2022/05/31

法華経(4)

日本での法華経の流布

『法華義疏』

『平家納経』観普賢経見返し 長寛2年(1164年)

平家納経

読経用の折り本。江戸期の両点本(経文の右側にひらがなで音読みを、左側にカタカナと返り点で漢文訓読を示す)

日本では正倉院に法華経の断簡が存在し、日本人にとっても古くからなじみのあった経典であったことが窺える。

 

天台宗、日蓮宗系の宗派には、『法華経』に対し『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経とする見方があり、「法華三部経」と呼ばれている。日本ではまた護国の経典とされ、『金光明経』『仁王経』と併せ「護国三部経」の一つとされた。

 

なお、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五は『観音経』として多くの宗派に普及している。また日蓮宗では、方便品第二、如来寿量品第十六、如来神力品第二十一をまとめて日蓮宗三品経と呼ぶ。

 

606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。

 

「皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」(巻第22、推古天皇14年条)

615年には聖徳太子が法華経の注釈書『法華義疏』を著したとされる (「三経義疏」参照)。聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。多くの天皇も法華経を称える歌を残しており、聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。

 

最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けた。また最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。

 

平安時代末期以降に成立した『今昔物語集』では、法華経の利益が多く描かれている。

 

鎌倉時代~戦国時代

貴族たちは高価な写本を入手し、漢文の読める文官を従えていたが、貴族の衰退と東国武士の台頭とともに法華経の権威は低下した。鎌倉幕府は禅宗を重んじ、また浄土宗の祖である法然や浄土真宗を開いた親鸞などは、比叡山で万人成仏を説く法華経を学んだのちに、持戒や難行を必要としない称名念仏を万人成仏の具体的な手段として見出し、専修念仏を広めた。浄土教と法華経の戦いは時として激しい衝突に至った(法華一揆、安土問答)。

 

法華経信仰の復興を目指したのが日蓮だった。日蓮は、南無阿弥陀仏に対抗すべく「南無妙法蓮華経」の題目を唱え(唱題行)、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る(妙は蘇生の儀也)、という教えを説き、法華宗各派の祖となった。それまでも祈祷や懺悔滅罪のために法華経の読誦や写経は盛んに行われていたが、日蓮教学の法華宗は、この経の題目(題名)の「妙法蓮華経」(鳩摩羅什漢訳本の正式名)の五字を重んじ、南無妙法蓮華経(五字七字の題目)と唱えることを正行(しょうぎょう)とした所に特色がある。

 

また他の鎌倉新仏教においても、法華経は重要な役割を果たしていた。大念仏を唱え融通念仏宗の祖となる良忍は、後の浄土系仏教の先駆として称名念仏を主張したが、華厳経と法華経を正依とし、浄土三部経を傍依とした。

 

曹洞宗の祖師である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探し求めていこうとし続けた。臨終の時に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。

 

近世

近世における法華経は罪障消滅を説く観点から、戦国の戦乱による戦死者への贖罪と悔恨、その後の江戸期に至るまでの和平への祈りを込めて、戦国武将とその後の大名家に広く信奉されるようになった。例として加藤清正は法華経を納経している。

 

江戸期における大名家菩提寺も江戸城下に寄進し法華・日蓮宗系の菩提寺が多く建築され、また紀伊徳川家や加藤清正らによって元よりあった池上本門寺への寄進改築も進んだ。これら大名による諸宗派寺社寄進には、軍役奉仕である参勤交代や天下普請といった、江戸幕府からの奉仕負担を少しでも大目に見てもらおうという目的と、このような菩提寺はいざ国外からの有事軍役の際に、自藩の江戸藩邸屋敷以外の砦としてもの利用も想定するためである。現にこういった寺社は、幕末の動乱の際に砦として活用された(上野戦争における加賀藩邸および寛永寺)。

 

上記の理由以外に、特に武家の妻女・子女らには変成男子せずとも女人成仏ができると説いた日蓮の教えに感化され、勧んで信奉するものがこぞって多くなった。

2022/05/28

東ローマ帝国(3)

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前期 成立と再興

395年、肥大化した領土の統治に限界を感じたローマ帝国は、最終的な東西の分割統治を開始した。

 

旧都「ローマ」を所領する「西側」は、その後100年ももたない。他方、「東側」はローマ帝国の政治・伝統・文化を継承し、長きにわたってキリスト教(正教会)国として地中海世界に君臨した。名実相伴ったのかは別として、東ローマは1453年の滅亡まで、ローマの名を誇るに至ったのである。

 

社会背景

古代ギリシア・ローマ社会では、戦・名誉・自治が密接に絡み合った価値観の元、ポリス社会が形成されていた(古代ローマ帝国は、数々のポリスとの同盟・契約によって成り立つ帝国でもあった)。政治的発言権を持つ市民は、己の都市を自ら仲間と共に防衛し、管理することに誇りを抱いていたのである。

 

しかし、古代ローマ帝国が経験した3世紀の危機や相次ぐ蛮族の帝国への侵入により、この名誉と自治の価値観は廃れていった。

 

ü  共同体意識を保持するための設備(たとえば公共浴場や競技場)の維持が困難となったこと

ü  農村や郊外から多くの部外者が都市に流入し、雑多で精神的に統一されていない大衆が出来上がったこと

ü  これらの結果、市民は都市政治に喜びを見出すどころか疲れを感じるようになっていったこと

 

相次ぐ戦乱と土地の荒廃は、こうした社会の変質を招いた。それ故4世紀の末にはポリスの「自治と名誉の伝統」は、ほぼ消失した(帝都コンスタンティノポリスにおいては、競馬場とそこに集う人々の政治的発言という形で、6世紀まで続いた)。それ故、地方政治は地方議会ではなく、地元の一部有力者の手に渡っていく。

 

荒れていく社会と自治への責任感の喪失により、人々は心の支えを欲するようになった。そのすがる思いの行き着く先がキリストの教えであり、神と結びつく東ローマ皇帝へ服属することであった。この「皇帝の奴隷」であることに安心感を覚える風潮が、東ローマ皇帝を専制君主化していく。この時代は、その最初の段階であった。名誉を重んじ簡単には跪かなかった古代人と、この時代以降の東ローマ人の皇帝への平伏……実に対照的である。

 

テオドシウス朝(379 - 457)

395年、東ローマ帝国は静かに成立した。

 

当時の多くの国民は、395年を「ローマ帝国の完全な分裂」とは考えていなかったのである。事実、当時の東ローマと西ローマの交流は途絶えておらず、また東西に皇帝を立てることもディオクレティアヌス帝の時代から何度かあった。したがって、この“395は、古代ローマ帝国、および西ローマ帝国との明確な線引きが不可能な時代といえる。

 

このように特徴の少ない帝国の初期だが、別段何もなかったわけではない。東ローマ帝国を1000年以上にわたって守り続けた「テオドシウスの城壁」が完成したのも、当時ヨーロッパを席巻していたフン族のアッティラへ献金を打ち切ったのも、そして(今日のカトリックの考えである)キリスト教の三位一体説が支持されたのも、すべてはこの時代である。

 

帝国は、確かに誕生した。後の東ローマ帝国やヨーロッパ史、ひいてはキリスト教の価値観へ少なからず影響を及ぼしながら、産声を上げたのである。

 

レオ朝(457 - 518)

何といっても特筆すべきは「西ローマ帝国の滅亡」である。

 

3代(および5代)皇帝ゼノンの治世期たる476年。西ローマ側が、オドアケル率いるヘルール族の賠償金要求を断ると、オドアケルらによるローマ荒掠が始まった。オドアケルは、時の西ローマ皇帝ロムルスを退位させ、帝位のあかしを東ローマ皇帝ゼノンへ送り返した。これは東ローマ皇帝が西ローマ皇帝の位をも戴く、すなわち全ローマ帝国の皇帝となる権限を有することを意味する。オドアケル本人はゼノンの宗主権を認めたうえで、イタリア王として振る舞うというのだ。

 

かくして東ローマ皇帝=全ローマ皇帝の構図が成立した。しかし西ローマ皇帝が、完全に歴史から姿を消すわけではない。もっとも、その最後の西ローマ皇帝ユリウスにしても、480年には暗殺されている。

 

さて、改めて東西ローマ皇帝となったゼノンではあったが、彼は488年にあろうことか自らに西ローマ皇帝位を献上したオドアケルを討伐するように、東ゴート人のテオドリックに命じた。491年にゼノンはこの世を去ってしまうが、テオドリックによって493年には、オドアケルの排除に成功する。497年、東ローマ帝国はテオドリックを王として承認し、これにより現イタリア・クロアチアに当たる地域には、東ゴート王国(497 - 553年)が成立することになった。

 

その後

ゼノン亡き後の東ローマ帝国は、アナスタシウス1世(在位:491 - 518年)の下、着実に国力を向上させていった。アナトリア南東部のイサウリアの乱が鎮圧され、対ブルガール人用の国防は強化され、そのうえ破綻寸前の財政まで立て直されたのである。後世の東ローマ帝国が理想に燃えることができたのも、この皇帝の尽力による基盤あってのものだろう。

 

国力が回復していく一方、宗教面においては不穏な影が渦巻いていた。アナスタシウス1世とコンスタンティノポリス総主教は、単性論1寄りのキリスト教的見解を示したが、これが三位一体説2を絶対とするローマ教会に反意を抱かれる。まもなく東ローマ帝国は破門された。これは後に神聖ローマ帝国として表れる、東西教会の分裂の第一歩である。

 

1.     キリストは受肉(人間となって現れること)によって、その人性が神性に融合された、とする思想。ようは「キリスト=神だけど人間らしさもある」という考え。古くはギリシアの価値観であり、ここに東ローマ帝国のギリシアらしさを見ることができよう。

 

2. 父(YHWH)と子(イエス)と聖霊が一体となり、唯一の神となる、という考え。

 

フランク王国の台頭

少し戻って、西ローマ帝国が滅亡しきってすぐの481年、舞台は西ヨーロッパ。現在のベルギー辺りにいたフランク人のクロヴィス1世は、現ベルギー周辺地域、いわゆるフランドル地方を統一すると、フランク王国481 - 987年)を建国した。

 

フランク王国は486年、現フランス北部における西ローマ帝国系の残存勢力を駆逐し、これを併合。すると、東ローマ帝国と繋がりを有し、またお膝元の北フランスにおいてキリスト教徒のローマ系ガリア住民が多くいた事実から、5世紀末までにフランク王クロヴィスが東ローマ帝国の国教と同じである、キリスト教アタナシウス派に改宗した。

 

507年、フランク王国は西ゴート王国(現スペイン・南フランス)に対し勝利、その版図をフランス南西部、ピレネー山脈にまで拡大させた。フランスの原型成立である。翌508年、クロヴィスはパリを都とし、東ローマ帝国からはローマ帝国の名誉執政官の位を与えられ、東ローマ帝国の権威の下にフランク王の権力を正統化した。

 

フランク王国はその後も拡大し続け、6世紀末までには現在のフランス・ベルギー・ドイツ中西部およびアルプス山脈一帯にまで版図を広げた。旧西ローマ帝国領域に新たに出現したこの大国は、次第にイタリアや「ローマ皇帝の位」にも干渉し始め、「正統なるローマ」たる東ローマ帝国にとっての不倶戴天の敵となっていく。

2022/05/26

仏像とは何か(3)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 

「仏」たちの特質

如来たち

 そうして膨大な数となった「」たちを少し見てみましょう。

 

まず「仏」のクラスからですが、有名なのが「念仏宗」各派の本尊である「阿弥陀様」でしょう。この仏様は自分に帰依するもの、つまり念仏を唱える人々を自分の領土たる「西方浄土」に救い取る仏様です。ちなみに仏様は、自分の「」を持っています。この仏様は今紹介したように、本来「念仏」を唱えることで「仏国へ往生」を求める人々の本尊という性格を持っており、病気回復などのお願いをする仏様ではありません。鎌倉の大仏様が、この「阿弥陀様」です。

 

 一方、「病気回復」その他「災厄の除去」ということなら「薬師如来」がつかさどっているのであって、こちらは「現世利益」的な性格を持っています。この仏様は、古い像は釈迦像と同じ姿ですが、一般には「薬壺」を持っていることが多いのですぐわかります。

 

 そして「哲学的」なのが「大日如来」で、この仏様は「宇宙の摂理」そのものを表している、とされます。これは民間信仰の「太陽信仰」に起源を持つと考えられ「大日」という名前がそれを表現していますが、やがて深遠な哲学的世界観の中心となり、世界を「金剛世界」と「胎蔵世界」の二つに考える「曼陀羅」の世界観に合わせ、この仏様は二つの姿を持って描かれてきます。この原形になるのが「毘盧遮仏(びるしゃなぶつ)」で、奈良の大仏様がこれです。

 

 ここでは「大日如来が本体」なのであって、お釈迦様というのはその「現世化」なのだ、と説明します。この「大日如来」は「密教」の本尊になります。

 

 こんな具合に、もう「仏様」の段階で「種類」が違うのですが、一般の人々にとってはこんなことはどうでもいいことで、「仏様は仏様」なのであってそこに違いなどなく、どの仏様も大事に思われねばならない、といった感情になっているでしょう。ましてこの他にたくさんいる「仏様」など名前も知らない、というのが普通のようです。

 

菩薩たち

 同様のことは「第二クラス」の「菩薩」のところにもあり、一番有名なのが「観音様」ですが、この観音様自体「十一面観音」「千手観音」「如意輪観音」「馬頭観音」「不空羂索(ふくうけんじゃく)観音」「准牴(じゅんてい)観音」などと「変身」してしまい、仕方なく元の観音様を「聖(正)観音」などと呼ばなくてはならない始末になっています。

 

「十一面」は十一の威力を表し、「千手」は正しくは「千手千眼観自在菩薩」といい「千の手」に「眼」をもって衆生を見ており、慈悲の心でお救いくださる、というものでした。「馬頭」は観音様には珍しく「憤怒」の顔を持ち、これは「人間の煩悩、その現れとしての悪鬼・魔性」を打ち砕く、と説明されます。

 

 「如意輪」は、物心両方にわたって「利益」をもたらしてくれるという有り難い姿で、「不空羂索」は空をただよう衆生を「羂索(つまり、綱のことです)」で救ってくださるということです。「准牴」は「准牴仏母」ともいい、「諸仏の母」ということになり、そんなわけでこの仏様は「仏」の部に入れるべきともいわれていますが、普通には「菩薩部」に入れられています。    

 

 しかし、以上のようなことを一般の人々は気にしません。こんなことは知らなくてもいいのです。「観音様」なのだから、要するに「救ってくださる」ということで十分だ、というのがほとんどの日本人の意識でしょう。そして実際、私たちにとってはそれでいいのであって、こんな「類別」にむしろ嫌気を感じてしまうでしょう。

 

こうしたことは、信仰の問題とは全く遊離した問題となっているのです。ゼウスやアテネ、アポロンなどにそれぞれの神格をしっかり意識して、神々を見て祭っていたギリシャ人とはもう「全く意識が違う」のです。これはもちろん「いい悪い」の問題ではなく、「神」というものをどのようなものとして意識していたかという「神意識の問題」「民族意識の問題」なのです。

 

 有名な観音様をもう少し紹介しておきますと、「文殊の知恵」で有名な「文殊菩薩」がいます。実は彼は「実在の人物」だったようで釈迦の弟子だったのですが、知恵第一といわれ、死後、伝説的人物となってついには「菩薩」とまで信じられているわけです。もちろん「知恵の菩薩」となっています。通常「普賢菩薩」とペアを組み、普賢の方が「行ないし菩提心」を表して「白象」に乗っており、文殊の方は「獅子」に乗っています。また奈良にいくと必ず見学する「月光菩薩」「日光菩薩」も有名になっています。

 

 しかし信仰的には「地蔵菩薩」と「弥勒菩薩」が一番重要でしょう。地蔵菩薩は仏教教理的には、その名前が表しているように「大地があらゆるものを蔵し、それを育てるという徳」を表していますが、一般的にはお釈迦様から弥勒仏の出現までの56億7千万年の間を受け持って、六道(輪廻の説によると、この世界は六つの世界で構成され、天、人間、阿修羅、動物、餓鬼、地獄の世界からなっているとされ、それを六道といいます)にある衆生を見守っている菩薩と信じられ、ここから「六道地蔵」として六体並んでいる姿が一般に見られるようになっているわけです。とりわけ「地獄」での救いが期待されました。

 

 そして、もう一つが「弥勒信仰」ですが、これは今見ましたように、「釈迦以来56億7千万年後に出現する仏」とされ、釈迦以来の仏たちによる救済に漏れたすべての衆生を救済する仏とされました。仏になることは約束された「未来仏」ですので、しばしば「」として表象されることもあります。

 

 こんな具合に、信仰の上では「現世での救済の祈り」という性格の強い「観音信仰」、死後での六道のさまよいの中での救済、とりわけ地獄での救済願望としての「地蔵信仰」、そして「未来での救済」が願望されたところでの「弥勒信仰」といったものが、一般庶民の信仰の在り方であったといえるでしょう。

 

 しかし、こうなっても「それぞれの仏そのものの仏格の意識」というものはほとんど生じていない、というのが正直なところでしょう。というのも、もう一つ良く知られた信仰に「不動信仰」があり、現在でも「お不動様」と呼ばれて親しまれている信仰があるのですが、この「不動」は「明王部」ですから、さらに下のクラスになる筈なのです。しかしそんなことは全然知られておりません。

 

また、この不動様の前身がかつての民間信仰の神「シバ神」であることも意識されていないのが普通です。異教の神ですから位が低く始めは「如来の使者」でしかなかったのですが、後には「大日如来の分身ないし変身の姿」の如くに信じられ、「貴族の守護神」とされ、さらにまた「修行者の守護神」としても一般化し、さらには庶民にまで広まったと考えられているものです。しかし一般庶民にとってはそんなことはどうでもよく、ようするに「悪」を退治して自分達を守ってくれる「有り難い仏様」ということでの信仰でしかないでしょう。

 

 こんな具合に「仏ないし仏像信仰」は展開しているのですが、ここにある信仰形態は、種類・姿・形は異なっていても「皆同じ」なのであり、ただ「仏」というものに対する信仰という形になっていると言えます。

 

 少なくとも、ギリシャにおけるがごとく「女神アルテミスは敬愛するけれど、女神アフロディテは尊敬しないし礼拝もしない」(エウリピデス『ヒッポリュトス』)などというような類別意識はないのでした。こうした意味では、つまり「神・仏」にも類別を見ず、「神・仏」としてのみ意識するということで、「神も仏も一つ」というような扱いになっていると言えます。

 

 これが日本人の「宗教感覚」なのであり、それは各章でみてきたように、日本人にとっては「神々」も「仏たち」も、要するに「繁栄をもたらし」「成功をもたらし」「災厄を除去し」「平安をもたらす」そうした力、ようするに自然の中に生きている人間に対しての「根源としての自然的力」の形象化であったということで、これが日本の神々や仏たちの「正体」だったというわけです。

2022/05/24

堯舜 ~ チャイナ神話(8)

(ぎょう)は、中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。

 

『史記』「五帝本紀」によれば、嚳の次子として生まれ、嚳の後を継いだ兄の死後帝となった。「その仁は天のごとく、その知は神のごとく」などと最大級の賛辞で描かれる。黄色い冠で純衣をまとい、白馬にひかせた赤い車に乗った。

 

羲氏の羲仲と羲叔、和氏の和仲と和叔に命じ、天文を観察して暦を作らせた。一年を366日とし、3年に1度閏月をおいた。

 

堯は大洪水を憂え、臣下の四嶽に誰に治めさせるかを問うた。みなが鯀を推薦した。堯は「鯀は(帝の)命に背き、一族を損なっている」と反対したが、四嶽は試しに使い、だめなら止めればよいと言った。そこで鯀を用いたが、9年たっても成果がなかった。

 

『十八史略』によれば、平陽に都したとし、質素な生活を送っていたとしている。

 

別の書物での堯の伝説として、羿(羿の字は羽の下に廾)を挙げる。その頃の太陽は全部で十個あり、交代で地上を照らしていたのだが、ある時に十個が一度に地上を照らすようになったために地上は灼熱地獄となった。堯は弓の名人である羿に何とかして来いと命令すると、羿は九個の太陽を打ち落として帰ってきて、救われた民衆は堯を褒め称え帝に迎えたという。この時、太陽の中には三本足の烏がいて(八咫烏)、黒点を謂わんとするものであるという。

 

舜への禅譲

堯には丹朱と言う息子がいたが、臣下から推薦者を挙げさせた。放斉は丹朱を挙げ、驩兜は共工を挙げたが、堯は二人とも退けた。みなが虞舜(舜)を跡継ぎに挙げ、性質がよくない父と母、弟に囲まれながら、彼らが悪に陥らないよう導いていると言った。堯は興味を示し、二人の娘を嫁した。

 

それから民と官吏を3年間治めさせたところ、功績が著しかったため、舜に譲位することにした。舜は固辞したが、強いて天子の政を行なわせた。舜の願いにより、驩兜、共工、鯀、三苗を四方に流した。20年後に完全に政治を引退し、8年経った頃に死んだ。天下の百姓は父母を失ったように悲しみ、3年間音楽を奏でなかった。3年の喪があけてから、舜は丹朱を天子に擁立しようとしたが、諸侯も民も舜のもとに来て政治を求めたので、やむなく舜が即位した。

 

堯舜の伝説の形成

舜と共に聖天子として崇められ、堯舜と並び称される。堯舜伝説は春秋時代末には既に形作られていたようで、起源となったような人物がいるのかは解らないが、中国人民日報は2000年に山西省で堯舜時代の遺跡が見つかったと発表している。

 

また1993年に郭店一号楚墓から発見された竹簡には、堯や舜の事跡が記録されており、注目される。

 

堯舜伝説の異説

唐代の歴史家・劉知幾は、その著書・『史通』で、堯舜伝説を否定する以下の内容のことを書き残している。

 

『山海経』等の歴史・地理書には、「囚堯城」や「帝丹朱」という記述があり、このことから想定するに、堯は実力者の舜に強制的に退位させられ、「囚堯城」に幽閉された。それから間もなく、舜は丹朱(帝丹朱)を即位させたが、しばらくして、人々の支持はことごとく自分に集まっているとして、丹朱を廃して自身が即位したのではないか。第一、そんなに徳の高い大人物が次から次と出て来るものだろうか。

 

鼓腹撃壌

堯の御世も数十年、平和に治まっていた。堯はあまりの平和さに、天下が本当に治まっているか、自分が天子で民は満足しているか、かえって不安になった。そこで、目立たぬように変装して家を出て、自分の耳目で確かめようとした。

 

ふと気がつくと子供たちが、堯を賛美する歌を歌っていた。これを聴いた堯は、子供たちは大人に歌わされているのではないかと疑って真に受けず、立ち去った。ふと傍らに目をやると、老百姓が腹を叩き、地を踏み鳴らしながら(=鼓腹撃壌)楽しげに歌っている。

 

原文     書き下し文        現代語訳

日出而作

日入而息

鑿井而飲

耕田而食

帝力何有於我哉

 

日出でて作()し、

日入りて息(いこ)ふ。

井を鑿ちて飲み、

田を耕して食らふ。

帝力何ぞ我に有らんや。

 

日の出と共に働きに出て、

日の入と共に休みに帰る。

水を飲みたければ井戸を掘って飲み、

飯を食いたければ田畑を耕して食う。

帝の力がどうして私に関わりがあるというのだろうか。

 

この歌を聴いて堯は世の中が平和に治まっていることを悟った、とされる(『十八史略』)。


しゅん)は、中国神話に登場する君主。五帝の一人。姓は姚(よう。子孫は水のほとりに住み(ぎ)を姓とした)、名は重華(ちょうか)、虞氏(ぐし)または有虞氏(ゆうぐし)と称した。儒家により神聖視され、堯(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。瞽叟の子。商均の父。

 

舜は顓頊(せんぎょく)の7代子孫とされる。母を早くに亡くして、継母と連子と父親と暮らしていたが、父親達は連子に後を継がせるために、隙あらば舜を殺そうと狙っていた。舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、名声が高まり堯の元にもうわさが届いた。

 

堯は舜の人格を見極めるために、娘の娥皇と女英の2人を舜に降嫁させた。舜の影響によりこの娘達も非常に篤実となり、また舜の周りには自然と人が集まり、舜が居る所は3年で都会になるほどだった。

 

そんな中で、舜の家族達は相変わらず舜を殺そうとしており、舜に屋根の修理を言いつけた後に下で火をたいて舜を焼き殺そうとした。舜は2つの傘を鳥の羽のようにして逃れた。それでも諦めずに井戸さらいを言いつけ、その上から土を放り込んで生き埋めにしようとした。舜は横穴を掘って脱出した。この様な事をされていながら、舜は相変わらず父に対して孝を尽くしていた。

 

この事で舜が気に入った堯は舜を登用し、天下を摂政させた。そうすると朝廷から悪人を追い出して百官が良く治まった。それから20年後、堯は舜に禅譲した。

 

帝位についた舜は、洪水を治めるために禹を採用し、禹はこれに成功するなど上手く世の中を治め、その後39年間、帝位にあって最後は禹に禅譲して死去した。なお、舜の子孫は周代に虞に封ぜられている。

 

南風歌という歌を作ったと言われている。

 

陳の陳氏の祖とされ、陳からわかれた田斉の祖でもある。

 

ちなみに白川静は、舜は元々帝嚳の事であって殷の始祖とされていたと言う説を挙げている。

出典 Wikipedia

2022/05/19

東ローマ帝国(2)

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東ローマ帝国(395 - 1453年)とは、東西に分割統治されたローマ帝国の東側の領域、およびその帝国である。

 

5世紀に西ローマ帝国が滅亡して以降は、東地中海またはバルカン・アナトリア両半島を中心に国土を形成した。ローマ文化を部分的に継承していたものの、本質的にはオリエント(中近東)からの影響を持つギリシア文化(ヘレニズム)圏かつキリスト教圏であり、絶えざる争乱もあって、7世紀を境に古代ローマとは異なる独自の文明へと変質していった。この帝国は、12世紀に至るまで全ヨーロッパの羨望の的でもあったが、同時に嫉妬と侮蔑の対象でもあった。

 

東ローマ帝国は「中世ローマ帝国」とも呼称され、一般的にはビザンツ帝国やビザンティン帝国の名でも知られる。

 

概要

ローマ帝国が東西に分割された際の、東側の帝国である。

 

初めの頃、東ローマ帝国は高度な文化のギリシア、交易により富の泉となるシリア、穀物地帯のエジプトを所領していたことから、国力の基盤が西ローマ帝国よりも安定していた。そのうえ首都コンスタンティノポリスは交通・経済・文明の要衝地にあったため、中世ヨーロッパにおいては最大の貿易都市であった(また、当時の全ユーラシアにおいても、常にトップ3に入るほどの巨大都市であった)。

 

文化面においては、キリスト教である正教会と古典ギリシア文化に、オリエント(中近東)やペルシャの文化を融合させたビザンティン文化を持っていた。このため、東ローマ帝国は西ローマ帝国亡き後の西欧に対し、先進文明圏としての優位を保っていたのである。ホメロスの物語がローマ建築の中を生き続け、イエスの教えが緋色の帝衣とともに燦然と輝く世界、それが東ローマ帝国であった。

 

古代ローマ帝国の政治や伝統を継承した東ローマ帝国は、6世紀には旧西ローマ領を有するばかりか、旧都ローマを奪還するに至る。文化面においても、帝国の地中海における影響力は絶大であり、欧州唯一の「皇帝を戴く国」であった。

 

が、ランゴバルド王国やフランク王国が興ると、せっかく得た旧西ローマ領は奪われてしまう。また7世紀には、ササン朝ペルシャ帝国やイスラム帝国により領土を蝕まれ、経済基盤の東方を失うこととなった。さらにはスラヴ人やトルコ系のブルガリア王国によるバルカン半島への圧迫が加わり、帝国の領土はますます縮小した。

 

領土の縮小と文化的影響力の低下に伴い、帝国は古代ローマ帝国とは完全に別の存在となった。「ローマ帝国」と自称こそするものの、7世紀には住民の大半がギリシア人となり、公用語はギリシア語となっていた(629年)。また8世紀にはローマ教皇と対立し、9世紀初頭には神聖ローマ帝国(の原形)が成立したため、西欧諸国への影響力は低下した。

 

しかし9世紀中頃からは国力を回復させ、10世紀からは有能な皇帝が連続して現れ、政治・経済・軍事・文化の面で著しく発展した。そして11世紀にはギリシア正教の布教による東欧の文化圏形成、ブルガリアに対する驚異的な戦勝により、帝国は絶頂期に突入した。

 

しかし11世紀後半にもなると、相次ぐ内部の政争やセルジュークトルコに対する敗戦を機に、国力が大幅に低下した。12世紀初頭までには再び黄金の繁栄を取り戻すも、13世紀の初めには、第4回十字軍により帝都を奪われる始末。亡命政権ニカイア帝国により一応奪還には成功するが、すでに東ローマ帝国は「老いた帝国」であった。14世紀からはオスマン帝国に領土を侵食され続け、1453年、ついにとどめをさされてしまった。

 

この国の特徴

東ローマは政治に特徴があった。

 

絶大なる「専制君主制」。皇帝は地上における神の代理人。

貢納による危機回避。異教徒や異民族に財産を捧げ、何度も危険から逃げのびた。

精神面にも大きな特徴がある。

 

ローマの精神。古代ローマの政治・伝統・文化の尊重。「元老院」「パンとサーカス」など。

ギリシア古典とキリスト教(ギリシア正教会)の融合によって独自の文化圏を形成。(⇒東欧)

「地上における神の王国の再現者」という理念。正教会的思想。

皇帝批判は「皇帝」が死んでから※。

※時の皇帝の莫大な権力に反して、過去の皇帝に対する批判はいつの時代も絶えなかった。皇帝の権力は絶対だが、権力が約束されているのは「生きている」時期に限った話であるため、過去の(すなわち死んで文句も言えない)皇帝に対しては平然と批評・酷評が行われた。余談だが、こうした風習や上述の異教徒との妥協が、西洋諸国には狡猾・卑怯に映ったのか、「ビザンツ人」という言葉はネガティブな意味となった。

 

東ローマの始まりについては意見の分かれるところだが、上述の最終分割の395年を成立とすると、実に1000年もの間、存続したことになる。「帝国が1000年間続く」という例は他になく(神聖ローマ帝国の出発点を800年のカールの戴冠とした場合は別だが)、この点において東ローマの特異性や魅力が存分に伺えるだろう。

 

東ローマの出発点

ディオクレティアヌス帝が四分割統治(テトラルキア)を行う頃には、すでに「帝国の東西」という概念はあった。

 

しかし、実際に東ローマ帝国が誕生する切っ掛けとなるのは、コンスタンティヌス1世(大帝)によるビザンティウム(後にコンスタンティノポリスへと改名)への遷都である。コンスタンティノポリスは、最初のキリスト教都市であった。東ローマ帝国が「キリスト教によるコンスタンティノポリスの帝国」である以上、330年に行われたその遷都は実に大きな意味を持っている。歴史家の中には、その330年を東ローマ帝国ないしビザンツ帝国の始まりと見る者もいる。

 

ところが「東の帝国」なるものが実際に表れるのは395年。すなわち、ローマ帝国が東西分割された年である。その時点をもって東西のローマ帝国、つまり東ローマ帝国と西ローマ帝国ができあがるのだが、もちろん双方ともに真新しい国家であるわけでもないし、ましてやローマの歴史が絶えたわけでもない。両国ともに列記とした「ローマ帝国」なのだ。とはいえ、この時をもって東ローマ帝国が誕生したのは、紛れもない事実である。

 

“帝国の変質”という点に東ローマの出発点を見出すのであれば、それは6世紀以降となる。ユスティニアヌス1世(大帝)の時代は、まさにそうであろう。彼の徹底的な中央集権、独裁政治は古代ローマ帝国とは一線を画しているし、何よりそれは「古代ローマ帝国からの脱皮」に他ならない。皇帝専制を基本とする東ローマ帝国だからこそ、彼の専制的な試みは東ローマを東ローマらしくさせたといっても過言ではない。

 

610年からのヘラクレイオスの治世期も、またその一つである。彼の時代に帝国はバルカン半島とアナトリア半島を軸とし、またギリシア人とその言語を中心とした国家へと大きく変貌した。東ローマ帝国がビザンツ帝国だとかビザンティン帝国だとか呼ばれるのは、この時代が主な原因である。そういった意味でも、7世紀は古代ローマ帝国との明確な線引きがなされた時期といえるだろう。

 

この国が「ローマ帝国」と名乗るからには、東ローマの出発点と称して模索することは野暮かもしれない。しかし、この国が古代ローマ帝国とは異なる部分を含むこともまた確かである。本項ではそれらの点を考慮しつつ、帝国が東西に分割された395年を東ローマの出発点としたい。

2022/05/17

仏像とは何か(2)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 

日本での仏像崇拝のありかた

 日本における神崇拝の在り方は、自然物ないし自然物に「神を宿らせたもの(依代、よりしろ)」を「崇拝対象」としていました。これは「仏像」が制作されるようになっても変わりませんでした。いや、その仏像に触発されて「神像」も作られたのですが、ついに一般化せずに廃れてしまったのです。

 

日本の神は「自然の力」というのが本来であり、そうであり続けて「人格化」することはついになかったということです。これは一見「偶像崇拝」を廃する「ユダヤ教やイスラーム」と似ているとも見えますが意味は全然違っており、日本の神は「自然性」を強く主張したからであり「イスラーム」などは「地上的存在からの超越性」を強く主張するからです。ですから日本での「神」は、自然物に宿るものとして「依代」という「形」をとるのに対して、イスラームなどでは「まったく形に現れない」となるのです。

 

 他方「仏教」の方は、伝来の初めから「仏像」という形で渡来したため「仏像」が、そのまま崇拝対象となりました。その種類はたくさんのものになりましたが、僧侶階級はイザ知らず、一般庶民感覚としてはいずれにしても「仏」であるからということでの崇拝であり、仏像の種類の識別は殆ど意識していません。乱暴な言い方をしてしまうと、結局「仏像」も「神の依代」のごとくに見られていたのかもしれません(「依代」には「人型のようなもの」もあったから)。そのため、「個々の」仏像の種類や名称については、あまり重要視されなかったのではないかと思われるのです。

 

 そして、なんでも「仏像」と呼んでしまうのですが、実はその仏像には「クラス」があり、さらにそのクラスの中の仏に様々な種類があるのです。このクラス分けは日本独特のようですが、そのクラス分けを紹介しておきましょう。

 

第一のクラス:如来像

 釈迦像を本来とする「本来の仏像」で「如来」像とも呼んでいるものです。一般に知られているところでは、「釈迦像」の他、奈良の大仏で知られる「毘櫨遮那仏(びるしゃなぶつ)」、鎌倉の大仏で知られる「阿弥陀仏」、密教の主仏である「大日如来」、薬の壺をもった「薬師如来」などがそれになります。

 

 この如来像は、大日如来を除いて「衣のみ」をまとった姿で形象化されています。大日如来は「宇宙の王」ということなのでしょうか「王」を表す装身具をまとっています。この「如来像」は多くが「坐像」となっています。

 

第二のクラス:菩薩像

 菩薩はお釈迦様が「仏陀となる前の姿」で、最高段階の修行に至っている「修行者」の意味です。ですから、本来は第二クラスのものとして、第一の「如来」に劣るものの筈でしたが、やがて仏教的理想を具現しているように捕らえられていき、衆生の救済を担うような「信仰対象」になっていきました。

 

 菩薩像は、装身具をたくさん身につけている姿で形象化されていますが、これは釈迦が出家する前の姿、つまり「釈迦族の族長の息子」であった時代のものを表していると説明されます。ただし、インド古来の民族宗教であるヒンズー教の影響も濃厚にあるといえます。顔がたくさんあったり、手がたくさんあったりする像はその影響と思われます。

 

菩薩像の代表的なものは「観音菩薩」でしょう。この観音菩薩は「十一面観音菩薩」とか「千手観音」「馬頭観音」とか、いろいろな姿に身を変えます。

 

 この他には「お地蔵様」としてしられる「地蔵菩薩」がとりわけ有名で、さらに「普賢菩薩」や「文殊菩薩」「日光」「月光」などが有名でしょう。また「弥勒菩薩」は思想的にも、未来に仏となって釈迦の救済に漏れたすべての衆生を救うとして非常に重要です。

 

第三のクラス:明王像

 「明王像」ですが、これは「密教」に独特のもので、形姿としてはヒンズー教の神々が仏教に取り入れられて、形象化したものと考えられます。初期段階は如来の「使者」という性格をもっていたようですが、後に「如来の変身像」とされていきます。

 

 役割としては「度し難い民衆をしかりつけ教化する」というところにあり、したがって憤怒の表情をもっています。この下のクラスの「天部」の像も憤怒の表情をもつものがありますが、それらよりこちらの方が数段激しいです。すべて仏教に敵対するものを打ち砕く強さが要求されたからです。したがって、その形も荒々しく恐ろしげな形相をもち武器を手にしています。代表的なものが「不動明王」ですが、その他にもたくさんおります。

 

第四のクラス:天部

 「天部」とは、つまり「何々天」とよばれるものですが、これもむろん仏教本来のものではなく、民間信仰の神々が取り入れられて「仏教の守護神」や「特殊技芸を司る神」にされたものです。

 

 守護神とされたものは鎧に身を固めた姿が多く、武器をもち、強そうな表情に形象されています。しかし、その形象はインド的なものから中国的となり、その表情もさまざまとなってきます。本来の仏でないところから、そうした「自由化」が行われたのでしょうか。ただし、日本に入って「日本的姿化」することはありませんでした。これはあくまで「渡来神」という性格を残しておくためだったかもしれません。

 

 この天部のうちよく知られているのが、お寺で「本尊」の四方を守っている「四天王」で、その中の多聞天は「毘沙門天」としても有名です。またインド神話の天帝であったインドラたる「帝釈天」や万有の根源、ブラフマンである「梵天」もよく知られています。

 

また「仏」や「菩薩」は性別を超えていますが、この天部は性別があり、女性の神もいます。神話世界の神々なのですから居て当然です。有名なところでは「弁天様」や「吉祥天」などがいます。また、お寺の門のところで「門番」をしている「仁王様」も、この天部に属しています。これは二つの姿に現れていますが、本来「一体」のものの分身姿で、本体は「帝釈天」だとされています。

 

第五クラス:その他の像

 最後が「その他の像」で、ここには釈迦の「十大弟子」の像、また伝統的仏教では悟りの境地まで至りついているとされるのに、北方仏教ではまだ途中段階のものとして下にランクされてしまった「羅漢」の像、つまり十六羅漢とか五百羅漢と呼ばれて、たくさんならんでいる修行者のような像がそれで、さらにまた「高僧」の像などが含まれます。高僧とされる人はたくさんおりますから、この種類はたくさんとなります。

 

 以上のような具合ですが、「如来信仰」「阿弥陀仏信仰」など「本来の仏」への信仰は厳然として存在する一方、観音様やお地蔵様への「菩薩信仰」も盛んでした。一方「不動明王」への信仰も強固なものがあり、こうして「仏像信仰」が盛んであったということは言えるのですが、しかし、その「仏」とか「菩薩」「明王」といった意識や、さらに「観音様」と「お地蔵様」また「不動明王」の違いがどこまで意識されていたのかは、はなはだ怪しいです。

 

 本来「仏の像」は「お釈迦様」の像だけの筈です。ところが、後に永遠の真理を悟った者がお釈迦様一人だけの筈はない、なぜなら「永遠」の長きにわたって真理は存在しているわけで、その「永遠」に対してたった一人しかそれを悟らなかったなどとはあり得ない、という変な理屈がつけられたようでした。

 

 もっとも、仏教的には、真理は釈迦一人のものではなく、彼は過去の諸仏のたどった道を見出だし悟りに至ったのであって、そこで人は釈迦のたどった道を追うことによって悟りに至れるのだという教えを言うもの、と解説されるようですが、いずれにせよともかく「過去仏」が想定されました。こうして「複数」になってしまったら、後はもうたくさんの仏が想定されてきても何の不思議もありません。実にたくさんの「仏様」が存在することになりました。

 

 とくに、これは北方仏教、いわゆる「大乗仏教に特徴的」に見られるのですが、これは「民衆のもの」を標榜する仏教運動であり、その「民衆化」というところに仏像製作の性格が関係し、特に、その中の「密教」が民間信仰と融合して、その「民間の神様達」を「仏の世界」に位置付けていったことが大きな原因としてあげられるでしょう。

2022/05/10

シンデレラの帝国 ~ 東ローマ帝国(1)

出典https://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca

  830年初夏、宮殿は華やかな雰囲気に包まれていた。大広間には美しい娘たちが瞳を輝かせて並んでいる。まもなく美人コンテストが始まる。審査委員長はビザンツ皇帝で、一番気に入った娘に黄金のりんごを渡し、その娘が妃となる。シンデレラを夢見る乙女たちの中に、15歳のテオドラがいた。

 

 妃を決めるコンテストは、この国の重要な儀式だった。妃候補を探すため、全国に使節が派遣された。妃の条件は何よりも美貌、次いで身長、足の大きさだった。使節は理想の妃の似顔絵と足の大きさを測る靴を携えて全国に散った。

 

 都に集められた女性は、まず宮殿の予備審査でふるいにかけられる。

 

「あなたは美しい。しかしローマの皇妃にはふさわしくない」

 

残った選りすぐりの女性が、コンテスト会場に集められた。

 

 いよいよ皇帝が現れ近づいてくる。娘たちの胸は高鳴る。皇帝は知的な美しさをたたえた女性の前で立ち止まった。「運のいいお方だ」とささやく声が聞こえる。皇帝は、ぶっきらぼうにつぶやく。

 

「女から悪が生じたのだ」

 

娘は答える。

 

「良きことも女から生れました。キリストはマリア様からお生まれになり、あなたもお母様からお生まれになりました」

 

1本とられた皇帝がふっと横を向くと、そこに質素なテオドラが立っていた。皇帝は思わずりんごを差し出した。大きなため息が会場にもれた。

 

帝国の誕生

 ローマ帝国は、330年にコンスタンティノープルに都を遷し、395年には東西に分裂した。その後、すぐに西ローマ帝国はゲルマン民族に蹂躙されて滅んだが、東ローマ帝国は繁栄を続け、1453年にオスマントルコに滅ぼされるまで1000年以上存続した。

 

 東ローマ帝国が、ビザンツ帝国あるいはビザンチン帝国と呼ばれるのは、首都コンスタンティノープルがギリシアの植民都市ビザンティオンだったことに由来する。この帝国はバルカン半島(ギリシア)と小アジア(トルコ)を中心に、西はイタリアから東はシリアまでの版図を有し、東洋と西洋の文明の十字路になっていた。

 

 政治・経済制度はローマ帝国のものを継承し、文化的にはギリシア・ヘレニズムを、宗教はキリスト教を国教とした。公用語は当初ラテン語だったが、次第にギリシア語が使われギリシア化していった。帝国は興隆と衰退を繰り返し、領土はめまぐるしく変化した。

2022/05/05

仏像とは何か(1)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/


 多くの宗教では「崇拝の対象」を形にして礼拝をしております。例外なのは「偶像を作ってはならない」という具合に「意識的に偶像を拝する」という形となった「ユダヤ教」及びその系譜にある「イスラーム」くらいのもので、そこは「作らない」というところに自分たちの宗教の特色を主張しているのでした。

 

 しかし、同じ「ユダヤ教」の系譜にあっても「キリスト教」には「聖画」があります。このように一般には「崇拝対象」を持つのが普通で、そしてその表現のところにその宗教の特色を主張しているのでした。仏教にもそれがあり、それは「仏像」と言われます。この章は、その「仏像」のあり方を通して、仏教の特質を見ていきたいと思います。

 

形に描かれた神

 古代ギリシャの場合には「神像」が大きく発展していました。現在の西洋美術の原点、故郷なのです。そこでの神ゼウスとかアポロンとかは「一人一人の神が個々に識別」されて、礼拝の内容によって対象となる神が変わってきました。またその神の像は、「人間そのもの」のように「写実的」に描かれてきます。

 

 それに対して日本における仏教の場合は、ギリシャ的な「この時はこの神(仏)」「あのときはあの神(仏)」といった明確な「職分の違い」というものをほとんど持ちません。そして、その姿もギリシャ的な「写実的人間像」ではなく、むしろ「超越性」を表すような様式的形姿となっています。

 

 古代ギリシャも仏教も同じように「人体をモデル」に神・仏像をつくっているのですが、このように大きな違いがあります。その像の制作の経緯からも、両者の違いを示すことができます。ギリシャの場合は、「像の制作」ということが行われた時、それはそのまま「神像の制作」でした。仏教は、どうだったのでしょうか。

 

仏像の制作

 仏教の場合、「仏像」と命名できるものは、紀元前5~6世紀と推定される釈迦の死後、数百年の間は存在しませんでした。その間、信者が礼拝の対象としたのは釈迦の遺骨を納めたとされる「ストゥーパ」でした。また、釈迦の事績を描く「仏伝図」にしても、「菩提樹」「台座」「足跡」「法輪」など「シンボル・示唆するもの」でしか表現せず、人間的な姿をした「仏陀そのもの」を描くということはなかったのです。

 

 他方、「大地の精霊」のようなもの(「ヤクシー」という)は、紀元前から制作されていました。この流れで、後に仏教に取り込まれることになる「伝来の神々(仏教に取り込まれて以降、インドラは帝釈天に、ブラフマーは梵天に、ラクシュミーは吉祥天に、といった具合)」の像も制作されていました。ですから「像の制作」ということを知らなかったわけではありません。要するに「仏陀像」に関してのみ意図的に制作していなかったわけで、ここでは「偶像を作ってはならない」とした「ユダヤ教」「イスラーム」などと同じ考え方をしていたわけでした。

 

 それが紀元後100年頃から、突然「ガンダーラ地方」において、さらに「マトゥラー」において「仏像」が制作されてくるのです。その経緯については、定説とされるものはありません。良く分からないのです。

 

 考えられる経緯としては、この頃、いわゆる「大乗仏教運動」が盛んとなっており、この大乗仏教は「一般庶民のもの」を大義名分としていたので、庶民感覚に合致する「分かりやすい表現」を求めたためかも知れません。実際、この大乗仏教は後に「伝統の神々」を「仏教の守護神」という形で取り込んでしまうのです。伝統の神々は「像」に刻まれる習慣がすでにありましたから、この像の制作を「仏陀」にまで拡大してきたとも考えられます。このあたりは、「庶民の宗教感覚」の問題ですから、残された仏像やその他の遺物からは「仏像制作の理由」は推察できないでしょう。つまり美術史的には、何も議論できないということです。

 

 ただし、この「仏像」の「彫刻表現」の問題としては、ギリシャやペルシャなどの先行する彫刻文化の影響を強く受けていることは推定できます。初期のガンダーラ美術に「ギリシャ人的な風貌」が見られ、彫刻技法・様式においてもその影響が指摘できるのです。釈迦像も僧侶の形ではなく、波状の頭髪を持ち、顔はギリシャ風でした。着物も、深い平行線状のヒダをもつギリシャ彫刻の特徴を、そのまま持っています。

 

 私たちになじみの縮れ毛の仏様は、三世紀ころから初められ五世紀ころ定着したもので、かなり後代になってからです。このガンダーラに端を発して、ここを原型とする様式や手法がやがて中央アジア、中国、朝鮮を経てわが国にまで伝わってくるのです。もちろん、物事はそうそう単純ではなく、さまざまの複合要因をもち、像の制作についても異なった起源が考えられるのですが、おおまかな太い線としては以上のようなことが言えるでしょう。

 

 異なった起源については「マトゥラー」での仏像があげられます。マトゥラーの仏像にはギリシャ的な風貌が見られずインド的なので、ガンダーラとは別個に開発されていったと考えられます。この起源については、宗教的要因としては今指摘した「大乗仏教運動」が考えられるわけですが、様式的には紀元前から作られていた「ヤクシー」などの像の流れといえるのかもしれません。

2022/05/03

伏羲 ~ チャイナ神話(7)

伏羲(ふっき・ふくぎ、- Fu Hsi または Fu Xi)は、古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。宓羲・庖犧・包犧・伏戯などとも書かれる。伏義、伏儀という表記も使われる。三皇の一人に挙げられる事が多い。姓は風。兄妹または夫婦と目される女媧(じょか)と共に、蛇身人首の姿で描かれることがある。

 

太暤(たいこう)と呼ばれることもある。

 

概要

西北にある華胥(かしょ)国の娘が雷沢(らいたく)の地で大きな足跡を踏み、その時に宿した子が伏羲であったとされる。五行では東方・春・木徳をつかさどる。雷沢にあった大きな足跡は、何者によるものかは明確にされていないが、雷神または天帝のものではないかとの学説がある。

 

文化英雄

伏羲は、黄帝・神農などのように古代世界において、さまざまな文化をはじめてつくった存在として語られる。『易経』繋辞下伝には、伏羲は天地の理(ことわり)を理解して八卦を画き、結縄の政に代えて書契(文字)をつくり、蜘蛛の巣に倣って網(鳥網・魚網)を発明し、また魚釣りを教えたとされる。書契や八卦を定めたことは、黄帝の史官蒼頡によって漢字の母体が開発されたとされる伝説以前の文字に関する重要な発明とされる。漢の時代に班固が編纂した『白虎通義』によると、家畜飼育・調理法・漁撈法・狩り・鉄製を含む武器の製造を開発し、婚姻の制度を定めたとある。

 

伏羲は、八卦を河の中から現われた龍馬の背中にあった模様から発明したと易学では伝承されており、これを「河図」(かと)と呼ぶ。易学の書物である『易経』も、著者として伏羲が仮託されている。

 

洪水神話

伏羲と女媧は兄妹であり、大洪水が起きたときに二人だけが生き延び、それが人類の始祖となったという伝説が中国大陸に広く残されている。類似の説話は、東南アジアや沖縄にも多数ある。

 

中国の古典学者・聞一多も、雲南省を中心に民間伝承における伏羲の伝説を採集している。伏羲・女媧の父が雷公をとじこめていたが、子供たちがそれを解放してしまう。父は雷公と戦ったが、雷公が洪水を起こしたため、兄妹を残して人類が滅亡してしまう。兄妹は雷公を助けた時にもらった種を植えており、そこから生えた巨大なヒョウタンの中に避難して助かったのであり、結婚して人類を伝えたとある。聞一多は、伏羲が時に庖羲とも書かれる点に注目し、その音から、伏羲とはこの伝説の中に舟として登場するヒョウタンを指しており、そのことから「木徳」の王であるという要素も導き出されたのではないかと推論仮説している。

 

祭祀

伏羲は、女媧と同じく中国少数民族の苗族が信奉した神と推測されており、洪水神話は天災によって氏族の数が極端に減少してしまった出来事が神話に反映したのではないかと考えられている。

 

伏羲の号には、縄の発明者葛天氏も含まれる[要出典]

 

道教に取り込まれてのち仏教の神仏習合の理論の上では、阿弥陀如来によって遣わされ、出現したばかりの地上の世界を造った中国の伝説上の存在として、女媧と共に説かれた。日本でも仏教側の立場から編まれた神道論集の一つである『諸神本懐集』(14世紀)では、伏羲の本地は宝応声菩薩(観世音菩薩・日天子)であるとの唐の時代の説が収録されている。

 

伏羲と女媧の組み合わせが地上の初めの男女であるという定義は中国の民間宗教にも広く用いられており、『龍華経』でも人間たちの祖先としてつくりだされた世の始まりの陰陽一対の存在の名として、李伏羲と張女媧という名が記されている。

出典 Wikipedia