2023/04/23

唯識(4)

三性

このような識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。

 

      遍計所執性(へんげしょしゅうしょう, parikalpita):構想された存在 凡夫の日常の認識。

      依他起性(えたきしょう, paratantra):相対的存在、他に依存する存在

      円成実性(えんじょうじっしょう, parinipanna):絶対的存在、完成された存在

 

このような見方は唯識を待つまでもなく大乗仏教の基本であり、その原型が既に般若経に説かれている。

 

遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、存在せず、空である。

 

舎利弗、仏に言(ことば)を白(もう)せり。

「世尊。諸法の実相、云何(いかん)が有なるや」

仏言わく。

「諸法は有る所無し。是の如く有り、是の如く有る所無し。是の事を知らざるを名づけて無明と為す」

摩訶般若波羅蜜経相行品第十

 

依他起性とは相対的存在であり、構想ではあるが、物事はさまざまな機縁が集合して生起したもの(縁起)であるととらえることである。阿頼耶識をふくむ全ての識の構想ではあるけれども、すでにその識の対象が無であることが明らかとなれば、識が対象と依存関係にあるこの存在もまた空である。

 

名字は是れ因縁和合の作れる法なり。但だ分別憶想、仮名を説く。

是の故に菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、一切の名字を見ず。

見ざるが故に著せず。

摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二

 

円成実性は、仏の構想であり、絶対的存在とも呼べるものである。これは依他起性と別なものでもなく、別なものでもないのでもない。依他起性から、その前の遍計所執性をまったく消去してしまった状態が円成実性である。

 

復た次に舎利弗。菩薩摩訶薩、諸法の如・法性・実際を知らんと欲さば、当に般若波羅蜜を学すべし。

摩訶般若波羅蜜経序品第一

 

以上の如く、般若経の段階では三性としてまとめて整理記述しているわけではない。時代を下って『解深密経』(玄奘訳)を待って初めて、諸法に三種の相があると説く。これは法が三種類あるということではなく、法は見る人の境地によって三通りの姿かたちが顕れているということである。

 

謂く、諸法の相に略して三種有り。

何等か三と為すや。

一者は遍計所執相、二者は依他起相、三者は円成実相なり。

 

云何が諸法の遍計所執相なるや。

謂く、一切法の名、仮安立の自性差別なり、乃至言説を随起せ令むるが為なり。

 

云何が諸法の依他起相なるや。

謂く、一切法の縁の生ずる自性なり。則ち此れ有るが故に彼れ有り。此れ生ずる故に彼れ生ず。

謂く、無明は行に縁たり、乃至純大の苦蘊を招集す。

 

云何が諸法の円成実相なるや。

謂く、一切法平等の真如なり。此の真如に於て諸の菩薩衆、勇猛・精進を因縁と為すが故に、如理の作意・無倒の思惟を因縁と為すが故に、乃ち能く通達す。此の通達に於て漸漸に修集し、乃至無上正等菩提を方(ま)さに証すること円満なり

解深密経一切法相品第四

 

相は性による、という間接的な表現となっているが、唯識の論書では、遍計所執性、依他起性、円成実性の三性という表現になり、精緻な論が展開されるようになる。

 

三性のなかで、第一の遍計所執性はその性格からみて、すでに無存在である。つぎに依他起性は、自立的存在性を欠くから、やはり空である。また、同じ依他起性は存在要素の絶対性としては、第三の円成実性である。そして、どういう境地においても、真実そのままの姿であるから真如と呼ばれる。その真如は、とりもなおさず「ただ識別のみ」という真理である。これを自覚することが、迷いの世界からさとりの世界への転換にほかならない。

 

しかし、実践の段階において、「ただ識別のみ」ということにこだわってはならない。認識活動が現象をまったく感知しないようになれば、「ただ識別のみ」という真理のなかに安定する。なぜなら、もし認識対象が存在しなければ、それを認識することも、またないからである。それは心が無となり、感知が無となった。それは、世間を超越した認識であり、煩悩障(自己に対する執着)・所知障(外界のものに対する執着)の二種の障害を根絶することによって、阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)。これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し、善であり、永続的であり、歓喜に満ちている。それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれる(大円鏡智=だいえんきょうち)。

2023/04/21

主神オーディンとトール等の主要な神々(2)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 トールについては、アース神の中でも最強の神とされていますが、その逸話についてスノッリは他の神々とは例外的に、かなり長く紹介しています。ここでも、それに基づいて紹介してみましょう。

 

 ある時トールは、羊の車に乗って旅に出た。ロキも同乗していた。彼らはある晩、一人の百姓のところにやってきて宿をとった。トールは夕餉のために山羊を二頭とも屠り、皮をはいで鍋で煮た。トールは百姓とその家族も食事に誘った。百姓の息子の名前はスィアールヴィといい、娘の名前はレスクヴァといった。トールは山羊の皮を火のそばに広げて、百姓に骨はその皮の上に投げて置いておくように言った。

 

トールは一晩そこで眠ると早朝早く起き出して衣服をつけ、槌のミョルニルを振り上げて山羊の皮を浄めた。すると山羊たちは生き返って立ち上がったが、一匹の山羊は後ろ足がびっこであった。トールはそれに気づき、百姓の家族のだれかが山羊の骨を丁寧に扱わなかったと知って怒った。これは息子が前夜、山羊の骨をナイフで切り裂き随までこじ開けてしまった、その部分の骨であった。百姓の家族は、烈火のごとく怒って槌を堅く握りしめているトールを見て怖れ、皆で泣いて謝り命乞いをした。トールは、それを見て怒りを和らげ、息子と娘とを自分の従者とすることにして許した。それ以来、二人は常にトールに付き従っている。

 

 トールたちは、そこから東のヨーツンヘイム(巨人族の土地)に向かい、海のところまでくると、その海をわたって上陸した。それからしばらく進むと、大きな森の前に出た。彼らは一日中、その森の中を歩いた。従者となったスィアールヴィは走ることにかけてはだれにも負けない速さを持ち、トールの荷物を担いで歩いた。

 

暗くなって宿を探し、大きな小屋のようなものがあった。小屋の入り口は大きく小屋全体とおなじくらいであった。彼らはそこに入って寝たが、夜中に大きな地震が起きた。トールは立ち上がり手探りで前に進むと、小屋の真ん中の部屋の右手にもう一つの部屋があった。トールはドアのところに座って身構えていた。騒音とうなり声がずっと続いた。夜が明けてトールが外に出てみると、一人の大きな男が寝ていた。男はすさまじいいびきをしていたので、トールは昨夜の物音の正体が分かった。トールは我が身に力を入れようとしたが、その時男が目をさました。あまりに巨大な男であったのでさしものトールも槌を振り上げるのをためらった。

 

 トールは男に名前を聞いた。男は「自分はスクリューミルだ」と名乗ったが、続けて「しかし儂はおまえの名前を聞く必要はない、おまえがアースのトールだということは知っている、だがおまえは儂の手袋をどうしたのだ」

と言って手袋を拾い上げた。そこでトールは昨晩「小屋」だと思ったものが、スクリューミルの手袋であったのだと知った。

 

スクリューミルはトールに一緒に旅していいかと尋ね、同意されると自分の袋から食料を取り出して食べた。トールたちも食事をした。その後スクリューミルは荷物を一緒にしようと言って、皆の荷物を一つの包みにした。こうして彼らは再び歩いていった。夕方になって一本の樫の木の下でスクリューミルは横になると、すぐにものすごいいびきをかき出した。

 

 トールたちは食料を取り出そうと包みをほどこうとしたが、何としても結び目一つゆるむことがなかった。トールは怒り、槌のミョルニルをつかむやスクリューミルに近づいて、その頭に一撃を食らわした。スクリューミルは目を覚まし、「オヤ、木の葉でも落ちてきたのかな」とつぶやくとトールを見て、まだ寝ないのかいと言ってきた。トールたちはやむなく別の樫の木の下で寝たけれど、寝付けるものではなかった。

 

真夜中になって、相変わらずすさまじいいびきをかいて寝ているスクリューミルをみてトールは怒り、再び槌を手にして近づき力一杯脳天に振り下ろした。槌の先が脳天深くめり込んだ。するとスクリューミルは目を覚まし「オヤ、ドングリの実でも落ちてきたか。トール何をしているのだ」と言ってきた。

 

トールはあわててみんなのところに戻った。夜明け前になった。相変わらずスクリューミルは、すごいいびきをかいていた。トールは三度起きあがって槌をつかみ、今度はあらん限りの力を込めて男のこめかみに槌を振り下ろした。槌は柄までのめり込んだ。しかしスクリューミルは起きあがり、こめかみをなぜながら「枝が落ちてきたみたいだな」といったきりで、

 

「さて、目指すウートガルズと呼ばれている城市まではもうすぐだ、おまえたちは儂のことを大男だとしゃべっていたが、そこに行くと儂なんぞよりもっとでかい男たちに会うことだろう。だから忠告しておくが、そこの王であるウートガルザ・ロキという名前の王の従者たちは子供だましが大嫌いだ、だから引き返した方がいい、だがどうしても行くというなら東の方角に行け、儂はあの山を越えて北に行くよ」

 

と言って分かれていった。

 

 トールたちは再び歩き、昼頃になって野原に城が見えた。その高さは、上に目を上げて反っくり返って頭が背中についてしまうほどだった。城に近づくと柵があったが、何としてもそれはビクともしなかった。やむなくトールたちは、柵の隙間から潜り込むことにした。向こうに広間がみえたので近づくと、大勢の男たちがベンチに座り中央にひときわ大きな男がいた。ここの王ウートガルザ・ロキと知り近づいていった。すると王はじろりとトールを見て笑い、

「さてこの若造が車のトールだと思ったのは間違いかな。しかし見かけよりは優れた者なんだろう。とにかく、ここでは何かひとかどの芸で他人にぬきんでていないような者は、いてはならないのだ」

と言った。

 

そこで後ろに控えていたロキが進み出て、自分は食べ比べならだれにも負けません、と言った。それをきいて王は、それでも芸には違いない、ならば試してみようと言って、ベンチに座っていた男たちの中から「ロギ」という名前のものを召し出した。そして、そこに長い樋が置かれてたくさんの肉が入れられた。二人はそれぞれの端に位置して、合図とともにその肉を猛烈な勢いで食べていった。そして、ちょうどその樋の真ん中のところで二人は鉢合わせしたけれど、ロキは肉だけを食べており骨は残していた。一方のロギは肉や骨ばかりか、肉が置かれていた樋まで平らげていた。ロキの負けであった。

 

 ウートガルザ・ロキは、もう一人の従者の男であるスィアールヴィに向かって、おまえは何ができるのか、と聞いた。そこでスィアールヴィは「駆け比べ」ならと答えた。王は「それは立派な技だ、よほど自信があると見える」と言うと「フギ」という少年を召し出した。二人は競技場に行き、合図と共に走り出した。しかしフギは決勝点に入って、スィアールヴィを振り替えるほどの余裕を持っていた。王は二回目の競技をさせた。今度は大差であった。王は満足そうに「この男もなかなかよく走る、だがとても勝つ見込みはないだろう」と言って、そしてさらに三度目となったが、フギが決勝点に入った時スィアールヴィは半分にも達していなかった。

2023/04/16

仏教公伝(3)

以上が通説であるが、近年では物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され(ただし、渋川廃寺は推古期に創建されたとする説も存在している)、また愛知県最古の寺である北野廃寺は、近隣の真福寺は守屋の息子の真福が創建したという伝承があって、白鳳時代の仏頭が残っているとし、さらに物部氏の影響が強かった関東では、東日本最古の寺跡である寺谷廃寺も物部氏が関与していたことが指摘されており、神事を公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教を私的に信仰していた可能性が高まっており、同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られている。

 

一方、蘇我氏の側も神事を軽視していたわけではなく、百済の聖明王の死を伝えに訪日した王子・恵に対し、王が国神を軽んじたのが王の死を招いたと諌めたのは蘇我稲目であった。また、物部氏は『先代旧事本紀』や『元興寺縁起』には排仏運動を行った様子が記されていない上に、物部氏は積極的に百済と交流をしており、仏像を燃やし海に流したのは「罪を祓う祭祀氏族」として祓戸の神のように「仏像=神」の罪を祓い元いた場所へ送り返すためであったとする説が存在する。

 

結局のところ、崇仏・廃仏論争は仏教そのものの受容・拒否を争ったというよりは、仏教を公的な「国家祭祀」とするかどうかの意見の相違であったとする説や、仏教に対する意見の相違は表面的な問題に過ぎず、本質は朝廷内における蘇我氏と物部氏の勢力争いであったとする説も出ており、従来の通説に疑問が投げかけられている[誰によって?]

 

その後の受容状況

仏教をめぐる蘇我稲目・物部尾輿の対立は、そのまま子の蘇我馬子・物部守屋に持ち越される。馬子は渡来人の支援も受け、仏教受容の度を深めた。司馬達等の娘・善信尼を始めとした僧・尼僧の得度も行われた。しかし敏達天皇の末年に再び疫病が流行し(馬子自体も罹患)、物部守屋・中臣勝海らはこれを蘇我氏による仏教崇拝が原因として、大規模な廃仏毀釈を実施した。仏像の廃棄や伽藍の焼却のみならず、尼僧らの衣服をはぎ取り、海石榴市で鞭打ちするなどしたという。だがこれも、仏教の問題というよりは、次期大王の人選も絡んだ蘇我氏・物部氏の対立が根底にあった[要出典]

 

続く用明天皇は仏教に対する関心が深く、死の床に臨んで自ら仏法に帰依すべきかどうかを群臣に尋ねたが、欽明天皇代と同様の理由により物部守屋は猛反対した(第二次崇仏論争)。ここで注目されるのは、用明天皇が正式に帰依を表明したきっかけが自身の病気であることである。これは、神祇・神道が持つ弱点であった穢れに対する不可触ーー病[要校閲]や死などに対処するための方策として仏教が期待され、日本における仏教受容の初期的な動機になったことを示している。

 

結局、蘇我・物部両氏の対立は587年の丁未の役により、諸皇子を味方につけた蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着する。その後、蘇我氏が支援した推古天皇が即位。もはや仏教受容に対する抵抗勢力はなくなった。推古朝では、馬子によって本格的な伽藍を備えた半官的な氏寺・飛鳥寺が建立され、また四天王寺・法隆寺の建立でも知られる聖徳太子(厩戸皇子)が馬子と協力しつつ、仏教的道徳観に基づいた政治を行ったとされる。しかし、この時期において仏教を信奉したのは朝廷を支える皇族・豪族の一部に過ぎず、仏教が国民的な宗教になったとは言い難い(民衆と仏教が全く無関係であったわけではないが)[誰によって?]

 

奈良時代には、鎮護国家の思想のもとに諸国に国分寺が設置されて僧・尼僧が配され、東大寺大仏の建立、鑑真招来による律宗の導入などが行われたが、本格的な普及には遠かった。平安時代には最澄による天台宗、空海による真言宗の導入による密教の流行、末法思想・浄土信仰の隆盛などを契機として貴族層や都周辺の人々による仏教信仰は拡大しつつあったが、全国にわたって庶民にまで仏教が普及するのは中世以降である。鎌倉仏教の登場などにより全国の武士や庶民階層へ普及していき、以後は日本独自[要説明]の仏教が発展した。

 

崇仏論争に対する新説 

有働智奘は、「崇仏論争」という概念自体が明治期以降に誕生したとする説を提唱した。その根拠は以下の通りである。

 

物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され(ただし、渋川廃寺は推古期に創建されたとする説も存在している)、また愛知県最古の寺である北野廃寺には、その近隣の真福寺に守屋の息子の真福が創建したという伝承があり、さらに、物部氏の影響が強かった関東では、東日本最古の寺跡である寺谷廃寺も物部氏が関与していたと考えられると複数人の研究者が指摘している。

 

物部氏は百済との交流に関わっていた者も多く見られるため、仏教を知らなかった可能性は低く、また、物部氏は祭祀や軍事のほか、刑罰も担当していたうえ、仏教排除の行動は勅命によっているため、廃仏を立場としていたとは言えず、その上、崇仏派とされる蘇我氏も神祇を祀っていた。

 

中世までの史書には、排仏・崇仏の争いとする記述は見えず、「排仏・崇仏」という用語自体、明治後期の国定教科書以前には見えない。

 

祭祀を担当していた物部氏、中臣氏が反対したのは、蕃神である仏陀の祭祀を宮中祭祀に組み込むことであり、蘇我氏が仏教を推進したのは、朝廷が氏族に「依託祭祀」させたもので、敏達朝の仏教排除は、疫病をもたらした神を祓い、そうした神を信奉した人々を処罰したものであった。

 

ただし、後に有働智奘は、「崇仏・廃仏」という用語の初見は、江戸時代の国学者であった谷川士清の『日本書紀通証』であったと訂正した。

2023/04/13

唯識(3)

中国・日本への伝播

中国からインドに渡った留学僧、玄奘三蔵は、このナーランダ寺において、護法の弟子戒賢(シーラバドラ、śīlabhadra)について学んだ。帰朝後、『唯識三十頌』に対する護法の註釈を中心に据えて、他の学者たちの見解の紹介と批判をまじえて翻訳したのが『成唯識論(じょうゆいしきろん)』である。

 

そして、この書を中心にして玄奘の弟子の慈恩大師基(もしくは窺基=きき)によって法相宗(ほっそうしゅう)が立てられ、中国において極めて論理学的な唯識の研究が始まった。実質的な開祖は基であるため、法相宗では玄奘を鼻祖(びそ)と呼び分けている。その後、玄奘の訳経と知名度等により中国の法相宗は隆盛し、その結果、真諦の訳した論書を基に起こった地論宗や摂論宗は衰退することとなった。

 

その後、法相宗は道昭・智通・智鳳・玄昉などによって日本に伝えられ、奈良時代さかんに学ばれ南都六宗のひとつとなった。その伝統は主に奈良の興福寺・法隆寺・薬師寺、京都の清水寺に受けつがれ、江戸時代には優れた学僧が輩出し、倶舎論(くしゃろん)とともに仏教学の基礎学問として伝えられた。唯識や倶舎論は非常に難解なので「唯識三年倶舎八年」という言葉もある。明治時代の廃仏毀釈により日本の唯識の教えは一時非常に衰微したが、法隆寺の佐伯定胤の努力により復興した。法隆寺が聖徳宗として、また清水寺が北法相宗として法相宗を離脱した現在、日本法相宗の大本山は興福寺と薬師寺の二つとなっている。

 

識の転変

唯識思想は、この世界はただ識、表象もしくは心の持つイメージにすぎないと主張する。外界の存在は実は存在しておらず、存在しているかのごとく現われ出ているにすぎない。これを『華厳経』などでは、次のように説いている。

 

又、是の念を作さく、三界は虚妄にして、但だ是れ心の作なり。十二縁分も是れ皆な心に依る。

 

又作是念。三界虚妄。但是心作。十二縁分。是皆依心

大方廣佛華嚴經十地品第二十二之三

 

識とは心である。心が集起綵画し主となす根本によるから、経に唯心という。分別了達の根本であるから論に唯識という。あるいは経は、義が因果に通じ、総じて唯心という。論は、ただ因にありと説くから、ただ唯識と呼ぶのである。識は了別の義であり、因位の中にあっては識の働きが強いから識と説き、唯と限定しているのである。意味的には二つのものではない。『二十論』には、心・意・識・了の名はこれ差別なり、と説く。

 

識者心也。由心集起。綵畫為主之根本故經曰唯心。分別了達之根本故。論稱唯識或經義通因果總言唯心。論唯在因但稱唯識。識了別義。在因位中識用強故。識為唯。其義無二。二十論云。心意識了。名之差別。

慈恩大師 大乘法苑義林章卷第一

 

その心の動きを「識 (vijñāna) の転変 (pariāma)」と言う。その転変には三種類あり、それは

 

      異熟(いじゅく) - 行為の成熟

      思量(しりょう) - 思考と呼ばれるもの

      了別(りょうべつ) - 対象の識別

 

3である。識の転変は構想である。それによって構想されるところのものは実在ではない。したがって、この世界全体はただ識別のみにすぎない。

 

第一能変

異熟というのは、阿頼耶識(根源的と呼ばれる識知)のことであり、あらゆる種子 (bīja) を内蔵している。感触・注意・感受・想念・意志を常に随伴する。感受は不偏であり、かつそれは障害のない中性である。感触その他もまた、同様である。そして、根源的識知は激流のごとく活動している。「暴流の如し」

 

第二能変

末那識 (mano nāma vijñāna) は、阿頼耶識に基づいて活動し、阿頼耶識を対象として、思考作用を本質とする。末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩が常に随伴する。我見(個人我についての妄信)、我痴(個人我についての迷い)、我慢(個人我についての慢心)、我愛(個人我への愛着)と呼ばれる。なかでも特に、当人が生まれているその同じ世界や地位に属するもののみを随伴する。さらに、その他に感触などを随伴する。

 

この末那識は、自我意識と呼んでもよい。つねに煩悩が随伴するので「汚れた意(マナス)」とも呼ばれる。

 

この末那識と意識によって、思量があり、その意業の残滓は、やはり種子として阿頼耶識に薫習される。

 

第三能変

了別とは、第三の転変であり、六種の対象を知覚することである。

 

六識は、それぞれ眼識が色(しき、rūpa)を、耳識が声を、鼻識が香を、舌識が味を、身識が触(触れられるもの)を、意識が法(考えられる対象、概念)を識知・識別する。そして、この六識もまた阿頼耶識から生じる。そして末那識とこの六識とが「現勢的な識」であり、我々が意識の分野としているもので、阿頼耶識は無意識としているものである。

 

これまでの説明は、阿頼耶識から末那識および六識の生ずる流れ(種子生現行)だが、同時に後二者の活動の余習が阿頼耶識に還元されるという方向(現行薫種子)もある。それがアーラヤ(=蔵)という意味であり、相互に循環している。

 

識を含むどのような行為(業)も一刹那だけ現在して、過去に過ぎて行く。その際に、阿頼耶識に余習を残す。それが種子として阿頼耶識のなかに蓄積され、それが成熟して、「識の転変」を経て、再び諸識が生じ、再び行為が起ってくる。

2023/04/06

仏教公伝(2)

552年(壬申)説

『日本書紀』(720年成立、以後、書紀と記す)では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や仏典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされ、上表文を核とした書紀の記述の信憑性が疑われている。

 

伝来年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究において、この年が釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年となることや、『大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることなどが重視されたとする説があり、これも後世の作為を疑わせる論拠としている[誰によって?]

 

また、当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、太清2年(548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、翌太清3年(549年)に死去していたため、仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、『日本書紀』の552年説は難があるとされる[誰によって?]

 

しかしながら、上表文の存在そのものは十七条憲法や大化改新詔と同様、内容や影響から書紀やその後の律令の成立の直前に作為されたとは考えにくいとされ、上表文そのものはあったとする見方がある。

 

538年(戊午)説

『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)には、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世(540 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力[要出典]とする説があった。

 

これら二書は、書紀以前の作為のない典拠であると思われていたことも含めて説の支持理由とされていた[いつ?]が、その後の研究でこれら二書の記述に淡海三船によって後世に追贈された歴代天皇の漢風諡号が含まれていることが指摘され[要出典]、書紀編纂以降に成立していたことが明らかとなった。そのため作為のない典拠であるとは断言できなくなり、したがって論拠としては弱くなってしまった。

 

538年=552年説

有働智奘は、『元興寺縁起』は538年、『日本書紀』は552年とする仏教公伝の年であるが、古代朝鮮三国の仏教史である『三国遺事』と百済の歴代王の年表である「百済王暦」は年代が14年ずれていると考えられ、このずれはまさに538年と552年の違いと一致するため、『日本書紀』は『三国遺事』の系列の資料、『元興寺縁起』は「百済王暦」の系統の資料に基づいている可能性があると指摘した。

 

その他の諸説

伝来が欽明天皇治世期間中だったかどうかとは別に、欽明天皇治世時期自体にも諸説ある。

 

『百済本記』(ただし書紀のみに見られる逸書)を含む書紀や古事記の記載から、継体  安閑  宣化  欽明 と続く皇統年次が複数説あるため、欽明天皇が在位していたとしても、これを継体以降に空位を含んで短期間に皇位交代が行われたとする説、継体直後に天皇出自を背景として欽明朝が並立していたとする説(喜田貞吉)、さらに蘇我氏と物部氏・大伴氏などとの他豪族どうしの対立を背景としていたとする説(林屋辰三郎)もあり、欽明天皇治世自体が未だ判然とせず、したがって伝来年も不明ということになる。

 

かつて百済の聖王の即位年代は、『三国史記』、書紀、『梁書』、『周書』、『北史』によって513年から527年に至る諸説が存在した。諸説あった当時は、伝来年を538年としたときと552年としたとき、これを聖王の即位から26年とすると、即位年がそれぞれ513年、527年とどれも諸説に当てはまる共通性を見出して「聖王26年」を百済側から見た日本への伝来年として確定できるとの説があった。しかし現在は聖王即位は523年とほぼ確定していることから、これを先の聖王26[要説明]に当てはめ伝来公伝年を548年とする説がある。

 

書紀には、5459月に百済王が日本の天皇のために丈六(一丈六尺)の仏像を作成し、任那に贈ったとの記述もあり、事実とすればこの時期に大和朝廷の側に仏教受け入れの準備ができていたことを示すことから、この年を重視する説がある。

 

受容の推移

上記の経緯によって百済から公式に伝来した仏教ではあったが、その後の日本における受容の経緯は必ずしも順調とは言えなかった。

 

蕃神・今来神

仏教が伝来する以前、日本には土着の宗教(信仰)として原始神道(古神道)が存在したと思われる。新たに伝来した仏教における如来・菩薩・明王などの仏も、これらの神といわば同列の存在と把握された[要出典]。これらは、一般的な日本人にとって「蕃神(あだしくにのかみ)」「今来の神(いまきのかみ)」「仏神」として理解されたようである[要出典]。受容の過程が下記のように紆余曲折を経たこともあり、神道とは違う仏教の宗教としての教義そのものの理解は、主として7世紀以降に進められることとなる[要出典]

 

崇仏論争

大和朝廷の豪族の中には原始神道の神事に携わっていた氏族も多く、物部氏・中臣氏などはその代表的な存在であり、新たに伝来した仏教の受容には否定的であったという。いっぽう大豪族の蘇我氏は渡来人勢力と連携し、国際的な視野を持っていたとされ、朝鮮半島国家との関係の上からも仏教の受容に積極的であったとされる。

 

欽明天皇は百済王からの伝来を受けて、特に仏像の見事さに感銘し、群臣に対し「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と意見を聞いた。これに対して蘇我稲目は「西の諸国は、みな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対したという(崇仏・廃仏論争)。

 

意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。しかし、直後に疫病が流行したことをもって、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したという。

2023/04/04

唯識(2)

唯識は、4世紀インドに現れた瑜伽行唯識学派(唯識瑜伽行派とも)、という初期大乗仏教の一派によって唱えられた認識論的傾向を持つ思想体系である。瑜伽行唯識学派は、中観派の「空 (くう)」思想を受けつぎながらも、とりあえず心の作用は仮に存在するとして、その心のあり方を瑜伽行(ヨーガの行・実践)でコントロールし、また変化させて悟りを得ようとした(唯識無境=ただ識だけがあって外界は存在しない)。

 

 この世の色(しき、物質)は、ただ心的作用のみで成り立っている、とするので西洋の唯心論と同列に見られる場合がある。しかし東洋思想及び仏教の唯識論では、その心の存在も仮のものであり、最終的にその心的作用も否定される(境識倶泯 きょうしきくみん 外界も識も消えてしまう)。したがって唯識と唯心論は、この点でまったく異なる。また、唯識は無意識の領域を重視するために、「意識が諸存在を規定する」とする唯心論とは明らかに相違がある。

 

 唯識思想は、後の大乗仏教全般に広く影響を与えた。

 

識の相互作用と悟り

唯識は語源的に見ると、「ただ認識のみ」という意味である。

 

心の外に「もの」はない

大乗仏教の考え方の基礎は、この世界のすべての物事は縁起、つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える。唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考える。これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)、または唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられる)という。また一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している(人人唯識)。他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(倶有の種子 くゆうのしゅうじ、後述)が存在するからであると唯識では考える。

 

阿頼耶識と種子のはたらき

人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、その影響は種子(しゅうじ、阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識の中に蓄えられると考えられる。これを薫習(くんじゅう)という。ちょうど香りが衣に染み付くように、行為の影響が阿頼耶識に蓄えられる(現行薫種子 げんぎょうくんしゅうじ)。このため阿頼耶識を別名蔵識、一切種子識とも呼ぶ。阿頼耶識の「阿頼耶」(ālaya)は「蔵」という意味のサンスクリット語である。さらに、それぞれの種子は、阿頼耶識の中で相互に作用して、新たな種子を生み出す可能性を持つ(種子生種子)。

 

また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。この種子は前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行 しゅうじしょうげんぎょう)。このサイクルを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)と言う。

 

最終的には心にも実体はない

このような識の転変は無常であり、一瞬のうちに生滅を繰り返す(刹那滅)ものであり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく。

 

このように自己と自己を取り巻く世界を把握するから、すべての「物」と思われているものは「現象」でしかなく、「空」であり、実体のないものである。しかし同時に、種子も識そのものも現象であり、実体は持たないと説く。これは西洋思想でいう唯心論とは微妙に異なる。心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空)であり、究極的にはその実在性も否定される(境識倶泯)。

 

単に「唯識」と言った場合、唯識宗(法相宗)・唯識学派・唯識論などを指す場合がある。

 

唯識思想の特色

仏教の中心教義である無常・無我を体得するために、インド古来の修行方法であるヨーガをより洗練した瑜伽行(瞑想)から得られた智を教義の面から支えた思想体系である。

 

心の動きを分類して、八識を立てる。とりわけ、末那識と阿頼耶識は深層心理として無意識の分野に初めて注目した。

 

自らと、自らが認知する外界のあり方を、三性(さんしょう)説としてまとめ、修行段階によって世界に対する認知のありようが異なることを説明した。

 

ヨーガを実践することによって「唯識観」という具体的な観法を教理的に組織体系化した。

 

『法華経』などの説く一乗は方便であるとし、誰もが成仏するわけではないことを説いた。(五性各別)

 

成仏までには三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)と呼ばれる、とてつもない時間がかかるとした。

 

『般若経』の空を受けつぎながら、まず識は仮に存在するという立場に立って、自己の心のあり方を瑜伽行の実践を通して悟りに到達しようとする。

 

成立と発展

唯識はインドで成立、体系化され、中央アジアを経て、中国・日本と伝えられ、さらにはチベットにも伝播して、広く大乗仏教の根幹をなす体系である。倶舎論とともに仏教の基礎学として学ばれており、現代も依然研究は続けられている。

 

インドにおける成立と展開

唯識は、初期大乗経典の『般若経』の「一切皆空」と『華厳経』十地品の「三界作唯心」の流れを汲んで、中期大乗仏教経典である『解深密経(げじんみつきょう)』『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』として確立した。そこには、瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した長い思索と論究があったと考えられる。

 

論としては弥勒(マイトレーヤ)を発祥として、無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟によって大成された。無著は「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」を、世親は「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論」等を著した。「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方、言い表すことのできない実体があるとした。「唯識三十頌」では上述の八識説を唱え、部分的に深層心理学的傾向や生物学的傾向を示した。弥勒に関しては、歴史上の実在人物であるという説と、未来仏としていまは兜率天(とそつてん)にいる弥勒菩薩であるという説との2つがあり、決着してはいない。

 

世親のあとには十大弟子が出現したと伝えられる。5世紀はじめごろ建てられたナーランダ大僧院(Nālanda)において、唯識はさかんに研究された。6世紀の始めに、ナーランダ出身の徳慧(グナマティ、Guamati)は西インドのヴァラビー(Valabhī)に移り、その弟子安慧(スティラマティ、sthiramati)は、世親の著書『唯識三十頌』の註釈書をつくり、多くの弟子を教えた。この系統は「無相唯識派」(nirākāravādin)と呼ばれている。

 

この学派は、真諦(パラマールタ、paramārtha)によって中国に伝えられ、地論宗や摂論宗として一時期、大いに研究された。

 

一方、5世紀はじめに活躍した陳那(ディグナーガ、Dignāga)は、世親の著書『唯識二十論』の理論をさらに発展させて、『観所縁論』(ālambanaparīkā)をあらわして、その系統は「有相唯識派」(sākāravādin)と呼ばれるが、無性(アスヴァバーヴァ、asvabhāva6C前半頃)・護法(ダルマパーラ、Dharmapāla)に伝えられ、ナーランダ寺院において、さかんに学ばれ、研究された。

2023/04/02

主神オーディンとトール等の主要な神々(1)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

はじめに

 世界を創造した神「オーディン」たちは世界の真ん中に在って世界に君臨し、その一族は「アース神族」と呼ばれました。その「アース神族」の主神が「オーディン」であり、そのほかアース神族を代表するのが「トール」と「テュール」とされて、この三人は英語でそれぞれ「水曜」「木曜」「火曜」に名前を残し、かつては三人ともゲルマン民族の部族ごとの主神であったと考えられるので、ここではこの三人の物語を紹介することにします。その他、先住民族の主神と考えられゲルマン民族に融合していった部族の主神であったと想像される「フレイ」が、このアース神族の中でも大きな地位を占めているので、彼についても紹介しておきます。

 

オーディン

 アースの神々の中で、もっとも年長となる神「オーディン」は、その兄弟と共に作った世界に「王」として君臨することになったわけで、そのためオーディンは「アルファズル(万物の父)」という別名を持ちます。他にもたくさんの名前を持ち、それはさまざまの部族の人たちが、さまざまに呼ぶに応じてのことだとされます。

 

 こうしてオーディンは「万物の父」として、他の神々はすべて子が父に仕えるように彼に仕えると言われ、オーディンの他に超越した地位が言われます。

 

 ここはギリシア神話でのゼウスとは、大きな違いを見せています。この「絶対者」を持つか否かという「民族の精神」の違いは、ホメロスの物語に見られるようにギリシアの「王」が単に「民衆の第一人者」であるにすぎず、やがては「民主制」を生み出していったのに対して、ゲルマン民族は「絶対的君主」を持ち、ピラミッド型の「封建制社会」を完成させたのとの違いとなって現れてくることになります。

 

 彼が住む館は、世界中でもっとも壮麗な館であり(アースの神々の紹介では、その館の立派さがひどくこだわって紹介されていました。この精神は、やがてゲルマン人が支配した西欧で壮大華麗な宮殿が造られていく精神に繋がるようです。他方のギリシアは、神殿や劇場など公共物の建造にはひどくこだわりましたが、私宅にはとんとこだわっていないあり方との違いになっています)、その名前は「グラズヘイム」と呼ばれて極楽のような世界であると言われます。ここに彼はひときわ高く壮麗な座を持ち、その周りには主立った神々のための座が設えられていました。

 

 そして、この館には「ヴァルハラ」と呼ばれる広大な館が付設されており、その館の屋根は「盾」でできており、垂木は「槍の柄」が使われていました。ここに住んでいるのはかつて地上に住み、戦場で勇敢に戦って死んだ英雄・豪傑たちで、ここでは「アインヘルヤル」と呼ばれていました。彼らは選ばれてこの館に連れてこられたのです。すなわち、オーディンは地上で戦いがあるたびに「ヴァルキューレ」と呼ばれる武装した姿の戦いの乙女たちを遣わし、戦場で活躍していた勇士を、時にはわざわざ戦死させてまで連れてこさせるのでした。それは、やがて来たるべき世界の終末戦争に備えるためで、ここで彼らは朝起きると中庭で武術に励んで、そして正餐の席に着くのでした。

 

彼らに供される肉は「セーフリームニル」という特別な猪の肉であり、この猪は殺されて肉料理にされても、また元通り生き返ってしまうので尽きることがないのでした。料理人も特別なら、料理の大鍋も特別なものなので、アインヘルヤルがいくら増えても困ることはないのでした。もちろん「飲み物」も特別で、ヘイズルーンという雌山羊の乳房から絶えることなく流れ出る「蜜酒」でした。給仕を務めるのは、彼らを選んでここに運んできたヴァルキューレがみずから務めていました

 

 どうもこういうのが古代ゲルマン人戦士の理想だったようで、こういう信仰、つまり勇敢に戦って戦死したら神々のもとに招かれて、神々と共に戦う終末戦争のために武術に励むことができ、正餐では美しい少女たちに仕えられて宴会にあって、仲間たちとワイワイやりながら肉や酒をたらふく食らう、というようなあり方です。ギリシアの英雄・戦士たちのモチベーションが「名声・名誉」にあったのと比べ、かなり具体的なのがおもしろいです。

 

 またこの「ヴァルハラ」とか「ヴァルキューレ」とかの名前は、ヴァーグナーの楽劇「ニーベルンゲンの指輪」で有名ですが、この楽劇はこのゲルマン神話を下敷きに中世キリスト教的な物語に仕立てられたものをもとにしたものです。

 

 他方、これはオーディンの主催になる宴会ですから主人のオーディンも当然出席しているわけですが、彼は自分の前に置かれた食べ物はすべて自分のペットである二匹の狼にくれてやるのでした。というのも、オーディンは「ワイン」だけしか口にしないからで、それだけで十分なのでした。

 

 ペットというと、オーディンはさらに二羽のカラスも飼っていて、それはそれぞれ「フギン(考え)」と「ムニン(記憶)」といい、彼らは毎日地上を飛び回ってあらゆることを見て回り、夕暮れ戻ってきて宴席のオーディンの肩に止まって見聞きしたことを報告するのでした。

 

 また彼の馬はというと「八本の足」を持った「スレイブニル」という名前の怪物馬であり、八本の足を使って疾風のように走ることができるのでした。

 

 また、彼の武器は「グングニル」という名前の「投げやり」であり、彼は戦闘の際、真っ先にこの槍を敵に向かって投げつけるのでした。

 

 そして彼は指や腕に「黄金の輪」を着けているのですが、これこそ彼の「王権」を象徴するもので、この指輪と腕輪とは九日目ごとに八つの自分と寸分違わぬ「子」の指輪と腕輪を生み出すので、オーディンの宝物は限りなく増え続けるのでした。

 

 このオーディンは「片目」であることが特徴としてありますが、それは彼が世界を支配するに必要な「英知」を得るため、その知恵を含んでいる「ミーミルの泉」の蜜酒を飲もうと望み、その泉を持つ巨人の「ミーミル」が、その代償としてオーディンの目を要求したために片目を彼に与えてしまったからでした。おかげで彼の片目は今もってミーミルの泉に沈んでいますが、その代わりオーディンは最高の知恵を得ることができたのでした。

 

 また魔力を持つ神聖な文字(文字は古代人にとっては不思議で魔的な力と思われていた。日本でも「言霊」という言い方に、それが現れている)を発明したのも彼であり、そのために彼は自分自身を世界樹に吊し、九日の間飲食を絶って、槍で自分を傷つけ、自らを最高神、つまりオーディン自身に犠牲として捧げるという苦行をしたといいます(ゲルマン民族は、人間を犠牲として木に吊すという習慣を持っていたことが知られ、それをキリスト教がクリスマスツリーに人形を吊すことで昇華させていったとされます)。

 

 またオーディンの息子の「ブラギ」が司ることになった「詩」を、神々と人間のもとにもたらしたのもオーディンでした。彼は巨人のスットゥングが所有していて、その娘グンレズが番をしている「詩の蜜酒」を手に入れたいと願い、蛇に身を変えてグンレズのもとに忍び入り、そこで彼女と三日三晩にわたって床を共にして、その上でグンレズに三口だけでいいから、その「詩の蜜酒」を飲ませて欲しいと願い、グンレズが差し出した三つの容器に入った詩の蜜酒を三口ですっかり飲み干してしまったのです。そして今度は「鷲」に身を変えて、アースガルズに飛び帰ってきて用意されていた瓶の中にその蜜酒をはき出し、これ以降ブラギがその酒を守りつつ、この酒を与えることで神々や人間の世界に詩を広めたのでした。


 真実の詩人というのは、この酒を口にした者なのですが、人間界には真実の一流の詩人の他に二流・三流の詩人がいて、彼らはそのおこぼれを口にしたからなのでした。つまりオーディンが逃げ帰ってくる時、それと気付いた巨人のスットゥングが同じく鷲に身を変えて追いかけてきたのですが、オーディンはそのためにあわてて数滴の蜜酒を口からこぼしてしまったのです。それを手に入れた人間が、二流・三流の詩人になっているというわけでした。