受けて成長したと考えられる。ヘロドトスが自らに先行するイオニアの哲学者たちの議論に触れ、それを良く理解していたことは近現代のヨーロッパの学者たちによって早期から指摘されており、ヘロドトスの『歴史』はイオニアのより大きな知的文脈の中に位置付けられている。

 

また彼の思考法には、イオニアの置かれていた独自の歴史的背景に基盤を持つと想定され得るものがあることも指摘される。例えばヘロドトスの『歴史』には、地理上の区分に基づいて世界をアジアとヨーロッパに2区分(またはリュビアを加えて3区分)する分類法で、各種の比較を行っている記述が存在する。これはイオニアで当時一般的に採用されていた分類法であるが、ある部分ではこの分類法の欠点を批判し、実態と一致しないとも批判している。そしてさらにギリシアをヨーロッパともアジアとも異なる独自の世界として捕らえようとしている記述があることが指摘される。

 

このようなヘロドトスの思考法と類似した例が、ヒポクラテスの作品と伝えられる『空気、水、場所について』の中にも登場する。この作品において、気候や環境がその地に住む人々の健康や性格に影響するという考え方が採用されており、それに基づいてアジアとヨーロッパの住民の違いが論じられている。この中でヒポクラテスが挙げているヨーロッパの住民とはスキタイ人であり、言外にギリシアとヨーロッパを区別するような記述法を取っている。

 

このようなギリシアをアジアともヨーロッパとも異なる別個の領域として捉える考え方は、ギリシア人の一般的な地理区分ではアジアに分類され、歴史的にはアケメネス朝(ハカーマニシュ朝、ペルシア帝国)の支配下にあったイオニア地方出身の人々の独特の立ち位置の中から醸成されたものであるとも考えられる。

 

批判

ヘロドトスの歴史家としての業績は広く知れ渡っているが、一方で彼については、荒唐無稽なエピソードをむやみに掲載することや、余談や脱線があまりに多く作品の全体構成や叙述がアンバランスでまとまりが悪いことが常に議論の種となり、また「聞いたままに記す」というその姿勢も、正確さを追求しないための逃げ口上であるというような批判がしばしば行われる。具体的には、ペルシア戦争をテーマにして『歴史』を書いたにもかかわらず、その前史というべき各国の神話・伝説・歴史の叙述が第5巻まで延々と続き、あまりに冗長であることや、通俗的な面白さはあってもほとんど事実とは考え難いような話が数多く掲載されていることなどが批判の対象とされている。

 

このような批判は、既に古代から行われていた。ヘロドトスを「歴史の父」と呼んだキケロの文章には、「歴史の父であるヘロドトスやテオポンポスには無数の作り話(fabulae)があるが」というものがあるし、アリストテレスはヘロドトスが伝えたライオンの出産についてのアラビア人の話を「馬鹿げている」と評している。さらに古く、小アジア出身の医師でアケメネス朝に仕えたクテシアスは、ヘロドトスを「嘘つき」と批判していたことが伝わっている。

出典 Wikipedia

2018/01/25

ヘロドトス『歴史』(2)

執筆姿勢

ヘロドトスが調査・探求して記した『歴史』は、当事者や関係者がまだ存命中の出来事についての記録であった。そのための探求の方法は現代の歴史研究とは異なり、史料を確認して情報を収集するよりも、現地を回り関係者に聴取し、また自ら経験することが主となった。ヘロドトスは自らの目で確認することに努めたが、不足する情報は伝聞や証言によって補った。その中には、ヘロドトス自身が疑わしいと考える情報も多々あったが、彼は信憑性の程度に拘らずそれを『歴史』に掲載している。このような執筆姿勢は、以下のような記述からも明らかである。

 

この王についての(エジプトの)祭司の話はなお続き、右の事件の後ランプシニトスは、ギリシア人がハデス(冥界)の在るところと考えている地下へ生きながら下ったということで、ここでデメテルと骰子を争い、互いに勝敗のあった後、女神から黄金の手巾を土産に貰い、再び地上へ帰ったという。

 

このランプシニトスの下界降りが起縁となって、彼が地上へ帰ってからエジプトでは祭を催すようになったという。(中略)このようなエジプト人の話は、そのようなことが信じられる人はそのまま受け入れればよかろう。本書を通じて私のとっている建前は、それぞれの人の語るところを私の聞いたままに記すことにあるのである。

—ヘロドトス、『歴史』巻2§122-123、松平訳。

 

一方で、この態度はヘロドトスの著作中において徹底はしておらず、採録の基準は曖昧であったし、神々と人間との関わりのような問題についても、彼がはっきりと首尾一貫した哲学的姿勢を持っていたわけではない。ヘロドトスは英雄時代の歴史に立ち入ることはなく、しばしば触れる神話的伝承についても懐疑的な姿勢を取り、神々がかつて人間と交わったという説話や神の出現と言った出来事を事実として承認することはしなかった。だが、この姿勢は神話を明確に拒絶するほど徹底したものでもなかった。ヘロドトスはまた、こうした神話的な説話に対して時折風刺を加えてもいる。

 

テッサリアの住民自身のいうところでは、ペネイオスの流れているかの峡谷は、神ポセイドンの作られたものであるというが、もっともな言い分である。というのは地震を起こすのがポセイドンで、地震による亀裂をこの神の仕業であると信ずる者ならば、かの峡谷を見れば当然ポセイドンが作られたものであるというはずで、私の見るところ、かの山間の亀裂は地震の結果生じた物に相違ないのである。

—ヘロドトス、『歴史』巻7§129、松平訳

 

また、ローマ時代の歴史家プルタルコスやエウセビオスによれば、ヘロドトスは『歴史』の内容を各地で口演していたという。このヘロドトスが聴衆に向けて語り聞かせていたという情報は事実であると考えられ、このことが聴衆を楽しませるための様々な説話・余談の挿入、本筋からの脱線という『歴史』の特徴を形作ったとも考えられる。

 

評価

「歴史」の成立

ヘロドトスは、一般的に歴史家に分類される。しかし、ヘロドトス自身には当時、現代的な意味での「歴史」を書くという明確な意識はなく、自らを歴史家とはみなしていなかったと考えられる。なぜならば彼が生きた時代には、未だ歴史というジャンルが成立していなかったためである。ヘロドトスが用いた調査・探求(στορίαι ヒストリエー)というギリシア語の単語は、英語の history(歴史)やフランス語の histoire(歴史)の語源となったことは広く知られているが、『歴史』本文においてヘロドトスがこの historia という単語を用いる時、基本的には「調査」もしくはその方法としての「尋問」という意味で使用されている。つまり、ヘロドトス自身の意識としては『歴史』は現代の概念でいう「歴史」を書いたものではなく、「自身による研究調査結果」を語るものであった。柿沼重剛の指摘によれば、ヘロドトス以前には historia が意味する「探求」とは神話や系譜、地誌に関することであったが、ヘロドトスはこれを「人間界の出来事」にまで広げた点が特筆されるという。

 

ヘロドトスの没後100年あまりの間に、ギリシアでは詩とは異なる「歴史」というジャンルが明確に確立された。後代の人々が歴史と言うジャンルを認識するようになると、ヘロドトスの仕事はまさにそれを開拓したものであると位置づけられるようになった。早くも前4世紀に生きたアリストテレスはヘロドトスを歴史家として分類し、以下のような有名な言葉を残している。

 

歴史家と詩人は、韻文で語るか否かという点に差異があるのではなくて-事実、ヘロドトスの作品は韻文にすることができるが、しかし韻律の有無にかかわらず、歴史であることにいささかの代わりもない-、歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語るという点に差異があるからである。

—アリストテレス、『詩学』第9章、松本・岡訳。

 

こうして歴史家として称えられたヘロドトスの『歴史』は名著の誉れ高く、失われることなく、また名声を損なうことなく現代まで伝えられた古典古代の「歴史書」の中では最古のものである。

 

歴史の父

ヘロドトスは、歴史叙述の成立過程、史学史において必ず言及される人物であり、彼の作品『歴史』において歴史学と呼びうるものの最も早い例を見る事ができるとも言われる。

 

このことから、ヘロドトスはしばしば「歴史の父(pater historiae」と呼ばれる。彼をこう呼んだ最初の人物は、古代ローマの政治家・哲学者であるキケロである。キケロは著作の『法律について』の一節でヘロドトスをこのように呼んでいるが、それがなぜなのかについて理由を説明していない。歴史学者大戸千之は、それを以下のように説明している。

 

ヘロドトスは著作において、執筆者とテーマ(ペルシア戦争の調査研究)を明示し、そしてその調査研究手法として「自らできる限り調査する」「情報を突き合わせ吟味・検討する」「調査結果を正確に報告し、直接的な情報と間接的な情報の弁別、情報に対する評価、自分が信じる情報と信頼はしないが重要な情報の区別を行う」といった姿勢を示した。これは後の歴史研究の基本に通じる姿勢であると言えるのである。

出典 Wikipedia

2018/01/24

アーリア人侵入



インダス文明が滅ぶのが、前1800年頃。滅んだ原因は色々な説があって結局不明です。滅びつつある時か滅んだ直後かはっきりしませんが、アーリア人という人たちがインドに侵入してきました。これは、例のインド=ヨーロッパ語族です。彼らは中央アジアから南下してきますが、そのうち西へ向かったグループがイラン高原に入りペルシア人になります。東に向かったのがアーリア人です。アーリア人はインドの先住民族、例えばドラビタ人などを征服したり、もしくは混血したりしながらインドに定住します。ドラビタ人というのはオーストラリアの先住民や、ニューギニア高地人のような肌の色の黒い人たちと同じ系統の民族です。インダス文明を築いた人たちはドラビタ人ともいわれていますが、このへんははっきりしません。

 アーリア人たちは、まだ国家を建設する段階までにはなっていません。小さい集団ごとにインドの密林を開拓しながら村を作っていったんですね。前1000年頃アーリア人は、ようやくガンジス川流域まで拡がっていき、小さな国もたくさん生まれるようになったようです。アーリア人も含めてインドにはいろんな民族系統がいて非常に多様なんですが、この時代くらいから彼らをまとめてインド人と呼んでおきます。

 アーリア人がインドに拡がっていくあいだに、現在までのインドを決定する文化が生み出されます。宗教と身分制度です。アーリア人は、インドの厳しい自然環境を神々として讃える歌を作っていきました。このような自然讃歌の歌集を「ヴェーダ」といいます。最初に成立した歌集が「リグ=ヴェーダ」。その後も「サーマ=ヴェーダ」などいくつかのヴェーダが作られていきました。このヴェーダを詠(うた)って神々を讃え、儀式をとりおこなう専門家が生まれてきました。これが「バラモン」と呼ばれる僧侶階級です。

 そして、この宗教をバラモン教という。バラモンたちは、神々に仕えるために非常に複雑な儀式を編みだした。そして、自分たちの中だけで祭礼の方法を独占します。他の人たちには真似ができない。神々を慰め災いをもたらさないようにお願いできるのは我々バラモンだけである、ということで次第にバラモン階級は特権階級になっていきました。同時に、バラモン以外の身分も成立する。最上級身分がバラモン、その次がクシャトリア、武人身分です。その次がヴァイシャと呼ばれる一般庶民、一番下がシュードラで、これは被征服民です。この身分のことをヴァルナといい「種姓」と訳しています。

 さらに、この四つのヴァルナのどれにも属さない最下層の身分として「不可触民」という人々がいます。観念としてはシュードラ身分の「下」ではなくて、四つのヴァルナの外にある身分。もっと言うと、身分ですらない。どの身分にもしてもらえない人たち。もっともっと言うと、人ですらないかもしれないような扱いを受ける人たちです。「不可触民」という呼び方もすごいでしょ。触っちゃいけないんだよ。なぜかって、かれらはケガレているからです。触るとケガレがうつる。かれらの正反対にあって、ケガレから最も遠いのがバラモン、というわけです。

 このヴァルナ(種姓)は、現在まで続いています。ただ、バラモンの人が現在でも僧侶をしているとか、クシャトリアがみな軍人とか、そんなことはありません。農民のバラモンもいれば、商売をしているシュードラもいます。種姓の四つの分け方は大きすぎるので、この身分は時代とともにどんどん細分化されてきました。細分化は職業や血縁によって行われたようですが、この細かく分かれた身分をジャーティといいます。いわゆるカースト制というのは、実はこのジャーティのことです。

ヴァルナもジャーティもひっくるめて、現在のこの身分制度をカースト制と呼んでおきましょう。身分制度というのは、差別と一体です。身分差別ね。人権を尊重する現代社会で身分差別なんてあってはならないです。現在のインド政府も当然そう考えていてカースト制をなくそうと努力しているし、インドの憲法でも身分差別を禁じています。それでも、このカースト制は全然なくならない。差別は過去のことではありません。インド社会の発展にとって、ものすごい重荷になっていると思います。

ヘロドトス『歴史』(1)

ヘロドトス(ヘーロドトス、古希: ρόδοτος, Hēródotos、羅:Herodotus、生没年不詳)は、古代ギリシアの歴史家である。歴史という概念の成立過程に大きな影響を残していることから、歴史学および史学史において非常に重要な人物の1人とされ、しばしば「歴史の父」とも呼ばれる。

 

彼が記した『歴史』は、完本として現存している古典古代の歴史書の中では最古のものであり、ギリシアのみならずバビロニア、エジプト、アナトリア、クリミア、ペルシアなどの古代史研究における基本史料の1つである。

 

生没年は不詳であり、生年は大雑把に前490年から前480年までの間とするのが定説である。前484年説がしばしば採用されるが、明確な根拠を伴ったものではない。没年は前430年以降であることは明白であるが、これも正確には不明である。概ね前490-480年の間に生まれ、前430年から前420年の間に、60歳前後で死亡したとするのが一般的である。

 

生涯

ヘロドトスの知名度・重要性に反して、彼自身の人生について知られていることは少ない。彼の生涯についての情報源は、以下のようなものに限られる。

 

ビザンツ帝国で10世紀頃に成立したスーダ辞典における、ヘロドトスと関連する事項への言及。

 

古典古代の作家の断片的な言及。

ヘロドトス自身の叙述から拾い集められる情報。

スーダによれば、ヘロドトスは小アジア南部のカリア地方にある都市ハリカルナッソス(現:トルコ領ボドルム)の出身であり、父親の名はリュクセス、母親の名はドリュオ(ロイオとも)であったという。兄弟にテオドロスという人物がおり、従兄弟(または叔父)に当時高名な詩人パニュアッシスがいた。ハリカルナッソスは、前900年頃にペロポネソス半島にあるアルゴリス地方の都市トロイゼンから移民したドーリス系ギリシア人の植民市であった。しかし前5世紀には、ハリカルナッソスの文化はイオニア化しており、ヘロドトス自身も古代ギリシア語のイオニア方言を話したと推定されている。

 

また、ギリシア人と土着のカリア人との間の通婚も盛んであり、ヘロドトスの家も同様であった。ヘロドトスの父リュクセス、従兄弟(または叔父)のパニュアッシスはカリア系の名前であるが、母ドリュオ(ロイオ)はギリシア語の名前である。ヘロドトスとテオドロスの兄弟もまた、ギリシア語による命名であることは明白である。ヘロドトスの名前はギリシア語で「ヘラ女神の贈り物」と言う意味である。ヘロドトスの出身家は名門であったようであり、詩人が身内にいることも彼の生まれ育った環境が知的・文化的に恵まれたものであったことを示す。

 

ヘロドトスが故郷にいたころ、ハリカルナッソスは女傑として名高いアルテミシア1世の統治下にあった。ヘロドトスが彼女を深く尊敬していたことは『歴史』の描写から明確に読み取ることができる。その後、アルテミシア1世の息子、または孫で僭主となったリュグダミスがハリカルナッソスを支配するようになると、ヘロドトスとパニュアッシスはリュグダミスに反対する政争に加わった。しかし、パニュアッシスは殺害され、ヘロドトスも故国を追われてサモスでの亡命生活に入った。リュグダミスに対する反抗はその後も相次ぎ、恐らく前450年代初め頃に彼の政権は打倒された。この過程にも、ヘロドトスは関わったとする見解もある。

 

ヘロドトスは、サモスにある程度の期間滞在した後、アテナイに行き、ついでイタリアに建設された新植民市トゥリオイに前444年、または前443年に移住した。この都市はアテナイの支配者ペリクレスがギリシア各地から移民を集めて建設した都市であったが、ヘロドトスが参加した経緯は不明である。

 

ヘロドトスはサモスを去って以降、その人生のうちに少なくともアテナイ、キュレネ、クリミア、ウクライナ南部、フェニキア、エジプト、バビロニアなどを旅したはずであるが、その具体的な年代をどのように想定するべきであるか明確ではない。ただしエジプトとバビロニアを訪れたのは人生の晩年、少なくともトゥリオイの市民であった頃であろう。

 

彼は、これらの旅で得た知見をまとめ『歴史』と呼ばれる著作を残した。この著作は、失われることなく伝存する古典古代の歴史書の中では最古のものである。この中にペロポネソス戦争に触れた記述を残していることから、ペロポネソス戦争勃発の頃(前431年)にはまだ生存していたと考えられる。最後はトゥリオイで死亡したともアテナイに戻っていたとも言われるが、いずれも明確な証拠はない。

 

著作

ヘロドトスは、現在では日本語で『歴史』(英: The Historiesと言うタイトルで知られる著作を残した。これは現代風に解釈するならば、全ギリシアを巻き込むことになったペルシア戦争を主題にした1種の同時代史であると言える。この作品冒頭でヘロドトスは、以下のように著者名と執筆の目的・方法を書いている。

 

これは、ハリカルナッソスの人ヘロドトスの調査・探求(στορίαι ヒストリエー)であって、人間の諸所の功業が時とともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人(バルバロイ)が示した偉大で驚嘆すべき事柄の数々が、とくに彼らがいかなる原因から戦い合う事になったのかが、やがて世の人に語られなくなるのを恐れて、書き述べたものである。

—ヘロドトス、『歴史』巻1序文、桜井訳。

 

序文に記された戦いが全ギリシアを巻き込んだペルシア戦争であり、異邦人(バルバロイ)がペルシア人のことであるのは、当時を生きた人であるならば誤解の余地のないところであった。

 

この文章はまた、著述の方法として調査・探求(στορίαιhistoria)というギリシア語の単語を用いた現存最古の用例である。最初に著者名を筆記し、執筆にあたっての主体性と責任の所在を明らかにするこの姿勢は、ミレトスのヘカタイオスを意識したものであったと見られる。ヘカタイオスは、ヘロドトスに先行して各ポリスの伝承などを散文で綴っていたロゴグラポイと呼ばれる文筆家の1人であった。このような文章は前4世紀には10例ほどが知られており、ヘロドトスのそれはこうしたものの中でも最古の部類に属する。

 

ヘロドトスの『歴史』は全9巻からなるが、この9巻分類はヘロドトス自身によるものではなく、アレクサンドリアの学者によるものである。現在に残る『歴史』の全体構成は当初からヘロドトスが構想していたものではなく、後から彼が追補した際に整えられたものであると推定される。少なくとも、最後の3巻部分は最初の6巻部分よりも先に作られていたことを示す各種の内部証拠が存在する。

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