2016/03/25

ヤケ酒(小説ストーカー・第二部part3)



●タコ坊の場合
 (なんだ、あのインテリ野郎が!
 お役所の走狗め!
 あんな嫌なヤローに、勝手にオレの人生を決められて堪るか!
 よーし、オレは金輪際、職工などやらん!!!)
 
 と、オレは激怒した。
 
 こんな気持ちのまま家に帰ったら、両親相手に感情が爆発しそうだ。
 
 このムシャクシャした気持ちを、酒で晴らすことにしたオレは、血走った眼を走らせて駅前にある安そうな屋台に目を留めた。
 
 今夜は、思いっきりヤケ酒を煽りたい気分
 
 幸いにして、残り1週間を含めた今月分の給与を手にしていた。
 
 (あの屋台なら、そんなに高くはねーだろう・・・今日のこのムシャクシャとした腹立たしさを、酒で紛らわすのだ!)
 
 と何件も並ぶ薄汚れた屋台から、一番安そうなおでん屋を選んで暖簾をくぐる。
 
 ガンモやこんにゃく、スジ肉といった、安いネタばかりを選び、安物のコップ酒をグイグイと煽った。
 
 元々、酒には強い方だが、工場長のジジーや職安のイヤミ職員から、立て続けに罵声を浴びせられた腹立たしさから、いつになくピッチが上がり、いつの間にか意識が朦朧となっていた。 
 
 「お客さん・・・そろそろ看板ですので・・・あの、お勘定を・・・」
 
 「うーむ・・・もう、そんな時間か・・・」
 
 いつの間にか、ウトウトとしていたオレは、店のオヤジに起こされてふらふらと立ち上がった。
 
 「ホラ、オヤジ・・・勘定だ・・・」
 
 「お客さん・・・大分、酔われてるようですが・・・大丈夫ですかい?」
 
 「なーに・・・駅は、すぐそこじゃねーか・・・心配いらん・・・」
 
 と、心配するオヤジを振り切るようにして、千鳥足で店を出る。
 
 習慣とはまことに恐ろしいもので、後で考えるとまったく記憶に残っていないのだが、無意識のうちにいつものxx駅のホームに入って、気付けば電車に乗っていたらしい。
 
 (うーい・・・くそっ!
 どーせオレは、底辺三流校卒のダメ男・・・若くもない・・・何の資格も持ってねーから、デスクワークは無理だ?
 何が「にっしょうぼき」だ、大きなお世話だ、あんにゃろー。
 あの似非インテリ職員めが、今に見とれ!
 誰が職工など、金輪際やってたまるもんか・・・
 それにしても酔っぱらっとるせいか、女がみんな美人に見えるぜ (*Φ皿Φ*)ニシシシシ
 
 心の中では下卑た笑いを笑っていたタコ坊だったが、客観的には例の「世の不幸を一身に背負ったような」不景気な顔は変わらない。
 
 こんな遅い時間だというのに、相変わらず混雑した車内で運よく綺麗なねーちゃんの背後に、スペースを確保できたのは幸運だった。
 
 深酒のせいか、立ったままで眠ってしまったのか記憶が飛んどったが、朦朧とした意識を突き破るように
 
 「痴漢ーっ!
 痴漢です!!!」


 という、ヒステリックな女の叫び声が意識を引き裂いた (  ゜ ▽ ゜ ;)エッ!!

 「ん?
 なんだ?」
 
 と思う間もなく、突然に強い力で腕を掴まれた。
 
 驚いて見れば、スーツ姿の中年男が、オレの腕を鷲掴みにして、ひねり上げようとしているではないか。
 
 「イテテテ・・・何すんだよ、こら!」
 
 「黙れ、痴漢野郎!」
 
 鬼の形相で、そう怒鳴りつけると、中年男は女の方に
 
 「コイツが痴漢ですね?
 私は、ちゃんと見てましたよ」
 
 と声をかける。
 
 女がなんと応えたかはわからなかったが、直ぐに停車駅に入って電車のドアが開くと、オレは中年男に無理矢理にホームに降ろされた。
 
 「さあ、降りるんだ、コイツ!
 駅員に突き出してやるわ!」
 
 正義感に燃えた中年男は、ホームに立つ誰かを捕まえて
 
 「痴漢を抑えています・・・申し訳ないが、駅員を呼んで来てもらえませんか・・・」
 
 というと、わけがわからないながらも、言われた男は向こうへ立ち去った。
 
 さすがのオレも、事の重大さに一気に酔いが醒め
 
 「オレは痴漢なんかしとらん!
 勝手に決めつけるな!」
 
 と、気障な中年男に抗議すると
 
 「往生際の悪い奴だ・・・すぐに公安官に突き出してやる」
 
 と、腕を捩じ上げにかかった。
 
 (やばい・・・このままでは、本当に痴漢にされてしまう・・・)
 
 焦ったオレは、火事場の馬鹿力で中年男の拘束から逃れると、逆に男の腕を捩じ上げておいて、ボディブローをかます。
 
 これまで肉体労働ばかり続けていたせいで、ホワイトカラーよりは馬鹿力があるらしい。
 
 オトコが腹を抑えて蹲っている隙に、旨い具合にちょうどホームに滑り込んできた鈍行電車に飛び乗った。
 
 「アイツは痴漢なんだ・・・オレは見た!
 誰か、アイツを捕まえて・・・」
 
 という男の叫びに応じ、電車に乗り込もうとするヤツがいたが、間一髪ドアが閉まって電車が動き出し、寸でのところで命拾いをした
 
 そのようなことで、オレが「ストーカー」だった後半の数か月は「無職」であり、毎日職安で求人票や求人雑誌を見て時間を潰している状態だったのだ。
 
 そして、オレにとっては「痴漢という濡れ衣」を着せられ、あわやお縄になりかけたこの事件は強烈なトラウマとなり、心の奥底に「刻印」された。
 
 (くそっ!
 あのクソリーマンめ!
 人を痴漢扱いしやがって!
 胸糞わりー。
 幾ら酔っとろうが、オレが痴漢なんぞするもんか!
 
 まあ、確かにあの日は面白くないことが重なって、かつてないほどに呑み過ぎて・・・確かに記憶が飛ぶほどに酔っぱらったのは事実だが・・・痴漢などした覚えはねーぞ・・・いや、正確には、あの日の記憶は殆どなにも残っとらんのだが・・・)
 
 (まあ、いずれにしても、痴漢扱いされた上に公安官なんぞに捕まっては、堪ったもんじゃねーで・・・まあ、今後はうっかり女に近寄らんに越したことはねーな・・・)

2016/03/23

大饗料理(農林水産庁Web)

日本古代における料理様式については、史料的に不明な部分が多く、その内実を知ることができない。こうした料理は日常の食事とは異なり、祭礼などの儀式の際に最も手の込んだ食べ物が神仏に捧げられるもので、一定の様式を伴うと考えなければならない。その意味においては、神々への神饌を起源と考えてよいが、今日に見られる神饌には明治初年における神道祭式の変更が大きな影響を及ぼしている。

 

元々、神饌は食べ物を神に捧げた後に、祭祀に携わった人々が神と共に食べるものであるから、すでに調理を済ませた熟饌が基本となる。しかし明治以降は食材そのままの生饌中心に改めたため、古い形式が分からなくなってしまった。もちろん、春日大社や談山神社などの神饌から一定の形式を窺うことができるが、すでにこれらにはC半島を経由して入ってきた盛り物や仏教による彩色の影響が顕著で、それ以前の姿については不明とするほかはない。したがって日本で最も古い料理様式は神饌料理であったと考えられるが、その詳細については明確に出来ないのが現状である。

 

現在知りうる範囲で、最も古い料理様式が大饗料理となる。大饗料理は、藤原氏など高位の貴族が大臣に任じられた時や正月などに、天皇の親族を招いて行う儀式料理である。ただ、この時代は料理といっても生物や干物などを切って並べたもので、味付け自体は自分の手前に置かれた四種器と呼ばれる小さな皿に、塩や酢あるいは醤などを自ら合わせ、これに浸けて食べるだけであった。これは料理の最も原始的なもので、それぞれが餃子のたれを好みに合わせ作って食べることに似ている。

 

東南アジアなどで食事をすると、必ず食卓には何種類かの調味料がおかれてあり、それぞれが自分の好みに合わせて味を調える。K国でも必ずコチュジャンなどがおかれるほか、サムゲタンなども、古い店では食べる直前に塩・コショウを自分で調整する。  またギリシャなどでは、ワインビネガー、オリーブオイル、塩、コショウの四つがおかれており、サラダドレッシングは自分で好みに合わせたものを作るのが常識となっている。まさに大饗料理も同じ発想であった。

 

また大饗料理では料理の皿数は必ず偶数で、手元には箸と匙とが置かれている。匙はC半島では定着を見たが、日本では大饗料理に取り入れられたものの、一般に使用されることはなかった。しかも大饗料理は身分によって料理数は異なるが、盤上一面に並ぶ様子はC半島の韓定食に似ている。この他、小麦粉を練って油で揚げた八種唐菓子が添えられることなどからも、明らかに大饗料理はC半島経由で入ったC国料理の影響が著しいことが分かる。

 

こうした大饗料理は、古代の上層部で行われた料理様式であるが、古代国家が律令というC国の法律体系を模倣したように、儀式料理についても同様にC国のスタイルを真似て完成させたものであることが明らかである。ただ大饗料理にも、一部ではあるが日本的な特色を見出すことができる。それは切るという調理で、この頃から料理人を庖丁人と呼んだことに象徴される。また庖丁上手とは料理がうまいことで、切り口の冴えが料理の出来映えを決した。例えば美しく切った刺身が美味しいのは、するどい片刃の庖丁で魚肉の細胞を壊さずに切断することによって、肉汁の旨味を逃げ出させないという調理が施されたことになる。

 

日本の神饌の特徴は、美しく切ったものを、その切り口を見せながら重ね上げるのに対して、C半島などの盛り物は食品そのものを串などで積み上げるという点が異なる。大饗料理は明らかにC国の影響を受けたものであるが、そこには庖丁で美しく切ることを強調する日本的な特徴を読みとれるのである。

 

大饗料理以後のまとまった料理様式としては、禅宗の僧侶の間で行われた精進料理がある。平安時代末期には、奈良仏教や天台宗・真言宗に対する不満が高まり、真剣に仏教を志す僧侶の中には、C国での仏教修行を試みて南宋などに渡るものが少なくなかった。当時のC国仏教界では禅宗が最も重要視されており、そこでは肉食忌避の思想に基づいた精進料理が主流であった。

 

この精進料理は、唐代に西方から導入された水車動力によって製粉技術が著しく高まり、粉物の大量供給が可能となっていた。言うまでもなく、精進料理は仏教徒が肉を断つため、味わいとしては肉に近いものを口にできるような工夫が凝らされている。つまり植物性食料を濃い味の動物性食料の味に近づけるためには、小麦粉や大豆粉などに植物油や味噌などインパクトの強い調味料を合わせる必要があり、整形の容易な粉食が大きな前提となっている。

 

ただ、いずれにしても味覚の調合という意味において、精進料理が料理技術に飛躍的な進歩をもたらしたことに疑いはない。しかも精進料理は僧侶自らが調理にあたるため、彼らは仏教修行のみならず料理技術も習得した。こうしてC国で禅宗を学んだ僧たちは、日本に帰って禅院を開くなどして修行するとともに、そこで精進料理を広めた。そうした禅僧たちの代表として、栄西や道元などが名を残した。なかでも道元は『赴粥飯法』、『典座教訓』といった書物を著し、精進料理そのものに関する記述はないが、食事の意味や禅院における料理当番の役割などについて言及している。おそらく道元は日本で初めて仏教の立場から、食べるという行為について深い哲学的な考察を行った人物でもあった。

 

こうして鎌倉期から南北朝期にかけて、精進料理はめざましい発達をみせたが、その代表例については『庭訓往来』十月状返に詳しい。ここでは、点心類として「鼈羮・猪羮・砂糖羊羹・饂飩・饅頭・索麺・碁子麺」など、菓子として「柑子・橘・熟瓜・煎餅・粢・興米・索餅」など、汁として「豆腐羮・雪林菜、並薯蕷・豆腐・笋蘿蔔・山葵寒汁」など、そして菜に「煮染牛房・昆布・烏頭布・荒布煮・黒煮蕗・蕪・酢漬茗荷・茄子酢菜・胡瓜・甘漬・納豆・煎豆・差酢若布・酒煎松茸・平茸雁煎・鴨煎」などが見える。

 

ここに特徴的なように、精進料理は穀物粉を用いたものや、様々に味付けられた野菜類・菌類のほか果物類が主体となっている。そして、スッポン・イノシシ・ガン・カモなどといった動物名が示すように、植物性食料を鳥獣肉に見立てて、それに近い味を出すところに特徴がある。こうして、肉食への願望を調理技術によって満たそうとしたのが精進料理であり、先にも述べたように、その実現には高い技術力が必要とされた。

 

こうした料理技術を蓄えていたのは、当然のことながら禅院の僧侶たちであった。  彼らは広い意味で料理人であるが、その伝統的な呼称である包丁人ではなく「調菜人」と呼ばれた。あくまでも魚鳥を扱うのが庖丁人で、調菜人は精進物を料理する僧侶の仕事であった。ただ本格的な精進料理は、禅院でも重要な茶礼などの際に供されるものであったが、こうした調菜人は精進料理のうち饅頭なども作ることから、単に禅院だけに止まらず贈答などに用いられた点心類の製造にも携わったものと考えられる。

 

いずれにしてもC国からの移入によって成立をみた精進料理は、初めは禅宗の寺院内部で発達をみたが、やがてその高度な調理技術は一般にも広まるところとなり、鎌倉期以降における料理文化の展開に大きな役割を果たしたとみてよいだろう。

2016/03/17

伊勢(3)

古代、宮川沿いに伊勢に向け下ってきた旅人は、佐八に着いて初めて伊勢平野を眺めることができた。天気の良い日には、さらに伊勢湾越しに知多半島なども目に映ったことだろう。佐八の地名は「もうすぐ伊勢神宮だ」と、感動と安堵を伝える地名でもあった。

 

大分県にある「左右知」に使用されている文字が、同じような意味(あっちこっちを知る)を持っているのも、地名の音とその意味を正しく伝えようとした古代人の知恵だろうか。 支流の一之瀬、横輪(よこわ)川を合わせ水量を増した宮川は、伊勢市津村付近から直流して玉城町昼田で岸にぶつかって少し右に曲がっている。この昼田から下流部にかけては、大雨による洪水の時などに激流が大きく河岸を削り取った所で、宮川の氾濫域は宮川左岸の上地台地付近まで及んでいる。

 

宮川は昭和時代になっても、この地からしばしば氾濫している。地名昼田の元の音「ふぃ-る-た(hwi-ru-ta)」には「とてもたくさん削り取られた所」という厳しい自然の脅威の記録が伝言されていることを忘れてはならない。宮川右岸の桜で有名な宮川堤には、江戸時代に洪水でも破壊されない土手を築くため人柱となった「松井孫右衛門」の顕彰碑が建てられている。桑名と同じように、この川も人と水との戦いの連続だった。

 

このように年々災害を繰り返す宮川の元の名は、度会(わたらい)川と言う。度会の元の音は「わ-た-るゎ-ぅぃ(wa-ta-rwa-wi)」で「周辺の広い範囲に隈無く豊富な(水を供給する)」という意味で、大雨になれば災害をもたらす川は、また反面周辺の地域に稲作に必要な水を供給する恵の川でもあった。現在は宮川用水が、周辺の農地に水を供給している。

 

宮川左岸の玉城町のほぼ中心の高台には、玉城の地名の元になった田丸城址が存在している。この田丸の名は、城の築かれた高台が丸山であったことに因んで名付けられたとされるが、今では確認する術はない。ところが田丸城址のほぼ真南には、田丸「た-ま-る」の元の音「た-むゎ-る(ta-mwa-ru)」が伝える「とても高くて本当に丸い山」そのものの大日山が聳え、朝な夕なにその美しい姿を仰ぎ見ることができる。大日山は田丸城址からの最も特徴のある景観で、この山の形がそのまま地名になったと考えた方がよさそうだ。

 

なお、田丸城跡のある玉城町の町名は、昭和30年に地方自治体として町が誕生した時に名付けられたもので「た-むゎ-き」の音は田丸と全く同じ語源の「とても高くて本当に丸い山」である。この地の人々の記憶の奥底に伝承されていた「大日山=田丸=玉城」の名が、町名として蘇ったのではないか。現在は伊勢市に編入されているが、元は玉城町の一部であった粟野町も、その音「あ-わ-の(a-wa-no)」から「高くて丸い突起状の()」、すなわち大日山を意味していることがわかる。

 

ちなみに田丸、粟野の地名の解読には、山口県の小京都と呼ばれる津和野(つ-わ-の=つぅ-わ-の=twu-wa-no)が、津和野城址から見た青野山と前方の低い野村岳の丸く突起状に積み重なった景観から名付けられていたことがヒントになった。 同じ粟野の地名は、三重県飯高町にもある。そして国道166号線を西へ向かい、向粟野と書かれたバス停を通過すると、目の前に伊勢の粟野と同じ「高くて丸い突起状の()」が目に入って来た。

 

 伊勢には神宮を中心に大倉山、倉田山、高倉山など「倉」にまつわる地名が存在しています。

 

      倉(く-ら=くぅ-ら=kwu-ra)「米を入れる所」

      神楽(か-ぐ-ら=くゎ-くぅ-ら=kwa-kwu-ra)「倉を取り囲んで行う祭祀」

      宮 (み-や=みゃ=mya)「(毎年同じ時期に祭を)本当に繰り返して行う所」

      社(や-し-ろ=ya-si-ro)「(祭祀を)繰り返すために、より確かに区別されたところ」

      祭(ま-つ-り=ま-つぅ-り=ma-twu-ri)「継承される本当に偉大なもの」

      米(こ-め=くぉ-め=kwo-me)「中心になる本当に大切なもの」

      稲(い-ね=い-ぬぇ=i-nwe)「確かに基本となるもの」

などの語源からも、稲作と祭、稲作と伊勢の関係の深さを類推できます。

 

 伊勢の地には、これまで述べた地名の他にも、地形の景観を良く伝えている古い町名や字名が多数残っていますので、少し触れておきましょう。

 

 伊勢湾に面していて伊勢市と明和町にまたがる大淀集落、この大淀を地元の人は今でも「おいづ」と短かく呼んでいますので、大淀の元の音が「お-い-つぅ」であった可能性を秘めています。「お-い-つぅ(o-i-twu)」の音から得られる地形の様子は「遠く(沖の方)で確かにつながっている所」で、現在陸地となっている集落の内()側は、古代においては浅い内浦であったことを示しています。

 

 この大淀の東側に隣接する伊勢市村松町には、一部墓地となっていますが「大防(おぼう)城山」と呼ばれる字名を持つ海岸段丘があります。この「大防(おぼう)(o-mэu)」は、音の変化を遡れば元の音が「お-も-う=お-むぉあう」であることが明らかですので「遠くの方が本当に良く見える所」という意味です。海岸付近の標高6m足らずの低い丘ですが、かっては小さな城も築かれ見張り台となっていたのでしょう。新しい住居表示には字名が使用されていませんので、いずれ忘却されてしまう地名でしょうか。

 

 また、伊勢及びその近傍には、あちこちに世古という字名が残っています。大世古、中世古、世古田などですが「世古」の元の文字は「迫(さこ)」で、この「さこ」の元の音「すゎ-こ(swa-ko)」は「より狭くなる所」という意味ですので、世古の地名は道や水路が狭くなった箇所に使われたのでしょう。

2016/03/13

職安(小説ストーカー・第二部part2)



●タコ坊の場合
 クビになったその足で、早速職安を訪れたタコ坊。
 
 (もう工場勤務なんて、御免だ・・・
 オレは、もっときれいなデスクワークをやりたい・・・)
 
 と、身の丈に合わぬ希望を胸に職安を訪れたタコ坊は、求職票を出して職員に希望を伝えた。
 
 「デスクワークねー。
 難しいんじゃないかなー?」
 
 お役人っぽい職員は、神経質そうにメガネのレンズを光らせ、値踏みするように言った。
 
 「どうして、デスクワークが希望なのかな?」
 
 「それは・・・工場勤務に嫌気がさしたから・・・」
 
 「そう・・・しかしね・・・これまでの経歴を見ると、ずっと職工さんでしょ?
 今からデスクワークというのは、ちょっと無理じゃないかな・・・」
 
 早くも言葉遣いが、ぞんざいになってきた職員。
 
 年の頃はオレとあんまり変わらんようだが、上から見下されているようで腹立たしい
 
 「デスクワークっても色々あるけど、どんな職種が希望なのかね?」
 
 「まあ・・・事務系ですな・・・経理とか・・・」
 
 「経理ねー。
 経験は、あるのかな?
 履歴書見たところ、経理の経験はまったくなさそうだけど・・・」
 
 「まあ、ないですがね・・・」
 
 「経理はねー、せめて商業高校出て、簿記の資格でもあれば未経験だって少しは脈もあるだろうけど、まったく素人では難しいな・・・経理ってのは、専門性の高い職種だからねー」
 
 職員の言葉は冷たかった。
 
 「そうですかね・・・?」
 
 「まあ、そんなもんですよ。
 
せめて若い人なら、こっちもこれから勉強しますからという交渉もできるけど・・・失礼だが、オタクくらいの年齢じゃあ社会人経験10年以上で、世間じゃまあ大体、経理課長くらいになってるからね。
 
30後半でまったくの素人で、簿記の資格もないんってんじゃ、ちょっと話の持っていきようがないねー」
 
 「では他のデスクワークは、どうでしょう・・・」
 
 「他と言ってもねー。
 結局30半ば過ぎでは、どれも専門性が求められてしまうからねー。
 単純な事務だったら、給料も安くて使い捨ての女の子を採るだろうしねー」
 
 と、職員は「オマエなぞ、所詮職工くらいしか買手がつかん!」とでも言いたげだった。
 
 「そうそう・・・オタク、パソコンとかの趣味は?
 
 もしコンピューターが人より弄れるってことなら、あの業界だけは人手が足らないから、ちょっと面白い仕事に着くチャンスがあるかもしれないが・・・」
 
 この時、それまで嫌々相手をしていたような職員の目が一瞬、真剣な光を帯びたが
 
 「コンピューターなんて・・・さわったこともない・・・」
 
 というオレのひと言に
 
 「そうかね・・・ああ、そうだろうねー」
 
 と、さほどの失望も見せず、というよりは予想通りというような薄ら笑いを張り付けて
 
 「他に、なにか資格とかは?」
 
 「なにもないですが・・・」
 
 「こういっちゃなんだが、やっぱりアンタはこれまで通りの職工がいいんじゃないかな?
 
 まあ私も仕事だから、頼まれれば口利きはしてあげないでもないがね。
 私も長年、この仕事をしてきているから、まあ落ち着く先は大方見当がつくね。
 アンタは、職工以外の職は難しいと思うな・・・
 
 もう一度、じっくり自分を見つめ直して考えてみて、出直すことですな・・・相談には、いつでも乗ってあげるから・・・」
 
 と偉そうな捨て台詞を吐くと、職員は
 
 「次の方、どうぞ!」
 
 と、目の前の「商品価値のない冴えないオトコ」は最早眼中にないような、サッパリとした表情でこれ見よがしに大声で怒鳴った。