2020/10/26

後漢(2)

 166年に司隷校尉(首都圏長官)の李膺が、宦官の犯罪を摘発したことをきっかけとして、第一次の党錮の禁(とうこのきん)が起きる。李膺を初めとした200余人が逮捕されたが、豪族勢力の働きかけにより釈放されて禁錮(禁錮刑のことではなく、官職追放されて以後、仕官が出来ないということ)となった。しかし、李膺たちは義士として称えられることになり、三君・八俊と言った人物の格付けを行った。

 

その後、霊帝を擁立した外戚の竇武(竇憲のいとこの子)が、168年に清議派の陳蕃らとともに宦官を誅殺しようとする事件が起きたため、宦官勢力は169年に第二次の党錮の禁を起こす。今度は官職追放では留まらず、李膺は逮捕後に獄中で殺され、死者は百人を超えた。更に党人の親族縁者も禁錮とされ、太学の学生たちも逮捕された。

 

黄巾の乱が勃発すると、黄巾と戦うために再び外戚が力を伸ばし、また知識人が黄巾と共同するのを防ぐために禁錮を解いた。その後も外戚と宦官の対立は続き、189年に外戚の何進が十常侍に殺害されるが、同年、袁紹に十常侍たちが皆殺しにされたことで、外戚・宦官の勢力はともに消滅した。

 

思想

前漢中期から儒教の勢力が強くなり、国教の地位を確保していたが、光武帝は王莽のような簒奪者を再び出さないために、更に儒教の力を強めようとした。郷挙里選の科目の中でも、孝廉(こうれん、親孝行で廉直な人物のこと)を特に重視した。また前漢に倣って洛陽に太学(現在で言えば大学)を設立し、五経博士を置いて学生達に儒教を教授させた。孔子の故郷である曲阜で孔子を盛大に祀って、孔子の祭祀は国家事業とした。

 

また民間にも儒教を浸透させるために、親孝行を為した民衆を称揚したりした。また、法制上でも子が親を告発した場合は告発は受け入れられなかったり、親を殺された場合は敵討ちで相手を殺しても無罪になったりしていた。これらの政策の結果、官僚・民間ほぼ全てにわたって、儒教の優位性が確立されることになる。

 

その一方で、後漢の人々は迷信に対する傾倒も強く、預言書が皇帝・官僚らにも大真面目に取り扱われたり、各地に現われた怪現象・怪人物が大きな話題となり、『後漢書』の中でも、それら当時の仙人たちを取り上げている。天災が天の意思の現れだと言う思想も、この時期に形成されたようである。

 

中国への仏教伝来は一番早い説が紀元前2年であり、最も遅い説が67年である。この時期には、浮屠(ふと)と呼ばれていた。ブッダの音訳である。当初は、あくまで上流階級の者による、異国趣味の物に過ぎなかったようだ。しかし社会不安が醸成してくるにつれて、民衆の中にも信者が増えて教団が作られるまでに至ったらしい。

 

仏教のの概念を理解するに当たり、中国人の窓口となったのが老荘思想の無為である。その結果として、仏教は老荘の影響を受けて変質したようであり、また老荘の方も仏教に刺激を受けて道教教団の成立が行われることになる。

 

11代桓帝は道教に傾倒したことで有名であり、老子の祭祀を何度も行っている。仏教と同じく社会不安と共に信者が増えていき、太平道と五斗米道の2つの教団が作られた。これらの教団は民間の病気治療などを行うことで信者を集め、五斗米道は義舎と呼ばれる建物を建てて中には食料が置かれており、宿泊を無料で行うことが出来たという。

 

黄巾の乱により太平道の組織は瓦解するが、しかし信者が消滅したわけではなく例えば曹操の青州軍など、各地の群雄の中に吸収されていった。五斗米道は後漢が滅びた後も長く続き、後の正一教となる。

 

科学技術

後漢は、科学技術の進歩が著しい時代であった。

 

蔡倫による製紙技術の改良は後漢代のみならず全ての時代、全ての地域に多大な影響を与えた。それまでの竹簡(竹を一定の大きさに切って束ねた物)とは比べ物にならないほどに小さくて済む紙は文化の伝達速度を格段に上げ、優れた文学・書物が地方に伝播するのに大きく貢献した。

 

安帝から順帝の時の太史令の張衡は天文を研究して、渾天儀・地動儀を発明した。渾天儀は現代で言う天球儀のことで、水力により地球の公転に併せて回転して、星座を正確に表示したと言う。地動儀は地震計のような物で、壷に周囲に球を咥えた龍が作られており、遠くで地震があるとそれを感知して球が落ち、それによりどの方角で地震が起きたかが分かった。また張衡は月食の原因を初めて解き明かし、円周率を計算して3.162と言う近似値を得ている。

 

南陽の人である張仲景は、後世に医聖と称えられる人物である。彼は一族を傷寒により失い、これに憤慨して『傷寒卒病論』を著した。この書には、それまでの研究を元に張仲景の研究の成果が載せられており、後世の医学のバイブルとされた。特に日本では、非常に重視されている。

 

また沛の人である華佗は、麻沸散と言う薬を使って史上初の全身麻酔を行い、腹部を切開する大手術を行ったとされる。他にも、健康法として体操を発明したと言われる。

 

この時代に成立したと見られる著者不明の『九章算術』と言う算術書には、様々な数学の問題が載っており、後には数学教育のテキストに採用されている。

 

文学

前述したように蔡倫の製紙法改良により、文章の伝達速度が上がったことは文学の世界にも大きな影響を及ぼし、ある所で発表された作品が地方に伝播することで流行が形作られることになる。

 

歴史の分野では、まず班固の『漢書』である。『史記』の紀伝体の形式を受け継ぎつつ、初めての断代史としての正史であるこの書は『史記』と並んで正史の中の双璧として、高い評価を受けている。

 

他には班固の父の班彪が『史記』の武帝以後の部分を埋めた『後伝』、後漢王朝について同時代人が書いた文章をまとめた『東観漢記』などが挙がる。

 

漢詩の分野では、班固『両都賦』・張衡『二京賦』などがあり、この時代に五言詩が成熟し、末期の蔡邕になって完成したと言われる。

 

その流れが、建安年間(196 - 220年)になって三曹(曹操・曹丕・曹植の親子)や建安七子へと受け継がれ、建安文学が形作られる。

 

彫刻

甘粛省武威市より出土した銅奔馬は、従来の東洋芸術一般の特徴であった静的イメージを一新する躍動的な青銅彫刻である。

出典 Wikipedia

2020/10/17

後漢(1)

 後漢(中国語: 東漢、拼音: Dōnghàn25 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。

 

前漢は王莽により簒奪されたが、呂母の乱が勃発したのを皮切りに全国で反乱が起こり、最終的に南陽(現在の河南省南陽市)の皇族傍系の地方豪族である光武帝により平定された。

 

銅馬や赤眉など多くの民衆叛乱を吸収して自らの勢力とした光武帝は、民衆は疲弊し、それが兵糧を給じる軍兵は相対的に多いため、材官、騎士、都尉などの地方の駐在軍を廃止し、徴兵制から少数の傭兵制へと切り換えた。また、本来は中継ぎが役目である尚書を使い、三公ら大臣の権力を奪い皇帝へと集中させた。しかし、後に皇帝が若くして亡くなると権力は真空となり、皇帝の権力を利用できる宦官と外戚による権力争い、それに儒教の振興による地方豪族出身の知識人官僚の反抗が展開された。政局の混乱に耐えかねて民衆叛乱が頻発するようになっても、地方軍備の欠如が裏目に出て為すすべがなかった。

 

光武帝と第2代明帝を除いた全ての皇帝が20歳未満で即位しており、中には生後100日で即位した皇帝もいた。このような若い皇帝に代わって政治を取っていたのは豪族、特に外戚であった。第4代和帝以降から、外戚は権勢を振るうことになった。宦官の協力を得た第11代桓帝が梁冀を誅殺してからは、今度は宦官が権力を握るようになった。宦官に対抗した清流派士大夫もいたが、逆に党錮の禁に遭った。

 

外戚、宦官を問わずに、この時期の政治は極端な賄賂政治であり、官僚が出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。その賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。その中でも最たる物が184年の張角を首領とした黄巾の乱であり、全国に反乱は飛び火し、実質的支配者であった10人の大宦官(十常侍)はその多くが殺され、混乱に乗じて董卓が首都洛陽を支配し少帝弁を廃位して殺害、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。

 

その後は、曹操や劉備らが争う動乱の時代に入る。後漢は一応存在はしていたが、最後の皇帝献帝は曹操の傀儡であった。220年、曹操の子曹丕に献帝は禅譲して後漢は滅びた。献帝が殺害されたと誤った伝聞を受け、劉備が皇帝に即位し、以降三国時代に入る。

 

献帝(劉協)は魏によって山陽公に封じられ、その死後は孫の劉康が跡を継いだ。魏に取って代わった西晋でも、この待遇は引き継がれたが、劉康の孫である劉秋の代に、永嘉の乱で漢(匈奴)により殺害された。

 

魏では漢王朝の宗室は禁錮(公職追放)の扱いを受けていたが、西晋成立後の266年に解除された。

 

特徴

幼帝を仰ぐことによって皇太后が力を持ち、外戚も盛んになり外戚による専断が幾度も見られた。また末期には、外戚を廃することに成功した宦官が、やはり幼帝を傀儡に仕立て上げ政治を壟断した。宦官が増えたのは、皇后府が力を持ったのが原因である。

 

この王朝の皇帝は、極めて短命である。幾人も30代で崩御しており、若くして崩御することから後嗣(跡継ぎ)を残さずに亡くなる皇帝も少なくなかった。このため幼少の皇帝が続出し、即位時に20歳を越えていた皇帝は初代光武帝と第2代明帝の2人だけであり、15歳を越えていた者も章帝(19歳で即位)と少帝弁(17歳で即位)の2人だけであった。ちなみに、最も長寿だったのは初代光武帝(63歳)である。

 

政治

後漢の政治体制は、基本的に前漢から引き継いでいる。

 

前漢から後漢に推移する時の騒乱により人口は、前漢末期の2年の5,767万から後漢初めの57年は2,100万へ減少した。その後は徐々に回復し、157年に5,648万に回復している。しかし、黄巾の乱から大動乱が勃発したことと天災の頻発により、再び激減して西晋が統一した280年には1,616万と言う数字になっている。動乱の途中では、これより少なかった。

 

この数字は単純に人口が減ったのではなく、国家の統制力の衰えから戸籍を把握しきれなかったことや、亡命(戸籍から逃げること=逃散)がかなりあると考えられる(歴代王朝の全盛期においても、税金逃れを目的とした戸籍の改竄は後を絶たなかったとされており、ましてや中央の統制が失われた混乱期には、人口把握は更に困難であったと言われている)。なお、中国の人口が6000万近くの水準に戻るのは隋代であった。

 

官制

後漢の三公は太尉・司徒・司空(初期は大司馬・大司徒・大司空)であり、それぞれ前漢の太尉・丞相・御史大夫に相当する。しかし後漢の政治特徴として、宦官の重用による側近政治が強くなったことがあり、皇帝の秘書役であった尚書が実質的に政治を動かすようになり、三公は実行機関に過ぎなくなっていた。

 

地方制度の主な変更は、前漢武帝期に創設された郡の長官である太守を監察する役職である刺史である。刺史は600石の秩禄であり、2,000石の秩禄である太守に及ばない。これは不都合であるため、元帝の頃に2,000石の州牧と替った。何度か刺史と州牧の制度が入れ替わり、時には刺史と州牧は並立していた。しかし、州が地方行政の最高単位となり、刺史には軍権が無いため、後漢も末期になって地方反乱が続出するようになると、軍権を併せ持つ州牧が地方行政の最高役となった。

 

牧の民政と軍権を併せ持つ権限は強大な物であり、州牧は後には地方の自立勢力となる。黄巾の乱以降の群雄達は、ほとんどが牧を経験している。

 

外戚と宦官

後漢は建国以来豪族の寄せ集め国家であり、豪族は皇帝と婚姻関係を結び、外戚として大きな政治的・軍事的権力を持った。それでも章帝の時までは皇帝が権力を持っていたが、88年に第4代和帝が数え年10歳で即位すると、皇太后竇氏が垂簾政治を行い、その兄の竇憲が大将軍として専権を奮った。これが後漢の外戚の台頭の始めである。

 

その後、92年に和帝は宦官の鄭衆の力を借りて、竇憲らを誅殺する。以降、後漢末まで外戚と宦官の争いが続いた。鄭衆以来、宦官は強大な権力を持ち、侯に封ぜられ、没後は養子によって封地を継ぐようになった。

 

6代安帝の代にも宦官の江京・李閏らの誣告によって鄧氏一族が粛清され(121年)、第8代順帝の治世が開始するにあたっては、閻氏一族が孫程らの宦官(みな侯に封ぜられたので十九侯と呼ばれる)によって粛清される(125年)など、外戚と宦官との間で皇帝の擁立合戦が続く。沖帝・質帝・桓帝の3人の幼帝を次々に擁立して猛威をふるった外戚の梁冀が、宦官の単超ら(五侯)に滅ぼされて以後は宦官が優勢となり(159年)、外戚勢力は一歩後退する。

 

宦官が権力を私物化すると、それを批判し抵抗する知識人たちの世論が高まった。これを清議と呼ぶ。彼らは自らを清流・宦官のことを濁流と呼んで非難し、宦官側は清議派を党人と呼んで弾圧した。豪族の中にも、清議派と共同するものが現れた。

 出典 Wikipedia

2020/10/13

エデンの園(ヘブライ神話3)

 エデンの園Garden of Eden、ヘブライ語: גן עדן, ラテン文字転写: Gan Eden)は、旧約聖書の『創世記』(2:8-3:24)に登場する理想郷の名。楽園の代名詞になっている。パラダイスとも言う(ラテン語: paradisus、古代ギリシア語: παράδεισος)。地上の楽園とも言う。

 

創世記の記述

『創世記』の記述によれば、エデンの園は「東の方」(2:8)にあり、アダムとエバは、エデンの園を耕させ、守らせるために、神によって、そこに置かれ(2:15)、そして、食用果実の木が、園の中央には生命の樹と知恵の樹が植えられた。

 

また、エデンから流れ出た1つの川は園を潤し、そこから4つの川(良質の金とブドラフと縞メノウがあったハビラ、全土を流れるピション川、クシュの全土を流れるギホン川、アシュルの東を流れるヒデケル川(チグリス川)、ユーフラテス川)に分かれていた(2:10-2:14)。

 

ヤハウェは、アダムとエバが禁じられていた知恵の樹の実(禁断の果実)を食べたことから、エデンの園から追放する。生命の樹に至る道を守るため、ヤハウェはエデンの東にケルビムときらめいて回転する炎の剣を置いた。

 

文学と伝承

エデンとはヘブライ語で楽しみ、アッカド語で園という意味である。

中世のキリスト教伝承では、アダムの三男セツがエデンの園に渡ったという伝説が生まれた。

 

エデンの場所

エデンがどこであったのかについては、古来様々な場所が主張され、議論されてきた。その中には、創世記に典拠がみとめられないものも少なからずある。

 

多くの説では、エデンが、チグリス・ユーフラテス河の源である、ザグロス山脈一帯、アルメニア付近にあったと主張している。ユダヤ教の伝承によれば、エデンはエレバンにあったという。エレバンの近くには、ノアの箱舟が流れ着いた場所との説があるアララト山がある。

 

その他の仮説として、紀元前3000年代〜紀元前2000年代にメソポタミア-インダス間交易の要衝として繁栄した古代都市ディルムンがエデンの園のモデルとされる。ディルムンの位置については諸説があり不明だが、一説にはバーレーンのバーレーン要塞がディルムンの首都の跡地とされる。

 

他に、紀元前2600 - 2500年頃、メソポタミアにおいてラガシュとウンマという二つの都市国家が「グ・エディン(平野の首の意)」もしくは「グ・エディン・ナ(平野の境界の意)」という肥沃な土地をめぐって戦争を繰り返しているが、このグ・エディン(もしくはグ・エディン・ナ)が、エデンの園のモデルであるとする説がある。

 

他に環境考古学や宇宙考古学(衛星考古学)などの視点から、7万年前〜12000年前の最終氷期には海面はもっと低かったため、現在は海の底となっているペルシャ湾に比定する説も有る。
出典 Wikipedia

2020/10/07

ゲルマン人の時代 ~ ローマ帝国(15)

 https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD

 

ゲルマン人の時代へ

西帝グラティアヌスは、ヒスパニア出身の名将テオドシウスを次の東帝とした。後にキリスト教を国教とする、テオドシウス1世である。

 

382年、テオドシウスのもと、ローマ帝国は西ゴート族との講和に成功する。またテオドシウスは彼らをトラキアに定住させ、年金支給と引き換えに傭兵として雇った。当時、ローマ帝国では人口が減少していたので、徴兵し時間をかけて訓練するよりも、こうして即戦力を得た方が遥かに得策だったのである。

 

この政策は、小作人を兵として取られたくない大土地所有者や、文官や司教を目指す多くのローマ市民に広く受け入れられた。こうしてローマ軍の主力は、ゲルマン人にとって代わられていくのである。

 

そして次世代へ

領土を4つに分けたり、キリスト教を認めたりと色々妥協をして生計を立ててきたローマ帝国だが、4世紀後半にもなると諸々のガタが来た。

 

392年 キリスト教が国教になる

394年 テオドシウス1世が東西ローマ帝国を再統一

395年 ローマ帝国が東西に分裂

 

帝国は移民に荒れ狂い、古代ローマからの宗教も否定し、そうして真っ二つに分割された。

 

東ローマ帝国の初代皇帝はアルカディウス。西ローマ帝国の初代皇帝はホノリウス。二人ともテオドシウスの息子。共に父親頼みの超無能。

 

476年 西ローマ帝国が滅亡。ゲルマンの傭兵隊長オドアケルによる。

時の皇帝は「都市ローマを建てた人物」と同じ名のロムルス。つまり、ロムルスが建てた都市国家は、帝国となりロムルスの時に滅んだということになる。

 

480年 生き残った西ローマ皇帝が暗殺される。西の帝国は名実ともに滅亡。

他方、東ローマ帝国は、その後独自の文化を開花させ、ギリシャチックなローマ帝国として、1453年までの約1000年間におよぶローマの栄光を実現する。東ローマ帝国は、9世紀に入るまでヨーロッパ唯一の「帝国」であり続け、先進文化圏としての地位にあり続けた。また東欧世界の成立に深く関与し、その土台となる。

 

他にも800年のカールの戴冠や、962年のオットーの戴冠によって西ローマ帝国の後継者(という設定)である神聖ローマ帝国が現れた。神聖ローマ帝国は、ローマの権威や文化を継承し(たつもりらしい)、ローマ帝国とカトリック教会、そしてゲルマン民族による独自の文化圏を形成し、西欧の前身となった。

 

ローマ帝国は滅んでも、その遺産は欧州の財産として残り続けるのだろう。

 

ローマ帝国の後継者たち

ローマ帝国、ないしその後継者を自称した国家は少なくない。ここでは、その代表的な例をまとめることとする。

 

西ローマ帝国

395年の分割後の西側。東側に比べ文化水準が低く、経済基盤が弱いため長生きはしなかった。東ローマ帝国に蛮族へ売られたから、ともされる。東西分割(395年)後、暗君が続いたのも痛い。

 

フランク王国

800年にカール大帝が、ローマ教皇より西ローマ皇帝として任命される。だが、これは「教皇がローマ皇帝位を与える」という既成事実を作りたかった教皇側の一方的な都合による。事実、カール自身は「皇帝にされると分かってたら、無視して行かなかったのに」とか言っている。のち三国に分割。

 

神聖ローマ帝国

西ローマ帝国(正確には、三分割した東フランク)の後継。イベリア半島(スペイン&ポルトガル)と西北アフリカを除き、初期の頃は領土が類似。しかし実際はゲルマン部族連合だったり、ドイツ領邦の集合であったりとローマ帝国とは程遠い。

 

東ローマ帝国 / ビザンツ帝国

395年の分割後の東側。ギリシアやエジプトなどのヘレニズム文化の遺産、オリエントの経済基盤を持つことから、西側よりも長生きした。キリスト教化された、ギリシアチックなローマ帝国。

 

オスマン帝国

トルコ=イスラーム国家。1453年に東ローマ帝国を滅ぼす。以後、ビザンツ文化を継承し「東ローマ帝国の再興者」と何度か自称する。ある意味で神聖ローマ帝国と同じ、第3のローマである。第一次世界大戦に沈む。

 

モスクワ大公国 / ロシア帝国

婚姻により東ローマ帝国と血縁関係をもち、その権威の継承を主張。また東ローマ帝国のギリシア正教会も継いだ。第3のローマと自称し、今日のモスクワにおいても、その標語を留めている。ロシア帝国は1917年まで続いた。

 

フランス帝国

ボナパルト朝。ナポレオン・ボナパルトによる。神聖ローマ帝国に、とどめを刺した張本人。皇帝を国民に選ばせるという点においては、ローマ帝国か。建前でも、一度は三頭政治体制になっているあたり、ナポレオン本人もカエサルを意識していたのではないかと思われる節がある。然し、一度目は悲劇だが二度目は喜劇だった。甥っ子もゲルマン人に負けたし。

 

イタリア王国

ローマを持ち、本土はイタリア、我こそはローマ帝国の後継者、ローマの栄光を現代にと、ドゥーチェが頑張ったが第二次世界大戦で敗戦。

 

アメリカ合衆国

ローマ帝国をもとに出来たらしい。一応、合衆国大統領には元首政期のローマ皇帝の面影が見られる。

めちゃくちゃ多い……。

 

なお、この中でローマ帝国からの正統な連続性を有しているのは、すなわち正式な継承国は東ローマ帝国と西ローマ帝国のみである(395年の分割統治)。神聖ローマ帝国は西ローマ帝国を、ロシア帝国は東ローマ帝国の後継をそれぞれ自称したが、当然ながらそれら2国のローマ帝国からの連続性は皆無である。

 

このように後継を称する国が多いのは、ひとえにローマ帝国が偉大であったからであろう。