2023/12/29

ムハンマド(2)

敵対者との戦争

ムハンマド率いるイスラーム共同体は、周辺のベドウィン(アラブ遊牧民)の諸部族と同盟を結んだり、ムハンマドに敵対するマッカの隊商交易を妨害したりしながら、急速に勢力を拡大した。こうして両者の間で睨み合いが続いたが、ある時、マディーナ側はマッカの大規模な隊商を発見し、これを襲撃しようとした。しかし、それは事前にマッカ側に察知され、それを阻止するために倍以上の部隊を繰り出すが、バドルの泉の近くで両者は激突、マディーナ側が勝利した。これをバドルの戦いと呼び、以後イスラム教徒はこれを記念し、この月(9月、ラマダーン月)に断食をするようになった。

 

翌年、バドルの戦いで多くの戦死者を出したマッカは、報復戦として大軍で再びマディーナに侵攻した。マディーナ軍は、戦闘前に離反者を出して不利な戦いを強いられ、マッカ軍の別働隊に後方に回り込まれて大敗し、ムハンマド自身も負傷した(ウフドの戦い)。これ以後、ムハンマドは組織固めを強化し、マッカと通じていたユダヤ人らを追放した。

 

627年、マッカ軍と諸部族からなる1万人の大軍が、ムスリム勢力の殲滅を狙って侵攻してきた。このときムハンマドは、ウフドの戦いを教訓にサハーバの一人でありペルシア人技術者のサルマーン・アル=ファーリスィーに命じて、マディーナの周囲に塹壕を掘らせた。それにより敵軍の侵攻を妨害させ、また敵軍を分断し撤退させることに成功した。アラビア語で塹壕や防御陣地の掘のことをハンダクと呼ぶため、この戦いはハンダクの戦い(塹壕の戦い)と呼ばれる。マッカ軍を撃退したイスラム軍は武装を解かず、そのままマッカと通じてマディーナのイスラーム共同体と敵対していたマディーナ東南部のユダヤ教徒、クライザ族の集落を1軍を派遣して包囲した。

 

628年、ムハンマドは、フダイビーヤの和議によってマッカと停戦した。この和議は、当時の勢力差を反映してマディーナ側に不利なものであったが、ムスリムの地位は安定し以後の勢力拡大にとって有利なものとなった。この和議の後、先年マディーナから追放した同じくユダヤ教徒系のナディール部族の移住先ハイバルの二つの城塞に遠征を行い、再度の討伐によってこれを降伏させた。これにより、ナディール部族などの住民はそのまま居住が許されたものの、ハイバルのナツメヤシなどの耕地に対し、収穫量の半分を税として課した(ハイバル遠征)。

 

これに伴い、ムスリムもこれらの土地の所有権が付与されたと伝えられ、このハイバル遠征がその後のイスラーム共同体における土地政策の嚆矢、征服地における戦後処理の一基準となったと言われている。しかし、ユダヤ教徒側と結んだ降伏条件の内容や、ウマルの時代に彼らが追放された後、ムスリムによる土地の分配過程については、様々に伝承されているものの詳細は不明な点が多い。この遠征の後、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーといった周辺のユダヤ教徒系の諸部族は、相次いでムハンマドに服従する事になった。自信を深めたムハンマドは、ビザンツ帝国やサーサーン朝など周辺諸国に親書を送り、イスラム教への改宗を勧め、積極的に外部へ出兵するなど対外的に強気の姿勢を示した。

 

630年にマッカとマディーナで小競り合いがあり停戦は破れたため、ムハンマドは1万の大軍を率いてマッカに侵攻した。予想以上の勢力となっていたムスリム軍に、マッカは戦わずして降伏した。ムハンマドは、敵対してきた者達に当時としては極めて寛大な姿勢で臨み、ほぼ全員が許された。しかし、数名の多神教徒は処刑された。カアバ神殿に祭られる360体の神像・聖像はムハンマド自らの手で破壊された。

 

晩年

ムハンマドは、マッカをイスラム教の聖地と定め、異教徒を追放した。ムハンマド自身は、その後もマディーナに住みイスラーム共同体の確立に努めた。さらに、12000もの大軍を派遣して、敵対的な態度を取るハワーズィン、サキーフ両部族を平定した。以後、アラビアの大半の部族からイスラム教への改宗の使者が訪れ、アラビア半島はイスラム教によって統一された。

 

また、東ローマ帝国への大規模な遠征もおこなわれたが失敗した。

 

632年、マッカへの大巡礼(ハッジ)をおこなった。このとき、ムハンマド自らの指導により五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)が定められた。大巡礼を終えてまもなく、ムハンマドの体調は急速に悪化した。ムハンマドは、アラビア半島から異教徒を追放するように、また自分の死後もクルアーンに従うようにと遺言し、マディーナの自宅で没し、この地に葬られた。彼の自宅跡と墓の場所は、マディーナの預言者のモスクになっている。

 

家族と子孫

伝承によるとムハンマドが25歳のとき、15歳年長とされる福家の寡婦ハディージャと最初の結婚をしたと伝えられる。スンナ派などの伝承によれば、ムハンマドが最初の啓示を受けた時、その言葉を聞いて彼女が最初のムスリムになったと伝えられている。彼女の死後、イスラーム共同体が拡大するにつれ、共同体内外のムスリムや他のアラブ諸部族の有力者から妻を娶っており、そのうち、アブー・バクルの娘アーイシャが最年少(結婚当時9歳)かつ(スンナ派では)最愛の妻として知られる。

 

最初の妻ハディージャの死後、ムハンマドはイスラーム共同体の有力者の間の結束を強めるため多くの夫人を持ったが、アーイシャ以外はみな寡婦や離婚経験者である。これは、マディーナ時代は戦死者が続出し寡婦が多く出たため、この救済措置として寡婦との再婚が推奨されていた事が伝えられており、ムハンマドもこれを自ら率先したものとの説もある。

 

なお、ムハンマドと結婚し妻になった順番としては、ハディージャ、寡婦サウダ・ビント・ザムア、アーイシャ、ウマルの長女ハフサの順であったと伝えられ、他にマッカの指導者でムハンマドと敵対していたアブー・スフヤーンの娘ウンム・ハビーバ(したがってウマイヤ朝の始祖ムアーウィヤらの姉妹にあたる)がハンダクの戦いの後、629年にムスリムとなってムハンマドのもとへ嫁いでいる。

 

ムハンマドは生涯で7人の子供を得たと伝えられ、うち6人は賢妻として知られるハディージャとの間に生まれている。男子のカースィムとアブドゥッラーフは早逝したが、ザイナブ、ルカイヤ、ウンム・クルスーム、ファーティマの4人の娘がいた。このうち、ルカイヤ、ウンム・クルスームの両人は、ウスマーンに嫁いでいる(ムハンマドの娘二人を妻としていたため、ウスマーンはズンヌーライン ذو النورين Dhū al-Nūrain 『ふたつの光の持ち主』と呼ばれた)。

 

末娘ファーティマは、ムハンマドの従兄弟であるアリーと結婚し、ハサン、フサインの2人の孫が生まれた。最後の子供は晩年にエジプトのコプト人奴隷マーリヤとの間に儲けた3男イブラーヒームであるが、これも二歳にならずに亡くなっており、他の子女たちもファーティマ以外は全員、ムハンマド在世中に亡くなっている。

 

ムハンマドは上記のとおり男児に恵まれなかったため、娘婿で従兄弟のアリーがムハンマド家の後継者となった。ムハンマドは在世中、自身の家族について問われたとき、最愛の妻であるハディージャとの間の娘ファーティマとその夫アリー、二人の間の息子ハサンとフサインを挙げ、彼らこそ自分の家族であると述べている。また、ほかの妻の前で何回もハディージャを最高の女性であったと述べていた。そのためほかの妻、とりわけアーイシャはこのようなムハンマドの姿勢を苦々しく思っており、後にアーイシャがアリー家と対立する一因となる。

 

ムハンマドの血筋は、外孫のハサンとフサインを通じて現在まで数多くの家系に分かれて存続しており、サイイドやシャリーフの称号などで呼ばれている。サイイドはイスラム世界において非常に敬意を払われており、スーフィー(イスラーム神秘主義者)やイスラーム法学者のような、民衆の尊敬を受ける社会的地位にあるサイイドも多い。現代の例で言うと、イラン革命の指導者のホメイニ師と、前イラン大統領モハンマド・ハータミー、イラク・カーズィマインの名門ムハンマド・バキール・サドルやその遠縁にあたるムクタダー・サドル、ヨルダンのハーシム家やモロッコのアラウィー朝といった王家もサイイドの家系である。

2023/12/26

北欧神話(3)

北欧の崇拝

信仰の中心

ガムラ・ウプサラ。11世紀後期に破壊されるまで、スウェーデンにおける信仰の中心地だった

 

ゲルマンの民族が現代のような神殿を築くような事は、全く無かったかもしくは極めて稀なことであった。古代のゲルマンおよびスカンディナヴィアの人々により行われた礼拝の慣例ブロト(供儀)は、聖なる森で行われたとされるケルト人やバルト人のものと似通っている。礼拝は家の他にも、石を積み上げて作る簡素な祭壇ホルグで行われた。しかし、カウパング(シーリングサルとも)やライヤ(レイレとも)、ガムラ・ウプサラのように、より中心的な礼拝の地が少ないながら存在していたように見える。ブレーメンのアダムは、ウプサラにはトール・オーディン・フレイの3柱を模った木像が置かれる、神殿があったのではと主張している。

 

司祭

聖職のようなものは存在していたと思われる一方で、ケルト社会における司祭ドルイドの位ほど、職業的で世襲によるものではなかった。これは、女性預言者及び巫女達が、シャーマニズム的伝統を維持していたためである。ゲルマンの王権は、聖職者の地位から発展したのだともよく言われている。この王の聖職的な役割は、王族の長であり生贄の儀式を執り行っていた、ゴジの全般的な役割と同列である。シャーマニズム的考え方を持っていた巫女達も存在してはいたが、宗教そのものはシャーマニズムの形態をとっていない。

 

人間の生贄

ゲルマンの人間の生贄を見た唯一の目撃者の記述は、奴隷の少女が埋葬される君主と共に自ら命を差し出したという、ルス人の船葬について書かれたイブン・ファドラーンの記録の中に残っている。他にも遠まわしではあるが、タキトゥスやサクソ・グラマティクス、そしてブレーメンのアダムの記述に残っている。

 

しかし、イブン・ファドラーンの記述は、実際には埋葬の儀式である。現在理解されている北欧神話では、奴隷の少女には「生贄」という隠された目的があったのではという理解がなされた。北欧神話において、死体焼却用の薪の上に置かれた男性の遺体に女性が加わって共に焼かれれば、来世でその男性の妻になれるであろうという考え方があったとも信じられている。奴隷の少女にとって、たとえ来世であっても君主の妻になるということは、明らかな地位の上昇であった。

 

ヘイムスクリングラでは、スウェーデンの王アウンが登場する。彼は息子エーギルを殺すことを家来に止められるまで、自分の寿命を延ばすために自分の9人の息子を生贄に捧げたと言われる人物である。ブレーメンのアダムによれば、スウェーデン王はウプサラの神殿でユールの期間中、9年毎に男性の奴隷を生贄としてささげていた。当時、スウェーデン人達は国王を選ぶだけでなく王の位から退けさせる権利をも持っていたために、飢饉の年の後に会議を開いて王がこの飢饉の原因であると結論付け、ドーマルディ王と<木樵り>(トレーテルギャ)のオーラヴ王の両者が生贄にされたと言われている。

 

知識を得るためユグドラシルの樹で首を吊ったという逸話からか、オーディンは首吊りによる死と結びつけて考えられていた。こうしてオーディンさながら首吊りで神に捧げられたと思われる古代の犠牲者は窒息死した後に遺棄されたが、ユトランド半島のボグでは酸性の水と堆積物により完全な状態で保存された。近代になって見つかったこれらの遺体が、人間が生贄とされた事実の考古学的な裏付けとなっており、この一例がトーロン人である。しかし、これらの絞首が行なわれた理由を明確に説明した記録は存在しない。

 

キリスト教との相互作用

北欧神話を解釈する上で重要なのは、キリスト教徒の手により「キリスト教と接触していない」時代について書かれた記述が含まれているという点である。『散文のエッダ』や『ヘイムスクリングラ』は、アイスランドがキリスト教化されてから200年以上たった13世紀に、スノッリ・ストゥルルソンによって書かれている。これにより、スノッリの作品に多くのエウヘメリズム思想が含まれる結果となった。

 

事実上、すべてのサガ文学は比較的小さく遠い島々のアイスランドから来たものであり、宗教的に寛容な風土ではあったものの、スノッリの思想は基本的にキリスト教の観点によって導かれている。ヘイムスクリングラは、この論点に興味深い見識を備える作品である。スノッリはオーディンを、魔法の力を得、スウェーデンに住む、不死ではないアジア大陸の指導者とし、死んで半神となる人物として登場させた。オーディンの神性を弱めて描いたスノッリはその後、スウェーデン王のアウンが自身の寿命を延ばすために、オーディンと協定を結ぶ話を創る。後にヘイムスクリングラにおいて、スノッリは作品中のオーラヴ2世がスカンディナヴィアの人々を容赦なくキリスト教へ改宗させたように、どのようにしてキリスト教へ改宗するかについて詳述した。

 

偶像崇拝を禁するユダヤキリスト教とは、しばしば対立する事もあった。

 

アイスランドでは、内戦を避けるため全島民がキリスト教に改宗した。キリスト教から見ての異教崇拝は自宅での隠遁の信仰で耐え忍んだが、数年後にその信仰は失われた(「アイスランドのキリスト教化」を参照)。

 

一方、スウェーデンは11世紀に一連の内戦が勃発し、ウプサラの神殿の炎上で終結する。イギリスでは、キリスト教化がより早く散発的に行われ、稀に軍隊も用いられた。弾圧による改宗は、北欧の神々が崇拝されていた地域全体でばらばらに起っている。しかし、改宗は急に起こりはしなかった。キリスト教の聖職者達は、北欧の神々が悪魔であると全力を挙げて大衆に教え込んだのだが、その成功は限られたものとなり、ほとんどのスカンディナヴィアにおける国民精神の中では、そうした神々が悪魔に変わることは決してなかった。

2023/12/21

唐(5)

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隋末には各地に反乱勢力が割拠します。農民出身者や隋の高官など、反乱勢力のリーダーはいろいろです。そのなかで、混乱を収拾して唐帝国を建てたのが李淵(りえん)(位618626)。この人は隋の将軍、しかも名門軍人でした。

 

 実は隋の楊家と李淵の家は、北魏末に反乱をおこした軍人グループの仲間です。隋を建てた楊堅は北周の軍人でしたね。北周時代は楊家と李家は同僚なんです。しかも李淵の家の方が格が上だった。しかし、楊堅が隋を建て皇帝になってしまったので、李淵はその将軍をやっていたわけ。しかも、李淵と煬帝はいとこ同士です。お互いの母親が鮮卑族の名門貴族、独孤氏の姉妹という関係です。

 

 だから、隋末に李淵が旗揚げをしたときに、隋の官僚や軍人たちには違和感があまりないわけです。北周から唐にかけては、同じ仲間内で皇帝の地位をまわしているようなものです。

 

 というわけで、李淵は旗揚げ後、すぐに長安に入城することができた。隋の統治組織をそっくり手に入れ、ライバルの諸勢力を倒していきました。

 

 唐の建国に大活躍したのが李淵の次男、李世民(りせいみん)です。李淵はどちらかというとボウッとした人で、李世民が親父さんをたきつけて旗揚げしたようなものです。建国の第一の功労者なんですが、なにしろ次男だから皇太子になれない。ついには皇太子である兄を実力で倒して、二代目の皇帝になりました。

 

これが唐の太宗(位626649)です。中国史上、三本の指に入る名君です。かれの治世は「貞観の治(じょうがんのち)」といわれる。太宗の時代の年号が貞観、その貞観時代が平和でよく治まった、という意味で讃える言葉です。

 

 唐の政策は、隋をそのまま引き継いでいきます。大運河の建設が隋時代に終わっていた分、唐はその成果をそっくり手に入れることができて有利でしたね。

 

 政策を整理します。

 

ü  土地制度は均田制

ü  税制は租庸調制

ü  軍制は府兵制。

 

 律令格式(りつりょうきゃくしき)といわれる法律も整備されます。唐は、この律令制度が完成して頂点に達した時代です。

 

 中央官制は三省六部(さんしょうりくぶ)制。三省とは、中書省(ちゅうしょしょう)、門下省(もんかしょう)、尚書省(しょうしょしょう)。

 

中書省は、皇帝の意思を受けて法令を文章化する役所。門下省は、中書省から下りてきた法令を審査します。もし門下省の役人が問題ありとした場合、法案は中書省に差し戻しです。中書省はもう一度、皇帝と相談して法案を練り直さないといけない。だから、門下省は大きな力を持っているのですね。この門下省の役人になったのが、南北朝以来の名門貴族の者たちです。大きな権力を持ってはいるのですが、政府の官僚としての権力に過ぎなくなっているところに注意しておいてください。

 

 門下省の審査を経た法案は、尚書省によって実行に移される。尚書省に属しているのが六部です。吏部、戸部、礼部、兵部、刑部、工部の六つの役所が実行部隊です。 

 

ü  吏部は官僚の人事を司る

ü  戸部は現在でいうなら大蔵省にあたるもの

ü  礼部は文部省

ü  兵部は軍事を担当

ü  刑部は法務省と国家公安委員会を併せたようなもの

ü  工部は建設省

 

 以上のような唐の諸制度は、遣唐使によって日本に積極的に取り入れられました。日本でも大宝律令とかつくるでしょ。唐の律令の影響ですね。役所の名前など、いまだに大蔵省、文部省など、省という呼び方をしているのは、ここからきているんですからね。

 

  対外的には突厥の内部分裂を利用して、これを服属させます。北方西方の諸部族の族長に唐の地方官の官職をあたえ、都護府という役所にかれらを監督させた。唐政府は部族内のことに口出しはしませんから、緩やかな支配といっていい。このような唐の周辺諸民族に対する政策を「羈縻(きび)政策」といいます。羈縻というのは馬や牛をつないでおく紐のことで、紐の伸びる範囲なら自由に活動が許される、そういう意味です。高句麗に対して遠征もおこないますが、これが成功するのは次の皇帝のときです。

 

唐中期の政治

太宗李世民は政治的には成功をおさめるのですが、跡取り問題で悩みます。長男が皇太子になるのですが、この人少し変わっている。突厥、トルコ人の遊牧文化にあこがれているのです。宮殿の庭にテントを張って、家来とそこに住み込む。食事のときは羊の肉を剣にさしたまま、火であぶって食べる。バーベキューですね。家来には弁髪という北方民族の髪型をさせて、かれらとトルコ語で会話をします。

 

 なぜ、皇太子がこんなに遊牧文化にあこがれたかはわかりませんが、もともと唐の皇室李家も鮮卑族など北方民族の血が色濃くはいっています。李世民の皇后も長孫氏という北魏以来の鮮卑族の名門でした。だから、風俗として遊牧民に近いものがあったのでしょう。皇太子の振る舞いは先祖返りかもしれません。

 

 ただ、皇帝としては困るわけ。言動も乱暴なところがあった。そこで、李世民は長男を皇太子からはずして、長孫皇后が産んだ子のなかで一番おとなしい三男を皇太子にしました。この人が第三代皇帝高宗(位649~683)。

 

 高宗は優柔不断なところのある頼りない皇帝でしたが、太宗李世民の基礎づくりがしっかりしていたので、かれの時代になっても唐の支配領域は拡大しつづけます。高句麗を滅ぼすのもかれのときです。

 

高宗は、かれ自身よりも皇后が有名。則天武后(そくてんぶこう)といわれる人です。もともと彼女は李世民の後宮に入っていたのですが、息子の高宗がみそめた。親父が死んだあと、彼女を自分の後宮に入れました。これは、やはり遊牧民的な行動です。息子が父親の妻を自分のものにするなんて、儒教文化ではありえませんからね。遊牧民では普通にあることなのです。女性を自分の妻とすることで扶養するのね。もちろん産みの母親を妻にはしませんよ。

 

 則天武后は高宗の愛を独占して、皇后の地位に登りつめます。彼女は頭がきれる。高宗は決断力のない人ですから、政治向きの相談を彼女にする。則天武后はそういうときに、実に的確な指示をするのですよ。やがて、高宗は彼女なしでは政務ができないほどになる。朝廷で役人に会うときに自分の後ろに簾をたらしておいて、その裏側に則天武后を座らせておく。高宗が判断に迷うと則天武后が簾の後ろからどうしたらよいか、そっと耳打ちしてくれるという寸法です。

2023/12/19

ムハンマド(1)

ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ(アラビア語: محمد ابن عبد اللّه、アラビア語ラテン翻字: Muammad ibn `Abd Allā, 570年頃 - 63268日)は、アラブの宗教的、社会的、政治的指導者であり、イスラム教の預言者である。

 

イスラム教の教義によると、彼は預言者であり、アダム、アブラハム、モーセ、イエス、その他の預言者の一神教の教えを説き、確認するために遣わされた。

 

概要

ムハンマドは、イスラム教のすべての主要な宗派において神の最終預言者と考えられていたが、現代の一部の宗派ではこの信念から外れているものもある。ムハンマドはアラビアを一つのイスラム教国家に統一し、コーランと彼の教えと実践がイスラム教の信仰の基礎となっている。

 

570年(象の年)頃にアラビアの都市メッカで生まれたムハンマドは、6歳の時に孤児となった。父方の祖父アブド・アル・ムッタリブの世話の下で育てられ、彼の死後は叔父のアブー=ターリブに育てられた。後年、彼は定期的にヒラという名の山の洞窟に身を潜め、数日間の祈りの夜を過ごした。

 

彼が40歳の時、ムハンマドは洞窟の中でガブリエルの訪問を受け、神からの最初の啓示を受けたと報告していた。613年、ムハンマドはこれらの啓示を公に説き始め、「神は一つである」こと、神への完全な「服従」(イスラーム)が正しい生き方(ディーン)であること、そしてムハンマドはイスラム教の他の預言者と同様に、神の預言者であり、神の使者であることを宣言した。

 

ムハンマドの信者は当初は数が少なく、メッカの多神教徒からの敵意にさらされていた。ムハンマドは615年に信奉者の一部をアビシニアに送り、訴追から身を守るために、622年にメッカからメディナ(当時はヤトリブと呼ばれていた)に移住した。この出来事、ヒジュラはイスラム暦の始まりであり、ヒジュラ暦としても知られている。

 

メディナでは、ムハンマドはメディナ憲法の下で部族を統一した。62912月、メッカの部族との8年間の断続的な戦いの後、ムハンマドは10,000人のイスラム教徒の改宗者からなる軍隊を集め、メッカの街へ進撃した。この征服ではほとんど争いは起きず、ムハンマドはほとんど流血することなく街を占領した。632年、別離の巡礼から戻って数ヶ月後、ムハンマドは病に倒れて死んだ。彼が亡くなった時には、アラビア半島のほとんどがイスラム教に改宗していた。

 

ムハンマドが死ぬまでに受けたとされる啓示(それぞれの啓示はアヤ(文字通り「神のしるし」)として知られている)は、イスラム教徒にとってはこの宗教の基礎となる「神の言葉」として、コーランの一節を構成している。コーランの他にも、ハディースやシラ(伝記)に記されているムハンマドの教えや実践(スンナ)もまた、イスラム法の源として支持され、使用されていた。

 

名前と表記

フルネームはムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブ(محمد ابن عبد اللّه ابن عبد المطّلب Muammad ibn `Abd Allāh ibn `Abd al-Muṭṭalib)であり、「アブドゥルムッタリブの息子アブドゥッラーフの息子ムハンマド」の意味。ムハンマド (محمد , Muammad)の意味は、アラビア語で「賞賛する」「称えられる」を意味する -m-damada/amida)の動詞第2形の受動分詞を語源とし、「より誉め讃えられるべき人」。

 

ギリシア語資料では Μουαμεδ として表れる。日本では、かつては西欧での表記(Mohammed, Mohamet, Mahomet など、ラテン語形 Machometus に由来)やトルコ語での表記(Mehmet, Muhammet)にしたがって、マホメットと呼ばれることが多かったが、近年では標準アラビア語(フスハー)の発音に近い「ムハンマド」に表記・発音がされる傾向がある。なお、カタカナにした場合は表記ゆれが多く、上記にあるマホメット以外にムハマッド、ムハマド、モハメット、モハメド、メフメット、メフメト、メフメドなどとも呼ばれ、中東方面の著名人に多い名前でもあるため、区別のため「預言者ムハンマド」と呼ぶ場合がある。

 

なお、第2音節の ح は無声咽頭摩擦音であり、無声声門摩擦音である通常のhとは違うため、ラテン文字転写の場合正確には下に点のついた文字で表される(ラテン語で当該部分にchが使われているのもそのため)。

 

生涯

啓示

ムハンマドは、アラビア半島の商業都市マッカ(メッカ)で、クライシュ族のハーシム家に生まれた。父アブド・アッラーフ(アラビア語版)(アブドゥッラーフ)は彼の誕生する数か月前に死に、母アーミナ(アラビア語版)もムハンマドが幼い頃に没したため、ムハンマドは祖父アブドゥルムッタリブと叔父アブー・ターリブの庇護によって成長した。

 

成長後は、一族の者たちと同じように商人となり、シリアへの隊商交易に参加した。25歳の頃、富裕な女商人ハディージャに認められ、15歳年長の寡婦であった彼女と結婚した。ハディージャは、ムハンマド最愛の妻として知られる。ムハンマドはハディージャとの間に24女をもうけるが、男子は2人とも成人せずに夭折した。

 

610810日、40歳ごろのある日、悩みを抱いてマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけっていたムハンマドは、そこで大天使ジブリール(ガブリエル)に出会い、唯一神(アッラーフ)の啓示(のちにクルアーンにまとめられるもの)を受けたとされる。その後も啓示は次々と下されたと彼は主張し、預言者としての自覚に目覚めたムハンマドは、近親の者たちに彼に下ったと彼が主張する啓示の教え、すなわちイスラーム教を説き始めた。最初に入信したのは妻のハディージャで、従兄弟のアリーや友人のアブー・バクルがそれに続いた。

 

613年頃から、ムハンマドは公然とマッカの人々に教えを説き始めが、最初はメッカの有力者であるクライシュ族の裕福な商人を含め、地元住民たちはムハンマドに反感らしき感情を持たなかった。しかし、ムハンマドがアッラー以外の神々に対して罵倒を始めたとき、クライシュ族の有職者はムハンマドの思想を危険思想だと受け止めた。というのも、クライシュ族はカーバ神殿を管理しており、巡礼者が落とすお金は生活基盤となっており、また結縁関係を重視した民族であるため、生活基盤をひっくり返す危険性、血縁関係を壊すようなムハンマドの教えは、一族の基盤を覆しかねないと危惧されたのだ。

 

アラビア人伝統の多神教の聖地でもあったマッカを支配する有力市民たちは、ムハンマドとその信徒(ムスリム)たちに商取引を禁じるなど経済的な激しい迫害を加え、窮地に追い込んでいった。伯父アブー・ターリブは、ハーシム家を代表してムハンマドを保護しつづけたが、619年頃亡くなり、同じ頃妻ハディージャが亡くなったので、ムハンマドはマッカでの布教に限界を感じるようになった。

 

聖遷

622年、ムハンマドは、ヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))の住民からアラブ部族間の調停者として招かれた。これをきっかけに、マッカで迫害されていたムスリムは、次々にヤスリブに移住した。マッカの有力者達は、ムハンマドがヤスリブで勢力を伸ばすことを恐れ、刺客を放って暗殺を試みた。これを察知したムハンマドは、甥のアリーの協力を得て、新月の夜にアブー・バクルと共にマッカを脱出した。マッカは追っ手を差し向けたが、ムハンマドらは10日ほどかけてヤスリブに無事に辿り着いた。この事件をヒジュラ(元来、移住という意味だが聖遷や遷都と訳されることが多い)といい、この年はのちにヒジュラ暦元年と定められた。また、ヤスリブの名をマディーナ・アン=ナビー(預言者の町、略称マディーナ)と改めた。

 

マディーナでは、マッカからの移住者(ムハージルーン)とヤスリブの入信者(アンサール)を結合し、ムハンマドを長とするイスラーム共同体(ウンマ)を結成した。

2023/12/13

唐(4)

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武韋の禍

683年に高宗が亡くなると武太后の子供4代目皇帝、中宗が即位した。しかし武太后は野心を露にし、わずか54日で中宗を廃位させ、自らの傀儡である5代皇帝睿宗(えいそう)を即位させて自ら政治を執るようになった。武太后は皇帝候補である自らの子供達を次々と殺害していき、690年ついに武太后は自ら皇帝になり唐の国号を周と改めた。武周革命による武則天(則天武后)の誕生である。

 

武則天は漢の劉邦の妻、呂后、清末期の西太后と並び中国三大悪女とか呼ばれる程で、自らの反対者を次々と粛正していった。しかし、武則天には人を見る目があったのか腐敗した役人を排除し優秀な官吏を次々登用し、更に農業を進めるように水利工事を行い農業を発展させたため、宮殿の混乱とは裏腹に社会や経済は発展した。

 

この特徴は呂后政権にも見られることである。(西太后は贅沢ばっかしてたので反乱が多発し、清朝にとどめをさした)。粛正や政治権力の乗っ取りは男なら数多くの皇帝や政治家が行っているが、呂后や武則天だけ悪として伝わるのは、直接的女性権力者の数が少ないこと、儒教文化の影響があるなどが理由とされている。また武則天は新しい則天文字というものを作り、日本にも渡ってきたがいまいち広まらなかった。唯一、日本にも残る則天文字は、水戸黄門で有名な水戸光圀の「圀」の字である。これが実は則天文字なのだ。

 

女性皇帝として権勢を誇った武則天であるが、しかし705年に病に伏した武則天に対して、宰相の張柬之(ちょうかんし)が軍事的脅しを背景に退位を迫り、中宗が二度目の即位をして唐王朝は復活した。同年11月、武則天は崩御し、周王朝の皇帝として夫であった高宗の隣に葬られた。

 

皇帝に返り咲いた中宗であるが、その執政は妻の韋后のいいなりであった。中宗に政治能力はなく、政治は乱れるばかり。韋后に反対するものは大臣でもすぐに殺されてしまった。農村では、家も田畑も捨てて逃げ出す者が続出した。韋后はとうとう中宗を毒殺し、武則天を見習って自ら皇帝につこうとするも、中宗の甥の李隆基に710年に反乱を起されて殺されてしまった。武則天と韋后の二人の女性が政治権力を握ったこの時期を二人の名前からとって武韋の禍と呼ぶ。

 

開元の治

韋后の死後、李隆基の父の睿宗が二度目の皇帝位につき、その2年後712年、李隆基は玄宗として即位した。玄宗は元号を開元とした上で政治改革を次々と行った。玄宗の政治を支えたのは、武則天に見いだされた姚崇 (ようすう)や宋璟(そうえい)などの政治家や、科挙出身の張説(ちょうえつ)や張九齢などの役人達であった。

 

717年には吉備真備や阿倍仲麻呂、僧侶の玄昉(げんぼう)を含めた557人もの遣唐使が日本からやってきた。この頃から、大和から日本に国号を改めたとされている。その3年後、阿倍仲麻呂は唐の役人として玄宗皇帝に仕えることになり、朝衡と名乗るようになった。また詩仙、李白とも交友を持った。玄宗皇帝の治世は開元の治と讃えられ、千里の旅をするのに短剣一ついらないと言われるほどの平和を見せた。

 

しかし742年に年号を天宝と改めた頃から、様々な問題が表出するようにった。安西の辺境では突厥の攻撃が激しくなり、それに対抗して現地で兵を募集するために節度使に徴税権を認めた。こうして中央政府の府兵制は崩れて行き、かわって兵を募集する募兵制が行われるようになった。

 

徴税権は国家の非常に重要な主権である。それを節度使に認めてしまったことにより、節度使は独立勢力としての基盤を固めてしまった。この中でも、特に権勢を誇ったのは安禄山であった。安禄山は父はソグド人、母は突厥人という国際人であり、最も重要な役目を担う北京周辺の3つ(平廬、へいろ・范陽・河東)の節度使となり、玄宗に取り入っていた。この時に安禄山は胡人の踊りと、赤ん坊がオムツを替えられる時のモノマネが大受けしたという逸話もある。

 

その頃、玄宗は60歳を越えており政治に倦み始めていた。そんな中、玄宗は皇太子寿王の妃、楊玉環に夢中になり、自らの後宮に入れて寵愛した。これが、かの有名な楊貴妃である。玄宗は離宮の華清宮に楊貴妃のために立派な温泉を作り、楊貴妃の一族をとりたてていった。その中でもひときわ出世したのが、またいとこの楊国忠であった。

 

所かわって、この頃西域から中央アジアでは、イスラームの勢力が勃興していた。唐の西域を守っていた安西都護の高仙芝(こうせんし)は、中央アジアでの勢力の拡大を狙っていたが、これを嫌った西域の諸都市はアッバース朝に助けを求めた。651年、アッバース朝と唐軍がタラス河畔(現在のカザフスタン)で激突した。この時、高仙芝の支配下にあった遊牧民のカルルク族が背いたために唐は大敗する。こうして唐は西域での勢力を減らしてしまうが、アッバース朝が獲得した捕虜から製紙法が伝わるなどの東西交流も発生した。

 

安史の乱

755年には、とうとう安禄山が楊国忠排除を名目に挙兵する。安禄山率いる西方イラン系や北方遊牧民族からなる強力な騎馬軍団は、あっという間に洛陽を陥落させ、756年安禄山は大燕を建国して皇帝を名乗った。その後、安禄山は長安に兵を進ませたために、玄宗は蜀の成都に移動するも、その途中で楊国忠は殺され部下の勧めにあって楊貴妃も死を賜った。これにショックを受けた玄宗は、そのまま退位して成都に向かい、皇太子の李亨(りこう)が粛宗として皇帝となった。この時代の戦乱を詠ったのが、教科書にも載っている杜甫の春望である。「国破れて山河あり」のあれである。

 

そんなこんなしているうちに、図に乗って部下をいじめていた安禄山が息子の安慶緒に殺されてしまう。粛宗は名将軍の郭子儀を派遣して757年には長安を奪還したが、反乱軍は安禄山の部下であった史思明がリーダーとなり勢力を保ち唐と戦い続けた。結局、唐軍はウィグルの騎馬軍団の力を借りて反乱軍を討伐させる。この反乱は、安禄山と史思明の名前をとって安史の乱と呼ばれた。

 

長い戦乱で疲弊した財政の回復と、ウィグルへの莫大な報酬を払うため758年、政府は塩の専売をはじめた。また、崩れてしまった均田制の代わりに、個人の土地の所有を認めて、その上で土地の生産力に応じて夏と秋の二回、銅銭で税金を支払う両税法を公布した。更に茶、塩、酒などを国の専売にして重い税をかけ、その他にも様々な名目で国民に重税を強いた。

 

滅亡

874年、塩の密売人王仙芝(おうせんし)が数千の農民を率いて山東で反乱を起こし、翌年には同じく塩の密売人であった黄巣が加わり、ここに黄巣の乱が発生した。農村地帯では、日照りやイナゴの影響で農民は飢えに苦しんでいたので、反乱軍はあっという間にその数を増やして行った。その中で一人の人物が台頭していく。名は朱温、後の朱全忠である。

 

878年には王仙芝が戦死するも880年に反乱軍は洛陽を占領し、同年長安まで攻め込み、時の皇帝僖宗を四川へと敗走させる。黄巣は長安で皇帝を名乗り、国号を大斉とするが、唐の援助要請に応じた突厥の沙陀族の族長である李克用と、唐に寝返った朱全忠の反撃にあい、884年に一族と共に自殺。ここに黄巣の乱は終わったが、この後に李克用と朱全忠が激しく争い、907年には朱全忠が唐皇帝から位を譲り受けて後粱を建てて、ここに建国以来290年続いた唐王朝は滅んだ。この後、他の節度使が各地で国を起こし、後梁も滅んで行くという五代十国時代が始まる。

2023/12/11

菩提達磨

菩提達磨(ぼだいだるま、中国語: 达摩、サンスクリット語: बोधिधर्म, bodhidharma、ボーディダルマ)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。『洛陽伽藍記』や『続高僧伝』など唐代以前のものは達摩とも表記する。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。

 

生涯

菩提達磨についての伝説は多いが、その歴史的真実性には多く疑いも持たれている。南天竺国王の第三王子として生まれ、般若多羅の法を得て仏教の第二十八祖菩提達磨になったということになっている。しかし、それよりも古い菩提達磨への言及は魏撫軍府司馬楊衒之撰『洛陽伽藍記』卷一 永寧寺の条(547年)にあり、全ての達磨伝説はここに始まるともいわれている。

 

時有西域沙門菩提達摩者、波斯國胡人也。起自荒裔、來遊中土。

見金盤炫日、光照雲表、寶鐸含風、響出天外。歌詠讚歎、實是神功。自云、年一百五十歳、歴渉諸國、靡不周遍、而此寺精麗、閻浮所無也。

極佛境界、亦未有此、口唱南無、合掌連日。

『洛陽伽藍記』巻一永寧寺条

このころ西域の僧で菩提達摩という者がいた。波斯国(サーサーン朝ペルシア)生まれの胡人であった。彼は遥かな夷狄の地を出て、中国へ来遊した。

 

永寧寺の塔の金の承露盤が太陽に輝いて、その光は雲の上までも照らし、また宝鐸が風を受けて鳴り、その響きは天の彼方までも出ずるさまに出会い、讃文を唱えて、まことに神業だと讃嘆した。

 

自身が言うところでは、齢150歳で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばない所はないが、この永寧寺の素晴らしさは閻浮提にはまたと無い、たとえ仏国土を隈なく求めても見当たらないと言い、口に「南無」と唱えつつ、幾日も合掌し続けていた。

 

弟子の曇林が伝えるところによると、菩提達磨は西域南天竺国において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば南北朝の宋の時代(遅くとも479年の斉の成立以前)に宋境南越にやって来たとされている。

 

北宋時代の景徳年間(1004 - 1007年)に宣慈禅師道原によって編纂され、禅宗所依の史伝として権威を持つに至った『景徳伝燈録』になると、菩提達磨は中華五祖、中国禅宗の初祖とされる。この灯史によれば釈迦から数えて28代目とされている。南天竺国香至王の第三王子として生まれる。中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで道育、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗(りょうがしゅう、楞伽経にちなむ)と呼ばれた。

 

普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。921日(1018日)、広州に上陸。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。この書では南朝梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。

 

帝問曰「朕即位已來、造寺寫經度僧不可勝紀。有何功德。」

師曰「並無功德。」

帝曰「何以無功德。」

師曰「此但人天小果有漏之因、如影隨形雖有非實。」

帝曰「如何是真功德。」

答曰「淨智妙圓體自空寂、如是功德不以世求。」

帝又問「如何是聖諦第一義。」

師曰「廓然無聖。」

帝曰「對朕者誰。」

師曰「不識。」

帝不領悟。師知機不契、是月十九日,潛回江北。

『景徳伝灯録』巻三

 

帝は質問した。「朕は即位して以来、寺を造り、経を写し、僧を得度すること数え切れない。どんな功徳があるだろうか。」

師は言った。「どれも功徳はありません。」

帝は言った。「どうして功徳がないのか。」

師は言った。「これらはただ人間界・天界の小果であって、煩悩を増すだけの有漏の因です。影が物をかたどっているようなもので、存在はしても実体ではありません。」

帝は言った。「真の功徳とはどのようなものだろうか。」

答えた。「浄智は妙円ですが、その本体はそもそも空です。このように功徳は俗世間で求められるものではありません。」

帝はまた質問した。「聖諦の根本的意味はどのようなものだろうか。」

師は言った。「この世はがらんどうで、聖なるものなどありません。」

帝は言った。「では朕と対座しているのは誰なのか。」

師は言った。「認識できません。」

帝はその意を理解できなかった。師は機縁が合わなかったと知り、この月の19日にひそかに江北に帰った。

後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。

 

白隠慧鶴筆『達磨図』

達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる『坐禅の定義』などに継承されている。

 

大通2129日(52914日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。

 

永安元年105日(528112日)に150歳で遷化したとされる。一説には、達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう。諡は円覚大師。

 

一方『景徳伝燈録』は、達磨没後の道教の尸解に類した後日譚を伝える。中国の高僧伝には、しばしば見られるはなしである。それは達磨の遷化から3年後、西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原の葱嶺という場所で達磨に出会ったというものである。その時、達磨は一隻履、つまり履き物を片方だけ手にして歩いており、宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うと、達磨は「インドに帰る」と答えたという。また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。宗雲は帰国してからこのことを話してまわった。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。孝荘帝が達磨の墓を開けさせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。

 

二入四行論について

宮本武蔵による『達磨頂相図』

彼の事績、言行を記録した語録とされるものに『二入四行論』がある。柳田聖山によれば『二入四行論』が達磨に関する最も古い語録で、達磨伝説の原型であるとともに達磨の思想を伝えるとされている。敦煌文書を基にした復元された『達摩二入四行論』に登場する三蔵法師が、菩提達摩その人だと信じられている。これは、いくつかの既存の禅宗の文献を部分として含む重要な文献だとされている。しかし伊吹敦は『二入四行論』の内容を精査分析し、これが菩提達磨の教説ではなく中国人にしか書けないものであると報告している。さらに伊吹敦は『二入四行論』の作者は誰かという問題に挑み、慧可であろうと推定している。

 

影響

達磨により中国に禅宗が伝えられ、それは六祖慧能にまで伝わったことになっている。さらに臨済宗・曹洞宗などの禅宗五家に分かれる。日本の宗教にも大きな影響を及ぼした。

 

禅宗では達磨を重要視し、「祖師」の言葉で達磨を表すこともある。禅宗で「祖師西来意」(そしせいらいい:達磨大師が西から来た理由)と言えば、「仏法の根本の意味」ということである。

 

達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったという伝説が起こり、玩具としてのだるまができた。これは『福だるま』と呼ばれ縁起物として現在も親しまれている。

2023/12/09

北欧神話(2)

始まり

大地を持ち上げるオーディン、ヴィリ、ヴェー。『巫女の予言』における、ミズガルズの創造

 

北欧神話においては、生命の始まりは火と氷で、ムスペルヘイムとニヴルヘイムの2つの世界しか存在しなかったという。ムスペルヘイムの熱い空気がニヴルヘイムの冷たい氷に触れた時、巨人ユミルと氷の雌牛アウズンブラが創り出された。ユミルの足は息子を産み、脇の下から男と女が1人ずつ現れた。こうしてユミルは彼らから産まれたヨトゥン及び巨人達の親となる。

 

眠っていたユミルは後に目を覚まし、アウズンブラの乳に酔う。彼が酔っている間、牛のアウズンブラは塩の岩を嘗めた。この出来事の後、1日目が経って人間の髪がその岩から生え、続いて2日目に頭が、3日目に完全な人間の体が岩から現れた。彼の名はブーリといい、名の無い巨人と交わりボルを産むと、そこからオーディン、ヴィリ、ヴェーの3人の神が産まれた。

 

3人の神々は自分たちが十分に強大な力を持っていると感じ、ユミルを殺害する。ユミルの血は世界に溢れ、2人を除くすべての巨人を溺死させた。しかし巨人は再び数を増やし続け、すぐにユミルが死ぬ前の人数まで達した。その後、神々は死んだユミルの屍体で大地を創り、彼の血液で海・川・湖を、骨で石・脳で雲を、そして頭蓋骨で天空をそれぞれ創りだした。更にムスペルヘイムの火花は、舞い上がり星となった。

 

アスクとエムブラの創造が描かれたフェロー諸島の切手

ある日、3人の神々は歩いていると2つの木の幹を見つけ、木を人間の形へ変形させた。オーディンはこれらに生命を、ヴィリは精神を、そしてヴェーは視覚と聞く能力・話す能力を与えた。神々はこれらをアスクとエムブラと名づけ、彼らのために地上の中心に王国を創り、そこを囲むユミルのまつ毛で造られた巨大な塀で巨人を神々の住む場所から遠ざけた。

 

世界樹ユグドラシルの下で運命の糸を紡ぐノルン

巫女は、ユグドラシルや3柱のノルン(運命の女神)の説明に進む。巫女は、その後アース神族とヴァン神族の戦争と、オーディンの息子でロキ以外の万人に愛されたというバルドルの殺害について特徴を述べる。この後、巫女は未来への言及に注意を向ける。

 

終局(終末論信仰)

バルドルの死から世界の終末が始まる

古き北欧における未来の展望は、冷たく荒涼としたものであった。同じく北欧神話においても、世界の終末像は不毛かつ悲観的である。それは、北欧の神々がユグドラシルの他の枝に住む者に打ち負かされる可能性があるということだけでなく、実際には彼らは敗北する運命にあり、このことを知りながら常に生きていたという点にも表れている。

 

信じられているところでは、最後に神々の敵側の軍が、神々と人間達の兵士よりも数で上回り、また制覇してしまう。ロキと彼の巨大な子孫達は、その結束を打ち破る結果となり、ニヴルヘイムからやってくる死者が生きている者たちを襲撃する。見張りの神であるヘイムダルが角笛ギャラルホルンを吹くと共に、神々が召喚される。こうして秩序の神族と混沌の巨人族の最終戦争ラグナロクが起こり、神々はその宿命としてこの戦争に敗北する。

 

これについて既に気づいている神々は、来たる日に向けて戦死者の魂エインヘリャルを集めるが、巨人族側に負け神々と世界は破滅する。このように悲観的な中でも、2つの希望があった。ラグナロクでは神々や世界の他に巨人族もまたすべて滅びるが、廃墟からより良き新しい世界が出現するのである。オーディンはフェンリルに飲み込まれ、トールはヨルムンガンドを打ち倒すが、その毒のために斃れることになる。最後に死ぬのはロキで、ヘイムダルと相討ちになり、スルトによって炎が放たれ、「九つの世界」は海中へと沈む。このように神々はラグナロクで敗北し殺されてしまうが、ラグナロク後の新世界ではバルドルのように蘇る者もいる。

 

ただし、ラグナロク後の展開は解釈や資料によって異なり、異版では新たな世界が生まれることなく世界が滅亡するというものもある。

 

王と英雄

ラムスンド彫刻画に描かれている『ヴォルスンガ・サガ』の一節

この神話文学には霊的な創造物達もさることながら、英雄や王たちの伝説にも関連している。物語に登場する氏族や王国を設立した人物たちは、実際に起こったある特定の出来事や国の起源などの例証として、非常に重要であるという。この英雄を扱った文学は、他のヨーロッパ文学に見られる叙事詩と同様の機能を果たし、民族の固有性とも密接に関連していたのではないかと考えられている。伝説上の人物はおそらく実在したモデルがあったとされ、スカンディナヴィアの学者達は何代にもわたって、サガにおける神話的人物から実際の歴史を抽出しようと試みているのである。

 

ウェーランド・スミス(鍛冶師のヴィーラント)とヴォルンドル、シグルズとジークフリート、そしておそらくはベーオウルフとボズヴァル・ビャルキなど、時折ゲルマンのどの世界で叙事詩が残存していたかにより、英雄も様々な表現形式で新たに脚色される。他にも、著名な英雄にはハグバルズル、スタルカズル、ラグナル・ロズブローク(粗毛ズボンのラグナル)、シグルズル金環王、イーヴァル広範王(イーヴァル・ヴィーズファズミ)、ハラルドル戦舌王(ハーラル・ヒルデタンド)などがいる。戦士に選ばれた女性、盾持つ処女も著名である。女性の役割はヒロインとして、そして英雄の旅に支障をきたすものとして表現されている。

2023/12/05

唐(3)

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唐王朝とは

1. 李淵が建国した中国の王朝である。

2. 古唐。周の時代の初期にあったという。魯の周公旦に滅ぼされた

3. 春秋時代にあった王朝。楚に滅ぼされた。

4. 李存勗が立てた王朝。後唐。

5. 李昪が立てた王朝。南唐。

6. 李添保の立てた政権。

7. 蔡伯貫の立てた政権。

8.  

ここでは最も有名な1について記す。

 

唐王朝とは、中国にあった王朝(618~690705~907)である。

 

概要

618年の李淵の即位から武則天の周を挟んで、907年朱全忠の即位まで存在した王朝。日本では遣唐使もあって、日本の政治システムを越えて国家そのものに強い影響を与えた。

 

建国

世は隋末期。度重なる遠征の失敗の民衆に重くのしかかった重税を主因として、各地で反乱が勃発。皇帝、煬帝は部下に殺され中国は再び大戦乱時代を迎えた。その中で台頭した群雄の一人が唐の李淵である。

 

6186月、長安の大極殿で唐王朝の初代皇帝、李淵の即位の儀式が行われた。これが唐の高祖である。李淵は長男の建成を皇太子に、次男の世民を秦王に、4男の元吉を斉王に任命し(三男は既に死去)、各地の抵抗勢力の鎮圧に向かわせた。

 

その中で活躍が光ったのは、次男の李世民である。世民は若い頃から武勇と知略に優れ、父の李淵に挙兵を進言したのも、この李世民だとされる。李世民は太原を占領していた劉武周を征伐し、さらに洛陽を拠点に皇帝を名乗った王世充を破って、唐の基盤を整えた。

 

624年、李世民は敵対勢力を5年かかって平定し長安に凱旋してきたが、世民の余りの人気に皇太子の建成は彼を疎ましく思い、626年玄武門にて四男の元吉と共に世民の暗殺を企む。しかし世民はこれを見破り、逆に二人を討ち取ってしまった。この事件を玄武門の変という(世民の方が、先に二人を殺そうとしたという説もある)。

 

この事件を機に皇太子となった李世民は高祖を閉じ込め、二ヶ月後には位を譲らせた。中国史に残る名君、二代皇帝、唐の太宗である。

 

太宗は親政を開始すると、こびへつらう側近をしりぞけ魏徴などの有能な側近を重く用いるようになった。太宗の治世により、国力は高まり近隣諸国は貢ぎ物を持って唐に訪れるようになった。これを讃えて太宗の治世を、その元号を用いて貞観の治と呼ぶ。

 

貞観の治

629年、出国を禁じる国法を破って、一人の僧侶が天竺(インド)に旅立って行った。これが西遊記のモデルとなった玄奘(げんじょう)である。

 

また630年には、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らを乗せた初めての遣唐使が日本からやってきた。当時の長安には、小野妹子と共に遣隋使として先にやってきていた南淵請安(みなぶちのしょうあん)や高向玄理(たかむこのくろまろ)が住んでおり、御田鍬は二人から唐の政治の仕組みを学んだとされる。

 

唐の政治の基本は律令制度であり、それを押し進めるための役所に三省六部(りくぶ)があった。三省とは、皇帝の命令を文書にする中書省、文書を審査する門下省、六部を管轄して皇帝の命令を実施する尚書省。

 

また六部には役人を管理する吏部、戸籍・土地・税を管理する戸部、祭祀や教育・科挙・外交を扱う礼部、軍事・警護を司る兵部、裁判や刑罰を担当する刑部、土木・建築事務を扱う工部があった。農民に土地を分け与える代わりに、租(麦・米)、庸(20日の労役か布)、調(綾、絹、真綿など)の税が課せられる均田制が用いられており、これらの政治システムを学んだ御田鍬らは日本に戻り、日本の政治システムに取り入れていった。

 

630年、北方の遊牧民族、東突厥を平定した太宗は、その目を西へと向けた。640年、高昌(トゥルファン)を滅ぼした唐軍は、さらに西の亀茲(クチャ)、疎勒(カシュガル)、于闐(うてん、ホータン)まで軍を進めた。この頃の東の朝鮮半島では高句麗、新羅、百斉の三国が争う三国時代であった。644年、唐は高句麗に軍を進めるも隋と同じく失敗してしまう。

 

645年には玄奘が16年ぶりに帰国。玄奘はインドのナーラーンダー寺院で仏教を学び、仏教の聖典を三種に分類した経蔵、律蔵、論蔵の三蔵の教えをよく知る事から三蔵法師と呼ばれ、太宗に重用された。玄奘は大慈恩寺で膨大な数の教典の翻訳にとりくみ、その教典の数は1237巻にも及んだとされる。また玄奘は天竺への旅行記として大唐西域記を著した。玄奘の旅は宋の時代に面白おかしく伝えられ、明の時代には小説家の呉承恩によって西遊記として世に広まった。

 

外征

649年、太宗は亡くなり3代目皇帝として高宗が即位した。高宗の妻、王皇后には子供がいなかったのだが、王皇后は他の女に高宗を奪われる前に、かつて太宗の後宮にいて高宗が寵愛していた武照を利用して、自分の権勢を保とうとする。この武照と呼ばれた女性が、後に中国史上最初で最後の女性皇帝となる武則天(則天武后)である。武照は自分の子供を扼殺し、その罪を王皇后に着せる事によって自ら皇后の地位に上り詰めた。

 

一方、朝鮮半島では三国の戦いが更に激しくなっていた。660年、太宗の時代から唐に接近していた新羅の武烈王は高宗とも国交を結び、これに対して高句麗と百斉は同盟を組んで新羅に対抗した。同年、百斉と高句麗の連合軍は、新羅の領内に深く侵攻。唐はこれを救援するため、10万の援軍を船に乗せて半島に送った。唐と新羅の連合軍は百斉の都、泗沘(しび)を陥れ、旧都の熊津(ゆうしん)をも占領し、国王の義慈も唐に連れ去られてしまった。百斉の将軍、鬼室福信は倭(日本)に救援を頼み、662年、これに応じた倭は170隻の船と安曇比羅夫(あずみのひらふ)将軍を、当時日本にいた百斉の王子、豊璋を連れさせて派遣した。

 

663年、斉明天皇と皇太子中大兄皇子は更に阿部比羅夫、上毛野君稚子(かみつけぬのきみわかこ)、巨勢神前臣訳語(こせのかんさきのおみおさ)ら270000の増援軍を400以上の軍船に乗せて百斉に向かわせるが、日本と百斉の連合軍は陸上でも大敗北を喫する。これが白村江の戦いである。唐の反撃を恐れた中大兄皇子は、九州の太宰府に水城(みずき)を築いたとされる。

 

この後、唐は新羅と共に高句麗の首都平壌に攻め込み、約800年も続いた高句麗はここに滅んだ。高句麗の遺民と高句麗に服していた靺鞨人は現在の東北地方に逃れ、698年に靺鞨人の指導者、大祚栄(だいそえい)が震(後の渤海)を建国した。渤海は9世紀に海東の盛国と呼ばれ全盛期を迎える。また新羅は高句麗を倒した後、朝鮮独立のために唐から離反し抵抗運動を開始した。

2023/12/03

チャクラ(2)

仏教におけるチャクラ

インドの後期密教のタントラ聖典では、一般に主要な3つの脈管と臍、心臓、喉、頭(眉間)の4輪があるとされた(四輪三脈説)。最上位はヒンドゥー・ヨーガのサハスラーラに相当する「ウシュニーシャ・カマラ」(頂蓮華)または「マハースッカ・カマラ」(大楽蓮華)である。他の3つは臍にある「変化身」(ニルマーナ・カーヤ)のチャクラ、心臓にある「法身」(ダルマ・カーヤ)のチャクラ、喉にある「受用身」(サンボガ・カーヤ)のチャクラであり、仏身の三身に対応している。『時輪タントラ』は、この四輪に頭頂と秘密処(性器の基部に相当)のチャクラを加えた六輪六脈説をとる。

 

平岡宏一は、チベット仏教の無上瑜伽タントラの5つのチャクラとして大楽輪(頭頂)、受用輪(喉)、法輪(胸)、変化輪(臍)、守楽輪(秘密処)を挙げている。平岡によると、ゲルク派の解釈では、チャクラは中央脈管と左右の脈管が絡みついている位置にあり、縦に伸びる中央脈管を幹として枝のように横に広がる脈管の叢を成しているとされる。チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ14世は、その場所に心を集中すると何かしらがあるという反応が得られると述べている。

 

仏教のゾクチェンのラマであるナムカイ・ノルブの説明によれば、チャクラは樹木状に枝分かれした脈管のスポーク状になった合流ポイントである。主要なチャクラは樹木の幹にあたる中央脈管上にあるが、他にも多くのチャクラがある。そして、タントラによってチャクラの数が異なるのは一貫性に欠けているわけではなく、基本的なプラーナのシステムの概念は共通しており、さまざまなタントラの修行においてそれぞれに異なったチャクラを使うため、それぞれのテキストでは必要なチャクラだけが書かれているのだという。

 

仏教学者の田中公明は、後期密教の生理学的なチャクラ説の源流として『大日経』に説かれる五字厳身観を挙げている。これは身体の5箇所に五大に対応する5つの種字を配する観法で、行者の身体を五輪塔と化す意義をもつものである。田中によると、五字厳身観は密教の身体論的思想の萌芽であり、精神を集中させる重要なポイントが身体にあるという発想の契機となった。

 

中国

中国の道家や内丹術の伝統的な身体論には、インドのチャクラに比すべき丹田という概念があるが、清代の閔小艮はヨーガのチャクラの概念を内丹術に取り入れた。

 

欧米・日本

チャクラの概念は欧米に紹介された。近代神智学のチャールズ・ウェブスター・レッドビータ(1854 - 1934年)は、ヨーガの修行でチャクラが覚醒したと主張し、1927年に『THE CHAKRAS』を書いた。加藤有希子によると、レッドビータが初めて虹、つまり太陽のスペクトルの7色と各チャクラのプラーナの色(菫、青、緑、黄、オレンジ、真紅、これらを統合したバラ色とされている)を関連付け、オーラを体系化した。

 

THE CHAKRAS』では、近代神智学の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーの『シークレット・ドクトリン』3452ページを参照せよとあるが、そこにチャクラと色に関する記述は見られない。彼はチャクラを『ヨーガ・スートラ』と切り離し、虹の信仰を伝統的な「西洋起源の宇宙論的で契約論的な信仰」とも切り離し、西洋神秘主義的な彼以前の近代神智学とも異なる形でチャクラと虹の7色を結びつけ、システマティックな身体論にまとめた。

 

レッドビータの虹色チャクラ説は、ニューエイジやオーラソーマなどのカラーセラピーの原点に親和するようなものだった。彼のチャクラ・オーラの概念は西洋オカルティズム、ニューエイジにも導入された。ニューエイジ系の人々のなかには、オーラ(生体が発散するとされる霊的な放射体)はチャクラから生ずると考える人もいる。欧米のヨーガ、レイキなどのエネルギー療法・手当て療法、日本の新宗教(桐山靖雄の阿含宗、オウム真理教、玉光神社の本山博主宰の宗教心理学研究所など)にも取り入れられている。

 

チャクラ図や宗教における後光などはあくまで象徴図・レトリックであり、伝統的にそれが物質的に何であるかが論じられることはなかった。初期のオーラ論者たちはオーラと霊的な力に物質的な裏付けを与えようとし、レッドビータはプラーナを虹色であるとし、当時の生理学・物理学を使ってチャクラやオーラ現象を物質世界の現象と結びつけて論じることで、オーラとチャクラの概念を物質化し、スピリチュアルでありかつマテリアルであると考える傾向をもたらした。現在もチャクラを実在すると考え、現実の肉体における内分泌腺などと霊的に直結し、それぞれの宇宙次元[要追加記述]にも対応していると考える人もいる。

 

チャクラは霊的肉体にあり、通常の人間には見えないが、開花したチャクラ[要追加記述]は霊視により花弁状に見えるとされ、チャクラを開花させる[要追加記述]とそれぞれのチャクラの性質に応じた能力が発揮できるようになると言われることもある。「仙骨は赤オレンジ、セクシュアリティやバイタリティと関わっている」というように、もっともらしく感じられるような色がそれぞれの能力にあてはめられている。非常に分かりやすく、色彩論における反知性主義ともいえるような言説である。加藤有希子は、取り上げられる能力は「人間が持つ総体的な能力というより、高度消費社会の住人が生きるのに必要な能力に限定されている」と指摘している。

 

加藤は、20世紀初頭のオーラ論は人種差別・女性蔑視・病気や障害を持つ人への差別の温床になっていたが、レッドビータの説はそれらとは大きく異なり、全ての人間が7色のオーラを持つとすることでグローバル化・ポストコロニアル化が図られており、また世界ではなく個人が虹の7色を持ち、それを掌握すると考えることで個人の神格化に帰結していると述べている。彼の思想は、のちのニューエイジや自己啓発の「高度消費社会のキッチュ」に近い言説で、問題意識はグローバルなものであり、ニューエイジ思想の成立に大きな影響を与えたと言われている。

 

現代ではチャクラやオーラ論は、新しい治癒のトポロジーになり、セラピーや健康維持として消費されている。

 

フィクションでのチャクラ

以下は、夢枕獏の小説『キマイラ・吼』シリーズに登場するチャクラ。

 

アグニ

仙骨にあり鬼骨などとも呼ばれ、この1つのチャクラで、7つのチャクラを合わせたよりも更に大きな力を持つとされ、生命進化の根元を司るとも言われる。あまりに強大な力を持つゆえに、このチャクラを開眼させたまま放っておくと人は獣や鬼に変じてしまうなどという話もあるが、現代のヨーガ実践者でそれを開眼させた者はおらず、眉唾的なものではある。ただ、古代中国に赤須子(せきしゅし)がそのチャクラを開眼させてしまい、獣(的なもの)に変じた赤須子が村人を数十人喰い殺し、見かねた老子が赤須子を封じたという記録が唯一残っている。

 

ソーマ

月のチャクラなどとも呼ばれ、アグニチャクラの開眼により暴走を始めた肉体(生命力)を統べ得る唯一のチャクラと言われるが、アグニチャクラの存在自体が定かでないため、更にその存在は疑問視されることがある。ソーマの身体上の位置を、頭頂の更に上(要するに虚空)と主張している。これは人間の身体を肉体だけでなく、エーテル体なども含めた上での見解である。

 

また、岸本斉史による漫画『NARUTO -ナルト-』では、チャクラは「遍く術の礎となるエネルギー」「万物を生成する精気」とされ、エネルギーの中枢ではなくエネルギーそのものを意味する言葉として使われている。

2023/11/25

チャクラ(1)

チャクラ(梵: चक्र, cakra; : chakra)は、サンスクリットで円、円盤、車輪、轆轤(ろくろ)を意味する語である。ヒンドゥー教のタントラやハタ・ヨーガ、仏教の後期密教では、人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる中枢を指す言葉として用いられる。

輪(りん)と漢訳される。チベット語では「コルロ」という。

 

概説

タントラの神秘的生理学説では、物質的な身体(粗大身、ストゥーラ・シャリーラ)と精微な身体(微細身、スークシュマ・シャリーラ)は複数のナーディー(脈管)とチャクラでできているとされる。ハタ・ヨーガの身体観では、ナーディーはプラーナが流れる微細身の導管を意味しており、チャクラは微細身を縦に貫く中央脈管(スシュムナー)に沿って存在するとされる、細かい脈管が絡まった叢である。

 

身体エネルギーの活性化を図る身体重視のヨーガであるハタ・ヨーガでは、身体宇宙論とでもいうべき独自の身体観が発達し、蓮華様円盤状のエネルギー中枢であるチャクラと、エネルギー循環路であるナーディー(脈管)の存在が想定された。これは『ハタプラディーピカー』などのハタ・ヨーガ文献やヒンドゥー教のタントラ文献に見られ、仏教の後期密教文献の身体論とも共通性がある。

 

現代のヨーガの参考図書で述べられる身体観では、主要な3つの脈管と身体内にある6つのチャクラ、そして頭頂に戴く1つのチャクラがあるとされることが多い。この6輪プラス1輪というチャクラ説は、ジョン・ウッドロフ(筆名アーサー・アヴァロン Arthur Avalon)が著作『蛇の力』 (The Serpent Power) で英訳紹介した『六輪解説』 (acakranirūpaa) に基づいている。この書物は16世紀ベンガル地方で活動したシャークタ派のタントラ行者プールナーナンダが1577年に著したとされるもので、これについてミルチャ・エリアーデは最も正統的なチャクラ観を表わす文献だと評した。アーサー・アヴァロンによる紹介以降、この6輪プラス1輪のチャクラは定説のようにみられているが、実際は学派や流派によってさまざまな説がある。

 

例えば『ヘーヴァジュラ・タントラ』などの仏教タントリズムでは4輪説が主流である。愛知文教大学の遠藤康は、『六輪解説』における身体観は脈管とチャクラに関する比較的詳細でよくまとまった解説であり、チャクラを含む伝統的な身体観を原典に遡って理解するうえで有益な文献であるが、あくまで特定の流派における論である、と指摘している。

 

表象文化論を研究する埼玉大学基盤教育研究センター准教授の加藤有希子によると、現代に広く普及した虹色と7つのチャクラを関連付けた身体論は、近代神智学のチャールズ・ウェブスター・レッドビータ(1854 - 1934年)が考案したものである。彼はインド由来のヨーガの経典とも西洋の信仰や神秘主義の文脈からも断絶する形で、1927年の著作で7つのチャクラのプラーナの色と、西洋の虹の7色を独自に関連付けた。近現代ヨーガ、ニューエイジやスピリチュアル系の思想に取り入れられている。そういった言説では、チャクラの7色はインドの伝統に由来するかのように伝えられているが、事実とは異なる。

 

ヒンドゥー・ヨーガにおけるチャクラ

一般にチャクラは6つあると言われる(サハスラーラをチャクラに含る場合は7つ)。背骨の基底部から数えて第1チャクラ、第2チャクラ……と呼ぶこともある。

 

ハタヨーガの古典『シヴァ・サンヒター』ではチャクラはパドマ(蓮華)と呼ばれ、同書第5章ではアーダーラパドマからサハスラーラパドマまでの7つの蓮華について詳述されている。加藤有希子によると、伝統的なチャクラの色には体系的な秩序はほとんどなく(さほど重視されてこなかったのかもしれない)、現代のように各チャクラに虹の7色があてはめられることはない。

 

1のチャクラ

ムーラーダーラ・チャクラ(mūlādhāra-cakra)と呼ばれ、脊柱の基底にあたる会陰(肛門と性器の間)にある。「ムーラ・アーダーラ」とは「根を支えるもの」の意である。ヒンドゥー・ヨーガの伝統的なチャクラの図では、赤の四花弁をもち、地の元素を表象する黄色い四角形とヨーニ(女性器)を象徴する逆三角形が描かれている。三角形の中には、蛇の姿をした女神クンダリニーが眠っている。『シヴァ・サンヒター』で言及されているチャクラの色は金色。『蛇の力』での色は黄色。

 

2のチャクラ

スワーディシュターナ・チャクラ(svādhişţhāna-cakra)と呼ばれ、陰部にある。「スヴァ・アディシュターナ」は「自らの住処」を意味する。朱の六花弁を有し、水の元素のシンボルである三日月が描かれている。『シヴァ・サンヒター』で言及されているチャクラの色は金色。『蛇の力』での色は白。

 

3のチャクラ

マニプーラ・チャクラ(maņipūra-cakra)と呼ばれ、腹部の臍のあたりにある。「マニプーラ」とは「宝珠の都市」という意味である。青い10葉の花弁をもち、火の元素を表す赤い三角形がある。『シヴァ・サンヒター』で言及されているチャクラの色は黄金色。『蛇の力』での色は赤。

 

4のチャクラ

アナーハタ・チャクラ(anāhata-cakra)と呼ばれ、胸にある。12葉の金色の花弁をもつ赤い蓮華として描かれ、中に六芒星がある。風の元素に関係する。「アナーハタ」とは「二物が触れ合うことなくして発せられる神秘的な音」を指す。『シヴァ・サンヒター』で言及されているチャクラの色は真紅。『蛇の力』での色は煙色。

 

5のチャクラ

ヴィシュッダ・チャクラ(viśhuddha-cakra)と呼ばれ、喉にある。くすんだ紫色をした16の花弁をもつ。虚空(アーカーシャ)の元素と関係がある。「ヴィシュッダ・チャクラ」は「清浄なる輪」を意味する。『シヴァ・サンヒター』で言及されているチャクラの色は黄金色。『蛇の力』での色は白。

 

6のチャクラ

アージュニャー・チャクラ(ājñā-cakra)と呼ばれ、眉間にある。インド人は、この部位にビンディをつける。2枚の花弁の白い蓮華の形に描かれる。「アージュニャー」は「教令、教勅」を意味する。「意」(マナス)と関係がある。『シヴァ・サンヒター』で言及されているチャクラの色は白色。

 

7のチャクラ

サハスラーラ(sahasrāra)と呼ばれ、頭頂にある。sahasra は「千」、ara は「輻」〔や〕で、千の花弁の蓮華(千葉蓮華)で表象される。一説に千手観音の千手千眼はこのチャクラのことという。他の6チャクラとは異なり身体次元を超越しているとも考えられ、チャクラのうちに数え入れられないこともある。

 

その他

アージュニャーの近傍にマナス・チャクラとソーマ・チャクラ、ムーラーダーラとスワーディシュターナの間にヨーニシュターナがあるとされるが、これらは主要なチャクラには数えられない。

 

20世紀のヨーガ行者ヨーゲシヴァラナンダは、主な6チャクラに加えて臍の上のスールヤ・チャクラ(太陽のチャクラ)とチャンドラ・チャクラ(月のチャクラ)を挙げ、身体には8つのチャクラがあるとしている。

2023/11/22

北欧神話(1)

宇宙論

世界樹ユグドラシル

北方民族は この世に九つの世界があると信じていた。

 

1) アースガルズ - アース神族の世界。オーディンの居城ヴァルハラが位置するグラズヘイムも、この世界に含まれる。ヴァルハラは偉大な戦士達の魂である、エインヘリャルが集う場所でもあった。こうした戦士達はオーディンに仕える女性の使い、ヴァルキュリャによって導かれる。彼女らが纏う煌く鎧が、夜空のオーロラを作り出すのだと考えられた。

エインヘリャルは、ラグナロクで神々の護衛を行う。ラグナロクとは神々とその邪悪な敵との大いなる戦いで、命あるすべての存在が死に絶えるとされた、北欧神話における最終戦争である。善と悪との両極端にわかれての戦いは、古代における多くの神話で、ごく普遍的にみられるモチーフである。

 

2) ヴァナヘイム - ヴァン神族の世界

 

3) ミズガルズ - 死を免れない人間の地

 

4) ムスペルヘイム - 炎とスルトの世界。スルトとは、溶岩の肌と炎の髪を持つ巨人である

 

5) ニヴルヘイム - 氷に覆われた世界。ロキがアングルボザとの間にもうけた半巨人の娘ヘルが支配し、氷の巨人達が住む

 

6) アルフヘイム - エルフの世界

 

7) スヴァルトアルフヘイム - 黒いエルフ、スヴァルトアールヴァルの住む世界

 

8) ニダヴェリール - 卓越した鉱夫や腕の立つ鍛冶屋であった、ドワーフや小人達の世界。彼らはトールのハンマーやフレイの機械で造られたイノシシなど、神々へ魔法の力による道具を度々作り上げた

 

9) ヨトゥンヘイム - 霜の巨人ヨトゥンを含む巨人の世界

こうした世界は世界樹ユグドラシルにより繋がれており、アースガルズがその最上に位置する。その最下層に位置するニヴルヘイムで根を齧るのは、獰猛な蛇(または竜)のニーズヘッグである。アースガルズには、ヘイムダルによって守られている魔法の虹の橋、ビフレストがかかっている。このヘイムダルとは、何千マイルも離れた場所が見え、その音を聞くことが可能な、寝ずの番をする神である。

 

北欧神話の宇宙観は、強い二元的要素を含んでいる。例えば昼と夜は、昼の神ダグとその馬スキンファクシ、夜の神ノートとその馬フリームファクシが神話学上、相応するものである。このほか、太陽の女神ソールを追う狼スコルと、月の神マーニを追う狼のハティが挙げられ、世界の起源となるニヴルヘイムとムスペルヘイムが、すべてにおいて相反している点も関連している。これらは、世界創造の対立における深い形而上学的信仰を反映したものであったのかもしれない。

 

神的存在

神々にはアース神族・ヴァン神族・ヨトゥンの3つの氏族がある。当初、互いに争っていたアース神族とヴァン神族は、最終的にアース神族が勝利した長きにわたる戦争の後、和解し人質を交換、異族間結婚や共同統治を行っていたと言われており、両者は相互に関係していた。一部の神々は、両方の氏族に属してもいた。

 

この物語は、太古から住んでいた土着の人々の信仰していた自然の神々が、侵略してきたインド=ヨーロッパ系民族の神々に取って代わられた事実を象徴したものではないかと推測する研究者もいるが、これは単なる憶測に過ぎないと強く指摘されている。

 

他の権威(ミルチャ・エリアーデやJP・マロイ等)は、こうしたアース神族・ヴァン神族の区分は、インド=ヨーロッパ系民族による神々の区分が北欧において表現されたものだったとし、これらがギリシア神話におけるオリュンポス十二神とティーターンの区分や、『マハーバーラタ』の一部に相当するものであると考察した。

 

トールは幾度も巨人達と戦う

アース神族とヴァン神族は、全体的にヨトゥンと対立する。ヨトゥンは、ギリシア神話でいうティーターンやギガースと同様の存在であり、一般的に「giants(巨人)」と訳されるが、「trolls(こちらも巨人の意)」や「demons(悪魔)」といった訳の方が、より適しているのではないかという指摘もある。しかし、アース神族はこのヨトゥンの子孫であり、アース神族とヴァン神族の中にはヨトゥンと異族間結婚をした者もいる。例えば、ロキは2人の巨人の子であり、ヘルは半巨人である。言うまでもなく、最初の神々オーディン、ヴィリ、ヴェーは、雌牛アウズンブラの父が起源である。

 

エッダにおいては一部の巨人が言及され、自然力の表現であるようにも見える。巨人には通常、サーズ(Thurse)と普通の横暴な巨人の2つのタイプがあるが、他にも岩の巨人や火の巨人がいる。エルフやドワーフといった存在もおり、彼らの役割は曖昧な点もあるが、概して神々の側についていたと考えられている。

 

加えて、他にも霊的な存在が数多く存在する。まず、巨大な狼であるフェンリルや、ミズガルズの海に巻きつくウミヘビのヨルムンガンドという怪物がいる。この怪物達は悪戯好きの神ロキと、巨人アングルボザの子として描かれている(3番目の子はヘルである)。

 

それらよりも慈悲深い怪物は、2羽のワタリガラスであるフギンとムニン(それぞれ「思考」と「記憶」を意味する)である。オーディンは、その水を飲めばあらゆる知識が手に入るというミーミルの泉で、自身の片目と引き換えに水を飲んだ。そのため、この2匹のカラス達はオーディンに、地上で何が起こっているかを知らせる。その他、ロキの子で八本足の馬スレイプニルはオーディンに仕える存在で、ラタトスクは世界樹ユグドラシルの枝で走り回るリスである。

 

北欧神話は、他の多くの多神教的宗教にも見られるが、中東の伝承にあるような「善悪」としての二元性をやや欠いている。そのため、ロキは物語中に度々、主人公の一人であるトールの宿敵として描かれているにもかかわらず、最初は神々の敵ではない。

 

巨人たちは、粗雑で乱暴・野蛮な存在(あまり野蛮ではなかったサーズの場合を除く)として描かれているが、全くの根本的な悪として描かれてはいない。つまり、北欧神話の中で存在する二元性とは、厳密に言えば「神 vs 悪」ではなく、「秩序 vs 混沌」なのである。神々は自然・世の中の道理や構造を表す一方で、巨人や怪物達は混沌や無秩序を象徴している。

 

巫女の予言:世界の起源と終焉

世界の起源と終局は、『詩のエッダ』の中の重要な一節『巫女の予言(ヴォルヴァの予言)』に描かれている。これらの詩には、宗教的なすべての歴史についての最も鮮明な創造の記述と、詳述されている最終的な世界の滅亡の描写が含まれている。

 

この『巫女の予言』では、ヴァルハラの主神オーディンが一度死んだヴォルヴァ(巫女)の魂を呼び出し、過去と未来を明らかにするよう命じる。巫女は、この命令に気が進まず

 

「私にそなたは何を問うのか?

なぜ私を試すのか?」

 

と述べる。彼女はすでに死んでいるため、オーディンに対する畏怖は無く、より多くを知りたいかと続けて嘲った。しかしオーディンは、神々の王としての務めを果たす男ならば、すべての叡智を持たなければならないはずであると主張する。すると巫女は過去と未来の秘密を明かし、忘却に陥ると口を閉じた。

2023/11/17

唐(2)

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概要

唐(とう、拼音:Táng618 - 690年,705 - 907年)

長安(現在の西安)を都とし、7世紀の最盛期には、シベリアや中央アジアの砂漠地帯も支配した大帝国。朝鮮半島や渤海(現ロシア沿海州)、日本などに、政治政策・文化などの面で多大な影響を与えた。

 

歴史

南北朝時代、北周王朝の唐国公の家系に生まれた李淵(高祖)が、続く隋を滅ぼして建国した。李淵は北周の貴族であったが、鮮卑系とも言われる。国名の由来は、祖先の爵位唐国公から。その息子、李世民(太宗)の時代に大きく発展し、モンゴル高原の突厥や中央アジアの高昌を征服した。内政も整備され、その治世は「泥棒がいなくなり、民は戸締りをせずに暮らせた」という伝説もある「貞観の治」と讃えられる。

 

690年に高宗の皇后であった武則天(則天武后)によって唐王朝は一旦廃されて周王朝が建てられたが、705年に病床に着いた武則天が退位して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述されることが通例である。武則天は政治家として優れていたので、国号は変わっても唐の繁栄は続いた。武則天退位後の唐では、皇后の韋氏が皇帝の中宗を暗殺するなど一族の内紛が続く。

 

この後、712年に李隆基(玄宗)が即位し、内紛を収めて唐王朝を建て直す。玄宗の治世は「開元の治」と呼ばれ、唐の最盛期になった。長安の人口は100万人を超え、当時では世界最大の都市となる。また文化面でも、詩人の李白や杜甫が現れ全盛を迎える。しかし、辺境防衛の為に節度使が置かれ、地方の軍事と行政を掌握するようになったのが災いをもたらす。

 

755年、玄宗に重用されて平盧・范陽・河東節度使を兼ね、北方守備の大軍を率いていた安禄山が安史の乱と呼ばれる反乱を起こす。安禄山の軍勢によって長安は攻め落とされ、唐は一気に滅亡の危機に陥る。反乱の原因になったとされて殺された寵姫楊貴妃と玄宗皇帝との悲恋は、白居易(白楽天)によって長恨歌という漢詩になり、日本でも知られる。

 

安禄山が息子に殺される等の反乱軍の混乱をついて、次の粛宗は757年に長安を奪還し、763年には当時反乱軍を率いていた史朝義が諸将の離反により自殺する。こうして安史の乱は収めたものの、唐は次第に衰退していく。その主な原因は、安史の乱をきっかけにして各地の節度使が軍事力にものを言わせて地方に割拠し、独立性を強めたことにある。憲宗は禁軍を強化して反抗的な節度使を討伐して中興の祖と呼ばれたが、その死後は再び節度使の専横が強まって、この軍事的な不安定さは最後まで解消されなかった。やがて塩の密売業者を中心とする黄巣の乱という大規模な反乱が全土に広がり、907年に唐は滅亡する。それから北宋の成立に至るまで、中国大陸は五代十国と呼ばれる乱世の時代に入った。

 

日本との交流

663年の白村江の戦い(日本&百済vs唐&新羅)もあったが、その後は遣唐使などを送り、894年に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。

遣唐使停止の13年後に唐は滅亡し、室町時代の日明貿易まで日本と中国大陸の間の正式な国交は絶えた(しかし、民間での交流は絶えず続き、引き続き日本に大きな影響を与えている)

 

歴代中華王朝の中でも政治、文化、芸術等で多大な影響を受けており、日本では唐の滅亡後も唐(から)、唐土(もろこし)の語は中国、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。唐辛子や、トウモロコシは原産地は南米で、日本に持ち込んだのは南蛮人であるが、本来は関係ないはずの「唐」の名がついている。

 

中世などには、大陸から輸入した品物を唐物と呼んだりした。

 

ただし、日本では「中国」の代名詞・別称となった唐だが、中国史では浸透王朝(漢民族以外が建てたが、最終的には支配者層は漢民族に同化した王朝)1つとされている。

2023/11/15

パタンジャリのヨーガ・スートラ(3)

http://www.ultraman.gr.jp/ueno/

ヨーガの人体宇宙観

ヨーガにおいては、生命の源は宇宙の気=プラーナであると考えられています。

この宇宙の気=プラーナが人体を満たし、宇宙の雛型である私達を生かし、宇宙もまた私達の雛型であると考えらているのです。

 

そのプラーナが人体を通る道はナーディーと呼ばれ、そのルー トの数は7万2千本とも35万本ともいわれています。これらは現代医学では血液の循環経路や神経管の経路とも捉えることができますが、比較的東洋医学の鍼灸に用いられる「経絡」に近いものと考えられ、ヨーガで は微細体(プラーナヤマ・コー シャ)の次元の経路と考えられます。そして、それらのナーディーなかでも大切なルートは14本あり、その中でも特に重要な幹線が次の3本となります。 

 

・スシュムナー管

このスシュムナー管が頭頂から脊髄の基底部へと通り、人体の中軸となり、天と地を貫くプラーナの通り道となります。宇宙の生命エネルギーであるプラーナは人体の中ではクンダリーニ・シャクティと呼ばれ、このスシュムナーの基底部で三巻き半のとぐろを巻いている蛇と隠喩されています。またこのスシュムナー管を通る生命エネルギー(クンダリーニ・シャクティ)は、その中に7つあるといわれる蓮華の花に喩えられるチャクラ(輪=センター)を経過し、次第にそれらを開花(活発化)させて行きます。

 

これらチャクラは、ヨーガに基づいた生活をしていると徐々に活性化されて行くものですが、クンダリーニ・ヨーガとはムードラやバンダ等を用いた特殊な体位法や呼吸法、瞑想法等の修行によって、より効果的にその眠っている生命力の源、クンダリ-ニ・シャクティ(女神)を目覚めさせ、それぞれのチャクラを活性化させ眉間の部位(アジナ・チャクラ)で待っているといわれるシヴァ神(男神)と合体し、体内の歓喜のエネルギー(プラーナ)を宇宙全体に解放し、梵我一如(ブラフマン・アートマン・アイキャ)の体験を実現しようと発達したヨーガの体系です。

 

このクンダリーニ・ヨーガといわれる中には、タントラ・ヨーガやハタ・ヨーガ等が入ります。このスシュムナー管を中軸にして、イダーとピンガラーという二つの拮抗したエネルギーの流れる代表的なナーディ管が、チャクラをはさんで左右交叉しながら通っていると考えられている。これらは、あたかも現代の医学においての交感神経と副交換神経の働きを指しているようであり、またそのチャクラ()という微細体のセンターも、医学的には各種のホルモン体の位置に対応しているとも考えられている。

 

・ イダー(月の気道)

イダーは月に象徴され、このイダーを通るプラーナの流れは「陰の性質」を受け持ち、冷やす・静的・女性・精神性等が優位になります。上部では左の鼻腔に通じています。ですから片鼻のアヌローマ・ヴィロマなどで、こちらを優位に呼吸をすると、副交感神経を刺激し、また、交叉して右脳(感性)を活発化いたします。

 

・ピンガラー(太陽の気道)

ピンガラーは太陽に象徴され、このイダーを通るプラーナの流れは「陽の性質」を受け持ち、暖める・活動的・男性・行動性等が優位になります。上部では右の鼻腔に通じています。ですから片鼻のアヌローマ・ヴィロマなどで、こちらを優位に呼吸をすると、交感神経を刺激し、また、交叉して左脳(理性)を活発化いたします。

 

[チャクラについて]

これらはプラーナマヤ・コーシャ(微細体=イメージ体)上のものであるので、修行者やその状態によって異なる場合がありますが、脊椎の基底部から上にスシュムナーに添って順に説明していきましょう。

 

ムーラダーラ・チャクラ

ムーラは「根」「土台」、アーダーラは「支え」「支柱」の意味です。人体においては最下部にあり、生命力の源・クンダリーニ・シャクティの内蔵されている場所です。会陰部、または肛門と関わりがあります。瞑想によって、4枚の花弁があり燃えるような金色をしていると捉えられている。

 

スヴァディシュターナ・チャクラ

スヴァは「自身の」「私の」、アディシュターナは「状態」「立場」の意味です。人体において性器の辺りにあり、宇宙の気の出入りを司ります。瞑想によって、6枚の花弁があり血のような赤色をしていると捉えられている。

 

マニプラ・チャクラ

マニは「宝石」、プーラは「町」の意味です。人体において臍の辺りにあり、内蔵の働きを調節する太陽神経叢にあたると云われている。瞑想によって、10枚の花弁があり火をあらわすオレンジ色をしていると捉えられている。

 

アナーハタ・チャクラ

アナーハタとは「打たれざる」「触れざる」という意味です。人体において胸あるいは心臓の辺りにあり、打たれざる音「ナーダ音」がします。血液の循環とともに、感情のセンターでもあり真我のとどまっている所です。胸腺とも関わりがあります。瞑想によって、12枚の花弁があり蕾のような内部は緑がかった輝く光で、外側はピンクのバラ色をしていると捉えられている。

 

ヴィシュダ・チャクラ 

ヴィシュダは、「清浄にされた」の意味です。人体において喉の辺りにあり、言葉を司り興奮ホルモンを分泌する甲状腺とも関わりがあります。瞑想によって、26枚の花弁があり海のような色をしていると捉えられている。

 

アージニャ・チャクラ

アージニャは「命令」「指揮」の意味。人体においては眉間の辺りにあり、第三(霊視)の目であり命の統合・命令・調整を司ります。脳下垂体や視床下部とも関わりがあります。瞑想によって、2枚の花弁があり白光色をしていると捉えられている。

 

サハスララ・チャクラ

サハスラは「千」の意味。千の花弁を持つ蓮華のチャクラと云われています。人体においては脳の中、そして頭頂から天に開いています。アージニャ・チャクラでシヴァ神(智恵)とシャクティ女神(生命力=クンダリーニ)が合体し、ブラフマ・ランドラ(結節)を突き抜けて頭頂へ至り梵我一如の境地を得て、サハスラを経て宇宙へ至ります。千枚の花弁があり、光の虹色をしていると捉えられている。