2019/10/31

ヘーラクレース(ギリシャ神話66)

ヘーラクレース (古希: Ηρακλής, Hēraklēs) は、ギリシア神話の英雄。ギリシア神話に登場する、多くの半神半人の英雄の中でも最大の存在である。のちにオリュンポスの神に連なったとされる。ペルセウスの子孫であり、ミュケーナイ王家の血を引く。幼名をアルケイデース(λκείδης, Alkeidēsといい、祖父の名のままアルカイオスλκαος, Alkaios)とも呼ばれていた。後述する12の功業を行う際、ティーリュンスに居住するようになった彼を、デルポイの巫女が「ヘーラーの栄光」を意味するヘーラクレースと呼んでから、そう名乗るようになった。キュノサルゲス等、古代ギリシア各地で神として祀られ、古代ローマに於いても盛んに信仰された。その象徴は弓矢、棍棒、鎌、獅子の毛皮である。

ローマ神話(ラテン語)名は Hercules (ヘルクーレス)で、星座名のヘルクレス座は、ここから来ている。英語名はギリシア神話ではHeracles(ヘラクリーズ)、ローマ神話と近代以降の英語圏ではHercules 「ハーキュリーズ」 と発音される。イタリア語名はギリシア神話ではEracle(エーラクレ)、ローマ神話では Ercole(エールコレ)。フランス語名はギリシア神話では Héraclès (エラクレス)、ローマ神話では Hercule (エルキュール)という。日本語では、長母音を省略してヘラクレスとも表記される。

生い立ち
ヘーラクレースは、ゼウスとアルクメーネー(ペルセウスの孫に当たる)の子。アルクメーネーを見初めたゼウスは様々に言い寄ったが、アルクメーネーはアムピトリュオーンとの結婚の約束を守り、決してなびかなかった。そこで、ゼウスはアムピトリュオーンが戦いに出かけて不在のおり、アムピトリュオーンの姿をとって遠征から帰ったように見せかけ、ようやく思いを遂げ1夜を3倍にして楽しんだ。アルクメーネーは次の日に本当の夫を迎え、神の子ヘーラクレースと人の子イーピクレースの双子の母となった。

アルクメーネーが産気づいたとき、ゼウスは「今日生まれる最初のペルセウスの子孫が全アルゴスの支配者となる」と宣言した。それを知ったゼウスの妻ヘーラーは、出産を司る女神エイレイテュイアを遣わして双子の誕生を遅らせ、もう一人のペルセウスの子孫でまだ7か月のエウリュステウスを先に世に出した。こうしてヘーラクレースは、誕生以前からヘーラーの憎しみを買うことになった。

ヘーラクレースの誕生後、ゼウスはヘーラクレースに不死の力を与えようとして、眠っているヘーラーの乳を吸わせた。ヘーラクレースが乳を吸う力が強く、痛みに目覚めたヘーラーは赤ん坊を突き放した。このとき飛び散った乳が、天の川(galaxyは「乳のサイクル」、Milky Wayは「乳の道」)になったという。これを恨んだヘーラーは、密かに二匹の蛇を双子が寝ている揺り籠に放ったが、赤ん坊のヘーラクレースは素手でこれを絞め殺した。

成長と狂気
ヘーラクレースは、アムピトリュオンから戦車の扱いを、アウトリュコスからレスリングを、エウリュトスから弓術、カストルから武器の扱いを、リノスから竪琴の扱いを学んだ。しかしリノスに殴られた際、ヘーラクレースは激怒し、リノスを竪琴で殴り殺してしまう。そしてケンタウロス族のケイローンに武術を師事して、剛勇無双となった。キタイロン山のライオンを退治し、以後ライオンの頭と皮を兜・鎧のように身につけて戦うようになる。

ヘーラクレースは、義父アムピトリュオンが属するテーバイを助けてオルコメノスの軍と戦い、これを倒した。クレオーン王は娘メガラーを妻としてヘーラクレースに与え、二人の間には3人の子供が生まれた。しかし、ヘーラーがヘーラクレースに狂気を吹き込み、ヘーラクレースは我が子とイーピクレースの子を炎に投げ込んで殺してしまった。

正気に戻ったヘーラクレースは、罪を償うためにデルポイに赴き、アポローンの神託を伺った。神託は「ミュケーナイ王エウリュステウスに仕え、10の勤めを果たせ」というものだった。ヘーラクレースはこれに従い、本来なら自分がなっているはずのミュケーナイ王に仕えることになった。「ヘラクレスの選択」といえば、敢えて苦難の道を歩んでいくことをいう。
出典 Wikipedia

2019/10/26

学問・芸術 ~ 内乱の一世紀(11)


ローマの学問芸術はほとんどギリシア、ヘレニズム文化の真似。独創性はないといわれています。

哲学では、ストア派が流行った。セネカが有名。この人はネロ帝の先生で、ネロ少年を補佐していた。それから、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝。前回も話しました。著書「自省録」。

教科書では出てきませんがエピクテトス、という人も結構有名。この人は奴隷出身。のちに解放されて、有名な哲学者になるのです。エピクテトスは足が悪く、杖なしでは歩けなかった。残された絵を見ても、杖を持って描かれています。はっきりとは分からないのですが、奴隷時代に主人に足を折られたらしい。哲学者になるくらいだから、彼は若い頃から高い精神的な世界を持っていたんだろう。態度や目つきが奴隷らしくなかったのかもしれない。

「奴隷なら奴隷らしく卑屈な顔をしないか。」主人はそんなエピクテトスが憎らしくて、彼の足を痛めつけたんだろう。それに対してエピクテトスは「そんなことをしたら、足が折れてしまいますよ。」と涼しく言ったらしい。主人は更にカッとして、そのまま足を折ってしまった。そうしたら「ほら、だから言ったじゃないですか」と、主人を諭したというんです。

エピクテトスの詩が伝わっています。

奴隷エピクテトスとしてわれは生まれ、身は跛、貧しさはイロスのごとくなるも、神々の友なりき(イロスは「イーリアス」に登場する乞食)

実は私、このエピクテトスが好きでね、プリントにも彼の文を載せました。ちょっと見て下さい。「語録」という作品です。

 「自分のものでない長所は、何も自慢せぬがいい。もし馬が自慢して「私は美しい」といったとするならば、それは我慢できるだろう。だが、きみが自慢して「私は美しい馬を持っている」というならば、きみは馬の優良なことを自慢しているんだと知るがいい。ところで、きみのものは、なになのか。心像の使い方だ。したがって、きみの心像の使い方が自然にかなっているとき、その時こそ自慢するがいい。というのは、そのときは、なにかきみの優良なものを自慢しているのだから。」

例えば、貴族がいて、高価な馬を買って自慢しているんだな。エピクテトスはいう。「お前は馬か。馬が自分を自慢するなら分かるが、なぜお前が馬を自慢するのか」と。
分かるよね。MD買ったとか、最新のPHS持っているとか、ブランドのカバン持ってる、とかいって自慢する人いませんか。あなたの心には自慢するものがないのですか、ということを言っているのがエピクテトス。

「奴隷だったから、こういう考えをしたんだ」といってしまえばそれまでですが、われわれの生活態度や精神を振り返らせる力を持った内容だと思うよ。

もう一つ。

 「記憶しておくがいい、きみを侮辱するものは、きみを罵ったり、なぐったりする者ではなく、これらの人から侮辱されていると思うその思惑なのだ。それで、だれかがきみを怒らすならば、きみの考えがきみを怒らせたのだと知るがいい。だから第一に、心像に奪い去られぬようにしたまえ。なぜなら、もしきみがひとたび考える時間と猶予とを得るならば、容易にきみ自身に打ち勝つだろうから。」

これも面白い考え方です。だれかが、きみを殴った。あなたは殴った人に対して、怒りや憎しみの気持ちを抱くよね。でも、それは間違いだとエピクテトスは言う。

彼は、あなたを殴っただけ。怒りや憎しみをあなたの心に植え付けたのは、あなた自身の心だ、怒りは彼の中にあるのではなくて、あなたの中にあるのでしょ。あなたを怒らせているのは、あなた自身の怒りの心。ほらほら、それに振り回されてはいけませんよ。自分の心です、コントロールしなさい。エピクテトスの言いたいことは、こういうことだと思います。

最終的にはこういう発想で、心の平安をたもとうというんです。ストア派ですからね。
自分の足を折られても、平然としていたエピクテトスらしいです。でも、奴隷だからと片づけてしまうと、間違えると思う。

 マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝、ローマ帝国のトップのこの人が奴隷のエピクテトスと同じストア派だということを、どう考えたらいいんでしょうか。私の持っているこの本、中央公論社の「世界の名著13」なんですが、エピクテトスとマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝が一緒に収められているんだよ。象徴的でしょ。「自省録」を読むと、アウレリウス帝もやはり精神の平安を一所懸命求めているんですよ。

ローマの貴族達は贅沢三昧で吐いては食べ、産んでは捨てと滅茶苦茶ですが、そんな生活をしながらも、心の奥底ではヒュ~っとすきま風が吹いていたんではないか。贅沢で精神の平安は得られない。皇帝がストア派哲学者であるということは、まさしく彼らの心を象徴している気がしてなりません。

 奴隷も皇帝も心が求めているところは、案外近いところにある。単純に「心の平安」といっておきましょう。ちょっと先走りしていうと、これを哲学ではなく宗教という形でローマ人に与えたのが、キリスト教だったのではないか。だから、あっという間にキリスト教がローマ帝国に広まったと私は考えています。

哲学の最後に、セネカについて一言だけ。セネカは剣奴の競技に反対してました。人道的な立場ではなくて、競技を観戦することが心の平安を乱すからという理由なんですがね。ベスビオ火山の噴火で埋まったポンペイという町があります。当時の人々の生活をまるまる残したまま発掘されて、面白い遺跡です。そのポンペイの剣奴の宿舎の壁に、落書きが発見された。そこには「ルキウス・アンナエウス・セネカ」。セネカのフルネームが書かれていた。

 歴史・文学については名前と作品列挙。とにかく覚えるだけ。あのカエサルが、ガリア遠征を記録した「ガリア戦記」。ラテン語の名文らしい。

ポリュビオス(前2世紀)の「歴史」。この人はギリシア人だけど人質としてローマに連れてこられて、カルタゴ陥落の現場に居合わせた。政体循環論という歴史理論を唱えた。

リヴィウス(後1世紀)「ローマ建国記」。タキトゥス(2世紀)「ゲルマニア」「年代記」。前者は、ローマ人から見たらまだまだ未開人だったゲルマン人の貴重な記録。ゲルマン人は、今のイギリス人やドイツ人、フランス人の直接の祖先。タキトゥスは堕落したローマ人と比較して、質実なゲルマン人を持ち上げています。

文学。ヴェルギリス(前1世紀)のローマ建国叙事詩「アエネイス」。ホラティウス、オヴィディウス、はともに前1世紀の詩人です。

その他。ストラボン(1世紀)「地理誌」。プトレマイオス(2世紀)「天文学大全」。これは、天動説を唱えて有名。これ以来、コペルニクスという天文学者が出てくるまで1300年間、ヨーロッパの人は地球は動かないと信じた。

2019/10/25

ディオゲネス(3) ~ ディオゲネスとプラトン

 
理性の重視
 ディオゲネスは、このように既存の価値観ではなく「自然に適った」と考えられる価値に従うとなるのでしょうが、これは結局「理性が教えてくるもの」となりそうなのは、ディオゲネスが常々「人は理性を備えるか、さもなければ(首をつるための)縄を用意しているべきだ」と語っていたといわれるところからも確認できると思います。

 そして彼は「運命には勇気を、法律習慣には自然本性を、情念には理性を対抗させる」と主張していたとされます。こうして彼は、「まさしくノミスマ(社会慣習)を変造していた」のであって、法律習慣に従うことには少しも価値を認めず「自然本来(内容的には理性)」にあることを尊しとしていた、と言われることになったわけでした。

 そして「自由に勝るものはない」としていましたが、この自由とは「勝手放題・野生」を意味しているのではなく「社会常識・慣習に縛られない」ということで、具体的には「贅沢や立身出世を価値あるとする見方」を退けることであり「理性にのみ耳を傾ける」となります。

コスモポリテース
 ただし、そうは言っても「社会的無秩序」には警戒していたようで「法がなければ、市民生活を送ることは不可能である」と主張していたようです。つまり彼も市民生活の野生化を主張していたわけではなく、人間の生活での文化は大事にしており、それはポリスがあって始めて可能となるとし、それは法によって保証されると考えていたようなのでした。ただ、その法の内容が問題になるわけであって「既存のポリスのあり方、及びその法が違う」と考えられていたのでしょう。

 彼は「何処のポリスの人か」と問われた時「自分はコスモポリテース(世界市民)だ」と答えたと伝えられています。この「コスモポリテース(世界市民)」という概念は、ここではこれ以上の説明がないのではっきりしたことはいえませんが、人間が一つのポリスの価値観や習慣にとらわれ、そのポリスだけの人間として狭く生きるのではなく「世界の人間を等しく人間として捕らえて、すべての社会を一つの社会として生きるべきだ」という主張だとしたら、ソクラテス・プラトン・アリストテレスのポリスの哲学を転覆させている「革命的で、ある種すさまじい思想」であったと言えます。

これは思想史的には、「脱ポリス」概念の始まりとして大事であり、後のローマ期のストア派やエピクロス学派に顕著に出てくる概念の源として見なせます。

 こうしたところから、彼は「社会に対して噛み付く」ような態度になっていったのであり、それは当然、政治・文化的指導者とか金持ちなどの社会的に立身出世している人、名門を鼻にかけている人々、贅沢な暮らしをしている人々、軟弱な人々、世間に流されて生きている人々に対してのものでした。

 例えば学園など作って、そこの長に収まっているインテリもその批判の的になってくるわけで、従ってアカデメイアなどという学園を作ったプラトンとはどうも仲が悪かったようで、様々な逸話が伝えられています。

ディオゲネスとプラトンの関係
 プラトンが、ディオゲネスとはどういう男かと問われて「狂ったソクラテスだ」と答えたというものがありますが、これは当然褒めた言葉ではなく、ソクラテスの真似をしているつもりのようだが気違いだ、というようなニュアンスのものでしょう。他に伝えられているプラトンのディオゲネスに対する態度も、いずれも好意あるものではないです。

 ディオゲネスの方も負けては居らず、例えば「プラトンの講義(ディアトリベー)は暇つぶし(カタトリベー)」であると駄洒落で揶揄していたとか、プラトンが家にシラクサの王ディオニュシオスのところからやってきた人を招待した時、ディオゲネスが絨毯を踏みつけて「プラトンの虚栄」を踏みつけてやると言ったとか、葡萄酒を強請っておいてプラトンが樽を送ってやったところ「所望されたものを計算もできない」と言ったとか、イチジクを分けてやると言われてプラトンがそれを食べたところ「分けてやるとはいったが、食べてもいいとは言わなかった」とか、こんな調子ではプラトンならずとも怒れてきて当然です。

 プラトンの方も、ディオゲネスに対して「お前は見栄を張っていないと見せることによって、どれほど多くの見栄を人前に晒していることか」と、これは絨毯事件の時ですが切り返したり「とどまるところを知らないおしゃべり」と評したり、「ディオゲネスは犬」だと言ったとか、ディオゲネスが水をぶっかけられてそのままの姿で立って大勢の人に身を晒していた時、プラトンは「もし諸君が本当に彼を気の毒と思っているなら、ここから立ち去りたまえ」と言ったけれど、それは「ディオゲネスの虚栄心を皆に教えようとしてのこと」であったとか、色々伝えられています。
 こうしたプラトンとのやりとりの中で、有名なのがプラトンの人間の定義に対するディオゲネスの揶揄で、それはプラトンが「人間とは二本足で羽根のない動物である」として好評を得たとき、ディオゲネスは「羽根をむしり取ったニワトリ」を携えてきて、これがプラトンのいうところの人間だといったので、その後プラトンは先の定義の言葉に「平たい爪をした」という語句を付け加えることにした、というものです。

 またもう一つ、プラトンのイデア論において「机そのものとか、杯そのもの」という言い方がされたとき、ディオゲネスは自分には「机や杯」は見えるけれど「机そのものとか杯そのものなど、一向に見えないね」と言ったと伝えられます。これに対して、プラトンは「それはそうだろう、というのも君は机や杯を見る目は持っているようだが、机そのものや杯そのものを見る“知性”を持っていないからだ」と応じたといいます。

 このディオゲネスのイデア論に対する冷たい反応は、師であるアンティステネスにもあったものですが、この辺りの逸話はプラトンが「知性的理論派」であるのに対して、ディオゲネス達の現実主義を表しているものとして、あるいは近代以降はプラトン重視ですから「プラトンの無理解の代表」として言及される逸話です。

 他方、ディオゲネスが理屈を嫌っていたらしいことは他の逸話にも見え、例えばエレア派は論理において「運動の否定」を主張したのですが、それに対してディオゲネスは立ち上がって、そこいらを歩いて見せたという逸話も伝えられています。

 こうしたディオゲネスの態度は、とにかく「現実にどう生きているか」ということが問題なのだという、キュニコス学派の態度をよく表しています。これについては、ディオゲネスが「立派なことを語りはするが、それが行為に現れていない人を、キタラ(琴)にたとえていた」という逸話を挙げておきましょう。

つまり「琴は美しく奏でることはするがそれだけの話で、琴には知性もなく理性もなく人の言うことを聞くことも理解することもできない」というわけでした。ディオゲネスにとっては「何を語るか」ではなく「どのように行為しているか」が問題だったということです。

2019/10/19

退廃 ~ 内乱の一世紀(10)


 退廃ということでは性的な面では滅茶苦茶だったようで、貴族の夫婦関係なんていうのは名目だけみたいですね。浮気みたいな事は当たり前だったんですが、前回も話したように出生率がどんどん低下するんです。元老院の名門貴族の家がどんどん断絶する。イタリア半島以外からも、名門の家の者を元老院議員に任命して、欠員を埋めたりしているんですよ。

出生率低下の原因はいろいろな説があってはっきりしませんが、多分子供を産むのが邪魔くさかったんではないか、と思う。貴族は自分で子供を育てるわけではないですが、それでも面倒なもんだ。しかも、夫からすれば生まれた子が誰の子か分からないわけで、それに財産を譲るのもあほらしい。そんなことに煩わされるよりも、今日の楽しみを思い切り楽しみたい。金持ち達の気持ちは、そんなところではないでしょうか。

 それにしても、奴隷がたくさんいる社会自体が退廃といえるかもしれない。金持ちは、たくさん奴隷を使っていた。町に出る時は、最低二人はお付きの奴隷を連れていくのが中堅市民の条件。前70年頃のローマ市人口が、大体50万。そのうち四分の三が奴隷もしくは解放奴隷だったというから、奴隷はほんとに多い。

大金持ちになると、わけのわからん奴隷をたくさん使っている。主人の靴を脱がす奴隷とかね。ある金持ちは、自分の靴を脱がす奴隷を二人持つ。外から帰ってくると、デンとひっくり返って奴隷に靴を脱がしてもらうんですが、同時に脱がすために右足専門靴脱がせ奴隷と左足専門靴脱がせ奴隷と二人要るんだって。こういう奴隷は、あまり能力いらなくて大した仕事も任されませんが、有能な奴隷は子供の家庭教師にしたり、家計を取り仕切らせたりもしたんです。

 ところで奴隷の供給源ですが、戦争捕虜や新しい征服地の住民などが奴隷としてローマに連れてこられていたという話を前にしました。ところが、前回も話したように五賢帝の二番目、トラヤヌス帝の時がローマ帝国の領土が最大でしたね。ということは、それ以後ローマ帝国は成長期が終わって守りの時期に入るわけ。新しい征服地がなくなる、戦争捕虜も激減するということだ。では、それ以後は奴隷の数が激減するかというと、そんなことはなさそうなんですよ。トラヤヌス帝以後の奴隷は、どこからきたのか。

最近、こんな説が唱えられています。奴隷=捨て子説。ローマ人達は、子供が産まれると育てるのが嫌だから、どんどん捨て子にしていた、というんだ。いわれてみれば、そうかもしれない。出生率が低下といいましたが、今みたいに避妊法が発達しているわけではない。男と女がいれば、平民だって貴族だって妊娠するはずだ。中絶に失敗すれば出産する。捨てていたから見せかけの出生率が減少した、と考えれば納得がいくね。

捨て子の名所があったらしい。「乳の出る円柱」という所。いらない赤ちゃんは、みんなここに捨てる。そして捨て子を集めてまわる業者がいた。嫌な話だけど、この業者が捨て子を奴隷として育てて売るんだ。これが奴隷の供給源として、大きなものだったらしいです。ホラティウスという詩人が、こんな事を言っている。

「粘土が柔らかければ、お気に入りのどんな形にでも作ることができる。」

だから理論的には、赤ん坊を捨てた貴族が、何年かして自分の実の子だと知らずに奴隷を買って働かせる、ということもあり得るわけです。何とも言えない気分です。

金持ち連中も、奴隷を使うことに対して多少は良心がとがめたのかもしれなくて、自分が死ぬときに遺言で、奴隷達を解放してやることが多かったんです。こういう人を解放奴隷というんですが、彼らは自由ではあるがローマ市民権はありません。ところが、例えば解放奴隷同士が結婚して子供が産まれたら、この子は生まれながらにしてローマ市民なんです。だから、公衆浴場も入れるしパンも配給される。もし、商売で成功でもしたら、お金を積んで騎士身分という貴族になることだってできる。奴隷を買って働かせることだってできるんです。

身分制の社会でありながら、その身分が絶対的でないところがローマの活力の源でもあるといわれています。それにしても、この国はやはり変だね。

ローマ法
 一面では退廃的でやりきれないローマ文化ですが、これが何百年も繁栄し続けたのはやはり統治技術のうまさ、柔軟さが挙げられると思います。そしてローマ人は公正を求めて、常に法を尊重する文化を維持し続けた。ここはローマ人の偉大なところですね

それを象徴するのがローマ法。ちょっと後の皇帝ですが、6世紀のユスティニアヌス帝は重要。トリボニアヌスに命じて「ローマ法大全」を編纂させた。これはローマの法と法学説を集大成したものです。

土木・建築
 これもローマ人の得意分野。法律とか建築とか、実用的なものでローマ人は能力を発揮する。建築ではアーチが特徴。何気なく見ていますが考えはじめるとこれ、不思議でしょ。なんで一番上の石は、落ちてこないんですか。鉄筋が入っているわけではないからね。これ、石の切り方に微妙に傾斜がつけてある。下に落ちようとする重力を横の石に逃がしているわけです。これで石積みの大きな建物を建設できるようになった。

単独アーチの建造物が凱旋門。コロセウムもじっくり見てみると、アーチを集めて造られているのが分かるでしょ。でっかいのが、水道橋。フランスにあるガール橋が有名。高さが50メートルある。ローマ人は重要な場所に、どんどん都市を建設します。そこに水がなくてもお構いなし。なければ、どこかの遠くの山の上から水を引いてくる。その為に造られたのが水道橋です。

その他の建築物としては、アッピア街道という軍用道路が有名。今も一部が残っています。アケメネス朝ペルシアにあった「王の道」のローマ版だ。

2019/10/18

ディオゲネス(2) ~ ディオゲネスの生活



 そのディオゲネスの生活ぶりは「酒瓶」を住みかにしたという伝承のように、質素を通り越して「何も持たないという乞食以下の生活」になっていました。これは、伝えられているように流れ者という必然もあったでしょうが、アンティステネスに惹かれて強引にその弟子になったわけですから意図的にそうしたのだろうし、それはアンティステネスの思想を徹底した、彼なりの哲学に基づいたものだったと言えます。ともかく彼は「金銭への愛は、あらゆる災いの母である」と主張していたようなので「乞食以下」となっていたのも当然でしょう。

 そうした彼について、テオプラストスという人が

ディオゲネスは、ネズミが寝床を求めることもなく暗闇も怖れず、また美味なものをほしがりもしないのを見て、自分の境遇を処する術を見いだしたのだ

と伝えているのが紹介されたりしています。

 そしてまた住みかに関しても、当初は「どんな場所も食事をしたり寝たり話しをする場所」にしてしまい、彼は

「ゼウス神殿のストア(柱廊)やら公の保管庫やらを指さして、アテナイ人は自分のために住みかを用意してくれている」

と言っていたと伝えられています。つまり、たとえ神殿であれ何であれ、何処でも平気で住みかにしてしまっていたということです。そして最終的に、町中に転がしてあった土製の「酒瓶」に潜り込んでいたというわけです。

 またさらに、ある時彼は子どもが手で水を掬って飲んでいるのを見て

「自分は簡素ということでは、この子どもに負けている」

といって袋からコップを取り出し投げ捨てたとか、同じく子どもが皿を壊してしまいパンに凹みを付けてスープを入れているのを見て「お椀も投げ捨てた」と伝えられています。こんなでは結局、何もかも無くなってしまうのは当然です。

アレクサンドロス大王との逸話
 こうした「物にとらわれないディオゲネス」という文脈の中に「アレクサンドロス大王との逸話」もあるわけです。その中で有名なものは、ディオゲネスが日向ぼっこをしているところに、その噂を聞いたアレクサンドロス大王がやってきてディオゲネスの姿を見て感動し、何なり望みのものを申してみよと言ったときに

「それでは、どうかそこをどいてくださいな。日陰にしないでいただきたい」

と答えたというものがあります。「自由で世間的価値を超越しているディオゲネス」を伝えて有名なものです。

 しかし、アレクサンドロス大王は若干20歳にして王位を継いで直ぐにペルシャ東征に赴き、それに成功して大王と呼ばれるようになったわけですが、ギリシャには帰れずに10年後に30歳にしてバビロンで死んでいますので、ディオゲネスとこんな形で出会っていたということはあり得ません(東征前の若いアレクサンドロスというのも無理です)。

つまり、これは両者が有名となった後に作られた「物語」であることは明らかです。しかし、それにしてはどうも「アレクサンドロスとディオゲネスの逸話」というのがたくさんあって、何かしら両者を結びつけたくなる何かがあったのかもしれません。
 その一つですが、アレクサンドロスは「もし自分がアレクサンドロスでなかったとしたらディオゲネスであることを望んだであろうに」と語ったと伝えられています。この逸話は「アレクサンドロス大王の人柄」について語っていると同時に、当時にあってディオゲネスがアレクサンドロス大王にまで知られる人物になっていたということと、「権威とか世間を超絶しているディオゲネス」とを伝える、当時の「ディオゲネス評価の一つ」となります。

 またアレクサンドロスがディオゲネスの前に立ち

「お前は、余が恐ろしくはないのか」

と聞いたとき、ディオゲネスは

「あなたは悪人ですか、それとも善人ですか」

と問い返し、アレクサンドロスが「善人だ」と答えると

「善人を怖れるものはいないでしょう」

と答えたというのもあります。
 
ついでにディオゲネスは、アレクサンドロスの父であるフィリップス王との逸話もあって、そこではディオゲネスはカイロネイアの戦いに出陣していたが、敗戦において捕らえられ王の前に引き出されて、「お前は何者か」と問われた時に「お前の飽くことのない欲望を探る偵察だ」と答えて、この答えにフィリップスは感服して彼を放免したというものです。

全くありそうにない話しですが、これもディオゲネスのありよう・人物像を描写しているものとすれば、そんな逸話を作った当時の人々のディオゲネス評価の一つとして、受け止めることもできるでしょう。

精神と肉体のバランス
 ディオゲネスは「鍛錬」ということを非常に重視したようで、またその鍛錬を「魂(精神)面と身体面の両面」で行ったと伝えられます。ディオゲネスによると「精神と肉体とは切り離せない性格をもっている」と理解されていたようで、身体の鍛錬抜きに魂の鍛錬はないとされていたようです。
 というのも「ことがうまくいく」ということや「強さ」というのは魂だけの問題ではなく身体においてもあるからで「両者がバランスとれている必要」があると考えていたからでしょう。

 魂の鍛錬は当然「徳の実践」に向かうために必要であるわけで、快楽ということに対する抑制は快楽と反対のものによって鍛えられて強くなるとされて「快楽を侮蔑する鍛錬」をしておけば容易に、それができるようになると考えられていたようでした。

 そこで、彼は夏の暑いときは熱い砂の上を転げ回り、寒い冬には雪の上を歩いたり、また雪をかぶった銅像を抱きかかえるなどして、様々の機会を捕らえては自分を鍛えていたと伝えられています。

 こうした「訓練が人間としての優れへと人を導く」ということの例証として、彼は技術・技能・スポーツに優れた人を例に挙げ、それは彼等の日頃の絶え間ない訓練・練習・労苦のたまものであることを示し、そしてそういった「鍛錬が魂の面にまで及んでいれば、彼等の労苦は本当に優れた成果を生むだろう」と言ったといわれています。

 そうはいっても、何でも労苦がいいというわけではなく「無用な労苦」ではなく「自然に適った労苦」を選べと教えていたようです。

 さらに、その生活ぶりは「ヘラクレス的生活」とされてきますので、これは「社会や家に守られた安楽の生活」とは逆の「嵐に立ち向かう艱難辛苦の生活」になってしまいます。ヘラクレスは12の偉業で知られる神話上の人物ですが、この12の偉業はいずれもすさまじい難行でした。この「ヘラクレス的生活」というのはディオゲネスの師匠であるアンティステネスが言っていたことでした。