2010/02/28

浅田の美学?(バンクーバー・オリンピックpart3)

それはともかくとして、敢えて困難なチャレンジや厳しい選択を続けながら、様々な障害物を乗り越えてここまで復活してきた浅田は、やはり素晴らしい。

 

浅田の目指すものは、一体なんだろうか?

 

これまでは「オリンピックで金メダルを獲ること」と言い続けていたように思ったが、ならばなぜあんなに難しく分かり難い選曲をしたのか?

 

今や浅田の代名詞になっている「3A」は、確かに女子では浅田にしか出来ない大技には違いないが、男子を基準にしている今の配点ではあまり優遇はされない。寧ろ、キムなど何人もの選手がやっている「3-3」のコンビネーションの方が、基礎点が高いのである。このことからもわかるように「3A」は決して「必殺技」と言われるほどの高得点が付くわけではないのに、なぜリスクの高い「3A」ばかりにあれほど拘るのか?

 

あくまで「勝ち」に拘るのであれば「3A」を完成させるための多大な努力を、キムのように他の簡単な加点要素へと振り向けた方が得策ではないのか、と思えてしまうのである(キムは、ロープで吊り下げられて練習したが「私には無理」と断念した)

 

似たような話に、かつてオリンピックでメダルを独占していながら、最近は落ち目になった柔道がある。日本がメダルを独占していた頃に比べ、柔道そのものが海外でもメジャーな競技となり、相対的に日本の力が落ちてきたというのもあるが、実のところ日本がオリンピックで勝てなくなった原因は「柔道」と「JUDO」の違いが大きいのではないか、と思う。

 

外国の「JUDO」はあくまで、レスリングなどと同様に「ポイントを争うスポーツ」で、実際に掛け逃げや反則狙いのポイント稼ぎといった、姑息な駆け引きばかりが目立つようになった。そこに、柔道本来の「柔の精神」などは微塵もない。また負けた選手は、ロクに礼もせずに帰っていくなど「礼節」の精神といったものもない。これに対し、あくまでも「一本でなければ勝ちではない」とばかり、異常なまでに綺麗な一本勝ちに拘るのが、日本の柔道家である。姑息なポイント稼ぎなどは潔しとしないのが基本であり、これ自体はまことに立派なことだと言えるが、実のところこれがポイント狙いのへっぴり腰な外国選手に勝てなくなってきた、最大の原因なのである。

 

ただし柔道の場合は、これまでの日本における長い歴史や伝統といったものの重みを背負っているだけに、選手がそうなってしまうのは理解できる。浅田とキムら外国選手の違いは、この図式に近いのではないかと前々から思っていたが、柔道とは違い大して歴史のない世界で独特の美学に拘っているような浅田の理想の高さが、どうにも理解しがたいのである(精々「伊藤みどり以来の王国愛知の伝統」というくらいしか、思い浮かばない)

 

そして「銀」の結果に、これまで見たこともないような深い悲しみの表情と号泣・・・

 

(こうなるのは、わかっていたではないか・・・だったらなぜ、勝つための戦略に変えなかったんだ?)

 

と、益々わけが分からなくなってしまうではないか。

 

そうは言いながらも、浅田の魅力は実はそうした天才のみが追求する、異常なまでの高い理想(無難でつまらない演技ではなく、誰も真似の出来ない大技を盛り込んだ演技でなければ金の価値がない?)にこそ、あるのかもしれない。

 

度重なる不可解な判定に対する不信感もあったかもしれないが、オリンピックという大舞台での大役で「銀」の結果を残しながら、終わった直後に自らの演技には「納得していない」と、あれほどまでに悔し涙にくれた選手が、かつていただろうか?

 

それも、ついこの前まで高校生だった19歳の少女であることを思えば、孤高のアスリートらしい潔さには胸を打たれる。あのまっすぐな生き様こそ、彼女の演技に見られる輝きの源となっているのだろうし、小細工などはまったく似合わないのである。これからも、堂々と勝負を挑んでいってもらいたいものだ。

にしても最初の3Aは、瞼に焼き付くような美しさだった。

2010/02/26

フィギュアスケートの採点疑惑(バンクーバー・オリンピックpart2)

浅田とキム・ヨナの対決と持て囃された女子フィギュアスケートは、正直なところあれだけ両者のプログラムの難易度が格段に違っていては、最初から結果が見えていたも同然だった。

 

キムはノーミスで、完璧な演技である・・・と言うよりは、ミスをしないような無難なプログラム構成を組み、さらには確実に加点が貰えるための緻密な計算に基づいているのだから、そうなる確率が高いのは当たり前だ。対する浅田の方は、非常に難易度の高いプログラム構成でありながら、構成点は難易度の高くないキムと殆ど差がないという、非常にリスキーなチャレンジである。これはお互いに自分で選択したことであって、敢えて困難にチャレンジする浅田の拘りは本人にしか理解できないところだが、メダル争いという意味ではこの「戦略」が勝敗を決めたのは明白と言える。

 

無難なプログラムとは言え、それを完璧に演じきったキムはさすがではあったが、それにしても異常なまでに得点が高すぎると思えて仕方がない。浅田とは、ほぼ互角かと思ったショートプログラムで「歴代最高得点」が出て既に大きな差がついてしまったが、続くフリーでも「150点超え」という前代未聞の高得点と、異常なまでの加点の嵐である。

 

ちなみに、審査員の「主観」に依存する「加点」の付き方を見ると浅田8.82、男子優勝のライサチェック9.64、プルシェンコ7.68に対し、キムはナント彼らの倍近い17.40!(高橋に至っては、たったの3.2)だ。また女子は男子の0.8掛けの配点だが、男子に換算すればジャンプが1回少なくても高橋よりも高い得点なのである。これだけ非常識なまでの得点を見せ付けられた後に滑らなければならないのだから、浅田にとってはこれは拷問にも等しいような、最悪の展開と言うしかない。

 

この大会は、つくづく浅田にとっては終始逆風が叩きつけるような、過酷な試練の連続であったが、そんな異様な空気の中でも浅田は己を見失うことなく、見事に「鐘」を演じきった。多少ミスが出た点を考えれば、浅田の130点台という得点は寧ろ妥当というべきであり、ノーミスとは言えそれほどたいした見せ場も感動もないし、息を呑むほどの凄みがあったわけでもないあの演技が、20点近くも上を行くのがどう考えても不可解に過ぎた。

 

彗星の如く登場して来た時から一貫して浅田贔屓のワタクシであり、当然ながらキムやコリアは一貫して好きではないし、アスリートとしての能力ということで言えば、これは浅田の方が遥かに上だと思っている。が、今回の演技と両者の現状(発展途上とピーク)、さらには現状の採点システムをも勘案すれば、今回の順位自体は必ずしもおかしいとは思っていない。幾らか表情が硬かった浅田に対し、キムは憎たらしいくらいに落ち着いていたのも事実である。おかしいと思っているのは、あくまで特定の選手に対する異常に高い得点である。「3A」や「クワド(4回転)」もやってないのに、換算すると男子のどの選手よりも遥かに高いのだから、これには驚く。実際このオリンピックに限らず、ここ最近はキムの異常な加点や高得点が続いていたし、男子でも地元選手に対して、異常に高い「疑惑の採点」があっただけに、正直

「キムとロシェットの金・銀は、最初から予定済みなのではなかろうな?」

とジョークを言っていたくらいである。

 

実際、手付きを始めミスの目立ったロシェットが130点台で、あの難易度の高いプログラムを演じきった浅田と殆ど差がないどころか、構成点(技術、つなぎ、実行力/遂行力、振付、曲の解釈)では総てロシェットが浅田を上回っているのを見ると、まったくジョークではなくなった。これでは、どう考えてもキムとロシェットの2人だけは、他の選手と採点基準が著しく異なっていたと疑問に感じない方が、余程どうかしているのではないか。

 

最後にノーミスで素晴らしい演技をした長洲未来やレピスト、或いは安藤の方が、ロシェットよりはよっぽど上だという気がした。こうなると、最終滑走の長洲の得点が出るのに異常な時間を費やしていたのも「なにかの調整が必要なのか?」という疑いを持ってしまう。これが採点競技の不明瞭なところであり、これについては幾らどうこう言ってもごまめの歯ぎしりに過ぎないのはわかっているのだが・・・

2010/02/21

バンクーバー・オリンピック(1)

某選手の服装論争は、色々な人も書いていたし様々な論争があったようで、見ていると意外にも何をトチ狂ったか、問題の選手に好意的な発言が多いのに驚いた。

 

そもそも開閉会式すらみたためしがないくらい、競技以外のセレモニーの類には一切興味がないワタクシだけに、この件に関して詳しい経緯を知っているわけではないが、ざっと眺めた限り「たかが服装くらいのことで」というのは事の本質ではないと思う。服装が云々とか「国の代表」がどうこうというより、つまるところ問題の彼が子供っぽいとか態度が横着だとか結局のところその辺りが、あれだけ騒ぎを大きくした原因なのではないのか。

 

そもそも皇族や外交官でもない、たかだかスポーツ選手や大学生(或いはそれに類する若者)風情に、幾らなんでも「国の代表」を背負わせて「人間性」やら「品格」などを問うているような愚か者は居ないはずだ。が、この場合は「国家の代表」云々などというご大層なお題目は別としても、少なくとも成人として公式の場に出る時くらいは、それなりの構えや対処を求められるのは至極当たり前なのである(極端な話、マスゴミや大衆の目の届かぬ「私的な場」においては、いかに酷い格好をしていようが構わないと思っている)

 

ましてやオリンピックなどは、派遣や参加費用などの莫大な資金のかなりの部分は、我々の税金から捻出されるのだ。それでなくとも、この酷い不況と重税のダブルパンチで心がささくれ立っている納税者の心情を考えるなら、「こうすればどうなる?」というような想像力くらい少しは働かせようぜ、と言いたくもなろうというものだ(要は「空気読めよ」ということ)

 

節操のないマスゴミのことだから、これでまかり間違ってメダルでも獲ろうものなら、掌かえしたようにヒーローに祭り上げるところだったろうが、そうでなければ所詮「口だけのヤツ」で終わりなのである。結果が総てのシビアな世界にあっては、メダル狙いでイチカバチカの果敢なチャレンジをしようとも、メダル狙いの計算に基づいた高度な戦略が隠されていようとも、結果は「転倒」としてしか扱われないのがオチで、実際に長野五輪の「金」を始め、メダルを2度も獲得したあの偉大な里谷選手にして、あれだけの酷い扱いなのだから、里谷選手に比べれば殆ど実績のないK選手では言うに及ばずなのだ。

 

いや、Kなんぞを引き合いに出しては偉大な里谷選手に失礼過ぎるというものだが、不思議なことに泥酔スキャンダルの遥か以前から、10年以上に渡り金メダリストをそっちのけで「愛子愛子愛子愛子」を連呼し続けた偏向マスゴミは、寧ろ里谷選手の転倒を喜んでいたのではないか、とすら勘ぐってしまいたくなるのである(上村より上位に来たら困るからねw)

 

それはともかくとして「観戦記」である。ちょうど開幕から1週間が過ぎ、折り返しを迎えた。前回のトリノ五輪は、最後の最後で女子フィギュアスケートの荒川選手が「金」を獲るまで「メダル0」の危機に見舞われたが、この大会ではスピードスケート男子500メートルで長島選手が「銀」、加藤選手が「胴」のダブル受賞、そして男子フィギュアスケートでは、高橋選手が念願の日本人初のメダリストとなるなど、それなりの収穫があった。それにしても毎度のことだが、どう見てもまともな精神状態ではなかった織田にマイクを突きつける、ハイエナのようなマスゴミの無神経さは許しがたい。

2010/02/01

音楽動画の意義

ワタクシの数ある趣味の中でも、最も上位に位置するのがClassic音楽である。幸いにして、育った家庭にClassic音楽のレコードが山のようにあったことから、この趣味に自然に入ることが出来たが、これまで色々な人の話を聞いてみると

「日常生活の中で、Classic音楽などには縁がない」

と言う人が、かなり多いようだ。

 

ワタクシのような「聴く専門」の怠け者とは違い、子供の頃からピアノや楽器を習っていたような人なら、もっと幼少の頃からClassic音楽に馴染んでいて、当たり前のように日常生活の中にClassic音楽が溶け込んでいるのだろう。これを裏返して言うと、そのような習い事の経験がなく、なおかつ育った家庭環境もそのような音楽にはまったく無縁となれば、親しむ機会は殆どないかもしれない。

 

CMやそこここで使われているとはいえ、なんと言ってもTVなどでのべつまくなしに流され続けているお蔭で、洗脳(?)されやすい歌謡曲などの大衆向けの音楽に比べれば聴く機会は少ないだろうし、昨今のメディア多様化に至るまでの長きに渡り、TVの白痴番組によって洗脳された人々からすれば、聴き慣れないClassic音楽は馴染みにくいのかもしれない。

 

ただし、ワタクシはClassic音楽に馴染みの薄い人々に、この世界の素晴らしさを啓蒙しようなどという、ご大層なグランドデザインに基づいてこれを創設したわけでは勿論なく、他のチャンネルと同様、単に自らの趣味を満足させるために始めたに過ぎず、またそのような意図でずっと続けている。

 

そうは言っても自分が愛する趣味が、1人でも多くの理解者を得ることの喜びもなくはない。ましてや、それが自分の書いたものをきっかけに、それまで興味や関心がなかった人がClassic音楽に目を向けるようになったとしたら、これはやはり悦ばしくもあり意義もある。

 

これまで、この『10ちゃんねる』でClassic音楽に興味を持たれた人がどのくらいいるかは、まったく闇に包まれている(殆ど居ないとは思っているが)

 

仮に影響力はゼロであっても、所詮はブログなどというものは自己満足の場にすぎないのだから、自分自身が「発信する」という原点を今後も楽しめれば、それで充分なのである。

 

これまでClassic音楽関連の読み物というと、曲の解説が主流だった。大体において、このようなものを書くのは専門家が多いから、そういう傾向になるのは必然なのかもしれないが、幸か不幸かワタクシの場合は音楽にはズブの素人であり、また専門的な音楽理論的な知識もない。だから書こうにも書けないという事情もあるが、そもそも対象として想定しているのがあくまで素人の読者だから、専門用語がズラズラと並んでいるような解説書的な読み物などは、寧ろ退屈であるはずだ。

 

そこで、まずは作曲家そのものに焦点を当てた。これならば誰が読んでもわかり易いし、いかに偉大な作曲家といえども我々と同じ人間である。また幸いにして、他の芸術家などと同様に偉大な作曲家といわれる人には、我々凡人には図りがたいような奇人・変人が多いというのも、人間を描くという点において実に好都合である。

 

そのようにして、まずは作曲家の人間性を浮き彫りにした上で、それに興味を持った人たちが音楽にも目を向けていくことになれば、勿怪の幸いというのが狙いである。

 

ところが文字で書くのには、隔靴掻痒の感が大いにあった。当初は、まだYou Tubeのような動画サイトが登場する以前(或いは既に存在していたのかもしれないが、今日のような広まりはなかった)だから、仮に興味を持ったとしても実際にその音楽に接するとなると、CDを買いに行くかNHKBSチャンネルなどの番組を観るというのが、数少ない手段だった。

 

しかしながら、実際にそこまでの積極的な行動に移すまでの影響力を与えるには、文字だけではかなり訴求力が弱いのだ。そこに、長年のジレンマがあった。ところが一昨年辺りから、ブログやコミュニティサイトでもYou Tubeなどの動画サイトのタグ埋め込みが可能となり、画面を開くと文章だけでなく動画の画面を一緒に表示することが出来るようになった。

 

これならばボタンをひとつ押すだけで、そこに書いてある音楽がすぐに始まるのだから  「では、ちょっと聴いてみようか」といった具合に、ハードルは一気に低くなったハズだ。

 

映像の威力とは恐ろしいもので、いかな意を尽くした文章といえ映像の訴求力にはまったく足元にも及ばない。これによって、これまで文章を読んだだけではもうひとつイメージが湧きにくく、もどかしい思いをしていた人も、文章と映像の相乗効果で吸収力が格段に増したことだろう。映像の訴求力の前には微々たる文章の力とはいえ、単に流れている映像を漫然と眺めているのではなく、文章解説であらかじめ仕入れた知識によって理解度が格段に高まるのである。

 

この動画機能によって、ワタクシの役割がこれまで以上に増した。動画を貼り付ける自体は誰がやっても同じではあるが、それに加えて文字で書かれた解説文が、動画の内容をより深く理解する一助となるということは前回も記したが、それだけではない。「動画の選択」という、最も重要な問題がある。

 

ご存知のように、You Tubeなどのサイトの動画は、実に玉石混交(と言うよりは「石石玉石石」というのが現実)である。有名曲、無名曲の別は勿論だが、Classic音楽の場合は曲の良し悪しもさることながら、さらに演奏が重要な要素となってくる。いかな名曲であっても、指揮者や演奏がヘタクソなものでは総てぶち壊しで、一流の指揮による一流の演奏があって、初めて「名曲」が生まれるのである。

 

ところが先にも触れたように、You Tubeなどのサイトの動画は、まことに玉石混交で  「なんで、こんなに酷いものを出したのか・・・」と耳を塞ぎたくなるような犯罪的に酷い演奏が、かなり数多く(というよりは大部分)混ざっているのだ。これでは折角の名曲も台無しであるばかりでなく、無知なままにこのような演奏を聴いてしまったばかりに、Classic音楽の魅力を理解できぬままに間違った偏見を持ってしまうという、不幸なケースも大いにありうるのである。

 

これは動画サイトに限った話ではなく、CD購入などの際にも同様のことが言えるのだが、そうならないためには曲や演奏の良し悪しを判断できる、一定の知識や経験を持った「ナビゲーター」の存在が必須となってくるのは自明の理である。

 

そこで僭越ながら長いClassic視聴歴を通じて、鑑賞眼が磨かれたと自負しているマニアの出番というわけである。これは、あくまで

「曲や演奏にも、それぞれの好みというものがあるではないのか?」

といった低次元の話ではなく、長い年月という審判を通して「名曲」と認定されている曲であったり、同様に指揮や演奏技術的に「一流」と評価されている演奏家であるという、客観的なコモンセンスに基づいた評価であって、この次元の選択において「嗜好云々」の入る余地はまったくない。無論「一流」と評価されている指揮者や演奏者であっても「凡演」も決して珍しくはないのがこの世界だから、ここからは自分の耳で吟味して判断するしかないのだが、それこそは知識や経験といった修練が最もモノをいうところであることは、どの世界でも同様である。

 

実際にやってみれば、実のところたった一つの動画を選択するのが、かなり大変な作業であることがわかるはずだ。まさに、ここが「ナビゲーター」の腕の見せ所というわけなのである。

なお動画の選定は、いうまでもなく「音楽」の良し悪しであり、画像については二の次であることを付記しておく。