2004/05/31

女子マラソン劇場part2



 オリンピックと世界選手権で金メダルを獲得し、世界記録も叩きだした事もある天才ランナー高橋尚子選手のように「陸上のための人生ではなく、人生のための陸上」とまで悟りきった選手は、そうザラにはいないだろう。後援関係者を始めとした周囲の期待といった、外野からは窺い知れないしがらみもあろう。そうした迷いを吹っ切る役割を担っているのが、コーチの存在だ。

トップアスリートは、ある意味「国家に捧げられた生贄」も同然であり、恐らくは常日頃から

「日本にメダルを齎す事が出来るのはお前しかいないんだから、頑張れ・・・」

などと叱咤激励されているのだろう。しかしながら、事は単に苦しいとかキツイといった次元を遥かに超越して「女を捨てられるか?」といった究極的な選択を突きつけられた(勿論、皆が皆そうではないだろうが)選手の方では、ある意味「人生を捨てる」までの覚悟を要するのだから、ここまで来ては最早生半可な誤魔化しなどは到底、通用する世界ではない。いかに口では立派な言質を並べ立てようとも、所詮なにも失うもののないコーチでは、失うものがあまりにも大きい選手を救う道はないのである。たった一つの手を除いては・・・

 女子チームの監督が、選手の体重管理に躍起になっているのは、よく知られていることである。理論的に、体重と速度は反比例する。しかし問題は女子選手の場合、脂肪を落としすぎてはいけないという枠があることだ。

≪「体脂肪率22%が、生理不順の起こりやすい臨界点」と言われているが、体重と生理のコントロールが女子長距離選手にとっては重要な問題なのである。  日本の女性マラソンランナーの問題点を梶山洋子が報告している。梶山報告の中に「全国高校駅伝開催前後の月経周期の比較」というグラフがある。これによれば、開催前の1987年1月の都道府県対抗駅伝出場の高校生選手の無月経は5.3%(初経前1.9%)、ところが第3回全国高校女子駅伝(199112月)では、23.2%(同6%)へと大きく増えている。

この原因として「体脂肪の減少と、トレーニング量の多さによる身体的・精神的ストレス」を挙げているが、選手の体重が普通の高校生より1213kgも軽いということを考え合わせると、主たる原因は体脂肪減少に尽きるようだ。では初潮が遅れたり無月経が続くと、どのようなことになるのか。将来の妊娠、出産に対する危惧が懸念される。これは、軽視できない問題だ。テレビ放映で高視聴率を取るスポーツに、青少年が憧れるのはもっともだが、その気持ちを利用し売名のために過度のトレーニングや減量を成長期の選手に強いる環境が、高校女子陸上界にはないだろうか。

このままでいけば、早晩大会の中止や出場制限問題が生じておかしくないし、日本の女子マラソン界にも黄信号がともることになる(アメリカには中・高校生の全国大会はないらしい)

記録を伸ばすには、減量が欠かせない。しかし、そこには生理不順や貧血、骨密度低下、食事制限に対するストレスなど様々な問題が横たわっている。女子にとって最適な減量とは何かは、まだまだ研究途上のテーマなのである≫

京都御所(2001GW京都春の特別拝観)part1

法輪寺は、京都市西京区にある仏教寺院。山号は智福山。宗派は真言宗五智教団に属する。通称:嵯峨虚空蔵。

名勝嵐山の中腹に位置する。本尊の虚空蔵菩薩が、「嵯峨の虚空蔵さん(さがのこくうぞうさん)」として親しまれている。奥州会津柳津の円蔵寺、伊勢の朝熊山(あさまやま)の金剛證寺とともに「日本三大虚空蔵」と称される。

古くは、『今昔物語集』・『枕草子』・『平家物語』などにその名が見え、知恵、芸事の上達、また丑寅年生まれの守り本尊として信仰を集める。また、十三詣りや針供養・うるし祖神の寺としても著名である。さらに、境内には、電気・電波を守護する鎮守社である電電宮が祀られている。

寺伝によれば、713年(和銅6年)、行基が元明天皇の勅願により、五穀豊穣、産業の興隆を祈願する葛井寺(かどのいでら)として建立したとされる。その後、829年(天長6年)、空海の弟子にあたる道昌が、虚空蔵菩薩像を安置して、法輪寺と称したという。

室町時代、応仁の乱により罹災し、江戸時代、後陽成天皇により再建されるが、幕末、蛤御門の変により、再度罹災している。

 舞台からは、嵐山の景観が一望できる。

京都御所は、京都府京都市上京区にある皇居。鎌倉時代中期から明治時代初期まで天皇が住んでいた宮殿。

明治維新の東京行幸により、天皇が東京の皇居(旧江戸城)に移ったため、明治10年(1877年)保存された。明治以降は京都皇宮(きょうとこうぐう)とも称される。

元々、平安京での正式な皇居は平安京の中央部付近に位置する内裏であったが、戦乱などによって荒廃したために里内裏に移った。土御門東洞院内裏は、この里内裏の一つで、後に北朝と呼ばれる事になる持明院統の天皇家が歴代居住した御所であった。ちなみに南朝と呼ばれる事になる大覚寺統の天皇家の御所は、二条富小路内裏であった。現代の京都御所は、土御門東洞院内裏そのものではなく、土御門東洞院内裏を基に拡充され14世紀に現在地に定まったものである。広さは約20.2ヘクタール。

普段は宮内庁へ参観申請をすることで御所内を参観出来るほか、春と秋には一般公開される。

概要
京都御所は、明治2年(1869年)の東京行幸まで歴代天皇の居所・執務所であった。現在(21世紀)の京都御所は国有財産で、宮内庁が管轄する「皇室用財産」に分類されている。隣接して京都大宮御所、仙洞御所があり、また北隣の今出川通を挟んで同志社大学と同志社女子大学(両校とも今出川キャンパス)が位置する。

現在は京都御所、京都大宮御所と仙洞御所を宮内庁が管理し、その周囲の国民公園である京都御苑を環境省が管理している。京都市民は京都御苑も含めて、単に「御所」と呼ぶ事が多い。なお海外の宮殿などと異なり、御所を覆う塀はあまり高くない。これは日本と海外での支配者に対する庶民の親近感の違いが現れているという考察もあるが、天皇家(朝廷)の経済的事情によるとの指摘もあり、定説はない。[要出典]

平安京建都当初の内裏は、現在の京都御所よりかなり西方にあり、JR西日本二条駅の近くの千本丸太町交差点北東の位置にあった。

現存の京都御所は、もとは里内裏の一つで土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)と言い、元弘元年(1331年)、北朝の光厳天皇が最初に使用した内裏である。初は、一町四方の敷地であった。ここにあった内裏は、江戸時代だけで8回再建されており(うち6回は、火災焼失による再建)、現存する建物は江戸末期の安政2年(1855年)、平安様式にならって再建されたもので安政内裏と呼ばれるものである。

明治10年(1877年)、東京の皇居に移っていた明治天皇が京都を訪れた際、東幸後10年も経ずして、施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じた。

 

主な建物としては、紫宸殿(ししんでん)、清涼殿(せいりょうでん)、小御所(こごしょ)、御学問所(おがくもんじょ)、御常御殿(おつねごてん)、迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、皇后宮御常御殿(こうごうぐうおつねごてん)、若宮・姫宮御殿(わかみや・ひめみやごてん)、飛香舎(ひぎょうしゃ)などがある。


即位の礼
 192811月、即位の礼の昭和天皇即位の礼は代々、京都御所の紫宸殿で行なわれ、明治維新の際に天皇が東京へ移ってからも、明治22年(1889年)制定の旧皇室典範により、即位の礼と大嘗祭は京都で行なうと定められ、大正天皇と昭和天皇も京都御所で即位の儀式を行った。

また、第二次世界大戦後制定された現在の皇室典範では、京都で行うというような場所の規定がなくなり、平成2年(1990年)の今上天皇(皇太子明仁親王)の即位にあたり、即位の礼が史上初めて東京に於いて執り行われた。

即位の際に天皇が着座し、その即位が象徴的に示される天皇の正式な御座所である高御座並びに皇后の正式な御座所である御帳台は京都御所の紫宸殿に常設されているため、今上天皇の即位の礼「正殿の儀」(「紫宸殿の儀」に相当)に際しては、高御座と御帳台を解体した上で皇居宮殿のある東京まで運ばれた。
 
建礼門
御所正面入口の正門。素木、切妻造、桧皮葺(ひわだぶき)、柱間1間の四脚門である。開門されるのは天皇や国賓の来場や一般公開など、特別な行事の時のみである。左右の築地塀(ついじべい)には5本の筋(水平の線)が入っているが、これも塀として最高の格式を示すものである。この門を入り、丹塗り瓦葺の承明門(じょうめいもん)を潜ると、正面が紫宸殿である。

紫宸殿
右に見えるのは左近の桜御所の正殿で、天皇の即位式、立太子礼などの最重要儀式が執り行われた最も格式の高い建物である。白砂の南庭(なんてい、だんてい)に面して南向きに建つ。入母屋造、桧皮葺の高床式宮殿建築の建物で、平面は33メートル×23メートルほどの規模がある。建具は、蔀戸(しとみど)が使われている。規模は大きいが、華美な装飾のない簡素な建物である。構造は、中央の母屋の東西南北に庇を付した形になる。

 

内部は板敷きの広い空間となり、中央に高御座(たかみくら、天皇の座)、その東に御帳台(みちょうだい、皇后の座)が置かれている。高御座、御帳台ともに高さ約5メートル、平面八角形で、柱と柱の間に帳(とばり、カーテン)をめぐらし、内部には椅子が置かれている。高御座、御帳台の背後の襖は「賢聖障子」(けんじょうのしょうじ)と呼ばれ、中国古代の賢人32人の肖像が描かれている。これは平安時代からの伝統的な画題である。現在の高御座と御帳台は、大正天皇の即位の礼に際し、古制に則って造られたものである。今上陛下の即位の礼の際には、一度解体した後、東京の皇居宮殿に運ばれて使用された。建物正面の階段の左右には「左近桜」と「右近橘」の木がある。

清涼殿
清涼殿紫宸殿の背後西側にあり、東を正面とした建物。入母屋造、桧皮葺の寝殿造の建物で、建具に蔀戸(しとみど)を使う点などは紫宸殿と共通する。本来は天皇の居所兼執務所であったが、天皇が常御殿に居住するようになってからは、清涼殿も儀式の場として使われるようになっている。

本来、居住の場であった名残で、建物内は紫宸殿よりは細かく仕切られている。中央の母屋には、天皇の休憩所である御帳台(みちょうだい)がある。その手前(東側)には、2枚の畳を敷いた「昼御座」(ひのおまし)がある。ここは天皇の公式の執務場所である。母屋の北側(建物正面から見て右側)には、四方を壁で囲われた「夜御殿」(よんのおとど)がある。

これは天皇の寝室であるが、天皇の居所が常御殿に移ってからは形式的な存在になっていた。この他に西側(裏側)には鬼の間、台盤所(だいばんどころ)、朝餉の間(あさがれいのま)、御手水の間(おちょうずのま)、御湯殿があり、南側には殿上の間がある。これらの部屋の障壁画は、宮廷絵師の土佐派が担当している。また、建物正面の庭には「漢竹」(かわたけ)、「呉竹」(くれたけ)が植えられている。
出典 Wikipedia

ハイドン 弦楽四重奏曲第77番『皇帝』(第1楽章)






  『皇帝』という副題は、第2楽章が「オーストリア国家及び皇帝を賛える歌」の変奏曲であることに由来する。ハイドンは、エステルハージ家楽団の楽長(副楽長を経て昇進)として約30年間務めていたが、当主の死亡とともに解雇されイギリスへ旅立った。一時ロンドンの永住権獲得を考えるも、故郷と故郷の友人たちを思うあまり、結局オーストリアへ戻ることになる。

イギリスに滞在中、ハイドンはイギリス人たちが国歌を口ずさみ、国家への忠誠を心に深く抱く様を目撃し感銘を受けた。時同じくして、オーストリアはナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍の侵略に脅かされていた。ハイドンは故郷の存続を他国から救い、人々にオーストリア人としての誇りを取り戻させ励ますため「オーストリア国歌」制定を提唱し、作曲に取りかかった。

この時に作曲した旋律を77番目の弦楽四重奏曲、つまり後にハイドンの最高傑作と謳われ『皇帝』の称号を与えられることとなる弦楽四重奏曲に組み入れ、変奏曲として第2楽章とした。
出典Wikipedia