2018/07/30

サラミスの海戦(1)

サラミスの海戦(ギリシア語: Ναυμαχία της Σαλαμίνας、英語: Battle of Salamis)は、ペルシア戦争最中の紀元前4809月、ギリシアのサラミス島近海で、ギリシア艦隊とペルシア艦隊の間で行われた海戦。ヘロドトスの『歴史』(第8巻)に詳しい。
この海戦でギリシア艦隊が勝利をおさめ、ペルシア戦争は新たな局面を迎えることになる。

背景
ペルシア遠征軍にテルモピュライを突破され、アルテミシオンから撤退したギリシア艦隊は、アテナイの要請により、ファレロン湾内のサラミス島に艦船を集結させた。事前にトロイゼーンに集結していた他のギリシア艦隊が合流し、総指揮官エウリュビアデスのもと、主戦場をどこに置くかで合議を計った。テルモピュライ、アルテミシオンの防衛線が突破されたことによって事実上アッティカは放棄されており、また、アテナイのアクロポリス陥落の一報が入って全軍が恐慌状態に陥ったこともあって、ひとまずイストモスを決戦の場とすることで会議は閉会した。

しかし、アテナイのテミストクレスは指揮官エウリュビアデスを訪ね、サラミスでの艦隊の集結を解けば各都市の艦隊は自らの故郷に帰還し、再びギリシアが連合することはないと述べて会議を再度開催するよう説き伏せた。翌朝、再び戦略会議が開催され、テミストクレスはサラミスでの海戦を強く主張した。エウリュビアデスはアテナイ艦隊の離脱を恐れ、サラミスでの海戦を決定したが、コリントスのアデイマントスらはこれに強く反対し、会議は紛糾した。論戦の最中、テミストクレスは密かにペルシアのクセルクセス1世のもとに使者を送り、ギリシア艦隊がイストモスに待避する準備をしていることを伝えた。テミストクレスはペルシアに内通することで戦争に負けた場合の活路を確保し、また、ペルシア艦隊をけしかけることによってサラミスでの決戦に到るよう仕向けたのである。

ペルシア側はテミストクレスの言葉を信じ、夜半、兵士をプシュッタレイア島に上陸させ、サラミス島のキュノスラ半島からギリシア本土までの海峡を船団で封鎖した。さらに、ディオドロスによると、エジプト艦隊200隻がサラミス島の外側を迂回してメガラに抜ける水道を封鎖した。ギリシア隊はペルシア艦隊の動きに全く気付かなかったが、アイギナから支援に駆け付けたアテナイのアリステイデスが会議に出席し、ギリシア艦隊が完全に包囲されているため、戦闘の準備を行うよう勧告した。大半の人々はアリステイデスの言葉を信じなかったが、テノスの三段櫂船1艘がペルシアから離反してギリシア側に事実を伝えたため、ギリシア側は戦闘の準備にとりかかった。

戦いの経過
紀元前480920日ごろ(29日説あり)の明朝、テミストクレスによる訓示の後、ギリシアの全艦艇は停泊地より一斉に出撃した。ペルシア艦隊はギリシア艦艇の出撃を知ると、キュノスラ半島を越え、サラミス水道に侵入した。 ギリシア軍はペルシア艦隊を認めると、逆櫓を漕いでペルシア艦隊とは逆の方向、つまりサラミス島の陸側に向かうような動きを見せた。これについてプルタルコスは、テミストクレスがこの水道に一定の時刻になると吹く風(シロッコ)を利用するため、ペルシア艦隊を前にすると逆櫓を漕いで後退し、時間を稼いだとしている。

ヘロドトスによると、ギリシア側は、西翼にアテナイ艦隊、東翼にスパルタ艦隊を配置し、対するペルシア側の布陣は西翼にフェニキア艦隊、東翼にイオニア連合艦隊が展開するものであった。 戦闘の始まりについて、ヘロドトスは複数の説を伝えている。アテナイによれば、アテナイ船1隻が戦列を抜けてペルシア艦隊に突っ込み、他の艦船もこれを救援すべく突入したことで戦闘が開かれたとしている。また、アイギナによると、神霊をむかえてアイギナより来航したアイギナ三段櫂船が、ペルシア艦艇と最初の戦闘を行ったとしている。また、ギリシア軍の眼前に1人の女性が現れ、全軍を鼓舞激励したとも伝えている。 実際の戦闘がサラミス水道のどこで行われたのか、また全勢力が激突したのか、あるいは包囲線をギリシア艦隊が突破したと見るのかは古来より諸説あり、ヘロドトスも具体的な記述を残していないため不明である。しかし、ヘロドトスはペルシア艦隊の敗因として戦列の乱れを挙げている。 プルタルコスが、テミストクレスが風待ちを行ったという記述を残していることを考えると、艦船への直接打撃を行うため喫水が深く重い造りのギリシア艦船に比べ、兵を敵船に揚げるために重心の高い造りとなっているペルシア艦船は、シロッコによる高波で、また日没前にはマイストロと呼ばれる西風による高波で思うように動きが取れなかったと推察される。 戦闘海域も大艦隊を誘導するには狭すぎ、戦列が乱れたところにギリシア艦隊の船間突破戦法を受けたと考えられる。

この戦闘で名声を得たのは、アイギナ艦隊とアテナイ艦隊であった。アテナイの将軍アリステイデスは、サラミス海岸に配置されていた重装歩兵を率いてプシュッタレイア島に上陸し、ペルシア歩兵を全滅させた。 敗戦を悟ったクセルクセス1世は、日没とともに艦隊をファレロン湾まで後退させ、戦闘は終結した。
出典 Wikipedia

2018/07/28

自由思想家(沙門)たち(2)


出典 http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch1

3. アジタ・ケーサカンバリンの唯物論
 アジタ・ケーサカンバリンの「ケーサカンバリン」は「髪の毛で作った衣を着る者」の意味である。

 アジタは教団を開いたが、それは古代ギリシアにおけるエピクロス派の教団のような、素朴な人生の喜びをともに分かち合う共同体のようなものであったと推測される。この教団は、後にチャールヴァーカとかローカーヤタと呼ばれるようになる。

 彼は唯物論を説き、業・輪廻の思想を否定した。
 善悪の行為の報いはなく、死後の生れ変りもない。人間は地水火風の四要素からなるもので、死ねば四要素に帰り消滅する。死後、存続することはない。布施に功徳があるとは、愚者の考えたことであるとする。

 「人は(地水火風の)四要素からなる。
 人が死ぬと、地は地、水は水、火は火、風は風に戻り、感覚は虚空の中に消える。
 四人の男が棺を担いで死体を運び、死者の噂話をして火葬場にいたり、そこで焼かれて、骨は鳩の羽根の色になり、灰となって葬式は終わる。
 乞食(こつじき)の行を説くものは愚か者。(物質以外の)存在を信ずる人は空しい無意味なことをいう。からだは、死ねば愚者も賢者もおなじように消滅する。死後、生きのびることはない。」

 だから、宗教的な行為は無意味で、この世での生を最大限利用して楽しみ、そこから幸福を得るべきだという。

  「生きている限り、人は幸せに生き、ギー(溶けたバター)を飲むべきだ。たとえ借金をしてでも。
 というのは、体が灰になる時、何がこの世に戻れよう。(何もないからだ)」 

しかし、楽しみには悲しみがつきまとう。それを恐れて、喜びから退いてはいけない。時には訪れる悲しみも喜んで受け入れよと説く。

「人は、悲しみが伴うことを恐れて、喜びから退いてはいけない。この世での喜びのためには、たまに訪れる悲しみも喜んで受け入れよ。魚をもらう時、骨がついてくるように。米をもらう時、籾殻がついてくるように。」

 この思想は宗教や道徳の根本を破壊するものと恐れられ、他のインド思想諸派から激しく攻撃された。それにもかかわらず、この派が栄えた時代もあったことは否定できない。

マウリヤ朝のチャンドラグプタの大臣カウティリヤの作と伝説される『実利論』第1巻第2章は「哲学は、サーンキヤとヨーガと順世派(ローカーヤタ)とである」とする。

 この書の成立年代は明確でなく、紀元前3世紀から紀元後4世紀までの間とされるが、1世紀の後半から2世紀の前半に明確な形をとったと考えられるヴァイシェーシカ学派の名が挙げられていないことから推定すれば、ヴァイシェーシカ学派に先立つ紀元後1世紀までに、ローカーヤタ派が栄えていた時代があったのであろう。

 この派の文献で、現在まで伝わるものは極めて少ないが、8世紀ころの成立とされるジャヤラーシの『タットヴァ・ウパプラバ・シンハ』(「真理」を破壊するライオン)は現存する。

 『タットヴァ・ウパプラバ・シンハ』は、自然の運行に「自然」(スヴァバーヴァ)そのもの以外の原因を認めず、知覚(感覚)だけを唯一の知の源泉として、推論に基づく<確実な知>の存在を徹底的に疑う懐疑主義の立場をとって、当時の主要な哲学・宗教諸派が立てる形而上学的な原理に対し、鋭い批判をあびせるものである。

4. パクダ・カッチャーヤナの七要素説
 パクダ・カッチャーヤナは七要素説を説いた。

 人間は七つの要素、すなわち「地・水・火・風・楽・苦・生命(あるいは霊魂)」からなるもので、これらは作られたものではなく、何かを作るものでもない。不動、不変で互いに他を害することがない。殺すものも殺されるものもなく、学ぶものも教えるものもいない。たとえ鋭利な剣で頭を断っても、誰も誰かの命を奪うわけではない。剣による裂け目は、ただ七つの要素の間隙にできるだけである。行為に善悪の価値はないとする。

先のプーラナ・カッサパの教えと同じく、これも道徳破壊の思想とされるが、そうではない。
人間の本質は霊魂にあると見て、霊魂は不動、不変なものなので、殺すことも害することもできないというのである。

『バガヴァッド・ギーター』の「彼は断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。彼は常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、永遠である。」という思想と同じものである。

2018/07/26

ヘルメース(ギリシャ神話40)

ギリシア語:ヘルメス(Hermes)
ラテン語:メルクリウス(Mercurius)
英語:マーキュリー(Mercury)

起源
登場する説話には、ヘルメースが元は薄明の神や風の神であったことを窺知させる部分もあるが、その原始的形態においては牧畜の神にして豊饒神であったとも考えられ、男根をもつヘルメース柱像はヘルメースの原始的豊饒神としての面を示している。元はギリシアの先住民族ペラスゴイ人の神であったと言われ、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、ギリシア人がヘルメース柱像を造るようになったのはペラスゴイ人の風習を取り入れたものだと述べている。

ヘルメース崇拝の中心地は、古代ギリシアの中でも原始的な文化をとどめていたと言われるアルカディアであった。アルカディアは牧畜民が多い丘陵地帯であり、羊飼いたちはヘルメースを家畜の守り神として崇めていた。これが神々の使者といった多様な職能をもつ人格神へと発展した背景として、ドーリア人の侵入後にアポローンがヘルメースに代わって牧羊神の役割を担うようになったことも指摘される。

ヘルマ
古代ギリシアにはヘルマもしくは複数形でヘルマイと呼ばれるヘルメース神の石柱像があり、道端などに立てられていた。トゥーキュディデースの『戦史』によると、紀元前415年ペロポネソス戦争を戦っていたアテーナイのヘルマが、一夜のうちに全て壊されるという事件が起きた。この事件はアルキビアデースの一派が起こしたものと疑われ、アルキビアデースがラケダイモーン側に寝返る原因となった。アルキビアーデスがラケダイモーン側に対して行った進言がきっかけでアテーナイは痛恨の打撃を受け、ついには敗北することとなった。

ヘルマ(ヘルメース柱像)は、アッティカやエーゲ海のいくつかの島にみられた、髭面の胸像と起立する陽根を有する角柱である。路傍や畑の境界などに立てられ、境界を示す石であるとともに、農民や牧人が豊饒多産を祈願する神霊の像であったとも推測され、ヘルメースの原始的形態を示すものと考えられている。

ヘルマは道の端や角に積まれた累石堆(ヘルマイオン)の名称でもあり、ヘルメース柱像はこれの発展したものとも考えられ、ヘルメースの名や信仰の起源をこれに求める向きもある。ヘルマは、日本でいう道祖神のように道端や四辻に立てられ、旅人にとっては街道を示す道しるべであったことから、ヘルメース神は旅人の庇護者とされ、生者と死者の案内人や伝令、さらには商売や交通を司る神としての性格を備えていったと考えられる。

ローマ神話
ローマ神話におけるメルクリウス(マーキュリー)に相当する。水星はギリシアではヘルメースの星といわれ、これはローマ人にも受け継がれた。現代ヨーロッパ諸語で、メルクリウスに相当する語を水星に当てるのはこのためである。

錬金術
エジプトの叡智と魔術の神にして書記の守護神であるトートとヘルメース/メルクリウスが習合したヘルメス・トリスメギストスは、紀元1世紀から3世紀に書かれたヘルメス文書の著者に擬せられ、アブラハムまたはモーセの同時代人とされた、伝説上のエジプトの賢者である。ヘルメス(トリスメギストス)の名は12世紀頃から錬金術と結びつけられ(このため、錬金術はヘルメスの術ともいう)、ヘルメスは錬金術師の守護者にして学問や技芸の始祖であると考えられるようになった。
出典 Wikipedia