2014/10/26

トラベルのトラブル

東北旅行中。

昨日が鳴子峡見物から鳴子温泉を満喫して、岩手に移動し6時半にホテルに着く予定が8時過ぎにチェックイン。名物牛タンステーキや十割そばを堪能。今日は厳美渓〜毛越寺〜中尊寺と黄金コースを回り、6時には宿に着く積りがまたしても8時近くに到着。チェックイン時間だけでなく、土地勘のないところを調査不十分によるミスを連発。東京とは違い、一つ間違えば確実に1時間以上待たされる田舎の不便さ(というより、己の不勉強)を身に沁みて知らされている。

 

まったく「トラベル」の語源は「トラブル」だろうというインチキ説を信じたくなるくらいで、1時間以上も先に出る電車を待って、ようやく見つけた小さいカフェで一服 ('Д'y ─┛~~

2014/10/14

刺身の登場(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(7)

刺身の調理法は、魚肉以外でも用いられる。『鈴鹿家記』応永6年(1399年)610日の記事に「指身 鯉イリ酒ワサビ」とあるのが刺身の文献上の初出である。

 

醤油が普及する以前は、生姜酢や辛子酢、煎り酒(削り節、梅干、酒、水、溜まりを合わせて煮詰めたもの)など、なますで用いられる調味料がそのまま用いられた。「切り身」ではなく「刺身」と呼ばれるようになった由来は、切り身にしてしまうと魚の種類が分からなくなるので、その魚の「尾鰭」を切り身に刺して示したことからであるという。一説には「切る」を忌詞(いみことば)として避けて「刺す」を使ったためとも言われる。

 

いずれにせよ、ほどなくして刺身は食材を薄く切って盛り付け、食べる直前に調味料を付けて食べる料理として認識されるようになったらしく『四条流包丁書(しじょうりゅうほうちょうがき)』(宝徳元年・1489年)ではクラゲを切ったものや、果ては雉や山鳥の塩漬けを湯で塩抜きし、薄切りしたものまでも刺身と称している。

 

刺身の異称

刺身とよく似た料理に「打ち身」がある。文献によっては刺身と混用されていることもあるが、こちらは総じて刺身よりも分厚く切り、盛り付けに鰭(ひれ)だけでなく皮や中落ちまでも利用するなど、調理法が極めて多彩かつ複雑であった。しかし対象となる魚の種類が鯛か鯉に限られていたこともあり、より簡便な刺身が普及するにつれ、室町末期には殆ど刺身と区別がつかなくなり、江戸時代に入るとともに料理名としても廃れた。

 

かつての関西では、原則として鯛などの海の物に限られているが、魚を切る事を「作り身」といい、それに接頭語を付けた「お造り」という言葉が生まれた。そして淡水魚の場合は「刺身」といったことが「守貞謾稿」に記されている。現在では異なっている。

 

懐石の一品「お造り」

料理としての刺身は、江戸時代に江戸の地で一気に花開いた。そもそも京都は、鯉のような淡水魚を除けば新鮮な魚介類が得られにくいため、いわゆる江戸前の新鮮な魚介類が豊富に手に入る江戸で、刺身のような鮮度のよい魚介類を必要とする料理が発達するのは当然のことであった。

 

もうひとつの理由は、調味料として醤油が生まれた事である。生魚の生臭さを抑える濃口醤油が江戸時代中期より大量生産をはじめ、大都市・江戸の需要をまかなった。後述の通り、魚を生食する文化は日本以外にも存在するが、特定の種類の魚の調理法に限定されている。

 

江戸時代の江戸で生まれた、多種多様な魚介類を刺身として生食する習慣は、まさしく醤油という生の魚と相性が抜群によい調味料あってこそのものであった。また醤油の普及は、生の魚と飯を即席であわせて醤油をつけて食す料理、つまり握り寿司へと繋がって行った。

 

また刺身の普及によって、鰹や鮪のような塩漬や加熱調理した場合に食味が落ちる魚についても、美味しく食べられるようになった。鮪は、江戸時代中期までは塩漬したものを煮るか焼くかで食すのが普通であり、あまり美味とはみなされず、それゆえに安価な魚であった。江戸時代後期から、醤油漬けにした鮪を生食するようになり、これが美味であるとして人気が高まった。歌川豊国の「当世娘評判記」には、大皿に刺身とつまを盛ったものが描かれている。こういった状況を「守貞漫稿」では、次のように記している。

 

鯛・ひらめには辛味噌あるひはわさび醤油を用ひ、まぐろ・鰹等には大根おろしの醤油を好しとす。夏は血水底に溜まる故に、江戸にては葭簀あるひは硝子簾を敷きて、その上にさしみを盛る。江戸、刺身添へ物、三、四種を加ふ。糸切大根、同うど、生紫海苔、生防風、姫蓼。粗なる物には、黄菊、うご、大根おろし等を専らとす

 

幕末には、京阪は四季に関係なく鯛ばかりを使用している上、切り方から盛り付けまで乱雑である(『守貞漫稿』)と批判されるほどにまで差がついていた。喜多川守貞著『守貞漫稿』1853年には、屋台の「刺身屋」が登場し、これは江戸前の鰹と鮪が主であり、大変に繁盛したとされている。また、皿に好みの刺身を盛ってもらう「刺身盛り合わせ」の形式が誕生した。

 

魚を薄く精巧に切った「平作り」などについて、次のように記述している。

 

「京坂にては四時及び料理の精粗を択ばず専ら鯛を用ひ、他魚は用ふを甚だ略とす。京坂惣ての作り身斬目正しからず斬肉を乱に盛る。京坂にては鮪を下碑の食として中以上及び饗応にはこれを用ひず。又鮪を作り身にせず。江戸は大禮の時は鯛を用ひ、平日これを用ひるを稀とす。平日は鮪を専らとす。包丁甚だ精巧にして斬目正しく 斬肉の正列に盛るを良しとす」

 

近代に入ると、流通の発達や冷蔵設備の普及、冷凍技術の発達に伴い、日本全国津々浦々で新鮮な刺身が食べられるようになった。特に鮪に関しては、近世までは醤油漬が江戸で食されたに過ぎないが、冷蔵技術の進歩により全くの生の状態で日本中に流通するようになった。また鮭や一部の烏賊のように、寄生虫を持つために従来は生食に適さなかった魚も、冷凍処理で寄生虫を殺す事で生食できるようになった。

 

そして今では日本料理の代表格として、寿司とともに日本国外にも進出を果たし「Sashimi」で通じるほどにまでなっている。英語圏の魚市場や魚屋では、生食出来得る品質の魚介類を指して「サシミ・クオリティー(Sashimi Quality」と呼称・表示することもある。

出典Wikipedia

2014/10/11

神名『古事記傳』



本居宣長訳
○「神名」は「カミのミナは」と読むべきことも、一之巻で述べた。
を「迦微(かみ)」と言うのはなぜか、分からない。【世間で言われる語源説は、みな当たっていない。】一般に「かみ」は、古い典籍に記載されている天地の諸々の神々を始め、それを祀る神社にいる御霊を言い、また人はさておき鳥獣木草のたぐい、海山など、その他何であれ尋常ならざる優れた徳(能力)があって、おそれかしこむべきものを言う。【「優れた」とは、尊いことや善いこと、功業などが優れているというだけではない。悪いもの、奇(あや)しいものなども、世に優れてかしこむべき存在は神と言う。人について言えば、世々の天皇がみな神であることは言うまでもない。それは遠つ神と言い、凡人とは遙かに遠く尊くかしこむべき存在である。だから、いつの世にも神である人はいるのだ。また天下に喧伝されることはなくとも、それぞれの国や里、家のうちにあっても、それに応じて神と呼ぶべき人はいるだろう。

ところで神代の神々も、多くはその当時の人であって、その頃の人はみな神だったので「神代」と言うのである。また人でないものとしては、雷などは普通にも「鳴る神」、「神鳴り」と言うから言う必要もないが、龍、樹霊(こだま)、狐などもすぐれて奇しいもので、かしこむべきであるから神と言う。木霊(こだま)とは俗に言う天狗のことで、漢籍に魑魅(ちみ)と言うたぐいのものである。書紀の舒明の巻にある天狗は、これとは違う。また源氏物語などには「天狗こだま」などとあるので、天狗とこだまとは別物のように思えるが、当時は天狗とも木霊とも言っていたのを何となく書き連ねたにすぎず、実際は同じものだ。現在俗にこだまと言っているのは、古くは山彦と言った。このことは、この伝には別に必要もないのだが、木霊を挙げたついでに述べたのである。
 また虎や狼も神と言ったことが書紀や万葉に見え、伊邪那岐命が桃子(もものミ)に「意富加牟都美(おおかむつみ)命」と命名したこと、磐根、木の株、艸(かや)の葉などがよく物を言ったのも神である。海山を神と言った例もあるが、それはその御霊を言ったのでなく、直接にその海や山を神と呼んだのである。これらも畏れ多い存在だからである。】

神はこのように様々であり、貴い神、賤しい神もあれば強い神、弱い神、善い神、悪い神もあって、心も所行もそれぞれの本性に従ってとりどりなので【貴い賤しいにしても段階があって、最も賤しい神の中には勢いが弱くて、凡人にも負ける神さえいる。狐などは、怪しい業を為すことでは人間に優り、まさに神なのだが犬にも負ける賤しい獣である。しかし、そういう賤しい神ばかり知って、どんな神でも人間の理屈で対抗することができ、おそれ畏まる必要まどないと考えるのは、神には高い神と賤しい神があって、その威力にも差があることを知らないための間違いである。】

およそ一つの基準で定めても、論じることのできない存在である。【それなのに世人が、外国で言う仏や菩薩、聖人などと同じようなものと考え、当然の理ということをもって神の意志を測り知ろうとするのは、とんだ間違いだ。邪悪な神は、理に合わないことを行われることが多く善い神ではないから、それに従っていては正しい理では起こるはずのないことが起こり、事によって怒りに逢い、荒びて災いになることがある。またそうした悪神も、喜ぶときは心が和んで幸運に恵まれることも絶対にないわけではない。また人の知恵の及ぶところではないが、その神の行われることが一見悪いことのようでも実際は善いことであり、逆に一見善いことのようでも本当は悪いことだったということもある。人の知恵には限りがあり真の理は分からないので、とにかく神のご意志はみだりに測り知ろうとするものではない。】まして善神も悪神も非常に尊い神々の行いに至っては、極めて霊妙で測り知れず深いものなのだから、人間の小さい智恵では神の理の千に一つも理解できない。ただその尊いことを尊び、可畏い(かしこい)ことをかしこむべきである。

【「迦微」にの字を当てたのは、よく当たっている。ただ「かみ」というのは体言(名詞)で、その存在を指示している言葉であって、その行いやその徳を言うのではないのに漢国では神とはそのものを指して言うだけでなく、その事や徳をも言い体言にも用言(形容詞)にも使う。たとえば漢の書に神道と言うのがあるが、それは測りがたくあやしい道ということで、その道のありさまを形容するのに神という言葉を使っているのであり、その道の他に神があるというものではない。しかし皇国で「かみの道」と言う場合は神の始められた道という意味であり、その道のあやしいさまを言っているわけではない。

「かみなる道」と言えば漢国の意のようになるけれども、それもなお具体的な道を言っているので、その道のさまを形容しているのではない。およそ皇国の言葉の意味と漢国の言葉の意味は完全には一致しないことが多いのに、一部合わないところがあっても大体似た意味の字を当てたのだから、合わない部分があるということをよく心得ておくべきである。