2021/09/29

ヤマト王権(4)

首長の称号

ヤマト王権の首長は、中華王朝や朝鮮半島諸国など対外的には「倭国王」、「倭王」と称し、国内向けには「治天下大王」、「大王」、「大公主」などと称していた。[要出典]

 

考古学の成果から、5世紀ごろから「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)という国内向けの称号が成立したことが判明しているが、これはこの時期に倭国は中華王朝と異なる別の天下であるという意識が生まれていたことの表れだと評価されている。

 

大王(おおきみ、だいおう)または治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)は、古墳時代から飛鳥時代にかけてのヤマト王権の首長の称号、あるいは倭国の君主号。

 

概要

5世紀頃にヤマト王権の首長(王)の称号である「大王」号が成立し、これ以降、飛鳥浄御原令の編纂が始まった680年代まで日本国内で用いられた。なお、初期においては、統一王権の王とするかどうかで学説が分かれる。

 

「おおきみ」との和訓については、主人や貴人を表すキミに偉大さや特別に尊いことを表す接頭語オオ/オホを当ててオオキミ/オホキミとするものであるが、他方で、これはキミの尊称としての和語に過ぎず、「大王」(ダイオウ)は中国からの王号賜与を根源とする漢語の称号とするものもある。「大王」と記されている用例は多く、天皇や皇族の敬称とも解されている。

 

中国文献に見える日本の王の称号

本来、「王」とは中国本土において「中原の主」を指したものである。周代には天下を統治する唯一の天子として王の称号があったが、華北の黄河文明諸国の風下に立つことを潔しとしない揚子江文明圏の大国には楚、呉、越のように君主が王を名乗るものもあった。

 

戦国時代に入りしばらくすると、華北でも周王の臣下である諸侯のうち領域国家化を達成した大国の君主が周王に取って代わる天下で唯一の「王」を自称し、王が乱立した。その後、中華世界を初めて統一した(紀元前221年)秦王嬴政(始皇帝)は、価値を落とした「王」に代わり「皇帝」を使用した。

 

秦が成立する(紀元前221年)と、王号は皇帝の臣下へ与えられる称号(諸侯王)、あるいは皇帝の天下の権威を認めて従属姿勢を示す周辺国家の長に贈る称号として定着した(故に、例えば漢の対等国であった匈奴の君主は単于であり王ではない)。

 

日本に関連する王号の初出は、漢の光武帝が57年に奴国の王に賜綬した金印に彫られている「漢委奴国王」である。

 

次いで、『後漢書』安帝紀の永初元年(107年)の記事に初めて「倭国王」の語が見える。安帝紀に「倭国王帥升等」とあるように、倭国王を地域の小国家ではなく地域国家連合の首長としての「倭国の王」と考えると、これは倭国の成立を示すものである。

 

それから、やや下った時代の卑弥呼(死去は240 - 249年)も、魏によって倭国(都は邪馬台国)の統一女王と認知される。この卑弥呼の政権は、最初期の大和王権とする学説がある(異論もある)。

 

「大王」表記の成立

倭の五王の「」に比定される允恭天皇は、千葉県の稲荷台1号古墳から出土した王賜銘鉄剣にある「王賜□□」の「」とする説があり「大王」ではなかったとも考えられている。

 

」に比定されるワカタケル王(雄略天皇)については、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣銘に「獲加多支鹵大王」とあり、また熊本県の江田船山古墳から出土した鉄刀の銘文には「治天下獲□□□鹵大王」とあることから、国内において治天下大王の称号を名乗っていたと推測され、この頃(5世紀後期)には治天下大王の称号が生まれたことを示唆している。

 

奈良時代に編纂された『日本書紀』には、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)即位前紀に「大王、風姿」と見えるが、編纂からはるか以前の仁徳天皇の時代から用いられていたかは定かではない。大王の表記はこの応神紀で初めて見え、その後は、允恭紀、雄略紀、顕宗紀、継体紀などでみられる。

 

和歌山県の隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡の銘に「癸未年八月日十 大王年 男弟王 在意紫沙加宮時 斯麻 念長寿 遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱 作此鏡」(福山俊男による)とあり、「大王」や「男弟王」などの記述が見られる。このことから、鏡が作製された癸未年には「大王」の称号が使われていたものと推察できるが、癸未年の解釈をめぐっては、383年、443年、503年、623年などの説がある。

 

このうち443年(允恭天皇)、503年(武烈天皇)が有力な説とみなされ、443年を採ると5世紀の半ばの允恭天皇の頃には「大王」表記が用いられていたことになる。しかし、紀年銘の異体字をはじめ釈読の定まらない文字が多く、銘文の内容について解釈が多様化しており、「大王」表記の厳密な使用開始年代ははっきりしない。

 

その他、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述されている開皇20年(600年)第1回遣隋使の上奏文に「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、俀王多利思北孤の号 「阿輩雞彌」(アハケミ)が「おおきみ」を表すと考えられている。

 

大業3年(607年)、第2回遣隋使の上表文(国書)には、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とあり、対外的には「天子」の称号が使われている。しかし、国内においては「大王」(おおきみ)、「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)号が使用されていたと考えられる。

 

7世紀初頭に聖徳太子が建立した法隆寺の金堂薬師如来像光背銘(推古天皇15年、西暦607年)に、「池邊大宮治天下天皇」(用明天皇)、「小治田大宮治天下大王天皇」(推古天皇)とあり、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号が用いられていたことが推定される(推古朝説)。しかし、この銘文自体が、「天皇」、「東宮聖王」などの語や「大御身労賜時」といった日本的な表現が使用されており、推古朝では早過ぎること、銘の書風に初唐の趣があること、像の作風や鋳造技法などから、この薬師像の制作年代は同じ法隆寺金堂にある釈迦三尊像(623年)より時代的に下るとする説があり(福山敏男など)、疑問が多い。推古朝説の他には、天智朝説、天武・持統朝説などが知られている。

 

万葉集には「大王」の表記が最も多く57例が見られ、他に「王」、「皇」、「大王」、「大皇」が見られる。ただし、いずれもオオキミ”“オホキミと訓ませており、「王」を単一でキミと訓む例はない。キミに権威を背景とする君主を意味する「君」の字を当てた「大君」は、万葉集には柿本人麻呂が詠んだ「やすみしし我が大君」など数例が見えるのみである。橋本達雄は、記紀歌謡・万葉歌双方に見られるの表現を考察して、枕詞の「やすみしし」は全世界を統治する意で、天皇の称号と同様に道教の教理に基づいて案出されたものと説いている。

 出典 Wikipedia

2021/09/27

日本の伝統宗教・神道(3)

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

 

「神」が「生産力」、「生命力」という「力」であるということは、日本の「祭り」を見ればはっきりします。例えば山村の祭りでみると、春になると「山」に籠っていた神様を里に呼び出して「田の神」になってもらいます。これが春祭りです。そして秋になって、お疲れになった神様に収穫物の新鮮なものをお食べただいて、「山」でお休みしてもらうよう感謝の祭りをして送り出します。これが秋祭りの由来です。その他、何かがあると「呼び出して」行事をします。これは漁民でもかわらず、彼等の祭りは「大漁」を祈り、あるいは航海の安全を祈る物です。

 

 その「祭る」時は、神様が「宿る」ものを用意して、その「宿り」に宿ってもらうようしかるべく祈ります。その「宿ったもの」が「神」と認められるのです。この宿らせるものを「依代(よりしろ)」といいます。

 

一般には「」のような常緑樹が使われますが、とくに何でなければならないということはありません。岩を使っていたり、あるいは人形をつかうこともあります。そして、神は通常は「偉大なもの」に宿っているとされ、例えば大岩(この場合を「磐座(いわくら)」と呼びます)とか大木、山、川などがその座とされ、しめ縄でそうであることが示されています。もちろん「海」もそうなりますし、小さな「島」が「神」とされていることもあります。

 

このしめ縄というのは「その中には何者も入ってはならない」としたバリヤーみたいなものだと思って下さい。こんな具合に「神」というのは人々の繁栄の願いに基づき「祭られる」ものであって、人々の生活に密着して神との関わりの行事は「生活習慣」となっていたのです。ですから、現代でも、「ただの衣食住の場」でしかない都会をのぞき、多くの地方では「祭り」は一般庶民にとって「生活の柱」になっているのです。

 

人々は「祭り」を通して「地域社会の一員」であることを確認し、地域社会の一員として生活していくのです。これは多くの民族にも見られ、人々が「祭り」が大好きなのは、それがただの「馬鹿騒ぎ」とは違った、ある種の「生活のリズム・人生のリズム」を形成しているものであったからです。

 

 祭りばかりではありません。日本では例えば「家」を建てる時など、敷地の回りに竹を立て縄でグルリと囲んで真ん中に榊の木の枝を立てて、神主さんが榊で作ったハタキの大きなものを振っているのを見ることができます。

 

 また、何かというと神社にいって「お願い」をしたり、御札を買ったり、新車にお祓いをしてもらったりして、そんな具合に「根源の神道」は今に生きているのです。もちろん、家を建てたり、新車を買った時ばかりではありません。私たちは日常的にこの根源の神道と関わっているのです。日本人にとっての二大行事といえる「正月やお盆」というのは、もともと「根源的神道」の行事なのです。正月というのは「年神」を迎えるもので、お盆は「祖霊」を迎えるものです。ただし、お盆は後に仏教が「葬式」を管轄するようになったことから、「祖霊」も仏教が扱うとして「仏教の行事」のようになってしまいました。

 

 こういったものは生活習慣化しており、意識されませんが、しかし私たちは今述べたように、何かあると神社にいって、お賽銭をあげて何か頼みごとをする「意識的行動」をしています。子どもができるよう「お札」をもらい、できたらできたで安産のお守りを買って、生まれるとお宮参りにいき、7・5・3にも神社にお参りし、家を建てるに「地鎮祭」を行い、安全祈願のお祓いをしてもらい、受験となったら「合格祈願」の絵馬を掲げ、といった按配です。そして何かと神社にいっては「うまくいくようお願いこと」をしています。こんな具合に、私たちは私たちの一生の「始め」から神様に世話になり、死ぬ直前まで病気回復の祈願などで世話になって(死んでしまったら、今度だけはお寺ですけど)、一年を神の行事で過ごしているのです。

 

 他方で、「力」としての神が「悪く」出た場合には、人間に大きな災害をもたらします。これを「荒らぶる神」といいますが、この神様が落ち着いて静かにしていてもらうために「鎮の場所」として、神社におさまってもらっている場合があります。先程の菅原道真も、彼が不遇の中に死んだ時、天変地異がおきて雷が皇居に落ちるなどして、それが道真の霊魂のせいだということになって、その霊を鎮めるために彼を神として祭ったのが始めなのです。天から「雷」を落とした怨霊だったので、「天神」として祭られることになったというわけです。このように、日本の神というのは、善きにつけ悪しきにつけ、人知を超えた「」の象徴だったのです。

 

 また、この「力」、「生命力」、「生産力」という観念は、それに対する「畏怖」の感情をも持たせてくるわけで、「自然の偉大さ」に対する恐れと同時に畏敬の念も持たせます。

こうして自然に対する「祈願、感謝、恐れ、畏怖、畏敬」の念が混じりあった「自然崇拝」という宗教観念を生じさせました。私たち日本人の伝統的宗教観念とは、この「自然崇拝」であってといっていいでしょう。

 

 これを基盤としながら、一方で古来の日本人は「土地」にしがみついて、土地との関係で「神」を見、土地に関わった人間関係、集団として自分達を捕らえ、「土地」を中心に物事を考えていったのです。ですから、日本人にとっての「神」とは「家・村・集団」のものとなり、個人的にはほとんど意識されない神となったのです。こんな具合ですので、「神」といっても「人間的姿」でイメージされることは少なく、したがって、ギリシャの神々のような姿で「人格化」されることがほとんどなかったのです。

 

そうした日本人の宗教観念を、幾つかの代表的概念を説明することで見ていきたいと思います。この段階で現代の日本人も依然として古代日本人の血を脈々とうけついで、「日本の神」の下の住民であることがより明白になってくる筈です。

2021/09/20

ヤマト王権(3)

 

解釈

日本列島に住む人々が「倭・倭人」と呼称されるに至った由来には、いくつかの説があるが、いずれも定説の域には達していない。

 

平安時代初期の『弘仁私記』序には、ある人の説として倭人が自らを「わ」(吾・我)と称したことから「倭」となった、とする説を記している。一条兼良は、『説文解字』に倭の語義が従順とあることから、「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え(『日本書紀纂疏』)、後世の儒者はこれに従う者が多かった。

 

江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べている。現在でも、ピグミーマーモセットの中国語表記は「倭」で、倭は小ささを表す言葉である。

 

新井白石は『古史通或問』にて「オホクニ」の音訳が倭国であるとした。隋唐代の中国では、「韻書」と呼ばれる字書がいくつも編まれ、それらには、倭の音は「ワ」、「ヰ」両音が示されており、ワ音の倭は東海の国名として、ヰ音の倭は従順を表す語として、説明されている。すなわち、隋唐の時代から国名としての倭の語義は不明とされていた。

 

また、平安時代の『日本書紀私記』丁本においても、倭の由来は不明であるとする。さらに、本居宣長も『国号考』で、倭の由来が不詳であることを述べている。

 

神野志隆光は、倭の意味は未だ不明とするのが妥当としている。

 

悪字・蔑称説

江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べ、他にも「倭」を蔑称とする説もあるが、「倭」の字が悪字であるかどうかについても見解が分かれる。

 

『魏志倭人伝』や『詩経』(小雅、四牡)などにおける用例から見て、倭は必ずしも侮蔑の意味を含まないとする見解がある。それに対して「卑弥呼」や「邪馬台国」と同様に非佳字をあてることにより、中華世界から見た夷狄であることを表現しているとみなす見解もある。

 

なお、古代中国において日本列島を指す雅称としては、瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)という呼称がある。瀛州とは、蓬莱や方丈ともに東方三神山のひとつである。

 

倭の国々

冒頭で掲げたように、「」には現在の西日本および奈良盆地という2つの意味があるが、ここでは広義の「倭」、つまり西日本における小国分立時代の国々について若干ふれる。

 

『魏志』倭人伝にみられる「奴国」は、福岡市・春日市およびその周辺を含む福岡平野が比定地とされている。この地では、江戸時代に『後漢書』東夷伝に記された金印「漢委奴国王印」が博多湾北部に所在する志賀島の南端より発見されている。奴国の中枢と考えられているのが、須玖岡本遺跡(春日市)である。そこからは、紀元前1世紀にさかのぼる前漢鏡が出土している。

 

伊都国」の中心と考えられるのが糸島平野にある三雲南小路遺跡(糸島市)であり、やはり紀元前1世紀の王墓が検出されている。

 

紀元前1世紀代に、このような国々が成立していたのは、玄界灘沿岸の限られた地域だけではなかった。唐古・鍵遺跡の環濠集落の大型化などによっても、紀元前1世紀には奈良盆地全域あるいはこれを二分、三分した範囲を領域とする国が成立していたものと考えられる。

 

「朝廷」をめぐって

「朝廷」の語については、天子が朝政などの政務や朝儀と総称される儀式をおこなう政庁が原義であり、転じて、天子を中心とする官僚組織をともなった中央集権的な政府および政権を意味するところから、君主号として「天子」もしくは「天皇」号が成立せず、また諸官制の整わない状況において「朝廷」の用語を用いるのは不適切であるという指摘がある。

 

たとえば関和彦は、「朝廷」を「天皇の政治の場」と定義し、4世紀・5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張、鬼頭清明もまた、一般向け書物のなかで磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また継体朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として、「大和朝廷」の語は、継体天皇以後の6世紀からに限って用いるべきと説明している。

 

「国家」「政権」「王権」「朝廷」

関和彦はまた、「天皇の政治の場」である「朝廷」に対し、「王権」は「王の政治的権力」、「政権」は「超歴史的な政治権力」、「国家」は「それらを包括する権力構造全体」と定義している。語の包含関係としては、朝廷<王権<政権<国家という図式を提示しているが、しかし一部には「朝廷」を「国家」という意味で使用する例があり、混乱もあることを指摘している。

 

用語「ヤマト王権」について

古代史学者の山尾幸久は、「ヤマト王権」について、「4,5世紀の近畿中枢地に成立した王の権力組織を指し、『古事記』、『日本書紀』の天皇系譜では、ほぼ崇神から雄略までに相当すると見られている」と説明している。

 

山尾は、また別書で「王権」を、「王の臣僚として結集した特権集団の共同組織」が「王への従属者群の支配を分掌し、王を頂点の権威とした種族」の「序列的統合の中心であろうとする権力の組織体」と定義し、それは「古墳時代にはっきり現れた」としている。

 

いっぽう、白石太一郎は、「ヤマトの政治勢力を中心に形成された、北と南をのぞく日本列島各地の政治勢力の連合体」、「広域の政治連合」を「ヤマト政権」と呼称し、「畿内の首長連合の盟主であり、また日本列島各地の政治勢力の連合体であったヤマト政権の盟主でもあった畿内の王権」を「ヤマト王権」と呼称して、両者を区別している。

 

また、山尾によれば、

 

190年代-260年代 王権の胎動期。

270年頃-370年頃 初期王権時代。

370年頃-490年頃 王権の完成時代。続いて王権による種族の統合(490年代から)、さらに初期国家の建設(530年頃から)

という時代区分をおこなっている。

 

この用語は、1962年(昭和37年)に石母田正が『岩波講座日本歴史』のなかで使用して以来、古墳時代の政治権力・政治組織の意味で広く使用され、時代区分の概念としても用いられているが、必ずしも厳密に規定されているとはいえず、語の使用についての共通認識があるとはいえない。

 

「大和朝廷」

大和朝廷(やまとちょうてい)という用語は、次の3つの意味を持つ。

 

(1)律令国家成立以前に、奈良盆地を本拠としていた有力な政治勢力およびその政治組織。

(2)大和時代(古墳時代)の政府・政権。「ヤマト王権」。

(3)飛鳥時代、または古墳時代後半の天子(天皇)を中心とする、官僚制をともなった中央集権的な政府・政権。

 

この用語は、戦前においては1.の意味で用いられてきたが、戦後は単に「大和時代または古墳時代の政権」(2.)の意味で用いられるようになった。しかし、「朝廷」の語の検討や、古墳とくに前方後円墳の考古学的研究の進展により、近年では、3.のような限定的な意味で用いられることが増えている。

 

現在、1.の意味で「大和朝廷」の語を用いる研究者や著述家には武光誠や高森明勅などがおり、武光は『古事記・日本書紀を知る事典』(1999)のなかで、「大和朝廷の起こり」として神武東征と長髄彦の説話を掲げている。

 

なお、中国の史料も考慮に入れた総合的な古代史研究、考古資料を基礎においた考古学的研究における話題において「大和朝廷」を用いる場合、「ヤマト(大和)王権」などの諸語と「大和朝廷」の語を、編年上使い分ける場合もある。

 

たとえば、

 

      安康天皇以前を「ヤマト王権」、5世紀後半の雄略天皇以後を「ヤマト朝廷」 - 平野邦雄

      宣化天皇以前を「倭王権」または「大和王権」、6世紀中葉の欽明天皇以後を「大和朝廷」 - 鬼頭清明

 

など。

出典 Wikipedia

2021/09/17

日本の伝統宗教・神道(2)

  さて、今の問題とも関連しますが、日本人の神の在り方を説明するのによく引用されて有名なものに、西行法師が伊勢神宮(天皇家の祖先神が祭られている日本の代表的神社)に行った時の歌があるのですが、その内容は

 

「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」

 

つまり

 

「誰がいらっしゃるのか知らないけれど、なんとなく神々しくて涙がでるなあ」

 

などというものでした。

 

西行法師ほどの知識人(鎌倉時代を代表する歌人の一人。もともとは武士であり鳥羽上皇に仕えていたが、後に出家し諸国を遍歴した。1190年没)が、この伊勢神宮の神様(内宮が天照大神、外宮は豊受大神)を知らないとは絶対にあり得ないといえますが、ようするに西行法師が言いたかったことは、日本人にとって「」ということで大事なのは「名前」ではなく「神々しさ」なのだ、ということなのでしょう。天照大神といえば、天皇家の祖先神なのですから誰でも知っていて不思議はないのに、こう言われてしまうほどなのです。ですから一般庶民がここに祭られている神を知らなくても、あまりとがめられません。

 

 これは、すでに西行法師に先立つ「菅原孝標の娘」による『更級日記』(1020年から1058年までの日記)の中にもあり、そこでは

 

「常に天照御神を念じ申せ、という人あり、いずこにおわします、神・仏にかはなど……」

(いつも天照大神を拝みなさいという人がいるけれど、だけど、どこにいるんだろう……「神」なんだか「仏」なんだか?………)

 

などと言われています。

 

もちろん、ここは「以前は浅はかであった自分はこんな始末であったが、段々分別がついて、やがてどこそこの神と知れるようになったのだが……」という文脈ですから「全然知られない」というわけではないのですけれど、それにしても「分別がついて信心深くならなくては、知るにいたることはない」というのは「神」の存在の在り方としては、はなはだ頼りないといわなければならないでしょう。

 こんなのが古代の日本人の神意識であり、これは今日の私たちと全然変わらないとすら言えるでしょう。では日本人の心にある「」とは、いかなるものなのでしょうか。

 

 それは今紹介した、西行法師の歌に秘密が隠されています。すなわち、「名前」など知られなくてもよい、はっきり言ってしまえば「名前などなくてもよい」ものなのです。ということは、仮に「名前」が付けられて表現されても、それらの神々に本質的な区別などみられない、ということになります。

 

「神様ならそれでいい」のであって「誰」でなければならないという発想は持たれないということです。

 

 私たちも、神社にお参りに行った時「何の神様だから」ということを気にしているでしょうか。そんな人は多分、殆どいないでしょう。「何々の神」というのが、日本ではむしろ特殊な神様なのです。

 

それは人々の生活にひどく関係している場合、生じることもありますが一般的ではありません。このタイプで一番有名なのは「学問の神様」とされている「天神様」ですが、これはたまたまその天神様が人間であった時の菅原道真が学問の秀才であったからそうされてしまっただけで、彼が祭られたはじめから「学問の神」として祭られたわけではないのです。

 

彼は、貶められ裏切られて不遇のうちに死んだと考えられ、死んだ時に都に「雷」が落ちて災厄が生じ、それは彼の怨念による「祟り」だとされて「天神(雷をおとしたのだから)」として「神として祭り上げ」、静かにしていてもらおうとして「神格化」されたものです。それが後になって、彼の「学問に秀でていた」という特性がたまたま注目されて「学問の神」にされただけの話です。

 

同様の特性は、例えば商売の神とか何とかの神様にみられますが、これは全く本質的なのではなくて、偶然のことなのです。縁結びの神として有名な出雲大社にしても同様です。ここは本来、大勢力をもっていた「大国主神」を祭るというだけのことだったのですが、後代になって、たぶん彼の結婚話が有名だったせいでしょう、縁結びにされてしまっただけの話です。

 

 では日本の「神」において何が問題なのかというと、結論的に言うならば、神として「御利益」があるかどうかだけが問題だと言えます。「神として」ということは、人間には知られざること、人の手におえないことにたいして、「力」を貸してくれることが要求されているということなのです。「力」を貸してくれるなら誰であってもよく、誰々などということは問題にされないのです。要するに「人の力を超えたもの」であることだけが要求されているのです。ですから「神」でありさえすればいいのであって「誰」ということは問題にされないのです。

 

ただ、そうはいっても「力」として大きな方がいいとは思いますから、勢力の強い神社に行く、ということはあり、そのため有名になった神社が各地に「支社」を持つなどという現象も出てきます。つまり、こちらの方でも力を発揮して下さいと「呼ばれる」のです(これを「勧請(かんじょう)」といいます)。そのため全国各地に稲荷神社や天神様、熊野神社などが見られるわけです。

 

 つまり、日本人にとっての「」というのは「力の象徴」なのです。これはしかし、民族宗教の基本の在り方でした。「神」というのは「生命力・生産力の象徴」でした。日本の神は、この性格をずっと保ち続けている、世界でも稀な神なのです。

 

この「神」は私たちに「豊作」をもたらしてくれることが期待され、健康を保持してくれ、「子宝」を授け、家を繁栄させてくれること、「成功」が期待されています。何か困ったことが起きた時はそれを助けてくれ、苦難や悪がこないよう守ってくれることが期待されています。「困った時の神頼み」です。ですから、姿がはっきりしないのです。「力」であって、それ以上人格的な性格をもたないのですから当然です。祭る時は「何か」に「その力を宿らせる」ものなのです。それ自体としての姿など、もともと持っていないのです。

2021/09/16

ヘブライの神話(ヘブライ神話20)

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

  ヘブライの神話ですが、これは「聖書物語」などで一般にもよく紹介されますが、その内容は「天地の創造」、「人間の創造、つまりアダムとイヴの物語」、「ノアの洪水」、「農耕のカインと牧畜のアベルの闘争」、「バベルの塔」などが有名でしょう。ところがこのモチーフは、すべて先行するシュメール・バビロニアなどに存在していました。

 

 ヘブライ神話として有名な天地創造も、はるか以前のメソポタミア・シュメール時代からあり、これはバビロニアにも引き継がれて、中東では一般的な思考となっています。もちろん、それに伴って「人間の創造」もシュメール以来ありました。「ノアの洪水」も、シュメールの「ギルガメシュ叙事詩」にあります。「農耕と牧畜の対立」もバビロニア神話にあります。

 

 ですから、ヘブライ神話の「素材・モチーフ」に関しては、ヘブライ民族に特別独自とされるものは無いとまで言えるのであり、むしろその独自性はその「解釈」にあると言えるのでした。

 

 その解釈が「ユダヤ教」を生んでいくわけですが、時代的には紀元前六世紀から五世紀にかけて、「バビロン補囚」の後と言えます。ここで行われた解釈の第一歩が、口承で伝えられていた神話を整理することでした。しかし、この時当然と言うべきか口承の段階で神話は異説を生んでいるわけで、それをまとめるとなると異なった伝承が入り込み矛盾を生んできます。

 

これは「創世記」の始めに、もっとも良く観察されます。現在では、四種の口承がまじりあっているとされていますが、この細かな検討は専門書に任せて、私達としてはとりあえずその内容と、その精神とをみてみましよう。

 

ヘブライ神話

 ユダヤ教の教えの「核」となる「」、「世界」、「人間」についての基本的理解は、いわゆるヘブライ神話の「世界の創造神話」と「人間の創造と神への離反の物語」、また「アダムとイヴの物語」さらに「ノアの方舟の物語」といった神話が語ってきます。

 

1.「世界の創造」神話。

始め………形あるものはなにもなかった。……………神は「光あれ」といった。光が出現した。…………神は光と闇を分けた。光を「」と呼び、闇を「」と呼んだ。夕べとなり、朝となった。つまり、ここで神は一日一日を数える「時間」を作ったと解釈されます。

 

二日目……大空をつくる。ここからは、この宇宙の創造、つまり「空間」を作っていくと解釈されます。

 

三日目……大地と海を分け、大地に植物を生やす。

 

四日目……太陽と月、さらに星をつくる。

 

五日目……動物、魚、鳥をつくる。生物的生命の創造となります。

 

六日目……動物を種類に分け、家畜を類別する。…………人間をつくる。ここでやっと人間が作られました。

 

七日目……休息する。

 

 この天地創造説は、中東に一般的です。ここでも、それが踏襲されているわけです。問題は、その解釈・意味づけになります。

 

2.人間の原罪

 人間も神によって創造されたのに、神の言いつけを守らず禁止されたことを破ってしまいます(これが人間の原罪とされます)。そして「楽園から追放」されて地上で苦しまなければならないことになっているという、人間の罪と現状の物語が語られます。

 

 これは有名な「アダムとイヴの物語」となるわけですが、ここには「異説」が入り交じっていますが、とりあえず大筋は次ぎのようになります。

 

 神は「」を創造した。これが第一章では「男と女」とを創造したとあり(つまり同時)、その使命は神に代わって「すべての動物を治め支配するため」となっています。ところが、二章になると話が違ってきて、次のような段取りになってしまい、こちらの方が良く知られています。

 

 神が天地を創造した時、土を耕す人がいなかった。神は土(アーダーマー)から人(アーダーム)をつくって、その鼻に命の息を吹き込んだ。

 

その「人」を「エデンの園」に置いて、そこを耕させ守らせた。その園には、さまざまの実がなる木々があり、真ん中に「命の木」と「善悪を知る木」とが生えていた。神はその「善悪を知る実」は、決して食べてはならないと禁じた。

 

 神は「人」が一人でいるのはよくないと考え、その「助け手」を造ろうとして獣や鳥を造って「人」のところに連れていき、名前を付けさせた(これは一章での順序と異なる)。しかし、いい助け手が見つからなかったので神は「人」を眠らせ、そのあばら骨を取り出し、それでもう一人の「ひと」をつくった。その「ひと」は男(イーシ)から取られたゆえに女(イッシャー)と呼ばれるとされた。

 

 「」によって女が誘惑され「善悪の木の実」を食べてしまい、また男も誘われて食べてしまう。神に見つかり、それぞれ言い訳するが「呪い」を受ける事となる。蛇は腹ばいのまま進み、女に敵意をもって見られ、殺される事となる。女は産みの苦しみを持つこととなり、男に支配されることとなる。男は労働の苦しみを負う事となる。そして土、チリに帰らなければならない。女はイヴと呼ばれる事となる。

 

 神は人類が今度は「命の木」からも実を取って食べることを恐れ、エデンの園から追放した。

 

 以上が人間の誕生と現状の説明です、ここには、まずヘブライという砂漠の民の「苦難の人間の現状の説明」があります。自分たちは神の命令に違反して呪われ、追放されて砂漠をさまよわなくてはならなくなったというわけです。

 

他にもさまざまのことが含まれており、人間に関わる思想を見る上で非常に興味深い物語となっています。特に、人間がこの自然たる「動植物を管理する」という「人間の存在理由と使命」が語られ(これは東セム族の神話にもあり、セム族全体の考え方といえる)、同時に人間は「神の助け手」という「人間の特権的在り方」、さらに神の言いつけに背いた「人間の限界と罪」、「男が女を支配する」という性差別、「産みの苦しみと労働の苦しみ」という地上での苦難の必然性などが問題となります。

 

これらについては、後代のキリスト教思想においてさまざまに解釈されており、キリスト教の基本的な世界観・人間観を形成させていることが、とりわけ重要です。

2021/09/11

ヤマト王権(2)

語源

やまと」の語源は諸説ある。

 

      山のふもと。

      山に囲まれた地域であるからと言う説。この地域を拠点としたヤマト王権が、元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説。

      「やまと」は、元は「山門」であり、山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説。

      「やまと」は、元は「山跡」とする説。

      三輪山から山東(やまとう)を中心に発展したためとする説。

      邪馬台国の「やまたい」が「やまと」に変化したとする説。

      「やまと」は、元は温和・平和な所を意味する「やはと」、「やわと」であり、「しきしま(磯城島)のやはと」から転訛して「やまと」となり、後に「しきしま」がやまとの枕詞となったとする説。

      アイヌ語で、“ヤ”は接頭語、“マト”は讃称で、高貴を意味する“ムチ”や祥瑞を意味する“ミツ”等と同根の語とする説。

      ヘブライ語で「ヤ・ウマト」=「神の民」とする説。

 

用字の変遷

古墳時代頃に漢字文化が流入すると、「やまと」の語に対して「」の字が当てられるようになった。中国では、古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して「倭」と呼んでいたが、古墳時代に倭を「やまと」と称したこと[疑問点ノート]は、「やまと」の勢力が日本列島を代表する政治勢力となっていたことの現れとされる。

 

次いで、飛鳥時代になると「大倭」の用字が主流となっていく。大倭は、日本列島を代表する政治勢力の名称であると同時に、奈良地方を表す名称でもあった。7世紀後半から701年(大宝元年)までの期間に、国号が「日本」と定められたとされているが、このときから、日本を「やまと」と訓じたとする見解がある。

 

奈良盆地を指す令制国の名称が、三野が美濃、尾治が尾張、木が紀伊、上毛野が上野、珠流河が駿河、遠淡海が遠江、粟が阿波などと好字をもって二字の国名に統一されたのと同じく、701年には「倭国」を「大倭国」と書くようになったと考えられている。

 

奈良時代中期の737年(天平9年)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」へ戻された。

 

そして757年(天平宝字元年(818日改元))、橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。このとき、初めて「大和」の用字が現れた。その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。

 

古墳

大和古墳群がある。

 

その他

夜麻登(やまと)は国のまほろば~」とあるように、万葉仮名における当て字は夜麻登とも表記され、『古事記』における「ヤマトトトヒモモソヒメ」の漢字表記も、この夜麻登の方である(『紀』では、倭の一字でヤマトと読ませている)。

 

この他、『古事記』では、山跡とも表記される。『日本書紀』では、野麻登、椰麼等、夜麻苔などとも表記され、『万葉集』では、山常、也麻等、夜末等、夜万登、八間跡などなどの表記が見られる。

 

『日本書紀』の記述では、神武東征前に、この国々の中心となるだろうとして、「内つ国」と表記し、大和成立以前では「内つ国」と呼称されていた。

現代において、和文通話表で「や」を送る際に「大和のヤ」という。

 

倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音)韓国語でウェ)

 

紀元前から、中国各王朝が日本列島を中心とする地域、およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。和、俀とも記す。

 

「日本」の前身としての「倭」

については、中国正史で記述されている。後漢書倭伝や魏志倭人伝、晋書倭人伝、宋書倭国伝、南斉書倭国伝、梁書倭国伝、隋書倭国伝、北史倭国伝、南史倭国伝などに記述されている。

 

史書に現れる中国南東部にいたと思われる倭人や百越の人々を含んだ時代もあったという意見もある。中国人歴史学者の王勇によれば、中国の史書に現れる倭人の住居地は初めから日本列島を指すとしている。倭国の領域は、隋書や北史では、東西に五カ月で、南北に三カ月とされる。

 

倭(ヤマト国家)は、大王を中心とする諸豪族による連合政権であった。大王は、元来大和地方(現奈良県)の王(キミ)であったが、5世紀ごろから大王と呼ばれるようになった。

 

ヤマト国家では、有力豪族によって大王が擁されたり、廃されたり、場合によっては殺害されることもあり、実質は有力豪族たちによって運営されていた。そのため有力豪族同士の権力争いも絶えなかった。氏を持つ血縁を中心につながる一族が、身分(姓)を与えられていた(氏姓制度)。

 

日本』と言う国名は、大化の改新によって『天皇』という称号とともに使われるようになった。天智及び天武朝において始まったとされるが、いずれにしても7世紀後半のことである。

 

「倭」という呼称

『古事記』や『日本書紀』では、倭(ヤマト)日本(ヤマト)として表記されている。魏志倭人伝では、日本は邪馬台国と音文字で表記されている。また『日本書紀』では夜摩苔つまりʎia mwɑ  もしくはjia mo tʰaiと表記されていた。

 

奈良時代まで、日本語の「イ」、「エ」、「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致する。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる。ただし、古来、「と()」と「と()」は通用される例もあり、一概に否定はできない。

 

8世紀に「大倭郷」に編成された奈良盆地南東部の三輪山麓一帯が、最狭義の「ヤマト」である。同地は、椎根津彦を祖とする倭国造の本拠であった。なお、『日本書紀』には新益京(藤原京)に先だつ7世紀代の飛鳥地方の宮都を「倭京」と記す例がある。

 

737年(天平9年)、令制国の「ヤマト」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力の弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」の表記に戻された。そして757年(天平宝字元年)、橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。

 

「大和」の初出は『続日本紀』(天平宝字元年(75712月壬子(九日)「大和宿祢長岡」)である(但し、同書にはそれ以前に、追書と思われるものが数カ所ある)。

 

語義

倭の文字の変遷。下に行くにつれて古い。

解字

」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形。解字は「ゆだねしたがう」、「柔順なさま」、「つつしむさま」、また「うねって遠いさま」。音符の委は、「女」と音を表す「禾」で「なよやかな女性」の意。

 

用例

中国の古代史書で、日本列島に居住する人びとである倭人を指した。

説文解字では「従順なさま。詩経に曰く“周道倭(周への道は曲がりくねり遠い)”。」と解説されている。 康熙字典によれば、さらに人名にも使用され、例えば魯の第21代王宣公の名は「倭」であると書かれている。

 

『隋書』では俀とも記し、『隋書』本紀では「倭」、志・伝で「俀」とある。「俀」は「倭」の別字である可能性もあるが、詳細は不明である。

 

のち和と表記される。奈良時代中期頃(天平勝宝年間)から、同音好字の「和」が併用されるようになり、次第に「和」が主流となっていった。例えば鎌倉時代の徒然草には「和国は、単律の国にて、呂の音なし」(199)とあり、また親鸞も和国と記している。

 

出典 Wikipedia

2021/09/09

日本の伝統宗教・神道(1)

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

 日本人は「無宗教」であるなどといいますが、とんでもない話で、日本人ほど伝統的な宗教を守っている民族は他にないくらいなのです。ただ、その伝統的な宗教というのは「生活習慣」となってしまっており「宗教」として意識されるものではなくなっているのです。ですから私達は「無宗教」だと思いこんでしまったのですが、「無」なのではなくむしろ「無意識」的なものなのだと言えます。

 

実際、「生活習慣」は殆ど意識されませんが、それを形成しているのが日本の伝統的民族の宗教なのです。そこで、この章ではその「生活習慣となって、表面には隠れている日本の伝統の宗教」を見ていきます。

 

 その日本の伝統的宗教とは「神道」ではないか、と多くの人が思います。確かにそうではあるのですが、ただし、この神道というのは実体がはっきりしないのです。そこで整理してみますが、ここも様々な整理の仕方や命名の仕方があって、一様ではありません。とりあえず、以下のようにしておきます。

 

1.古神道

 「古い」というより、むしろ「根源」といったような意味です。これは一般民衆のレベルにあって「理論」などは存在せず、ようするに「自然崇拝」、「家・集団組織」の観念のもとに「祭儀」をおこなう場面のもので、これは宗教という意識をもたせず、むしろ人々の「生活習慣」となって現れてくるものです。この章で取り扱うのは、この場面のものとなります。

 

2. 大和朝廷の神道

 これは『古事記』、『日本書紀』の「神々の体系」と、それに基づく「神道組織」ですが、天皇支配の正当性と貴族たちの職能と位置付けを語ったものであり、「神話」という形で伝えられたため、しばしば「日本神話」と紹介されますが、民衆はほとんど内容も神のあり方も知りません。ですから、これはあくまで「朝廷のもの」という性格しか持っていないのです。ただし「朝廷のもの」ですから、当然これは朝廷によって日本全体のものとされて、「神社」の神の多くは、ここの神様たちとなります。

 

3. 学派神道

 これは伊勢神道とか吉田神道のように、神官が神道というものを思想化しようとしたもので、神社なりに「」というものの位置付けを試みたものです。しかし一般庶民は全く知らず、ただ神社やそれに関係する「神官・学者の論」でした。ただし、ここに神社の形成や発展史、社会的位置付けの論などがありますので、日本史学の方では重要視されています。また、江戸後期の本居宣長などの「復古神道」は日本神道の在り方を根本的に見ようとしたばかりでなく、国家神道との関係でも非常に重要な位置を占めています。

 

4. 教派神道

 これは明治時代になって、神道が「国家神道」として国家イデオロギーにされていったのに反発し、神道の「宗教性」を強調し「宗教教団」をつくっていったものを言います。大きなものに13派ありますが、私たちになじみのところでは「天理教」、「御岳教」、「大隅教」などが、この立場にあります(ただし、難しく言うといろいろ議論があります)

 

5. 国家神道

 この名前でまず理解されるのが、明治以来戦前までの「日本の政治イデオロギー」で、日本は「神の国」として世界の中心にあり、諸国はすべて日本の支配下にあるべきとした「日本国家主義・軍国主義」の思想的基盤です。この思想に基づいてアジアを一つにまとめようとしたのが「大東亜共栄圏」の思想で、こうして日本は太平洋戦争へと入って行ったとされます。

 

そのため大戦後この思想は廃棄され、天皇の「人間宣言」などが行われたのですが、現在でも「神道」というとこれが意味されることが多く、そのため「神道全体」が偏った見方をされています。というのも、現在でもこの思想を復活したいと考えている保守的な社会的リーダーが、たくさんいるからです。

 

6. 神仏習合の神道思想

 これは当初、仏教側が神道を取り入れ、自分の下に位置付けるために作り出した思想で、天台宗の立場のものとして「山王神道」、また真言宗の立場から「両部神道」などが説かれました。無論これに反論し、逆の立場で神道を論じる立場も生じています。いずれにせよ、日本の宗教意識を探る上で大事です。

 

 以上のように、ひと口で「神道」といっても、その意味内容は様々だといえます。一般に「神道」というとやはり「国家神道」がイメージされます。国家によって日本人全体に教育されてしまったからです。

 

しかし私たちに「なじみのもの」といえば、それはいうまでもなく「古神道」となります。これが「一般庶民」の神道であり、今日にまで私たちの生活習慣に深く根を下ろしているものです。「生活習慣」ですから、なかなか「宗教」とは意識されないのですが、そうした「習慣」を作り上げたのが、この「根源の神道」なのです。

 

 他の神道は、この「根源の神道」をベースにし、意識的に一部を強調したり、自分の主張に都合よく「改変したり」、「付け足したり」、あるいは「別途に物語を作って」形成したものです。しかし、「根源の神道」というのは一般庶民の生活習慣そのものですので、実際、「宗教として意識されない」ということがあります。このことは重要な意味をもっていますので、取り敢えずそういうこととして心にとめておいて下さい。ということは「神の姿も朧ではっきりしていない」ということを含んでいるからです。

 

現代の日本人にとって「日本の神」は、はっきりしていないというのは実感されているでしょうが、これは「現代」だからということではなく、「元来が」そういう性格なのだということなのです。日本の神というのは「世界一姿が隠れている神」なのです。

 

 こういうと、『古事記』や『日本書紀』の神々を引き合いに出して反論してくる人もいるでしょう。しかし、これは「古神道」とはいえません。むしろ、「大和朝廷の国家神道」であって、天皇家の由来とその支配の正当性、貴族たちの由来とその仕事・職分の位置付けが、その内容となっているのです。

 

つまり、ここでは「天皇はじめ貴族」の由来・職分が問題であったため、神々も「その先祖」として語られてくるのですが、それは、「天皇家の由来物語」に登場する主人公と脇役たちといった性格を持ち、決して「日本民衆」の神とは言えないのです。

 

つまり、『古事記』や『日本書紀』の神々とは「朝廷の由来を語るもの」でしかなく、実態として日本人の中に「生きている」神ではないのです。むろん、朝廷の先祖ですから「神々として祭られる」ということになりましたが、一般の庶民はほとんどその神々を知りません。

 

「支配者の思想」ですから、被支配者たる一般庶民に影響しなかった筈はないのですが、この始末なのです。これは「現代だから」なのではなく、大昔からなのです。したがって、この『古事記』の神は別に取り扱われねばならない問題だ、としなければならないでしょう。

2021/09/02

ヤマト王権(1)

ヤマト王権とは、3世紀から始まるとされる古墳時代に「王」(きみ)や「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国の首長を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織。(今の大阪平野や奈良盆地などの大和地方、または邪馬台国九州説では九州)の国が、まわりの国を従えた。

 

旧来より、一般的に大和朝廷と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」、「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめた。

 

本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について、解説する。

 

呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」、「ヤマト政権」、「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代以降の大王/天皇を中心とした日本の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。

 

ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方で「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。

 

名称について

1970年代前半ころまでは、4世紀ころから6世紀ころにかけての時代区分として「大和時代」が広く用いられ、その時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力として「大和朝廷」の呼称が一義的に用いられていた。

 

しかし1970年代以降、重大な古墳の発見や発掘調査が相次ぎ、理化学的年代測定や年輪年代測定の方法が使用され、一般にその精度が向上されたと評価されたために古墳の編年研究が著しく進捗し、「大和」、「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が現れ、その見解が日本国での歴史学の学会などで有力になり、そのため「大和時代」ではなく、かわって「古墳時代」と呼称するのが日本国での日本史研究および日本国での高等教育では一般的となってい。

 

しかし、年輪年代測定や放射性炭素年代測定は、実際には確立した技術と呼べる段階に至っておらず、その精度や測定方法の欠点・問題点などが多くの研究者からも指摘されているため、現在でも古墳時代の3世紀開始説に対する根強い反対も存在する。

 

古墳研究は文献史学との提携が一般的となって、古墳時代の政治組織にもおよび、それに応じて古墳時代の政権について「ヤマト王権」や「大和政権」等の用語が使用され始めた。1980年代以降は「大和政権」、「ヤマト政権」、それが王権であることを重視して「ヤマト王権」、「大和王権」と記述されるようになる。

 

しかし「大和朝廷」も一部の研究者によって使用されている。これは、「大和(ヤマト)」と「朝廷」という言葉の使用について、学界でさまざまな見解が並立していることを反映している。

 

2020年現在、メディアでは「政権」や「王権」の表記もあるが、「朝廷」も使用されており統一されていない。

 

「大和」をめぐって

大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず「倭(ヤマト)」として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。

 

その後、701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は二文字とすることになって大倭となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、大和へと変化していく。

 

同年に施行(仲麻呂の提案による)された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる。

 

「大和(ヤマト)」は

 

      国号「日本(倭)」の訓読(すなわち、古代の日本国家全体)

      令制国としての「大和」(上述)

      奈良盆地東南部の三輪山麓一帯(すなわち令制大和国のうちの磯城郡・十市郡、倭国造)

       

の広狭三様の意味をもっており、最も狭い3.のヤマトこそ出現期古墳が集中する地域であり、王権の政権中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ令制大和国(2.)をただちに連想する「大和」表記よりも、3.を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。

 

白石太一郎はさらに、奈良盆地・京都盆地から大阪平野にかけて、北の淀川水系と南の大和川水系では古墳のあり方が大きく相違していることに着目し、「ヤマト」はむしろ大和川水系の地域、すなわち後代の大和と河内(和泉ふくむ)を合わせた地域である、としている。すなわち、白石によれば1.3.に加えて、4.大和川水系(大和と河内)という意味も包括的に扱えるので、カタカナ表記の「ヤマト」を用いるということである。

 

一方、関和彦は「大和」表記は8世紀からであり、それ以前は「倭」、「大倭」と表記されていたので、4,5世紀の政権を表現するのは倭王権、大倭王権が適切であるが、両者の表記の混乱を防ぐため「ヤマト」表記が妥当だとしている。一方、上述の武光のように「大和」表記を使用する研究者もいる。

 

武光によれば、古代人は三輪山の麓一帯を「大和(やまと)」と呼び、これは奈良盆地の「飛鳥」や「斑鳩」といったほかの地域と区別された呼称で、今日のように奈良県全体を「大和」と呼ぶ用語法は、7世紀にならないと出現しなかったとする。纒向遺跡を「大和朝廷」発祥の地と考える武光は、纒向一帯を「古代都市『大和』」と呼んでいる。

 

大和(やまと)は、日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。

 

ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。

 

範囲の変遷

元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国を大和国とした。

 

さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。

 

出典 Wikipedia