2008/02/28

トゥルヌド・ロッシーニ(「ロッシーニの料理」part1)

「ロッシーニの料理」より引用

 「ベッドと食卓に礼儀は不要」というのが、イタリア人の鉄則。快楽の肯定にかけて、他民族の追随を許さぬ彼らは、ひとたび食事を始めて食の快楽に身を委ねれば、手づかみだろうと汁をはね散らかそうと、お構いなし。まるで「食べるために生きている」と言わんばかりの健啖ぶりを見せる。ベッドの中でもまたしかり、かどうかは定かでないけれど、多分そうなのだろう。

古来「衣食足りて礼節を知る」と言うけれど、礼節を知ってなお究めてみたいのが美食ではなかろうか。その昔、皇帝や王侯貴族の特権だった美食も、現在は私たちの手の届くところにあるからなおさらだ。その基礎を形作ったのが、19世紀初頭のフランスに巻き起こったグルメブームだった。火つけ役は、ブリア=サヴァランの著した『美味礼賛』(原題:『味覚の生理学Physiologie du gout』)  1826年にパリで初版が出版され、今日まで脈々と読み継がれている、この本に書かれた有名な格言を引用してみよう。

『動物は食らい、人間は食する。教養があって、始めて人は食べ方を知る。食卓の快楽は、年齢、身分、生まれた国を問わず、総ての人に毎日ある。それは他の様々な快楽がなくなっても最後まで残り、私たちの慰めとなる。新しい美味の発見は、人類の幸福にとって天体の発見に優る』

かくして料理は芸術、美味探求は教養人の嗜みと認知されるに至った。そして歴史に名を残す、稀代の食通たちが現れる。中でも有名なのが、イタリア人の作曲家ロッシーニ(Gioachino Rossini1792-1868)だ。オペラ『セビリャの理髪師』『ウィリアム・テル』で天才作曲家の名声をほしいままにした彼は、37歳の若さで引退して美食三昧の後半生を送ったと言われるが、それだけではない。   ロッシーニは料理の創作に情熱を注ぎ、トリュフとフォアグラを使った様々な料理に、その名を残したのである>

 なんだ、作曲家が料理人に転進しただけか、と思ってはいけない。ロッシーニはロスチャイルド家のシェフと親しく交際し、パスタ料理の真価をフランスに知らしめ、晩年には各界名士を招いて毎週美食の晩餐会を催し『ロマンチックなひき肉』、『バター』など料理や食材の題名の音楽まで作曲したのである。まさに多芸多才、筋金入りの美食芸術家だ。篆刻(てんこく)、書画、陶芸、著作、食通、料理家として名高い、北大路魯山人に当たる人物と言えば、お分かりいただけるだろうか。ちなみに、魯山人は人間国宝の認定を辞退し、ロッシーニは  「勲章より珍味の方がうれしい」と言って、勲章を送り返した。真の芸術家なればこそ受勲や位階に頓着せず、己の道を究めることができたのである。

美食家ロッシーニの名を冠した料理の中で、とびきり有名なのが「トゥルヌド・ロッシーニ」である(別名「ロッシーニ風フィレ・ステーキ」)
パリの有名レストラン、カフェ・アングレCafe Anglais1802年創業)のシェフにロッシーニが伝授したとされるこのステーキ、フランス料理の神様オーギュスト・エスコフィエの名著『料理の手引きLe guide culinaire』(1902年パリ刊)にも作り方が書かれている。

トゥルヌド(牛フィレ肉の心部=クール=シャトーブリアンと隣接する希少な部位)をソテし、濃縮肉汁をかけた揚げクルトンの上に置く。それぞれのトゥルヌドへ、バターでソテしたフォアグラの切り身をのせ、その上に数枚の薄切りトリュフを飾る。マデイラ酒と、トリュフ・エッセンス入りドゥミ=グラス(肉や野菜を煮詰めて作る、濃厚なソース)でデグラッセ(鍋底に残る焼き汁やうまみを、少量のワインなどで溶かし取ること)した焼き汁をかける」

古典料理の精華とされるこの料理について、フランスの歴史家J.F.ルヴェルは「ロッシーニが、筋金入りの食通であったことを今なお実感させる。見かけはシンプルだが、その背後に高級料理の技術がある」と述べている>

この「ロッシーニ風ステーキ」、高級レストランはもちろん、近年では某ファミリーレストランの特別メニューになっているので、ご存じの方も多いと思う。独特な触感のフォアグラと、ほどよく柔らかなトゥルヌドが口の中で溶け合い、濃厚なマデイラ・ソースとトリュフの香りが絶妙なハーモニーを奏でる。まさに舌福、至福の料理である。ロッシーニの時代は、フランスでレストランが誕生して花開いた時期に重なる。

一方「シェ・イノ」といえば、現代の日本のフランス料理に新しい時代を開いたことでも知られる一軒。そこで、ロッシーニの料理が現代に甦ったと言えそうだ。

「トゥルヌド・ロッシーニ」、すでにレストランで舌鼓を打った食通も多いことだろう。では皆さんは、料理の名称「トゥルヌド(tournedos」の由来を、ご存じだろうか。その語源は不明とされており、博学なシェフ、レイモン・オリヴェも著書にこう記したほどだ。

「我々は、ロッシーニの名をもつトゥルヌドが、彼自身の創作であると知っている。だが、トゥルヌドという言葉の語源を知らぬ」

しかし、イタリアの料理研究家マッシモ・アルベリーニは『食卓4000年史』(1972年)に、次の逸話を紹介している。

ある日、ロッシーニは新しい肉料理を思いつき、自分のコックに調理させた。 台所で調理手順を監視する主人を邪魔に思った料理人が「そんなことをされても、うまく作れません」と嘆くと、ロッシーニは答えた。

「それならよそを向いて調理したまえ、私に背を向けてね(tournez moi le dos)」

そう、フランス語に言う「背を向けろ/そっぽを向け」が、トゥルヌ・ル・ド(tourne le dosなのである。そしてロッシーニのひと言が、そのまま料理名になってしまったのだ。

2008/02/22

丹波

 京都府の北部に位置する丹波・丹後には、大陸からの渡来文化が入り日本古代史のポイントとなっている。

王国」形成時代は、日本海対岸の情勢は日本列島の渡来集団に有利であり、大陸および朝鮮半島と列島間の往来は盛んで、出雲、丹波など山陰地方は日本の表玄関であった。かつての日本海側を表玄関とすると、有馬・播磨が向こう側という事になります。

丹波」は、アイヌ語で「タン・パ」となり「こちら側の岸」という意味です。「あちら側の岸」は「アル・パ」ですが「向こう側の・海の・浜」というしゃれた「アリ・ルル・ムイ」もあって、それが「有馬」アリマとなり、千島列島エトロフ島から九州までの海辺20箇所ほどの場所に、これらの地名に残っています。

「タニハ」(丹波)は、今の峰山町に残っている。また10世紀の百科辞典「和名抄」の山陰道の中にも、丹後の中にある「丹波」の訓読みを「タニハ」としている。アイヌ語の「タン・パ」が「タンバ」となり、文字が導入された時に「丹波」」と当て字をし、その訓読み「ニハ」をさらに「タニハ」としたものと考えられている。

朝鮮の伝承によれば、首相として新羅王を補佐した倭人の瓠公(ココウ)は、タバナから日本海を渡ってきた時、腰に瓢箪をつけていたので瓠公と名付けられましたが、この「タバナ」は「タンバ」と言われている。この地名は、一般的に有馬と対に使われる例が多く(ar-muy:もう一方の山、または入り江)と対抗しています。これも各地に類型がみられます。

ポリネシア語による解釈
丹波国は『古事記』では旦波、丹波と、『日本書紀』では丹波と記され『和名抄』では「太迩波(たには)」と訓じられています。元は但馬、丹後の両国を含む国でしたが、天武天皇13684)年に朝来(あさこ)、養父、出石、気多、城崎、美含(おくみ)、二方、七美(しつみ)の8郡を分けて但馬国を分割し、さらに和銅6713)年に加佐、与謝、丹波、竹野、熊野の5郡を分けて丹後国を分割し、桑田、船井、多紀、氷上、天田、何鹿(いかるが)の6郡を統括しました。畿内に接し、山陰道最初の国で早く開化天皇の妃竹野媛の出身地として名が見えています。

この「たには」は

(1)
主基(すき)田の「田庭」から
(2)
「タニ(谷)・ハ(端)」から
(3)
「丹(水銀)」から
(4)
「タワ(峠)」の転


などの説があります。

この「たにわ」は、マオリ語の「タ・ニワ」、TA-NIWHA(ta=the;niwha=resolute,bravery)、「勇者(の国)」、または「タ・(ン)ギハ」、TA-NGIHA(ta=the,dash,beat,lay;ngiha=burn,fire)、「盛んに・(銅、鉛、錫などの金属を精錬する)火を燃やしている(国)」(「(ン)ギハ」のNG音がN音に変化して「ニハ」となった)の転訛と解します。
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

2008/02/20

終息(東京劇場・第5章part5)

 どれが真相なのか実際のところはわからないが、こちらとしては一番困るのが

「『この件について自分は手を引くから、後はよろしく頼む』

との言を残して、E社のJ社長がさっさと撤退してしまった」

という、A社のTマネージャーの発言が嘘であった場合だ。

それ以外であれば、どれにしても特に問題になることはないだろうが、A社のTマネージャーの発言が嘘であったとすると、話はガラリと変わってくるのである。


A社のTマネージャーは 

「『E社のJ社長が、自分は手を引くから、後はよろしく頼む』と言ってきた」

という事だったが、実はこれが嘘であったと仮定する。実はE社のJ社長とD社のK氏は、なおもXプロジェクトの件をまとめようとして協議を重ねた結果、両社にとっては儲けが薄くはなるが今後の展開を含めて、今回は多少無理な設定をする事に決めた・・・もしそうであった場合、このまま今の流れでA社と直接契約をしたのがE社もしくはD社にわかった場合、面倒な事になりはしないか?

トラブルに発展する危険性は、大いにあると考えざるを得ないのではないか。


最終的にD社が提示してきた単価は、当初の希望を僅かに上回るところまで来た。が、その前にA社から提示された単価は、それよりも時間当たり1000円近く上回っている。これは、我々庶民レベルでは物凄く大きな差であるから、A社のTマネージャーの発言が嘘でなければ、迷わずA社との契約を選びたいところだ。


が、そうであれば今更、D社から条件提示が出てきたのが不可解に思えてくる。D社、もしくはE社の勘違いであれば事は簡単だが、そうでなくA社のTマネージャーが嘘を吐いていたとしたら、後々面倒なトラブルに発展しかねない。元々、最初に声を掛けてきたのがD社であり、ここへ来て設定単価も希望に沿ったものが出てきたから、こうなれば儲けはかなり薄くなるが欲を張らずに、D社と契約するのが筋にも思えた。


ただしD社にしても、最初の交渉の時には

「これ以上はビタ一文上げられないから、これで納得いかなければ辞退してくださって構いません」

と言っていたのが二転三転して、結局当初の希望単価を上回ってきた辺りを見ると、あたかも

(最初はトンデモなく、マージンをとろうとしていたのではないのか?)

と、疑惑を持ってしまうのである。


ともあれ、A社のTマネージャーに真偽を確認してみる事にした。

「D社から、そのような話が来ましたが・・・」

「私には、わかりません。なぜ、今頃そんな話が出てきたんだろう・・・」

「前にも言ったように、トラブルが嫌なのでもう一度確認しますが、E社のJ社長が『手を引く』と言ったというのは事実でしょうか?」

「事実です。E社の J社長は『自分は手を引くから、よろしく頼む』と言って来ましたよ」

「だとすると、この段階でD社からあのような連絡が入る事は、あるはずがないんですが・・・」

「それは私も、不思議に思っていますが。しかし私の方では、最初から単価の設定は変えていないし、 J社長から単価の交渉の要請なんて、一度も来ていないからね。私には、まったくわけがわからない・・・」


これが本当ならば、J社長がD社のK氏に正しく伝えていなかったのかもしれない。


「いずれにしても、私は嘘は吐いてないよ。なんなら J社長を呼んで引き合わせてもいいですよ。私はJ社長とは懇意だから、そうした場を設けることは出来ます」

と、前回と同じ事を言った。


「それは結構ですが・・・前にも申し上げた通り、こちらとしてはトラブルだけは避けたいので、とにかくクリアな形で入りたいと思っています」

「トラブルなんかが起こる余地は、ないと思います。アナタはD社とやらが、2度も増額の設定をしてきたという事ですが、そもそも私の方では1度として、金額を変えていませんからね」

「ともあれD社が提示してきた単価は、当初の希望をようやくクリアしてきました。勿論、御社の設定に比べれば全然少ないですが、これでD社を辞退して御社と直接契約をする理由がなくなったとも言えるので、当初の想定通りD社と契約してやるのが一番筋が通っているという気もしてきましたよ」

「それは困る。もう注文書も出したし、社内での処理が済んでいるのだから、是非うちでやってもらわないと・・・」


確かに、既にここまで動いて来た流れを変えるのは、理に反するのである。


「E社のJ社長が『手を引く』と言ったのが事実で、トラブルが起こる余地がないというのが担保できるのであれば、問題はないですが」

「問題なく、担保できます」

「では念のため、E社のJ社長に

『Xプロジェクトの件は、要員が決まった』という内容の「終息宣言」を出していただけますか?

なんといっても、まだE社とD社が動いているようなのが、今後に不安材料を残しそうなので」

「わかりました。では、すぐにも出しましょう」

と、話がまとまった。


そして数時間後、Tマネージャーから

「E社のJ社長に『Xプロジェクトの件は、要員が決まりました』という終息宣言を出し、了解の回答を貰った」というメールが来て、二転三転した契約をようやく終えたのである。

2008/02/19

推理(東京劇場・第5章part4)

ところが、これで話は終わらなかった。ここで終わっていれば、まことに万々歳だったのだが・・・

 

中村屋でA社のT氏と口頭での仮契約を交わし、その破格の条件提示に喜びに包まれて帰ったまでは良かったのだが、その後思わぬ相手から電話が掛かってきたのである。

 

「D社のKですが・・・」

 

(なんだろう・・・まさか、例の件を嗅ぎつけた?)

 

と、思わず疑ったくらいだ。

 

「はぁ・・・なんでしょう?」

 

「いや・・・実は先日お話した、例のXプロジェクトの件ですがね・・・」

 

「はぁ・・・?」

 

なんとなく、嫌な予感がした。

 

「実は、辞退の意思は伝えておりましたが、その後E社から連絡がありましてね・・・交渉の結果、時間当たりxx円まで上げる事が出来ました。これだと、月180時間稼動の場合はxxとなって当初の希望額を上回ることになり、月160でも最低ラインは確保できるという計算になります。いかがでしょう?」

 

「いかがと言われても・・・」

 

この段階で、まさかD社のK氏から連絡が来るとは夢にも考えていなかっただけに、返答に窮した。

 

「あの件は辞退したし、この前の話ではこれ以上は無理だという事で日にちも経っているので、他でも動いていて状況が変わっているのですが・・・」

 

前回

「これ以上はビタ一文、交渉の余地はない」

と断言していたK氏が提示してきた金額は、前回より時間当たり300円も上がっていた。

 

最初からこの金額であれば、問題なく受けたはずだった。

 

「そうですか・・・それは残念ですな。そっちの方は、決まるとしたらいつ決定なのですか?」

 

「すぐにも、回答が来る予定ですが・・・」

 

「ではお手数ですが、そっちの回答が来たら連絡をいただけますか?」

 

と、K氏は言った。

 

はて、これはどうしたことか?

 

(一体、どうなってんだ、こりゃ)

 

と、驚いたのも無理はない。

 

ここで、もう一度これまでの経過を整理してみた。

 

【面接まで】

1.D社(五次請け)のK氏から、Xプロジェクトのオファーが来る。

2.D社のK氏から、取引先のE社(四次請け)のJ社長を紹介される。

3.E社のJ社長から、取引先のA社のTマネージャー(三次請け)を紹介される。 4.A社のTマネージャーに連れられ、S社(二次請け)の面接を行い、現場リーダーのA氏と会う。

5.S社の現場リーダーのA氏同席で、元請けのN社の面接を行う。

6.面接後、S社の現場リーダーA氏と喫煙所で会話し、意思確認を受ける。

7.面接後、A社のTマネージャーと食事をし、意思確認を受ける。

 

【面接後】

8.A社のTマネージャーから「内定」通知を受ける。

9.D社のK氏から「内定」の通知を受ける。が、単価が設定を大きく下回っていたため、辞退を申し出る。K氏は「E社のJ社長と交渉する」と回答。

10.D社のK氏から「交渉の結果、単価が少し上がった(100/時間)」との連絡あり。が、依然として設定単価に届かないため、辞退を申し入れる。K氏は「E社のJ社長に辞退を伝える」と回答。

 

11.これまでの経緯を考え「A社との直接契約は出来ない」と伝える。T氏は「E社のJ社長から『自分は、この件から手を引く』という連絡があった」と回答。E社の撤退により、D社のXプロジェクトへの参画条件が絶たれたためA社との直接契約に臨む。A社のTマネージャーから「辞退は困る」と泣きつかれる。

 

12.A社のTマネージャーから、D社の提示額を大きく上回る(1000/時間)条件提示あり。

 

13.単価が高いため、数百円分下げてくれるよう申し出たが「100円だけ下げた設定でやらせて貰う」と回答があり、この条件で合意する。

 

14.D社のK氏から、前回より数百円上積み(300/時間)した条件提示あり(この時点で、T社の提示額とは「800/時間」の差)

 

以前にも書いたが、そもそもこのXプロジェクトの件は最初にD社から誘いのあったものだから、そのD社や間に入っているE社を飛ばして商流の先にいるA社と直接契約を結ぶのは、いわば「反則」である。ここで反則というのは、特に「違法行為」というわけではなく、いわば「倫理」や「道義」といった概念に照らして「これは、よろしくないだろう」という意味での「反則」であり、本来ならこのような行動は取るわけがない。

 

ところが、この場合、A社とD社の間に入っているE社のJ社長が、こちらが辞退を申し入れた段階で、A社のTマネージャーになんとかしてくれと頼まれると『この件について手を引くから、後はよろしく頼む』とT氏に宣言して、さっさと撤退してしまったという事だった。

 

さらに、その話は事実かと確認すると

「今から、この場でJ氏に電話をして確かめてみてもいい」

とまで言われた。

 

ここまで言われては、こちらとしては相手の言を信用するしかない。また、T氏がそれだけ熱心に誘うということは、当然ながら孫請のS社や元請のN社から「是非、来てくれ」と要請を受けていることも、これまた疑いながない。

 

こうしてE社が撤退した事で、D社としてはXプロジェクトに通じるパイプが断たれたわけだから、いかに最初の紹介元のD社とはいえ既にこの時点において、なんら気兼ねをする必要がなくなったはずだった。そもそも、D社に対しては条件が合わず断っていたのだから、D社との繋がりは既になくなっていたのである。

 

ところが、ここへ来て既にXプロジェクトへの参画資格を失っていたと思っていたD社から、単価を上乗せした条件提示が出てきたから、これはまったくわけがわからない。考えられるのは、以下のいずれかのケースである。

 

推理1:「E社のJ社長が、さっさと撤退してしまった」というA社のTマネージャーの発言自体が、真っ赤な嘘であった(または勘違いしていた?)

 

推理2:E社のJ社長は、A社のTマネージャーに対して撤退を宣言したが、D社のK氏に対してそれを知らせていなかった(または、知らせたつもりで勘違いしていた)

 

推理3:E社のJ社長は、A社のTマネージャーに対し撤退を宣言し、D社のK氏に対してもその旨を知らせたが、K氏がまだ続いているものと勝手に勘違いしていた。またはD社のK氏が、まだなんとか出来ると勝手に考えていた。

 

推理4:A社のTマネージャーが、E社のJ社長に『この件については、自分に任せてくれ』というようなことを伝え暗に撤退を要請したが、実はE社のJ社長は納得していなかった。

 

推理5:E社からの増額要請を却下したA社のTマネージャーが、E社とD社経由では単価が合わないと見込んで「E社のJ社長が、撤退したいと言ってきた」という話を創作した。が、E社とD社が(個別または共同での)内部調整を行い、単価の増額を捻出した。