2021/10/26

ヤマト王権(7)

「ヤマト王権」と邪馬台国の関係

吉村武彦は、『岩波講座 日本通史第2巻 古代I』のなかで「崇神天皇以降に想定される王権」を「大和王権」と呼称しており、初期大和王権と邪馬台国の関係について「近年の考古学的研究によれば、邪馬台国の所在地が近畿地方であった可能性が強くなった。しかしながら、歴史学的に実証されたわけではなく、しかも初期大和王権との系譜的関係は、むしろ繋がらないと考えられる」と述べている。

 

吉村は「古墳の築造が政権や国家の成立を意味するのかどうか、問題をはらんでいる」と指摘し、古墳の所在地に政治的基盤を求める従来の視点には再検討が必要だと論じている。

 

その論拠として、記紀には王宮と王墓の所在地が離れた場所にあることを一貫して記しており、また特定地域に影響力を行使する集団の首長が特定の小地域にしか地盤を持たないのだとしたら、記紀におけるような「歴代遷宮」のような現象は起こらないことを掲げており、むしろ大和王権は特定の政治的地盤から離れることによって、成立したのではないかと推測する。

 

前方後円墳の出現時期の早い遅いにかかわらず、大和王権の成立時期ないし行燈山古墳(現崇神陵)の出現時期とは数十年のズレがあるというのが、吉村の見解である。上述の山尾の指摘と併せ、今後検討していくべき課題といえる。

 

九州王朝説

弥生中期から、卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあった。しかし存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において学界は「決定的な根拠に欠けている」としている。

 

なお、これをさらに発展させ九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、学界からは根拠が薄いとされている。

 

多元王朝説・二朝並立説

九州王朝説とは別に、九州の邪馬台国と畿内の大和王権の二朝並立を唱える説、その他古代出雲や吉備にも一定勢力が存在した、と考える多元王朝説もある。二朝並立説では、大和王権が邪馬台国から分岐独立後に勢力を拡大させ、本宗であった邪馬台国を滅ぼしたとする説がある。

 

王権の展開

前方後円墳体制(古墳時代前期前半)

文献資料においては、上述した266年の遣使を最後に、以後約150年近くにわたって、倭に関する記載は中国の史書から姿を消している。3世紀後半から4世紀前半にかけての日本列島は、したがって金石文も含めて史料を殆ど欠いているため、その政治や文化の様態は考古学的な資料をもとに検討するほかない。

 

定型化した古墳は、遅くとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域が、ヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代が始まり、本格的に古墳が営まれることとなった。

 

以下、古墳時代の時期区分としては通説のとおり、次の3期を設定

 

古墳時代前期 … 3世紀後半から4世紀末まで

古墳時代中期 … 4世紀末から5世紀末

古墳時代後期 … 6世紀初頭から7世紀前半

 

この区分をさらに、前期前半(4世紀前半)、前期後半(4世紀後半)、中期前半(4世紀末・5世紀前半)、中期後半(5世紀後半)、後期前半(6世紀前半から後葉)と細分して、以下の節立てをこれに準拠させる。後期後半(6世紀末葉・7世紀前半)は政治的時代名称としては飛鳥時代の前半に相当する。

 

崇神天皇陵に比定されている行燈山古墳(4世紀前半)

古墳には、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳など様々な墳形がみられる。数としては円墳や方墳が多かったが、墳丘規模の面では上位44位まではすべて前方後円墳であり、最も重要とみなされた墳形であった。前方後円墳の分布は、北は山形盆地・北上盆地、南は大隅・日向に及んでおり、前方後円墳を営んだ階層は、列島各地で広大な領域を支配した首長層だと考えられる。

 

前期古墳の墳丘上には、弥生時代末期の吉備地方の副葬品である特殊器台に起源を持つ円筒埴輪が立て並べられ、表面は葺石で覆われたものが多く、また周囲に濠をめぐらしたものがある。副葬品としては三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの青銅鏡や碧玉製の腕輪、玉(勾玉・管玉)、鉄製の武器・農耕具などがみられ、全般に呪術的・宗教的色彩が濃く、被葬者である首長は各地の政治的な指導者であったと同時に、実際に農耕儀礼を行いながら神を祀る司祭者でもあったという性格を表している(祭政一致)。

 

列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、前方後円墳という王と同じ型式の古墳造営と、首長位の継承儀礼を行ってヤマト政権連合に参画し、対外的に倭を代表し、貿易等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給を受け、貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられる。

 

ヤマト連合政権を構成した首長の中で、特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。毛野地域とくに上野には大規模な古墳が営まれ、重要な位置を占めていた。また九州南部の日向や陸奥の仙台平野なども重視された地域であったが、白石太一郎はそれは両地方がヤマト政権連合にとって、フロンティア的な役割をになった地域だったからとしている。

 

七支刀と広開土王碑(古墳時代前期後半)

4世紀後半に入ると、石上神宮(奈良県)に伝わる七支刀の製作が、銘文により369年のこととされる。356年に馬韓の地に建国された百済王の世子(太子)が倭国王のためにつくったものであり、これはヤマト王権と百済の王権との提携が成立したことを表す。なお、七支刀が実際に倭王に贈られたことが『日本書紀』にあり、それは干支二順繰り下げで実年代を計算すると、372年のこととなる。

 

いずれにせよ、倭国は任那諸国とりわけ任那(金官)と密接な関わりを持ち、この地に産する鉄資源を確保した。そこは、また生産技術を輸入する半島の窓口であり、勾玉、「倭式土器」(土師器)など、日本列島特有の文物の出土により、倭の拠点が成立していたことが確認された。

 

一方、半島北部では満州東部の森林地帯に起源を持つツングース系貊族の国家高句麗が、313年に楽浪郡・帯方郡に侵入してこれを滅ぼし、4世紀後半にも南下を続けた。中国吉林省集安に所在する広開土王碑には、高句麗が倭国に通じた百済を討ち、倭の侵入をうけた新羅を救援するため、400年と404年の2度にわたって倭軍と交戦し、勝利したと刻んでいる(倭・倭人関連の朝鮮文献)

 

この時期のヤマト王権の政治組織については、文献記録が殆ど皆無であるため、朝鮮半島への出兵という重大事件があったことは明白であるにもかかわらず、将兵の構成や動員の様態を含め不詳な点が多い。しかし、対外的な軍事行動を可能とするヤマトの王権の基盤が、既に整っていたことが理解できる。

出典 Wikipedia

2021/10/24

日本の伝統宗教・神道(6)

集団主義、つまり個人は問題とならない

 短所としては、すでに「外」に対する「排他性」を指摘しておきましたが、他にもあります。すなわち、人の評価を「個人の人格、能力」で判断するのではなく、その人が「属している集団」で判断するということです。たとえば「東大生である」と聞いただけで「立派な人」と思い込んでしまいます。本当は傲慢で立身出世主義の冷たい人間であって、能力もただの暗記得意人間であることもあるのですが、なかなかそれを認めようとはしません。「どこそこ出身」といった時の「どこそこ」だけが問題にされ、「その人個人」は問題にされないのです。

 

 また、そういう判断になるのは、内部的に「均一」と思われているからなのであって、これは実際そう要請されているものなのです。「集団内」の人間は、その集団の「構成員」としてあるのであって「何の某」としてあるのではありません。いってみれば「集団の歯車」なのです。そして歯車なのですから、一人一人は「一個一個」として「管理」されることになります。そうであって、集団の名前が「個人」を表し得るのです。

 

この「管理」という性格は「集団主義」と切っても切れません。なぜなら、そうして始めて「決められた所に決められたように嵌まっている」という「秩序」が形成し得るからです。これを「」といいます。ですから、日本人は自分の個性や主張をなかなか表に出しません。でしゃばるな、和を崩すな、という教えが厳然と生きているのです。

 

4、日本的倫理。

日本人の美徳観、誠・清明心

 以上のように、日本では「己を押さえて集団に殉ずる」ということが美徳となってきます。自己主張せず、己の願望や考えなどは捨て、一途に「集団のため」をのみ考え、そのためにのみ働き、集団のためとあらば「泥」をかぶり、あえて「死」をも選び取る、というのが最高の「美徳」なのです。「」というのは、そうした「集団への従順の心」をいい、「清明心」というのも「集団に対して、心に疚しいところはない」という意味なのでした。

 

縦型社会の秩序としての和

 今、言及した「和」というのも「内なるものとして」であるのはいうまでもありません。「外」は敵となります。また「和」というのは集団の秩序ということであって「集団は家族」にたとえられますが、本家のお父さんが一番上で、それに弟やおじさんたちがおり、子供たちがいて、使用人がいます。集団は、このように「縦型社会」となっております。

 

 一方で、そのそれぞれの階級のものは横一線でなければなりません。その線を上に出ることは許されないのです(出る杭は打たれます)。ですから、どんなに能力があっても「若造」が上にいくことなど許されません。「年功序列」が、この社会の秩序なのです。

 

一方、しばしばこの「和」というのは「全体責任」という形になっても現れてきます。昔の武士の家のように、誰かが不始末をしたら一族すべてが罪に問われ切腹させられたり追放されたりしたあれですが、今日では驚くべきことに「学校」に一番よく残っています。いわゆる「班」というやつで、その班の中の一人が忘れ物をしたり何か問題をおこしたら、班員全員が責任を問われるというものです。

 

村八分

 そしてこの「和」は、それに触れたものを「村八分」にするという形の「刑罰」となって現れます。この村八分というのは、知っての通り村人の誰かが村の掟に背いた時に行われる「制裁」です。「八分」というのは当て字で語義は「はじく」だろうといわれていますが、簡単にいってしまえば「仲間外れ」ということです。

 

これは日本人には徹底的にこたえるもので、村落では「生き死に」に関わってしまいます。今でもそうで「いじめ」は、こういう形で行われています。仲間にいれないどころか「無視」してしまうというわけです。そしてこの「村八分」は明確な罪がなくても、能力、姿・形、身体的特徴、などなど「集団からはみでている」と見なされただけで行われてしまいます(本人にはよく分からないのに、集団、ないしそのリーダーの気に障る、という理由だけで行われ得、それは今日のいじめと変わりません)。

 

また、これは上の全体責任の裏返しみたいなところがあって、「個人的恨み」を全体で担わせて「個人の責任」を回避しようという卑劣な心もあり(とりわけ現代の「いじめ」に観察される)困った精神が作られてしまったのです。

 

禊(みそぎ)と祓い(はらい)

 「村八分」があるということは「悪」とみなされるものがあるということですが、これに関わって、現代の私たちも良く知っている「禊と祓い」という概念があります。これは要するに「悪を除く」ということですが、日本にはキリスト教的な意味での「罪」すなわち「人間そのものが抱えている本来的罪」といった考え方はありません。人間はそれ自体としては「清らかで優れたもの」だとします。

 

しかし、それに「汚れ」が降り懸かって「悪く、不浄に」なるのだと考えています。ですから、その「悪」を振り払えば「きれい」になると考えます。その汚れが一つには生命力の枯渇としての「死」であり、その前段階としての「病気」あるいは生命を脅かす「災い」などが悪です。これらは「不浄」なものと認識されます。禊ぎというのは「水や火」で「身をそそいで清らかに」するためであり、「祓い」というのは文字通り「はらいのける」ものだと考えていていいです。

 

「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」

 今の不浄の概念と関係して「ハレ」と「」という概念があります。また、これに加え「ケガレ」という概念があります。「ハレ」というのは、今日でも「ハレ着」という言葉に残り、ケガレはそのまま「けがれている」、「けがらわしい」などという言葉に残っています。この時の「ケ」というのは「力・生産力」を表す「気」であると考えられ、「ケガレ」というのは、この「気が枯れた」という意味であろうとされます。「気が枯れた」時に、これを回復させるために行われるのが「ハレ」の日の行事としての「祭り」だというわけです。

 

祟り

 ですから、こうした祭りをとどこおりなく行わなかった場合や、神に対する侵犯などがあると「祟り」が生ずると考えられました。この祟りというのは日本の場合、非常に強く意識され、神信仰の動機の一つとなっているほどです。それは「災厄」となって現れるのが本来ですが、これが後には個人の霊の祟りまで考えられ、これを鎮めることが重要なこととなり「御霊信仰」などを形成させて行きました。

2021/10/21

インド神話(1)

インド神話はインドに伝わる神話であり、特にバラモン教、ヒンドゥー教、仏教に伝わるものを指す。

 

成立時期や伝承者の層などによって様々な神話があるが、概ねヴェーダ神話がバラモン教に、叙事詩・プラーナ神話がヒンドゥー教に属し、ブラーフマナ・ウパニシャッド神話が、その両者を繋ぐものと考えられている。

 

以下、ヴェーダ神話とブラーフマナ・ウパニシャッド神話、叙事詩・プラーナ神話の3つに大別して概説する。

 

ヴェーダ神話

古代インドの聖典であるヴェーダの1

読んで字の如くヴェーダ文献に基づく神話であり、アーリア人がインドに持ち込んだインド・ヨーロッパ語族共通時代に遡る、古い自然神崇拝を中心とする。紀元前1500年頃から紀元前900年ごろに作られた最古のヴェーダ文献である『リグ・ヴェーダ』(神々の讃歌)には、未だ一貫した世界観を持つ神話は現れていない。

 

ヴェーダ神話の初期においては、神々はデーヴァ神族とアスラ神族とに分類されている。デーヴァは現世利益を司る神々とされ、人々から祭祀を受け、それと引き換えに恩恵をもたらす存在とされた。代表的なデーヴァは雷神インドラであり、実に『リグ・ヴェーダ』全讃歌の4分の1が彼を讃えるものである。

 

一方、アスラは倫理と宇宙の法を司る神々で、恐るべき神通力と幻術を用いて人々に賞罰を下す者として畏怖された。代表的な神は、ヴァルナである。アスラは『リグ・ヴェーダ』初期においては、必ずしも悪い意味で用いられなかったが、デーヴァ信仰が盛んになるにつれて、信仰が衰えていった。さらに、ヴァルナをはじめ有力なアスラ神がデーヴァとされるようになり、遂に『リグ・ヴェーダ』の中でも末期に成立した部分では、神々に敵対する悪魔を指すようになった[要出典]

 

『リグ・ヴェーダ』にはまた、若干の創造神話が見られる。創造神ブリハスパティ(Brahmanaspati)やヴィシュヴァカルマンによる万物創造を説く讃歌の他、創造神がヒラニヤ・ガルバ(黄金の胎児)として原初の水の中にはらまれて出現したとする説、神々が原人プルシャを犠牲として祭祀を行い、世界を形成したという巨人解体神話などが説かれている。

 

ブラーフマナ・ウパニシャッド神話

ブラーフマナ(祭儀書)文献とは、ヴェーダ本文であるサンヒター(本集)の注釈と祭儀の神学的意味を説明するもので、広義のヴェーダ文献の1つ。ここでは創造神プラジャーパティを最高神とし、彼による種々の創造神話が説かれている。しかし、次第に世界の最高原理ブラフマンの重要性が認められるようになった。やがてブラフマンは人格神ブラフマーとして描かれ、彼による宇宙創造が説かれるようになった。

 

ブラーフマナ文献中にはまた、祭式の解釈と関連して人祖マヌと大洪水神話、アスラの3つの砦を1本の矢で破壊する暴風神ルドラ(シヴァの前身)の説話など、かなりまとまった形の神話が散見され、後のヒンドゥー神話・文学に多大な影響を与えている。

 

ウパニシャッド(奥義書)も広義のヴェーダ文献の1つで、ヴェーダ文献の最後に成立した事からヴェーダーンタ(ヴェーダの末尾)ともいう。神秘的哲学を説くもので、特にアートマンとブラフマンの本質的同一性(梵我一如)を説く部分は、後のインド神話の世界観に大きな影響を与えた。

 

叙事詩・プラーナ神話

ヒンドゥー教の神話のうち代表的な文献は、二大叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』である。

 

『マハーバーラタ』は、18編約10万詩節よりなる大作である。バラタ族の内紛・大戦争を主筋とし、その間におびただしい神話・伝説が挿話として説かれている。一方『ラーマーヤナ』は724000詩節よりなり、ラーマ王子の冒険を主筋とする。『マハーバーラタ』よりは一貫した文学作品ではあるが、やはり主筋の間に多くの重要な神話・伝説を含んでいる。

 

この二大叙事詩は、いずれも400年頃に現在の形にまとめられたと推定されているが、その原形が成立したのはそれよりも遥か以前に遡ることは確実である。さらに後代になると、幾多のプラーナ(古伝)文献が作られた。これは百科全書的な文献であり、その中に多数の神話・伝説を含んでいる。二大叙事詩とプラーナ聖典の神話は、今日に至るまで広く民衆に愛され、文学・芸術作品の題材とされてきた。

 

この時代の神話で最も重視されている神々は、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァで、三神一体の最高神とされる。

 

ブラフマーは、ブラーフマナ・ウパニシャッドでは宇宙の最高原理であったが、その抽象的な性格のせいか庶民の間では広く信仰の対象とはならなかった。

 

ヴィシュヌは『リグ・ヴェーダ』にも登場し、元来太陽の光照作用を神格化したものと考えられる。しかし、この時代の神話では世界の維持を司る神であり、また10の姿(ダシャーヴァターラ)に変身して世界を救う英雄神でもある。

 

シヴァは『リグ・ヴェーダ』の暴風神ルドラを前身とする破壊神である。性器崇拝や黒魔術など非正統派の民間信仰と習合し、ヨーガの達人、舞踏神、魔物の王などの複雑な性格を持つに至った。

出典 Wikipedia

2021/10/17

ヤマト王権(6)

邪馬台国連合と纒向遺跡

白石太一郎は、「邪馬台国を中心とする広域の政治連合は、3世紀中葉の卑弥呼の死による連合秩序の再編や、狗奴国連合との合体に伴う版図の拡大を契機にして大きく革新された政治連合が、3世紀後半以後のヤマト政権にほかならない」と述べている。

 

その根拠として奈良県の纒向遺跡が、当時の畿内地方にあって小国連合の中枢となる地であったとしている。この遺跡は、飛鳥時代には「大市」があったといわれる奈良盆地南東部の三輪山麓に位置し、都市計画の痕跡とされる遺構が認められ、運河などの土木工事もおこなわれており、政治都市として祭祀用具を収めた穴が30余基や祭殿、祭祀用仮設建物を検出し、東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびに、ごく少数ながら北部九州の土器が搬入されており、また広がりの点では国内最大級の環濠集落である唐古・鍵遺跡の約10倍、吉野ヶ里遺跡の約6倍におよぶ7世紀末の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で、多賀城跡の規模を上回る可能性があるとしている。武光誠は、纒向遺跡こそが「大和朝廷」の発祥の地としている。

 

纒向石塚古墳など、帆立貝型の独特な古墳(帆立貝型古墳。「纒向型前方後円墳」と称する)は、前方後円墳に先だつ型式の古墳で、墳丘長90メートルにおよんで他地域をはるかに凌ぐ規模をもち、また山陰地方(出雲)の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓など、各地域の文化を総合的に継承しているとする。白石太一郎は、吉備などで墳丘の上に立てられていた特殊器台・特殊壺が採り入れられるなど、吉備はヤマトの盟友的存在として、重要な位置を占めていたとしている。

 

邪馬台国九州説の立場から見た纒向遺跡

しかし魏志倭人伝によれば、邪馬台国は糸島に比定される伊都国の南にあり、伊都国に一大率を置き諸国を検察したとされ、九州でしか出土していない鉄器や絹を産するとされており、また海に近く海人が海産物を採取していた記載がある。さらに、纒向遺跡の出土遺物は九州、朝鮮由来の物が乏しく、倭人伝に書かれる大陸との活発な交易の跡が見られず、また遺跡自体が海と離れた内陸部にある。

 

奈良県立橿原考古学研究所の関川尚功は、朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、『魏志倭人伝』にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。

 

また糸島の平原遺跡から出土し、三種の神器の八咫の鏡と同じ大きさと様式で関連が問題となる大型内行花文鏡の出土があり、邪馬台国の有力な候補地である久留米には、無槨有棺で殉葬跡との説もある多数の集団墓・甕棺を持ち、規模や形状も記録に近いとされる祇園山古墳の存在からも、邪馬台国九州説も依然として有力である。この説を取る場合、邪馬台国と畿内で発達したヤマト政権の関係において、九州にある邪馬台国が滅亡したのか、あるいは神話の如く畿内に東遷してヤマト政権となったのかが問題となる。

 

ヤマト「王権」の成立

ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現と、その広がりを基準とする見方が有力である。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末、4世紀前葉など若干の異同はある。ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる一方、大王を中心とした中央集権国家であったと見る意見もある。

 

3世紀後半ごろ、近畿はじめ西日本各地に大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳もしくは前方後方墳で、竪穴式石室の内部に長さ数メートルにおよぶ割竹形木棺を安置して遺体を埋葬し、副葬品の組み合わせも呪術的な意味をもつ多数の銅鏡はじめ武器類をおくなど、墳丘、埋葬施設、副葬品いずれの面でも共通していて、きわめて斉一的、画一的な特徴を有する。これは、しばしば「出現期古墳」と称される。ただし炭素年代測定や年輪年代学の技術的欠点や、測定値と文献記録との大きな乖離などからも、従来の土器編年に基づいた4世紀出現を唱える意見もある。

 

箸墓古墳(北西方向から)

こうした出現期(古墳時代前期前半)の古墳の画一性は、古墳が各地の首長たちの共通の墓制としてつくり出されたものであることを示しており、共同の葬送もおこなわれて首長間の同盟関係が成立し、広域の政治連合が形成されていたと考える意見がある。その広がりは東海・北陸から近畿を中心にして、北部九州にいたる地域である。

 

一方、上述のように4世紀頃は崇神天皇の在位年代と重なるものと見られており、同朝の四道将軍説話や、続く景行天皇朝の倭建命の東国遠征の経路上に纏まって古墳が出現することから、地域連合ではなく中央豪族を各地に首長(国造)として派遣したために広がったものとする意見もある。

 

出現期古墳で墳丘長が200メートルを超えるものは、奈良県桜井市に所在する箸墓古墳(280メートル)や天理市にある西殿塚古墳(234メートル)などであり、奈良盆地南東部(最狭義のヤマト)に集中し、他の地域に対し隔絶した規模を有する。このことは、この政治連合が大和(ヤマト)を中心とする近畿地方の勢力が中心となったことを示している。この政権を「ヤマト政権」もしくは「ヤマト王権」と称するのは、そのためである。また、この体制を政権の成立を画一的な前方後円墳の出現を基準とすることから「前方後円墳体制」と称することがある。

 

「王位」「王権」「王統」

山尾幸久は、「3世紀後半の近畿枢要部に『王位』が創設された公算は大きいが、これを『王権』と呼べるかどうか。まして既に『王統』が実在したのかどうかは今後の研究に委ねられている」と説明しており、「ヤマト王権」の用語の使用について慎重な立場を示している。山尾自身は「王権の確立は雄略の時代、王統の確立は欽明の時代には認められる」との見解を示しているので、このような観点も含めた体系的な国家形成史の研究が求められる。

出典 Wikipedia

2021/10/15

日本の伝統宗教・神道(5)

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

3.神と地域性、シマ、氏神と氏子、集団帰属性

 今、祭りをみたわけですが、この「祭り」にもう一つ大きな特色がみられます。それは「地域性」ということです。祭りは、一定の地域に限定されるのです。ということは「神様」も地域限定性があるということなのです。これは日本の古神道に特徴的なこととして、理解しておく必要があるでしょう。

 

もちろん「天皇家の神」は日本全体に及ぶとしますが、それは天皇が日本全体を支配領域とするからで、しかしだからといって各地方の神がなくなるということにはなりません。地方毎に別にその地域を支配する神がおり、これは限りなく「細分化」します。ですから「神様の数」も限りなくなってしまうのです。その神様の力は、自分の領域の外には及ばないのです。

 

 この、神がその「領域を占める」働きのことを「シル」といいますが、これは要するに注連縄を張って境界の限定された空間(シマ、クニ)を示し、それを自分の地として「占めて」他者の侵入を許さない、という意味となります。分かりやすくいえば「縄張り」のことです。日本の神というのは、こうした「縄張り」をもっているということです。

 

 こうした構造をはっきり示しているのが「氏神」、「氏子」という概念であり、ある地域にはその地域の守り神として「氏神」がおり、その住民はその地域の神の「氏子」として認識されます。そして「氏神」は、その地域の「氏子によってのみ」祭られ、その氏子にのみ恵みを与えるということになっています。この関係にはっきりみられるように、日本の神は「家族、一族、部族」の神という性格が強いのです(ただし、これは文字通り血縁的一族と限定されるわけではなく、土地に結び付けられた集団とみなしていいです)

 

 この、本来は「氏族の神」であったと考えられる「氏神」は「土地」に絡むことから「産土神」と同化し、また「土地の守護神」である「鎮守の神」とも同化し「その土地を守り、豊かさをもたらす」という理解となっていきました。ですから、他の神に属している者に対しては、自分達の集団の人間として受け入れるということはしません。神は「自分とは違った神の氏子」によって祭られたところで喜ぶ筈がなく、したがって恵みを与えてやることもない筈だからです。

 

これは「意地悪」でそうしているのではなく、「地域のものとして各人は認識される」という、日本人の「人間観」ですので、なかなかなくなりません。つまり、人間を集団の一員として見、個人として見るという見方がないのです。

 

 何故「氏子」ということが大切なのかというと、集団を維持・繁栄させることが日本の神の使命ですから、集団構成員はその「神への帰属意識」を持つことが要請され、それに拘るからです。これが「社会倫理」とされます。日本人の「群れたがる」性格は、こんなところに原因があり、何をするにも「仲間と一緒」にし、思い切ったことは「集団でなければ」やれない、という性格を持っているのもここに原因があります。

 

「仲間意識」というより、むしろ「独立的自己の確立」という概念自体がないのです。日本人の言い方として「我々日本人は……」という言い方がよくされるということが指摘されていますが、これは「自分一人では責任はとれません」ということの裏返しの表現とも言えます。実際、日本人は古来「集団の意志決定において生きてきた」と言えます。この「集団帰属性」は社会倫理に伴って、日本人の倫理・道徳観を育成してきました。いうまでもなく「集団・社会優先の倫理」です。

 

 ここからまた、日本人論の中でよく指摘される「内・外」という概念が出てきます。ある地域の中で同じ神の下にある人々が「内」であり、その外側の人々はすべて「外」となります。そして「内」にあるものは、すべて「一族」と見なされます。ここから、外人に対する特殊なものの見方が生じたり、「排他性」が指摘されることにもなります。つまり「福は内」の思想といわれているものですが、「自分の所だけに」福を呼び入れ、鬼は外に、つまり他の地域に行ってくれ、ということです。

 

一方、この「内」という思想の延長上に「日本民族単一論」というものが主張されることがあります。日本民族が南方系と北方系の混交であること、大陸からの民族の流入、また歴史時代になっても、特に上流階級に朝鮮・中国の血が大量に入っていることなどがあっても平気で「単一民族」と言ってきますが、この時の意味は「人種として単一」という意味ではないのです。むしろ「日本人として認められ、この日本の神のもとにある人々はみな同じ」といったような意味合いなのです。日本民族は「単一」だからアメリカのような民族問題などない、と考える日本人が非常に多いのはこんな事情があるからです。

 

内なるものの長所

 なぜそうなったのかというと、「内」というのは「家、一族」と見なされるということですから、家族的な繋がりと絆が生じ、「助け合い」の精神が生じてくるのです。家族ですから、何といっても安心です。ここに寄り掛かっていれば、何か事があっても助けてもらえます。「寄らば大樹のかげ」というわけです。力が足りない時は、力を貸してくれます。誰かに出し抜かれるということもありません。こうした「一体感、安心感」が何よりなのです。そして「強い」のです。

 

毛利元就ではありませんが「三本の矢」になっているのです。とにかく、自分の分を尽くしていれば、それが大したことではなくても、集まって大きくなっているのです。ですから孤独に頑張らなくてもいいのです。自分であれこれ考え工夫しなくても、全体からやれといわれたことだけやっていればいいのです。つまり「効率的」なのです。

 

個人個人の戦う「競争社会」では負けたら悲惨ですが、そういうこともありません。横並びで、皆で進んでいこうというわけです。日本企業の「護送船団」方式というのがこれです。少々失敗しても、他が助けてくれるシステムになっているのです。これが日本をここまで強く安定させ、負けても復興が早かった秘密です。ですから日本人は今でも「集団帰属性」が強く、すぐグループをつくろうとします。「どこに属しているか」を気にします。血液型などいい例です。流行に遅れまいとするのもこの精神からです。

 

皆と一緒でなければ、安心できないのです。日本の女子高校生をみていると「ああ、本当に日本人は昔から変わらないな」と安心したりガッカリしたりします。本当に昔の「伝統的意識そのもの」が観察されるからです。つまり、ここにも長所と同様「短所」もあるのですが、それが相変わらずだという事が観察されてしまうからです。

2021/10/08

ヤマト王権(5)

「天皇」表記の成立

天皇」の表記については、大陸からもたらされた道教において、宇宙の最高神とされる「天皇大帝」に由来するとする説が広く知られている。

 

天皇表記の成立時期は、初出とされる推古紀169月の条の「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。」であるとする従来の通説、そのほか天寿国繡帳の「斯帰斯麻宮治天下天皇」(欽明)があり、そして『懐風藻』序文で持統天皇以後についてのみ天皇表記が用いられていることを根拠に、皇后の表記とともに飛鳥浄御原令において規定され、使用されるようになったという2通りの説がある。近年では、後者が有力とされる。

 

君主の公的な表記としての「天皇」の採用は、天武朝であった可能性が高いとされる。唐の高宗が674年に「皇帝」を「天皇」と改称したのにならい、天武天皇も天皇表記を採用したのではないかと推測されている。

 

「天皇(大帝)」は中国古代の宇宙の最高神天帝の名で、道教思想と深い関わりを持つが、天武の施政には道教的色彩が認められ、天武が天皇表記を用い始めたとする説を補強している。

 

飛鳥京跡から「大津皇」、「津皇」、「皇子」などの文字の見える木簡の削り屑が出土している。これらは天武の子大津皇子を指すと解釈されており、同時出土の他の木簡から天武10年(681年)のものと考えられている。天武10年に皇子表記が使用されていることは、それ以前に天皇表記が用いられていることの証左だと考えられている。

 

なお、「天皇」という表記の訓みは“スメラミコト”、“スメロキ”が当てられている。“スメル”については「統べる」の転訛と見る説があったが、上代特殊仮名遣からこれは否定されて、現在も判然としていない。万葉集には「天皇」の表記が12例知られ、このうち7例がオオキミ5例がスメロキと訓ませている。それぞれの文意の比較からオオキミは当代の天皇、スメロキは過去の歴代天皇や皇祖神に対して用いられていることがわかっている。

 

ヤマト王権の歴史

弥生時代にあっても、『後漢書』東夷伝に107年の「倭国王帥升」の記述があるように、「」と称される一定の領域があり、「」とよばれる君主がいたことがわかる。ただし、その政治組織の詳細は不明であり、『魏志』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態が続いたとみられる。

 

また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、考古資料においても、その記述を裏づけるように周りに深い濠や土塁をめぐらした環濠集落や、稲作に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと見える高地性集落が造られ、墓に納められた遺体も戦争によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。縄文時代にあっては、もっぱら小動物の狩猟の道具として用いられた石鏃も、弥生時代にあっては大型化し、人間を対象とする武器に変容しており、小国間の抗争が激しかったことがうかがえる。

 

墓制の面でみて、最も進んでいたのは山陰地方の出雲地域において作られた四隅突出墳丘墓であって、後の古墳時代の方墳や前方後円墳の原型となったと思われる。九州南部の地下式横穴墓、九州北部における甕棺墓、中国地方における箱式石棺墓、近畿地方や日向(宮崎県)における木棺墓など、それぞれの地域で主流となる墓の形態を持ち、土坑墓の多い東日本では死者の骨を土器につめる再葬墓がみられるなど、きわめて多様な地域色をもつ。

 

方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓は近畿地方から主として西日本各地に広まり、なかには規模の大きなものも出現する故、各地に有力な首長が現れたことがうかがえる。弥生時代における地域性はまた、近畿地方の銅鐸、瀬戸内地方の銅剣、九州地方の銅戈(中期)・銅矛(中期-後期)など、宝器として用いられる青銅器の種類の違いにも表れている。

 

邪馬台国と女王卑弥呼

『魏志』倭人伝は、3世紀前半に邪馬台国に卑弥呼が現れ、国々(ここでいう国とは、中国語の国邑、すなわち土塁などで囲われた都市国家的な自治共同体のことであろう)は卑弥呼を「共立」して倭の女王とし、それによって争乱は収まって30国ほどの小国連合が生まれたとし、「親魏倭王」印を授与したことを記している。邪馬台国には、大人と下戸の身分差や刑罰、租税の制もあり、九州北部にあったと考えられる伊都国には「一大率」という監察官的な役人が置かれるなど、統治組織もある程度整っていたことが分かる。

 

邪馬台国の所在地については「近畿説」と「九州説」があるが、近畿説を採用した場合、3世紀には近畿から北部九州に及ぶ広域の政治連合がすでに成立していたことになり、九州説を採用すれば北部九州一帯の地域連合ということになり、日本列島の統一はさらに時代が下ることとなる。

 

邪馬台国と狗奴国の抗争

倭では、邪馬台国と狗奴国の抗争がおこり、247年(正始8年)には両国の紛争の報告を受けて倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政が、檄文をもって女王を諭したとしている。また『魏志』倭人伝によれば、卑弥呼の死の後は男王が立ったものの内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女壱与(壹與、後代の史書では台与(臺與))が王となって再び治まったことが記されている。『日本書紀』の神功皇后紀に引用されている『晋起居注』(現存しない)には、266年(泰初(「泰始」の誤り)2年)、倭の女王の使者が西晋の都洛陽に赴いて朝貢したとの記述があり、この女王は台与と考えられている。したがって『日本書紀』としては、台与の行動は神功皇后の事績と想定している可能性がある。なお現存する『晋書』四夷伝と武帝紀では、266年の倭人の朝貢は書かれているが女王という記述は無い。

 

尚、狗奴国の所在地については、邪馬台国の南方にある。『魏志』では、邪馬台国の東には海を渡ること千余里にてまた倭種の国があり、邪馬台国の西方には会稽がある。邪馬台国の北西には帯方郡、北方には伊都国があると記述されている。

 

邪馬台国畿内説

国立民族学博物館は、炭素年代測定により古墳の成立時期は3世紀末に遡るとし、卑弥呼を宗主とする小国連合(邪馬台国連合)がヤマトを拠点とする「ヤマト政権」ないし「ヤマト王権」に繋がる可能性が高くなったとしているが、炭素年代測定法には50年ないし100年古く推定される誤差が明らかとなり、依然として真偽について議論が続いている。

出典 Wikipedia

2021/10/06

日本の伝統宗教・神道(4)

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

 

日本神道の性格

 根源的な神道の性格をみていくのには、さまざまの視点・論の立て方が可能ですが、ここでは以下のような項目でみていきます。

 

1.むすび(産霊、産巣日、産日、産魂などと表記される)

2.祭り

3.地域性(シマ、氏神と氏子、集団帰属性、内と外、集団主義など)

4.日本的倫理(誠・清明心、「和」、村八分、禊と払え、黒不浄と赤不浄、ハレとケとケガレ、祟り、我執など)

5.祖霊。

 

1.「むすび」

 これは、ようするに「産む」ということであって「生産力」、「生命力」を意味しています。つまり「むす」というのが「産む」ということで、霊力をあらわす「ひ」がくっついて「産み成す神霊」といった意味になります。こうした神観念が、「土地」との絡みで考えられた時「産土神(うぶすなかみ)」と表現され、これが後「氏神」や「鎮守神」と同化されていきます。

 

 この具体的な信仰が、農民にとっては、五穀を実らす「」に対する信仰となります。ですから、この性格を今日まで保っている日本神道では、基本的に「神」を「人間の姿」で考えることは、比喩的な表現以外、ほとんどないのです。

 

一方、この「山」に対する信仰は「山そのもの」が「神」と見られるわけではなく、そこに宿っていて実りをもたらす「力」が「神」として崇められているので、したがって、この「神」は里に降りてきて「田の神」になります。

 

この「神」は山や田に宿るだけではなく、自然的な生命力が見られる何にでも宿ります。人々は、そうした「宿っているもの」を、宿っている限りにおいて「神」として祭ったわけです。大きな岩(磐座、いわくらと言いますが、「いわ」というのは本来は「堅固」なるものの意味で、「神が鎮座まします座」といった意味です)や大木(この場合、「ひもろぎ」と呼び、神霊たる「ひ」が「籠る(もる)」「木」と説明されます)。普通には「榊」が一般ですが、本来は常緑樹ならなんでもよいものでした。正月に立てる「門松」も「年神」を宿らせるものです。

 

 これがすべての基本ですから、大和朝廷が自分達を語ろうとした時も、天皇家自体がそうした「むすびを司る」ものである、ということを語ってくるのも全く当然でした。なぜなら、そうしなければ「民衆の王」であることすら主張できません。つまり「皇祖」は「太陽神・天照大神」で、地上に降りたのは孫の「ニニギの命」といわれますが、これは「」に関わる名前であり、彼がこの日本に降りてくるのも「生産力」を表す「タカミムスビの神」の命という形になっているのです。こうして、「天皇」自体が「稲をもたらすもの」とし、日本全土に君臨するいわれが語られたことになるのです。

 

2.祭り

 日本の神が「むすび」という「生産力の神」だということは、その「神」を「祭る」というのも基本的に「生産」に関わってくるわけで、それが日本の「祭り」の大きな特色になります。すなわち、祭りというのは「神」を招き、その意思を明らかにし、それに付随して神を供応して喜ばせ、「力」をつけてもらう一方、自分達もその「力」に与かって「繁栄」を促進しようというものだったのです。

 

つまり「祭り」とは本来、神様を迎え神の託宣を仰ぐものでした。神様の「意思を明らかにしよう」というもので、ここから必然的に「祈願」が行われるようになり、それに伴い「捧げ物」がされるようになったと考えられています。ですから、祭りはもともと「神の意思を明らかにするための術・業」が主体で、ですから祭りには「歌舞」が中心的役割を果たしているのです。

 

 つまり「歌舞」とは「神の意思が体現」される場であったのです。シャーマンとおなじ役割を持ったものです。間違っても「人々を慰めるためのショー」などではありませんでした。

 

また、祭りは様々の形態を持つようになりますが、農民の「生産祈願」型で説明してみると、祭りというのは「収穫」に関わるのが主体です。人々は「種蒔き」の時期に神を呼んで祭り(春です)、収穫時には(秋)その「初穂」を神に捧げます(ちなみに、これを祭儀として公式にしたものは「神嘗祭(かんなめさい)」といい、最大のものは伊勢神宮で10月15~16日に外宮で、16~17日に内宮で行われ、また皇居でも17日に執り行なわれます)。

 

そして、その収穫物を神と共に親しく食して、神の力と合一しようという祭りを行います(これは「新嘗祭(にいなめさい)」といい、11月23日に行われています。この日が「勤労感謝の日」とされ祭日になっているのはこのためで、私たちも神様の「恩恵」をこうむっているわけです)。

 

 この「力」としての神は、要するに「エネルギー」として考えれば分かりやすく、ということになると「充電」してやらねばならないということになります。そこで定期的に神を祭らねばならないということになります。

 

 「まつり」というのは「まつらう」でもいいですが「たてまつる」と同義だと思っても構いません。祭りというのは「神様」に「奉る」とも解され、この筋で説明すれば、それは神を喜ばせるもの、力を充電して差し上げるためなのでした。それと同時に自分達もその力に与かろうというのですから、この神が力で充満していなくては困るわけで、祭りというのは大掛かりなものになったのです。こうして、祭りというのはまず「汚れ」を払って、神官が神を招き寄せて神が宿るべき「依代(よりしろ)」に神を宿らせ、食事(神饌といいます)を差し上げ、歌舞で神意を問い、春祭りなら農耕の所作を演じて豊作を願ったりします。

 

 また「みこし」は祭りにつきものですが、これは要するに「持ち運び用神社」ということで、ここに神がおります。この「みこし」を地域内全部に運んでいくことで「神様の力」は全域に及ぶことができるわけです。この時、神様の力を強くしてやるために「みこし」を激しく振って奮い立たせます。この時の掛け声に種類があり、例えば歌にある「モメモメ」というのは大きく激しく上下左右に振ることをいい、「サセサセ」というのは高く担ぎ挙げグルグル回すような動きで、交差点や社殿前の広場などでやっています。みこし同士が喧嘩するのは、神様を鼓舞し強くするためであったり、地域内の集団の「自己主張」であったり「占い(つまり勝ったが豊作になる、など)」であったりすることもあります。祭りに喧嘩がつきものなのは、こんな事情もあったのです。

 

 こうして、今度は神様との「交歓」の儀式で「直会(なおらい)」といいますが、ようするに「飲んだり食ったり」です。これは「ご苦労さん会」ではないのでして、神様と同じものを食することによって神様の力に与かり、一方その神の食物と同じ物を「皆で」食することによって「身内」であることを確認し絆を強くするという「大事な儀式」なのです。ですから一人でボソボソ食べていては駄目なわけで一族全員、村中総出でやらなくてはなりません。そして同じ神の下にある地域の皆さんと深い絆を確認するわけです。といっても要するにドンチャン騒ぎですけど、これをやらなくては祭りとは言えません。この「食事の共」というのは、多くの民族に見られる習慣です。

2021/10/04

ヘブライの神話(ヘブライ神話21)

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

 

3.ノアの方舟

 有名な「ノアの方舟」の物語ですが、神は「悪」に染まった人類を滅ぼそうとして大洪水で人類を滅ぼしたけれど「神を敬うノア」だけは助けられたとする「神の罰」と「神に従う者の救済の物語」となります。

 

 物語の内容はこれですべて尽きており、神の決意からノアへの忠告、ノアが船を造って神の言いつけ通り動物たちをつがいでその船に乗せ、全部乗せたところで何日も雨が降って大地は水の底に沈み、頃合いを見てノアが鳥を飛ばして水が引いたことを確かめ、船から出て神に感謝し、ここで神はノアにもう洪水を起こして人類を滅ぼすことは止めにするという約束をして、そのしるしに「虹」を現したというものです。

 

 はじめの「世界の創造」についてはすでにシュメール神話にあり、ペルシャの「ゾロアスター教」にもあって、中東・オリエントでは一般的な思想です。

 

 二番目の「人間の創造」も同様です。そして「人間の弱さ」という思考もすでに「ギルガメシュ叙事詩」にあったものです。ただ、ここから人間の人生の目的をどう汲み取っていくかという「解釈」のところで「ユダヤ教」の独自性が示されてくるのでした。

 

 三番目の「大洪水による人間の破滅」と「それを免れる人間」の物語も、ギルガメシュ叙事詩にそのまま存在していました。そして、ここに「人間の希望」を見ていくという「解釈」が、ユダヤ教のユダヤ教たる所以となっていくのでした。

 

ユダヤ教の性格

 ここで、そのユダヤ教の「解釈」の基盤となる精神的背景が重要となるわけです。先ず私達は、このユダヤ教が中東・オリエントに展開していた「遊牧民」のものであったことに注意しておきましょう。そして、ここから世界宗教としてのキリスト教とイスラームが発生してきたわけですが、こうした性格からしてイスラームの方がより強くユダヤ教の性格を受け継いでいるということも、あらかじめ指摘しておきましょう。

 

 その性格というのは、これらの宗教は元来「砂漠の民」のもので、基本の構造は砂漠という貧しく過酷な風土の中で困窮の生活をおくらなければならなかったヘブライの民(つまり「貧民の放牧・流浪者」)が、自分達の悲惨と苦労しなければならないことの必然性を説明して現在の境遇に意味を与え、さらに現在得られない「幸い」を未来において得られるとする「希望」を語ることで、自分たちが生きることの支えとするような性格をもった宗教だと言えます。

 

 すなわち、現在の悲惨と苦難の原因として、自分達の祖となる「人類の祖」が「神に背いて(これがアダムとイヴの物語の性格です)」この悲惨な地上に「追放」されたということを見て、自分達の「悲惨さ苦難はやむを得ないこと」として説明し、その「神に従う」ことによってやがて「神に救済され」、「約束の地」を得て幸せとなれるという「希望」を語るのが、ユダヤ教の本質なのです。つまり「ユダヤ教」というのは、本質的に「未来における現実的社会の繁栄・幸せ」を目的とする宗教なのであって、この性格は今日でも変わりません。

 

 これは「豊壌の国」である日本とは対極にある考え方といってよく、日本のように自然に恵まれて、自然に従っていれば良いなどという考えは、どこからも生じる筈もありませんでした。なぜならそんなことをしていたら飢えて死ぬだけでしたから。自然は恵みをもたらさないものだったのです。ですから、この地上は「追放の地、窮乏の地」と捕らえられ、初めから過酷な労働が強いられるのだ、と理解されていたのです。

 

 しかし、それだけではやっていられませんから「やがて幸せが到来する」という希望を持たなくてはなりませんでした。その希望を叶えてくれるのは「」しかいません。人知では、砂漠を緑の野に変えることはできないからです。そうなったら「神」にすがるしか手がありません。

 

「神」も駄目とか「神などいない」となったら「完全な絶望」です。幸せは永遠に来ない、そうなったら「生きる希望」もなくなり「生きている意味もない」ということになります。ですからヘブライの民の「神」に対する思いは、日本人にはとうてい理解できないほどに強いのです。現在、この姿勢は同じ「砂漠の民」であったイスラームに見られます。

 

 ですから「ユダヤ教」の時代になって、神は「唯一で、万能な創造者」という観念が生まれたと言えます。神とは、この地上の「完全なる支配者」とされていきます。ということになると、この地上・宇宙も「神に完全に依存している」とされなければなりません。しかもセム族には「創造神」という概念がすでにあったのですから、この創造神が「唯一なる完全神」とされてくるのは自然なことでした。

 

 こうして「人類はこの絶対なる神に服従」することが必然とされました。「いいつけを守らなかったら」どうなるか。希望は「剥奪」されます。こうなっては大変です。ここから「服従と罰」の考えが出てきます。こうしてユダヤ教では「神の言いつけ、つまり戒律を守る」ということが絶対の教えとされていったのです。ですから、ユダヤ教は「戒律主義」を徹底しようとして、その形式性がイエスによって糾弾されてしまうほどになるのですが、戒律主義は必然的なものだったのです。こんな具合にして「創造主」としての神、やがて「救済」してくれる神、しかし「見張っていて罰を与えてくる神」などというものに「ユダヤ教」の民は出会っていったのでした。

 

一般にはユダヤにおける「神と人間との関係」は、ちょうど「王と人民」との関係として理解すると分かり易いと言われている。すなわち「たくさんいる族長の中で、自分だけをすべての部族の上に立つ絶対的な君主とせよ」という命令とするわけであり、これは「オリエント的専制君主政体」と裏腹になっていると説明される。つまりイスラエル民族の場合「12部族」があったわけであるが、その「12の部族長」の中で「ユダ部族の族長、ダビデ」を「すべてのイスラエル民族の王」と認めるという形で古代イスラエル国家が形成されたわけで、「神」の場合も当時オリエント世界に一般的であった「バール神」とか「イシュタル女神」を神として認めず「自分ヤハゥエ」だけを神として認めよ、という命令と理解するわけである。

 

こうした「専制君主的」な存在であるため、この神は「男性的」な姿をしていて、さらに「自分に従えば良し」とするが「従わない場合は、永遠に呪ってやる」といった「妬み深い」神として現れると説明するわけです。