2016/02/27

佳境(小説ストーカーpart8)



●忍の場合
 最初のころこそ、随分とホームを走らされて苦労したけど、どういうわけか「ラッキーボーイ」の気まぐれ(?)が収まって、また最初の頃の「定位置」に乗ってくれるのはありがたいわ。
 
 まったく、何を考えているのやら・・・でも、何を考えているのかサッパリわからない神秘性が、ラッキーボーイの魅力なんだけど。うふふふ
 
 時間の方も、多少遅くなることはあるけど、以前に比べると割と安定して1時間以内に収まってくれてるから、このところはすっかり100㌫近い確率で「同乗」できるようになったし。
 
 あとは、このまま私という「背後霊」の存在に気付かないで、と願うのみかな。
 
 幸いにして、なにか考え事をしているのか、他のことに気を取られているのか、ラッキーボーイったら、まったく周囲を見ることがないんだから。
 
 それはまあ、見事なくらいね。
 
 本を読んでるわけでもなさそうだけど、なにかの思索にでも耽ってるのかな・・・見るからに賢そうだしね、彼。
 
 といっても「背後霊」のこっちからは全く顔が見えないから、様子がサッパリわかんないんだけど。
 
 たったひとつだけわかっているのは、私と言う「背後霊」の存在にまったく気付いていないことかなー
 
 そして、これは今後も、およそ気付かれそうな心配もないってこと。
 
 だから私は安心して、これからも彼の背後霊を続けられるのよ・・・まったく気付いてくれないのは、ちょっと淋しくはあるけど・・・まあ、これから何か素敵なことがあるかもしれないっ!

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●タコオヤジの場合
 最近になって、ちょっと気になることがある。
 
 それは、例の「ラッキーボーイ」が、時折オレの方を見ることだ。
 
 まあ、これだけの期間に渡って同じ電車の同じ車両に向き合って乗っとれば、時折なにかの拍子に目が合うこともあるだろうと、当初は大して気にも留めてとらんかったが・・・
 
 ところが最近のそれは、こちらを観察する様子だったり、或いは抗議するような視線というかな・・・要するに、およそ好意的ではない感じの・・・
 
 いや、オレの気のせいだと思いたいが、今日はハッキリと「ガンを飛ばす」という感じのキツイ視線で数秒間、睨んできやがった。
 
 思わず睨み返しそうになったが、思い直して慌てて目を逸らすふりをして、そのままなるべく目が合わんように恍けていたが、どうにも気になってしゃーない・・・
 
 なんか、オレに恨みでもあるんかいな? (-_-) ウーム

2016/02/23

日本食の形成(農林水産庁Web)

その後の古墳時代には、王たちの巨大な墓が造られるようになるが、これには高度な土木工事が必要で、水田造成に共通する技術との関連性が高い。さらに王権に基づく集団的な労働力の動員が可能となったことに加えて、この時期におけるウシやウマの移入が、水田の発展に大きな効果をもたらした。しかも米は優秀な食品で、備蓄性が高いことから社会的な富と見なされ、租税として人々に賦課されるようになった。

 

やがて大和政権による全国統一が進んで、大化の改新を契機に古代律令国家が成立すると、その政策においても米が非常に重要視されるところとなる。栄養価の高い米は、古代人に力の源と見なされており、力餅や力ウドンという言葉が象徴するように、力の源となる米の加工品には特別な位置が与えられた。主税と書いて「チカラ」と読むのも、そうした事情によるもので最も重要な租税は米であった。それゆえ古代国家は、畑地は無視して水田のみを口分田として人々に与え、租すなわち米を最も重視した。それは土地政策にも如実に現れ、百万町歩開墾計画や三世一身の法・墾田永世資材法を発布し続けたのである。そして日本では、米の生産のために肉が犠牲とされた。

 

古代国家の最盛期の天武天皇4675)年には、いわゆる肉食禁止令が出されている。しかし、これは単なる仏教による禁令ではなく、その前後の状況や他の法令から判断すれば米作りのための方策で、動物の肉を食べると稲作が失敗するという観念に基づくものであった。これは、先に見た『魏志』倭人伝の災いがあった時に肉を断つという伝統を引くもので、重要な願い事つまり稲の豊作のためには、肉を食べないとする思想の実現であったと考えられる。

 

一方、米は尊い聖なる食べ物としての位置を確立し、祭祀のなかで重要な役割を果たすようになる。現在でも、正月を始め村々や家々での祭祀の際に米は大切な捧げ物で、米から作った餅と酒は欠かすことができない。また天皇が執り行う新嘗祭・大嘗祭などの国家祭祀においても同様で、天皇が毎年皇居の水田で春には田植えをし、秋には稲刈りをする様子は、しばしば新聞・テレビでも報道されている。

 

こうして日本では、米のために肉を否定したが、やがて肉は穢れと見なされ米が聖なる食べ物として、社会的に受け容れられていくことになる。これが東南アジア・東アジアの稲作を受容しながらも、それらの地域とは非常に異なって、ブタを伴わない米文化を成立させるところとなった。それゆえ動物タンパク摂取の観点からは、肉の代わりに魚が重視され、最も典型的な形で米と魚の食文化が発達を見たのであり、鮨に象徴されるように魚食に特化した食事パターンが一般化した。さらに米を重視した古代国家においては、調味料も今日の日本食に近い状況が形成されつつあったことが窺われる。

 

国家機構の食事を預かる大膳職という部署には醤院がおかれたが、ここでは味噌や醤油の原型となる醤の管理が行われていた。先にも述べた魚醤は、日本へもかなり古い時代に入ったものと思われ、古代の『延喜式』などには肉醤も見えるなど一般的な調味料であった。しかし醤院で厳重に管理されていた醤は、明らかに穀醤で、極めて貴重な調味料として意識されていたことが窺われる。このように古代においては、その頂点をなす国家レベルで米を食事の中心とし、穀醤を主要な調味料とするような今日の日本食に近い味覚体系が、次第に形成されつつあったと見なしてよい。

 

国家の最高レベルでは、米を中心にいわば日本的な食事体系が整いつつあったが、食生活には極度な階層差がつきまとうことも忘れてはならない。確かに肉食は、穢れたものとして社会的に遠ざけられていったが、その本格的な排除にはかなりの時間を有したし、弥生時代のところで論じたように、米も人々に充分な量を供給できたわけではない。むしろ米は税として農民から吸収されたという事実は重く、かつ米はどこでも作れたわけではない。中でも日本で好まれる温帯ジャポニカは、適度な水と気温を必要とするため、基本的には水田が必要であった。

 

米作り=水田と考えるのは、あくまでも私たちの常識でしかなく、実は地下に含まれる充分な水量があれば、畑地でも稲作は可能である。東南アジア・東アジアでは、水田以外に畑地でも稲作が行われており、極端な場合には焼畑でも米が作られている。 これは熱帯ジャポニカとされる米の種類で、日本でも縄文時代に部分的に見られた稲作は、これを用いていた可能性が高いが、弥生時代以降の稲作は基本的には温帯ジャポニカが主流で、水田を前提とするものであった。それゆえ古代国家は、水田のみを重視したのである。

 

こうした日本での温帯ジャポニカ栽培は、先にも述べたように適度な水と温度管理を必要とするため、一歩それらの歯車が狂えば、たちまち凶作となって食料不足を惹き起こした。このため古代国家は、そうした場合に供えて農民には畑作も推奨し、麦で命を繋いで米を租税として納めるよう指導している。あくまでも米を中心として魚食を組み合わせた食事は、国家の官僚である貴族や地方役人である豪族、あるいは中央の大寺院の僧侶や神社の高級神主たちのものでしかなかった。多くの人々にとっては、米は貴重な食料であり、麦や雑穀もしくは芋などが身近な食べ物であった。もちろん穢れるとされる肉も、これを無視しては動物性タンパクの摂取に難しかった。

 

元々、古代の殺生禁断令でも禁止されたのはウシ・ウマ・サル・ニワトリ・イヌのみで、イノシシとシカは対象とはなっていなかった。肉をニクと読むのは音読みで、日本語としての訓はシシに過ぎず、イノシシ(猪)・カノシシ(鹿)・カモシシ(羚羊)は、古来から日本人が食べ続けてきた肉であった。しかし殺生禁断令以降、次第に肉が穢れたものと意識されたところから、イノシシやシカも穢れの対象となり、基本的に口にすることは避けられていった。ただ米の生産力が厳しかった段階においては、多くの人々に肉食は不可欠で広く食されていた。もちろん貴族や都市民の一部にも肉を好む人もおり、京都にもシシ肉が販売されるルートさえ成立していた。いわゆるシカの紅葉鍋・イノシシの牡丹鍋・ウマの桜鍋など野獣食の伝統は、鍋という調理法を別とすれば、かなり古い時代にまで溯ると考えて良いだろう。

 

ただ古代に始まった肉食の禁忌は、水田の開発と生産力の増強が進んだ中世という時代を通じて、徐々に社会の下層まで及んでいく。基本的に中世末期頃には、広く社会的に米飯を中心に、魚を添え野菜などを伴う今日に至る日本的食生活が完成をみる。これに呼応するように、中世を過ぎて近世に成立した江戸の幕藩体制は、経済的には石高制という形で、殆どの経済価値を米で表示するという、世界的にも特異な社会システムが誕生をみた。また近世においては、肉を食べると眼が潰れるとか口が曲がるとかいう俗信を生み出したが、社会の一部では薬喰いや鹿食免などと称して、肉食が行われていたことも忘れてはならない。

2016/02/19

大八嶋成出の段『古事記傳』

神代三之巻【大八嶋成出の段】本居宣長訳(一部、編集)
知訶嶋(ちかのしま)。書紀の敏達、天武の巻には「血鹿嶋」と書いてある。釈日本紀によると「肥前國にあり、風土記によれば≪更に詔して『この島は遠くにあるのに、もっと近くにあるように見えるから近島と名付けよ』と言われた。そこで『値嘉嶋』と言う。あるいは百余りの近嶋があり、あるいは八十余りの近嶋がある」と言う。【この詔勅は、いつの御世のことだろうか。聖武紀に、松浦郡値嘉嶋とある。

ところが、三代実録に(大意:肥前國松浦郡の庇羅、値嘉両郷を分離して新たに上近、下近の二郡を創設し、値嘉嶋をそこに帰属させる。これらの郡は広大で人口も多く、珍しい産物が多い。また異国に隣接し唐や新羅からの使者、我が国から唐に向かう使者も必ずここを通過する。しかし住民からの訴えによると、唐人たちはここの香薬を好きなだけ取って行く。また海辺には奇石が多い。それは鍛錬すると銀を取ることができ、磨けば玉のように美しい。云々。公卿たちは朝廷に「両郷を分けて一つの島とするのは、公の利益であり柔軟に対処すべきである。すぐに請願のとおり処するつもりである。云々)【ここには一部省略して引用した。さて、この後はどうなったのやら。】

和名抄では、まだ松浦郡の郷名として載せてある。思うにこの嶋は、今の五嶋(列島)、平戸などの総称ではなかろうか。【ある人が「今筑前、肥前の境あたりの北の海に、ちかの嶋というのがある」と言うが、それは違う。】というのは、この嶋は歴史書にも登場するし、三代実録の記事からすると、大きな島のようであり、ある場所も記事によく合い、風土記に「多数ある」というのにも一致する。五島列島、平戸は、肥前の国の西北方の海から西へ遙かに連なっており、多数の島々がある。松浦郡に属している。【後に平戸と言うのは、その庇羅から出た名前であろう。三代実録の文によれば、それはこの島にある郷である。】

○天之忍男(あめのおしお)。名前の「忍」は、前述の「忍許呂別」と同じだ。延喜式には陸奥国行方郡に押雄(おしお)神社が載っている。これは「忍男」の例である。

兩兒嶋(ふたごのしま)は、この記事以外には、古い書物には見えない名である。ありかも分からない。【古今集「ほのぼのと明石の浦の云々」の歌(409)の顯昭注に「明石のおきに、はるかにちりぢりなる島ども見え侍り。ふたご嶋みなほし嶋たれか嶋くらかけ嶋家嶋など、うちちりたるやうに侍る云々」、同じようなことが袖中抄にもある。餘材抄には「顯昭の言う島々は、明石より遙かに西南の方にある。まだ現場を見ないで、推測で書いたものだろう」と書いてある。思うに、神名帳では家嶋は揖保郡なので、兩兒嶋も明石より遙か西南の方と言っても、まだ播磨のうちだろう。

しかし状況を考えると、ここの兩兒嶋はそれではなさそうだ。もっと西の筑紫周辺であろう。肥前の国、長崎西南の方、祝(いわう)嶋という島の近くに、二子(ふたご)島といって、小さな二つの島があるが、それでもない。またある人が「長門国の北の海に二生(ふたおい)島というのがある」と言う。前の八つの島は東から西へ、西から北へ、東へと生みながら廻っていた。この六島も東から西へ、西から北へ折れて、東へ廻ると思われるので、この場所も筋は通る。また伊邪那美の大神は、出雲と伯耆の境の比婆山に葬られたそうなので、その付近の国で薨じられたと思われる。これも上記の巡回経路に合っている。この島のことは、西海路を往来する船人などに聴いて、よく探索すべきである。】

あるいは書紀に隠岐の洲と佐渡の洲を双子に生んだ、とあるのを伝え誤って別に一つの島としたものだろうか。それとも書紀の双子に生んだという伝えの方が、この島の名の異伝だろうか。そうなら、この島が二つの島であって、双子に生んだから兩兒嶋というわけではないことになる。

○天兩屋(あめふたや)。天の字は、上述の一つ柱、一つ根の例にしたがって「あめ」と読む(「あめの」とは読まない)。屋の意味は分からない。【延佳は「細註の天兩屋は間違いで、兩兒嶋と書くべきではないか」と言ったが、それはよくない。こういうところで別名を書くのは、他にも例がある。「志那都比古神から野椎神まで四神」とあるところだ。野椎神も鹿屋野比賣神の別名ではないか。】

ここの六島を生んだ順序は、ありかが定かでないものもあるが、ともかく東から西に向かったのである。四海に島は数多い中に、八島に次いでこの六島を挙げたのは理由があってのことだろう。上代に特に名高かった島だけを挙げたのかもしれない。この二柱の大神が生んだのは、これだけとは限らないと思う。【六島みな西の方にある。神代の故事の多くが、西の国にある。】

ところが書紀では、大八洲の他には大神が生んだ島はなく「所々の島は、みな海の泡が凝固してできた、または水の泡が凝固したとも言う」とある。【この伝えによると、大八洲以外の島々は大神が産んだものではない。また所々の島といっても、小さい島とは限らない。大八洲以外をみなそう呼べば、大きな島もたくさんあるはずだ。すると皇国に属する島だけでなく、諸外国も大小を問わず、すべてその(泡の)うちということになる。】

この八島六島の別名を、それぞれの国御魂神と思うのは間違いだ。これは直接、その国を指して言う名前である。その名に女男がある理由は、まだ分からない。【国だけでなく山にも女男があり、いにしえに倭の国の三山が妻争いをしたという伝承が播磨國風土記、万葉巻一(13)などにある。】

○ある人がこう質問した。「二柱の大神が、人間が子を生むように国土を生んだというのは疑わしい。これは、それぞれの国の神を生んだことか、または国々を廻って経営したことの喩えではないのか。それは、初めの天神が『この漂っている国を修理固成せよ』と命じたとしても『国を生め』とは言っていないからだ。さあどうだ」

答え。「これを疑うのは、例のなまさかしらの漢意であって神の行いが奇(くす)しく霊妙で、人知によっては測りがたいことが分かっていないのだから論外だ。ただし天神の大命については、少々言うことがある。それは、まず夜見(黄泉)の段で、男神が言う「愛しい妻よ、二人で作った国は、まだ完成していないじゃないか」というのは、生むことは生んだけれども、まだ美しく完成していなかったのである。【これを治め完成させたのは、大汝と少名毘古那神の時だ。】

天神の大命は、漂っている潮を固めて、まずよりどころとなる島【おのごろ島】を成すことから初めて、国土を生み美しく完成するまでを含めていたのであって「つくる」という言葉の意味は広く、生むこともその中に入っている。前記の男神の言った「作った国」というのは「生んだ国」と言うのも同じであることで理解せよ。二柱の大神が国を完成させたという伝承はないので、この「つくる」というのは正に生んだことをいうのである。

【それでも、なお「生むと書いてあるのは経営のことだ」と言うなら、最初に御身の「成り合わざるところ」、「成り余れるところ」を尋ねて交合したことなど、詳しく述べているのはどういう意味があるのか。経営するには無関係のことである。書紀にも「子を生むときになって、まず淡路島を胞(え)とし」とか「隠岐洲と佐渡洲を双子に生み」とか言うのも、人間の子を生むように生んだからではないか。】

2016/02/17

妄執(小説ストーカーpart7)



●ラッキーボーイの場合
 さて、ここまでこの物語を読んできた読者の中には、もしかすると
 
 「タコ坊がストーカーなんかじゃなくて、単なる被害妄想じゃないのか?」
 
 といった疑いを持っている人も居るのではないか?
 
 世間一般によく見かける例として、もてない女性に限って「痴漢だ!」と騒ぎたてることがよくあるらしいが(?)、あの手の被害妄想的な勘違いに過ぎないのではないかと。
 
 ところが残念ながらそうではなく、これは厳然とした客観的事実なのである。
 
 それを証明するのがデータであり、前にも触れたようにあれだけ時間や車両を意図的にずらしたのにも関わらず、同じ車両に乗車している確率は80%以上であり、さらにはそれが1ヶ月程度のことでなく、数ヶ月単位という期間に渡り延々と続いたのだから、これで「ストーカー認定」しない人間が居たら、よほど鈍感であるとしか言いようがない
 
 元々、かつてオトコマエと言われ(?)、また喫茶店やレストランなどに入ると、それまで空いていたのが決まって客がドッと増えてくるような、集客体質の強い「ラッキーボーイだけに、電車に乗っていてもさりげなく近寄ってくるヤツがいて辟易したものだったが、それにはそれなりの常識的な節度があったからまだしも、コヤツに限ってその厚かましさは我慢の限界を超えていた
 
 同じ車両に乗っていたとしても、向こう向きで顔が見えなかったり、或いは時には離れたところに立っていればまだ許せるが、コイツに限っては常に半径数メートル内(こちらの立ち位置は、毎日同じでないのに!)に陣取り、あの世界の不幸を一身に背負ったような不景気で陰気な顔を、常にこちらに向けていたのである。
 
 時には珍しく向こうの方にいたと思っていても、次第に混雑してくるにつれて押し出されたような格好を装いながら、気がついた時には常にさりげなく傍にきているのだから、その気色の悪さは最早G並みのレベルに達していた (-o-)ノ ┫
 
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●タコ坊の場合
 まったく、彼女の執念深さには呆れた。
 
 あんなかわいい顔して、どこにあんな執念が・・・世の中には、恐ろしいストーカーが居たもんだ・・・あ、オレも人のことは言えんか。
 
 まあオレの方は彼女が熱中している分、こっちのストーキングがまったくばれないのは幸運と言えたが。
 
 それにしても、あそこまで彼女に追っかけられるラッキーボーイ野郎、まったく心底羨ましい限りだぜ!

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●ラッキーボーイの場合

 
毎日にように電車に乗っていれば、機嫌のよい日や悪い日もある。
 
 虫の居所の悪い時などは
 
 「アンタはなぜ、人に付き纏うんだ?」
 
 と文句を言ってやろうかと考えたこともあったが、言ったところで「知らぬ存ぜぬ」で惚けるに違いないから、時折ガンを飛ばすくらいが関の山である。
 
 そうした際の「タコ坊」は、あの例の不景気そうな表情でそ知らぬ風を装っていて、決して挑戦的な態度を見せることがなかった。
 
 むしろ挑戦的な態度で、向こうからもガンを飛ばし返してくるようであれば、それはそれで日頃の鬱憤を晴らしてやれるチャンス到来というところだったが、幸か不幸かそこはあくまで「分別臭いオジサン」なのだ。
 
 このようにして乗車時間をずらしたり、車両を変えてみたりと考え付く手は色々と試しながらも悉く空振りに終わったのだから、これ以上は有効な手立ては見つからなかった
 
 しいて言えば特急に乗る時に限っては座席指定だから、あの嫌な顔を付き合わせることはなかったくらいである。
 
 とはいえバカ高い無駄な特急料金が発生するから、こんなものを日常的に利用できるわけがない。
 
 次第に「なんであんなヤツのために、こっちがペースを変えなければならんのか」という思いも手伝い、時間や車両を変えたりすることもなくなったため、依然として「タコ坊」は当然のような顔(?)で、同乗を続けていたのである。
 
 こうして、内心では多大なる不快感と不気味さを抱えながらも、これといった効果的な策も思い浮かばないまま、虚しく月日が経過していった。