2018/09/23

春秋戦国時代

春秋時代のは洛邑(王城・成周)周辺を支配する小国となり、往時と比するべくもない程まで没落した。更に平王の孫である桓王が繻葛の戦い(前707年)で、一諸侯に過ぎない鄭に敗れた事で諸侯に対する統制力を喪失した。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇

そのわずかな権威も戦国時代に入ると完全に無くなり、各諸侯がそれぞれ「」を称するようになった。その小さな王朝の中でも権力争いは続いており、東西に分裂したり、何度となく王が殺されることが起きた。

滅亡
最後の王である赧王の在位中は、周王室の影響力はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定され、周王室も貞定王の末子掲(桓公)を始祖とする西周公(武公)と東周君(君傑)の勢力に分裂しており、赧王は西周の武公を頼って西周(河南)に遷都した。祖父の顕王の時代より秦の勢力が急速に拡大しており、諸々の政策でも周の勢力挽回は成功しなかった。

紀元前256年、武公の西周は諸侯と通じて韓と交戦中の秦軍を妨害したため、秦の将軍摎の攻撃を受けた。西周君は秦へおもむき謝罪し、その領土を秦に献上した。このため赧王は秦の保護下に入り、まもなく崩御した。秦が九鼎を移し、王畿を占拠したことで西周は滅亡することとなった。

赧王の死後も、昭文君の東周は7年間存続した。昭文君は楚の力を借りて六国の諸侯を連合させ、秦を討伐しようとしたが失敗し、その統治する地域は秦に奪われた。

ただ、国として滅びたのみで元の王族だった者達は、そのまま存続を許された。

政治
周の官制については、周の諸制度について周公旦が纏めたとされる『周礼』に非常に詳しい記述があるが、この書物の成立は戦国時代以降と見られているので、これを以って周の官制を論ずるには無理がある。金文によると、周には卿事寮(けいじりょう)・大史寮(たいしりょう)と呼ばれる2つの組織があった。卿事寮の長官は太保・太師の2つがあり、のちに太師だけになる。下に司馬(軍事担当)・司土(土地管理担当)・司工の職があり、各諸侯の下にも同じ職があった。大史寮の長官を太史と呼び、歴史の編纂・各種儀礼・祭祀などを行う。

『春秋左氏伝』によると、身分制度については王の下に諸侯がおり、その下に大夫(たいふ)と呼ばれる一種の貴族層があり、その下に士と呼ばれる層があり、その下が庶民となっている。ただし大夫と士と言う階級は金文には無い。前述したように、取引される対象である一種の奴隷階層があったことは間違いなく、主に主人に代わって農作業を行っていた。この中には職工と思われる職もあり、青銅器の鋳造に関わっていたと考えられる。

土地制度については井田制が行われていたとされるが、この制度も実際に行われていたかは疑問視する声が多い。

文化
殷の青銅器文化は、その芸術性において最高の評価を与えられている。周も基本的にはその技術を受け継いでいたのだが、芸術性においては簡素化しており、殷代に比べればかなり低い評価となっている。

この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。器には占卜の結果を鋳込んである。これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。殷代と比べて、周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴がある。

また、それまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも、殷と周との違いとして挙げられる。殷では祖先に対する崇拝と畏れが非常に強く、祭祀を怠ったりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。

これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、諸侯には時に王室から下賜されることがあった。春秋時代に入るときの混乱から技術が諸侯にも伝播して、諸侯の間でも青銅器に文字を鋳込むことが行われ始めた。

建築の分野では、周に入ってからそれまでの茅葺きから瓦が一般的になったことがわかっている。投壺(とうこ)が始まったのも周代とされる。

都市と領土
西周王朝、領土は点と点とを結んだネットワーク状のもので面領域ではない。よって周王朝の勢力領域を確定するのは困難であるので領域は設定せず、邑名だけ記入した。

殷代から春秋時代にかけての華北は、邑と呼ばれる都市国家が多数散在する時代であった。殷代、西周時代の邑は君主の住まいや宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。

東周時代には、外壁が強化され、内壁=城と、外壁=郭からなる二重構造、つまり「内城外郭式」がとられるようになった。華北の城壁は、無尽蔵にある黄土を木の枠にしっかりとつき固め、堅い層を作りそれを重ねてゆく版築という工法によって築造されている。こうして作られた城壁は、極めて堅固な土壁となる。水には弱いが、もともと華北は雨量が少ない上、磚と呼ばれる黄土を焼成して作られた煉瓦で城壁を覆い防水加工を施すため、あまり水の浸食を受けることもない。人為的破壊が無い限り、城壁はかなり長い寿命を維持することができる。

邑は城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。そして、その外側には未開発地帯が広がり、狩猟・採集や牧畜経済を営む非都市生活の部族が生活していた。彼らは「」などと呼ばれ、自らの生業の産物をもって都市住民と交易を行ったがしばしば邑を襲撃し、略奪を行った。また、邑同士でも農耕や交易によって蓄積された富などを巡って、武力を用いた紛争が行われていた。こうした紛争などにより存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に政治的に従属するようになっていった。

さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展で農地や都市人口が大規模に拡大したために、大邑はその領域を拡大して邑と邑の間に広がっていた非都市生活者の生活領域や経済活動域を消滅させてゆく。また、軍事が邑の指導者層である都市貴族戦士に担われる戦車戦から、増大した農民人口によって担われる歩兵戦に重点が移行するとともに、それまで温存されていた大邑に従属する小邑が自立性を失って、中央から役人が派遣されて統治を受ける「」へと変えられていった。こうして春秋末から戦国にかけて、華北の政治形態は都市国家群から領域国家群の併存へと発展していった。

2018/09/21

自灯明・法灯明(釈迦の思想4)

教化と伝道
釈迦は、ワーラーナシーの長者ヤシャスやカピラヴァストゥのプルナらを教化した。その後、ウルヴェーラ・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパの3人(三迦葉)は、釈迦の神通力を目の当たりにして改宗した。当時、この3人はそれぞれがアグニを信仰する数百名からなる教団を率いてため、信徒ごと吸収した仏教教団は1000人を超える大きな勢力になった。

釈迦はマガダ国の都ラージャグリハに行く途中、ガヤー山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。釈迦がラージャグリハに行くと、マガダ国の王ビンビサーラも仏教に帰依し、ビンビサーラは竹林精舎を教団に寄進した。

このころシャーリプトラ、マウドゥガリヤーヤナ、倶絺羅、マハー・カッサパらが改宗した。

以上が、おおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハを中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわちマガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者が段々と帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため様々な戒律が設けられるようになった。

舎衛城の祇園精舎
これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちであるラーフラ、アーナンダ、アニルッダ、デーヴァダッタ 、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。

またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国 (kuru) のカンマーサダンマ (kammaasadamma) や、ヴァンサ国 (vaMsa) のコーサンビー (kosaambii) などである。

成道後14年目の安居は、コーサラ国のシュラーヴァスティーの祇園精舎で開かれた。このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathuraa)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでいる。

最晩年の記録
釈迦の伝記の中で、今日まで最も克明に記録として残されているのは、死ぬ前の1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『法華経、大般涅槃経』などの記録である。

シャーキャ国の滅亡
涅槃の前年の雨期は、舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道は、ラージャグリハの竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァストゥに立ち寄り、コーサラ国王プラセーナジットの訪問をうけ、最後の伝道がラージャグリハから開始されることになった。このプラセーナジットの留守中、プラセーナジットの王子ヴィルーダカが挙兵して王位を簒奪した。

そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトルを頼って向かったが、城門に達する直前に死んだ。ヴィルーダカは即位後、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、釈迦は、まだカピラヴァストゥに残っていた。

釈迦は、故国を急襲する軍を道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァストゥは攻略された。このヴィルーダカも河で戦勝の宴の最中に、洪水または落雷によって死んだ。釈迦は、カピラヴァストゥから南下してラージャグリハに着き、しばらく留まった。

自灯明・法灯明
釈迦は多くの弟子を従え、ラージャグリハから最後の旅に出た。アンバラッティカ(パ:ambalaTThika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(後のパータリプトラ)に着いた。ここで釈迦は、破戒の損失と持戒の利益とを説いた。釈迦は、このパータリプトラを後にして増水していたガンジス河を無事渡り、コーティ村に着いた。

次に釈迦は、ナーディカ村を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に三悪趣が滅し預流果の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして、法の鏡の説法をする。

次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処や三学を説いた。やがて、ここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。

すなわち釈迦は、ここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。

これについて釈迦は、“比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。”と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。

“だから、汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように”
と訓戒し、また「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、“では比丘たちが自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?
阿難よ、ここに比丘は、身体について、感覚について、心について、諸法について、(それらを)観察し(anupassii)、熱心に(aataapii)、明確に理解し(sampajaano)、よく気をつけていて(satimaa)、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。”

“阿難よ、このようにして比丘はみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とせずにいるのである”として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。
出典 Wikipedia

2018/09/11

スパルタの国政

出典 http://www.geocities.jp/timeway/index.html

ここで、スパルタの話をしておきましょう。スパルタはアテネと並ぶギリシアの大国ですが、アテネのような民主政は発達せず、ギリシア世界の中でも特殊な国造りをしました。

スパルタには三種類の身分がありました。一番上に立つのが支配者であるスパルタ人、これが市民です。その下に、ペリオイコイと呼ばれる人々。ペリオイコイは軍事的な義務はありますが参政権がありません。不完全市民です。一番下がヘイロータイ。事実上の奴隷です。ヘイロータイが農業をします。スパルタは広い領土を持っていて、割合に平地も多い。この農村に住んでいるのが奴隷身分のヘイロータイです。

スパルタがアテネなどと比べて変わっているのは、この奴隷の人口が非常に多いところでした。アテネの市民は18万、奴隷が11万。市民の方が多い。スパルタは、市民が2万5千人。奴隷が20万。圧倒的に奴隷人口の方が多いんです。この奴隷が団結して反乱を起こしたら、2万5千人では負けるね。2万5千人で20万人を押さえつけるためには、どうしたらよいか。

スパルタ人は、非常に単純な答えを出します。スパルタ人一人ひとりが滅茶苦茶に強くなればよい、とね。そこでスパルタ人は、幼い時から非常に厳しく子供を育てました。厳しい子育 てをスパルタ教育と言うでしょ。ここから来ているんですね。

 まず、赤ちゃんが産まれる、ここからスパルタ教育は始まる。長老がやってきて、赤ん坊をチェックするんだ。

五体満足か?
健康に育ちそうか?

障害があったり虚弱だったりしたら、タイゲトス山に捨ててしまう。育てない。7歳になると男の子は親元から引き離されて、みんな合宿所に入れられます。こ こから男ばかりの集団生活が始まります。男ばっかりで一緒に起きて、一緒に飯食って、一緒に身体鍛えて、また一緒に飯食って、一緒に寝るの。何歳までこの生活をするかというと、30歳までです。嫌だねー。

30歳になると家庭生活が許されるんだけれども、やはり夕食は家で食べない。男達が集まって共同食事をするんです。これをしないと、市民の資格を奪われてしまいます。だからスパルタでは、一家団欒の夕食というのはない。

こんなふうな生活をしながら、肉体を鍛えていきます。男達同士の団結は、ものすごいものになる。お互いみんな気心が知れあっている。これが密集隊を作って戦場に出てきたら、他のポリスは太刀打ちできない。スパルタ陸軍はギリシア最強でした。

成人の儀式では、こんな話も伝えられています。スパルタの少年は13歳位で成人の儀式を迎えます。その年齢になった少年は、短剣一本だけを渡されてスパルタの町を追い出されるというんです。金も食糧も何も持たせずに、1年間放浪の旅をしなければいけない。食糧はどうするかというと「奪え!」といわれる。

具体的には、近郊には農村が広がっていて、そこには奴隷身分のヘイロータイが住んでいる。彼らから食糧を奪うんです。ヘイロータイが抵抗したら、殺してかまわない。ヘイロータイからすれば、常に年頃の少年が短剣を持ってうろついていて、何時襲ってくるか分からない。こんなふうにしてヘイロータイにはスパルタ人に対する恐怖心を植え付け、少年は放浪を通じて立派な戦士に成長する、というのです。

女の子は合宿生活はないですが、やはり集められて肉体の鍛錬をしました。これは立派な戦士を産むため。要するに、スパルタは社会全体が戦争モードのポリスでした。このようなポリスの在り方は、ギリシア全体から見たら特殊です。

ポリスの衰退
このアテネとスパルタが戦争をします。これがペロポネソス戦争(前431~前404)です。

アテネは、デロス同盟の盟主としてギリシアの指導的立場に立つんですが、そのやり方は他のポリスの反感を買うようなことが多かった。例えば現在のアテネですが、アクロポリスの上にパルテノン神殿が建っていますね。この大理石の立派な神殿はペリクレス時代に造られたものですが、この建設費は実はデロス同盟の資金を流用しているんですよ。デロス同盟は軍事同盟ですから、 加盟ポリスから軍資金を集めてる。これをアテネはペルシア戦争で破壊された 自分の町の復興のために使ってしまうんだ。当然、他のポリスは反感を持ちますわな。

その筆頭がスパルタだったわけ。スパルタは、自国を盟主とするペロポネソス同盟という同盟のリーダーでした。このギリシアの両雄が、ギリシア全土の覇権を賭けて衝突したわけです。

細かい経過は省きますが、最終的にスパルタが勝ってアテネは降伏。アテネに代わってスパルタが覇権を握りますが、これも長続きしません。

次に覇権を握ったのが、テーベというポリス。このテーベにエパミノンダスという人物が登場し、急速に勢力を伸ばしてきました。彼は斜線陣という新しい戦法を編み出して、前371年にレウクトラの戦いでスパルタ軍を破ります。覇権は、スパルタからテーベに移りました。

こんな具合に、ギリシア内部で次から次へと戦乱が続いていくんです。ギリシア世界が全体として衰退してしまいます。

まずは農業が荒廃していく。例えば、ペロポネソス戦争の時に陸軍では劣るアテネは籠城戦をするんですが、アテネ市を包囲したスパルタ軍はアテネ近郊に広がる畑、そこのオリーブやブドウの木を切り倒してしまうのね。米や麦だっ たら一年草だから、刈り取られても翌年は収穫できるけれど、果樹は切られてしまったら次に苗木を植えても収穫できるまでには何年かかかるわけでしょ。こういう農業荒廃です。

戦争が終わっても、すぐに回復できるわけではない。農業経営者の中産市民は、これで没落する者が出る。収穫なければ収入ない、農地を売る、財産を処分する、最後には重装歩兵の武具を売る。そこまで没落する市民も出てくるんですね。

さらに、このころの政治は衆愚政と呼ばれます。民主政の腐敗堕落したものです。愚か者が集まっている政治という意味ですね。民主政と見た目で違いはありません。政治に関わる市民達の考え方の違いだと考えてもらったらいい。ポリス全体の事を考えるのではなくて、目先の自分の利益を第一に考える、そんな者達の民主政です。