2024/05/11

大化の改新(2)

乙巳の変

蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、蘇我氏による専横に憤り、大王家(皇室)へ権力を取り戻すため、まず軽皇子(後の孝徳天皇)と接触するも、その器ではないとあきらめる。そこで鎌足は、中大兄皇子に近づく。蹴鞠の会で出会う話は有名。共に南淵請安に学び、蘇我氏打倒の計画を練ることになった。中大兄皇子は、蝦夷・入鹿に批判的な蘇我倉山田石川麻呂(蘇我石川麻呂)の娘と結婚。石川麻呂を味方にし、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らも引き入れる。

 

そして、皇極天皇4年(645年)612日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自害。蘇我体制に終止符を打った。この蘇我氏本宗家滅亡事件を、この年の干支にちなんで乙巳の変という。この乙巳の変が、大化の改新の第一段階である。

 

新政権の発足

皇極4年(645年)614日、乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしたが、それでは天皇になりたいがためにクーデターをおこしたのかと思われるので中大兄と鎌足との相談の結果、皇弟・軽皇子が即位し孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子になった。これは推古天皇の時、聖徳太子が皇太子でありながら政治の実権を握っていたことに倣おうとしたと推定されている。新たに左右の大臣2人と内臣を置いた。さらに唐の律令制度を実際に運営する知識として国博士を置いた。この政権交替は、蘇我氏に変わって権力を握ることではなく、東アジア情勢の流れに即応できる権力の集中と国政の改革であったと考えられている。

 

619日、孝徳天皇と中大兄皇子は、群臣を大槻の樹に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った。そして、大化元年と初めて元号を定めた。

 

85日、穂積咋を東国に国司として遣わし、新政権の目指す政治改革を開始した。これらの国司は臨時官であり、後の国司とは同じではない。それは8組からなっていたが、どの地域に遣わされたかは定かではないが、第3組は毛野方面に、第5組は東海方面に遣わされたと、後の復命の論功行賞から推定できる。新政権は、このような広さを単位区域にして、8組の国司を東国に派遣した。

 

鐘櫃(かねひつ)の制を定める。また男女の法を定め、良民・奴婢の子の帰属を決める。9月には、古人大兄皇子を謀反の罪で処刑した。皇子は蘇我氏の血を引いていて、入鹿によって次期天皇と期待されていたが、乙巳の変の後に出家し吉野へ逃れていた。

 

古墳時代、大王と呼称された倭国の首長で、河内王朝の始祖である仁徳天皇の皇居である難波高津宮があったとされる現在の法円坂周辺へ、12月に都が飛鳥から再び摂津難波に戻り難波長柄豊碕宮とした。

 

改新の詔

大化2年(646年)春正月甲子朔、新政権の方針を示す改新の詔が発布された。詔は大きく4か条の主文からなり、各主文ごとに副文(凡条)が附せられていた。詔として出された主な内容は以下の通りで、豪族連合の国家の仕組みを改め、土地・人民の私有を廃止し、天皇中心の中央集権国家を目指すものであった。

 

それまでの天皇の直属民(名代・子代)や直轄地(屯倉)、さらに豪族の私地(田荘)や私民(部民)もすべて廃止し、公のものとする。(公地公民制)

初めて首都を定め、畿内の四至を確定させた。また今まであった国(くに)、県(あがた)、郡(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした。国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、後の令制国の姿に整えられていった。実際に、この変化が始まるのは詔から出されてから数年後であった。

 

ü  戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法)

ü  公民に税や労役を負担させる制度の改革。(租・庸・調)

 

新政権の変遷

孝徳天皇と中大兄皇子は不和となり、白雉4年(653年)に中大兄皇子が難波宮から飛鳥へ、群臣もこれに従い孝徳天皇は全く孤立して、翌年に憤死する事件が起きた。この不和の背景には、孝徳天皇と中大兄皇子の間の権力闘争とも、外交政策の対立とも言われているが不明な点が多い。皇太子の中大兄皇子は即位せず、母にあたる皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。

 

斉明天皇時代は、阿倍比羅夫を東北地方へ派遣して蝦夷を討ち、朝廷の支配権を拡大させた。一方で政情不安は続き、658年に有間皇子が謀反を起こそうとしたとして処刑された。

 

660年、伝統的な友好国だった百済が、唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)に攻められて滅びた。661年、百済の遺臣の要請に応じて、中大兄皇子は救援の兵を派遣することを決め、斉明天皇と共に自ら朝鮮半島に近い筑紫へ赴くが、天皇はこの地で崩御する。662年、百済再興の遠征軍は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、百済は名実ともに滅亡する。

 

日本は朝鮮半島への足掛かりを失うばかりでなく、逆に大国である唐の脅威にさらされることとなった(668年には新羅によって高句麗も滅亡する)。中大兄皇子は筑前や対馬など各地に水城を築いて防人や烽を設置し、大陸勢力の侵攻に備えて東の大津宮に遷都する一方、部曲を復活させて地方豪族との融和を図るなど、国土防衛を中心とした国内制度の整備に注力することになる。中大兄皇子は、数年間称制を続けた後に668年に即位した(天智天皇)。670年に新たな戸籍(庚午年籍)を作り、671年には初めての律令法典である近江令を施行している。

 

671年に天智天皇が崩御すると、天智天皇の同母弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、天智天皇の庶長子である大友皇子とが不和となり、672年に壬申の乱が起こる。大海人皇子が皇位継承権争奪戦に勝利し、大津宮から飛鳥浄御原宮に遷都して即位した。天武天皇は改革をさらに進めて、より強力な中央集権体制を築くことになる。

 

論議

蘇我入鹿暗殺のタイミングが、三韓朝貢の儀の最中である点。当時の常識として、外交儀式の最中にクーデターは起こさない(外交儀式中にクーデターを起こすことは、外交使節に対して国が内紛中で攻め込むに絶好の機会だと宣伝することと同義である)。また、仮に三韓朝貢が暗殺者の虚構だったとすれば、外交政策の中心人物である入鹿が気付かないはずがない。いずれにしても疑問があるとの指摘がある。

2024/05/09

イスラム教(9)

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キリスト教との関係

意外かもしれないが、イスラム教は聖書を聖典として認め、キリスト教の開祖であるイエス(イーサー)を五大預言者の一人に数えており、また、ユダヤ教・キリスト教と共通しているノア(ヌーフ)、アブラハム(イブラーヒーム)、モーセ(ムーサー)もその中に入れている。これはイスラムのアラーとキリスト教のエホバの神が同一の神と解釈しており、イエスらが伝えきれなかったか誤伝された預言を、最後にして最大の預言者ムハンマドが伝え直したとされているためである。

 

逆に大きく違うのは、三位一体説(父:神と子:イエスと聖霊は結局一心同体である、要するにイエスは神でもあるという考え)が主流で、イエス自身が信仰されているキリスト教に対し、イスラム教はイエスを普通の人間と認識していることが大きく違う。イスラム教では、ムハンマドも一介の(最上で最後とはしているが)預言者としてしか考えられていないが、これはムハンマド自身が「崇拝すべきなのは神である」とし「自分はその言葉を預かっただけの、ただの人間に過ぎない」と宣言するなど、徹底的に個人崇拝を否定し続けたためである。

 

ちなみにキリスト教は当然、ムハンマドを預言者とは認めておらず、コーランもデタラメと解釈している。またユダヤ教は、イエスとムハンマド、そのどちらも預言者として認めていない。

 

西洋的な倫理観・価値観との対立

また、上記以外にも西洋的な倫理観や価値観(個人主義や民主主義、人権問題、男女同権など)と対立することも多い。

 

例えば、イスラム教では条件によっては16歳未満でも結婚出来るとされ、比較的近代的な法体系を備えるマレーシアでも、14歳の少女との結婚は条件を満たしていれば可能と判断された例がある。

つまり幼女と結婚できる。

預言者ムハンマド自身も、56歳の時に3番目の妻アーイシャ(当時9歳)との婚姻を「完成」させたとされているが、それはさておき。

またイスラム教国は一夫多妻制を認めている国も多く、この点も西洋諸国と対立している。

 

他にも、政教一致(近代国家は政教分離が基本である。但し世俗主義をとるトルコ、国教を決めていないインドネシアなど例外も多い)、死刑も含めた残酷な刑罰(鞭打ち刑、石打ち刑、報復刑)といった先進諸国が問題視しそうな物事は多い。

そのため「哲学や理念と言った点において、イスラムと西洋近代の価値観は必ずしも相容れないとは言えない」などの声明も欧米人を含む一部の学識者から出ているものの、そうした考え方は現実の政治的な動きに対して未だ大きな影響力を持つことの出来ない状態が続いている。

 

ジハードについて

ジハード(جهاد jihaad)は、日本語ではしばしば中二尤もらしく「聖戦」と訳されるが、これはほんの一面的かつ恣意的な解釈に過ぎない。アラビア語では「奮闘・努力」という日常的な言葉であり(例えばヒンズー教徒であるガンジーのインド独立に伴う活動も、アラビア語では「ジハード」と訳されている)、宗教的な文脈においては「ムスリムとしての奮闘・努力」を指す。その行為者形複数ムジャーヒディーン(مجاهدين mujaahidiin)も、宗教的な文脈において「ムスリムとして闘い励む者たち」となるが、これにも「聖戦士」「イスラム戦士」といった中二病な物騒なレッテルを安易に貼るべきではなく、「闘士たち、努力家たち」という素朴な本義がある事を憶えておくべきである。

 

ジハードは大きく「内へのジハード(大ジハード)」と「外へのジハード(小ジハード)」の2つに分けられる。前者は内なる自己に対する努力であり、ムスリムとしての自身を高めていくことを目標とし、信仰者の日常行為の規範として非常に重視されている。後者は外なる他者に対する奮闘であり、アッラーの定めに従うイスラム法による秩序の拡大・浸透が目標となる。

 

だからこそ、異教徒であってもイスラム法に従って人頭税さえ支払っていれば、今まで通りの宗教生活が保障されてきたのである。また、あくまでジハードの一手段に過ぎない「聖戦」にしても「異教徒が我々に戦いを挑んで不義を働いた場合に限る」とコーランに明記されているので、何でもかんでも戦いを吹っかけられるというわけではないのだ(その分、報復は執拗かつ容赦無いとも言えるが)。

 

しかし近年、ジハードは過激派イスラム教徒のテロの大義名分としてよく使われている。有名な例で「ジハードを行うと天国に行け、72人の処女を抱ける」というものがある。しかし、そうした主張については他のイスラム教徒から不適切であるという意見が出ることも多い。

 

また本来は(乱暴な例えだが)イスラム教徒版教皇とでも言うべき教主(カリフ)と呼ばれる教導的地位にある人物しか、このジハードは認定する事が出来ない。しかもこのカリフ位は、モンゴル帝国による侵略時に殺されて以来、新しい人物が立っていない。にもかかわらず最近では、ただイスラム教徒であるというだけで時には聖職者ですらない人物が「聖戦」を唱えるなど、明らかに怪しい使用例も多く見られる。

また、先行きの見えない貧困者や、まともな教育を受けない者たちに対し、過激派がテロや蜂起の決行を煽る為に、このような餌を使う例は古今東西に見られ、別にイスラム教に限った話でないことも心にとどめておく必要がある。

2024/04/30

大化の改新(1)

大化の改新は、皇極天皇4年(645年)612日、飛鳥板蓋宮の乙巳の変に始まる一連の国政改革。狭義には大化年間(645 - 650年)の改革のみを指すが、広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む。改革そのものは、年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。

 

この改革によって、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。この改革により、「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになったとする説もある。中大兄皇子と中臣鎌足は、退位した皇極天皇に代わり、弟の軽皇子を即位させた(孝徳天皇)。その孝徳天皇即位の直後から、新たな時代の始まりとして日本で初めての元号「大化」を定めたとされる。

 

改新の歴史的意義や実在性については様々な論点が存在し、20世紀後半には大きく見解が分かれていた。しかし21世紀に入り、前期難波宮の発掘調査による成果や7世紀木簡の出土などにより、当時の政治的変革を評価する傾向が主流を占めるようになっている。

 

概要

大化の改新は、当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を、皇極天皇の皇居において蘇我入鹿を暗殺して滅亡させた乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)により始まった(改新の第一段階)。そして同年(大化元年)内に、初となる元号の使用、男女の法の制定、鍾匱の制の開始、仏法興隆の詔の発布、十師の任命、国博士および内臣・左大臣・右大臣の新設、私地私民の売買の禁止。古墳時代、大王と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇が皇居を置いていた難波高津宮の跡地周辺に難波長柄豊碕宮が造られた。

 

古墳時代以来、再び難波に都を戻す為、飛鳥から難波に遷都の決定など様々な改革が進められた(改新の第二段階)。翌大化2年(646年)正月には、新政権の方針を大きく4か条にまとめた改新の詔も発布された(改新の第三段階)。改新の詔は、ヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容となっている。

 

大化の改新には、遣唐使の持ってきた情報をもとに、唐の官僚制と儒教を積極的に受容した部分が見られる。しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的ではないため、日本流にかなり変更されている部分が見受けられる。

 

政治制度の改革が進められる一方で、外交面では高向玄理を新羅へ派遣して人質を取る代わりに、すでに形骸化していた任那の調を廃止して朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)との外交問題を整理して緊張を和らげた。唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めた。また、越に渟足柵と磐舟柵を設けて、東北地方の蝦夷に備えた。

 

ただ、改革は決して順調とは言えなかった。大化4年(648年)の冠位十三階の施行の際に、左右両大臣が新制の冠の着用を拒んだと『日本書紀』にあることが、それを物語っている。翌大化5年(649年)、左大臣阿倍内麻呂が死去し、その直後に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑がかけられ、山田寺で自殺する。後に無実であることが明らかとなるが政情は不安定化し、このころから大胆な政治改革の動きは少なくなる。650年に年号が白雉と改められた。

 

研究史

大化改新が歴史家によって評価の対象にされたのは、幕末の紀州藩重臣であった伊達千広(陸奥宗光の実父)が『大勢三転考』を著して、初めて歴史的価値を見出し、それが明治期に広まったとされている。ただ明治以降の日本史研究において古代史の分野は非常に低調で、王朝時代以降が日本史の主要な研究対象とされてきた。そんな中、坂本太郎は1938年(昭和13年)に『大化改新の研究』を発表した。ここで坂本は改新を、律令制を基本とした中央集権的な古代日本国家の起源とする見解を打ち出し、改新の史的重要性を明らかにした。これ以降、改新が日本史の重要な画期であるとの認識が定着していった。

 

しかし戦後、1950年代になると改新は史実性を疑われるようになり、坂本と井上光貞との間で行われた「郡評論争」により、『日本書紀』の改新詔記述に後世の潤色が加えられていることは確実視されるようになった。さらに原秀三郎は、大化期の改革自体を日本書紀の編纂者による虚構とする研究を発表し「改新否定論」も台頭した。

 

「改新否定論」が学会の大勢を占めていた1977年(昭和52年)、鎌田元一は論文「評の成立と国造」で改新を肯定する見解を表明し、その後の「新肯定論」が学会の主流となる端緒を開いた。1999年(平成11年)には、難波長柄豊碕宮の実在を確実にした難波宮跡での「戊申年(大化4年・648年)」銘木簡の発見や、2002年(平成14年)の奈良県・飛鳥石神遺跡で発見された、庚午年籍編纂以前の評制の存在を裏付ける「乙丑年(天智4年・665年)」銘の「三野国ム下評大山五十戸」と記された木簡など、考古学の成果も「新肯定論」を補強した。

 

21世紀になると、改新詔を批判的に捉えながらも、大化・白雉期の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となっている。

2024/04/28

イスラム教(8)

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他宗教との関係

一般的には「剣か、コーランか」(戦争か、改宗か)と言う言葉で例えられるように、自らの主張を非常に暴力的に押し付けるイメージで見られる場合が多い。しかしこの言葉には続きが有り、実際には「剣か、コーランか、人頭税か」であって、たとえイスラム教徒の支配に下った国の民であっても、人頭税(ジズヤ)と言う別税を支払いさえすれば自らの宗教を信じ、その戒律に従い続ける権利が認められた。

 

そのため様々な制約はあったものの、イスラム王朝下のインドにおいてもヒンズー教は発達したほか、エジプトのコプト派、イラクのネストリウス派などのヨーロッパでは迫害されたキリスト教派、イランのゾロアスター教などの古代宗教も現代まで生き延びることが出来た。しかもその人頭税さえ、実際には商業推進のため免除される場合が多かった。

 

それでも多神教に対しては「コーラン以前の段階」と看做すことも多く、そのため古代仏教の一大拠点であったナーランダ大学を破壊するなどのことも時には有った。しかし、自分達と同じく「旧約聖書」を聖典とするユダヤ教徒、キリスト教徒のことは「啓典の民」と呼び、一定の尊重を示し続けた。そのため、キリスト教からの改宗者の子弟を中心としたイェニチェリ軍団は、後にオスマン・トルコを事実上で支配し、キリスト教圏では迫害されていた時代にも、イスラム圏のユダヤ教徒は安全に生活を送ることができた。

 

その反面、キリスト教徒は一貫してイスラム教を邪教として敵視し続けてきた。例えば中世欧州文学の名作として名高い「ローランの歌」は、イスラム教徒への侮蔑と罵詈雑言に満ち、近世フランスにおいて編まれた百科全書派の辞書にも「ムハンマド=有名なならず者」との表記が見られ、ほかにもムハンマドが黒ヤギに女性の上半身を接ぎ木したような外見のバフォメットという悪魔にされるなど、近代以前のヨーロッパの出版物においては様々な形で「異教徒」への悪意を見ることが出来る。

 

加えて、エルサレム奪回の名目の下に行なわれた十字軍においては、実際の現場では商取引など戦争以外の様々な交流が行なわれたにもかかわらず、それを知らない一般民衆の間では「異教徒」であるイスラム教徒への憎悪が様々な形で煽られることとなった。その当時から受け継がれて来た『あいつらは狂信的、暴力的』との偏見は、イスラム圏を植民地として支配下に置いた時代の優越感と入り混じりながら、現在まで続いているとされる。

 

またユダヤ教徒とは、中世から20世紀の半ばまでの非常に長い期間にわたって互いに良い関係を続けてきた。しかし第一次世界大戦の最中、当時パレスチナを支配していたイギリスが「バルフォア宣言」(1917)によってユダヤ人、「フサイン=マクマホン協定」(1915)によってアラブ人(パレスチナ人)の双方に、「/人◕‿‿◕人\ボクと契約して魔法少女味方になってくれたら、君の望み通りパレスチナをあげるよ」と囁いてしまった。それ以来、どちらにとっても非常に重要な聖地であるエルサレムを含むこの地域の帰属を巡り、両者の確執は一気に激烈なものとなってしまった。そのどちらも一歩たりとも引くことの出来ない険悪な関係は、未だに修復の目処が立たない。

 

ちなみに、イギリスはイスラム圏の東側でも似たようなことをしており、植民地化したインドの住民が自分に歯向かうことのないよう、ヒンズー教徒とイスラム教徒との対立を煽り続ける「分断統治」を徹底して行った。そのせいで、現在でもイスラム圏とヒンズー圏の間では比較的、確執の起きやすい緊張した関係が続いており、特にインドとパキスタンにおいては、どちらも核武装国であることから、その動向に世界の注目が集まっている。

2024/04/26

カレワラ(フィンランド神話)(4)

1章:語り始めと天地創造

語り始めの言葉の後に、天地創造が説かれる。大気の娘、イルマタルはある時、退屈しのぎに大空から海面に降り、そこで波によって身ごもった。彼女は長らく大きなお腹のままさまよい、その間に彼女の膝に降りたカモの生んだ卵が砕けて天地が造られた。彼女は、さらにさまざまな地形を作った後、ワイナミョイネンを産み落とした。彼は産まれたときにすでに年老いていて、海上をさまよった後に陸に上った。

天地創造は、元の伝承ではワイナミョイネンが行ったことになっており、イルマタルにそれを移したのはリョンロットが聖母マリアを想定した創作である。

 

2章:巨大な樫の木と大麦

ワイナミョイネンは、サンプサ・ペッレルボイネンに命じて種蒔きを行う。樫だけが育たなかったので、四人の乙女と海のトゥルサスの働きで育て直したところ、今度は育ち過ぎて天地を覆い隠すようになった。そこで海の母に願って、樫を切り倒すものを呼んだ。やってきた男は最初は小人だったが目の前で大男となり、木を切り倒した。倒れた木は海に落ち、その破片は人々に幸せをもたらすものとなった。

全ての植物は育つようになったが、大麦だけは育たなかった。ワイナミョイネンは木を切り倒し畑を開墾したが、白樺を1本残した。その理由を鷲に問われて「鳥が止まれるように」というと、鷲は火を打ちだし開墾地を燃やした。そこに麦を蒔くと、麦はよく育った。ワイナミョイネンは、郭公によく鳴くように命じた。

 

3章〜第5章:アイノへの求婚

ワイナミョイネンの名声を聞いて、若者ヨウカハイネンは父母の反対を押し切って出掛け、対決を申し込んだ。ワイナミョイネンは彼を相手にしなかったが、母イルマタルの創造までを自分の技だという彼の大言壮語に腹を立て、魔法の歌で彼を地面に埋めてしまう。ヨウカハイネンは命乞いをし、贈り物を提案するが全て拒否され、最後に妹のアイノを差し出すというと、助けられる。家に帰って報告すると、父母はそれをむしろ喜ぶが、アイノは悲嘆にくれる(第3章)。

 

アイノの前にワイナミョイネンが現れ求婚すると、彼女はこれを拒否し大いに泣く。父母が慰め、気晴らしに着飾って森に行くように言うと、彼女はそうして海辺に出て、そこで落ちて溺れ魚になる。ウサギにこのことを父母に伝えるよう願い、ウサギは伝える。母は大いに泣く(第4章)。

 

ワイナミョイネンはこれを聞き悲しんだ後、その海へ出掛け釣りを始める。そして不思議な美しい魚を釣り上げる。彼が料理しようとすると、魚は海へ逃れた後に自分がアイノであることを告げ、「食べられにきたのではなく、妻になりにきたのに」と伝え姿を隠す。彼は悲しみ、網を引くが魚は捕まらなかった。ワイナミョイネンは母にどうすればよいか尋ねると、母はポホヨラの娘に求婚するように告げる(第5章)。

 

6章〜第9章:ポホヨラ往復

ワイナミョイネンは、ポホヨラへ旅立つ。そこをヨウカハイネンが弓で撃った。3発目が当たり、ワイナミョイネンは海に落ちた(第6章)。

 

ワイナミョイネンは海をただよっていたが、鷲がそれを見つけ陸まで乗せて飛んだ。そこで泣いていると、その声をポホヨラの女主人ロウヒが聞き、彼を家に迎える。ワイナミョイネンは自分の国へ戻る道を尋ねると、ロウヒは「私のためにサンポを作るなら、国へ帰し、うちの娘を嫁にやる」と約束する。ワイナミョイネンはそのためには自分の国に戻り、鍛冶屋のイルマリネンを呼ばねばならないと言って、国へ帰してもらう(第7章)。

 

ワイナミョイネンが帰国の途中、道の頭上にポホヨラの乙女が現れる。彼は彼女に求愛すると、彼女は3つの難題を課す。2つまではやすやすとやり遂げたものの、3つ目の船の建造の最中に斧がそれて、彼の膝を大きく傷つけた。彼は血止めの処置をするが十分にできず、橇で村に向かい助力を願う(第8章)。

 

村の男は血止めの呪文のために必要な「鉄の起源」が分からないというので、ワイナミョイネンはそれを語って聞かせ、それによって軟膏は完成し、傷が治る(第9章)。

 

10章:サンポの鋳造

ワイナミョイネンは、カレワラの荒れ地に巨大な木を歌い出した。その枝先に太陽や月を引っ掻けた。そうして鍛冶屋のイルマリネンの元へ行き、ポホヨラにサンポを作りに行くよう願うが、拒否される。そこで枝に太陽や月の掛かった木があると行って呼び寄せ彼を木に登らせ、それから大風を吹かせてその木ごと彼をポホヨラへと送り出した。ロウヒは彼が到着するや娘たちに着飾らせ、彼に「サンポができたら娘を嫁に」というので、彼も承知して鍛冶場作りから始め、とうとうサンポを作り上げた。ロウヒは大いに喜び、これを山の奥深くに隠した。イルマリネンは娘を要求するが娘が拒否、彼は悲嘆に暮れて帰国する。

 

11章〜第14章:レンミンカイネンの求婚旅行

レンミンカイネンは男前で有能な青年だったが、血の気が多く女癖が悪かった。彼はサーリに求婚しに出掛ける。そこでは彼は笑い者であったが、次第に娘たちを籠絡し、すべての女に手をつけた。名家の娘キュッリッキは、彼になびかなかった。彼は彼女をさらい、彼女に結婚を承諾させる。ただし彼は今後戦に出かけないこと、彼女は村へ遊びに出ないことを約束した(第11章)。

 

2人は約束を守って暮らしたが、ある時彼女が約束を破り、腹を立てたレンミンカイネンはポホヨラへ戦に出掛けようとする。母や妻が止めるのを押し切って出掛け、ポホヨラに着くと、すべての男たちに呪いをかけてしまう。ただし盲目の老人一人は「おまえは、既に哀れなものだ」と言って呪いをかけなかった(第12章)。

 

そこで、レンミンカイネンは娘をよこすように言った。ポホヨラの女主人は、最初にヒーシの鹿を狩ることを課題とした。レンミンカイネンは、スキーの名工にスキーを作らせ狩りに出るが失敗する(第13章)。

 

彼は改めて狩りの呪文を唱え、ついに鹿を捕らえる。女主人は次にトゥオネラの白鳥を撃ってくるように求める。彼が獲物をねらっていると、かつて彼が呪わなかった老人が彼を毒矢で撃った。レンミンカイネンは川に落ちて死んだ(第14章)。

 

15章:レンミンカイネンの再生

レンミンカイネンの母は彼の死を察し、ポホヨラへ走り彼の行方を訪ねた。女主人は何度かごまかそうとするが、詰問されて答える。母は彼の行方を尋ね回り、やがて彼が川に落ちたことを知る。彼女はイルマリネンに頼んで熊手を作らせ、それで川底を漁り息子の破片を集め、つなぎあわせて元の姿とした。しかし、彼はものも言わなかったので特に軟膏を作り、ようやく彼は元に戻った。彼と母は自国に戻った。

2024/04/19

乙巳の変(4)

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大化の改新の先端を切った暗殺事件。

 

概要

時は西暦640年代。当時の朝廷は聖徳太子というやかましい優等生が死んで以来、蘇我蝦夷・入鹿親子が掌握していた。蘇我親子は、聖徳太子の息子である山背大兄王を始末し、時の天皇(皇極天皇)の後継者として入鹿の従弟(蘇我馬子の外孫)の古人大兄皇子を据えようとしていた。

 

それじゃガマンならんと立ち上がったのが皇極天皇の長男中大兄皇子であり、重臣の中臣鎌足や入鹿の従弟蘇我石川麻呂等と結託し、蝦夷・入鹿の専横を断つべく暗殺計画を練った。

 

この作戦こそが乙巳の変であり、よく学校の歴史の時間では「大化の改新」と教えられるが、大化の改新は乙巳の変をきっかけとする一連の制度改革であり、暗殺事件自体を指す言葉とは少し違う。例えるなら童話の「金太郎」が乙巳の変で、おおもとの「源頼光物語」が大化の改新である。

 

西暦645710日(当時、元号は存在しなかった。旧暦では612日)。朝鮮半島を支配する高句麗・百済・新羅の三国からの使者が朝廷を訪れ、入鹿もこれに同席する。石川麻呂は上表文を読み、そちらに入鹿が気を取られている隙に中大兄皇子と鎌足、その部下たちが怒鳴り込み、天皇の眼前で入鹿を滅多切りにして殺害する。

 

これを知って仰天した蝦夷は、すぐさま身を固め中大兄皇子との対決に乗り出すも、既に豪族たちは中大兄皇子に取り込まれており、あくる711日に敗北を悟った蝦夷は屋敷に火を放ち自害する。

 

眼前で殺人を目の当たりにし憔悴した皇極天皇は、翌712日に皇位を禅譲した。中大兄皇子は、ここで継承すると自分が天皇になりたくて蘇我親子を殺したと即バレてしまうので、おじ(皇極天皇の異母弟)の軽皇子を即位させた(後の孝徳天皇)。

 

こうして中大兄皇子は元号を「大化」とし、租庸調や国郡里制度など政治改革に乗り出す。彼こそが後の天智天皇である。

2024/04/16

イスラム教(7)

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【飲酒について】

コーランには「お酒には良い面もあるよ。だけど賭け事や偶像崇拝や占いと同じ様に、夢中になって人同士がいがみ合ったり、うっかり日々の礼拝を忘れたりしかねない、まさに悪魔の仕業なんだ。結局、恩恵よりも背負う罪の方が重くなるだろうから止めといた方がいいよ。あと、酔ってる人はトーゼン礼拝禁止ね」(要約)となっており、その地域の戒律の厳しさにしたがって厳禁(鞭打ち刑)~公的な場所や過度な飲酒の禁止、とずいぶん差がある。

 

【タバコ】

ムハンマドの時代にはアラビアに存在せず、コーランで禁止されているわけではない。しかし「自らその身を危険にさらしちゃいけないよ。それに飲食は大事だけど、浪費はダメだからね」(要約)という記述や、ハディースを元に喫煙を禁止する厳格な地域もある。

しかし多くの地域では喫煙が広く容認されており、特に水タバコは水を通してヒンヤリと冷やされた煙を飲み込まずに(肺に入れずに)口腔や鼻腔でジックリ嗜むものであり、先の「危険」や「飲食」の記述に対する心理的抵抗も少ないために爆発的に普及している。

 

【コーヒー】

ムハンマドの時代には、その覚醒作用から一部の神秘主義的儀式で霊薬としてわずかに用いられたのみで、タバコと同様コーランでは規定されていないが、長らく酒に準じる扱いを受けて禁止されてきた(コーヒーを表すアラビア語カフワ(قهوة‎ qahwah)は、元々ワインを指していた) 。

13世紀ごろに焙煎法が確立して、嗜好品として密かに広まった後も「大衆を堕落させる毒」として一般庶民の飲用が禁止されていたが、15世紀半ばに「コーランに抵触しない」と正式に解禁されて以降、イスラム圏で爆発的に広まった。

 

【女性について】

身体の線や美しい部分を露出させて(≒男性を誘惑して)はいけないとされ、貞淑の象徴であるヒジャーブ(حجاب Hijaab, 「遮蔽物」。ヒジャブ、ヘジャブとも)で頭の先から爪先までを覆い隠すのが義務とされている。これは外国人も例外ではなく、時に違反者には国外退去などの重い処罰が下される場合もある。

日本でも、たまに巻きスカーフを身に付けたムスリム女性を見かけることがあるが、男性は物珍しいからといって決してガン見してはいけない。単にマナー違反だというだけでなく、「男性を誘惑する」という宗教上のタブーに及ぶ危険性があるからだ。

 

スタイルは地域や宗派により様々で、アラビア半島とその周辺ではニカーブ(نِقاب‎ niqaab, 眼以外をすっぽり覆うタイプの頭巾)にジルバーブ(جلباب jilbaab 、首から下を覆うゆったりした衣服)やアバーヤ(عباية ‘abaayah 、ローブ)等を合わせる。カスピ海南西岸を中心としたシーア派地域では、チャードル(ペルシア語: چادر chaador, 顔面と両手以外の全身を緩やかに覆う布衣)を纏い、特にアフガニスタンではブルカ(برقع burqu‘/burqa‘, 頭頂から上半身全体に被さるタイプの頭巾)を合わせる。北アフリカでは、巻きスカーフ(狭義のヒジャーブ)をジルバーブ等と合わせるのが一般的である。

 

「外ではダメでも身内や同性同士ならOK」という解釈もあり、特に富裕層ではゴージャスなドレスを仕立て、ホームパーティーでお披露目してファッションを楽しむ女性もいる。ヒジャーブの巻き方をアレンジして楽しむ女の子も多く、漫画やアニメのキャラを模した形のヒジャーブが次々編み出されるなど、戒律に抵触しない範囲でのお洒落を楽しんでいる。

またこれを支援するかのように、ドルチェ&ガッバーナがムスリムの女性向けにヒジャブ・アバーヤのブランドを発表するなど、少しずつ変化が生じている。

 

【経済】

利子を伴う物品の貸し借りや、利子は無くても見込みの不確かな取引は禁止されている。これでは、おおよそ近代的な金融業や保険業は成り立ちそうにないように見える。が、そこはよく出来たもので、例えば業者が仲介者となって投機性の無い事業や設備投資への出資を斡旋し、利益が上がった場合にそれを顧客へ分配する、などといった間接的な方法で、高い利率や高額の保険料こそ望めないものの、通常の金融・保険業とほぼ同様の業態を展開する事が可能となる。

 

その上、非イスラム圏とは独立した金融ネットワークであり、また大規模な投機も存在しないため、欧米中心の相場や政治政策の影響が比較的少なく安定性が高いのも強みで、近年高い注目を浴びつつある(産油国が石油供給を盾に、強気の政策を打ち出せる大きな理由の一つである)。

 

【偶像崇拝の禁止について】

最も重要なのが、偶像崇拝の禁止である。礼拝所であるモスクには、キリスト教の教会にある聖母マリア像が置かれている様なスペースに神の像も絵もない。ただ、メッカの方向を正面に広間があるだけである。これも国によって徹底さが異なるが、厳しい国では(神の絵が描いていなくても)絵画・彫刻などは収集も含めて禁止であり、日常において絵が必要な場合には、偶像ではなく単なる記号であることを示す印を入れる必要があるくらいである。

もちろん二次絵・フィギュアが厳禁な場合もあるのは言うまでもない。一方、預言者ムハンマドは幼いアーイシャが人形遊びをするのを認めたりもしている。

 

というのが従来の概念だったが、実は中近東では普通にアニメが放送され、漫画も流行している。これは90年代、日本から輸入したアニメをローカライズしてたくさん放送した為。偶像崇拝には当たらないという解釈が大半で、二次絵やフィギュアに対してもこっそり楽しんでいる層も多い。

 

特に「キャプテン翼」は「キャプテン・マージド」として広く親しまれており、戦争からの復興を目指すイラク・サマワにODA(政府開発援助)で給水車が派遣された際、タンクにイラスト(作者描きおろし)をプリントして回った所、大歓迎を受けたとか。他に「一休さん」も高い人気を誇っている。

 

日本に限らずアメコミも人気があり、戒律に従ってある程度の規制は存在するが、頭ごなしに禁止しているのは少数の原理主義というのが現状。戒律に厳しいとされるサウジアラビアに至っては、ムハンマド・ビン・サルマーン皇太子御自らがアニメ好きである。

 

石油産業に依存せずに発展を目指す計画「サウジ・ビジョン2030」は国策として積極的に進められており、エンターテインメント産業の発展に繋がる試みの一つとして、20172月、サウジアラビアでアニメ・漫画のイベント「コミックコンベンション」が初開催。細々とした規制はあったものの大きな混乱もなく、イベントは多くの人で賑わった。

このように、地域によりけりだが、比較的寛容な部分も存在する。

 

イスラム教国にはこれら戒律などを含めたイスラム法が存在し、またその取り締まりを行うための宗教警察が存在するのが普通である。不倫や同性愛などもビシビシ取り締まられる。

こうした国で最も有名かつ突き抜けているのが「我こそが聖地メッカの守護者である」と、ことある毎に主張する原理主義的サウード王家の国、サウジアラビアである。が前述の通り、徐々に「穏やかで開かれた国」へと方針が変わりつつあり、「イスラムだから」と決めつけてかからない柔軟な姿勢は重要である。

2024/04/09

乙巳の変(3)

蘇我本宗家の滅亡と大化の改新

古人大兄皇子は、私宮へ逃げ帰った(この時皇子は「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ。吾が心痛し」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と述べたという)。これは古来から難解な言葉とされており、対朝鮮政策をめぐる路線対立故に出た言葉であるとされることもあるが、殺人犯が中大兄皇子であったと公言できず、儀式の場に参列していた三韓の使節が入鹿を殺したという虚偽の言葉を語ったと考えられる。

 

中大兄皇子は直ちに法興寺へ入り戦備を固め、諸皇子、諸豪族はみなこれに従った。飛鳥板蓋宮ではなく飛鳥寺が選ばれたのは、当時の氏寺には築地塀があり、砦としてふさわしかったと考えられる。帰化人の漢直の一族は蝦夷に味方しようと蘇我氏の館に集まったが、中大兄皇子が巨勢徳太を派遣して説得(飛鳥寺での古人大兄皇子の出家を伝え、旗印を無くした蘇我氏の戦意喪失を図ったとする説もある)して立ち去り、蘇我氏陣営にいた高向国押も漢直を説得し、蘇我家の軍衆はみな逃げ散ってしまった。高向氏は蝦夷と同世代に分かれた、蘇我氏同族氏族の中でも有力な氏族であり、この氏族の中から本宗家を滅亡に導く決定的な役割を果たしたものが出たことになる。

 

613日(711日)、蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』、その他の珍宝を焼いて自殺した。船恵尺が、この内『国記』を火中から拾い出して中大兄皇子へ献上した。こうして長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅びた。

 

614日(712日)、皇極天皇は軽皇子へ譲位した。孝徳天皇である。中大兄皇子は皇太子に立てられた。中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ、後に「大化の改新」と呼ばれる改革を断行する。

 

日本書紀の潤色について

20世紀中後期頃までは、『日本書紀』の信憑性が評価され、乙巳の変に始まる大化の改新が日本の律令制導入の画期だったと理解されていた。196712月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』のこの部分は編纂に際し書き替えられていることが明確となったとされている。

 

諸説

軽皇子首謀者説

遠山美都男は、中臣鎌足・中大兄皇子は反乱蜂起した一団の一部にすぎず、軽皇子が変の首謀者だと推測している。変後の孝徳政権の中枢をしめた蘇我石川麻呂と阿倍内麻呂が、軽皇子の本拠地であった難波周辺に勢力基盤を持つか何らかの縁があったこと、また変後に難波に遷都(難波長柄豊崎宮)したことなどを理由としている。

 

半島諸国モデル説

蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼし権力集中を図ったのは、高句麗における淵蓋蘇文の政変を意識しており、乙巳の変は新羅における金庾信(『三国史記』金庾信列伝によると、金庾信は中国黄帝の子・少昊の子孫である)らによる毗曇の内乱鎮圧後の王族中心体制の元での女王推戴と類似していたが故に諸臣に受け入れられやすかったとする吉田孝の見解がある。更に同時期に百済でも太子の地位を巡る内乱があり、その結果排除された王子・豊璋が倭国への人質とされ、百済の後継者候補が人質名目で放逐されて倭国の宮廷に現れた衝撃が、倭国の国内政治にも影響を与えたとする鈴木靖民の見解もある。

 

反動クーデター説

2005年から始まった発掘の結果、飛鳥甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅が、「谷の宮門(はざまのみかど)」の谷の宮門で兵舎と武器庫の存在が確認された。また蘇我蝦夷の邸宅の位置や蘇我氏が建立した飛鳥寺の位置から、蘇我氏は飛鳥板蓋宮を取り囲むように防衛施設を置き、外敵から都を守ろうとしたのではないかという説が出されている。

 

当時618年に成立した唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし、倭国も唐の脅威にさらされているという危機感を蘇我氏は持っていた。そのため従来の百済一辺倒の外交を改め、各国と協調外交を考えていた。それに対し、従来の「百済重視」の外交路線をとる中臣鎌足や中大兄皇子ら保守派が「開明派」の蘇我氏を倒したと言うものである。蘇我氏打倒後に保守派は百済重視の外交を推し進め、白村江の戦いでそれが破綻する。いわゆる「大化の改新」は、その後に行われたと考えられる。

 

皇極王権否定説

乙巳の変は、これまでの大王(天皇)の終身性を否定し、皇極天皇による譲位を引き起こした。その意義について佐藤長門は乙巳の変は蘇我氏のみならず、蘇我氏にそれだけの権力を与えてきた皇極天皇の王権そのものに対する異議申し立てであり、実質上の「王殺し」に匹敵するものであったとする。ただし、首謀者の中大兄皇子は皇極天皇の実子であり、実際には大臣の蘇我氏を討つことで異議申し立てを行い、皇極天皇は殺害される代わりに強制的に退位を選ばざるを得ない状況に追い込まれた。

 

ところが、次代の孝徳天皇(軽皇子)の皇太子となった中大兄皇子は、最終的には天皇と決別してしまった。孝徳天皇の王権を否定したことで後継者としての正統性を喪失した中大兄皇子は、自己の皇位継承者としての正統性を確保する必要に迫られて乙巳の変において否定した筈の皇極天皇の重祚(斉明天皇)に踏み切った。

 

だが、排除した筈の大王(天皇)の復帰には内外から激しい反発を受け、重祚した天皇による失政もあり、重祚を進めた中大兄皇子の威信も傷つけられた。斉明天皇の崩御後に群臣の支持を得られなかった中大兄皇子は、百済救援を優先させるとともに群臣の信頼を回復させるための時間が必要であったため、自身の即位を遅らせたというのである。

2024/04/07

イスラム教(6)

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コーランとアラビア語

イスラム教の聖典であり、正則アラビア語の発音に従いクルアーン(القرآن al-qur'aan, 「朗唱すべきもの」)とも呼ばれる。ムハンマドが口伝した内容を文字に起こしたとされ、その言語は正則アラビア語(فصحى fuSHaa フスハー、「最も雄弁に物語る(アラビア語)」)と呼ばれ、古来よりイスラム諸地域の神聖な共通語として現在でも形を変えつつ通用し続けている(よって本項目でも随所にアラビア語を表記する)。

 

まあコーランはキリスト教徒にとっての聖書みたいなものだが、六信(後述)の一つになっていることからも判るように、それ以上に大切に取り扱われており、コーランを意図的に燃やしたりするだけで大騒動になるのは知っての通り。実際にぞんざいに扱わなくとも、それっぽい描写が入ったアニメでさえ問題になることもある。また、コーランはアラビア語の詩的韻律の美しさにおいても大変高く評価されており、コーランが預言者が神から授かった人知を超えた奇跡であるということを示す要素の一つになっている。

 

六信五行

イスラム教徒が守らなければならない事、信じなければならない事、行わなければならない事を纏めて六信五行という。シーア派にはイマームへの信仰を教義に据えた五信十行が存在する。

 

【六信】

ü  神(الله allah アッラー)

ü  天使(ملائِكة malaa’ikah マラーイカ; مَلَك malak の複数形)

ü  啓典(كتب kutub クトゥブ; كتاب kitaab の複数形): モーセ五書、詩篇、福音書、コーラン

ü  使徒・預言者(رسل rusul ルスル; رسول rasuul の複数形)

ü  審判と来世(آخرة‎ aakhirah アーヒラ)

ü  定命(قدر‎ qadar カダル)

 

【五行】

ü  信仰告白(شهادة shahaadah シャハーダ)

ü  礼拝(صلاة‎ Salaah サラー(ト))

ü  喜捨(زكاة zakaah ザカー(ト))

ü  断食(صوم Sawmサウム)

ü  巡礼(حج Hajj ハッジ)

 

信仰告白とは、皆の前でイスラム教徒になると宣言することである。例えば家族や知人たちの立ち会いの下、聖職者の前で「لا إله إلا الله محمد رسول الله laa ilaaha illaa 'llaah(u), muHammad(un) rasuulu 'llaah(i) (アッラーを措いて他に神無し。ムハンマドこそアッラーの使徒なれ)」と唱えることでイスラム教に入信できてしまう。なお、この文句はサウジアラビアの国旗に図案化して書かれている。

 

礼拝は15回、聖地メッカの方向を向いて行う。どこでやっても良いが、金曜日の礼拝は一度は礼拝所に行くべきらしい。時間は日毎にずれ、メッカの方を向いて、立ったり座ったりしながら行わなければならないので、イスラム教徒には専用の時計(もしくは礼拝時刻がわかるアプリ)とコンパスと絨毯を持っている人が多い。

 

喜捨は、いわゆる施しのこと。キリスト教や仏教でも奨励されるが、イスラム教はそれ以上に大事。

 

断食はイスラム聖遷暦第9月ラマダーン(رمضان ramaDaan)に行うが、もちろん1ヶ月もの間に全く食えなくなるわけではない。つまり日の出から日没までの間の一切の飲食が禁止され、その間は唾液すら飲み込まない努力をする信徒もいる。ちなみに妊娠時や病気の時などには無理せず食べ、その原因が解消された時に行っても良いとされる。それにラマダーン明けは各家庭で盛大な祝宴が催されるので、痩せるどころか逆に太ってしまうとか。

 

巡礼は一生に一度、聖地メッカにお参りに行くことである。但し、他の4つと違い行うことが簡単ではないため努力義務となっており、実際には巡礼を済ませた者が尊敬されるという程度である。

 

唯一神教として有名なイスラムであるが、信仰告白لا إله إلا اللهを英語に置き換えると、no god but Allah(神は存在しない。ただし、アッラーを除いて)となり、最初に神の存在を否定することから出発している。

 

これには世界に存在するあらゆるものの神性を否定し、その前提に立った上でネガとして仮想される宇宙の造り主をアッラーと同定するという構造を持っていることと関係しており、「アッラーが宇宙を造った」ではなく「宇宙を造った御方がアッラーである」という言い方にした方が分かりやすい。そのため、この世で起こる全ての事象は神の意思であるという立場を取る。

 

神性の否定は預言者であるムハンマドにも徹底されており、コーランではムハンマドについて「飯を食い、市場を歩く人間」という記述が登場する。ただし、一部のスーフィーの間ではムハンマドが超越的存在として解釈されたり、シーア派ではお隠れになっている第12代イマームが審判の日に蘇るという信仰がなされていることもある。

 

アッラーは被造物である時間と空間、あるいは異次元のどこにも存在しておらず、それらの外に存在するものとして区分けされている。その姿は見えるわけではなく、被造物である人の姿をしているわけでもないとされる。それは、コーランにおいて「玉座に坐し給うお方」「手」などの記述が人間的であるとして、この解釈を巡って論争が巻き起こるほどである。一方で、アッラーは意思を持った人格神であり、罪人を火獄に送る峻厳な神でありながら、専ら人間を赦し楽園に導く慈悲の神として描かれる。

 

また、日本神道などで称される神は宇宙を創造した絶対者という属性を持っているわけではないため、日本における多神教とイスラムにおける一神教は矛盾しないという見方もある。

 

戒律

戒律が厳しいことで有名である。これは「クルアーン」に次ぐ重要な第二の聖典「ハディース」がある為で、両者合わせての禁則次項はかなり多い。

 

しかしイスラームの戒律は「軽微なものが破られれば来世の天国への道が遠のいて(最後の審判で)地獄に落とされる可能性が高くなり、重大なものが破られればイスラーム法に則り現世で厳重に処断される」という趣旨が基本である。

 

つまり軽微なものに限って言えば、破っても即バチが当たるといった性質のものではなく、また意図的な違反でなかったりやむを得なかった場合はノーカウントとされることになっている。

 

【動物および食について】

豚、犬は不浄の動物とされ、食べるどころか触れてもいけない。この事から犬のついた言葉で相手を口撃する事は最大の侮辱となる。

 

犬をペットにするなど御法度で、地域によっては没収の上鞭打ちの刑に処されるが、一方でドバイでは犬を飼う人が多いなど、だいぶばらつきがある。また中東原産のサルーキはその美しさと狩猟能力、長らく飼育されてきた歴史から、ベドウィンにおいては家族同様に扱われるなど特異な存在である。

 

豚以外でも虎などの牙や爪のある動物、キツツキ、ロバ、ラバの食肉が禁止されており、それ以外であってもハラール(حلال Halaal, イスラム法に基づいて正しく屠殺・調理された肉)以外の肉は食べてはいけない。

 

そんな非イスラム圏在住のムスリムのため、ムスリムが営業する食材店は重宝される。また日本でもインド料理店やパキスタン料理店によってはハラール食のメニューがあったり、国際線の機内食にも islamic food(兼・豚肉アレルギー対応食)が用意されている。一般家庭のムスリム向けに調味料を始めとした複数の製造業がハラール認証を受けている他、留学生向けにハラール食を提供する大学の学生食堂などもある。

 

一方で小中学校の学校給食など対応しかねるケースも多く、課題はそれなりにある。

2024/04/05

カレワラ(フィンランド神話)(3)

登場人物

カレワラには、実に多くの名前が登場する。なかには一度だけ登場するものもあり、何度もあちこちに顔を出すものもある。人間のように扱われているものもあれば、神、あるいは精霊として扱われるものもある。なお、カレワラでは口調を整える目的もあり、固有名詞に対してお決まりの簡潔な形容が二つ名前のようにつく例が多い。以下、各論において名前の後の「」がそれである。訳は参考にあげた岩波文庫版(小泉訳)による。

 

神的なもの

神として名が出るのはウッコである。

 

ウッコ

「至高の神」 フィンランド語で ukkonen は「雷」のことで、ウッコは老人の姿をした雷神でもある。

このほかに明確に神として名の出るものはいない。

 

明らかに人間ではなく、より神に近い存在としては、大気の乙女や水の乙女として時々姿を現す女性たちがある。イルマタルの他にも、例えば鉄の起源の呪文にも3人の乙女が、その乳を零したものが鉄となったとの言葉がある。

 

イルマタル

ワイナミョイネンの母。「大気の乙女」であったが、海に降りて彼を生んだ。

悪魔に近い扱いをされているのがヒーシである。

 

ヒーシ

本来は犠牲を捧げる森のことであったらしいが、次第に人の近寄れない森、恐ろしい場所、と云ったふうに意味が変わり、人に悪さをする存在を意味するようになったようである。

 

人間的なもの

主要な登場者は、人間のように描かれながらも超人的な能力をもつ。特に全編を通じて主役格を張るワイナミョイネン、イルマリネン、レンミンカイネンは、人びとの中で人間のように暮らし、嫁を求めたりするが、普通の人のできないことを行い、時には多くの人間を率いて活動する。この範囲では人間の中の英雄と見ることができる。他方で魔法の力などにおいては超人的なものがあるが、この物語の中では一般の人びとも魔法を使うから、特に非人間的特徴と見なすことはできない。

 

しかし、例えばイルマリネンは天の覆いを打ち出したと言われるように、この三者の業績とされるものには創世に関わるような神の業に近いものが含まれている。これらについては、カレワラを神話と見るか、伝説と見るかで判断が分かれる。前者的な立場で見れば、これらの登場者は神であり、自然現象などの象徴であると見なせる。後者の立場に立てば、これらの人物の多くは人間であり、実在の人物や複数の人物を元に創造されたものと考えられる。実際にはこのどちらであるかは論の分かれるところが多い。

 

ワイナミョイネン [ワイナモイネン、ヴァイナモイネン](Väinämöinen):「強固な老ワイナミョイネン」「不滅の賢者」

白い髭を長く伸ばした逞しい老人である。広大な知識と魔法の力を持ち、大胆で判断力にも優れる。多くの伝承や呪文の中で最大の英雄である。また歌の最後に彼の言葉として教訓がつく例が多い。語源的にはワイナは、「深く、静かに流れる川」の意であること、彼が海中で生まれ、大渦巻きに姿を消すことなどから、「水の主」という性格を読み取る向きもある。世界の創造も、元の伝承では彼によるものである。

 

イルマリネン (Ilmarinen):「不滅の匠」

鍛冶屋で、壮年。鍛冶屋としては特別な腕をもち、天の覆いを打ち出したと言われる。カレワラの中ではサンポを鍛えた他、ワイナミョイネンなどが必要な道具を彼に作ってもらうシーンが多い。魔法の腕も優れている。しかし、やや軽はずみな面があり、作ったものが役に立たない場合(月日、黄金の花嫁など)もあった。神的性格としてみると、ワイナミョイネンが水の神、イルマリネンは天空の神に当たるとする説もある。

 

レンミンカイネン (Lemminkäinen):「かのむら気なレンミンカイネン」「端麗なるカウコミエリ」

若者である。男前で、武術の腕も、魔法の腕も特級、そのうえに女たらし。しかもわがままで身勝手、そのためにあちこちで騒ぎを起こし、災難にも会う。本来の伝承中ではそれほど出番が多いわけでなく、カレワラ中の彼に関する物語は、他の名のもとで伝えられたものを集めたものらしい。

 

クッレルヴォ (Kullervo)「カレルヴォの息子」「老人の青い靴下の息子」

ウンタモに滅ぼされたカレルヴォ一族の女が、ウンタモのところで産み落とした男子。飛びきり力に優れるが、まともなことが絶対に出来ない。これは、彼が正しい育て手の下で育てられなかったからである。クッレルヴォの物語は、本来はカレワラのそれ以外の部分とは孤立していたものであるが、彼が殺した主婦をイルマリネンの妻にすることで、リョンロットがカレワラの中にうまく取り込んでしまったものである。また、壊れた刀を親の形見とした部分もリョンロットの創作であり、その結果、クッレルヴォは粗暴で残虐な人物から悲劇の主人公へとその姿を変えている。

 

彼は力がありすぎるのに、それを使う知恵が育っていない。だから船をこげば櫂受けを壊し、船を壊すし、網打ちをすれば網ごと粉砕する。しかし、これは彼が悪いだけでなく、まわりのものも悪いのが示されている。彼が「力の限り漕いで良いか(網打って良いか)?」と問うのに「力の限りにやれ」と答えているが、これが間違いであるのは、後の章でレンミンカイネンがワイナミョイネンに同様な問いかけをしたとき、ワイナミョイネンは「状況に合わせて力を出せれば十分」と答えているのでわかる。

 

ヨウカハイネン (Joukahainen)

吟遊詩人にして狩人。アイノの兄。

 

アイノ (Aino)

ワイナミョイネンとの結婚を強いられた娘だがそれを拒み、海に身を投じる。

 

ロウヒ (Louhi)

ポホヨラの女主人。強大なる魔女。

 

キュッリッキ (Kyllikki)

レンミンカイネンの妻。誘拐まがいの結婚劇であった。