2015/10/25

酒乱(続ストーカーpart6)



 酒乱の相手は難しい。

 いや酒乱に限ったことではなく、とにもかくにも興奮状態に陥ってしまった人間相手には、まともな会話などは成り立ち得ないものである。

 過去の経験上、そのように悟っていたラッキーボーイは、じっと相手の興奮が収まるのを待っていた。 

 「オレは・・・別にアンタを追っかけてたわけじゃない・・・」 

 譫言のように、酔眼を据わらせたタコオヤジの「告白」が、今まさに始まろうとしていた。 

 「そう・・・オレのお目当は、彼女だった・・・」 

 「オイオイ・・・当時のオレに美人の背後霊が着いてたなんてオチは、許容できねーな。 
 これでも、そんなに鈍感ではないつもりだ。 
  そんな「幽霊」やら「幻」やらの世迷言で、お茶を濁されては堪らん」 

 「だから・・・さ・・・」 

 タコオヤジは、気色悪い上目遣いでちらりとこちらを見ると

 「うをっほん!」 

 と、勿体ぶった咳払いをしてから、タバコに火を点けて紫煙を盛大に吐き出した。

 「れっきとした生身の、しかもこの上もなく極上な女さ・・・」

 あの「世の不幸を一身に背負ったような」不景気の見本のようなタコオヤジの口から吐き出された「この上もなく極上な女」に、寸でのところで吹き出しそうになるのを堪えたラッキーボーイは、これまたタバコに火を点けて応じるポーズを取って見せる。 

 「それで? 
 その与太話が、あのストーキングとどう関係すると?」 

 「それは・・・つまり・・・だな・・・ 
 つまりは、彼女自身が、ストーカーだったのさ・・・アンタのな 

 と吐き捨てると、タコオヤジはさも不愉快そうに立て続けに、紫煙を盛大に吹き出した。 

 「くだらねーな! 
 要するに、アンタは「ストーカーのストーカー」だったと・・・つまり、オレは二重にストーキングされてたって?」 

 タコオヤジは、何も言わずにタバコを蒸かし続ける。 

 不気味以外のなにものでもないが、恐らく彼なりの照れ隠しだったのだろう。 

 「実にくだらん!
 自分の罪を免れようと、そんな架空の美女とやらを捻り出してくるとは、アンタもガラに似合わず芸が細かいじゃねーか?」

 最早、タコオヤジの表情や挙動から、彼が真実を語っていることは明らかだったが、敢えて挑発してみると 

 「いや・・・だから、こっちは、そんなガラじゃない・・・事実を言っているだけさ・・・」 

 「・・・」
 
 照れ隠しのように、盛んに紫煙を吹き出しているタコオヤジの姿は、まったく「自白者」の姿そのものだった・・・

 「ところでアンタはなぜ、東京に出て来たのかな? 
 さては、地元でストーカー行為がばれて、止むに止まれず逃げて来たとか?」 

 「!!!」 

 酔った口からのデタラメだったが案外に図星だったらしく、酔いが一気に引いたように真っ青になったタコオヤジは、ガタガタと震えだした。 

 「あれは・・・ 
 あれは・・・違うんだ・・・!

 そう叫ぶと、タコオヤジは頭を抱えた。 

 タコオヤジの突然の叫びに、周囲の客が驚いてこちらを見る。 

 「まあ・・・大きな声を出しなさんな・・・他の客の注意を惹く・・・別に事を荒立てようという気はない」 

 タコオヤジは項垂れて、今度は泣いているようだった。

 酒乱特有の、感情の起伏がコントロールできないような、あの危険な状態に入ってしまったらしい ( -ω-)y─~~~~

2015/10/17

不良『古事記傳』

神代二之巻【美斗能麻具波比の段】 本居宣長訳(一部、編集)
不良(ふさわず)。この読みは「近き海(伊勢の海)に釣りする海人のうけ」(古今509を崩して引用)ではないが、どれとも決めかねており色々に言える。一つには「よからぬ」と読む。それは文字のままでもある。また聖武紀の宣命に「天下君坐而、年緒長久皇后不坐事母、一豆乃善良努行爾在(アメのシタにキミとマシて、トシのヲながくオオぎさきマサヌことも、ヒトツのヨカラヌわざニあり)≪天下に君臨しながら、あまり長い間皇后がいないのも良くないだろう≫」とあるから、古語でもある。また書紀には、これを「不祥」と書いてあり、弘仁私記では「古事記を見ると『よからず』とあるので」となっているから、昔もそう読んでいたようだ。垂仁の巻には「非良(よからぬ)」という言葉もある。もう一つには「さがなし」と読む。書紀の「不祥」をそう読み「悪」の字もそう読むことがある。また「性」を「さが」と読む。

これは古語で、後の歌に「憂き世のさが」などとあるのも、これに適う。それは本来自然に、そうあるべきことを言う。「さがなき」は、その反対で本性に背き違っていることを言い、これも古語のようだ。【後の物語で、人のことをあれこれと言い立て、悪口を流すことを「さがなし」と言うのは、言葉の意味が変化したのである。また夢のお告げといった良い予兆(祥)のたぐいを「さが」と言うが、これは元来「さが」という言葉があって「さがなし」は不祥を意味するから、不祥でない(つまり良い)のは「さが」であるという後人の誤解から生じた言い方である。不祥は「さがなし」に当てはまるからといって「祥」は「さが」だということにはならない。それなのに、ある人が『「性」は「さが」であるから、結局「性善」ということだ』と言ったのは漢心による曲解で、いにしえの言葉の意味合いとは違う。一般に同じ文字で書いていても、使い方次第で我が国の言葉は変わるものであるのに、書紀の訓はそういう使い分けがなく、同じ文字でさえあれば、どこもかしこも同じように読むので語は古語であっても不適切なことが多い。後世には本来の言葉の使い方が忘れられ、どれが正しく、どれが間違いか分からなくなってしまったことが多い。】

不良を「さがなし」と読んだ例は、書紀の垂仁の巻に「夫君王陵墓埋=立2生人1是不良(それキミのハカにイケルひとをウズミたることはサガナシ)≪君主の陵墓に生きている人を埋めるのは良くない≫」、推古の巻に「其大國客等聞之亦不レ良(かのモロコシのキャクらのキカンモまたサガナシ)≪唐からの客人の耳に入るのもよろしくない≫」などがある。また一つには「ふさわぬ」とも読める。それは八千矛神の歌に「云々、許禮波布佐波受(コレはフサワズ)、云々、許母布佐波受(コもフサワズ)、云々、許斯與呂志(コしよろし)」とあり「ふさわず」は「宜し(よろし)」の反語となっているから、「宜しからず」の意味である。この歌を考えると分かる。伝十一之巻【三十七葉】で詳しく言う。

源氏物語などに「ふさわしからず」という言葉がところどころにあるが、花宴の巻に関する「河海抄」の釈に「不祥日本紀」とある。ということは、書紀の「不祥」を「ふさわしからず」と読んでいる本が昔はあったのだろう。源氏物語の「ふさわしからず」も、思いにそぐわないという意味で八千矛神の歌にあるのと同じである。【今の世の言葉で、何かが人にしっくりして幸いであることを「ふさう」と言い、そうでないのを「ふさわぬ」と言う。これも不祥の意味に合い、前記の「河海抄」に引かれたのとよく合う。また万葉巻十八(4131)に「等里我奈久、安豆麻乎佐之天、布佐倍之爾、由可牟登於毛倍騰、與之母佐禰奈之(トリがナク、アズマをサシテ、フサエシに、ユカンとオモエド、ヨシもサネなし)」とあるが「ふさえしに行く」というのは、幸いを求めて行くことだと師が解釈していた。「ふさう」、「ふさい」と活用する語だが「ふさえ」というのは「ふさわせ」が縮まったのである。】

この三つの候補を並べて見ると、中では「ふさわず」と読むのが一番良いような気がする。この言葉は書紀には「陽神不レ悦曰、吾是男子、理當2先唱1、如何婦人反先言乎、事既不祥、宜2以改旋1(おカミよろこびズシテのたまわく、ワレはコレますらお、コトワリまさにマズとなうベシ、いかにぞタワヤメにして、カエリテことサキダツや。コトすでにサガナシ。モッテあらためメグルべし)≪男神は不機嫌になって『私は男だ。私が先に物を言うのが当然じゃないか。何で女の君が先に言うんだ。これは縁起が良くないぞ。もう一度廻り直そう。』と言った。≫」となっている。