2017/10/31

遼河文明



遼河文明とは、満州南部、チャイナ東北の遼河流域で起こった古代文明の一つ。紀元前6200年ごろから存在したと考えられている。1908年、考古学者の鳥居龍蔵が遼河文明の一つである紅山文化を発見したことから始まる。

大規模な竪穴式住居が出土しており、特に遼寧省凌源市から建平県で発見された紅山文化の遺跡の一つ牛河梁遺跡は広範囲に渡って墳墓や祭壇などの神殿が発見され、先史時代の「」があったのではないかと考えられている。紅山文化の遺跡からは風水の原型と見られるものも出土している。 興隆窪文化の遺跡からは、チャイナ最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見されている。また最古の遼寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器などが出土している。

このように黄河文明や長江文明と異質でありながら、古代の中華文明に大きな影響を与えたと考えられ、現代でも大きく注目され盛んに研究されている。20151月、合衆国科学アカデミー紀要に発表されたチャイナ科学院のXiaoping Yang(楊小平)、合衆国ニューメキシコ大学のLouis A. Scuderiと彼らの共同研究者による内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、後のチャイナ文化へと発達した可能性が指摘されている。

遼河文明遺跡における、6500年前から3600年前にかけての古人骨のY染色体ハプログループ分析では、ウラル系民族で高頻度に観察されるハプログループN60%以上の高頻度で認められることから、遼河文明を担った集団はウラル語族を話していた可能性も考えられる。夏家店上層文化の時代になると、ハプログループO2やハプログループC2がハプログループNにとって代わったようである。

遼河文明一覧
・興隆窪文化(こうりゅうわぶんか) 紀元前6200年頃-紀元前5400年頃
・新楽文化(しんらくぶんか) 紀元前5200年頃-紀元前4800年頃
・趙宝溝文化(ちょうほうこうぶんか) 紀元前5400年頃-紀元前4500年頃
・紅山文化(こうさんぶんか) 紀元前4700年頃-紀元前2900年頃
・夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか) 紀元前2000年頃-紀元前1500年頃
・夏家店上層文化(かかてんじょうそうぶんか) 紀元前1100年頃-紀元前500年頃

紅山文化(こうさんぶんか、拼音: Hóngshān Wénhuà)は、中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃[1])に存在した新石器時代の文化。万里の長城より北方、燕山山脈の北から遼河支流の西遼河上流付近にかけて広がり、農業を主とした文化で、竜などをかたどったヒスイなどの玉から、現在のチャイナに繋がる文化や宗教の存在の可能性が考えられている。

紅山文化の名は、内モンゴル自治区の赤峰市で発見された紅山後(こうざんご、Hongshanhou)遺跡に由来する。1908年、満蒙調査を行っていた考古学者の鳥居龍蔵が発見し、1935年に濱田耕作(浜田青陵)や水野清一らにより大規模な調査が行われた。戦後各地で発掘が相次ぎ、彩陶と細石器に特徴付けられるこの文化は1954年、紅山後にちなんで紅山文化と命名されている。
※Wikipedia引用

2017/10/30

孫子の兵法

孫子』は、紀元前500年ごろの春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち、最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から、紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている。

『孫子』以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった。孫武は戦争の記録を分析・研究し、勝敗は運ではなく人為によることを知り、勝利を得るための指針を理論化して、本書で後世に残そうとした。

以下の13篇からなる。

計篇 序論。戦争を決断する以前に考慮すべき事柄について述べる。
作戦篇戦争準備計画について述べる。
謀攻篇:実際の戦闘に拠らずして、勝利を収める方法について述べる。
形篇 :攻撃と守備それぞれの態勢について述べる。
勢篇 :上述の態勢から生じる軍勢の勢いについて述べる。
虚実篇:戦争においていかに主導性を発揮するかについて述べる。
軍争篇敵軍の機先を如何に制するかについて述べる。
九変篇戦局の変化に臨機応変に対応するための9つの手立てについて述べる。
行軍篇軍を進める上での注意事項について述べる。
地形篇:地形によって戦術を変更することを説く。
九地篇:9種類の地勢について説明し、それに応じた戦術を説く。
火攻篇火攻め戦術について述べる。
用間篇:「間」とは間諜を指す。すなわちスパイ。敵情偵察の重要性を説く。

現存する『孫子』は以上からなるが、底本によって順番やタイトルが異なる。上記の篇名とその順序は、1972年に山東省臨沂県銀雀山の前漢時代の墓から出土した竹簡に記されたもの(以下『竹簡孫子』)を元に、竹簡で欠落しているものを『宋本十一家注孫子』によって補ったものである。『竹簡孫子』の方が原型に近いと考えられており『竹簡孫子』とそれ以外とでは、用間篇と火攻篇、虚実(実虚)篇と軍争篇が入れ替わっている。

全般的特徴
非好戦的:戦争を簡単に起こすことや、長期戦による国力消耗を戒める。この点について、老子思想との類縁性を指摘する研究もある。「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」(謀攻篇)

現実主義緻密な観察眼に基づき、戦争の様々な様相を区別し、それに対応した記述を行う。「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」(謀攻篇)

主導権の重視善く攻むる者には、敵、其の守る所を知らず。善く守る者は、敵、其の攻むる所を知らず」(虚実篇)

戦争観
孫子は、戦争を極めて深刻なものであると捉えていた。それは兵は国の大事にして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず」(戦争は国家の大事であって、国民の生死、国家の存亡がかかっている。よく考えねばならない)と説くように、戦争という一事象の中だけで考察するのではなく、あくまで国家運営と戦争との関係を俯瞰する政略・戦略を重視する姿勢から導き出されたものである。それは「国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」、「百戦百勝は善の善なるものに非ず」といった言葉からもうかがえる。

また兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり」(多少まずいやり方で短期決戦に出ることはあっても、長期戦に持ち込んで成功した例は知らない)という言葉も、戦争長期化によって国家に与える経済的負担を憂慮するものである。この費用対効果的な発想も、国家と戦争の関係から発せられたものであると言えるだろう。

孫子は、敵国を攻めた時は食料の輸送に莫大な費用がかかるから、食料は現地で調達すべきだとも言っている。すなわち『孫子』が単なる兵法解説書の地位を脱し、今日まで普遍的な価値を有し続けているのは、目先の戦闘に勝利することに終始せず、こうした国家との関係から戦争を論ずる書の性格によるといえる。

戦略
『孫子』戦略論の特色は「廟算」の重視にある。廟算とは、開戦の前に廟堂(祖先祭祀の霊廟)で行われる軍議のことで「算」とは敵味方の実情分析と比較を指す。では廟算とは、敵味方の何を比較するのか。それは

為政者と民とが一致団結するような政治や教化のあり方
天候などの自然
地形
戦争指導者の力量
:軍の制度・軍規
の「五事」である。

より具体的には、以下の「七計」によって判断する。

1.敵味方、どちらの君主が人心を把握しているか。
2.将軍は、どちらが優秀な人材であるか。
3.天の利・地の利は、どちらの軍に有利か。
4.軍規は、どちらがより厳格に守られているか。
5.軍隊は、どちらが強力か。
6.兵卒の訓練は、どちらがよりなされているか。
7.信賞必罰は、どちらがより明確に守られているか。

以上のような要素を戦前に比較し、十分な勝算が見込めるときに兵を起こすべきとする。

守屋洋は、孫子の兵法は以下の7つに集約されるとしている。

1.彼を知り己を知れば百戦して殆うからず。
2.主導権を握って変幻自在に戦え。
3.事前に的確な見通しを立て、敵の無備を攻め、その不意を衝く。
4.敵と対峙する時は正(正攻法)の作戦を採用し、戦いは奇(奇襲)によって勝つ。
5.守勢の時はじっと鳴りを潜め、攻勢の時は一気に畳みかける。
6.勝算があれば戦い、なければ戦わない。
7.兵力の分散と集中に注意し、絶えず敵の状況に対応して変化する。

ジョン・ボイド は孫子の思想を、以下のように捉えて機略戦を論考している。

1.所望結果(人命と資源の保護の観点)
•「武力に訴えず戦わずして勝つこと」を最重視する。
長引く戦争を回避する。

2.所望結果を獲得するためのコンセプトと戦略
コンセプト
•調和
•欺瞞
•行動の迅速性 
•分散/集中 
•奇襲 
(精神的)衝撃

戦略
•敵の弱点、行動パターン及び意図を暴くため、敵の組織と配置を精査する。
•敵の計画と行動を操り、敵の世界の見通しを形作る。
•攻撃目標の優先順位は、1は敵の政策、2は敵方の同盟の分断、3は敵の軍隊、他に方策がない場合に限り都市、である。
•敵の弱点に対し、迅速・不意に全力を指向するように正攻法と奇襲の機動を行う。

※Wikipedia引用