2022/03/29

ヴァンダル王国 ~ 民族移動時代(15)

グンデリクの兄弟ゲイセリック(ガイセリック)は、艦隊の建造を始めた。38歳のゲイセリックが王になった後の429年、ジブラルタル海峡を渡り、アフリカ沿岸をカルタゴに向かって東方に移動しはじめた。

 

435年に、ローマ帝国は北アフリカのいくつかの領土を彼らに与えたが、439年、ヴァンダル人は自らカルタゴを占領した。ゲイセリックは、ここにヴァンダル人とアラン人(一部のサルマタイ人)からなるヴァンダル王国を建国した。この王国は地中海における一大勢力となり、シチリア島、サルデニア島、コルシカ島、バレアレス諸島を征服している。

 

455年にはローマを占領し、468年には彼らを征服するために派遣されたバシリスクス率いる東ローマ帝国艦隊を壊滅させた。477年、ゲイセリックが死去すると、その息子フネリックが王となった。彼の治世には、ミトラ教とカトリック教会への迫害があったことで有名である。フネリックの次の王グンタムント(484-496年)は、カトリックへの迫害を止め、平和的な関係を実現しようとした。

 

ヴァンダル王国の衰退

ゲイセリックの死によって、ヴァンダル王国の対外的な力は衰え出した。グンタムント王は、東ゴート族によってシチリア島の大半を失い、また増大するムーア人の侵入に押されている状況にあった。ヒルデリック王(在位523-530年)は、先のローマ占領の際に連れてこられた西ローマ帝国の皇女の血を引いていたため最もカトリック教寄りの王であったが、戦争にはほとんど興味がなく、身内のホアメル(英: Hoamer)に任せていた。ホアメルがムーア人との戦争に敗北すると、王家の一部が反乱を起こし、ゲリメル(在位530-533年)が王位に就いた。ヒルデリックやホアメルらは牢獄に入れられた。

 

ヴァンダル王国の滅亡

かねてよりローマ帝国の復興を企図していた東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、西ローマ帝国の血を引くヒルデリック王が倒されたことを口実にヴァンダル王国に対する戦争を開始し、サーサーン朝ペルシャとの戦いで活躍したベリサリウス将軍を派遣した。ヴァンダル王国の艦隊のほとんどがサルデニア島の反乱の鎮圧に赴いていることを知ったベリサリウス将軍は、 迅速に移動してチュニジアに上陸し、カルタゴに入城した。

 

533年晩夏、ゲリメル王はカルタゴの南10マイルの所でベリサリウス将軍と戦った。(アド・デキムムの戦い)。ヴァンダル王国軍は敵を包囲しようとしたが、各隊の連携が取れずに失敗し、敗れた。ベリサリウスは、残党と戦う一方で、すばやくカルタゴを占領した。5331215日、カルタゴから20マイルほどのトリカマルムで再び両軍は会戦した(トリカマルムの戦い)。そしてまたもやヴァンダル軍は敗れ、戦闘の最中にゲリメルの兄弟ツァツォが捕らえられてしまった。ベリサリウスはすぐさま、ヴァンダル王国第二の都市ヒッポに軍を進めた。534年、ゲリメルは降伏し、ヴァンダル王国は滅亡した。

 

宗教問題

ヴァンダル人のアリウス主義とカトリック主義やドナティストたちの混在は、アフリカ国内における絶えざる火種となっていた。ヒルデリックを除くほとんどのヴァンダル王は、程度の差はあれ、カトリック教徒を迫害した。フネリックの治世の最後の数ヶ月は例外として、カトリック教徒は滅多に公に禁止されることはなかったが、ヴァンダル人へ布教することは許されず、その聖職者たちの扱いも良いものではなかった。

 

ヴァンダル人達のその後

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中世より、ヴァンダル人はポーランド人とチェコ人をはじめとした西スラヴ人の主要な先祖を構成しているのではないかという通念がある(プロト西スラヴ人)。

 

実際に、一部のヴァンダル人は東ドイツや、レグニツァやグウォグフなどのあるシレジアにかけての地域に戻っている。この移動は、のちのヴァンダロルム国(regionem Wandalorum)とともに記録に残されており、そこで7世紀にはフランク王国のピピン1世がヴァンダル人と出会っている。これはヴァンダル王国が滅亡してから、たった1世紀後のことである。

 

8世紀にカール大帝が自らポラーブ人(西スラヴ系の部族)を平定した時、彼らを「ヴァンダル人」と呼んでいる。990年ごろのフランクの歴史家であるアウクスブルクのゲルハルトは、その著書の中でポーランド公ミェシュコ1世をヴァンダロルム国の公と呼んでいる。1056年の歴史書Annales Augustaniでは、ザクセン人が隣接するスラヴ部族との戦争(ポーランドのボレスワフ1世とのドイツ・ポーランド戦争)で大敗北したことについて「ザクセン人は、ヴァンダル人に討たれた。」と書かれている。

 

11世紀の歴史家であるブレーメンのアダムは

 

「ゲルマニアのうちで、最も広大な地方であるスラーヴィアにはヴィンニル人が住んでいるが、彼らは正式にはヴァンダル人と呼ばれる。スラーヴィアはザクセンよりも広く、ボヘミア族(チェコ人)とポラン族(ポーランド人)が住んでいる。このボヘミア族とポラン族の習俗や言語は互いにまったく同じである。」

 

と書いている。

 

12世紀のクラクフ(ポーランド)の歴史家ヴィンツェンティ・カドゥウベックは

 

「ポーランドの人々は、昔はヴァンダル人と呼ばれた。これはヴィスワ川の古名であるヴァンドゥルス川(ポーランド語: Vandalus)から来ているが、このヴァンドゥルスという川の名は、その昔ここに身を投げて亡くなったポーランドの古い部族の姫の名ヴァンダに由来する。」

 

と述べている。12世紀のイギリスの歴史家であるティルバリーのジャーヴァジーは、「ポーランド人は、ヴァンダル人と呼ばれている。」と書いている。

 

ドイツからポーランドにかけてのこの地域は、今でもドイツではヴァンダロルムと呼ばれている。ポーランドとチェコの古い伝説では、ヴァンダル人と推測されるレフ(ポーランド人の古名レフ族)とチェフ(チェコ族)という双子の兄弟がおり、レフはシレジアから北方へ向かってヴィエルコポルスカ地方に定住し、チェフは南方へ向かってボヘミア地方に定住したとされる。

 

近世には、ロシアの国家起源にヴァンダル人を結びつける主張もでてきた(ヴァンダル=ヴァリャーグ説)。16世紀の神聖ローマ帝国の大使ジギスムント・フォン・ヘルベルシュタインは、その著作で、

 

「ヴァンダル人はルーシの言葉を使い、ルーシの宗教を持っていた」と記し、「ロシア人はヴァグリヤの地から言葉も習俗も宗教も違っていた異民族のヴァンダル人、つまりヴァリャーグを呼び寄せ、権力を委ねたのだと私は考える」

 

と自説を述べている。

 

ヘルベルシュタインの記述から、ロシアの学者の中には、ヴァリャーグはノルマン人ではなくスラヴ化したヴァンダル人、即ちヴェンド人であると唱える者がいる。

 

先のポーランドとチェコに伝わるレフとチェフの兄弟伝説は、近世になるとレフ・チェフ・ルス三兄弟の伝説として書き換えられ、レフはシレジアから北方へ向かってヴィエルコポルスカ地方に定住し、チェフは南方へ向かってボヘミア地方定住し、そしてルスはるか東方へ向かって行ってルーシ地方、すなわちロシアに定住したとされた[要出典]

 

東ゴート族のテオドリック大王と西ゴート族の指導者は、ヴァンダル人やブルグント人、クローヴィス1世を王とするフランク王国との政略結婚によって同盟関係を結び、生き残りを計った。

 

後年、スウェーデンの伝承では、北アフリカに達したヴァンダル人と、アジア、ヨーロッパを席巻したゴート族が、スウェーデン人(スヴェーア人)の先祖であると言うゴート起源説(古ゴート主義)が生まれた。他にも21世紀初頭に断絶したメクレンブルク家は祖先をヴァンダル人の王とし、13世紀までに「ヴァンダル人の王」と名乗っていた。

出典 Wikipedia

2022/03/27

天台宗 ~ 日本の仏教宗派と信仰形態(1)

 出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 日本の仏教は伝えられて以降、様々の展開を遂げているのですが、それらの一つの現象として「様々の宗派」と「様々の信仰形態」が生まれている、ということも特徴の一つとなります。むろん、複数の宗派を持つということは大きな宗教では普通にあることですが、そこには「離反・争い・敵意」という性格がついて回っています。しかし、日本仏教に限っては、そうした確執が殆どないのです。みんな横並びで、「他人は他人、自分は自分」という性格をもっています。ここでは、その様々の宗派と、観音信仰とか地蔵信仰といった、様々の信仰形態の代表的なものを紹介しておきます。

 

日本仏教13宗

 通常、日本での宗派は「13宗」と数えられ、さらにそれが多くの分派になってくるという形になってきます。ここではその「13宗」を紹介します。順序は一応、歴史的順序と同類項とを組み合わせておきます。

 

1.律宗:奈良仏教、いわゆる「南都六宗」の一つ。「戒律」の哲学的研究。

2.華厳宗:上に同じ。「華厳経」の縁起説の哲学的研究。

3.法相宗:上に同じ。唯識(すべてのものの実相は、ただ心の働きに過ぎないとする哲学)の研究。

4.天台宗最澄の宗派。法華宗を中心に戒律、禅、念仏、密教などを含んだ総合的仏教で、多くの宗派の母胎。

5.真言宗空海の宗派。密教のみ。

6.融通念仏:天台宗から出た「良忍」の宗派。念仏宗の始祖。一人の念仏が万人に「融通」するとする。

7.浄土宗法然の宗派。「念仏のみ」にての成仏を主張。

8.浄土真宗親鸞の宗派。阿弥陀への「信仰のみ」にての成仏を主張。

9.時宗一遍の宗派。すべてを捨て去った「念仏」と「踊り念仏」。

10.臨済宗栄西の宗派。禅宗。公案による禅。

11.曹洞宗道元の宗派。ただ座禅のみ。

12.黄檗宗隠元の宗派。禅宗。念仏禅。

13.日蓮宗日蓮の宗派。法華経のみによる「法華経の国家」建設を主張。

 

上記13宗の中の主要宗派

天台宗

 これは「最澄」の始めた宗派としてとりわけ有名で、「鎌倉六宗の母胎」でもあって、言ってみれば「日本仏教の母」とも言える存在です。仏教史的に最も重要な宗派であり、今日でもその重要性は変わりません。

 

 その日本天台宗の母胎は「中国の天台宗」にあり、それは智顗(ちぎ)によってはじめられたもので、「法華経」を中心にし、理論と実践を完備させた体系を持っていました。

 法華経というのは、様々の比喩の物語を用いたりして「仏の功徳」を語ったもので、たとえば

 

「家が火事になっているのに、その中にいる子供たちは遊びに夢中で、事態の深刻さなどにとんと気付こうともしない。そこで、外に羊の車、鹿の車、牛の車があるよ、と声をかけてやると大喜びで出てきた。そして子供たちがでてきたところで立派な白牛の車を与えた………」

 

などという話があるのですが、この「火事の家」というのは私たちの現実であり、それが火事であるにも気が付いていない子供とは私たち自身を表し、三台の車というのはこれまでに説かれてきた悟りへの道をいい、白牛の車というのはそれを凌駕する究極の教えである、といった具合です。

 

 こんな具合に哲学的理論に偏っていないことや、すべての衆生の成仏の可能性の中に「女性の成仏の可能性」をも示唆していると読める点、また釈迦は死んだと思われているけどそうではなく、本当はしょっちゅうこの世にあって衆生を救済しているのだけれど、阿呆のようになっている衆生は気がつかないのでショックを与えて気が付くようにするため「死んだふり」をしてみせたのだ、とかの話で「仏への帰依」の効果を語っているものでした。

 

 ただ最澄は、これだけに依拠するのではなく、「」や「戒律」「密教」までも学んで、これを統合させようとしました。こうした「総合性」が天台宗の最大の特徴でしょう。そうした立場から、彼はまだ認められていなかった「大乗による戒律」の認知に生涯を傾け、日本における大乗仏教の礎石を築いて行きました。こうして、ここから様々の宗派が育っていったのでした。

 

 ただ「密教」に関しては、最澄は自分の勉強不足を自覚しており、それを隠すなどということはせずに、年下の空海などに頭を下げて教えを乞うたりしています。誠実な態度でしたが、一方空海の方はそれを拒絶したばかりか、これ幸いと最澄の高弟を自分のところに引き抜いてしまったりして、最澄に打撃を与えたりしています。そうした経緯があったせいか、最澄の弟子達は「密教」の勉強に必死になって、やがてむしろ密教の方に偏ってしまったりもしています。そうした天台宗の密教を「台密」と呼んで、空海の「真言宗」の「東密」と区別しています。天台宗の総本山は「比叡山の延暦寺」です。

2022/03/25

道教の神話 ~ チャイナ神話(5)

https://dic.pixiv.net/

 

道教の成立と神話復興

先述の通り、公式の神話が皇帝権に還元された一方で、民衆の間に別の神話体系が生まれつつあった。

それは時代は漢の末に下り、三国志の時代のことである。

 

この時代に活動した黄巾賊(太平道)と五斗米道は、いわゆる草創期の道教教団である。

太平道は黄巾賊の乱と呼ばれる反乱を起こし、後漢王朝によって滅ぼされてしまう。

しかし五斗米道の3代目天師張魯は後漢の宰相曹操に降り、こちらの教団は存続した。

張魯の子、張盛が4代目天師として龍虎山(現代の江西省にある)に移って天師道と呼ばれ、曲折を経て正一教という現代に続く道教教団になった(菊地章太『道教の世界』pp.53)。

 

このような五斗米道に始まるのが、民衆から生まれた神話体系、道教とその神話である。

やがて道教の神話は、皇帝を始めとした栄枯盛衰の激しい社会の上層にも広まっていく。

儒教が救えない没落への不安が、道教への信仰をもたらしたというのだ(菊池、同書pp.16)。

 

創始者は人か神か

道教の創始者とされるのは、儒教の孔子とほぼ同時代の人物とされる老子である。

だがこの老子、五斗米道によって太上老君という天の最高神に祭り上げられた。

人から最高神への出世である。

太上老君は、唐王朝が老子を祖先として崇拝したことで、その人気が頂点に達した。

 

やがてその唐代に、天の最高神は元始天尊となり、天地開闢以前からの最高神とされた。

その都は天にある街、玉京であるともいう。

道教教義上の至上倫理は「」というが、これを神格化したのが太上道君(霊宝天尊)だ。

これに太上老君(道徳天尊)を加えた三清が、最も尊い神々ということになった。

元始天尊は自然の気から生まれたといい、人ではなく普通に神である。

だが元始天尊は逸話が乏しく、その部下たる玉皇大帝の人気がこれを凌ぐようになる。

 

やはり人気のある神々は人の出身

玉皇大帝とは、いわゆる道教での天帝を指す(玉帝、天公など別名も多数)。

玉皇大帝は、元始天尊を支える神々の一柱であるが、宋代に入って人気が高まったことで天の最高神であるとされるようになった。

もとは光厳妙楽国の王子であったともいい、これも元は人間であったらしい。

娘に織姫がいて、牽牛(彦星)との恋にパパマジギレするのも、この神様である(七夕の伝説)。

 

関帝聖君も、人気の高い神である。三国志の英雄、関羽のことである。

歴代の王朝から武人の鏡として崇拝されるうち、武神とされるようになった。

さらには算盤の発明者とされ、商売の神ともされるようになった。

かくして中華街には関帝廟が置かれて、華僑の信仰を集めている。

周の軍師太公望も、仙人とされる他、軍略の神様としても崇拝された。

 

この頃、中国にも仏教が広まっていた。道教と仏教は一応は別の教団だが、時として混淆されることもある。その典型が西遊記である。

これはお釈迦様の命で旅立つ仏教説話だが、多くの道教の神々が登場する。

つまり、道教神話でもある訳だ。

そして主人公の孫悟空は、道教の神「斉天大聖」としても祀られる。

 

女神にはどんな神々が?

西王母:月の女神あるいは女仙の主。長命をもたらす仙桃を授けてくれる。

媽祖:航海と漁業の守護神。黙娘という宋代の官吏の娘、幼少時から神通力があって仙人から神となった。

碧霞元君(天仙娘々):万能のご利益がある女神という。出自は黄帝の娘であるとか、民間から仙人として修行を続けて神になったとも。

 

死後の世界について

儒教と道教とで神話はやや異なるが、共通する大きな特徴の一つは、死後の世界が不在なことである。

儒教では、祖先霊として子孫を守ることになるが、孔子の「怪力乱神を語らず」とあるように、死後の世界の実態は曖昧だ。

 

また道教の目的は、長命を得て仙人となり、自らが神となることである。

それは上述の神話に、人 → 仙人 → 神の出世があることからもわかる。

儒教より死後の世界はハッキリしており、有名なのは山東省の聖なる山、泰山の地下にあるという。

この死者の都を蒿里と呼び、その支配者を泰山府君という。

キョンシーなど、祀られない死者の怪談も多い。

しかし死後の幸福を求める神話や信仰は、ほとんどない。

歴代の道教を保護した皇帝は、仙薬を飲んで自ら不老不死の仙人になろうとした。

民間でも三尸説にあるように、罪科を避けて長命を願うことが信仰の中心であった。

 

中国神話における神の位置づけ

キリスト教をはじめとして、死後の世界での幸福を信仰の中心とする宗教は多い。

しかし以上のように、中国神話の世界では、信仰の中心はむしろ長命であり、できれば不死の仙人となることである。

そして神とは、人が仙人の修行の果てになる存在という側面が強い。

かくして神と人、仙人が入り混じったカオス状態としての中国神話が存在しているのである。

2022/03/20

ヴァンダル人 ~ 民族移動時代(14)

ヴァンダル人(Vandalは、古代末期にゲルマニアから北アフリカに移住した民族。ローマ領外の蛮族による民族移動時代にローマ領内へ侵入して北アフリカにまで進軍し、カルタゴを首都とするヴァンダル王国を建国した。彼らが北アフリカに進出する前に一時的に定着したスペインのアンダルシア(もともとはVandalusiaと綴った)や、破壊行為を意味するヴァンダリズムの語源ともなっている。

 

ヴァンダル人の起源

19世紀の研究により、ヴァンダル人は全体としてプシェヴォルスク文化に属することが判明した。また、リュージイ族(ルギイ、LygierLugierLygians)との関係も議論されており、リュージイ族(ルギイ族(英語版))が、後にヴァンダル人と呼ばれるようになったか、もしくはヴァンダル人は複数部族の連合体で、リュージイ族はその一つであるスラヴ系部族だったとするなど諸説ある。

 

スカンジナビア起源説によれば、後にヴァンダル人のうちの一部を構成することになる部族は、紀元前2世紀にバルト海を渡って現在のポーランド地域に到着し、紀元前120年頃からシレジアに定住するようになったとされる。名前の類似性から、ノルウェーのハリングダール(Hallingdal)、スウェーデンのヴェンデル(Vendel)、デンマークのヴェンドシッセル(Vendsyssel)が彼らの故郷ではないかという意見が出されたことがあり、近世のゴート起源説ブームではヴァンダル人のスカンジナヴィア起源説が盛んに唱えられた。

 

しかしプシェヴォルスク文化は、ほぼ同じ一帯に広がっていたポメラニア文化の直接の発展形態であり、ポメラニア文化はゲルマン系でもスラヴ系でもなくイリュリア系とされるラウジッツ文化を基礎として、ウクライナから西へ進出して来たスラヴ系の文化(チェルノレス文化)の2つの文化系統が混合してできたものである事実から、ヴァンダル人からスラヴ系の系統を排除するスカンジナビア起源説は、近現代のドイツやスカンジナビア諸国の人々による民族主義的な極論の類に過ぎず、このような政治的主張に学術的価値は全くない。さらにゴート人がスカンジナヴィア半島から来たという説(いわゆるゴート起源説)についても、発端はゴート人という部族名とスウェーデンのゴトランド島の名前が似ているというただそれだけのことであり、この説が事実であることを示唆する証拠は全くないため、この説が妥当である可能性はほとんどない。

 

当時でも、バルト海を越えた人の頻繁な往来はあったはずで、その意味では地理的名称の関連性も考えられないこともない。しかしオクシヴィエ文化の存在から、政治的な集団としてのゴート族の起源はスカンジナヴィアではなく、このオクシヴィエ文化の広がっていたバルト海南岸地方であると推定される。

 

また、ゲルマン語派の起源もスカンジナヴィアではなく、現在のドイツ北部一帯に広まっていたヤストルフ文化の地域であった可能性が濃厚である。ゲルマン語派を決定するグリムの法則による言語の変化が、ヤストルフ文化で起こったと指摘する者もいる。オクシヴィエ文化は、ヤストルフ文化がポメラニア文化に進出した地域(現在のポーランドのポモージェ県と西ポモージェ県)で両者が融合して発生するが、このオクシヴィエ文化こそが最初期のゴート族の文化と考えられる。

 

ゴート族は、実際は異なる文化をもつ部族の連合体であったらしく、ゲルマン系の特徴である埋葬法に加え、ポメラニア文化・プシェヴォルスク文化・チェルノレス文化にも共通する、スラヴ系に特徴的な埋葬の習慣もある。そしてポメラニア文化のうちヤストルフ文化の影響を受けなかった、ヤストルフ文化の影響が希薄だった地域(現在のポーランドの中部と南部一帯)で、ポメラニア文化がそのままプシェヴォルスク文化に移行したことから、このプシェヴォルスク文化がヴァンダル人の文化と考えられる。プシェヴォルスク文化の埋葬形式は火葬で、独特の骨壺を使用しており、かつ他の考古学的特徴は東方のザルビンツィ文化のものと酷似している。これはヴァンダル人が、当時のスラヴ人のうちの西方集団であった可能性が濃厚であることを示唆する。ヴァンダル人は98年に、ゲルマニア地方を流れるオーデル川とヴィスワ川の間に彼らが居たことが、ローマの歴史家タキトゥスや後の歴史家によって記録されている。

 

ヴァンダル人は、シリンジイ(Silingii)とハスディンジイ(Hasdingii)の2つの系統に分けられる。シリンジイは、ゲルマニア・マグナ(いわゆるゲルマニア)のうち、後にシレジアと呼ばれるようになった地域と、その周辺に何世紀にも渡って住んでいた。2世紀に、ハスディンジイは、王のラウスとラプトに率いられて南に移動し、西隣のサルマタイ人の協力を得て、ドナウ川下流でローマ帝国を攻撃しはじめた(マルコマンニ戦争の発端)。

 

その後、ローマ帝国と和睦し、ルーマニアの西ダキアとハンガリーに定着した。ヴァンダル人はローマ帝国内にも移住し、それらの家族のなかにはローマの高官となった者もいる。西ローマ帝国軍最高司令官を務め、数々の大戦争に勝利した名宰相のフラウィウス・スティリコは、父がヴァンダル人、母がローマ人であった。スティリコはその華々しい活躍を妬んだ宮廷内の政治的敵対者たちの陰謀でいわれなき罪を着せられ、ホノリウス帝への弁明のために赴いたラヴェンナで粛清された悲劇の名将として知られている。彼は、自分がいくら懸命にローマのために働いても、他のローマ人から常にどこか差別的な目で見られていたことを自覚していたという。

 

400年から401年にかけて、おそらくフン族の侵入によって、ゴディギゼル(イタリア語版)王のもと、ヴァンダル人はスエビ族やサルマタイ人のアラン族と一緒に西方への移動を開始した。シリンジイは、のちに彼らに加わった。この頃、すでにハスディンジイはキリスト教化されていた。

 

ゴート族の初期と同じように、彼らもイエス・キリストは父なる神と等しい存在ではないとするアリウス主義を取り入れていたが、イエス・キリストは神に最も近い存在として特別に創造されたものだとしていた。これは、ローマ帝国において主流であったキリスト教の信仰とは正反対のものであった。ヴァンダル人は、ドナウ川沿いに西方へと移動したが、ライン川にたどりついた辺りで、北ガリアにあるローマ帝国の属国にいたフランク族の抵抗にあった。この戦いによって、ゴディギゼル王を含めて2万人のヴァンダル人が死亡したが、アラン族の助けを借りてなんとかフランク族を負かすことができた。

 

4061231日、ヴァンダル人は凍結したライン川を渡り、ガリアに侵入した。ゴディギゼルの息子グンデリク王率いるヴァンダル人は、ガリアの西や南へ略奪して回った。40910月、ピレネー山脈を越えてスペインに入った。そこは、ローマ帝国から建国を許された土地であった。アラン族がポルトガルとカルタヘナ一帯を領有し、ヴァンダル人はガリシアとアンダルシアを得た。しかし、スエビ族がガリシアの一部を支配し続け、また西ゴート族がローマ帝国からフランス南部の土地を受け取る前にスペインに侵入し、ヴァンダル人やアラン人との紛争の原因となっていた。

出典 Wikipedia

2022/03/18

本地垂迹説 ~ 「神仏習合」とは何か(4)

 出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 神仏習合理論として体系だったものは鎌倉時代の、真言宗による「両部神道」、天台宗による「山王神道」などが知られていますが、すでに平安時代には「本地垂迹説(仏が「仮に神の姿」となって日本に現れてきたもの、とする説)」が唱えられています。

 

 仏教側の理論ですから、当座はもちろん「」が主体でした。これが極端な形になって現れるのが奈良時代に入っての「神身離脱説」と呼ばれるもので、これは字の通り、「神の身からの離脱」ということで、神はこの地にあって迷い苦しむ衆生の代表であり、神は苦しみの神の身から仏の力によって「そこから脱却」しよう、というものでした。こうして各地の神社に「神宮寺」が建てられ、神の前でお経が読まれたりしたのです。何とも情けない状況に立たされてしまった「日本の神様たち」でした。

 

 しかし、朝廷側としては「神様の力」も侮り難いと思ったのでしょうか、奈良時代の後半、称徳天皇は神は仏法を守護すべき善なる「守護神」であるとして「神様」を「復権」させてきます。こういう「復権」がはっきりみえるのが「奈良の大仏」の建立の場面で、この時それを助けるため「宇佐の八幡神」が近くの京都に呼ばれてくるのです(これを「勧請」といいます)。大変な難事業である「大仏」の建設に、やはり強力な助っ人が必要とされ「八幡様」が選ばれた、というわけです。こうして「仏法」を守護する「」という位置づけが確立していくようになり「鎮守神」という性格を示してくるようになります。

 

 これは面白い現象で、これをたとえばギリシャの神とキリスト教にたとえると、ゼウスやアポロンなどが「イエス・キリスト」の教会の傍らに神殿を持って「イエス様をお守りしている」というような格好になってしまうわけで、こんなことは絶対に起こり得ないことでした。これはたとえれば「サッカーのゴール」を野球のミットを持った「キャッチャー」が守っているようなものでしょう。

 

 しかし、こんなことが「神と仏との間」には成立してしまうというわけですから、仏がどんなにか「神」と同質と思われていたかがよくわかります。こういう中で「神像」などが作られ、貴族の姿をしたものや「僧形」のものなども作られたのですが、どうも「如来」でもなく、「菩薩」でもなく、「明王」とも「天部」とも違うと思われたせいか「神像」は一般化しませんでした。このあたり「神」というものの捉えが揺れ動いていて、つまりどうも「仏」と同じようには扱えない、特殊な性格を特別にもっている存在と捕らえているようです。日本の神々は「自然そのもの」を表しているため、「人間的な姿・形として捕らえられない」という性格をもっていたからだと考えられます。

 

 それはともかく、こうした理解が先ほども指摘しておいたように、平安時代になって「本地垂迹」説を生み出していったのです。これは簡単に言えば、「仏」が本体なのだが、これが日本の地に現れた時には「神様」の姿をとってくるというもので、姿は違えども「本体そのものとしては変わらない」というわけです。ただし、例えば「伊勢神宮」の「本地」は「大日如来」であるなどという主張になるのですから、ニュアンスとして「大日如来」の方が「本物」で「神」の姿は「仮の姿」という主張があって、まだ「仏様」の方が「上だぞ」という含みは残しています。この「仮の姿」というのが「権現」様というわけで(権化も同じ意味です)、仏教の側からみた「神様」の在りようなのでした。

 

 ちなみに「明神様」というのは、逆に「神道」の立場から「優れた神」を言う場面のもので、「名人」ならぬ「名神様」です。中世以前は「名神」と表現され中世以降「明神」と表現されているものです。これはつまり「権現」という言い方にカチンときた「神道側」の抵抗でしょう。ですから「吉田神道」では、この「大明神号」の優位性を主張し、この号の使用を大々的に行っています。面白いのは、豊臣秀吉は死後「豊国大明神」と呼ばれることになったのに対して、徳川家康は「東照大権現」と呼ばれていることです。これは家康のブレーンであった天海が天台宗の僧侶だったからでしょう。

 

 それはさておき、この「本地垂迹」説は天台宗などが「老子」の思想を借用して「和光同塵」といった思想で流行らして一般化していったようです。「和光同塵」というのは、本来は「優れて賢き人がその知恵なる光を和らげ隠して塵なる俗世と交わる」というような意味ですが、ここでは「仏がその身を和らげ、つまり姿を変えてこの俗世に現れ、衆生を救う」というものです。

 

 ところが一方で,宮中においての「神事」においては「仏教儀礼」を廃止すべきという主張が現れています。もっとも、これには悪名高い坊主「弓削の道鏡」などが宮中を引っかき回したことなども原因としてあるかもしれません。少なくとも、宮中では「神仏隔離」の方針がとられていきます。こんな具合に「神仏」の関係は相当に「入り乱れた」状況になっていきました。

 

 こうした経緯を踏まえて、鎌倉時代になり仏教側から「天台宗」の「山王神道」が、真言宗からは「両部神道」が唱えられていくわけです。負けじと「神道」の側からも「伊勢神道」などが提唱されていきます。ですから発端は、すでに平安時代に遡ることができます。

 

 山王神道というのは、要するに「比叡山」を中心として「本地垂迹」説を展開したもので、両部神道は「伊勢神宮」の在り方を「真言密教」の曼陀羅の世界で説明することで、日本の代表的神社である伊勢神宮も「仏」の世界のものであるにほかならない、ということを主張したものでした。

 これに対する神道側の理論である「伊勢神道」は、神仏隔離の根本に立ちながらも、世界観的には両部神道をひっくり返したようなもので、「伊勢神宮」が宇宙の中心であることを主張したものでした。しかし、これらは「学説」としてそれぞれ継承はされ、それが貴族・神官などの文化に影響を与えることはありましたが、一般庶民の間では知られもしなかったでしょう。

 

 一般庶民にとっては「神も仏も同じ事」といった感じのようで、それらを「隔離」すべきだとか、どっちが「本体」だとかはどうでもよかったのでしょう。「難しいこと」は「偉い人たち」の頭の中のことで、自分たちには関係ないといったところです。その同じと見られたものは、これまで見てきましたように、両者とも「現世利益的」功利をもたらす「力」であったことです。

 

 またもう一つ、「仏になる」という仏教本来の思想と見られるものも、「祖霊」信仰の筋道にあると言えるわけで、これはある意味で「仏になる」過程と比肩できるものを持っているといえます。

 

 つまり、日本仏教では「草木すべて仏性を持つ」という思想があり(これを本覚思想といいます)、すべての人間はそのものとして「仏」の性を持っているとしてきます。そしてこれは、「仏様に同化する」という形で考えられていますので(密教では大日如来に、浄土宗では阿弥陀如来の浄土に)、これは「祖霊」信仰と重なっていると考えられるのです。

 

「人間が神になれる」という思想は「神道」には確実にあり、それが、例えば「菅原道真」の「天神様」とか、秀吉の「豊国大明神」、家康の「日光大権現」をはじめ、明治時代にも乃木大将の「乃木神社」、東郷元帥の「東郷神社」などになり、また一般庶民の中からも「不遇」のうちに死んだものが「祟り」を恐れられて「神」として祭られているのをさまざまの地方で観察することができます。こうした「神化」の思想と「成仏」の思想がうまく符号したわけです。

 

以上のように、仏教は日本の風土の中にうまく溶け込んで、独特の「日本仏教」として発展していったのではないかと考えられるわけです。

2022/03/12

スラヴ人 ~ 民族移動時代(13)

スラヴ人は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類に過ぎない。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性は見られ、特に西スラヴと東スラヴは時により北スラヴと分類されることがある。

 

歴史

発展過程

言語の面では、先史時代のトシュチニェツ文化が基層と推測されるが、政治・文化面ではその後のルサチア文化、チェルノレス文化、プシェヴォルスク文化、ザルビンツィ文化、チェルニャコヴォ文化、デンプチン文化などの発展や混交の過程を通じて、地方ごとに諸部族と各地それぞれの文化が形成されたものと推定され、スラヴ語圏全体に共通する文化的な要素が希薄であるのは、これが理由と考えられる。スラブ地域の住民のほとんどは、北ヨーロッパと東の国への武器の製造と輸出に従事していた。ドイツとオーストリアでの発掘調査では、スラブ文化に典型的な装飾が施された剣や鎧の要素が今でも発見されている。一部の東スラブの部族は、広範囲にわたる農業と毛皮の動物の狩猟を行っていた。

 

ほとんどのスラブ人の遺伝子型は、バルト-スラブ民族に典型的なY染色体ハプログループであるハプログループR1aR-M420)によって表される。スラヴ人は、このほかハプログループR1bR-M343, P25)も西スラヴを中心に多く含んでいる。

 

中世初期の民族大移動における考古文化のプラハ・ペンコフ・コロチン文化複合は、当時のスラヴ語圏諸部族のうちウクライナにおける政治集団がポリーシャからヨーロッパ全域に拡張し、各地で影響を及ぼした痕跡と考えられる。それ以前は、西スラヴ語群の元となった系統の諸部族と、東スラヴ語群の元となった系統の諸部族は、政治的にも文化的にも断絶が続いていた時期が長いことが判明している。

 

9世紀に入ると、農耕に適さず人口が希薄なパンノニア盆地の広大な草原に遊牧民のマジャール人が侵入、西スラヴ語群の諸部族が北と南に分断され、それぞれ北では西スラヴ語群、南では南スラヴ語群の諸民族が中世を通じ形成されていった。

 

名称

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スラヴ全体に関する様々な学問をスラヴ学という。その語源となったスラヴ語本来の「スラヴ・スロボ」の意味は、『言語』、『言葉』を意味するものである[要出典]。近隣の(非スラブ人)の人々は、スラブ人によって"nemets"と呼ばれ、"ミュート""話すことができない"という意味である。この意見は、マックス・ファスマーなどの多くの言語学者によって共有されている。

 

政治・文化

多くのスラブの戦士が、しばしばドイツ人とビザンチン人に雇われたことが知られている。いくつかのスラブ戦争は、アラブ商人の傭兵としての役割を果たした。

 

スラヴ人の間では、高貴な戦士の死体をボートで燃やす習慣が広まった。後にこの習慣は、スカンジナビア人とバルト人によってスラブ人からもたらされた。

 

家族の女性が夫の奴隷と見なされ、軍事に従事することを許可されなかった近隣のゲルマン人やローマ人の人々とは異なり、スラブ人には男性と女性への分割の概念がなかった。

 

スラヴ語の共通性を基盤とするスラヴ全体の共通性を強調する態度は汎スラヴ主義と呼ばれ、国民楽派、第一次世界大戦と民族国家、旧東欧の概念などの重要な主体性ともなったが、文化・宗教面ではスラヴ各民族ごとに異なる主体性を持っており、過去何度も繰り返されたポーランド・ロシア戦争のほか、近年では1990年代のユーゴスラビア紛争や、2010年代のウクライナ紛争などのように血を流し合って対立する矛盾した面を持っている。

 

分布

ロシアとフランスの人類学者ジョゼフ・ドゥニケールは、スラブ人を北方人種(ゲルマン人種といくつかのフィン・ウゴル人種と一緒に)に帰した。スラブ人の最初の祖先の家はバルト海の北にあり、そこからスラブ人は現在のポリーシャの領土に移住したと考えられている。その後、ヨーロッパ各地へと移住する過程で、67世紀頃まで言語としてある程度の一体性を持っていたものが、次第に東スラヴ人、西スラヴ人そして南スラヴ人といった緩やかなまとまりから、さらに各地のスラヴ民族を多数派とする集団へと分化していった歴史を持つ。

 

遺伝子型によって、スラブ人はかつて単一の言語コミュニティを形成したバルト人とフィノ-ウゴル人に近い。

 

移住先では、元々の在来の住民と混交する形で言語的にも文化的にも、次第に現地住民を同化しつつ、在来の住民と相互に影響を与え合う形で発展していった。特にトルコの支配を受けた南スラヴ人については、スラヴ人の移住以前からのバルカン半島の土着的な要素に加えて、オリエンタル地域に由来する文化も持ち合わせている。「ブルガリア」の名前は、中世のテュルク系遊牧民であったブルガール人に由来しており、ブルガール人は彼らが支配するドナウ・ブルガール・ハン国で多数派であったスラヴ人と同化してブルガリア人となった。

 

一方、西ヨーロッパにおいても、少数ながらスラヴ民族が現在も居住している。特にドイツ東部においては、古来よりポーランドとの国境付近にはドイツ人とポーランド人との混血集団であるシレジア人を始め、エルベ川東部にもスラヴ系集団が居住し、現代に至るまでドイツ人との間で複雑な相克の歴史を持つ。現在もドイツ東部にはソルブ人が居住している。

 

また中世以来の古い家系でありながら、スラブ系やスラブ系由来の姓を持っているドイツ人は多数いる。近代以降は、カナダに大量のスラヴ人が移住している。彼らは英語化し、もとの母語であるスラヴ語を失っているものの、カナダ最大の民族はアングロサクソンではなく、ウクライナ人やポーランド人を基幹とするスラヴ人であるとされる。また、シカゴを含むアメリカのイリノイ州の住民は、圧倒的にスラヴ系が多い。

 

なお、スラヴ人の中で最大の民族集団であるロシアの語源については、いくつか説はあるが、現代のウクライナの首都キエフを中心としたキエフ大公国の正式国号「ルーシ」からとられたとも言われている。この「ルーシ」をギリシャ語読みすると「ロシア」となる。本来、地理的にキーフルーシがルーシ(ロシア)の名を引き継ぐべきところであるが、歴史的にモンゴル支配以降、急速に台頭してきた新興国家モスクワ公国(キーフルーシの一構成国で、のちにロシア帝国となる)に「ロシア」の主導権を握られ、先を越された感がある。なお、キーフルーシはその後、ロシア帝国の一構成集団として取り込まれていった後、ウクライナとして現代ロシアとは別の国家として存続している。

 

そのためウクライナ人の中には、これらの歴史的経緯からウクライナ人とロシア人は同じスラヴ民族であり、近隣同士の間柄としてともに歩んできたものの、ロシア人とウクライナ人とは一線を画しているとする論調が存在し、それが両民族の間にさまざまな軋轢をもたらしていることも、また事実である。なお、ウクライナ人自身も長い歴史の中でゴート人、ノルマン人、スキタイ人そして東スラヴ人との混血によって形成された民族集団である。

 

ロシアについては、歴史的に民族の行き交う十字路に位置しており、古代にはスキタイ人やサルマティア人、フン人そしてハザール人を始めとする遊牧民族、中世にはモンゴル人やタタール人等による支配を経験している。その後、ロシアが領土を中央アジアからシベリア、極東方面へ大きく拡大し周辺の諸民族を征服する過程で、これらの民族と言語的、文化的に混交、同化していった経緯から、ロシア人はコーカソイドを基調としながらも、東へ向かうにつれてモンゴロイド人種の特徴を含む人々も見られ、人種的に相当なばらつきがあるといわれている。

出典 Wikipedia

2022/03/09

民衆のものとしての仏教 ~ 「神仏習合」とは何か(3)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

仏教が「民衆のもの」とされていく経緯ですが、それは「大乗仏教運動」と呼ばれます。この運動は、従来の仏教は「出家」という特別な人たち向けのもので「民衆の仏教」ではないと考えたのでした。彼らにしてみれば、「有り難い教え」は当然「民衆の願い」と合致するものでなければならず、そうした性格は必然的に「民衆の願い」である「現世利益」への傾向を示してくることになります。

 

 つまり「大乗仏教」では、お釈迦様の段階の「悟りを得る」という目的より、「救済・守護」が主体となってくるわけでした。極楽往生というのも、そうした性格のものでした。

 

 そして、もう一つが民衆の宗教であった「民間信仰」との融合です。「民衆の宗教」を標榜するものが、民間の祈りを馬鹿にするわけにはいきません。むしろ、これを取り込んでいかなければならないことになります。仏教では、こうした民間の神々が取り込まれて「梵天」とか「帝釈天」とか「吉祥天」とかの天部の仏となっていったのです。

 

 こんな具合に、仏教自体がすでに「他の民間信仰と融合する」という性格を身に付けていたのでした。ですから、仏教が日本に伝来して神道と習合しても何ら不思議でもなんでもなく、むしろ普通のことであったのです。そして日本に入って、確かに名前は「仏教」とはなっているのですが、その性格は多分に神道化されてしまっている現象が多く目につくのです。

 

 現在でも、目につくことの一例を挙げてみると「祖先崇拝」です。仏壇の中には位牌があって、人々は折りにふれてその先祖に法事と称する供養の儀式をしていますが、仏教の説くところでは「死者」は「仏界にめでたく成仏している」筈ですから、そしてそのために高い「戒名代」を払ったのですから、いまさら供養などする必要はない筈です。

 

 仮に葬式を出してやらず、先祖の霊が「輪廻の輪」の中をさまよっているとしても「法事」をしたところで今更どうにもなりません。いや、盂蘭盆会は「地獄」におちている母を救いとるための法事ではないかと言われれば、それは確かにその通りなのですが、これは中国で儒教の影響のもとに作られた話というのが真実のところらしく、まあそれはどうでもいいにしても、それにしても「地獄」に落ちているという想定のもとに「先祖の供養」をするというのは、ずいぶん先祖に対して失礼のような気がするわけです。

 

また同じことですが、お盆で「先祖がお帰りになる」というのも変な話で、仏教では今の話のように「先祖の霊は仏界にあって」二度とこの輪廻の苦しみの世界に戻ることはないし、仏界に行き損なっている場合にしたって六道の輪廻の中にいるのですから「帰って」こられるわけがありません。

 

 これはつまり、神道の「祖先崇拝」つまり「祖霊」についての観念そのものなのです。ここでは、先祖の霊は死んで何処かにいってしまうのではなく、山にあって「死霊」というまだ穢れた状態にあるものが、子孫が供養することでだんだん穢れがとれ、やがて「祖霊」と浄化していくのだ、と説きます。ですから、ここでは「供養の儀式」は必要でした。

 

 この供養は定期的に行われ、最後の供養が仏教で三十三回忌などと言われているのですが、これは「死霊が浄化される期間」のことなのであり、「何回忌」などというのは、神道ではこんな呼び名はしませんが、完全に神道の概念だったのです。

 

 また、神道では当然先祖の霊は「帰って」これます。なぜなら先祖の霊は、どこか遠くに行ってしまうのではなく、死んで「山」に行き、そこで浄化を計って祖霊になるからです。

 

 この観念が、そっくり仏教の名のもとで考えられているのですから不思議といえば不思議ですが、こんなのが神仏習合の実体なのです。ちなみに葬式の時「」をふりかけるのも神道の「死の穢れ」という観念からで、仏教本来のものではありません。「忌中」とかそういった「物忌み」も、すべて神道の習慣です。

 

 ちなみに神道では「死を嫌い」ますので、なぜならそれは「繁栄・健康」の「消失」であり「」の失いだからですが、そのため「神道儀式としての葬式」は本来やらないものでした。仏教は、その間隙をつくことができて、伝来以来「先祖供養の儀式」をやってやることで、人々の心に食い込んでいったのです。今日、現代仏教のことを「葬式仏教」などと呼んで馬鹿にしている人もいますが、日本では元々がそうであったのです。そのくせ、この仏教の葬式に神道の観念が山ほど入り込んでしまっているのです。いかに神道を主体に、仏教が受容されていったのかがよくわかります。

 

 以上のように、一般の人々の仏教に対する態度というのは、要するに「自分や家族の守護」と「先祖崇拝」という本来「在来の日本の神」に期待されていた働き以外の何者でもなかったのです。ただ「仏」という名前の「神様」の方が「強そうで御利益がありそう」ということでしかなかったとすら言えるのです。これは、また「仏教受容のはじめ」の朝廷の態度でもあったことは、すでに指摘しておきました。

 

 こうした自覚は実は仏教のほうにもあって、それが仏教の側からの「神仏習合理論」となって現れてくるのです。これは通常、仏教が神道を取り込むための理論とされ、仏教主体の理論であるとされています。表向きはその通りなのですが、ちょっと考えてみれば分かるように、もし本当に仏教が勝利しているのであれば「神道」なんか「無視」してしまえばよい筈なのです。事実、仏教が勝利した東南アジアでは、在来の民間信仰との「習合論」なんか全然作られませんでしたし、キリスト教やイスラームの場合にしたって、在来宗教との習合論なんか試みられもしていません。これは日本仏教のみの現象なのであって、実にここにこそ「日本仏教の特殊性」がみてとれると考えられるわけです。

2022/03/07

中国神話 ~ チャイナ神話(4)

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中国神話とは、中国に伝わる神話・伝説。人が超常の力を得てなる仙人の伝説とほとんど一体化している。歴史上の人物が神となるケースも多い。これらの結果、人を超えた絶対神の影は薄い。

 

概要 

中国語には、本来「神話」という概念はない。

神という概念はあったが、実のところ歴史時代の前に神話時代があったという世界観ではない。

むしろ、人と神と仙人とが混然としたカオスをなしていると言ったほうがよい。

このあたりが、日本神話やギリシャ神話などとの大きな違いである。

そこで、以下でそのカオスについて概観してみよう。

 

儒教の神話

天地開闢

最初は混沌とした世界である。やがて清んだ陽気が天となり、濁った陰気が地となった。

ここに盤古という巨大な神が生まれ、吐息から風、涙から雨、またその遺体から山岳や草木等が生まれたという。

 

三皇五帝

盤古の死と共に世界の創造はおおよそ終わり、三皇五帝という神もしくは聖なる君主が世界を治め、かつ創造を完了する。まずは三皇が次々に現れる。

 

伏羲:蛇身人首の神。家畜の飼育や漁撈などを教える。

女媧:蛇身人首の神。伏羲の妹とされ、人類を泥から作った(あるいは産んだ)。

神農:人身牛首の神。伏羲の子孫で、農耕や医薬などの発明者とされる。

 

三皇にも女媧に代えて祝融を入れる等諸説あるが、概ね人間離れした姿で神と認識されていた。

だが、伏羲や神農が陳の街に都をおいて王に即位したり、後述する黄帝と戦った伝承があったり、既に人間の王との区別があいまいである。

 

次に現れた五帝は、最初の王とも呼ばれる黄帝や善政の代名詞とされる堯舜など、

もはやほぼ完全に人間の王となってしまう。

史家・司馬遷によれば、黄帝は中国文化と文明の源泉の象徴である(アン・ビレル『中国の神話』)。

 

黄帝は炎を操る弟の炎帝を水の武器で征服し、金属武器を発明した戦神である蚩尤を、娘である女魃による旱魃の力で打ち負かした。

黄帝は数多くの戦いに勝ったが、侵略には何の喜びも見出さない偉大な英雄とされた(同書)。

堯もまた理想的な帝であったが、その子には帝としての器量が足りないことを危惧し、

冷酷な継母に対しよく孝行していたことで評判の高い舜を登用した。舜は堯の命を受けて教育を任されれば世に孝行を広め、官庁を任されれば綱紀を正し、ついに認められて帝となった。

 

五帝の最後、もしくは五帝の次に王となったのが禹である。

禹は世界的な大洪水を治め、大地を汚染していた怪獣・相柳を殺した英雄である。

禹はその息子に王位を伝え、ここから最初の王朝、夏がうまれたという(アン・ビレル、同書)。

 

三皇五帝以外の知られている神話の英雄には、弓の名手羿がいる。

かつては太陽が十個もあり、交互に昇って大地を照らしていた。

しかしある日、十個の太陽が同時に昇り、作物も人間も焼けてしまった。

羿は、この危機にその弓で九個の太陽を射落とし、人類を救ったという。

羿は、後に妻の嫦娥に西王母から授かった不死の薬を盗まれてしまい、嫦娥は月に逃れてカエルになったとも、再生を司る月の女神になったともいう(アン・ビレル、『中国の神話』)。

 

これらの物語は、儒教成立以前から伝えられてきたもので、『楚辞』『淮南子』等にまとめられている。

また、神と人との区別の曖昧さについては、当時の神話を文字に書き記した人々、すなわち孔子を始めとした春秋時代諸子百家の思想家たちの合理主義に原因を求める意見もある。

彼らは自説を例証する材料として、神秘的な神話を人間たちの歴史的故事に書き換えたというのだ(伊藤清司『中国の神話・伝説』他)。

 

殷周以降の王と神話

さて夏を滅ぼしたという殷、そして次の周時代は考古学的裏付けもあり、歴史上の王の時代といえる。

殷の神話は、「」という神を王が祭祀することを骨格としていた。

その方法が犠牲を捧げることや占いなどであり、現代に残る甲骨文字は占いの遺物である。

 

殷を滅ぼした周は「」という信仰対象を持っていた。

天は天命という形でその意思を下して王を選ぶ。ゆえに王は天の子、天子である。

実際には、殷を武力で滅ぼしたことが天命の力によるもの、と正当化したため、逆に武力で王を倒して自ら王となった者が天命を得た者である、という論理が成立した。

こうして天命の行方は武力次第という、神の影が薄い図式が強化されたわけだ。

 

周の主神たる天は、敗れた殷の神たる帝の概念を吸収し、「天帝」と呼ばれるようになった。

他に周は、社稷(それぞれ土地神と穀物の神)、宗廟(神となった祖先)等を祭祀した。

この周における祭祀のルールを体系化したものが儒教であり、ここまでが公式の中国神話となる。

 

後に始皇帝が、三皇五帝以上の業績を自らが挙げたと称し、劉邦がこの皇帝という称号を引き継いで漢の皇帝となる。

漢の君主が皇帝、すなわち三皇五帝を超える存在となり、天や社稷、宗廟の祭祀を行うとなると、上述の神話はほぼ全て皇帝権に吸収されてしまうのがわかるだろう。

すなわち儒教の神話は皇帝の祭祀権独占を保証する神話であり、民間には祖先祭祀ぐらいしか残らなかったのだ。

だが、ここで終わりではなかった。

2022/03/02

アラン人 ~ 民族移動時代(12)

アラン人(アラン族、Alans)は、紀元後に北カフカスから黒海北岸地方を支配した遊牧騎馬民族。イラン系遊牧民族であるサルマタイを構成する部族のひとつ、ないしいくつかの総称。アラニ(Alani),アラウニ(Alauni),ハラニ(Halani)ともいう。

 

概要

紀元後1世紀後半、文献記録においてアオルシ(アオルソイ)の名が消え、それに代わってアランという名の遊牧民が登場するようになる。このアランをサルマタイの一部と考える研究者が多く、中国史書の『後漢書』西域伝「奄蔡国、改名して阿蘭聊国」や、『魏略』西戎伝「奄蔡国、一名を阿蘭という」といった記述から、「奄蔡」をアオルシに、「阿蘭」をアランに比定することがある。考古学的には、黒海北岸における2世紀から4世紀の「後期サルマタイ文化」を、アランの文化と見なす見方もある。

 

アランは紀元後にカスピ海沿岸から北カフカスを経て、黒海北岸のドン川流域に至る広大な地域を支配した。しかし4世紀の半ばになって、東の中央アジア方面から侵攻してきたフンの襲撃に遭い、潰滅的打撃を受け、フンの一部となって西の東西ゴート族侵攻に加わった。これが民族大移動の引き金となる。

 

その後、アランの一部はパンノニアを経て民族移動期にドナウ川流域から北イタリアに侵入し、一部はガリアに入植した。さらにその一部は、ローマ人によってバルバロイを統治するためにブリテン島へ派遣された。また、他の一部はイベリア半島を通過して北アフリカにまで到達した。

 

起源

4世紀後半のローマの歴史家であるアンミアヌス・マルケリヌスは「アランは以前マッサゲタエと呼ばれていた」と記す。また、18世紀フランスの歴史家ジョセフ・ド・ギーニュは「アランはもとトランスオクシアナの北方に住んでいたが、紀元前40年頃から西方に移転し始めた」と説いた。

 

中国による記録

中国の記録によると、奄蔡という国がある時期から阿蘭国ないし阿蘭聊国と改名し、康居という遊牧国家に属したり属さなかったりしていた。習俗から見て、遊牧民であることがわかる。

 

西北に転じれば烏孫・康居であり、本国は(これまで)増損が無い。北烏伊別国は康居の北に在り、又た柳国があり、又た巖国がある。又た奄蔡があって一名を阿蘭とし、皆な康居と習俗を同じくする。(これらは)西は大秦と、東南は康居と接している。その国には名品たる貂が多く、水草を逐って畜牧して大沢に臨み、ゆえに時には康居に羈属するが、今は属していない。

魚豢『魏略』西戎伝

 

奄蔡国は阿蘭聊国と改名する。地城に住み、康居に属する。気候は温暖で、多くの楨、松、白草がある。民俗や衣服は康居と同じ。

范曄『後漢書』西域伝

 

パルティアへ侵入

36年、ローマ帝国シリア属州総督ルキウス・ウィテッリウスの手先に扇動されてアラン(アラニ)はコーカサス山脈の峠を通過し、イベリア(ヒベリア)人の妨害を受けることもなく、パルティア領内に集結した。

 

72年頃、アラン(アラニ)は自領であるマイオティス湖(アゾフ海)周辺から進軍し、当時独立していたヒルカニアの王と同盟を結び、コーカサス山脈の「鉄の門」経由で南下し、メディア・アトロパテネに入った。パルティア王ボロガセス1世が弟のパコルスをメディア・アトロパテネ王に封じていたが、僻地に追いやっていたので、アランは不在中のパコルスの婦人部屋を襲った。アランは進軍を続け、西進してアルメニア王ティリダテスを破り、投げ縄で捕えようとしたが、戦利品を大量に与えられたので満足して東に向きを変えた。

 

136年頃、アラン(アラニ)はイベリア(ヒベリア)のファラスマネスに説得されて東北からアルバニアとメディア・アトロパテネに侵入し、アルメニアとカッパドキアにまで進んだ。ムシハ・ズハの記述によれば、アラン軍がゴルディエネに侵入したので、アディアベネの総督ラフバフトと将軍アルシャクは、ボロガセス3世がクテシフォンで徴兵した歩兵2万を率いてアラン軍に立ち向かった。

 

パルティア軍はキゾという名の首領の計略にかかり、谷に閉じ込められた。ラフバフトの働きによりパルティア軍は脱出することができたが、ラフバフト自身は戦死してしまう。パルティア軍はやむなく退却し、メソポタミアへの道はアラン軍に明け渡された。しかし、ちょうどアラン本国が他の部族によって侵入を受けたので、アラン軍はその対応のため東方へ戻っていった。

 

フンの来襲

350年頃、カスピ海北岸から黒海にかけて住んでいたアランに、東方からフンと呼ばれる騎馬遊牧民が襲いかかった。フン族はアランを取り込んで勢力を大きくし、375年頃、バランベルという首長に率いられ、黒海北岸にいた東ゴート族に侵入した。東ゴート族は敗れて一部は西方に移動し、一部はフンの配下に組み込まれた。376年、アランと東ゴートを組み込んだフンの一団は、現在のルーマニア付近にいた西ゴート族に迫った。西ゴート族の大部分はドナウ川を渡河してローマ帝国に助けを求めた。

 

カフカースに残ったアラン

フンとともにヨーロッパへ移住したアランとは別に、北カフカースに残ったアランもいた。クバン川とテレク川の河間地帯や山中へと移動した。67世紀には北カフカースに本拠を置き、しばしばサーサーン朝の同盟者としてその名がみえる。78世紀にはテュルク系のハザールやブルガールと戦火を交え、その後もカフカース山中に残存した。

 

89世紀に封建関係の萌芽が生まれ、1012世紀には国家の形態をとるまでになった。10世紀にキリスト教が受容されたが、それは支配階級にとどまり、一般民衆の間には古来の多神教的な要素が根強く残ったという。オセット人やカバルダ人など今日のカフカース諸民族は自らの民族形成にアランが果たした役割を強調しており、とくに北オセチアは国名に「アラニヤ(Алания)」という語を付している。

 

習俗

4世紀後半のローマの軍人である歴史家アンミアヌス・マルケリヌスは、アランの習俗について以下のように記している。

 

彼らは家を持たず、すきを使おうともせず、荷車に乗ったまま、肉と豊富な乳とを常食とする。そして、無限の砂漠を荷車で通り抜け、任意の牧草地に到着すると、円の中に荷車を設置し、荷車の中で動物の群のように生活する。いわば荷車は生活物資を備えた彼らの町なのである。その荷車の中で夫は妻と寝て、子どもたちは生まれて育てられる。この荷車は要するに彼らの永続する住居であり、荷車が設置できるところならどこでも設置できる。

アンミアヌス・マルケリヌス『ローマの歴史』31-18

 

また、彼らの容貌についても、以下のように記している。

 

ほぼすべてのアラニ人は、背が高く美しい。彼らの髪は多少黄色で、彼らの目はひどく猛烈である。彼らの鎧は軽く、素早い動作ができる。

アンミアヌス・マルケリヌス『ローマの歴史』31-21

 

軍事

アンミアヌス・マルケリヌスの記述によれば、アランは戦闘における最も壮麗な戦利品として、殺害した敵兵の頭皮を剥いで軍馬に飾るという。

 

考古学の調査によれば、アランは他のサルマタイ部族同様、長槍・長剣・馬鎧がかなり普及し、重装騎兵のような様相であったと推測される。

出典 Wikipedia