2018/05/31

ヘーパイストス(ギリシャ神話37)

ギリシア語:ヘパイストス(Hephaistos)、ラテン語:ウルカヌス(Vulcanus)、英語:ヴァルカン(Vulcan
ヘーパイストス(古希: ΗΦΑΙΣΤΟΣ, φαιστος, Hēphaistos)は、ギリシア神話に登場する神である。古くは雷と火山の神であったと思われるが、後に炎と鍛冶の神とされた。オリュンポス十二神の一柱。神話ではキュクロープスらを従え、自分の工房で様々な武器や道具、宝を作っているという。その象徴は円錐形の帽子、武具、金床、金鎚、矢床である。

その名前の語源は「」、「燃やす」という意味のギリシア語に由来するといわれているが、インド神話の火の神・ヤヴィシュタに由来するともいわれる。古くから小アジア及びレームノス島、シチリア島における火山帯で崇拝された神といわれる。

ローマ神話ではウゥルカーヌス(Vulcānus)に相当する。あるいは、ローマ神話名を英語読みしたウゥルカーヌス(Vulcan)や、日本語では長母音を省略してヘパイストスやヘファイストスとも呼ばれる。

ゼウスとヘーラーの息子で第1子。ゼウスは前妻であるテミスとの間にホーライ3姉妹やモイライ3姉妹などをもうけた。ゼウスが前妻との間に立派な子を儲けていたことに焦ったヘーラーが、正妻としての名誉を挽回するべく産んだ子供であるとされる。ところが、生まれたヘーパイストスは両足の曲がった醜い奇形児であった。これに怒ったヘーラーは、生まれたばかりのわが子を天から海に投げ落とした。その後、ヘーパイストスは海の女神テティスとエウリュノメーに拾われ、9年の間育てられた後、天に帰ったという。

ヘーパイストスはその礼として、テティスとエウリュノメーに自作の宝石を送っている。あるいはヘーラクレースが乗る船を嵐で目的地よりかなり離れたコス島に漂流させて彼を妨害した為、ゼウスから罰せられそうになったヘーラーをかばおうとしたためにゼウスに地上へ投げ落され、1日かかってレームノス島に落ち、シンティエス人に助けられたといわれており、この時に足が不自由になったとされる。

神々の武具を作ることで有名なヘーパイストスだが、自ら戦うこともあり、『イーリアス』ではヘーラーに命じられてアキレウスを襲う河の神と対決し、決して弱まらぬ炎を放って巨大な河そのものを瞬時に沸騰・蒸発させ、河の神スカマンドロスを屈服させている。ゼウスがアテーナーを産んだ時、ゼウスが痛みに耐えかねてヘーパイストスに命じて斧(ラブリュス)で頭を叩き割ったことでも有名である。

一般にはゼウスとヘーラーの息子とされるが、ヘーラーが1人で生んだという伝承もある。それによればヘーラーはゼウスと対立し、ゼウスと交わらずに1人で生んだという。またゼウスは男性ながら、美貌と才気を兼ね備えた女神アテーナーを出産したが、ヘーラーの生んだヘーパイストスは醜い子供だったので、これにより正妻としての面目を失ったヘーラーは、対抗してティーターンの力を借り、自分も1人で子テューポーンをもうけたという。なお、ヘーラーが一人で生んだのは、アレースとする伝承もある。

ヘーパイストスの妻はアプロディーテーとも、カリスのアグライアーともいわれる。一説には天上の妻はアプロディーテーであり、地上の妻はカリスであるという。ヘーパイストスの子供には、アテーナイの王エリクトニオス、テーセウスに退治されたペリペーテース、アルゴナウタイの1人であるパライモーンなどがいる。

アプロディーテーとの結婚
ヘーパイストスは、最初はアプロディーテーと結婚した。結婚の経緯には諸説あるが、有名なものは以下である。

オリュンポスの神々に加えられたヘーパイストスであるが、ヘーラーの彼への冷遇は続き、彼は母への不信感を募らせていった。そんなある日、ヘーパイストスからヘーラーに豪華な椅子が届けられた。宝石をちりばめ、黄金でつくられ、大変美しい椅子で、その出来に感激した上機嫌のヘーラーが椅子に座ったとたん、体を拘束され身動きが取れなくなってしまった。そこでヘーラーがヘーパイストスに拘束を解くよう命じると『自分を貴方様の実の子であると認め、神々の前で紹介してください』と言った。

醜さゆえ、自分が捨てた子で認めたくもなかったヘーラーであったが、このままでいるのも恥ずかしい。仕方なく要求に応じ、ヘーラーも認めた。だが、母に疑心暗鬼になっていたヘーパイストスは、ヘーラーが助かりたい一心であり本心で言った言葉ではないと考え、信用せず拘束を解かなかった。そして

『なら私をアプロディーテーと結婚させてくれますか?
出来ないでしょう。軽々しく言わないでください』

と言ったのである。ところがヘーラーは、助かりたい一心でこれを了承。驚いたヘーパイストスであったが、急いでヘーラーを解放。そして、ヘーパイストスはアプロディーテーと結婚することになったのである。
出典 Wikipedia

2018/05/26

バビロン捕囚


バビロン捕囚は、新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され、移住させられた事件を指す。バビロン幽囚、バビロンの幽囚ともいう。

西暦前587年または586年、ネブカドネザルはエルサレムを滅ぼした。ラキシュやアゼカを含め、ユダの他の都市も征服した。ネブカドネザルは、生き残った人々の大半をバビロンに強制移住させ、人々は捕囚にされる。 流刑の後、ユダヤ人はアケメネス朝ペルシャの初代の王キュロス2世によって解放され、故国に戻ってエルサレムで神殿を建て直すことを許される。

ユダの捕囚民
ユダの捕囚民の大部は、バビロニアにあるニップル市そばの灌漑用運河であるケバル川沿いに移住させられた(『エゼキエル書』による)。この地域は、かつてアッシリア人の要塞があったが、新バビロニア勃興時の戦いによって荒廃しており、ユダヤ人の移住先にここが選ばれたのは、減少した人口を補うためであったと考えられる。一方で職人など熟練労働者はバビロン市に移住させられ、主としてネブカドネザル2世が熱心に行っていた建設事業に従事することになった。

『エゼキエル書』などの記録から、当初ユダの捕囚民達は、このバビロニアへの強制移住は一時的なものであり、間をおかず新バビロニアは滅亡して故国へ帰還できるという楽観論を持っていたといわれている。これに対し、エレミヤとエゼキエルはエルサレム神殿の破滅が近いことを預言し、繰り返し警告を与えたが「救いの預言者」と呼ばれた人々は楽観論を吹聴してまわり、捕囚民達は滅びの預言に耳を傾けることはなかった。しかし、上述した如く紀元前586年にエルサレム神殿が破壊されると、ユダの捕囚民に広がっていた楽観論は粉砕された。

ユダヤ人とバビロニア文化
すぐに故国に帰れるというユダヤ人の希望は幻と消え、長期に渡ってバビロニアに居住することになったユダヤ人は、現地の文化の著しい影響を受けた。12世代を経るうちに、捕囚民の中にはバビロニア風の名前を持つ者が数多く現れた。エホヤキン王の孫ゼルバベル(「バビロンの種」の意)の例に見られる如く王族の間ですら、その傾向は顕著であった。

また月名にバビロニア月名が採用された。旧来のユダヤ月名は「第一月」「第二月」のように番号でもって呼称されていたが、これが「ニサン月(第一月)」「イヤル月(第二月)」のように、バビロニア名で呼ばれるようになった。

そして文字文化にも、大きな影響が齎された。旧来の古代ヘブル文字に変わってアラム文字草書体が使用されるようになり、文学にもバビロニア文学の影響が見られるようになった。

一方でバビロンのユダヤ人たちは、バビロニアの圧倒的な社会や宗教に囲まれる葛藤の中で、それまでの民族の歩みや民族の宗教の在り方を徹底的に再考させられることになった。宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとするようになり、神殿宗教であるだけではなく律法を重んじる宗教としてのユダヤ教を確立することになった。また、この時期に神ヤハウェの再理解が行われ、神ヤハウェはユダヤ民族の神であるだけでなく、この世界を創造した神であり唯一神である、と理解されるようになった。バビロニアの神話に対抗するため、旧約聖書の天地創造などの物語も、旧約聖書学で「第2イザヤ」「祭司記者」などと呼ばれている宗教者たちにより記述されていった。後のローマ帝国以降のディアスポラの中でも失われなかったイスラエル民族のアイデンティティは、こうしてバビロン捕囚をきっかけとして確立されている。

オリエントの強制移住
古代オリエント社会においては、反乱の防止や職人の確保、労働力の確保を目的として強制移住が行われることは頻繁に見られるものであり、ユダヤ人のバビロン捕囚も基本的にこれと変わるものではない。紀元前592年、捕囚民に対して与えられた食料の供給リストがバビロンから出土しているが、このリストにはユダ王エホヤキンやユダヤ人ガディエル、セマフヤフ、シェレミヤフなどの名前とともにツロ人、ビュブロスの大工、エラム人、メディア人、ペルシア人、エジプト人、ギリシア人などの名が上げられており、広範な地域から人間が集められた事がわかる。

ユダヤ人のバビロン捕囚は、こういった強制移住政策について今日最も詳細に記録が残されたものとして重要性を持つ。

バビロン捕囚の終焉
西暦前537年の初めごろ、ペルシャの王キュロス2世は、捕らわれていた者たちがエルサレムに帰還して神殿を再建することを許す布告を出した。総督ゼルバベルと大祭司エシュアに導かれた、42,360人の「流刑囚の子ら」に加えて、7,537人の奴隷や歌うたいたちが約4か月の旅をした。アイザック・リーサー訳の聖書の第6版の脚注は、その人数が婦女子を含めて約20万人に達したことを示唆している。彼らは秋の第7の月までに自分たちの都市に定住した。
出典 Wikipedia

2018/05/24

ソクラテスの原理(9)


 その具体的な追求のありかたですが、人生の行動のあり方において、人はたとえば損・得とか、快・苦とか、あるいは常識とか「ある一つの原理・原則」を立てて行動するものだけれど、自分(ソクラテス)の場合にも「これが正しいかな」と思われる「行為の原理・原則」を立てて行動しようとします。その「原理・原則」について、そこにどんな小さい些細なことでも「矛盾・疑問や反対」があるなら、それをとことん追求して、その矛盾や疑問や反対が解決・解消するように「吟味」を繰り返してみようとします。もちろん、これに「終わり」などないわけですけれど「現時点では、これが一番矛盾も反対もない」という形で「回答」を出すことは可能です。

 ソクラテスの場合、その「人生の行動原理」を具体的な場面で様々に言っていますけれど、有名なのが「人はただ生きるのではなく、良く生きることが大切なのだ」というものがあります。これは「人生とは長生きしさえすれば良い」というものではなく「これこそが良き人生だと確信の持てるあり方で人生を送り、そこにおいて死の危険があってもそれを引き受けて、その人生のあり方を全うすべきだ」というものです。

 そして具体的に、自分の身代わりとなって死んだ親友の仇を討つために命をかけた伝説の英雄アキレウスや、愛のために自らの命を差し出した神話上の女性の名前などを引用して「己の信念を貫いて、そのために死を選ぶことすらあり得るような、そうした人生のあり方に真実の人生が見られる」ということを言ってきます。これは、具体的にソクラテスが無実の罪で死刑にされていった時の信念の言葉でした。

 もちろん、だからといって簡単に死を引き受けてよい、といっているわけではありません。「死を選ばざるを得ない」という場面のことであり、その時とは「自分の人生」が台無しになってしまうと思われた時だけのことです。そして、ソクラテスは「自分の人生」のあり方の原理として「善く生きると正しく生きると美しく生きる」とは同じことであり、従って「正しく生きよう」とし、それにかかわって具体的に「不当に相手を害することは不正」としたのです。

 こうした人生の原理・原則について、ソクラテスは様々のところで様々に語ってきますけれど、一番切実な場面は死刑判決を受けた後の「脱獄の勧め」という局面でした。

「死」がかかっていたからです。ソクラテスは無実の罪で訴えられ「不正に」死刑を受けています。ですから弟子たちは「脱獄すべき」だと思いました。そして、それは可能な状況にあったらしいことが、様々な文献から推し量れます。

それに対してソクラテスは、確かに「不正な死刑判決」ではあるけれど、その「不正」を働いたのは「国の法律」だったわけではなく「事態を正しく理解し、正しく法を適応しなかった裁判役」の人たちだとします。

一方「脱獄」というのは、その人たちに対する戦いの行為ではなく「国」に対する反逆罪になってしまい、自分は国を愛しており今回の裁判に関しても法律的におかしかった点があったり、国そのものが不当を働いたわけではないのだから「国家反逆罪」となる脱獄はできない、という結論だったのです。こうして、ソクラテスは「死」を引き受けていったのでした。他方で「裁判役であった人々」に対しては、痛烈な批判の言葉を残しています。

 ソクラテスが民衆裁判で死刑にされる裏には、ソクラテスが有力者達に憎まれていたという背景がありました。そして「若者を堕落させ、神々を認めない」ということで告発され、裁判にかけられてしまったのです。何故憎まれたのかというと、ソクラテスは「真実の人間のあり方」を問題にして、その追求の上で社会の有力者たちに様々な質問を浴びせかけて吟味してしまい、彼らの「欺瞞」を明らかにしてしまったからです。

それだけならまだしも、若者たちがそれを真似して大人たちの生き方を批判するようになったようでした。こうして「若者を害している」とされて告発されてしまったわけですが、しかし実際にはソクラテスにはそんな意図もなく罪などないのですから、それはどうも多くの人々にも理解されていたようで、助かろうと命乞いすれば助かるような状況にありました。

 しかし、そのためには告発者たちが望んでいた「真実の探求」をやめなくてはなりません。つまり有力者達は、ソクラテスに「真実、人間としてのあり方」など追求せず、黙って静かにしていて欲しかったのです。しかし、そんなことをすれば「これまでのソクラテスは何だったのか」ということになるでしょう。

「あるべき人間の生き方を求めること」、「真実を求めること、真の正しさ、真のよさ、真の美しさを求めること」などは「止めてもいいもの」になってしまいます。ソクラテスは、「その探求は、命に代えられるものではない」と思ったのです。つまり「彼自身の人生そのものを守った」といえるでしょう。「ただ生きることが人生」ではなく、「こう生きるのがよい、と自らの意志で決断した生を生きることこそが生」だからです。ソクラテスはそう言って、命乞いを拒否して死んでいったのです。

2018/05/19

ネブカドネザル2世

ネブカドネザル2
即位した後、ネブカドネザルはシリア・パレスティナ諸国に遠征を繰り返し、次々と掌握していく。このような状況下で、ユダ王国が反乱を起こした。バビロニアはユダを攻め、前597年エルサレム陥落。バビロニアは、ユダの王エホヤキンをはじめ多くの住民をバビロニアに連行した(バビロン捕囚)。このときバビロニアによってユダの王位についたゼデキヤも、後に反乱を起こし、前586年、ネブカドネザルはエルサレムと神殿を破壊し,再び住民を強制連行した。

新バビロニアの王は王碑文において、もっぱら自ら行った建築事業について述べており、軍事遠征などの政治的な内容にはほとんど言及していないが、いくつかの間接的な言及等から、かつての新アッシリア同様、全メソポタミア・シリアを含む広大な領土を支配していたことが分かる。

また、バビロンのイシュタル門やそこから続く大通り、神殿等、数々の建築を行った。有名な空中庭園は、その存在ははっきり証明されておらず、ニネヴェの庭園が誤ってバビロンとされた、という説もある。いずれにせよ、この王の時代が新バビロニアの最盛期といえる。

アメル・マルドゥク、ネリグリッサル、ラバシ・マルドゥク
ネブカドネザル2世の死後、バビロニアは再び政治的に不安定な状態に陥った。ネブカドネザルの息子のアメル・マルドゥクが即位するが、治世2年にして暗殺される。アメル・マルドゥクを暗殺して即位したのは、ネブカドネザルの娘婿といわれる高官ネリグリッサル(ネルガル・シャラ・ウツル)だった。しかし彼は、即位した時点ですでに高齢だったと思われ、その在位は長く続かなかった。

その後、ネリグリッサルの息子ラバシ・マルドゥクが即位するが、ナボニドゥス(ナブー・ナーイド)と、その息子ベルシャザル(ベール・シャラ・ウツル)によるクーデターで倒された。

ナボニドゥス
ナボニドゥスは、ラバシ・マルドゥクを倒して紀元前555年に即位したが、彼自身は王家の人間ではなかった。その素性ははっきりしないが、彼の母アダド・グッピは、名前から推し量るにアラム系であり、ハランという都市出身で、月神シンを信仰していたことが、彼女自身の自伝ともいえる碑文から分かっている。

即位後まもなく、遠征に出発したままアラビア半島のテイマというオアシス都市に10年間も滞在。その理由に関しては諸説あるが、はっきりしていない。ナボニドゥスがバビロンを留守にしている間、皇太子のベルシャザルがバビロニアを治めたが、新年の祭儀は王不在で行われることはなかった。

541年頃バビロンに帰還した後、神殿の改革などを行うが、とくに月神シンをマルドゥクの代わりに最高神としたことが、バビロニア住民(とくに神官)の反感を買った。アケメネス朝ペルシアのキュロス2世は、この住民たちの反感を利用し、前539年バビロンに無血入城することに成功した。

統治体勢
新バビロニアの領内統治システムは、実はあまりよく分かっていない。行政区に分けられ、長官が任命された。地中海沿岸地域やカルデア人・アラム人の住む地域では、地元の有力者が王によって任命された。

バビロニアの都市行政は、各都市の市長もしくは神殿の長官を頂点とし、都市の有力者からなる集会によって決定されていた。社会構造は大まかに自由民、奴隷、小作人からなった。

自由民
都市の市民階級(マール・バーニ)。免税など様々な特権を享受していた。神殿の高級官僚や王室の官僚、職人や商人などによって構成される。自らの名前とともに、父親の名前および先祖の名前(ファミリーネーム)で呼称される。伝統的な一族は、神殿の「聖職禄」を保有していた。

奴隷
奴隷は、王室奴隷・神殿奴隷・個人所有の奴隷に分類できる。

私有奴隷
個人所有の奴隷は、主人の家族とともに暮らし、家事等に従事する。売買や譲渡、主人の借金の担保の対象となり、自らの身柄に関して決定権がない。財産としての価値は高く、アメリカの黒人奴隷のように、鞭で打たれたり迫害されることはない。結婚して家族を作ることができる。解放されて主人と養子縁組をし、主人の老後の世話をする場合などもあった。例は少ないが、自分の財産を持つこともできた。

神殿奴隷
神殿に従属し、祭儀などの宗教関係以外の雑用に従事する。

王室奴隷
王宮に従属して雑務に従事したと思われるが、王室奴隷に関してはあまり分かっていない。

小作人
王室や神殿、大土地を所有する個人に雇われる。都市周辺の農村地帯に住んで土地を耕作し、収穫物(大麦、ナツメヤシ等)を小作料として納めた。これは神殿・王室にとっての主要な財源であった。実際には細かい制度上の差異によって、更に細分化されていた。

2018/05/18

ソクラテス(8) 魂の優れ

出典 http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

 こうして一度立ち止まって、自分の人生を世間のしがらみから離れて見つめ直して見ると「人間とは何なのか、人生の目的とは何なのか、人生の意味とは何なのか、本当のところ誰も良く分かっていない」という事実が浮かび上がってきてしまいます。しかし、それでは「不安」ですので、人々は「分かっているつもり」になって多くの人々の走っている方に自分も走っているのが実情といえます。あるいは「気づきたくない」という「本能」が働いてくるのかもしれません。何故なら、気がついてしまうと「不安」になるからです。

こうして多くの人々は、その「不安」から逃れるために「言い訳」をしたり「分かった振り」をしたり「虚勢を張ったり」してくるのです。しかし人生に対して誠実であろうとすると、一度はその「不安」の淵を覗いて、そこから自分の人生を見つめ直すことが要求されます。「他人によって左右されない自分の人生」「自分が真に納得できる人生」を形成するために、です。

 そうはいっても、こんなことを追求するのは自分一人では難しいです。誰か導き手が欲しいです。その導き手は、その「不安」を真実に自覚し、問題とし、一生かけてその問題と格闘して、そして指針を示してくれた人となります。私達が歴史を振り返ってそうした人を求めるのは、こうした事情があるからです。その指針を与えてくれそうな人の歴史が、哲学史となるわけです。哲学者としては、ソクラテスこそが史上初めて、その現場に立った人となります。

人間とは何なのか、人生とは何なのか、生きることの意味は、目的は・・・誰も知らない」という絶望的な現場に、です。そしてソクラテスは、文字通り生涯と死をかけてそれに立ち向かい、そして「自分なりに真に納得できる生き方」の指針を示してくれたのです。

私達が人生に問題を感じた時、いつも立ち返るのがソクラテスとなるのは、ソクラテスこそが最も優れて指針を示してくれるからなのです。ソクラテスが人類にとって最高度に重要なのは、こうした意味合いにおいてなのでした。

人間の優れと魂
 私たちの現代社会でも「地位・財産」などなく「無名」の人であっても「立派な人」と評価できる人がいることは、多くの人が認めると思います。それは特に誰ということはなく「誠実で人に優しく、まじめに人生を送っている」人であれば、みんなそう評価しています。敢えて言ってしまえば、ソクラテスが思う「優れた人生」というのは、そうしたレベルの人生を意味しており、そうした人をソクラテスは「」において優れた人と呼んで、これこそが「真実に人間らしい優れた人」と考えたのでした。

 ここでの「魂」というのは、ちょうど車を運転している「運転手」にたとえれば分かり易いかもしれません。外見は「車が走っている」わけですけれど、それは実は「外から見えない運転手」が動かしているわけです。私たちの場合「肉体が車」みたいなもので「魂が運転手」というわけです。「運転手」が優れた人であるなら車も「上品」に動き、「運転手」が乱暴であったら車も乱暴に動きます。人間も同様で「魂」が優れているならその肉体の示す行動も「上品」であり、魂が粗野であったら肉体の示す行動も「粗野」になります。

 この「魂の優れ」をソクラテスは内容的に普通の言葉で「正しく、公平で、勇気あり、誠実で、心優しく、節制し・・・」などと語ります。ソクラテスは、とにかく「日常の場面で、一般の人々、特に若い青年たちと、日常の言葉で話しをしながら」問題を追及していましたので、こんな日常の言い方となってきます。ともあれ、こうしたものが「人間としての優れ」としたのでした。

 ところが、これを日本語に訳した時、内容的に「」と訳されることが多くなりました。ソクラテスの問題とは「徳にあった」などと一般に紹介されるようになったのは、こうした事情からです。しかし、これは言葉の上で中国の「儒教」あるいは「徳目」と同じようにイメージされ、あまりいい紹介の仕方ではありません。

ソクラテスの問題とは「徳にあった」という紹介の仕方よりも「人間として優れているとは、どういうことなのか」を問題にしていたと言うべきでしょう。現在、多くの日本訳がそうした方向の訳語をとっているのは、そうした意味合いからです。

 ソクラテスは、こうした「人間の優れ」を問題として追及し、追求しながら生きていくのを「人間のあるべき生き方」としたのです。つまり、本当に「こうであったら人間として完成された優れ」などというものは、神様でなければ知ることなどできません。人間は生物として欲望を持ち「衣・食・住の満足」についても「飽くことなく贅沢を求め」ます。そのため、人を騙し、恥じることもなく、優しさを失い、また感情も強いため「怒り、憎しみ、ねたみ」ます。

ここにおいて「人間らしく」と思った人間が出来ることと言えば「何が真実の善であり、正であり、うるわしいことなのか良く分からない」ということを正直に認めて、認めたところからそれを追求し、とりあえず納得したところで行動し、さらに追求し、ということだけです。このあり方を、ソクラテスは「フィロソフィア・愛知の道」と呼んだのでした。

 人は、「分かっているけどつい悪いことをしてしまう」といいます。でも本当に、そう思っているのでしょうか。「大したことはない」と思っているのではないでしょうか。もし、それが「本当に地獄行き」だと分かっていれば、人は悪事など働かないでしょう。

そんなことはないと思って、それが今「得」になる「利益」になる、「快楽」であるということで、そう行為してしまうのでしょう。ですから「本当に」その行為の意味が分かれば、人は正しく行為できる筈です。勿論、そんな「知」は得られないかもしれませんが、しかし少しでも多くその知をもてれば、その分「より正しく」行為できるでしょう。

ソクラテスは、そんな風に考えて「正しい認識」へと追及の道を突き進んでいったのでした。ですから、この「」というのは学校で習ったり、本に書いてある「知識」などとは全然違います。むしろ「人間そのものについての洞察、人生についての洞察」といえるでしょう。