2009/06/05

芦屋と六麓荘町

  芦屋市は兵庫県の南東部に位置し、南には大阪湾を臨み西に神戸市、東に西宮市と隣接しています。市域を芦屋川が流れ、北部には六甲の山々が連なるなど自然豊かな住宅都市です。

 

阿保親王や在原業平ゆかりの地として、万葉集を始め多くの和歌集に詠われ、大正以降、関西の事業家が豪邸を多く建設したこともあり、阪神間の高級住宅地として知られています。市域には、今から約2万年前から人が住んでいます。

 

市内最古の住居跡が見つかっている山芦屋遺跡からは、約8千年前の土器が発掘されています。この頃は、まだ狩猟や植物採取を中心とした原始的な生活でしたが、弥生時代に入ると農耕へと生活様式が変わります。平地や高地に多くの集落跡が発見され、中でも会下山の中腹で発見された集落跡は高地性集落と呼ばれるもので、竪穴住居のほか高床式の倉庫や祭祀場の跡も残っています。

 

また、古代の氏族の始祖や系譜を記した書物には、芦屋漢人(あしやのあやひと)という名が見られ、市域が古墳時代の渡来人による先進文化の地であったこともうかがえます。

 

平安時代の歌物語で知られる「伊勢物語」には、芦屋の別荘に住んでいた在原業平と思われる主人公が、京の都から訪問者を「布引の滝」ヘ案内したことが描かれています。その他「万葉集」をはじめとする歌集に、よく芦屋の美しい自然が取りあげられ、古典文学にその名を残しています。

 

中世には、楠木正成と足利尊氏の打出・西宮浜合戦や松若物語で知られる鷹尾山の悲劇など、市域はしばしば戦場となります。戦国時代末期になると、こうした戦乱も次第に収まっていったこともあり、打出・芦屋・三条・津知の4つの村が形成されました。

 

江戸時代に入ると封建制度の確立に伴い、市域は尼崎藩の支配下となりました。この頃から新田開発が活発に行われ、人々の暮らしは安定していきました。

 

芦屋と六麓荘町

明治維新後の1871年、廃藩置県により、芦屋村・打出村・三条村・津知村の4村が兵庫県の管下に入り、1889年の市制・町村制施行によって、4つの村が合併して「精道村」となりました。その後、交通機関の発達によって、田園豊かだった市域も住宅都市への歩みを始めます。

 

1905年に阪神電車が開通し、芦屋と打出に駅が置かれると、1913年に国鉄(現JR)芦屋駅、1920年には阪急電車が開通し、1927年に阪神国道も開通しました。1940年、精道村から芦屋市へと変わり、戦後の1951年には「国際文化住宅都市」に指定されました。

 

芦有道路と奥山の開発、下水道事業・区画整理事業・国道43号などの基盤整備が進められ、1975年の芦屋浜埋立地(芦屋浜シーサイドタウン)が完成するなど、めざましい発展を遂げていきました。

 

芦屋の名前の由来は、諸説さまざまですが「葦葺きの(粗末な)家」や「葦の茂ってる風景が美しい」ことに起因するといわれています。

 

六麓荘町(ろくろくそうちょう)は、兵庫県芦屋市にある高級住宅街の名称。神戸・大阪の市街と海を俯瞰する六甲山地の南東麓斜面の海抜200mから250m地点という立地条件で、芦屋市の自然環境の一部分を形成している。

 

六麓荘町は、芦屋が全国に有名になった高級住宅地である。昭和3年くらいから開発され、名前の由来は

 

「風光明媚な六甲山の麓の林の中に作った別荘地」

 

と言う事らしい。

 

東京都の田園調布と共に日本屈指の高級住宅街の一つとされており、町内には数千坪の豪邸が点在し、マスコミなどで取り上げられる有名人の多く住む田園調布に対し、六麓荘町には企業家・資産家が多く住む。

 

東隣には、西宮市との市境を隔てて、同じく高級邸宅街である「苦楽園」がある。西宮七園(甲子園、昭和園、甲風園、甲東園、甲陽園、苦楽園、香櫨園)については、機会があれば別途採り上げるかもしれない。