2023/05/31

隋(4)

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 ところで『隋書』という隋の歴史書には、608年に倭国におもむいた使節の記録がある。この時に使節は倭国王と、その妃、王子に会ったと記録されている。変でしょ。聖徳太子は王ではありませんね。推古天皇は女性ですよ。一体誰に会ったんだ。正式な隋の外交使節を倭国政府はあざむいて聖徳太子を王と紹介したのでしょうか。また、この時に帰国した小野妹子は隋の国書を途中で紛失した、ということになっている。

 

 このあたりの倭国の記録には、腑に落ちないことが多いです。

 

7世紀初頭の東アジア

 東アジアの諸国を整理しておきましょう。

 高句麗は、紀元前1世紀後半に鴨緑江という川の流域で成立した国です。ツングース系扶余族の国家。この国が飛躍的に領土を拡大したのが広開土王(位391~412)の時代。この王の業績を記念して立てられた石碑が「広開土王碑」。

 

この碑文には倭の記事も出てくるのですが、読み方に関していろいろな説があるのと、碑文そのものの改竄(かいざん)説があって問題の多い石碑です。が、有名なものなので名前だけは知っておいてください。5世紀初頭の東アジア諸民族の貴重な資料です。中華人民共和国吉林省集安に建っています。

 

 高句麗は隋の攻撃には耐え抜いたのですが、結局、次の唐によって滅ぼされました(668年)。

 

 このとき、唐とともに高句麗を攻撃したのが新羅(しらぎ、しんら)です。

 4世紀後半に朝鮮半島の東南に成立した国です。高句麗と百済に圧迫されていた新羅は、7世紀半ばに積極的に唐の文物を取り入れて国政改革をおこない、唐との結びつきを強めます。最終的には唐と軍事同盟を結び、660年には百済、668年には高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一した。

 

 ただし、唐は朝鮮半島の直接支配を目指したので、新羅は唐軍を朝鮮半島から追い払うために、676年まで戦いつづけることになります。

 

百済は朝鮮半島西南。4世紀前半の成立。この国は高句麗、新羅と比べて大和朝廷との関係が非常に深い。唐、新羅連合軍によって滅ぼされたあと、倭国の援助を受けて復活を目指します。663年の白村江の戦いがそれ。しかし、倭軍は負けて百済再興はできませんでした。

 

 倭です。3世紀、魏に邪馬台国が使者を派遣したことは以前に話しましたね。そのあとは倭国が5世紀南朝宋に使節を送っています。中国の王朝に官職を授けてもらうことによって、朝鮮半島や日本列島の対立勢力の中で有利な立場を確保しようとしたようです。宋の歴史書には、五人の倭王の名が記録されているので、これを「倭の五王」といっています。

 それ以後は、隋の時代まで倭の記録は出てきません。

 

 なぜ南朝の宋にだけ記録されているかというと、宋だけは山東半島まで領土を拡大しているんです。日本列島から百済を経由して、比較的簡単にたどりつくことができたのでしょう。

 

 隋のときに倭国は遣隋使を送ります。これはさっき言ったとおり。やがて、隋・唐の高句麗遠征、高句麗・百済・新羅の三国をめぐる国際関係の中で、新羅と同じように内政改革をおこなわざるをえなくなる。これが、645年の大化改新といわれる改革。

 

 日本という国号を使うようになるのは7世紀後半からです。それまでは倭国と呼ぶのが正しいのです。

2023/05/27

主神オーディンとトール等の主要な神々(4)

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テュール

 テュールは「戦の神」で「もっとも大胆な神」と言われ「戦において勝敗を決めるので、戦士はこの神に祈願する」と言われるので、元来「戦の神」として崇拝されていた神であり、曜日に名前が残るほどですから主神級だったのでしょう。そのため「また非常に賢く、賢い人をテュールのように賢い」と言われていますが「エッダ」では主神扱いは受けていません。彼についての物語は「片手」を失った次第の話となります。

 

 ロキが巨人の女から三人の子どもを生み、一人は「狼のフェンリスウーヴル」、一人は「大蛇(トールと関わったミズガルズの大蛇)ヨルムンガンド」、もう一人は「身の半分が青い怪女ヘル」でした。この三人がヨーツンヘイムで育っていたとき、神々はこの三人がいずれ神々の最大の敵になることを予見して、その三人を召し出すことになります。そして大蛇は海へと放ち、半分の身体が青い女の怪人ヘルは、地下のニブルヘイムへと送り、こうしてヘルは死者の女王となったのでした(英語の「地獄」を表すヘルの語源)。

 

 狼についてはこれがだんだん大きくなって、どの予言もこの狼がやがて神々に災いをもたらす(オーディンが、この狼に倒される)となった時、神々は相談してこの狼を捕獲しておこうと相談しました。殺してしまっては神の地を汚すことになるからです。こうして一つの強力な足かせを作り、狼に向かっておまえはとても強いそうだがこの足かせで試してみないかとそそのかした。狼は一見してたいしたことはないと見て取り、足かせをかけさせ一振りでそれを吹き飛ばしてしまった。神々は驚き、さらにものすごく強い足かせを作って再び狼をそそのかした。狼は今度のものは強そうだと思ったが、名前を挙げるには危険に身をさらさなくてはならないと考えて足かせをかけさせた。そして狼は身体を揺さぶり、足を踏ん張り力を入れると足かせはバラバラになって飛び散ってしまった。

 

神々は怖れ、オーディンは細工で名高いこびとのところに使者を送り、特別な足かせは作らせた。それは「猫の足音、女のヒゲ、山の根っこ、熊の腱、魚の息、鳥の唾」から作られていて、それ故今日それらは世界に存在しないことになったという。こうして作られた足かせは細い絹糸のようであり、これを狼のところに持っていってこれで試してみろとそそのかした。狼は、そんな細い糸みたいな紐など引きちぎっても名誉にならないし、また何か策略が裏にあるのだったら嫌だから今度はやらないといってきた。そこで神々はおだてたりすかしたりして足かせをかけさせようとし、ついに狼はそんなにいうのなら保証として、だれか自分の口の中に手を差し入れておいたらやってもいい、と言ってきた。これにはみんな困ってしまったのだけれど、とにかく放置できないということでテュールが進み出て、狼の口の中に自分の手を差し入れたのでした。

 

こうして狼は足かせをはめられ、今度ばかりは紐はビクともしませんでした。こうして狼は捕らえられてしまったのですが、テュールは代わりに自分の手を失うことになってしまったのでした。狼は決して逃れられないよう二重三重の囲みにくるまれ、口は一本の剣がつっかい棒のように差し入れられて、その上地中深く埋められてしまいました。しかし世界の終末に至って、この狼はここを逃げだしていくことになるのでした。

 

フレイ

 フレイは「雨と光を支配し、大地をはぐくむ」と言われ「豊穣と平和」をこの神に祈願すべしと言われます。「美男子の神」とされますが、彼は三つの宝を持っていました。一つは自ら一人で戦って敵を倒すという宝剣でしたが、彼はこれを失うことになり、それが結局、最終戦争において彼の命とりとなってしまうのでした。しかし彼はそんな剣を持たないでも十分に強かったので、あまり気にしなかったのでしよう。

 

 その剣を失うきっかけは彼の熱情が原因でした。ある時、フレイは世界を眺め北の方に目をやったとき、あるところにきれいな家が目にとまりました。そこにこの家の方に一人の娘が歩いてきて、手をさしのべてドアを開くと彼女の手から光りがさして世界がパッと輝いたのです。この娘の名前は「ゲルズ」といって、あらゆる女たちの中でもっとも美しい少女でした。

 

フレイは、自分こそが光りの元と思っていた高慢の鼻をへし折られた思いで心を暗くして家に戻ると、寝ることも食事をすることもなくうつうつとしていました。父の「ニョルズ」は心配し、フレイの下男「スキールニル」を呼び出し、訳を探るように言いつけました。そして彼は主人のフレイのところに戻り、訳をたずねました。するとフレイは、「自分は美しい少女を見初め恋してしまった、彼女なしには生きていられないほど恋いこがれている」と言い、その上で「俺の使いとして娘のところに赴きここに連れてきてくれ、父のことは気にせんでいい、さすれば何なりと褒美をとらせよう」と言ってきたのでした。

 

下男のスキールニルは、それなら使いにいきますが成功すればあなたの宝剣をいただきたいと願い、フレイは惜しみなくやることを承諾してしまったのでした。こうしてスキールニルは出かけていって首尾良く彼女に求婚を承諾させ、かくしてフレイは宝剣をうしなったのでした。そしてこれ以降、彼は牡鹿の角で戦うことになってしまったのでした。

 

 しかし、フレイはさらに二つの宝物を持っていて、一つは「スキーズブラズニル」という船であり、これは神々の全軍が完全武装して乗り込めるほどの巨大な船なのに、布のように折りたたむことができて、袋にしまうことができるほどの小ささになるという。これは多分「雲」をイメージしており、フレイが天空の神であったことと関係していると考えられます。ですから、この船が航海に出ているときは、必ず順風が吹くと言われます。

 

 もう一つは「金色の毛を持つ猪」であり、この猪は空中であれ水中であれ走ることができ、どんな駿馬よりも早く、またその毛から発される光は闇夜も明るく照らすというものでした。これは多分、太陽をイメージしているのでしょう。

 

 さて以上にみたように、ここにはギリシアの神々と同じような「人間くさい」神々がいますが、一番の違いは「神と人間」という関係が描かれていないことで、また「神々が死ぬ」ということが前提されているので、これでは「人間の物語」と全然違わないように見えます。このあり方は、ちょうど日本の『古事記』に見られる神の姿と同じであり、こうした神のあり方というのも世界中にあるということです。それにも関わらず彼らが「神」とされるのは、彼らが「守護者」として崇拝・祈願の対象になっているからで、これは彼らの卓越した「能力」が見られてのことでしよう。

 

この「能力」ゆえに「神」とされるという構造はギリシアでも同様であり、これが西欧の古代人における「神」の基本的な考え方だったのだと思われます。つまり、後に西洋人が帰依することになるキリスト教が持っている「救済」という観念は、古代にはほとんど見られないということであり、この「救済」を目的とする神は、古代ではペルシアにありますけれど、むしろキリスト教・イスラームという後代の宗教の特質であると言えるでしょう。

2023/05/22

隋(3)

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 文帝楊堅を継いで隋の二代目の皇帝になったのが煬帝(ようだい)です。この人の名前ですが、日本では読み癖として「ようてい」とせずに「ようだい」と読んでいます。本によっては「ようてい」とふりがなをつけているものもありますから、どちらが正しいというものではなくて、伝統なんですけどね。

 

 煬帝は暴虐な皇帝であるという評価が一般的で、帝という字を「てい」と呼んであげずに、おとしめる意味で「だい」と読むようになっているのです。煬という文字も、非常に縁起の良くない悪い意味の字です。隋に代わった唐にとって、煬帝を非難して自らの王朝を正当化する必要もあったのでしょう。

 

 実際の煬帝はそれほど悪い皇帝だったかというと、贅沢三昧をするのが悪いとすれば普通に悪い。南朝では、とんでもない皇帝はいくらもいましたから悪さ加減もそこそこ。

 

 ただ煬帝が人民を徹底的に徴発したのは恨みを買いました。大運河の開削工事で農民を人夫として徴発した。普通土木工事に駆り出されるのは男と決まっているのですが、大運河開削には女性も動員された。これは前代未聞だという。

 

 それから、対外戦争です。高句麗遠征を三回おこない、全て失敗しました。この戦争と、その準備で多くの人民が死んでいった。

 

 高句麗は隋の東北方面、現在の朝鮮半島北部から中国東北部にかけて領土を持っていました。煬帝は遠征のための物資をタク郡(現在の北京付近)に集めるのですが、南方から物資を輸送するために黄河からタク郡までの運河を掘らせた。やることが徹底している。土木工事と対外戦争はセットになっているんですね。

 

 このような民衆の負担の激増で、各地で農民反乱や有力者の反乱が起きて隋は滅びることになるのです。

 

高句麗遠征

 高句麗遠征の話をしておきます。

 南北朝時代、中国の北方で大きな勢力を持っていた遊牧民族が突厥(とっけつ)です。トルコ系の民族で突厥という名はトルコを音訳したものです。この突厥は隋が成立するのと同じ時期に東西に分裂して、東突厥は隋に臣従しました。ところが、高句麗は隋に臣従しない。

 それどころか、隋に隠れて突厥に密使を送ったのがバレたりする。そこで、煬帝は高句麗遠征を企てたわけです。

 

第一回高句麗遠征が612年。110万をこえる隋軍が出動した。攻め込まれる高句麗は必死です。国家の存亡がかかっているからね。この時は、隋軍は無理な作戦がたたって敗北、撤退しました。これは「薩水の戦い」の絵です。領内に深入りした隋軍を高句麗軍が破った戦いを描いたもので、韓国の歴史教科書に載っているものです。現代画ですが兵士たちの装束は古墳の絵などを参考にしています。

 

 韓国や朝鮮民主主義人民共和国いわゆる北朝鮮では、隋の侵略を三度も撃退したことは民族の栄光の戦いなんですね。私の高校時代ですが、ラジオを真夜中に聞いていると外国放送が入る。日本向け平壌放送というのがあって、その中の歴史番組で大々的にやっていました。

 

 現在の韓国や北朝鮮の人たちが、高句麗人の直系の子孫かどうかは簡単には言えないんですがね。

 

 第二回目の高句麗遠征は613年。この時は後方で物資輸送に当たっていた担当大臣が反乱をおこして撤兵。隋の政権内部の乱れが目立ってきます。また、各地で民衆反乱が起きはじめていました。

 

 第三回は614年。この時には、民衆反乱が大規模になっていて、高句麗遠征どころではなくなっていた。高句麗側はそれを見越して形だけの降伏をして、煬帝はそれを機会に撤兵しました。

 各地の反乱はますます激しくなって、煬帝は大混乱の中で親衛隊長に殺されて618年に隋は滅びました。

 

 隋の煬帝は、倭国との関係で有名なエピソードがありますね。607年、小野妹子が遣隋使として中国に渡った。かれは、国書を煬帝に渡すんですが、その冒頭の文句が

「日出(い)づるところの天子、書を日没するところの天子に致(いた)す。つつがなきや・・・」。

 

 これを読んで煬帝は激怒した。もう二度と倭国の使いを俺の前に連れてくるな、と。なぜ怒ったかというと、この文面は中国の皇帝と倭国の王が同格であつかわれているからです。中華的発想では、周辺民族は中国よりもランクが下、中華文明を慕ってやってくるものでなければならない。倭国の手紙はそのような外交的常識から外れた、はなはだ無礼なものなんですね。

 

 ところが、怒ったはずの煬帝なんですが、翌年には裴世清(はいせいせい)という使者を倭国に派遣して友好関係を続けているのです。

 

 なぜか。ちょうどこの時期は、高句麗遠征の準備を進めているときです。高句麗、新羅、百済そして、倭国と東アジア諸国の緊張感が高まっているんですね。隋としては高句麗を孤立させたい。もし倭国との外交関係を切ってしまったら、高句麗が倭国と同盟を結ぶかもしれない。そうなったら、外交上も軍事上もややこしいですね。

 だから、個人的な怒りとは別に、外交上はキッチリと倭国を押さえているわけだ。

 

 問題の国書を出したのは、聖徳太子といわれています。聖徳太子は、この文面が隋に対して失礼なものだと知らなかったのでしょうか。知っていたけど、ちょっと突っ張ってみたんでしょうか。

 

 聖徳太子の時代、多くの仏僧が朝鮮半島から倭国にわたってきていました。大和朝廷からみれば、朝鮮半島は先進地帯です。積極的に仏僧を受け入れていたのでしょう。

 

 そのなかに聖徳太子が師と仰いだ慧慈(えじ)という仏僧がいます。実はこの人、高句麗僧。高句麗から渡ってきている。この慧慈が例の国書を書いたのではないかという説があります。

 

 国書は「日の出づるところ」と倭国のことを書いている。だけど、冷静に考えてみると日本列島に住んでいるわたしたちにとって、ここは「日の出づるところ」ではないね。倭国を「日の出づるところ」と考えるのは、西方から見る視点です。中国を「日没するところ」とするのは、同じように中国よりも東方からの視点です。

 

 そう考えていくと、国書を書いた人物の視点は倭国と隋のあいだにある。そこは高句麗です。

 

 高句麗僧慧慈にとって、倭国と高句麗とが軍事同盟を結ぶことが望ましい。そのためには、倭国と隋のあいだにトラブルが起きると都合がよいです。聖徳太子の信任を受けた慧慈は、そういう下心を持って国書を書いたのではないか。

 

 また、煬帝も倭国の無礼に対して怒りつつも、倭国を高句麗側に追い込まないように注意している。

 

 わずか数行の国書の文面から、倭国をも巻き込んだ国際関係が読みとれるなんて面白いですね。

2023/05/14

隋(2)

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 長い分裂時代を終わらせて中国を再び統一したのが隋です。

隋という国が、どうやって登場してきたのか見ておきましょう。

 

 話は北魏にさかのぼります。北魏の孝文帝が漢化政策をおこなった話を前回しました。実はこの漢化政策に不満を持った辺境地域の軍人たちがいて、かれらの反乱によって北魏は東西に分裂しました。この軍人たちは、辺境防衛で苦労をともにして強い団結力を持っていた。人種的には鮮卑系などの北方民族と、北方民族化した漢族が渾然一体となっています。

 

 この軍人たちが北魏分裂後の西魏、北周の支配者集団になるのです。かれらは質実剛健な雰囲気を持ち続けます。東魏、北斉政権は南朝の貴族文化に影響されて軟弱化していきますが、北周は地理的な関係もあって南朝の洗練された貴族文化にあまり影響されなかったのです。

 

 隋の建国者は楊堅(ようけん)です。隋の文帝ともいいます。

 この人は北周の皇帝の外戚で、北周の皇帝から帝位を譲り受けて隋を建てます。もともと楊堅も北周の皇帝家も、北魏時代の軍人仲間のグループなんですね。だから、王朝が隋に代わっても、基本的な政策の変更はありません。支配者層の顔ぶれもかわらない。

 その後、楊堅の隋は北斉、陳を滅ぼして統一を成し遂げるのです。

 

 楊堅は漢民族といわれていますが、生活文化はかなり北方民族化していたようです。奥さんは独孤(どっこ)氏という鮮卑族の有力貴族出身の人ですしね。

 隋という統一王朝は、中国が北方民族のエネルギーを吸収消化して生まれたものと考えたらよいと思う。

 

いままで、中国文化とか漢民族とかいう言葉をあまり説明もせずに使ってきましたが、中国文化というのは常に周辺の民族の文化を取り入れて発展してきたものだし、漢民族というものも、周辺民族を取り込んでその範囲がどんどん広がってきているモノなんですね。

 

 漢帝国が崩壊してから隋の統一までの長い分裂時代に、中国文化は五胡の文化をその中に消化しながら一回り大きくなったというイメージがあります。

 

 先走りますが、隋がすぐに滅んだあとを継ぐのが唐です。唐はものすごく広い範囲を包み込んで、大唐文化圏とでもいうものをつくりあげます。日本からも遣唐使がどんどんいくでしょう。阿倍仲麻呂、聞いたことがありますか。遣唐使で唐にいって、すっかり唐の皇帝に気に入られて、向こうで官僚として出世するの。唐というのは、その人間が何民族かなんていうことは全然気にしない国なんですね。

 

 北魏、西魏、北周という流れの中で、いわゆる中国人と北方民族が融合していった、その流れが隋、唐という国の基本的な姿勢にもあらわれていると思います。

 

隋の政策

 隋の政策です。

 都は大興城。長安と覚えてもらっても結構です。

 土地制度は、北魏より引き続いて均田制を採用。

 

 税制は租庸調制。均田制によって国家から土地を支給されている農民を均田農民といいます。均田農民が土地を支給されるかわりに、国家に対して納めるのが租庸調(そようちょう)です。

 租は穀物で納める税。庸は労働力で納める税。一年のうち一定期間、政府に労働奉仕します。調は各地の特産物などで支払う税。

 

 さらに均田農民には兵役があります。均田農民によって編成される兵制を府兵制といいます。

 

 というわけで、均田制と租庸調制、府兵制はセットで実施されて効果が上がる制度です。これによって、王朝は豪族に頼らずに直接に農民を把握し、軍事力を手に入れることができたわけです。北魏時代から徐々に整備されてきた国家制度が、隋の時代に実が結んだのですね。

 

  官僚登用制度として、絶対に覚えておかなければならないのが「選挙」。今の選挙とは全然意味が違うからね。これは試験による官僚登用制度です。やがて、この制度が発展して、のちの宋の時代に科挙(かきょ)と呼ばれるようになります。隋の時代は選挙で採用される官僚の数はまだまだ少ないようですが、家柄によらず人物を選ぶ試験を始めたということはすごいことですよ。6世紀のことですからね。20世紀の日本だって、試験で国家公務員を採用しているんだからね。同じですよ。

 

 貴族も官僚として活躍していますが、隋の時代からは貴族出身官僚を地方官に任命しなくなっている。地方に地盤を持たせないようにしたのです。貴族は豪族的な面をどんどんなくして、王朝に寄生する存在に近づいていきます。

 後漢滅亡後の課題であった皇帝権力の強化は、こういう形で実現していくのです。

 

  4世紀におよぶ分裂の間に江南地方、長江南方の地域ですね、ここは南朝によって開発されて農業生産が伸びていました。隋は、ここを中国北部に結びつけるために大運河を建設します。南は長江南方の杭州から現在の北京近くまで、全長1500キロメートル。

 大運河は南北中国の経済の大動脈として、以後の社会に欠かせないものとなっていきます。のちの唐の繁栄は、この運河のおかげといっても言っても良いくらいです。

2023/05/12

唯識派

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 大乗仏教を代表するもう一つの学派は、唯識派である。『華厳経』十地品にみられる「あらゆる現象世界(三界)はただ心のみ」という唯心思想を継承、発展させた。45世紀のアサンガ(無着)、ヴァスバンドゥ(世親)の兄弟が、その代表的な思想家である。

 

 唯識という学派名は、一切は心から現れるもの(識)のみであるという主張による。このような考えは、すでに最古の経典にその萌芽を見いだすことができる。『ダンマパダ』は「ものごとみな 心を先とし 心を主とし 心より成る」(藤田宏達訳)という句で始まる。

 

 唯識派の特徴は、心とは何かを問い、その構造を追究した点にある。この派は、瞑想(瑜伽すなわちヨーガ)を重んじ、その中で心の本質を追究した。そのため瑜伽行派(ゆがぎょうは)ともいわれる。

 

 アビダルマ哲学によれば、われわれの存在は刹那毎に生滅をくりかえす心の連続(心相続)である。唯識派は心相続の背後にはたらくアラヤ識(阿頼耶識)を立てた。

 

 アラヤ識は、表面に現れる心の連続の深層にあって、その流れに影響をあたえる過去の業の潜在的な形成力を「たくわえる場所(貯蔵庫)」(ālaya)である。

 

 これは瞑想の中で発見された深層の意識であるが、教理の整合性をたもつ上で重要な役割を果たした。すなわち、無我説と業の因果応報説の調和という難問がこれによって解決された。

 

 無我説は、自己に恒常不変の主体を認めない。自己は、刻々と縁起して移り変わっていく存在であるという。すると、過去と現在の自己が同一であるということは、なぜいえるのであろうか。無我説では、縁起する心以外に何か常に存在する実体は認められない。はたして自業自得ということが成り立つのか。あるいは、過去の行為の責任を現在問うことができるのか。これは難問であった。

 

 解答がなかったわけではない。後に生ずる心が先の心によって条件づけられているということが、自己同一性の根拠とされた。いいかえれば因果の連鎖のうちに自己同一性の根拠が求められた。

 

 しかし、業の果報はただちに現れるとはかぎらず時間をおいて現れることがある。業が果報を結ぶ力はどのようにして伝えられるのか。先の解答はこの点について、十分に答えていない。

 

 深層の意識としてのアラヤ識は、この難問を解消した。心はすべて何らかの印象を残す。ちょうど香りが衣に染みこむように、それらの印象はアラヤ識の中で潜在余力となってたもたれ、後の心の形成にかかわる。アラヤ識が個々人の過去の業を種子として保ち、果報が熟すとき表面にあらわれる心の流れを形成する。

 

 これによって、アートマン(自我)がなくて、なぜ業の因果応報や輪廻が成立つのかという問題に対する最終的な解答が与えられた。

 

 ところで、アラヤ識自身も刻々と更新され変化する。アートマン(自我)のような恒常不変の実体ではない。しかし、ひとはこれを自我と誤認し執着する。この誤認も心のはたらきである。これは、通常の心の対象ではなく、アラヤ識を対象とする。また、無我説に反する心のはたらきである。そこで、この自我意識(manas末那識、まなしき)は特別視され、独立のものとみなされた。

 

 こうして「十八界」において立てられていた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に加えて、第七の自我意識、第八のアラヤ識が立てられた。心は、これらの層からなる統体とみなされた。そして、このような層構造をもつ心のはたらきから生まれ出る表象(vijñapti)として一切の現象は説明された。

 

 一切は表象としてのみある(vijñaptimātratā)。しかし、ひとは表象を心とは別の実在とみなす。こうして、みるものとみられるものに分解される。このようにみざるをえない認識構造をもつ心は誤っている(虚妄分別、こもうふんべつ)。

 

 虚妄分別によってみられる世界は仮に実体があるかのように構想されたものでしかない(遍計所執性、へんげしょしゅうしょう)。

 

 そして誤った表象をうみだす虚妄分別は、根源的な無知あるいは過去の業の力によって形成されたものである。すなわち他のものによって縁起したものである(依他起性、えたきしょう)。

 

 こうして依他起なる心、アラヤ識のうえに迷いの世界が現出する。しかし、経典に説かれる法を知り、修行を積み、アラヤ識が虚妄分別としてはたらかなくなるとき、みるものとみられるものの対立は現れなくなり、アラヤ識は別の状態に移り、「完全な真実の性質」をあらわす(円成実性)。

 

 「遍計所執性」「依他起性」「円成実性」は、あわせて「三性(さんしょう)」といわれる。迷いの世界がいかにして成り立ち、そこからどのようにすれば解脱しうるかを説く唯識の根本教義である。日本において、唯識思想は倶舎論とともに仏教の基礎学として尊重されてきた。

2023/05/10

主神オーディンとトール等の主要な神々(3)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

  こうしてウートガルザ・ロキはトールを振り返り、

「トールのすごさについてはいろいろ言われているが、さてここでどんな技を見せてくれるかな」

と尋ねた。

 

そこでトールは「酒飲み比べ」と言った。王は、それはいい、といって角杯を持ってこさせて言った。

「一息で空にできたら見事だ、二息でできる者はいくらかいる、だが三息で空にならなかったからといって、酒飲みではないとはいえないだろう」

とからかった。トールは角杯をみて少し大きいなとは思ったが飲めないとは思わなかった。そして一息でグイグイあおって飲んでもういいだろうと思って口を離して中をのぞいたところ、全然減っていないように見えた。

 

王はトールをからかった。怒ったトールは再び角杯に口をつけ力一杯飲み続けた。しかしやっぱり全然減っていなかった。王はまたもトールをからかった。トールは怒りに怒って三度角杯を口にして、あらん限り息の続く限り飲み続けた。そして中をのぞくと、今度はかなり減っているのが見えた。こうしてトールは杯を置いた。

 

 王は、

「アースのトールが思ったほどたいしたことはないということが分かったけれど、もっと他の競技をしてみるかい」

と言った。

 

トールは

「いいだろう、だがどうも妙な気がする。こんな風に飲んで、たいしたことがないなんて」

とつぶやきながら「何をしたらいいか」と尋ねた。

 

すると王は

「たいしたことではないけれど、ここの若者たちがよくやることだが、儂の猫を持ち上げてみせてくれ。もっとも先ほどたいしたことがないというのを見ていなかったら、こんなつまらんことは要求しなかったのだがね」

と言った。

 

そして一匹の灰色の猫が、広間に飛び出してきた。そこでトールは猫に近寄り、腹の下に手を差し入れてもちあげようとした。猫は背中を丸めた。しかし持ち上がらない。トールはできる限り手を伸ばし、やっと猫の片足が持ち上がった。しかし、それ以上は無理だった。

 

 そこで王は

「思った通りだ、トールは小さいからなあ」

と言った。

 

トールは怒り

「小さい、小さいというが、それじゃ俺と力比べをしてみるがいい」

と怒鳴った。

 

王は

「それじゃお手並み拝見といこう、先ず儂の乳母のばあさんとやってみてくれ」

といった。ばあさんの「エリ」が出てきて、二人は相撲をすることになった。だがトールが攻撃すればするほど、ばあさんのエリは盤石のように動かず、今度はエリが攻撃にでるとトールの片足は浮き、こうして二人は激しく戦いつづけたが、まもなくついにトールは片膝をついてしまったのだった。

 

 しかし、ともかくトールたちは客分としてのもてなしを受けて一晩を過ごし、朝になって出発することになった。ウートガルザ・ロキは、見送りに一緒に門の外までやってきた。

 

そしてトールが

「あんたたちが、俺のことをとるに足らぬ奴とよぶことは分かっている。だから、いい気分がしない」

と言ったのをきいて、

「もう城の外にでているから、本当のことを教えてやろう」

と言った。

 

「儂が生きているうちは、二度とおまえを城の中に入れることはしないだろう。もしおまえがこんなにも力があるものすごい奴だと知っていたら、儂らの危険を思って始めから城の中などに入れはしなかったよ。じつは儂は、おまえの目を欺いていただけなのだ。始め森の中で儂がおまえたちに出会って荷物を一緒にしたけれど、おまえたちがそれを開けられなかったのは、こっそり鉄線で全部しっかり縛っておいたからさ。次におまえは三度儂の頭を槌のミョルニルで叩いたけれど、あれはまともに食らっていたら儂の頭は砕け散っていたよ。あの山を見てみろ、三つの大きな谷ができているけど、順番に谷がでかくなっている。あれがおまえの槌で打った跡だよ、幻で頭の代わりに、あれを打たせていたわけさ。

 

競技も同じで、最初の食べ比べでのロキの相手というのは野火だったのさ。だから肉でも骨でも、樋までも何でも燃やし尽くしてしまったわけだ。また駆け比べでスィアーヴィの相手をしたのは、儂の思考だったのだ。儂の思考のスピードに敵う奴などいるわけもない。そしておまえが飲んだ角杯だが、あれの端は海につながっているのだ。だから空になるわけもないのだが、仰天したのが三杯目で、おまえは大量の海の水を飲んでしまったのだ、だから海にいってごらん干潟ができているだろう。猫の時は、おまえが猫の片足を持ち上げた時には、儂ら全員怖れおののいたものだ。なぜならあれは猫ではなくて、この大地をぐるりと取り巻いているミズガルズの大蛇だったからさ。

 

最後のエリとの相撲もそうだ。エリというのは「老齢」なのだ。老齢と戦って勝った試しのある者など存在しない。それなのに、おまえは老齢と戦ってせいぜい片足をついたぐらいのものだった。さてこれで本当の別れだ、しかし、もう儂のところを尋ねようとはしない方が、お互いの身のためだろう。今度は儂はあらゆる手段を講じて、城を守るつもりだから」

と言った。

 

これを聞いてトールは騙されたことに怒り槌を振り上げたけれど、ウートガルザ・ロキの姿はどこにもなく、また城も何もかもすべてなくなり一面の野原が広がっているだけであった。こうしてトールたちは戻ってきたが、トールは大蛇を探しに行こうと心に決めていた。

 

 話はここからトールの大蛇探しとなり、巨人の漁師のところに行き、大蛇をつり上げるのに成功するけれど、大蛇を怖れた巨人が糸を切ってしまい逃がしてしまった話が続きます。それ以外、トールについてはさまざまの話があります。

2023/05/05

隋(1)

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概要

楊堅が北周から皇位を譲り受けた581年から、李淵の即位による唐の成立617年まで中国で成立した王朝。

 

日本史では先進国であったこの国に遣隋使を送り、大陸で学んだ学者たちは日本の政治に大きな影響を与えた。聖徳太子が小野妹子を派遣して「日出ずるところの〜」の書簡で煬帝を怒らせたエピソードは余りに有名だろう。

 

建国と中華統一

時は南北朝時代。581年、北朝で元近衛軍の司令官かつ外戚であった楊堅が、9歳の幼い静帝から皇帝の位を譲りうけ文帝として即位した。文帝の建てた、この新しい王朝が隋である。

 

隋王朝をひらいた楊堅は、古い長安(西安)の東南の地に新しい都を建設して大興と名付けた。楊堅は大興に自らが政治を執る大極殿と、そこからまっすぐ南に伸びる朱雀大路。さらに仏教や道教のお寺などを作った。また以後、清代まで続く中国の伝統的官吏登用テスト、科挙もこの時代に始まった。それまでは特別な家柄や高い身分の家に産まれた人しか高級官吏にはなれなかったが、これにより少なくとも建前上は広い人々が出世の機会が得られるようになった。しかし、実際は門閥貴族の力が依然大きく、科挙による新興官吏は勢力を抑えられていた。文帝は農民に土地を貸し、その見返りとして租庸調などの税を課す均田制や、均田を借り受けるかわりに兵役を義務づけた府兵制を取り入れ政治改革も進めた。

 

建国から7年後、国内の安定を確認した楊堅は、いよいよ南北統一に乗り出す。楊堅の子で当時20歳になっていた楊広(後の煬帝)は南の王朝、陳を討伐する総司令官に任命され588年、50万余の大軍をひきいて江南に出発した。翌年には長江の北岸から軍船に乗り込み、陳の都、建康に進軍。愛人の張麗華を囲うなど贅沢をしていた陳の叔宝を降伏させて陳を滅ぼした。これにより、中国は実に宋(南朝最初の王朝)以来170年ぶり、西晋滅亡以来約250年ぶりに統一された。

 

戦いに勝利した楊広は意気揚々と凱旋し熱狂的歓迎を受けるも、兄である皇太子、楊勇から疎まれてしまった。そこで楊広は、質素な生活を好む父の文帝や母の独孤皇后に、楊勇の贅沢で淫らな生活ぶりを伝え、更には謀反の噂を流して皇太子の座を奪取した。楊広は604年には父の文帝を謀殺し、隋の二代目皇帝煬帝となった。

 

煬帝の治世

皇帝となった煬帝はまず洛陽に新しく都を建設し、更に永済渠、通済渠、江南河などの大運河の建設を開始した。運河の工事には中国全土から100万人の人々を動員したと言われる。当時の隋の人口が4600万人と言われるので、100万人がどれだけ凄まじい数かが分かるだろう。運河は万里の長城と並ぶ中国の二代土木事業と呼ばれ、経済や文化交流などの面で大きな役割を果たしたが、他に煬帝が指示した万里の長城の修復工事や、贅沢な離宮、まだ動く宮殿と呼ばれた巨大船などの工事と合わさって、負担は人民に重くのしかかった。

 

607年煬帝は新しい法律、大業律令を発布し、律令国家としての基礎を固めた。律とは刑法典、令とは民法典で、政治経済、司法などの国家の法体系のことである。

 

同年には倭国から小野妹子が渡海してきて、有名な日出ずる国の親書に激怒するも、結局煬帝は裴世清(はいせいせい)に小野妹子を日本まで送らせた。余り有名ではないが、この時に小野妹子は隋の国書をなくしてしまっている。一時は刑を受けるも、百済で奪われたものとして小野妹子の罪は許されたが、実際のなくした(奪われた?)理由については未だ分かっていない。これ以降も倭は遣隋使を続け、608年には高向玄理(さかむこのくろまろ)ら4人の留学生と、僧の旻(みん)や南淵請安(みなみぶちのしょうあん)ら4人の学問僧が渡海してきた。これらの遣隋使や、後の遣唐使により大陸の文化や政治の仕組みが日本に伝わり、やがておこる大化の改新などに影響を与えていった。

 

610年には洛陽で国際見本市のようなお祭りが開かれて、中央アジアや南アジアから珍しい産物がたくさん運ばれてきた。しかし、その一方で朝鮮半島の高句麗だけは、いまだ隋に従わず煬帝をいらつかせた。煬帝はとうとう高句麗遠征を決意するが、これが隋王朝の命運を決めることになった。

 

滅亡

612年、煬帝は大軍を率いて高句麗征伐に出立する。高句麗軍は乙支文徳(いつしぶんとく)将軍が守る堅城、遼東城で隋の大軍を迎え撃ち、これを撃破した。煬帝は別働隊で高句麗の首都、平壌を攻めさせるもこちらも敗北。高句麗では薩水の大捷(大勝の意)と呼ばれるこの戦いで、隋軍は何十万もの将兵を失うこととなった。

 

翌年、煬帝は再び高句麗遠征を敢行。遼東軍を包囲するも本国で楊玄感が反乱を起こし、洛陽が占拠されてしまうという事態が発生した。煬帝はただちに引き返してこれを鎮圧するも、軍は疲弊し、続く614年の第4回高句麗遠征では全く戦果をあげることができず、華北や江南で農民の反乱が発生したこともあって失敗におわった。この農民反乱には、政府軍や幹部も加わっていたとされる。

 

煬帝は気分転換に皇太子の楊侑を残して江都に向かったが、長安で煬帝が信頼していた従兄弟の李淵が反乱を起こしてしまう。617年、長安に無血入場した李淵は、煬帝の孫でわずか13歳の楊侑を即位させ、三代目皇帝、恭帝とした。煬帝の命運はここに尽き、近衛隊長の宇文化及に殺されてしまった。煬帝が死んだことを知った李淵は恭帝から皇位を譲り受け、ここに隋は滅び、唐王朝が誕生した。

2023/05/03

唯識(5)

修行の階梯

唯識では、成仏に三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)と呼ばれる、とてつもなく長い時間の修行が必要だとされる。その階梯は、資糧位(しりょうい)、加行位(けぎょうい)、通達位(つうだつい)、修習位(しゅうじゅうい)、究竟位(くきょうい)の五段階である。

 

転識得智

修行の結果悟りを開き仏になると、8つの「識」は「智」に転ずる。これを転識得智(てんじきとくち)という。

 

      前五識は成所作智(じょうしょさち)に

      意識は妙観察智(みょうかんざつち)に

      末那識は平等性智(びょうどうしょうち)に

      阿頼耶識は大円鏡智(だいえんきょうち)に転ずるとされている。

       

転識得智の考え方は天台宗や真言宗、チベット密教のニンマ派にも受け継がれている。

 

唯心と唯識

「華厳経」では「唯心」という。また「唯識論」では「唯識」という言い方をする。その違いは何であろうか。

 

『華厳経』では、「集起の義」について唯心という。『華厳経』は、覚った仏の側から述べているので、すべての存在現象が、そのままみずからの心のうちに取り込まれて、全世界・全宇宙が心の中にあると言う。そこで、すべての縁起を集めているから「集起の義」について唯心と言う。

 

唯識論では、「了別の義」について唯識という。唯識では凡夫(われわれ普通の人間)の側から述べているので、人間のものの考え方について見ていこうとしている。すべての存在現象は人間が認識することによって、みずからが認識推論することのできる存在現象となりえているから、みずからが了承し分別している。そこで「了別の義」について唯識という。心ではなく、識としているのは、それぞれの了別する働きの体について「識」としているのであって、器官ではない。器官は存在現象しているものである。

 

しかし、唯心といっても、唯識と言っても、その本質は一つである。詳しく分けて論ずれば、「唯心」の語は、修行する段階(因位)にも悟って仏になった段階(果位)にも通じるが、「唯識」と称するときには、人間がどのように認識推論するかによるので、悟りを開く前の修行中の段階(因位)のみに通用する。「唯」とは簡別の意味で、識以外に法(存在)がないことを簡別して「唯」という。「識」とは了別の意味である。了別の心に略して3種(初能変、第二能変、第三能変)、広義には8種(八識)ある。これをまとめて「識」といっている。

 

識と存在

唯識といって、以上のように唯八識のみであるというのは、一切の物事がこの八識を離れないということである。八識のほかに存在(諸法)がないということではない。おおよそ区分して五法(五種類の存在)としている。

 

(1)

(2)心所

(3)

(4)不相応

(5)無為である。

 

この前の四つを「事」として、最後を「理」として、五法事理という。

 

        心(心王, citta - 識それ自体。心の中心体で「八識心王」ともいわれる。

        心所 (caitasika) - 識のはたらき。心王に付随して働く細かい心の作用で、さらに6種類に分類し、遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定(ふじょう)とし、さらに細かく51の心所に分ける。心所有法、心数法とも訳される。

        (rūpa) - 肉体や事物などのいわゆる物質的なものとして認識される、心と心所の現じたもの。

        不相応行 (viprayukta-saskāra) - 心と心所と色の分位の差別。心でも物質でもなく、しかも現象を現象たらしめる原理となるもの。

        無為 (asaskta) - 前四法の実性。現象の本質ともいうべき真如。

 

さらに心を8、心所を51、色を11、不相応行を24、無為を6に分けて別々に想定し、全部で百種に分けることから、五位百法と呼ばれる。なお倶舎論では「五位七十五法」を説いており、それを発展させたものと考えられる。

 

三島由紀夫と唯識

三島由紀夫の最後の作品となった『豊饒の海』四部作は、唯識をモチーフの一つに取り入れている。 第四部「天人五衰」の最終回入稿日に、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決(三島事件)した。

 

澁澤龍彦は、三島が唯識論に熱中していたことを『三島由紀夫をめぐる断章』で触れ、唯識論とは何かを三島に問われた宗教学者の松山俊太郎が

 

「あれは気違いにならなければわからない、正気の人にわかるわけがない。唯識説のよくできているところは、ちょうど水のなかに下りていく階段があって、知らない間に足まで水がきて、知らない間に溺れているというふうにできている。それは大きな哲学の論理構造であり、思想というものだ」

 

と言った話、それを聞いた梅原猛が

 

「感心している三島も三島だが、こんな馬鹿げた説を得々として開陳している仏教学者もないものだ」

 

と批判した話に触れている。また、澁澤宅を訪ねた三島が、皿を一枚水平にし、もう一枚をその上に垂直に立てて、

「要するに阿頼耶識というのはね、時間軸と空間軸とが、こんなふうにぶっちがいに交叉している原点なのではないかね」

と言うので、

「三島さん、そりゃアラヤシキではなくて、サラヤシキ(皿屋敷)でしょう」

とからかった話も紹介している。